沖縄の地域調査研究
                             
寡黙庵:(管理人:仲原)
                             今帰仁村歴史文化センター(新今帰仁村史)

                        
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2019年7月

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仲宗根政善先生寄贈資料展(2013年) 資料目録1 資料目録2

2019年7月31日(水)

 
今日は、これから島袋源一郎(明治29年(尋常小学校卒業)(明治34年高等科卒業)の昭和7年創立五十周年記念誌に「北山王国の回顧」が掲載されている。他に兼次忠蔵、與那嶺蒲助、平良新助(講演)、島袋源七、大城善次郎、與那嶺静福、宮城真治、仲松弥秀など、後に大きな業績(研究)を残した先学者達が一文を寄せている。その原稿興しをする事に。


2019年7月29日(月)

 今月最後の週。数点のテーマを抱え、締め切りが過ぎているものから片付けるか。ヒヨドりの三羽の雛も巣だったし。


2019年7月27日(土)

 「墓の葬墓制」についての質問あり。これまで関わった墓から、葬る側が死者にどう向きあって葬っているのか。時代によって、地域によって、死者と関わり方で家族や個人個人によっても対応の仕方(思い)は様々である。事例をあげて伝えることに。「山原の葬墓制」(2015.10.31)(シンポジウムレジメ)と他地域の事例を使って説明。その準備。

 「津屋口」(アカン墓)から、北山監守和賢の葬る場所、ライ病?の葬り方、墓の修復、移設など17世期の葬墓制の一端を伺う事が出来そうである(ただし、上流士族:下の某家の墓と同様)。2019年7月22日(今月)参照。

【某家の墓調査】(一部紹介)(士族)

・琉球石灰岩製岩製厨子甕(奥の段左)。屋根は入母屋造で軒部分に垂木
  が模してある。
 ・二世向恭安と室真鶴金の2人がはいている。
 ・恭安は嘉靖32年~萬暦11年9月27日没(81歳)(1553~1612.9.27) 
 ・室は真鶴金君辻按司加那志伊江王子朝義の長女号桂丘。
   嘉靖40年生~崇貞3年7月2日没(1561~1630.7.2)(61歳)
 ※二世向恭安は父尚龍越来王子朝福から万暦24年(1596.10.2)に
   越来間切惣地頭職を継ぐ。 
 ※副葬品があり、銅製の丸銅鏡二枚(中国製?直径8.1㎝)、ハサミ(種子鋏)、
  和鋏、銅製のキセル、毛抜き?、木製の櫛片がはいていた。


【今帰仁村のN家の墓調査】

【某ノロ家の墓調査】

【ムラ墓から個人墓(某家)へ移行から】



2019年7月26日(金)    

 これまで「北山の歴史」がどのように素描してあるかを先学者の論文を並べてみる。(作業中)
 夕方帰宅してみると、雛が巣立っていた。無事巣立ったようだ。


      ▲巣立った後の巣                 ▲役目をはたしもと植木に

【名護湾岸のムラ許田・幸喜・喜瀬】

 名護湾岸の村々の川沿いに関心が向いている。川沿いの湿地帯は仕明地として開拓されていたのではないか。近世の地割から外れた土地として、同村の人民でなくても開拓ができた土地があった。許田・幸喜・喜瀬の直接の史料ではないが、以下のような仕明請地帳(二例)がある(『名護六百年史』所収)。

 一枚目は、名護間切数久田村の平良親雲上が、隣村の許田村にある「ふしにや原」の竿はずれ地を仕明請地とする。もう一例は同じく数久田村の平良親雲上が宮里村の「すみや原」の竿はずれ(迚?)を仕明請地とする内容である。数久田村の平良親雲上は許田村と宮里村に仕明請地を持っていたことがわかる。村超えをして仕明できたということである。
白金一帯に今でも土地をもっている)


 ここで許田・幸喜・喜瀬の川沿いをあげたのは屋部や宇茂佐あたりのウェーキが、屋部川沿いにも持っていたが、名護湾を舟で横切って許田あたりに仕明地を持っていたことを聞いている(史料確認必要)。

 地割対象外の土地(仕明地など)を他の村に持つことができた。それは川沿いや内海沿いなどの湿地帯に多くみられる。羽地大川沿いなどは、村移動までして開拓させているところもある。


         (表紙)
  
  高 九 升 仕 明 請 地 状
          名護間切数久田村
                  平良親雲上

         (文面)
      
名護間切 許田村
          ふしにや原竿はずれより成る
              仕明人  うし津波
      一、下田 壱畝拾五歩  九升   
    右遂披露候之処為仕明請地永々被下之旨被仰出候定納者百姓地並尤絵図仕付
    置候御模可相守者也
      道光拾五年乙未十二月

        高 所 首里
            之印
       国頭里之子親雲上
                       喜舎場里之子親雲上
                       池原里之子親雲上
                       高嶺里之子親雲上
              名護間切数久田村
                       平良親雲上 

         (表紙)
  
   首里
      之印 
 高四升 仕 明 請 地 帳
               名護間切 数久田村
                         平良親雲上

         (文面)
      
名護間切 宮里村
          すみや原野竿迚より成る
              仕明人  多戸 宮城
      一、下田 拾五歩  四升   
    右御手形被下置候処癸卯十一月白蟻は跡方無之由仰出候付帳面引合相成由
    仕明請地永々被下之旨被仰出候定納者百姓地尤絵図仕付置候御模可相守者也
       道光二十三年癸卯十二月
        高 所           東風平親雲上
                       大宜見親雲上
                       池原親雲上
                       高嶺親方
              名護間切数久田村
                       平良親雲上 


2019年7月25日(木)

 2008年12月11日に「与論島と北山(琉球)http--yannaki.jp-yoron1.htmのタイトルで与論で講演行っている。「北山の歴史と文化」に入れることに。講演のデジメがあるので見直してみることに。

【三山鼎立時代】(北山は今帰仁?・怕尼芝・珉・攀安知)

 ・1383年に山北王怕尼芝が明国に入貢始まる。
 ・15世紀初頭 山北王怕尼芝の二男(王舅)が与論島に渡り与論の世の主となった(伝承)。
   (与論城を築いたという)
 ・1416年山北王攀安知が中山の尚巴志の連合軍に滅ぼされる。
 ・サービ・マトゥイ(北山系?)(伝承の人物)
 ・大道那太(ウフドゥナタ)(北山系?)(伝承の人物)

【三山統一後】(北山は監守時代)

