【三山鼎立時代】(北山は今帰仁?・怕尼芝・珉・攀安知)
・1383年に山北王怕尼芝が明国に入貢始まる。
・15世紀初頭 山北王怕尼芝の二男(王舅)が与論島に渡り与論の世の主となった(伝承)。
(与論城を築いたという)
・1416年山北王攀安知が中山の尚巴志の連合軍に滅ぼされる。
・サービ・マトゥイ(北山系?)(伝承の人物)
・大道那太(ウフドゥナタ)(北山系?)(伝承の人物)
【三山統一後】(北山は監守時代)
・成化2年(1466)
尚徳王鬼界島を征伐して帰り、呉姓一世宗重を泊地頭となし、其の妻を泊大阿母となす。
(「呉姓家譜」 一世宗重)
・1512年尚真王の次男尚朝栄(大里王子)、花城真三郎が与論世之主(又吉按司)として
与論島へ来てグスクを築いたという伝承(その墓あり)。
・1537年奄美大島を征伐する。(四代尚清)
・隆慶2年(1568)戊辰正月、自奥渡上の□理(サバクリ)に任ず。
※毛姓五世盛埋が奥渡上(薩南五島:喜界・奄美大島・徳之島・沖永良部・与論)の五島の政治を司る
役人に任命される。
・1571年 奄美大島を討伐する。(五代尚元)
・万暦24年(1596)丙申 大島湾の首里大屋子を勤める。
万暦三十年(1602)壬寅 大島より帰り、後西原間切我謝地頭職に任ず。
(「藺(リン)姓家譜」一世篤當)(首里王府発給の辞令書があった可能性あり)
・1609年薩摩の琉球侵攻
・万暦39年(1611)に奄美大島・徳之島・喜界島・沖永良部島・与論島が薩摩に割譲される。
与論島では確認されていないが、奄美には古琉球の辞令書が30近くある。これまで確認されている奄美関係の辞令書の古いのは嘉靖8年(1529)の「笠利間切の宇宿大屋子職補任辞令書」である。
第二尚氏王統の1500年代から奄美へ首里王府から辞令書が発給されている。その時代の奄美の島々と琉球国との関係は、北山(監守:今帰仁按司:今帰仁グスク居)ではなく、首里王府直轄である。首里王府直轄であるが、与論島の全て一族が琉球から移り住んだというものではなかろう。
与論島にノロに関わる辞令書は未確認である。他の島に見られる役人の辞令書も発給されてよさそうなものである。そのような辞令書の発給は首里王府と島々と直接統治されている関係にあったことが知れる。三山統一後の与論島は北山ではなく琉球国(首里王府)の直接支配である。もちろん、首里王府の役人の派遣、引き揚げた人物もいたが、そのまま島に残ったのもいたであろう。
与論島にもノロ制度があったことを伺わしめる旧家の系図やオモロでも謳われている。辞令書を賜るノロは公儀ノロであり、首里王府が任命するのであるから王府の意向を伝達する役目も担っている。
与論島に首里王府から発給された古辞令書の辞令書が確認されていない。奄美島や喜界島で確認されているので与論島の役人やノロに発給されたであろう。もし与論島の役人やノロに発給された古琉球の辞令書が発見されたなら、与論島と琉球国との関わりが具体的に見えて面白いのだが。
http--yannaki.jp-yoron1.htm(全文参照)
ヒヨドリのヒナは眼が開いている。ガラス窓こしにパチリ。気づかずに屋根にしている枝を切り取ってしまう。急遽雨よけのビニールの屋根の設置(梅雨真っ最中)。親鳥はビニールハウス、気にせずエサを運んでいる。巣立ちは間もなくか。
津屋口墓
親泊馬場の東端より海岸へ通ずる右方を津屋口という。屏風の如き隆起珊瑚岩の下に饅頭形を鎖されたる古墳あり。摩滅せる墓碑を通して窺うに是向氏具志川氏(元の今帰仁御殿)の祖先にして北山監守韶威の嫡孫宗真公を葬れるが如し。宗真は其の号にして唐名を和賢といい嘉靖三十六年に生まれ万暦十九年三十五歳にて病死せし人なり。
今向氏七世百四五十年間の一族は運天なる大北墓に合葬せらる。然るに三世宗真公は何の故を以て津屋口に葬られしか是頗る疑問とする所なり。
土地の口碑によれば此の癩を病みしに依り津屋口に別殿を営みて之に居らしめ後遂に便葬せりという。該墳墓には別に門口なく且古来章魚及び豚肉等を供えざるの習慣あり、之によりて見れば伝説亦事実ならんか、大正六年編者具志川家を訪ねいて此事を質す。未亡人語って曰く、是れ慶長年間薩摩入りに際し退隠して遂に別殿に入りし人なりと、然るに墓碑には万暦辛卯易簀(死亡)とあり、辛卯は同十九年にして我天正十九年(一五八七年)に当たり慶長十四年より十八年前の事に属す。以て其事実にあらざるを知るべきなり。
