伊江島の大折目
http--yannaki.jp-jireisyoada.html(国頭村安田のシニグ)
http--yannaki.jp-20167gatu.html(沖永良部島のシニグ)
yannaki.jp/siniguunngami.html (シニグ/海神祭)
yannaki.jp/siniguunngami.html(湧川のワラビミチ)
http--yannaki.jp-yanbaruminato.html(国頭村与那の海神祭)
http--yannaki.jp-hiji1.html(国頭村比地)
http--yannaki.jp-gusiken.html(本部町具志堅のシニー
6 往古の俗習今と大いに異なる。(『球陽』より)
男女皆白紵を以て髪を纏ひ、頂後より盤繞して額に至る。男人は鳥羽を用いて冠を為り、装うに珠貝を以てし、飾るに赤毛を以てす。形製同じからず。婦人は墨を以て手に黥し、文を為す。羅紋の白布を以て帽を為る。其の形、正方なり。皆樹皮併びに雑色の紵及び雑毛を織り、以て衣を為る。製裁一ならず。毛を綴り螺を垂れて飾と為し、雑色相間り、下に小具を垂る。其の声、珮の如し。鐺を綴り、釧を施し、珠を頸に懸く。文藤を織りて笠を為り、飾るに毛羽を以てす。猟漁者の家は、必ず獣頭を門戸上に安んず。俗、山海の神に事へ、祭るに酒肴を以てす。成いは石を累ね、幡を繫けて神主と為す。嫁娶には酒肴珠貝を以て聘と為す。或いは男女相悦すれば、便ち匹偶と為る。婦人、産後は火を以て自ら炙り、汗を出でしむること数日にして、便ち平復す。
凡そ宴会有れば、止一盞を以て輪流して之れを飲み、共飲して頗る酔う。一人唱して衆皆和す。音頗る哀怨なり。或いは女子をして手を揺かして舞はしむ。偶々異味を得れば、先づ尊者に進め、然る後、少者之れを食す。其の病死者、気、将に絶せんとすれば、挙げて庭に至る。気絶すれば則ち親族哭泣して相弔ふ。後、其の屍を浴して、腐を去り骨を収め、布を以て之れを纏ひ、裹むに葦席を以てし、親土して殯し、上、墳を起さず。子、父者の為に、数月肉を食せず。
国に賦歛無く、事有れば則ち均しく税す。厥の田は良沃なり。先づ火を以て焼き、而して水を引きて之れに灌ぐ。其の農器は、石を以て刃を為る。長さ尺余、濶さ数寸。而して之れを墾す。土宜は、稲・梁・禾・黍・麻豆・赤豆,胡豆・黒豆等なり。尤も猪・鶏多し。王、居る所の舎は禽獣を琱刻す。乗る所の簥は、制、獣形を為し、左右をして之れを挙せしめて行く。按司乗る所も亦獣形をすも、其の制稍異なる。君臣上下の節・拝伏の礼、之れ有りて亡きが如し。俗、文字無し。国人攻戦を好む。人皆驍健なり。郡に按司有り、村に酋長有り。皆善戦者を以て之れと為し、而して民間の事を理めしむ。兵器に刀矟・弓箭・剣鈹の属有り。国貧にして鉄少く、刃は皆薄小なり。多く骨角を以て之れを輔く(我が国、鎖鉄の属を産せず。何を以て兵器有るを得んや。疑うらくは是れ当時他国と相通ずる者有りしならんや)。紵を編みて甲を為る。
或いは皮を用いて之れを為る。間々乱逆者有りて悪を為せば、則ち兵を率いて之れを殺す。或いは殺す所の人を将て其の神を祭り、或いは髑髏を樹上に懸け、箭を以て之れを射る。其の甚だしき者は、共に聚りて之れを食う。仍、髑髏を以て功を王に奏す。王は則ち功を計りて冠を賜う。其の功多き者は隊師と為らしむ。
又刑を用ふるに律の准ずる無く、皆事に臨みて科決す。其の獄訟も亦皆酋長に断ず。伏せざれば則ち王に上請す。王、群臣をして共に之れを議定せしむ。獄、枷鑠無し。唯繩縛を用いるのみ。軽罪は杖を用い、死刑と決すれば則ち鉄錐の大きさ筋の如く、長さ尺余にて其の頂を鑙して之れを殺す。其の俗習の大概此くの如し。
36 太祖、梁民・路謙を遣はし、詔を齎して国に至り、三山を論知す。
琉球国は、玉城王より、自ら分れて三と為る。而して三王互に争い、農業を廃棄し人命を傷残して、竟に相息まず。而して中山王、亜蘭匏等を遣はし、表を賀す。山南王承察度、始めて師惹等を遣はし、表を奉じて入貢せしむ(山南の入貢、此れよりして始まる)。是れに由りて太祖、中山王察度に鍍金銀印一・幣帛七十二疋を賜う。且山南王承察度に幣帛七十二疋を賜う。且中使梁民及及び路謙を遣はし、勅を斎して国に至らしめ、即ち詔一道はて中山王に賜い、又詔一道は山南・山北二王に賜い、三王をして民戦を息め人生を養はしむ。中山王察度・山南王承察度・山北王怕尼芝、各其の詔を受け、戦を罷め・兵を息む。亦皆使を遣はして恩を謝せしむ。太祖、三王に衣幣を賜う(山北の人貢、此れよりして始まる) 「今帰仁城の本丸の今の入口は後世に交通の便利のために急勾配を避けて
西方に迂回して開替へたらしい。誠に本殿の遺跡に立って前方を見よ。然らば
その正面に当たる本丸の石垣が粗雑に積まれていることに気付くであらう。其
所が元の正面のあった所で、石垣の粗雑になっているのは崩壊したか塞いだ
かしたものであらう。城庭には其所に通じた道の跡らしい一条の凹所がある。
更にその石垣を越えて本丸の外に出ると先の凹所に連絡して急勾配の下り坂
の跡が残っている。其所が即ち当時の平郎門であって高坂門の義を以て呼ぶに
応しい所であったやうに思はれる。」
四、山北王時代 (十三世紀末~一四一六年)