 ・成化2年(1466
   尚徳王鬼界島を征伐して帰り、呉姓一世宗重を泊地頭となし、其の妻を泊大阿母となす。
         (「呉姓家譜」 一世宗重)
 ・1512年尚真王の次男尚朝栄(大里王子)、花城真三郎が与論世之主(又吉按司)として
  与論島へ来てグスクを築いたという伝承(その墓あり)。
 ・1537年奄美大島を征伐する。(四代尚清)
 ・隆慶2年(1568)戊辰正月、自奥渡上の理(サバクリ)に任ず。
   毛姓五世盛埋が奥渡上(薩南五島:喜界・奄美大島・徳之島・沖永良部・与論)の五島の政治を司る
      役人に任命される。
1571年 奄美大島を討伐する。(五代尚元)
 ・万暦24年(1596)丙申 大島湾の首里大屋子を勤める。
   万暦三十年(1602)壬寅 大島より帰り、後西原間切我謝地頭職に任ず。
      (「藺(リン)姓家譜」一世篤當)(首里王府発給の辞令書があった可能性あり)
 ・1609年薩摩の琉球侵攻
 ・万暦39年(1611)に奄美大島・徳之島・喜界島・沖永良部島・与論島が薩摩に割譲される。
 与論島では確認されていないが、奄美には古琉球の辞令書が30近くある。これまで確認されている奄美関係の辞令書の古いのは嘉靖8年(1529)の「笠利間切の宇宿大屋子職補任辞令書」である。
 第二尚氏王統の1500年代から奄美へ首里王府から辞令書が発給されている。その時代の奄美の島々と琉球国との関係は、北山(監守:今帰仁按司:今帰仁グスク居)ではなく、首里王府直轄である。首里王府直轄であるが、与論島の全て一族が琉球から移り住んだというものではなかろう。
 与論島にノロに関わる辞令書は未確認である。他の島に見られる役人の辞令書も発給されてよさそうなものである。そのような辞令書の発給は首里王府と島々と直接統治されている関係にあったことが知れる。三山統一後の与論島は北山ではなく琉球国(首里王府)の直接支配である。もちろん、首里王府の役人の派遣、引き揚げた人物もいたが、そのまま島に残ったのもいたであろう。

 与論島にもノロ制度があったことを伺わしめる旧家の系図やオモロでも謳われている。辞令書を賜るノロは公儀ノロであり、首里王府が任命するのであるから王府の意向を伝達する役目も担っている。

 与論島に首里王府から発給された古辞令書の辞令書が確認されていない。奄美島や喜界島で確認されているので与論島の役人やノロに発給されたであろう。もし与論島の役人やノロに発給された古琉球の辞令書が発見されたなら、与論島と琉球国との関わりが具体的に見えて面白いのだが。

http--yannaki.jp-yoron1.htm(全文参照)

 ヒヨドリのヒナは眼が開いている。ガラス窓こしにパチリ。気づかずに屋根にしている枝を切り取ってしまう。急遽雨よけのビニールの屋根の設置(梅雨真っ最中)。親鳥はビニールハウス、気にせずエサを運んでいる。巣立ちは間もなくか。


2019年7月24日(水)

 
『球陽』と「今帰仁地方旧慣地割ニ関スル問答書」(明治17年)に目を通す。「問答書」の一項に「「問 人民明地ヲ開墾シタル手続如何」とあり、その手続の雛形が示されている。先日兼次の字誌で隣接する諸喜田村(現在の字諸志)の仕明地について説明したばかりである。雛形に沿った手続きになっているか、合わせてみるか。「元文検地の印部石(ハル石)と小字」(「沖縄の印部石」(沖縄地域史協議会 地域史叢書
」でも触れたことがあるが、仕明地帳に出てくる原名と印部石の原あるいは原域は、現在の原へのハル名やハル域の変遷に関わる資料を提供してくれる。(村史の資料編で紹介予定)現在存在しない印部石の二基は本ぺージ7月14日で紹介。『球陽』からの記事からの紹介は改めて。原稿興しもヒヨドリの雛の巣立ちと競争です。

元文検地の印部石は村の原域の変遷や集落移動、村の新設など、原の変遷をしる手がかりを遺している。
     
 ▲湧川の前田原にあった印部石の拓本  ▲「□ しきま原」の印部石          ▲今朝のヒナの様子

 「元文検地が遺したもの(印部石)


2019年7月23日(火)

 出勤前、自宅のヒヨドドリ巣を覗いて。三羽のヒナは羽がはえ、巣からはみだしそう。早朝からエサを運んでいる。親鳥は離れたところで鳴いている(カラス対策か)。小鳥に見とれている。遅刻しそう。

 


2019年7月22日(月)

 墳墓記(津屋口墓)に葬られている北山監守(今帰仁按司三世和賢)(1557~1591年)は今帰仁間切惣地頭職にあった人物である。北山の歴史を描くのに重要な人物の一人である。「墳墓記」から「惣地頭今帰仁按司の居住地」はどこだったのか、墓が「敗壊」しているため「修築」したとある。「康煕戊午中秋十七巳酉封築始」(工事中)

http--www.yannaki.jp-2019nen1.html過去記事参照

津屋口墓

 親泊馬場の東端より海岸へ通ずる右方を津屋口という。屏風の如き隆起珊瑚岩の下に饅頭形を鎖されたる古墳あり。摩滅せる墓碑を通して窺うに是向氏具志川氏(元の今帰仁御殿)の祖先にして北山監守韶威の嫡孫宗真公を葬れるが如し。宗真は其の号にして唐名を和賢といい嘉靖三十六年に生まれ万暦十九年三十五歳にて病死せし人なり。

 今向氏七世百四五十年間の一族は運天なる大北墓に合葬せらる。然るに三世宗真公は何の故を以て津屋口に葬られしか是頗る疑問とする所なり。

 土地の口碑によれば此の癩を病みしに依り津屋口に別殿を営みて之に居らしめ後遂に便葬せりという。該墳墓には別に門口なく且古来章魚及び豚肉等を供えざるの習慣あり、之によりて見れば伝説亦事実ならんか、大正六年編者具志川家を訪ねいて此事を質す。未亡人語って曰く、是れ慶長年間薩摩入りに際し退隠して遂に別殿に入りし人なりと、然るに墓碑には万暦辛卯易簀(死亡)とあり、辛卯は同十九年にして我天正十九年(一五八七年)に当たり慶長十四年より十八年前の事に属す。以て其事実にあらざるを知るべきなり。 

津屋墓碑(墳墓記)

 夫〇吾統人之志吾述人之事有也誠哉此言也〇典松公入奉
尚真帝王之敷命以康煕丙午移居干首里涘〇述兼得忠考而全故也保祿位顕名干京師偉哉盛哉此〇〇  売〇祖之心志而述昌祖之墓〇石也哉是以乙日謂命日我高祖今帰仁按司宗真石
先王尚真帝王第四之三子宗仁公之嫡孫也〇〇自出於此矣今乃其墓将敗壊故以為修築之以将堅久之元
 計〇其夏也深故其言出而無
 食育方而無〇丁康煕戌午仲秋十七乙酉〇築始〇尌之何所以為記誠一則恐人不知誤也一則恐或〇而 難尋故封之高救尺也古人亦至干如此矣伏〇疾
 宗真公〇鎮守列〇便役以時数〇有節是故孫子無〇而振振〇〇其証如此明則〇猶予之有遂致仕而遠 〇地於大屋泊以営殿間近築墓於津屋
  口以将便葬也干時万暦辛卯易簀不緯遺命而葬於此今也〇百余載是故為風雨所敗壊〇乎辛寅日功  〇成而増旧制
 塚頭酒〇孝心解志報本之心不可勝〇也〇〇日君子楽楽其所自生礼恐其本〇〇〇退請〇其事干石以 知来〇〇此墓不毀壊曰為
大清康煕十七戌午仲秋二十二日立 友弟謹誌〇
                  『沖縄県国頭郡志』(島袋源一郎著)(大正八年)より

津屋口墓(アカン墓)(新聞記事) 

壊された開かん墓(沖縄タイムス:19641229

 三百年前から入口が閉ざされたままという秘密のベールにおおわれた今帰仁村字親泊にある「開かん墓」が最近、なにものによってこわされた。この墓は文化財としても研究の対象にされており、文保委では28日新城徳祐主事を現地に派遣して調査をした。

 墓がこわされたのは二か月ほど前のことだが、さいきん子孫の具志川朝雄氏(具志川御殿)が調べてわかったもの。墓は親泊部落の東側海岸にあり石積みでつくられているが、正面のシックイでぬり固めた石がこわされ、あと石をハメこんであった。近くの人たちの話だと、二か月くらい前、夜中にハンマーで石をたたく音が聞えてきたという。