津屋墓碑(墳墓記)
夫〇吾統人之志吾述人之事有也誠哉此言也〇典松公入奉
尚真帝王之敷命以康煕丙午移居干首里涘〇述兼得忠考而全故也保祿位顕名干京師偉哉盛哉此〇〇 売〇祖之心志而述昌祖之墓〇石也哉是以乙日謂命日我高祖今帰仁按司宗真石
先王尚真帝王第四之三子宗仁公之嫡孫也〇〇自出於此矣今乃其墓将敗壊故以為修築之以将堅久之元
計〇其夏也深故其言出而無
食育方而無〇丁康煕戌午仲秋十七乙酉〇築始〇尌之何所以為記誠一則恐人不知誤也一則恐或〇而 難尋故封之高救尺也古人亦至干如此矣伏〇疾
宗真公〇鎮守列〇便役以時数〇有節是故孫子無〇而振振〇〇其証如此明則〇猶予之有遂致仕而遠 〇地於大屋泊以営殿間近築墓於津屋
口以将便葬也干時万暦辛卯易簀不緯遺命而葬於此今也〇百余載是故為風雨所敗壊〇乎辛寅日功 〇成而増旧制
塚頭酒〇孝心解志報本之心不可勝〇也〇〇日君子楽楽其所自生礼恐其本〇〇〇退請〇其事干石以 知来〇〇此墓不毀壊曰為
大清康煕十七戌午仲秋二十二日立 友弟謹誌〇
『沖縄県国頭郡志』(島袋源一郎著)(大正八年)より
津屋口墓(アカン墓)(新聞記事)
壊された開かん墓(沖縄タイムス:1964.12.29)
三百年前から入口が閉ざされたままという秘密のベールにおおわれた今帰仁村字親泊にある「開かん墓」が最近、なにものによってこわされた。この墓は文化財としても研究の対象にされており、文保委では28日新城徳祐主事を現地に派遣して調査をした。
墓がこわされたのは二か月ほど前のことだが、さいきん子孫の具志川朝雄氏(具志川御殿)が調べてわかったもの。墓は親泊部落の東側海岸にあり石積みでつくられているが、正面のシックイでぬり固めた石がこわされ、あと石をハメこんであった。近くの人たちの話だと、二か月くらい前、夜中にハンマーで石をたたく音が聞えてきたという。
墓庭に建てられた碑によると、この墓に葬られているのは向姓具志川氏の先祖で三代目の北山監守宗真公となっている。宗真は1557年に生まれ1592年、35歳で病死した。北山監守というのは中山の尚巴志が北山を滅ぼしてあと、再び変が起こるのを封じるために、1422年から二男の尚忠を今帰仁城に駐留させたのがはじまり、ところで北山監守の一統向氏七世百、四、五十年の一族は、すべて今帰仁村運天の大北墓に合葬されていて、なぜ宗真公ひとりがここに葬られることになったのか、理由はよく知られていない。宗真は「らい」を病んだため別葬され、それで墓の口もないのだといわれている。
新城主事はこの機会に墓の内部を調査しようとしたが、内側からも二重に石垣が積まれており、それをはずすと墓全体が崩れる恐れがあるので、外側の石積みを修復するにとどめた。やはり「秘密のベール」はとりのぞくことができなかった。
現在墓の前に香炉が一基置かれていて「奉納 大正元年壬子九月 本部村宗甫? 仲宗根門中 嘉数吉五郎 建立」と刻まれている。
新城主事は「北山監守の墓なのでおそらく中に宝物があると思ってやったのだろう。しかし、これまで調べた各地の有名な古墓にも身の回り品しかはいていなかった。開かん墓もそれと同じだと思う」と苦笑していた。
▲碑の拓本 ▲三世和賢が葬られた津口墓と「墳墓記」(1678年建立)
あかなかった古墳(琉球新報:1964.12.30)
北山城三代目監守・尚真公をまつってある今帰仁村親泊区在俗称アカン墓(口ナシ墓・ツエグチ墓ともいう)を何者かが墓の入り口をこじあけようとした形跡があり、修復にあたった子孫の具志川家(首里)の人たちが28日午後、文化財保護委の新城徳祐主事の立ち合いで内部調査をしようとしたが、墓口があけることができず取りやめた。
区民の話では九月ごろ、ツルハシをふるって墓をあばいている音を聞いた区民がおおく、昔から人々の間に「宝物が埋蔵されているのでこの墓はあけてはならない」と伝えられる昔話を信じた何者かが、宝欲しさにこじあけようとしたのではないかと新城主事はみている。