十四世紀末から十五世紀初頭にかけての今帰仁は、今帰仁城(別名北山城)に山北王が居住し君臨していた時代です。その時代について、「北山の時代」や「山北王時代」や「交易の時代」などと呼ばれ、琉球が中山・山南・山北の三山鼎立していた中で、山北も一段と隆盛を究めた時代にあたります。山北に関わる史料が非常に少ない時代ですが、中国側の『明実録』を手掛かりにみていくことにする。
■山北三王
山北・中山・山南の三山鼎立時代、十三世紀末から十五世紀初頭にかけて、今帰仁(北山)城に居城していた怕尼芝・ ・攀安知の山北三王が『明実録』の記録に登場してくる時代である。『明実録』の記事が同時代史料であることから、今帰仁の歴史を語るのに欠かすことのできない史料である。その『明実録』に登場してくるのが、怕尼芝・珉・攀安知の山北三王である。
今帰仁の歴史上、山北王怕尼芝が登場する一三八三年から攀安知が尚巴志の連合軍に滅ぼされる一四一六年(あるいは一四二二年)までが今帰仁城が隆盛を極めていた時代であっ
たとみられる。しかし、琉球全体でみると中山・山南・山北が鼎立する中で、それぞれが一国として国と交易を行なっていた時代である。その中で『明史』に記されているように山北は力が弱く朝貢が最も少なかった。また、そのことが中山に山北が滅ぼされた理由として指摘されている。十三世紀末から十五世紀初頭にかけて、三山が鼎立していた琉球の中で今帰仁を拠点として君臨した山北三王について『明実録』の記事を中心にみていくことにする。ただし、『中山世譜』では、怕尼芝・珉・攀安知のほかに怕尼芝以前に今帰仁王の存在を記し、四王で九〇余年の歴史があるという。
今帰仁城の発掘調査で、十三世紀末から十四世紀初頭頃の中国製の陶磁器やグスク土器が検出された報告がなされており、『明実録』に出てくる三王ばかりでなく『中山世譜』に記された今帰仁王の存在も無視できなくなってくる。しかし、今のところ怕尼芝以前の今帰仁王まで歴史的論議をするには史料的限界がある。
■山北王時代(十三世紀末~十五世紀初頭)
ここで「山北王時代」というのは、今帰仁城が築かれてそこを拠点として山原地域を統括していた時代をさしている。つまり、今帰仁城を築きあげていった時代、山原の権力を集中していった時代、今帰仁城を拠点として山原を支配していった時代である。対外的には一国として交易を行なっていった、いわゆる「山北王」が『明実録』に登場してくる時代である。
別のところで「山北王」が文献に出てくる時代を「山北王時代」(1383~1422年)として考えたことがあります。しかし、文献に登場してくる山北王は、洪武16(1383)年の怕尼芝からですが、それ以前から海外との交流や権力の集中化、そして築城を何期かに分けて行なっています。そのため、怕尼芝・ ・攀安知の三王時代ばかりでなく、それ以前まで時間的に広げる必要があります。文献に登場してくる怕尼芝や 、そして攀安知と続く三王以前の時代も含めて「山北王時代」として考えていく必要があるわけです。というのは、王名は明かにされていないが、『明実録』でも山北怕尼芝が交易を行なう以前から三山の鼎立があったことが記されている。
文献に登場してくる山北三王の時代は、独立した小国家として明国を中心として周辺の国々にと交易を行なった時代である。
今帰仁城の発掘調査が進み、その成果が報告されるようになってきた。貴重な報告がなされており、それによると広く海外との交流がみられ、今帰仁城の築城にかけて膨大な権力の集中があったことが読みとれる。今帰仁城が築城された後、山北王を頂点として権力が集約され山原地域を支配下に治めた時代、一国として海外と交易するなど様々な歴史が展開された時代である。その時代は、今帰仁城を拠点として一つの文化を形成した時代ではなかったかと思われる。そうであれば、今帰仁城跡をはじめその時代の何を現在に遺し伝えてきたのかを明らかにしていくことは、今帰仁の歴史の大きなテ-マである。
さらに、「山北王時代」を築きあげた底辺に多くの人たちの力があったこともまた忘れてはならないと思う。今帰仁城跡を取り巻く周辺のグスクや村々についての目配りも必要であり、今帰仁城に目を向けるあまりピラミッドの底辺をなした他のグスクや村々を忘れてはならないわけです。そういう意味で、今帰仁城と周辺のグスク、そして村々なども視野に入れる必要がある。
今帰仁城と周辺の村々との関わりをみる手掛かりは、城跡内で発掘された食料の残り物である。炭化米や麦などが出土しており、米や麦はどこで生産されたのかと考えると、それは村々において生産されたものということができそうである。
一方、明国と交易に使われたのは馬と硫黄、そして方物がある。馬の生産は誰がしたのか、あるいは硫黄のとれる場所はどこであったのか。そういうことも念頭に入れておく必要がある。
■山北王時代の支配領域
この時代を沖縄の歴史でみますと、山北・中山・山南の三山が鼎立していた時代にあたり、『明実録』の洪武16(1383)年の条で「琉球国、三王争雄長、相攻撃」や「琉球国三王相争」などと記し、三山鼎立時代の様相を述べています。三山鼎立時代の北山の支配領域は、『中山世譜』の版図によると現在の恩納村谷茶あたりから以北、いわゆる山原と呼ばれている地域である。山原は、今帰仁城を拠点にした北山王に支配されていたわけです。しかし、具体的にどのように支配していたのかについて、その実態についてはなんら分かっていない。想定するしかないのですが。図式的にみますと北山・中山・南山の三山が鼎立している状況の中で、それぞれ小さな国家として独立して統治権を持ち、そして三王が独立して明国と交易を行なっていた時代である。