 墓庭に建てられた碑によると、この墓に葬られているのは向姓具志川氏の先祖で三代目の北山監守宗真公となっている。宗真は1557年に生まれ1592年、35歳で病死した。北山監守というのは中山の尚巴志が北山を滅ぼしてあと、再び変が起こるのを封じるために、1422年から二男の尚忠を今帰仁城に駐留させたのがはじまり、ところで北山監守の一統向氏七世百、四、五十年の一族は、すべて今帰仁村運天の大北墓に合葬されていて、なぜ宗真公ひとりがここに葬られることになったのか、理由はよく知られていない。宗真は「らい」を病んだため別葬され、それで墓の口もないのだといわれている。

 新城主事はこの機会に墓の内部を調査しようとしたが、内側からも二重に石垣が積まれており、それをはずすと墓全体が崩れる恐れがあるので、外側の石積みを修復するにとどめた。やはり「秘密のベール」はとりのぞくことができなかった。

現在墓の前に香炉が一基置かれていて「奉納 大正元年壬子九月 本部村宗甫? 仲宗根門中 嘉数吉五郎 建立」と刻まれている。

 

 新城主事は「北山監守の墓なのでおそらく中に宝物があると思ってやったのだろう。しかし、これまで調べた各地の有名な古墓にも身の回り品しかはいていなかった。開かん墓もそれと同じだと思う」と苦笑していた。 
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▲碑の拓本 ▲三世和賢が葬られた津口墓と「墳墓記」(1678年建立)


あかなかった古墳(琉球新報:19641230

 北山城三代目監守・尚真公をまつってある今帰仁村親泊区在俗称アカン墓(口ナシ墓・ツエグチ墓ともいう)を何者かが墓の入り口をこじあけようとした形跡があり、修復にあたった子孫の具志川家(首里)の人たちが28日午後、文化財保護委の新城徳祐主事の立ち合いで内部調査をしようとしたが、墓口があけることができず取りやめた。
 区民の話では九月ごろ、ツルハシをふるって墓をあばいている音を聞いた区民がおおく、昔から人々の間に「宝物が埋蔵されているのでこの墓はあけてはならない」と伝えられる昔話を信じた何者かが、宝欲しさにこじあけようとしたのではないかと新城主事はみている。

 この墓口は内部とそと側からの石での二重積みで、開くことができないようにつくられており、この日も無理にこじあければ墓全体が陥没するおそれがあると中止した。

 この墓は、北山城三代目監守・尚真公が約三百年前(ハンセン氏病)をわずらって死んだので俗称ツエグチ原(親泊区在)に別殿を設けて葬ったため、子孫は開くのを禁じられてアカン墓(開かない墓)と人々にいい伝えられているとの説が強い。中には不義などの行為で先祖の墓にいっしょにははいれなかったとの説もあるが歴史的考証がないという。歴代北山監守は皆運天区にある大北(ウフニシ)墓に葬ってあるが、この三代目だけが別葬されている。

 この日アカン墓をあけるといううわさでかけつけた人たちが墓の周囲に黒山をつくり、三百年来のナゾがとけるのではないかと見守っていたが、墓口が開かないと知って複雑な表情で帰った。 



2019年7月21日(

 梅雨明けで庭の伸びきった枝を切り落としたらヒヨドリの巣が。素っ裸のかえったばかり。雨がかからないようにビニールの屋根。二羽の親鳥が鳴きながら餌を運んでいるので大丈夫かな。


  ▲孵ったばかりの雛(ヒヨドリ)         ▲雨よけの屋根をつけることに

2019年7月20日(土)

 読谷村で「講演」があったので、途中山田の「護佐丸父祖の墓」に立ち寄る。護佐丸は山北王ハンアンヂが滅んだ後、しばらく山北監守を勤めたという。10年前のメモを見直してみるか。(非常に興味深い内容でした。感謝!)

【護佐丸祖先墓碑】
(2009年3月18日)メモ

 恩納村山田に「護佐丸祖先墓碑」(毛氏墳墓)がある。碑の後方の崖上は山田城跡である。恩納村山田は1673年以前は読谷山間切の村の一つであり、読谷山村と呼ばれていた。『琉球国由来記』(1713年)には「読谷山村」と出てくる。『絵図郷村帳』や『琉球国高究帳』には「読谷山間切古読谷山村」と出てくる。読谷山間切の同村とみて差し支えない。まだ解答を持っている訳ではないが、1673年以前の読谷山間切の番所はどこだったのだろうか。山田城から座喜味城に移っているようなので、間切が創設された頃の読谷山間切の番所は座喜味にあったのか、それとも古くから,喜名村に番所があったのだろうか。(各地の番所をみてくると、どうも番所の設置は1600年代の中頃か)

 『琉球国由来記』(1713年)の「年中祭祀」を見ると、首里に住む按司と総地頭は座喜味村にある「読谷山城内之殿」(座喜味城)の祭祀と関わっている。それからすると、読谷山間切の番所は座喜味村にあった可能性が高い。そこから時期は不明だが喜名村に番所は移動したとみた方がよさそうである。

 恩納間切(後の村)が創設される以前は、読谷山村(古読谷山村、後の山田村)は中山に属した間切である。そのことが後の恩納間切が創設されると読谷山間切に属していた村が恩納間切に組み替えられた後、どんな影響を及ぼしているのだろうか。

 その山田城跡の崖中腹にある「護佐丸祖先墓碑」から、どんなことが読み取れるのだろうか。興味深いことがいくつも見えてくる。

   
 ・乾隆五年(1714年)に造り替えられたということ。
   ・中城按司護佐丸は山田の城主であった。
   ・読谷山の城(山田城)を築き住居していたので、そこの洞窟に墓所を定めた。
   ・墓は洞窟につくり屋形に作り一族を葬った。
   ・幾年もたっているので石造りで築いてあるが悉く破壊。
   ・蒼苔で口が閉ざされている。
   ・康煕五十三年(1714)に墓門の修復と石厨殿に造り替え。遺骨を奉納
   ・毎年彼岸のとき供え物をささげて祭る。
   ・乾隆五年(1740)に碑文の文字が不祥になったので建て替える。

 【碑文表】
  
 往昔吾祖中城按司護佐丸盛春は元山田の城主に居給ふ其後読谷山の城築構ひ
   居住あるによりて此の洞に墓所を定め内は屋形作にて一族葬せ給ふ然処に
   幾年の春秋を送りしかは築石造材悉破壊に及び青苔のみ墓の口を閉せり
   爰におゐて康煕五十三年墓門修履石厨殿に造替し遺骨を奉納せつさて
   永代子々孫々にも忘す祀の絶さらんことを思ひ毎歳秋の彼岸に供物をさヽけ
   まつる例となりぬ仍之石碑建之也
  大清乾隆五年庚申十月吉日          裔孫豊見城嶺親雲上盛幸記之


 【碑文裏】
   
此碑文康煕五十三年雖為建置
   年来久敷文字不詳依之此節
   建替仕也
      書調人毛氏山内親方盛方
      彫調人毛氏又吉里之子盛庸



 
  ▲山田城下にある「護佐丸父祖の墓」               ▲墓の碑(表) 

2019年7月19日(金)

 「今帰仁村史」の編集に追われている。資料編の原稿の紙だしをボツボツ。

北山の滅亡と千代金丸

2019年7月18日(木)