この墓口は内部とそと側からの石での二重積みで、開くことができないようにつくられており、この日も無理にこじあければ墓全体が陥没するおそれがあると中止した。
この墓は、北山城三代目監守・尚真公が約三百年前(ハンセン氏病)をわずらって死んだので俗称ツエグチ原(親泊区在)に別殿を設けて葬ったため、子孫は開くのを禁じられてアカン墓(開かない墓)と人々にいい伝えられているとの説が強い。中には不義などの行為で先祖の墓にいっしょにははいれなかったとの説もあるが歴史的考証がないという。歴代北山監守は皆運天区にある大北(ウフニシ)墓に葬ってあるが、この三代目だけが別葬されている。
この日アカン墓をあけるといううわさでかけつけた人たちが墓の周囲に黒山をつくり、三百年来のナゾがとけるのではないかと見守っていたが、墓口が開かないと知って複雑な表情で帰った。
「北山の歴史」で「中北山の時代」を描くのに四苦八苦されている。「正史」では巴志以前時代について史料の少なさもあるが、天孫氏王統、舜天王統、英祖王統、察度王統、尚思紹王統とし、歴史を描いてある。北山はその王統から外れてくるので「正史」の枠からはずれ「野史」として扱われてきた。三山鼎立(北山・中山・南山)時代の北山は怕尼芝・珉・攀安知の時代以前は「野史」を手がかりにするしか、今のところなさそうである。
野史や伝承でみた北山の歴史は、
・前北山時代(先北山、または大昔北山ともいう)
・中北山時代(中昔北山、または昔今帰仁ともいう)
・後北山時代(後今帰仁ともいう)(北山三王時代ともいう)
・監守(第一・第二監守)時代ともいう。
さて、中北山時代を「野史」ではどう描かれているのか。まずはその土俵に立ってみることに。
(仲北山の攻防略)
沖永良部島との関係は以下のように述べている。以下のことが根強く伝承されている。
「仲北山は二、三代の後その臣本部大主(大腹とは違う人物)の謀反にあって一旦落城離散し、子孫が隠忍していてやっと城地を取り返したが(『北山由来記』には、この若按司を丘春としてある)悪運未だに尽きず、一、二代の後再び一族は怕尼芝のために打ち滅ぼされしまった。(シナ音でニジと発音するというから、あるいは羽地按司であったのではあるまいか)怕尼芝は弘和三年(1383年)より初めて明国へ入貢し、与論・沖永良部の諸島まで制服し北山王国の基礎を固めた人である。(沖永良部島には今帰仁王の次男真松千代王子の城址あり、内城には子孫がいて、世之主御由緒という記録を保存している)とある。」(『補遺伝説沖縄歴史』島袋源一郎著)
沖永良部島の方が、研究が先行しています。
「世乃主由緒」
沖永良部島先主、世之主かなし幼名真松千代(まちじょ)王子
右御由緒私先祖より申伝之趣左上之通り。
一、琉球国の儀、往古者中山南山北山と三山為被成御在城由、北山王の儀は今帰仁城主にて
琉球国の中より国頭九ヶ間切その外、伊江島、伊平屋島、与論島、沖永良部島、徳之島、大
島、喜界島まで御領分にて御座候由、北山の御二男右真松千代王子の儀は沖永良部為御
領分被下御度海の上玉城村金の塔(ふばどう)え御館を構え被成候由、左候処、大城村川
内の百と申すもの御召列毎々魚猟に古里村の下、与和海え御差越海上より右川内の百当分
の古城地を指し、彼地の儀は大城村の地面にて御座候につき、世乃主かなしの御居城為御
築可被遊段申し上候段申し上候処忝被思召旨の御返答にて、即ち其比後蘭村え居宅を構へ
罷居候後蘭孫八と申すものへ城被仰付三年目に城致成就夫より御居城と相成候
一、世乃主かなし恩奥方の儀は、中山王の姫にて御名前真照間兼之前と申唱候由
一、本琉球の儀三山御威勢を争ひ度々合戦為之有然処北山今帰仁城之儀は中山(北山か)之
大将本部太原と申すものより被攻亡され南山落城終には中山一統に相成為由、右に就て
世の主かなし事頼むなき小島にて鬱々として被成御座候折柄中山より和睦の使船数艘渡
海有之候由、末実否御聞届も不被成此方事北山之二男にて候得ば中山より軍船に相違無
之候、左候へば小島を以て大国へ難敵と直と奥方を始め御嫡子其の外無残御差違へ御自
害の由。
一、右騒動の砌、男子三歳若主一人、女子五歳之者一人乳母之真升兼(ますかね)と申すもの右御