山北王が明国と交易を行なっていた時代は、南京が首都でした。山北王怕尼芝六回、王一回、攀安知王十一回の交易記録を『明実録』にみることができる。
■明国との交易品
交易の品物は、明国から衣服・冠帯・文綺・舟・駝紐鍍金銀の印などを賜っています。今帰仁城跡の発掘調査で、数多くの陶磁器が出土しています。山北王の記事では、陶磁器のことはなんら触れられていないが、洪武七(1374)年の記録に察度王へ陶器一千事や六万九千五百事、鉄釜10口や9百90口などを賜ったことがみえ、今帰仁城跡から出土する数多くの陶磁器が、附塔貨物として交易の主体をなしていたとみられます。一方、琉球側の山北王からは硫黄・馬・方物を貢いでいます。山北王の方物の中身が何であったかについては、なんら記されていません。『大明会典』によりますと、 馬・刀・金銀酒海・金銀粉厚・瑪■・象牙・海巴・擢子扇・生紅銅・磨刀石 錫・生熱夏布・牛皮・降香・速香・丁香・壇香・黄熱香・蘇木・鳥木・胡湘・硫黄などが揚げられています。方物の中味は、地元で産出しない胡椒・象牙・蘇木・鳥木などがあり、それらは東南アジアから輸入した品々とみられます。いずれにしろ、主は硫黄と馬である。
■北山滅亡と第一監守時代
今帰仁城跡から出土する遺物の状況や文献からしますと、明国をはじめ東南アジアへ、そして朝鮮・大和など広く海外と関わりをもっていた時代です。明国は、日本や琉球(山北・中山・南山)ばかりでなく、朝鮮や安南(ベトナム)・占城(チャンバ)・真■(カンボジア)・■羅(シャム)・■蛙(ジャワ)・蘇門答刺(スマトラ)などの多くの国々から朝貢を受けており、山北はそれらの国々と同じ扱いをされた一国であったわけです。
このように、一国として明国と交易を続けてきた山北王攀安知は中山の尚巴志によって滅ぼされてしまいました。攀安知王の滅亡は、『中山世鑑』では永楽二十(1422) 年とし、『蔡温本中世譜』と『球陽』では永楽十四(1416)年と食い違いを見せています。『中山世譜』が地元琉球側の資料や伝承をもとに永楽20(1422)年としたのでしょう。その後に『中山世鑑』を漢訳した『蔡鐸本中山世譜』をさらに史料を加味して重修した『蔡鐸本中山世譜』は、『明実録』の攀安知の最後の朝貢記録(永楽十三年、1415)をもとに、翌永楽十四(1416)年に滅亡したものとみなしたのでしょう。
それを指摘されたのが和田久徳氏で、「琉球国の三山統一についての新考察」で「山北王滅亡の年時である永楽20年3月を採って、『明実録』の朝貢記事と併せて考えると、永楽13年の明朝への進貢後も山北の勢力はなお存在していたが、永楽13年以前と同様に暫く進貢しなかったから、『明実録』に記載されなかったのであり、やがて永楽20年3月に滅亡したと解することができる」、そして、さらに永楽20年(1422)の山北監守を設置したこととの関係で「尚巴志が山北王を永楽20年3月に破ってその地を併合したから、その新領地の支配を確保する目的で、同年の中に次男の尚忠を今帰仁城に駐在させ山北を監守する役に任じたと解するのが妥当である」と述べられている。
■北山の滅亡の様子
尚思紹王は、尚巴志を遣わして山北王攀安知を滅ぼした。北山が滅ぼされた状況は、『球陽』や『蔡鐸本中山世譜』などによると次のような物語になっている。
攀安知は武勇にすぐれ淫虐無道であった。その臣である平原(本部の人)も勇力究めて強かった。また、その軍も勇剛驍健であった。城地は甚だ険阻で攻撃しにくかった。攀安知と平原は中山を攻めることを計画し、兵や馬を整えていた。羽地按司がそのことを尚思紹に告げ、兵を先に動かし攻めなければ悔いを残すことを告げた。羽地按司を追って、国頭按司と名護按司も同様なことを告げた。王は、世子の巴志に命じ急ぎ軍馬を整え山北を攻めた。その時、浦添按司・越来按司・読谷山按司・名護按司・羽地按司・国頭按司の軍馬で陸路を先に行かせ、官軍は後から行き寒汀那港に集結した。巴志は兵を擁して城を攻めるが防備が甚だ密であった。攻めること数日にもなるが、城を陥れることができなかった。そこで、城を破る方法はないものか策を練ることになった。羽地按司に地勢について問うと、坤方(西南)が尤も険阻であるという。ならば、そこは必ず防備を怠っていると巴志は喜んだ。平原は、武勇はあるが考えを巡らすことに疎く、貧欲であることに目をつけ、夜坤方から忍び入り平原に幣帛を贈り内応させた。
翌日、平原は攀安知に「城を出て戦わなければ、敵軍が我々を卑怯であると言うであろう。王と臣で交替で出て戦おう」と告げると攀安知はこれに従った。平原に城を守らせ、北軍が城外に出てくるのをみて、坤方の険阻の所から攻め入った。攀安知が城外で戦っている間に、城中に火が起こり、急いで兵を返し城に戻った。そこで平原が謀反を起こしたことを知った。その時には、官軍が争って攻め入り防ぐことができなかった。城中に一つの霊石があり、攀安知はいつも拝み神としていた。ついに力尽きた攀安知は、その石を叱り剣で切り、自ら首を刎ねて最後を遂げた。