 「ノロ制度」についての取材があり、ノロ関係を引き出してみた。

ノロ制度と歴史(2012年:一部参照)
http--yannaki.jp-gusukunonewpage1.html今帰仁グスクでの海神祭(平成20年)

2019年7月17日(水)

 「兼次の字誌」の編集会議(5回)。兼次校の変遷。尋常小学校、尋常高等小学校、移転、学区の組み替え、統合など複雑な変遷。明治20年代からの卒業者名簿からムラの動きを見ていく。移民の様子。字の役員など。他者には理解しがたいムラの姿が見え興味深く聴くことができた。








      ▲「呼寄せ」でアルゼンチンに移民れた方々(一部)




2019年7月15日(月)

 ちょっと、頭は沖永部島へ。沖永部島での講演原稿(レジメ):2016年11月5日) より



 「北山の歴史」で「中北山の時代」を描くのに四苦八苦されている。「正史」では巴志以前時代について史料の少なさもあるが、天孫氏王統、舜天王統、英祖王統、察度王統、尚思紹王統とし、歴史を描いてある。北山はその王統から外れてくるので「正史」の枠からはずれ「野史」として扱われてきた。三山鼎立(北山・中山・南山)時代の北山は怕尼芝・珉・攀安知の時代以前は「野史」を手がかりにするしか、今のところなさそうである。
野史や伝承でみた北山の歴史は、
    ・前北山時代(先北山、または大昔北山ともいう)
    ・中北山時代(中昔北山、または昔今帰仁ともいう)
    ・後北山時代(後今帰仁ともいう)(北山三王時代ともいう)
    ・監守(第一・第二監守)時代ともいう。

 さて、中北山時代を「野史」ではどう描かれているのか。まずはその土俵に立ってみることに。

      (仲北山の攻防略)

 沖永良部島との関係は以下のように述べている。以下のことが根強く伝承されている。

 「仲北山は二、三代の後その臣本部大主(大腹とは違う人物)の謀反にあって一旦落城離散し、子孫が隠忍していてやっと城地を取り返したが(
北山由来記には、この若按司を丘春としてある)悪運未だに尽きず、一、二代の後再び一族は怕尼芝のために打ち滅ぼされしまった。(シナ音でニジと発音するというから、あるいは羽地按司であったのではあるまいか)怕尼芝は弘和三年(1383年)より初めて明国へ入貢し、与論・沖永良部の諸島まで制服し北山王国の基礎を固めた人である。(沖永良部島には今帰仁王の次男真松千代王子の城址あり、内城には子孫がいて、世之主御由緒という記録を保存している)とある。」(補遺伝説沖縄歴史島袋源一郎著)

 沖永良部島の方が、研究が先行しています。


「世乃主由緒」

沖永良部島先主、世之主かなし幼名真松千代(まちじょ)王子
  右御由緒私先祖より申伝之趣左上之通り。
一、琉球国の儀、往古者中山南山北山と三山為被成御在城由、北山王の儀は今帰仁城主にて
   琉球国の中より国頭九ヶ間切その外、伊江島、伊平屋島、与論島、沖永良部島、徳之島、大
  島、喜界島まで御領分にて御座候由、北山の御二男右真松千代王子の儀は沖永良部為御
  領分被下御度海の上玉城村金の塔(ふばどう)え御館を構え被成候由、左候処、大城村
  内の百と申すもの御召列毎々魚猟に古里村の下、与和海え御差越海上より右川内の百当分
  の古城地を指し、彼地の儀は大城村の地面にて御座候につき、世乃主かなしの御居城為御
  築可被遊段申し上候段申し上候処忝被思召旨の御返答にて、即ち其比後蘭村居宅を構へ
  罷居候後蘭孫八と申すものへ城被仰付三年目に城致成就夫より御居城と相成候


一、世乃主かなし恩奥方の儀は、中山王の姫にて御名前真照間兼之前と申唱候由


一、本琉球の儀三山御威勢を争ひ度々合戦為之有然処北山今帰仁城之儀は中山(北山か)之
   大将本部太原と申すものより被攻亡され南山落城終には中山一統に相成為由、右に就て
   世の主かなし事頼むなき小島にて鬱々として被成御座候折柄中山より和睦の使船数艘渡
   海有之候由、末実否御聞届も不被成此方事北山之二男にて候得ば中山より軍船に相違無
   之候、左候へば小島を以て大国へ難敵と直と奥方を始め御嫡子其の外無残御差違へ御自
   害の由。

一、右騒動の砌、男子三歳若主一人、女子五歳之者一人乳母之真升兼(ますかね)と申すもの右御
  両子列上、西原村あがれ百所に逃越候折西原村の下へ徳之島船着船いたし居り候を頼入徳之島
  へ罷渡り己後中山領島相成島中無異相治り候に付島役共より王子迎として渡海いたし候に付き、御
  帰島被成候得共幼少両子にて本城の住居難被成、古城より北に相当り小高き処へ御館を構へ御直
  り被候に付き今に直城(なおしぐすく)と申唱申し候。

一、右王子の子孫成長の上中山王御取立にて、代々大屋役仰付相勤来り候由、依之当分私迄も
   島中 のもの共大屋子孫と唱申候。尤大屋役何代相勤申候哉不詳。
   右女子の儀王女之故妻嫁に可仕以合無之、古城之下え結庵之屋敷干今男子禁戒

一、黄(喜)美留菜津久美と申候宝刀之申伝
   世の主時代、黄(喜)美留村へ扇子丈と申もの罷居しが引差越候処刀一腰つり上げ、宝刀の訳は
   不相分ものにて魚を切候得はまな板迄切込、夫より秘蔵いたし置き候処、其子右刀を以て怪
   我仕り夫故相果申候につき立腹し余りに古場野と申野原の真石を切り申候処夜々海中にて光

   をあらはし候を城より御見届、使者を以て御取寄せ秘蔵相成候由。

一、其此世之主へ奉公仕居申候島尻村住居国吉里主と申者之為勝負馬二匹致所持候につき世乃
  主より 御所望被成候に付一疋は進上可仕と申上候ところ二疋共にと無理に所望被為成候処国吉
  里主より申上候は私事此馬の助を以て遠方より御城へ毎毎勤仕候儀御座候間一疋は御免し被下
  度段上候得共御聞入為之、御取揚相成候に付、国吉恨みを含み中山へ逃渡り、私主人には黄美
  留菜津久美と申候宝刀、名馬等相備へ中山大主へ謀判の企仕申候上候処、中山より使者差越、
  永良部世之主王には宝刀御所持之田御聞へ候間御見せ可被給段仰下候処、世之主御返答には、
  私事海外の小島に罷居宝刀の扶助にて島中部世之には宝刀御所持之由御聞候間御見せ可被給
  段被下候処、世之主御返答には、私事海外の小島に罷居宝刀の扶助にて島中相治罷居申事に
  て候得者、差上申儀相叶不申段被申断候由、然処中山之家臣共之内智有人陰々当局へ罷後奥
  方へ手入窃取帰国為仕由右仕合以後相知れ殊に北山王も落城宝剣も被盗取傍々付気鬱被成
  居候折柄中山より数艘船海に付き、軍艦と御心得御自害の由申伝御座候。


 沖永良部は永良部である。口永良部島と区別するために「沖」をつけたという。沖永良部と表記するのは、明治になってなのかもしれない。沖永良部の「沖」はどこから見ての沖なのか重要である。もし、古琉球の時代に沖永良部島と呼ばれていたのであれば、琉球側からみて与論島の後方にある島としての読み取れる。同じ永良部島が屋久島の北西の位置にある。永良部島が二つあり、区別するために「口」と「沖」をつけたという。時代的には新しく、薩摩からみた呼称である。