両子列上、西原村あがれ百所に逃越候折西原村の下へ徳之島船着船いたし居り候を頼入徳之島
へ罷渡り己後中山領島相成島中無異相治り候に付島役共より王子迎として渡海いたし候に付き、御
帰島被成候得共幼少両子にて本城の住居難被成、古城より北に相当り小高き処へ御館を構へ御直
り被候に付き今に直城(なおしぐすく)と申唱申し候。
一、右王子の子孫成長の上中山王御取立にて、代々大屋役仰付相勤来り候由、依之当分私迄も
島中
のもの共大屋子孫と唱申候。尤大屋役何代相勤申候哉不詳。
右女子の儀王女之故妻嫁に可仕以合無之、古城之下え結庵之屋敷干今男子禁戒
一、黄(喜)美留菜津久美と申候宝刀之申伝
世の主時代、黄(喜)美留村へ扇子丈と申もの罷居しが引差越候処刀一腰つり上げ、宝刀の訳は
不相分ものにて魚を切候得はまな板迄切込、夫より秘蔵いたし置き候処、其子右刀を以て怪
我仕り夫故相果申候につき立腹し余りに古場野と申野原の真石を切り申候処夜々海中にて光
沖永良部は永良部である。口永良部島と区別するために「沖」をつけたという。沖永良部と表記するのは、明治になってなのかもしれない。沖永良部の「沖」はどこから見ての沖なのか重要である。もし、古琉球の時代に沖永良部島と呼ばれていたのであれば、琉球側からみて与論島の後方にある島としての読み取れる。同じ永良部島が屋久島の北西の位置にある。永良部島が二つあり、区別するために「口」と「沖」をつけたという。時代的には新しく、薩摩からみた呼称である。
・羽地村の銅山(金川) ・今帰仁村諸志のフプガー ・『海東諸国紀』(1471年) ・小学生総合学習
・大宜味村 ・国頭村 ・与論島をゆく ・本部間切具志川村の脇地頭を拝受し ・謝名の平田村
http--yannaki.jp-2008nen12.html(参照)
今帰仁村与那嶺の議事録(1949年)
【解 説】(仲原)
この「與那嶺区文書綴」は1949年6~7月(昭和24年)に與那嶺公民館で収受した文書を綴ったもので、歴史文化センター所蔵の戦後の公民館文書としては年代が古い方に属している。綴られている文書は6点と少ないが、表題を追ってみると戦後4年たった当時の状況を垣間見ることができる。収受された文書のタイトルを挙げてみると、
1.大掃除実施要綱について(発信者:今帰仁村長)
2.区長会招集の件(発信者:今帰仁村長)
3.職業調査依頼について(発信者:琉球用度補給庁長)
4.家屋台帳調整方依頼について(発信者:今帰仁村長)
5.掛売金請求の件(発信者:今帰仁村農業組合)
6.北部農林高校移転記念式列席について(発信者:今帰仁村長)
7.評議員開催について(発信者:兼次校後援会長)
8.今帰仁村與那嶺区部落役員及び有志常会決議録
9.復旧資金借入申込書
10.水稲第一期作面積並びに作柄調査について(発信者:今帰仁村長)
11.アルゼンチンへの帰還の件(発信者:今帰仁村長)等の文書が綴られている。
1.の「大掃除実施要綱について」は、米軍の駐在衛生検査官が今帰仁村を巡視した際、家畜の飼育方や便所の衛生について改善するよう注意があったことを受け、今帰仁村長が区長、学校長、理髪組合長、農業組合長にあてて、毎週日曜日に区内の大掃除をするよう通達したもの。軍検査官が地域の衛生について指導検査していたことや、大掃除の実施について区長だけでなく、校長先生や理髪店、農業組合にも呼びかけがなされているのが、興味深い。
当時の村長は松本吉英氏で、任期は1945~1950年、任期中の出来事として、各学校開設、農業組合設立、役所の新築、伊江村民一万人余受入、北山高校誘致、通過切換、電話開通などがある。
2.の「区長会招集の件」は区長のみならず、各売店(共同売店)の主任にも宛てられた文書で、内容は「職業調査依頼の件」である。「職業調査」についての文書は次の3の文書に当たる。
3.の「職業調査依頼について」が上記の区長会で通達された文書で、琉球用度補給庁からの調査依頼である。戦後の配給の基準となる収入の申告が、〇パーセントまたは低い収入でもって申告されるようになり、配給割当のバランスが崩れてきたのであろう。正確な職業調査をすることで、配給の割当の改善を図ろうという調査である。