北山の滅亡は、これまで一般的に言われてきた『蔡温本中山世譜』や『球陽』がとる永楽14年(1416)ではなく、『中山世鑑』や『蔡鐸本中山世譜』がとる永楽20年(1422)とすべきだと主張される。北山の滅亡年代は、和田氏が主張されるように朝貢がないからすぐ滅亡したと考えるより、あるいは北山の監守制度を敷き第二子の尚忠を遣わし監守させたのは滅亡後すぐだとする1422年の方がより妥当だと考えている。
そのことは別にしても、尚忠を山北監守として派遣したのは1422年であることから、今帰仁の時代区分の「第一監守時代」の始まりを一四二二年と設定している。
山北王の時代は、琉球国内で三山鼎立した時代、それぞれが明国と交易をした時代です。そのことは、『明実録』や後世に記された琉球側の『中山世鑑』や『中山世譜』や『球陽』などに記されているが、それを裏づけるような成果が、今帰仁城跡の発掘で得られています。しかし、このように文献や発掘などの調査・研究成果で得られた歴史とは別に、もう一つの歴史が根強く生きていることも事実です。
2.山北王の時代
北山王の時代についてお話申し上げます。北山王の時代というのは、『明実録』で怕尼芝・明・反暗示の三名の王が登場する時代である。
3.第一監守時代 (1422~1469年)
第一監守時代は、1416年に攀安知が尚巴志に滅ぼされた後、1422年に尚忠が山北監守として派遣された年を始まりとする。北山が滅ぼされた後、この山原はどのように統治されたのか。南山と大きな違いは、山原の今帰仁城に監守を派遣し、監守制度を敷いたことである。山原の今帰仁城に監守制度を敷かなければならなかった理由、それが南山との大きな違いである。
「古琉球」の山原に関わる史料として「琉球国之図」 (1471年) や「辞令書」、それにオモロなどがある。
(イ)「琉球国之図」 (1471年) に見る山原
「琉球国之図」 は1471年に勅選されたもので、その中に「琉球国之図」 が納められている。その地図に山原の地名がいくつかあり、15世紀中頃の琉球全体、そして山原の状況が描かれている。「琉球国之図」 から、15世紀中頃の山原の状況をみることにする。この地図に山原の国頭城・雲見泊・郡島・昆北河崎・伊麻奇時利城・那五城・世々九浦・河尻などの地名が見える。「琉球国紀」に琉球の歴史的な出来事が記されているので掲げてみることにする。
・洪武23(1390)年 国王察度遣使来朝す。琉球国中山王と称す。是より連歳
遣使す。其の世子武寧亦方物を献ず。
・永楽7(1409)年 其の孫思紹遣使す。琉球国王中山王と称す。
<先祖王察度および先父王武寧相継ぎて薨逝す。以て各
寨不和を致し、連年征戦し、一向に疎曠す。>
・永楽16(1418)年
また、遣使し、琉球国中山王二男賀通連寓鎮と称す。
・宣徳6(1431)年 琉球国中山王尚巴志と称して遣使す。
・景泰4(1453)年 琉球国中山王尚金福と称して遣使す。
・景泰6(1455)年 琉球国王尚泰久と称して遣使す。
・天順2(1458)年 琉球国王見と称して遣使す。
・天順3(1459)年 復尚泰久と称して遣使す。
・天順5(1461)年 遣使して琉球国王尚徳と称す。
・成化2(1466)年 尚徳と称して遣使す。
・成化7(1471)年 国王使自端書(西)堂来朝す。
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◆国都
国は南海の中に在り。南北は長くして東西は短し。都に石城有り。諸島星 列る。治る所は凡て三十六島なり。土産の硫黄は、之を掘ること一年にし て復抗を満たす。之を取るに窮り無し。歳中国に遣使して硫黄六万斤・馬四十匹を貢す。
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◆国俗
・地は狭く人が多い。海舶の行商を以て業と為す。西は南蛮と中国に通じ、
東は日本と我が国に通ず。日本と南蛮の商舶また国都の海浦に集まる。 ・地は常に暖かく霜雪無し。草木は彫落せず。
・水田は一年に再収す。十一月毎に種を播き、三月に秧を移し、六月に収穫
す。即ちまた種を播き、七月に秧を移し、十月にまた穫る。
・男女の衣服は日本と大同小異なり。
─────────────────────────────────
◆道路里数
・恵羅武より大島に至るまで一百四十五里なり。
・大島より度九島に至るまで三十里なり。
・度九島より輿論島に至るまで五十五里なり。
・輿論島より琉球国都に至るまで十五里なり。
今帰仁村中部地域のウプユミ 2002.10.12(金・土)メモ
ここしばらく、まとまった資料づくりから離れている。今帰仁村の今泊(今帰仁グスク)と古宇利島の海神祭(ウンジャミ)についての参与観察記録は報告してきた。ウンジャミと同時期に行われる玉城ノロと中城ノロ管轄のウプユミについての参与観察記録は、歴史文化センターとしてまだ公にしていない。
今回は玉城ノロ管轄の旧暦七月最後の亥の日に行われるウプユミについて報告していく。一気にできないので日々作業を進めていくことにする(試行錯誤の作業なので随時変更する)。
〔今帰仁村中部地域のウプユミ〕