} 古琉球(1609年以前)の『おもろさうし』で、
   一 ゑらぶ、やむまたけ、
     おさんする、かみがみ
     あんまぶて、
     此と、わたしよわれ、
   叉 はなれ、やむまたけ          (13-196)
   一 ゑらぶ、まこはつが、
     たまのきやく、たかべて
     ひといちよは、
     すかまうちに、はりやせ、
   叉 はなれ、まこはつ、
     たまの             (13-115)
 「ゑらぶ」とあり、永良部は古琉球以前からの呼称である。また『海東諸国紀』の「琉球国之図」(1471年)には、沖永良部島のことを「恵武嶋」とあり、その頃から「えらぶ」である。また『正保国絵図』(1644年頃)では「永良部嶋」である。沖がくようになったのは、その後である。宮古の伊良部島も「永良部嶋」とあり、同な語義かと思われる。その沖永良部の語義は「えらぶ」である。その「えらぶ」が何かということになる。魚のエラブ(イラブ:ブタイ)チャーに因んだ地名だろうか。島の形が似ている、あるいはエラブがよく獲れる島であるとか。

     (工事中)



2019年7月14日(

 「印部石(ハル石)は私の沖縄研究に入った頃の調査であった。当時、今帰仁村でパル石やハル石と呼ばれていた。今でもその呼称は頭の中ではこだわっている。「パル石」や「ハル石」の呼び方にこだわっているのは、調査でパル石やハル石と呼んでいる方々の顔が思い浮かぶからである。パル石と呼ぶ方はシマ人だな、ハル石と発音される方は寄留の方だとわかる頃であった。

 2009年(平成21)「地域史叢書 沖縄の印部石」で「元文検地の印部石(ハル石)と小字」の報告後、二基の印部石(ケ しゆや原、□ しきま原)・・・・・・・・

2011年1月26日(水)memo

 「印部石」が寄贈される。今帰仁村湧川の前田原にあった印部石(原石)である。前田原には前田拝所があり、湧川の祭祀に旧暦二月の最後の亥の日に行う前田折目(前田御願)がある。前田にあるイビムイ(湧川のウタキ:タキサンともいう)の麓に三穂田(ミフダ:神田)がある。そこで稲の生育や豊作のウガンがあある。神人が神田に入り稲苗の初植えの祭祀が行われる。田植えの合図であるという。20年前田港さん(故人)から付近に「原石がある」と聞かされていた。前田原一帯は土地改良でなされた。そのこともあって土地改良中に何度か足を運んだが確認することができなかった。今回提供された印部石(原石)はあった場所からすると、間違いなさそうである。

 「ケ しゆや原」である。塩屋原のことであろう。現在の小字(原)に「しゆや原」はない。前田原に「スガー」「シユガー」(塩川)があり、元文検地の頃、現在の前田原に「しゆや原」の原域があったと見られる。「しゆや原」は塩屋に因んだ原名と言えそうである。今帰仁間の元文検地は1743年頃だと見られる。印部石がたてられたのは、湧川村が新設されて間もない頃である。(湧川村が創設される以前、湧川村地内に振慶名・我部・松田・桃原などの村があった。それらの村を移動させて湧川村を新設)。湧川村に印部石を設置したのは村移動や村の新設と関係あるのだろうか?(湧川村の創設は1738年)

 「□ しきま原」の印部石は志慶真村が今帰仁グスクの後方から今帰仁村の親田原、さらに親泊村のスク原へ移転する。その印部石が見つかったのはスク原である。そこは志慶真村が二転した場所である。元文検地の頃、志慶真村がその地にあったのかもしれない。

 元文検地の印部石は村の原域の変遷や集落移動、村の新設など、地域を歴史をしる手がかりを遺している。
 
  
         ▲湧川の前田原にあった印部と拓本                 ▲「□ しきま原」の印部石


 「元文検地が遺したもの(印部石)


2019年7月12日(金)

 古琉球の辞令書から「まきり」や「ムラ」や「はら(原)」を見て行こうとするものである。


2011年2月19日(土)メモ  

 本部町具志堅と関わる古琉球の辞令書が二枚ある。「くしけん」は上間殿内が所蔵していた「古琉球の辞令書」(今帰仁間切東の掟宛辞令書:嘉靖42、1563年)(宮城真治資料所収)と中城ノロ家の「今帰仁間切浦崎の目差宛辞令書:万暦14、1586年)(『御案内』所収)の二枚に登場する。以前、触れたことがあるが、再度触れておきたい。古琉球の時代の村(ムラ)の概念と村の範囲について、近世の行政村とは大分異なっているようである。そのことを、もう少し丁寧に見て行くことに。その前提となる辞令書がどの程度正確に読み取っているか不安である。
 
【今帰仁間切東の掟宛辞令書:嘉靖42、1563年】(具志堅上間家)
    しよりの御ミ事
      ミやきせんのまきりの
      くしけんのせさかち
      この内にひやうすくミかないのくち御ゆるしめされ
      五おつかかないのところ
      二かりやたに十三まし
      たけのみきはる又まへたはるともニ
    又二百三十ぬきちはたけ七おほそ(二百三十ぬきち)
      とみちやはる 又きのけなはる 又あらはなはる
    又たこせなはる 又あふうちはる 又ふなさとはる
    又まふはるともニ
      この分(ふん)のミかない
      四かためおけの なつほこりミかない
    又くひき みしやもち
    又四かためおけの せちミかない
    又一かためおけの なつわかミかない
    又一かためおけ 又なかう正月ミかない
    又一くひき みしやもち
    又五かためおけの きみかみのおやミかない
    又一くひみしやもち
    又一かためおけの けふりミかない共
      このふんのみかないは
      上申□□□
        ふみそい申候ち
        もとは中おしちの内より
     一ミやうすくたに 二まし
       まえたはる一
       このふんのおやみかない
     又十五ぬきちはたけ 一おほそ
       あまみせはる一
       このふんのおやみかない
       又のろさとぬし
       おきてかないともニ
       御ゆるしめされ候
    一人あかるいのおきてに給候
    しよりよりあかるいのおきての方へまいる
     嘉靖四十二年七月十七日

 【今帰仁間切浦崎の目差宛辞令書:万暦14、1586年】(中城ノロ家)
   しよりの御ミ事
     ミやきせんまきりの(このふんのミかない 上申あるべし ふみそい申しちもとは)
     よなみねのうちま人ち
     中くすくのおきてのちの内より
     人ひようすくたに二まし
     やせたはる又かなわらはるともに(ニ)
     又もとはくしけんのはらちのうちより 
   一十五ぬきちはたけ三おほそ
     えつかたはる 又しけやはる 又大たはる共に(ニ)
       この子人(ふん)のおみ(ミ)みかない
     又のろさとぬしおきてかないいともに(ニ)
     御ゆるしめされ候
     一人うらさきのめめさしにたまわり申(候)
    しよりよりうらさきのめさしの方へまゐる
   万暦十四年五月九日

 最初の辞令書に「くしけん」と「まふ」とあり、後の具志堅村と真部村へつながる地名とみてよさそうである。真部村の成立は近世中以降であるが、具志堅村の存在は少なくとも1500年代にはあったとみてよさそうである。但、後の間切が仮名の「まきり」であり、村の表現はまだ登場してこない。後の「浦崎の目差宛辞令書」にも「元は具志堅の原地(畑地)より」とあり、後の具志堅村の存在を伺わせる。