文書の発信者は琉球用度補給庁である。戦後の沖縄の自治機構は1945年8月に沖縄諮詢会、1946年4月に沖縄中央政府、同年12月に沖縄民政府、1950年8月群島政府、そして1952年4月に琉球政府という変遷をたどった。與那嶺区に収受されている琉球用度補給庁の文書日付が1949年であることから、この庁が沖縄民政府時代の一部局であることが分かる。
文書中「救済者」「俸給者」「カムパン住込者(カンパン:コンセットなどの基地従業員宿舎)」などの言葉や、調査の立会人に警察官が参加していること、年令はアメリカ式に満で数えるなどの注意事項や、附表に記載されている「露天商、錻刀工、下駄業、女中給仕、樽桶業、荷馬車引・・・・」などの職業名に時代が見て取れる。
4.は「家屋台帳調整方依頼について」。次年度(1950年度)の工務部(現建設課)の一般住宅工事に掛かる予算を計上に必要な基礎資料を作成するため、村の家屋台帳と各字の台帳とを付き合わせます、という通達。
5.の「掛売金請求の件」は、與那嶺区が農業組合から掛けで購入した農業資材等の請求書。恐らく各字に請求書が送られたものと思われる。
6.の「北部農林高校移転記念式列席について」は1949年6月28日に、今の名護農業試験場から現在地に移転した北濃の移転式典参加についての文書である。
当日、村当局から迎えの車を出すが、午前5時半までに最寄りのバス停で待っておくように、という指示である。式典は何時から開催されたのであろうか。かなりの時間的な余裕をもっての参加であろうか。
7.の「評議員開催について」は、兼次校後援会から発信されたもので、校舎建築及び復旧についての予算打ち合わせと、後援会の正副会長の改選を行う旨が記された文書である。この頃兼次校(初等学校、中等学校)の校舎は茅葺校舎であった。昭和26(1951)年に石造校舎が完成するが、校舎建築には生徒地域一丸となって、川原の石や海岸の砂をオーダー(モッコ)やカゴに入れて運んだという。この年学校林が教師の指導の元、生徒たちによって開拓され、稲作、パイン、果樹が作付けされた。
8.の「今帰仁村與那嶺区部落役員及び有志常会決議録」は、明記されていないが、字のどの地域かの復旧工事に掛かる資金を今帰仁農協組合から借り入れるための、部落常会決議である。出席者は29名。当時の区長は與那嶺蒲吉氏。借入金は二万円である。
9.の文書は上の決議を受けての借入申込書。当時の農業組合長は幸地新蔵氏(戦前の名護国民学校長、戦後は沖縄諮詢会委員、沖縄議会議員、名護高校今帰仁分校校長を経て、初代今帰仁農業組合長に就任、その後琉球政府立法院議員)である。
10.は「水稲第一期作面積並びに作柄調査について」。今帰仁村にまだ水田があった頃の調査文書である。二期作のうちの一期作目の刈取りの際の調査で、文書の末尾に「原名・作付面積・作柄(上中下)・氏名・備考」を記入する欄が設けられている。今帰仁にかつて水田があったこと、6月が一期作の収穫時期であることを確認させてくれる文書である。
11.の「アルゼンチンへの帰還の件」は、恐らく戦前にアルゼンチンからいったん沖縄に引き揚げ、戦後再渡航を希望した方々に宛てた文書と思われる。『與那嶺誌』(平成7年)によると、アルゼンチンには与那嶺出身者が平成7年現在34戸、126名がご活躍という。昭和24年のこの文書に記された方々は、1930年代(昭和10年代)にアルゼンチンに移民された家族と思われ、4名がアルゼンチン帰還を希望している。帰還のための予防接種として「コレラ2回、腸チブス3回、発疹チブス2回、種痘2回」という数の多さに驚かされる。
以上1949年の6月~7月の文書綴りを見てきたが、わずか11の文書を見るだけで、当時の「衛生」「農業」「学校」「字の動き」「生業」「移民」などについての情報を得ることができる。
またここに綴られている公文書の半分はガリ版印刷で、あとの半分は直接手書きされたものだが、文体やカタカナの使用、書体などから、文書を作成した職員の年令や人となりが感じられ、パソコン作成の文書にはない味わいがあり、興味を誘う。
與那嶺区文書綴(1949年、表紙ナシ)
■今衛発第424号 1949年6月13日 今帰仁村長 松本吉英