今帰仁村の中部地域(玉城・謝名・平敷・仲宗根)の祭祀に旧暦七月最後の亥の日に行われるウプユミ(大折目)がある。玉城・謝名・平敷・仲宗根の四かムラ(字)は玉城ノロの管轄である。四かムラの年中祭祀、その中のウプユミ(大折目)について構築しておきたい。
今では玉城ノロが継承されていず、また祭祀そのものが断片的にしか行われていないため、ウプユミに参加した経験のある方々の記憶に留めているにしぎない。通して行われていないため、また聞き取りをしても記憶のあいまいさもあり全体の流れがなかなか見えてこない。
幸いにして、大正13年頃の『宮城真治民俗調査ノート』と昭和47年の「玉城部落調査報告」(普天間高等学校 郷土研究クラブ その時の写真が歴文に寄贈されている)がある。また筆者の参与観察も含めて再構築してみる。(続く)
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▲玉城の神アサギ(昭和47年) ▲謝名のペーフヤの庭で(昭和47年)
(写真提供は琉球大学の町田宗博氏。感謝です)
明日の講演?準備で詰まっています。これからテーマとスライドの選び出しです。1000枚余りの中から80枚。やっと尻に火がついたか! ウプユミは途中でチョンです。
〔今帰仁村中部地域のウプユミ〕
大折目(ウプユミ)は海神祭(ウンジャミ)と呼ぶ地域もある。今帰仁村の中部地域は海との関わりよりも農耕(田畑)を中心としているため、ウンジャミではなくウプユミの呼び方をしているのであろう。仮説ではあるが、近世になって山・農耕・海の祭祀の合理化がなされたのではないか。その時、どの名称で呼ぶかとなると、海と関わりの強い地域はウンジャミ、そして農耕地域ではウプユミの名称を残したのではないか。玉城ノロの管轄するウプユミの祭祀に山・海・農耕の場面がどれだけ見い出せるか。
『琉球国由来記』(1713年)から玉城・平敷・謝名・仲宗根の大折目の記事を拾ってみると、以下のような供え物が出されている。注目されるのは魚とコバ餅。山の物がどれか。『宮城真治ノート』で「松の下で弓を引く」場面がある。この弓が狩猟を意味しているか。
・玉城巫火神 ・玉城村神アシャギ
線香・五水 五水・神酒・粟神酒・肴・コバ餅・魚
・平敷村神アシャギ ・謝名村神アシャギ
芋神酒・肴・粟神酒・焼酎・魚 芋神酒・魚・粟神酒・焼酎・魚
・謝名村神アシャギ
五水・神酒・肴・コバ餅
ウプユミが行われる日は旧暦7月最後の亥の日、古宇利島のウンジャミは旧盆明けの最初の亥の日、同一の日に行われることもある(今年)。まずは、祭祀が行われる場所の特定からしてみる(神人などについては別に扱う)。
〔今帰仁村中部地域のウプユミの拝所〕
宮城真治ノート |
玉城調査 |
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玉城ノロ火神 |
①ヌル殿内の火神 |
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②ヌル殿内のミャー |
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玉城あしやげ |
③アシャギ |
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④ヤナジガー |
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⑤岸本アシアゲ |
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岸本ウカー |
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岸本あしやげ |
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・まえ原 |
⑥神道(トーヌカ上から) |
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平敷御嶽 |
⑦平敷の神アサギ |
![]() |
謝 名 |
⑧謝名のアシャギ |
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ウペーフヤの庭 |
⑨ウペーフヤ |
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⑩謝名グスク(御嶽) |
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仲宗根 |
⑪仲宗根 |
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解散 |
大宜味城のウンガミ】『山原の土俗』 島袋源七
毎年旧七月廿日後の亥の日に挙行する。大宜味村字田嘉里・謝名城・喜如嘉・饒波・大宜味の各字の神人数十人集合して盛大なものである。