 近世になると『絵図郷村帳』に今帰仁間切「具志堅村」、『琉球国高究帳』に今帰仁間切「具志賢村」と登場する。1713年の『琉球国由来記』以降では今帰仁間切「具志堅村」である。1666年に今帰仁間切は本部間切とに分割されるので、それ以降の具志堅村は明治41年まで本部間切具志堅村である。明治41年に本部間切は本部村、具志堅村は字具志堅となる。昭和15年に本部町字具志堅となり現在に至る。


2019年7月11日(木)

「遠見番所」

2005.10.01(土)メモ
 
 古宇利島の標高107mのところにある「遠見番所」周辺が今年度整備される。整備のため周辺見通しがきくようになっているというので、古宇利区長の案内で訪ねてみた。現在のうるま市(与那城上原)にある「川田崎針崎丑寅間」(下の画像:沖縄県歴史の道調査報告書)と彫られた石碑が報告されている。古宇利島の遠見所付近で、同様な石碑が見つかるのではないかと期待しているのだが(石に文字が彫られた石があったとか。整備の時、気をつけて見たが確認できず)。

 『沖縄旧慣地方制度』(明治26年)の今帰仁間切に地頭代以下の間切役人が記されている。その中に6名の「遠見番」がいる。任期は無期、俸給は米三斗、金五円七十六銭とある。一人当たり米0.5斗、金九十六銭づつである。今帰仁間切に6名の遠見番を配置している。(国頭間切の遠見番の人員(24名いたはずが)抜けている)。(明治15年頃から必要なくなる。廃止)

 北大嶺原(本部町具志堅)のピータティファーイは本部間切の管轄のようだ。本部間切の遠見番は12名である。具志堅の他に瀬底島にも遠見番があるので12名は二ヶ所の人員であろう。

 宮城真治は古宇利島の「火立て屋」について「古宇利の人より番人は六人、功によって筑登之より親雲上の位まで授けられる。終身職で頭(地割?)を免ぜられる」と記してある。

 『元禄国絵図』(1702年?)の古宇利島に「異国船遠見番所」と記載されている。遠見番所の設置は1644年に遡る。烽火をあげて首里王府への通報網である。沖縄本島では御冠船や帰唐船の場合、一隻時は一炬、二隻時は二炬、その他の異国船の場合は三炬が焚かれたという。先島は沖縄本島とは異なるようだ。

2019年7月1日(メモ

 鎌倉芳太郎資料(所収)に「今帰仁間切公事帳」(ノ条、丙午二月 奥書)ある。(書籍名は確認してから)。公事帳の一部?だと見られる。これには山原の西側と東側ルートの請と立を兼ることも記されている。

 一 伊平屋島より立火国頭間切戸村火番所請次候尤郡村も請次双方兼而相済候
 一 辺戸村立火国頭間切伊地村火立火番所請次候
 一 伊地村立火今帰仁間切郡村火番所請次候尤本部今帰仁境大嶺請次双方兼而相済候
 一 郡村立火本部今帰仁間切境大嶺火番所請次候
 一 大嶺立伊江島火番所請次候
 一 伊江島立火本部間切瀬底村火番所請次候尤読谷山間切も請次双方兼双方兼相済候
 一 瀬底村立火読谷山間切火番所請次候
 一 読谷山間切立弁之嶽火番所請次候
    〇右西方立火之次第

 一 国頭間切安波村とひし之辻立火同間切安田村いほ嶽火番所請次候
 一 安田村いほ嶽立火久志間切川田村宜名之崎火番所江請次候天仁屋村へも請次双方兼而相済候
 一 宜名之崎立火久志間切天仁屋村火番所請次候 
 一 天仁屋村立火与那城間切上原村火番所請次候
 一 上原村立火与那城御嶽火番請次候
    〇右東方立火之次第 


2019年7月10日(水)

2007年4月17日(火)、18日メモ
 今帰仁阿応理屋恵について整理することに。今帰仁阿応理屋恵按司は今帰仁グスクの祭祀(監守が今帰仁グスクに住んでいた頃)と切り離すことのできないものである。今帰仁阿応理屋恵が廃止され、今帰仁ノロが肩代わりしている。『琉球国由来記』(1713年)が編纂された頃は、今帰仁阿応理屋恵が廃止されていた時期である。そのため、『琉球国由来記』では、今帰仁ノロの祭祀場とされる。(今帰仁阿応理屋恵について、資料を整理してみる.。

①今帰仁阿応理屋恵
 今帰仁阿応理屋恵の継承、廃止、復活について、まだ整理がつかないが、今帰仁阿応理屋恵の祭祀の痕跡ではないかと見られるのがある。それはクボウノ嶽(クボウヌウタキ)での祈りである。『琉球国由来記』(1713年)でクバウノ嶽は今帰仁巫崇所となっているが「首里天加那志美御前・・・」と始まっている。それは村(ムラ)レベルの祭祀ではなく国(クニ)レベルの祭祀としてみるべきだと考えている。(首里天加那志は国王のこと)

 首里天加那志・・・とはじまる祈りの場所は、首里王府と関わる国レベルの祭祀とみている。今帰仁で国レベルの祭祀を掌ることのできたのは今帰仁阿応理屋恵である。このように見るとクボウのウタキでの祭祀は、今帰仁阿応理屋恵の祭祀だったのが、首里への引き上げ(1665年)や廃止(1731年)によって今帰仁ノロが肩代わりし、今帰仁阿応理屋恵が復活(1768年)するが、もとに戻すことができず、そのまま今帰仁ノロの祭祀として引き継がれてきたのではないか(一緒に行っていた部分もあるが)。

  首里天加那志美御前、百御ガホウノ御為、御子御スデモノヽ御為、又島国之、作物ノ為、唐・大和・宮古・
   八重山、島々浦浦ノ、船〃往還、百ガホウノアルヤニ、御守メシヨワレ、デテ


 『琉球国由来記』(1713年)で「首里天加那志美御前・・・」と唱えられるのは以下の場所である。
 ①真和志間切  識名村の拝所
 ②知念間切    知念村(知念城内友利之嶽:同村)
 ③本部間切    伊野波村(伊野波巫火神:同村)
 ④今帰仁間切  今帰仁村(コバウノ嶽:同村)
 ⑤国頭間切    辺戸村(宜野久瀬嶽・大川)
 ⑥伊江島
 ⑦伊平屋島
 ⑧粟国島
 ⑨渡名喜島
 ⑩慶良間島
 ⑪渡嘉敷島
 ⑫久米島
  (宮古・八重山?)


【今帰仁阿応理屋恵が果たした役割

 今帰仁阿応理屋恵は三十三君の一人である。三十三君の一人であった今帰仁阿応理屋恵がどのような役割を果たしていたのか。そのことは北山監守を務めた今帰仁按司の役割を知ることでもある。1665年今帰仁間切(今帰仁グスク・今帰仁村)から首里に引き揚げた監守一族である。今帰仁按司一族が今帰仁間切に居住していた頃、『具志川家家譜』に阿応理屋恵按司として登場する。

 弘治年間、一世尚韶威の頃、毎年元旦や十五日、冬至、大朝のとき首里に赴いていた。また山北(山原)節々神の出現があると尚韶威以来重要な儀式として家族で行っていた。王都から唄勢頭を三、四人遣わし、この礼式に阿応理屋恵按司、世寄君按司、宇志掛按司、呉我阿武加那志などの女官を遣わせた。崇禎年間(1628~1643年)に兵警に逢って礼を廃止する。但し、阿応理屋恵按司の職は今(?年)に至って尚存続し毎節の礼を行う。

・【具志川家家譜】
 ・弘治年間の阿応理屋恵按司
  ・五世克祉の次男縄武、中宗根親雲上の女阿応理屋恵按司を娶る。
  ・六世縄祖の次男従宣、孟氏伊野波(本部間切伊野波村居住)女阿応理屋恵按司を娶る。

【大北墓のアオリヤエ】
  ・アヲリヤイアンシシタル金
  ・アヲリヤイアンシカナシ
  ・アヲリヤイ按司
   (『具志川家家譜』の三名の阿応理屋恵と同一か?)