各字区長、各学校長、理髪組合長、農業組合長 殿
大掃除実施要綱に就て
標記の件に関しましては廔々通知しておきましたが、軍駐在衛生検査官の当村巡視の結果、左記の点速急に改善する様に注意がありましたので、ご多忙中の事とは存じますが、万障お繰合せの上実施する様、区民に徹底方針取計られ度く御依頼致します。
1.家畜の規定通り飼育
2.家畜飼育場は常時清潔を保持すること
3.便所防蝿設備の徹底、屋根圍蓋の作成
(6月中に全家庭洩れなく実施特に最命)
4.ボーフラ発生場所の絶無
軍検査官は常時田井等地区衛生課の勤務、各町村を指導検査して居ますので、
爾今毎週日曜日は大掃除を実施し清潔保持する様、御配慮相煩度。
(注:「衛生班長金城氏より常会にて、7月4日」のメモあり)
■今発第440號
1949年年6月23日
今帰仁村長 松本吉英 (公印)
各区長
各売店主任殿
区長会招集の件
標記の件に関しまして左記に依り開催致しますればお繰合せ御集会下さる様通知致します
一、日時 6月25日午后2時 土曜日
一、場所 村会議室
協議事項 職業調査依頼ノ件ソノ他
■琉補第175号 1949年6月16日 琉球用度補給庁長
今帰仁村長殿
職業調査依頼に就いて
現行配給法の基準たる生産率別人口報告が漸次生産□%0%又ハ生産の低い方へと移動する傾向に有、隨って割當配給事務に種々の困難を感ずる様になって参りましたので、別紙案により貴市町村に依頼し、各世帯の職業調査を徹底的に為し、以って割當配給の改善を圖り度いと思ひますので首題の調査方依頼致します。
案
一、調査方法
1.初回の調査は非農家より実施する
2.調査は區長が主体となりて実施する
3.調査の立會人として次の人を参加せしめる
(イ)役場の戸籍係 (ロ)警察官
4. 調査の立會人は夫々必要なる簿冊を携行する
5.調査用紙に基き其の世帯主に對し、下記の事項を質問的調査を行ふ
(イ) 世帯員の氏名、年齢、職業、戸主との續柄
(ロ) 事業家は其の種類
(ハ) 漁家は使用スル舟と種類と隻数
(ニ)商店は自家営業、露天商の別
二、注意
1. 年令はアメリカ式に満を以って算へる
2.(6)は學生生徒は其の旨記し、(5)に在校名を記すること
3.(6)の職業欄には事業経営者である業者と其の雇庸者である工員との区別を判別せしむること。
例、味噌醤油製造業と味噌醤油製造工。製靴業と製靴工。
右例の如く事業経営者には○○業と、その経営者に雇庸されてゐる者は○○工と名称記入の事。
4.救済者は備考欄に記入すること
5.俸給生活者と雖も或種の事業をなす人は(6)の職業欄に併記すること
6、(6)には抽象的職業名称を使用せず可成具体的職業名称を用ふること(別紙附表参照)
7.カムパン住込者は該調査に適用しない
8. (7)は無職者就業の適否又は身体障害状況を記載すること
9. 特種団体として割當される団体は本調査に適応しない。即ち農業生産率別換算人口に
計上される世帯が本調査の対象となる
三.調査後の整理
調査終了せば整理の上、調査用紙の副を7月2日限迠に市町村を経て地區倉庫に送附すること
四.調査後の報告終了せば引續き初回の調査要領により生産%一%より35%迠職業別調査
報告を実施報告する
附 表
露天商、錻刀工、下駄業、女中給仕、樽桶業、救済者、荷馬車引、軍作業、ミシン修理業、荷馬車修理業、貸本業、行商、帽子編業、竹ザル工業、産婆、芸能者、洗濯屋、代書印刷、線香業、衛護人、アイスケーキ屋・・・(以下省略)
■今発第443号
1949年6月23日
今帰仁村長 松本吉英 (公印)
與那嶺区長殿
家屋台帳調整方依頼について
1950年度工務部新予算に依る一般住宅工事の計書立案の資料と致すべく、各町村の住宅出来高報告の必要上、各部落の家屋台帳整理を致したいと思ひますので、左記日割に村の台帳を持って各部落の台帳と照合し度いと思ひますから、区長又は書記は右様御承知下さいます様御願ひ致します。
記
日割り 7月1日 (注:「打ち合せ済み」のメモあり)
■農発第194号
1949年6月23日 今帰仁村農業組合(公印)
與那嶺区長殿
掛売金請求の件