《イ》ウタカビ(又はウングマイ) 儀式の先晩行ふものである。先づ大祝女及若祝女はビラムト神四名(海の掌神といふ)を連れて、喜如嘉の根神の家へ来つて祈願をなす(総て白裳束で垂髪)。それがすむとハンサガの式を挙げる。即ち其年内に於て新しく神人になる人の就任式であつて、神人の本分及秘密の確守を宣誓せしめ、且つ洗礼を受けさすのである。洗礼の祈願は祝女が行ひ、洗礼者は髪を解いて後へ垂らして坐し其周囲を神人が、ハンサガのオモイを歌ひつ、背をさすり肩をたゝいて廻る。そして馳走を戴き一夜をそこに過すのである。(オモイはアラハンサラの条参照)
他の神人は其日の朝全部城の神アシアゲに集り祈願をなす。これを朝ヌブイと称す。遊ビビラムト神は神踊を練習する。( 山の神)
《ロ》儀式の当日
朝は城及び根謝銘の神人は駕籠を用意して喜如嘉にウングマイせる神人を迎へに行く。駕籠に乗り城の祝女殿内へ案内せられるのである。昔は馬に乗つて案内せらるゝ例になつてゐたらしいが、現今は駕籠も馬もなく只各自歩いて行くのである。
《一》行列 祝女殿内に集つた神は総て白衣を着、マンサジ(八巻)る頭に結び六尺程の神弓と矢とを持ち、片手には赤い団扇を持つて太鼓を鳴らしつ行列を整へて神アシアゲに向ふ。昔はやはり駕籠に乗つて行つたらしい。
途中に火の神を祭つた祠がある。第一回目の拝所には七箇の火の神、次のは六箇の火の神を祭つてある。アシアゲに行く途中こゝに寄つて祈願をすまして行く。(※ウトゥンニーズとトゥンチニーズのことか)
《二》祭 神アシアゲに到着すれば神人は各自定められた所に着席する。祝女を上座に若祝女・根神・ウチ神・ビラムト・遊ビビラムトの諸神人二十四名が順に並ぶ。他の神人は庭に坐し、氏子は各字交つてアシアゲ前のクバの葉の茂つた拝所の左右に着席して各自酒肴を供して氏神を祭るのである。
アシアゲの向つて左端には冬瓜で造つた猪を据ゑ、右端には槍や弓を立てゝおく。祝女は時刻をはかつて共に祈願を始める。それがすめば全部庭に出て定めた場所に着席する。喜如嘉でウングマイをなした神人を上座に迎へ、城及び根謝銘の遊ビビラムト神は総ての神人の真中に出て、神踊りを踊るのである。
第一回神踊。遊ビビラムト神八名は円陣を作り両手を広げ左廻りをしつゝ両手を挙げたり下げたりして「ウンークィ、ゥンークイ」と唱へながら三回程繰りかへす。
第二回目。其場に円陣を作り一人は太鼓を打ち七名は弓を持つて用意をなす。太鼓が鳴ると同時に右上に弓を捧げ右に一歩進み、左に捧げて一歩左へ寄り、これを繰り返して、丁度祈禱をする様になす。かうして廻る事三回にして終へる。
第三回目。其場に於て衣裳を着換へる。赤地の神衣裳白衣裳黄色の衣裳を着て各自頭にはハーブイ(冠)とてクロツグの葉で作つたものを被り、右手には弓左手には矢を持ち、左記のオモイを歌ふと同時に右に廻り両手を上下させて舞ふ。遊ビビラムト神の一人が音頭を取り太鼓を鳴らしてそれに和するのである。斯くして三回廻りつゝ踊つて終る。
(オモイ)
第四回目。縄遊びを行ふ。其場所で行ふが先ず左方に一間程離して棒を立て両方の棒に縄の両端を結び舟の形に作る。三回目と同じ装束で其中に楕円を作り、右端に太鼓打三名オモイの音頭取一人立ち、太鼓の鳴るのと同時に左のオモイを歌ひ、それに和し扇を振りつゝ踊る。
(オモイ)(略)
かくして踊り終ると見物中の神女の一人が蜜柑を踊り手の真中へ撒き散らす。それがすむと猪を取る真似をなして飾つてある冬瓜を槍で突きころがすのである。
神アシアゲの庭に於ての行事は以上の通りだが、縄遊びがすむと他の神人(但し関係ないもの)は氏子と共に帰宅する。氏子は尾花に石を込めて結んだサンを二つづゝ神に捧げ之を持参して家に帰り、火の神の前に捧ぐ。健康と繁昌を祈るものらしい。これを若しも他人に跨がした時には、其効なしとして各自大切に持ち帰る。
祝女・若祝女・海の神はアシビビラムト神と同道し途中前のオモイを唱へ扇を振りつゝ帰り、途中の火の神の祠でも同じ歌を歌ひつゝ踊つて祝女殿内帰る。殿内では
あたい苧のなかぐ引き漂し漂し
大和める里のどんす袴
と歌ひ、再び神アシアゲに帰つて祈願する。
第五回目。神アシアゲに帰り祈願をなし猪神、酒樽、鼠とを御供にかつがせ、遊ビビラムト・祝女・若祝女は海の神を御供して(駕龍に乗る)喜如嘉に行き、其処の根屋に集合して再びオモイを唱へて踊るのである。
オモイ(又はシナマ)(略)
と歌ひそれをすませば行列して喜如嘉の浜へ向ふ。途中アミ河と云ふ所がある。そこでも前と同様の事をする。
第六回目、ナガレ。喜如嘉の浜に行列を続ける。御供に持参せしめた猪、鼠を捧げ、神酒を供して海を拝し又山を拝し、踊に使用した冠と共に捧げたものを海に流す。之を流れといふ。
これをすませば喜如嘉の根屋に帰つて祈願をなし、村人は一夜を明す。これで当日の儀式は終りを告げるのである。
▲喜如嘉の根屋
《ハ》別れ 祭の翌日挙行する。喜如嘉アシアゲに、遊ビビラムト及び喜如嘉の神人が、集合して神酒を捧げて、祭の終りたるを神に告ぐ。後オモイを歌つて城から来た神人は駕籠で、城アシアゲに帰るのである。
(オモイは略)
神人の行事はこれで終り、各字の氏子は各々定めの遊び、即ち臼太鼓踊、村芝居、エイサー等外、思い〱の余興を催して、楽しく其日を過すのである。
【城ノロ家の遺品】(大宜味村史編纂室調査)(海神祭は2016年8月20日撮影)
▲ノロ殿内で ▲カーカー(鼓)を持ってグスクへ ▲途中の火神へのウガン
▲山のものと海のもの ▲カーカー(鼓)を敲く ▲神人が座した場所、ロープ(舟)が張られている