『女官御双紙』(1706~13年)
一、今帰仁あふりやい代合の時、言上は御自分より御済めしょわちへ、御拝日撰は三日前に今帰仁あふり
  やいより御様子有之候得者、首里大あむしられより大勢頭部御取次にて、みおみのけ申、御拝の日は首
  里大あむしられ為御案内、赤田御門よりよしろて、按司下庫理に控居、大勢頭部御取次にてみおみのけ
  申、今帰仁ふりやいよりみはな一ツ御玉貫一対、作事あむしられ御取次にておしあげ申、按司御座敷御
  呼めしょわれば、よしろて美待拝申、天かなし美御前おすゑんみきょちゃにおがまれめしょわれば、御持
  参の御玉貫、真壁按司かなしよりおしあげしょわる。相飾済、みはい御仮乞、大勢頭御取次にてみおみの
  けて帰るなり。
一、同時御印判はせど親雲上より、みはいの日早朝、首里殿内へ持来らる。首里大あむしられより今帰仁あ
  ふりやいへ上申。

 ・今帰仁あふ里やゑあんじ 向氏南風按司朝旬女(孟氏今帰仁親方宗珉室)
 ・今帰仁あふ里やゑあんじ 孟氏今帰仁親方宗珉女(向氏本部按司朝当室)
 ・今帰仁あふりやゑあんじ 孟氏中宗根親雲上宗良(崎山按司朝恭室)
 ・今帰仁あふりやゑあんじ 向氏崎山按司朝恭女(今帰仁間切親泊村伊野波筑登之親雲上室)
 ・今帰仁あふりやゑあんじ 本部間切居住伊野波爾也女(向氏与那嶺按司朝隣室)

  康煕四十年辛巳二月十九日今のあふりやゑあんじ言上有之 同年八月朔日志よ里の大あむしられ
  取次日撰言上同三日御拝するようにと御返詞拝同三日御朱印志よりの大あむしられより掟のあむを
  以頂戴同四日巳時前に首里の大あむしられ列て御城上りすゑんみきふちゃにて
 首里天嘉那志御前へみはい御酒奉進上次に美御酌御賜次に於御同職真壁按司かなし御酒献上次に
  御菓子御茶給り昇
  按司御座敷へ記召首里の大あむしられ相伴ふて御料理御菓子御茶給焉 御服給て退城

附進上物左記之
  天嘉那志美御前へ御花一御玉貫一對同御茶之子一籠飯
  真壁按司加那志錫一對同御茶之子一籠飯 御城参昇之時とも備
 あむしられ一人 あかた八人 與のすりる主部二人興かき二人御花御籠飯持一人
   ・金劔一箇 玉珈玻羅一連  玉草履一足
    前々より有き
   ・地所高二十弐石二斗七升二合六勺八夕内
          田方 六石ニ斗一升三合三勺四才
          畠方 十六石五升九合三勺四才
    (工事中)


・『琉球宗教史の研究』鳥越憲三郎)

 「阿応理屋恵按司は国王の姉妹或は王族の出身である関係から、女神官職就任に際しては国王の拝謁が許された。これは
 大アムシラレも同様である。一般下級ノロに対しては国王の拝謁はない。阿応理屋恵按司は王城に参上し、国王に対して就任
 の御挨拶を言上すると、国王からは御酒を賜わり、辞令書は王府の宗教事務官が首里殿内に持参し、首里大アムシラレの手
 から授かることになっていた。」

『球 陽』

・始めて今帰仁郡の女官阿応理屋恵職を裁つ。(1731年)(廃止)
 今帰仁郡内に阿応理屋恵按司職を設置す。歴年久遠にして、従って稽詳する無し。然り而して、尚韶威(今帰仁按司朝典)
 次男向介明(南風原按司朝句)の女に、阿応理屋恵按司職を授け、伝えて向介昭(今帰仁按司)の女宇志掛按司に至ること
 共計五員なり。今其の事職を按ずるに、五穀祭祀の日、但民の為に之れを祈祷する事のみ。而して他郡の祭祀は、只祝女有
 りて、以て其の祈を為す。是れに由りて、議して其の職を栽つ。

・六月朔日、復、今帰仁按司の職を継ぐを准す。(1768年)(復活)
 今帰仁阿応理屋恵按司は、雍正九年(1731年)辛亥に卒す。其の職は只一郡の礼式を掌り、公辺の務無きに因り、故に、三十三
 君内撤去の例に照らし、其の職を継頂するを准さず。然れども、殿は、撤去の君君に於て近代に伝へ、猶立て廃せず、料ふに必ず
 以て撤去し難し。故に今帰仁郡親泊村兼次親雲上の女蒲戸を択び、按司職を継ぐを准し、年俸二石(雑穀一石・米一石)・悴者二
 人・地所高十九石七斗七升四合二才を賜ふ。

 『球陽』の二つの記事から、今帰仁阿応理屋恵の設置は、古くからあり詳しいことはわからないが、尚韶威の次男向介明の娘に阿応理屋恵職を授けている。その職は五穀豊穣を民のために祈るのみ。間切の祭祀はノロがいて祈りをする。

・今帰仁尾阿応理屋恵の遺品(『沖縄県国頭郡志』(大正8年)
 ・冠玉たれ一通
  ・冠玉の緒一連
  ・玉の胸当一連
  ・玉の御草履一組
  ・玉かはら一連
  ・玉かわら一大形
  ・二十二小形
  ・水晶の玉百十六

・今帰仁尾阿応理屋恵の遺品『鎌倉芳太郎ノート』
  ・曲玉一連(大曲玉一ケ・小曲玉二一ケ・水晶玉三一ケ・水晶玉八〇ケ)
  ・玉がはら(かはら一大形・同二二小形・水晶之玉百十六個)
  ・玉御草履
  ・冠玉たれ一連、同玉之緒一連
  ・胸当一連

②今帰仁阿応理屋恵御殿(オーレーウドゥン)

 オーレーウドゥンは今帰仁グスクの前面にあったのが、今泊の集落内に移動している。故地にも祠がある。集落内のオーレーウドゥンの祠にガーナー位牌があり、その一つは北山監守(今帰
仁按司)を勤めた六世縄祖のものである。六世縄祖がオーレーウドゥンに祀られていることは、北山監守と今帰仁阿応理屋恵が密接に関わっていることを示している。今帰仁按司が果たした監守の役割もあるが、印判(辞令書)の発給があったことをみると、今帰仁阿応理屋恵をはじめ、三十三君の神女の身分保障と祭祀(祈り)に対する経済的な保障とみるべきであろう。