標記の件、本年度六月末日は事業〆切に付、又次年度の事業にも支障を来たしますから、六月末日迄に必ず納入をする様、左記の通り請求致します。
(注:文書末尾に「硫安」「過石」「亜比酸カルシウム」「馬鈴薯」「硫酸ニコチン」「農用石鹸」等の品名と数量、単価、金額についての欄あり)
■今庶発号外 今帰仁村長 松本吉英
明日28日北農移転記念式ニ列席セラル方ハ當日午前五時半マデニ最寄ノバス停留所
ニオ集リ下サイ。
尚当日午前五時頃ヨリ自動車ヲ差廻スコトニナツテ居リマスノデ為念申添ヘマス
1949年6月27日
各字区長殿
■兼次校號外
1949年6月27日
兼次校後援会長 吉田正徳
與那嶺区長 與那嶺区長 與那嶺蒲吉殿
評議員開催ニ就テ
標記ノ件左記ノ通リ開催致シ度イト思イマスカラ
御出席下サイマス様オ願ヒ致シマス。
一、日時 7月27日午后6時
一、場所 本校宿直室
◎議員、評議員(一名)出席ノコト
◎尚、本日ノ会議ハ校舎建築及復旧豫算打合セ、後援会正副会長ノ改選ガアリマスカラ
必ズ出席御願ヒ致シマス。
(注:「評議員仲宗根松太郎氏、評議員未定ニ付、金城新政君ヲ」のメモあり)
■今帰仁村與那嶺区部落役員及有志常会決議録
一、 日時 1949年6月27日午後2時
二、場所 與那嶺区事務所
三、 出席人員27名
四、 提案事項
、今帰仁農業協同組合ヨリ復旧工事運用資金トシテ金弐万円借入ノ件
五、決議事項
1. 区長復旧工事運用資金トシテ今帰仁村農業組合ヨリ借入レ當字復旧工事運用資金ト
シテ振向ケル事ヲ提案
2.本資金ニヨリ工事運用資金ニ充ツル事決議ス
右之通リ決議セル事ニ相違アリマセン
1949年6月29日
與那嶺区長 與那嶺蒲吉
■復旧資金借入申込書
一、金額 金弐万円也
ニ、期間 自1949年7月5日
至 仝 年10月30日
三、使途 復旧工事運用資金トシテ
四、返済方法 一時拂ニシテ復旧工事助成金受取ニ依ルモノトス及資源
右之通リ借入申込致シマス
1945年6月25日
今帰仁村與那嶺区長與那嶺蒲吉
今帰仁村農業組合長 幸地新蔵殿
■今産発第455号 1949年6月30日 今帰仁村長 松本吉英
與那嶺区長殿
水稲第一期作面積並ニ作柄調査に就いて
首題に就いて左記様式に依り調査の上刈取十日迄に報告御願い致します。
■今社発号外 1949年7月7日 今帰仁村長 松本吉英
與那嶺区長殿
アルゼンチンへの帰還の件
貴区在住の左記アルゼンチンへの帰還希望者の帰還手続につき問合せ度い事がある
やうですから、至急軍政府総務部へ出頭さすやう御取計ひをして下さい。
追伸 出頭の際に区帰の予防注射済みの証明書持参させて貰い度い(コレラ2回、
腸チブス3回、発疹チブス2回、種痘2回)一家族から二人以上の希望者があ
りますときには、代表者に全員の注射済証明書を持参させてよい。
(注:「本人へ伝達、既ニ総務部ヘ打チ合セ済」のメモあり)
中国留学を盛に行なっていた久米村では、先に紹介した周国俊さんだけでなく、当時の
首里王・尚貞の命令により蔡応瑞という人も銀30両を与えられて福州に留学、儒学だけ でなく風水を学びました。 帰国後の1685年、彼は伊是名島の風水を ...
・1678年 「 墳墓記 」 に造替え(今帰仁監守三世和賢の墓、1591年に亡)。
・1685年 蔡応瑞が王命により伊平屋諸島の風水を見聞する。
・1686年 蔡応瑞が護佐丸の墓の風水を見聞する。
・1687年 伊是名玉陵が改修される。
・1688年 伊是名玉陵が修復される。風水にかなった景観であると判断された。
・1688年 喜屋武按司向殿柱が東風平間切富盛に風水にかなった墓地をみつける。
・1689年 蔡応瑞が風水判断で東風平富盛に石造獅子を建て、火災を防がせる。
・1689年 内間東殿が瓦葺きになる。
・蔡応瑞が風水判断で東風平富盛に石造獅子を建て、火災を防がせる。
・1740年 護佐丸父祖の墓(山田城)
・1751年 地理師阮超陛の風水判断で7世喜屋武按司向棟、5世向殿柱の富盛の墓地を
安里に移動する。
・1761年 運天のウーニシ墓、十世宣謨(今帰仁王子)の時に今帰仁城麓より移転。
・1790年 乾隆五十五年庚戌六月六日死去父親(上間家のとき赤墓を創設か)
・護佐丸の墓の建立は?