▲かつての様子を前田さんが説明 ▲神人が台座に立ってウタを謡っていた
ひんぷん六号 大宜味村字田嘉里調査報告―琉球大学民俗クラブ―1972年(大宜味村史「民俗編」所収)より「田嘉里のウンジャミ(海神祭)―盆明けの最初の亥の日」参照。五月に「神衣装」の実測と画像記録、そして展示会を開催する(大宜味村史編纂室、宮城、新城、河津。田嘉里公民館)。田嘉里の海神祭は2016年8月撮影)
それらの衣装がどのような時につけられたのか。琉球大学民俗クラブの「田嘉里のウンジャミ(海神祭)に記されているので紹介する。それと祭祀場。そこにシニグ(凌ぐ)の場面がみられる。
【田嘉里の海神祭】(1972年)
三時半頃、アシャギに集まる。ノロ(二人)、若ノロ、根神、アシビ神の中心になる人、シマンフォー、シル神、ウェークなどはヌンドゥンチに集まる。まずノロの火ヌ神の所に集まり、そこで拝んでからアシャギに行く。女の神人はヌルドゥンチで、ハチマキ、白衣裳をつける。山口マーに行く時、ノロ、若ノロは黄色衣裳に変える。男神の衣裳はアシャギでも平装。アシャギに行く時は、ノロ(妹系)、ノロ(姉系)、若ノロ、アシビ神の順になる。アシャギに着くと各神人は自分の席につき、その後、ウントーウガミ(遙拝)をしてウィークジウガミ(ダムの所をうとうし)をする。
昔はアシャギの中でカゴにのって神人は拝みに行った。その後ナガリ(トンネルの所、大国トンネルの近く)に、そしてウフグシクに遙拝する。その後アシビ神の一人がノロ、若ノロの順に盃を交してゆく。昔はミキをエノウミという容器に入れたという。今は市販の酒でやる。酒もない頃は、キリフェ(酢)を代用にしていた。その後、前記した主要神人は隣の山口の鬼界ノロを拝みに行く。この神人たちは山口の庭にムシロをしいて坐っている。そこに山口のクディンガァが四、五人でノロから順に盃を交してゆく。(盃を受けて返す)その後一応アシャギに帰る。
その頃アシャギに残っていたアシビ神たちはナーシビーという踊りをする。これは縄をもっておこなう。神人たちがアシャギに来ると、ビーラ四人が再びノロから順に盃をかわす。その後、再び山口に行く。そこで用意された(部落から)ススキクを石クワに入れる。(各一本づつ、ススキーフに石一個をつなぐ)このススキは座っている神人に一本づつわたす。それに各々石を一つづつ拾って、ススキに結ぶ。それをシマンフォの神に渡すと彼はそれをもってイシグイの神(山口の家の後方)に捧げ、神人全員にそれに向いて拝む。(他の神人は山口マーにいる)その後アシャギに全員もどる。そして山の神(ウイントー・ウイクジ)と海の神(ナガリ)とウフグシクを拝んで報告する。
【2016年8月の田嘉里の海神祭】(簡略化)(翌日ウシデークが行われる)
▲ウイントー・ウイグシへの遥拝 ▲流れ(浜)・ウフグスクへの遥拝 ▲二方への遥拝
▲遥拝の線香と御酒 ▲ススキに小石を結わえる(ススキーフ) ▲山口マーでのウガン
▲屋嘉比ノロの神衣装(田嘉里公民館での展示)(2019年5月)
2019年8月4日(日)
2010 年12月に徳之島で「徳之島と琉球」の講演を行っている。徳之島伊仙町で、恩納村の「恩納」は大きな地、広い土地ではないかと語義を解いた事が思い出される。伊仙町は面繩間切(読みはオンナ)であることを知り、面繩(恩納)間切の地形が台地(丘陵)状をなしていることから。天城や大城などを踏査。その時の記憶を呼び戻してみるか。「寡黙庵」と「孫達の庭」と畑(地目は畑、現状は原野)の草刈りをしながら)。明日は筋肉痛か。
2010年12月20日(月)メモ http--yannaki jp-2007nen2gatukao html((参照)
徳之島に「琉球的なもの」をいくつも見てきた。その多くが古琉球から引き継がれているもの見てよさそうである。グスクのつく地名やグスク(玉城・大和城・大城・宮城・山城など)、崖の下や崖中腹の墓、古琉球からのまきり(間切)、ノロ(ノロクメ)、按司などが今に伝えている。地名が琉球と共通するのが以下のように見られる。久志(久志)・母間(部間)・手々(手々)・兼久(兼久)・平土野(辺土名)・瀬滝(瀬嵩)・与那間(与那嶺)・面縄(恩納)・喜念(知念)など。琉球の歴史の三山統一以前、統一から島津の琉球侵攻まで、薩摩への分割以後とに分けて徳之島の歴史文化を見て行く必要があることを実感。グスクが機能していた頃の湊や中国などとの関わり。徳之島産のカムイ焼きの島外への移出。
それと琉球の歴文化の上に薩摩からの導入、徳之島の人々が受け入れたもの、変容しながら受け付いているもの、古琉球から根強く継承してきたもの。それらが複合的に今に引き継がれている。そのような印象を持ちながらの徳之島(特に天城町)行きであった。
▲1日目の委員会 ▲2日目の講演会
▲徳之島(天城町)の玉城城跡(建物後方の森)▲玉城城跡の上のテラス部分(畑地となっている)
2010年12月15日~18日まで徳之島へ。調査と「徳之島と琉球」の報告の予定。レジュメを準備してみた。調査の目的は別にあるが、その報告は戻ってからする予定。
はじめに
1.島津軍の琉球侵攻と徳之島(1609年)
2.西郷隆盛の流刑と奄美(龍郷)・徳之島・沖永良部島
3.徳之島に漂着した船とその処理
4.古琉球の辞令書と「まきり」(間切)