▲大北墓の移設を記す碑文(家譜より)
http--www.yannaki.jp-nyagouuematoakhaka.html(上間家:赤墓参照)
大 字 | 大字ニ属スル 部落ノ名 |
戸数 (戸) |
人口 (人) |
備 考 | ||||
1 | 今 泊 | ●親泊 東上原 |
359 91 計450 |
1980 414 1994 |
親泊ハ今泊ノ主部 ※明治36年に今帰仁と親泊が合併 |
|||
2 | 兼 次 | ●兼次 上原 |
88 14 計102 |
423 50 計473 |
||||
3 | 諸 志 | ●諸志 □□□ |
131 13 計144 |
※明治36年に諸喜田と志慶真が合併 | ||||
4 | 与那嶺 | ●与那嶺 上原 |
111 17 計128 |
686 59 計745 |
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5 | 仲尾次 | ●仲尾次 前原 |
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6 | 崎 山 | ●崎山 上原 |
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7 | 平敷 | ●平敷 戸茶 當原 |
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8 | 謝 名 | ▲越地 中原 大島原 上手名原 |
中原ハ謝名ノ主部ニ付注記スル ※謝名の越地は字越地へ分離独立 ※昭和12年に分離 |
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9 | 仲宗根 | ●仲宗根 ▲越地原 ▲トキジン原 |
※ 仲宗根の越地原は越地へ(昭和12年に分離だ独立) ※トキジン原は昭和16年分離独立 ※仲宗根越地原は字越地へ分離独立 |
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10 | 玉 城 | 寒水 岸本 コンジャ堂 我呉山 |
84 65 24 36 計209 |
※明治36年に玉城・岸本・寒水が合併して玉城 ※呉我山が大正□年に字となる。 |
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11 | 湧 川 | シュリ 首里ノヒゲ 兼久 村内 港 中福 中山 |
※中山は呉我山へ | |||||
12 | 天 底 | ●天底 コンジャ堂 ワルミ |
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13 | 勢理客 | ● 勢理客 トーバル原 トキジン原 中増 中道 |
※中増ハ勢理客jノ主部トス ※トキジンが分離独立する。 |
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14 | 上運天 | ●上運天 和呂目 親川 □□□原 |
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15 | 運 天 | ●下運天 渡久山 |
62 66 計128 |
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16 | 古宇利 | ●古宇利 上原 |
129 26 計155 |
129 26 計155 |
「轉籍願」の文書 (2002・5・18メモ)
歴史文化センターに「轉籍願」の文書がある。それは那覇士族が今帰仁間切仲尾次村へ寄留してきた時の文書である。このような文書資料は非常に少ない。村に転居する場合の手続きがわかり興味深い。光緒五年は明治十二年にあたり廃藩置県の年である。廃藩置県前後に首里那覇などの士族が地方に寄留する場合「転籍願」を提出していた時代である(もちろん例外もあろう)。以下の文書の形式で村内に寄留したことがわかる。
今帰仁間切(村)で寄留人の多い字(村)は天底(56・6%)・運天(58・3%)・湧川(50・4%)・玉城(45・8%)上運天(30・5%)・勢理客(26・4%などである。今帰仁間切全体の寄留士族の比率の平均は19・9%である。因みに「転籍願」が出された仲尾次村は19・6%なので平均的な村ということになる。
轉 籍 願
無 禄 父那覇西村士族亡長男國吉眞千二男
家 族 國 吉 眞 益
當年六十幸巳八月十日生
今帰仁間切平敷村
平民玉城牛長女 妻 蒲 戸
當年五十五丙戌九月二十日生
長男 國 吉 真 映
當年二十五丙辰五月五日生
久米村士族岸本
恵廸二女真映 婦 真 鶴
當年二十四丁巳六月十日生
光緒五年己卯十一月ヨリ今帰仁間切仲尾次村江
住居仕居候處私儀爾来同村ニ轉籍
住居仕度奉存候条何卒是迄之通士族籍ニテ
被差免被下度別紙財産取調書 相副此段
奉願候也
今帰仁間切仲尾次村住居士族
明治十三年辰六月六日出ル 國 吉 真 益 印
記
建家二間角萓薺二棟
牛一疋
豚一疋
野羊三疋
右財産取調書如斯御座候也
明治十三年辰六月六日出ル
はじめに
1.山原の五つのグスクの頂点―今帰仁グスク―
2.山北王の怕尼芝(ハニジ)は羽地按司あるいはハニアジ?
3.古琉球の間切から近世の行政区分へ
4.山北王時代の支配形態
①印や衣冠から
②硫黄の交易の経路は?
③山原のグスクの陶磁器類の物流経路は?
5.『明実録』」にみる山北王とその時代
6.根強く残る山北王以前の歴史(中北山)
7.派遣された山北監守と今帰仁阿応理屋恵(按司)
8.山北監守(今帰仁按司)(第二尚氏系統)
9.今帰仁阿応理屋恵按司―継承と住居地―
10.今帰仁阿応理屋恵按司の廃止と復活
11.今帰仁阿応理屋恵按司と今帰仁グスクでの祭祀
12.阿応理屋恵按司の伝世品
むすび