5.琉球(首里王府)からの奄美へのノロ辞令書
6.古琉球の痕跡としての地名、グスク地名、墓、入墨など
7.奄美の琉球的なものの禁止
おわりに
2019年8月3日(土)
少し過去の記録を振り返って見る事に。
http--yannaki.jp-201608gatu.html(国頭按司と石燈籠)
過去メモ(国頭按司・惣地頭)
2019年8月2日(金)
屋嘉比ノロ家の遺品の返却(大宜味村史編纂室)。調査実測図、写真などのファイルを添えて。
「北山の歴史」で運天(港:津)は重要な場所である。運天港への漂着の源為朝伝承、オモロの
うむてんつけて こみなとつけて」、「琉球国之図」(1472年)の「要津 運見津」、薩摩軍の琉球侵攻の舟元、近世の間切番所など、歴史上数多くの出来事を浮き上がらせることの出来る地である。近世末の外国船が立ち寄った地でもある。その一件、ジル・ホールの航海日誌から運天の様子を見る事に。
平成22年(2011年)7月28日(水)メモ
1816年に運天港(村)訪れたバジル・ホールの『朝鮮・琉球航海記』(197~198頁)(岩波文庫)を手掛かりに、運天(港)や周辺の様子を浮き上がらすことができないか。下にその様子を記した文章を掲げ、200年近くたった今、どのようになっているのか、いくつか拾ってみる作業をしてみた。19世紀初頭、運天(港)周辺の外国人がみた様子を画像でたどってみた。1816年の運天の風景が、今の運天にどれだけ見つけることができるか。
【バジル・ホールがみた運天(港)】【1816年10月11日】
「この村は、これまで琉球で見たどの村よりも整然としていた。道路は整ってきれいに掃き清められ、どの家も、壁や戸口の前の目隠しの仕切りは、キビの茎を編んだこざっぱりとしたものであった。
垣のなかには芭蕉や、その他の木々がびっしりと繁茂して、建物を日の光から完全にさえぎっていた。
浜に面したところには数軒の大きな家があって、多くの人々が坐って書き物をしていたが、われわれが入っていくと、茶と菓子でもてなしてくれた上、これ以後、自由に村へ出入りすることさえ認めてくれたのである。
この人々は、ライラ号が港に入るつもりがあるのかどうか、もし入港するなら、何日くらい滞在するのかを知りたがった。われわれはそれに対して、入港するつもりはない、と答えたのだが、だからといって喜びもしなければ残念がるわけでもなかった。
村の正面に平行して30フィート(9m)の幅をもつすばらしい並木道があった。両側からさし出た木々の枝は重なりあって、歩行者をうまく日射しから守っている。そこに木のベンチが置かれ、木のそばには石の腰掛けをしつらえた場所もいくつかある。全長約四分の一マイル(400m)ほどのこの空間は、おそらく公共の遊歩場なのだろう。
半円形をなす丘陵は、村を抱きかかえるとともに、その境界を示しているようであった。丘陵の大部分がけわしいが、とくに丘が港に落ち込む北端の岬では、80フィート(24m)のオーバーハングとなっている。崖の上部は、基部にくらべてきわだって広い。地面から急斜面を8~10フィート(2、3m)上がった位置に、堅い岩をうがって水平に回廊が切り開かれ、壁にむかっていくつもの小さい四角い穴が深く掘り込んであった。ここに死者の骨を入れた壷を収めるのである。
この断崖のふちからは木や蔓草が垂れ下り、下から生えている木々の梢とからみあって日除けを形づくり、回廊に深い陰影をなげかけている。しんと静まりかえった荘重な雰囲気である。
だが一見したところ、ここは墓地本来の目的である墓碑や碑銘などの役割を示すものが何もないのは意外である。たまたま樹木や灌木の茂みの間に一本の道のようなものがあるのに気がついたわれわれは、その先に何があるのかつきとめようと、藪の間をぬって続いている小道をたどりはじめた。木や草は旺盛な生命力を示し、この日経験したさまざまの興味ある出来事によってわれわれの気分もまた高揚していたのだった。だがわれわれは突然、予想もしなかった死者たちの場所の神聖かつ陰惨な光景に行きあたってしまったのである。一行の陽気な気分は一瞬のうちにふきとんでしまった。
この村は運天Oontingという名前である。那覇の首長たちが口にし、われわれがWinchingあるいはOonchingと記録したのと同じ土地であろう。
われわれが発見したこのすばらしい港は、海軍大臣メルヴィル子爵を記念して、メルヴィル港と名付けられることになった。
※「公共の遊歩場」は運天番所の前の馬場後と見られる。「咸豊七年丁丑『御首尾扣帳』(今帰仁間切
番所所蔵と宮城真治民俗調査ノートにある)に、「三月三日、五月四日は番所の前、アブシバラヒは
仲原馬場、八月十一日親泊馬場に馬揃仕、役々中相揃、酒二合、七寸重壱次自参、見物仕申候」
とあり、三月三日と五月四日に番所の
前で馬を揃えて重箱を持参して見物している。その様子から運天番所前に馬場があったことが
しれる。
「咸豊七年丁丑」は1857年である。 「「死者たちの場所」は、明治21年頃に修復する前の百按司墓のことであろう。
▲明治末の運天港の様子(『望郷沖縄』所収より)
▲崖中腹にある墓 ▲「いくつもの四角い穴」はこれか?
▲昭和35年頃の運天港 ▲「公共の遊歩場」は番所前の馬場のこと?
2019年8月1日(木)