 近世の初期に今帰仁グスク近くにあったオーレウドゥンが麓の集落内に移動している。集落内のオーレーウドゥン跡地にコンクリートの祠があり、その内部にガーナー位牌が二基ある。一基は無銘だが、もう一基は今帰仁監守(今帰仁按司)六世(順治十年:1658年没)の縄祖(1601~1658年)のものとみられる。六世は運天の大北墓に葬られている。今泊集落内にあるオーレーウドゥン跡地の祠に位牌があるのは、そのころのオーレー(阿応理屋恵)の屋敷もそこだったでのであろう。屋敷跡地の境界は、よくわからないが屋敷の北側に掘り込みの井戸がありウルンガー(御殿井戸)と呼んでいる。

 今帰仁阿応理屋恵は17世紀中頃に今帰仁に戻ってくるが、復活したときの継承者が以前とは異なり地元出身者となり、継承は複雑となっている。そこで旧オーレーウゥン、集落内へ移動したオーレーウドゥン跡、その中のガーナー位牌、そして大北墓の人物との関係を整理する必要があり。

今帰仁阿応理屋恵の祭祀の痕跡

 今帰仁阿応理屋恵の祭祀の痕跡が伺える文章が『具志川家家譜』にある。

 山北に節節に神の出現がある。その禮は最も重要なので、尚韶威監守以来、家族を引率して禮を行う。王都から唄勢頭を三、四人を遣わせ、彼土唄勢頭と一緒に礼式を行う。その時、阿応理屋恵按司、世持君按司、宇志掛按司、呉我阿武加那志などの女官が禮式を掌る。崇禎年間(1628~1643年)に兵警に逢い、この禮は廃止する。但し、阿応理屋恵按司の職は今尚(康煕己丑:1709年、あるいは雍正8年:1730年のことか)存続し節ごとに禮を行う。

   「山北、節節有神出現、其禮最重故、尚韶威監守以来世、率家族以行此禮、又王都遣唄勢頭三四人與、
   彼土唄勢頭倶行禮式、此時有阿応理屋恵按司、世寄君按司、寄君按司、宇志掛按司、呉我阿武加那志
   等女官掌此禮式、崇貞年間逢兵警後、此禮倶廃、但阿応理屋恵按司之職至今尚存毎節行禮」

 ここで登場する今帰仁阿応理屋恵、世寄君按司、寄君按司、宇志掛按司は、三十三君の一人である。

 ここでの「神の出現」とは、『琉球国由来記』(1713年)の今帰仁間切「コバウノ嶽」(今帰仁村)の「君真物出現」のことか。この頃には監守や今帰仁阿応理屋恵は首里に住んでいるので、今帰仁ノロの崇所となっている。そこでの祈りは「首里天加那志美御前・・・」と唱えられる。今帰仁阿応理屋恵や監守一族が今帰仁グスク、あるいは麓の集落内(オーレーウドゥン)に住んでいたときは、クボウヌ嶽は今帰仁阿応理屋恵の祭祀であったのであろう。「君真物出現」は国頭間切辺戸村の「アフリ嶽」につながるものである。

  謝名村ニ、アフリノハナト、云所アリ。昔、君真物出現之時、此所ニ、黄冷傘立時ハ、コバウノ嶽ニ、赤冷
  傘立、又コバウノ嶽ニ、黄冷傘立時、ハ、此所ニ、赤冷傘立ト、申伝也。


 今帰仁グスクや付近の拝所で今帰仁阿応理屋恵の祭祀場と見られるのは、今帰仁里主所火神があるが今帰仁ノロとトモノカネノロの祭祀となっている。今帰仁グスクの麓に移動している阿応理屋恵按司火神は、今帰仁阿応理屋恵ノロの祭祀である。祭祀によっては今帰仁阿応理屋恵と一緒に今帰仁ノロや居神、惣地頭、按司、志慶真村・今帰仁・親泊の村、三村の百姓、間切役人(オエカ人)などが参加している。

 今帰仁阿応理屋恵と監守一族が1665年首里に引き揚げたので、今帰仁での阿応理屋恵の祭祀は今帰仁ノロや村の神人たちによって受け継がれているようである。『球陽』の1769年の条を見ると、三十三君の例にならって今帰仁阿応理屋恵も廃止になったはずであるが、殿は代々伝えられ撤去することはできなかった。それで今帰仁間切親泊村の兼次親雲上の娘蒲戸に阿応理屋恵按司職を継がしている。

・六月朔日、復、今帰仁按司の職を継ぐを准す。(『球陽』:1769年)
 今帰仁阿応理屋恵按司は、雍正九年(1731年)辛亥に卒す。其の職は只一郡の礼式を掌り、公辺の務無きに因り、故に、三十三君内撤去の例に照らし、其の職を継頂するを准さず。然れども、殿は、撤去の君君に於て近代に伝へ、猶立て廃せず、料ふに必ず以て撤去し難し。故に今帰仁郡親泊村兼次親雲上の女蒲戸を択び、按司職を継ぐを准し、年俸二石(雑穀一石・米一石)・悴者二人・地所高十九石七斗七升四合二才を賜ふ。

 現在クボウヌ御嶽での祭祀は年二回行われている。旧暦の5月15日のフプウガン(タキヌウガン)と9月15日のウタキウガン(タキヌウガン)である。三合目あたりに拝所があり、村の人々はそこまでゆく。そこでのウガン(祈り)をすますと、七合目にある拝所へ神人(ノロ)と区長、書記が同行する。手を合わすときに、三合目で待機している人々に合図をして一緒に祈りをする。三合目の拝所に参加できない方々はサカンケーの方に集まり、クボウヌ御嶽まで行った神人たちと合流してサカンケーでクボウヌ御嶽に向かって祈りをする。今では今帰仁ノロ中心の祭祀である。(天気がいいので一気にクボウヌ御嶽まで。体調全快なり)

今帰仁阿応理屋恵の代合

 今帰仁あふりやい代合之時
 言上は御自分より御済めしよわちへ 御拝日撰は三日前に今帰仁あふりやいより御様子有之候得共
 首里大あむしられより大勢頭部御取次にてみおみのけ申御拝の日首里阿むしられ御案内赤田御門
 よりよしらで按司下庫理扣居大勢頭部御取次にてみおみのけ申今帰仁あふ里やいよりみはな壱〆御玉
 貫一封作事あむしれ御取次にておしあけ申按司御座敷御呼めしよわればよしろちへ美拝申

  (追加あり)

 『琉球神道記』に「託女三十三君ハ皆以テ王家也、妃モソノ一ツナリ。聞得君ヲ長トス、都テ君ト称ス」とあり、山原に神が出現するときに赴いた三十三君の今帰仁阿応理屋恵、世持君按司、宇志掛按司は王家の出てある。三十三君の任命や継承は、首里王府の神観念や史実とは別の歴史観がうかがえる。三十三君や王家、按司地頭や惣地頭が関わる祭祀は国(クニ)レベルの祭祀と位置づけている。それに対して根神や根人を中心としたムラ・シマレベルの祭祀、それとノロ管轄の祭祀と区別しながら見ることにしている。(三つのレベルの祭祀が競合している場合が多いのであるが)。

⑤スムチナ御嶽(今帰仁村玉城)

 今帰仁村玉城にスムチナ御嶽がある。『琉球国由来記』(1713年)で「コモキナ嶽:神名:コシアテモリノ御イベ」とあり、玉城巫崇所である。現在地番は今帰仁村玉城西アザナ原に位置し、スムチナ御嶽のイベ部分は標高約143mある。明治17年頃の『沖縄島諸祭神祝女類別表』を見ると、玉城村に五ヶ所の拝所があり、その一つに「百喜名嶽」とある。

 スムチナ御嶽は旧暦4月15日のタキヌウガンの時、玉城・謝名・平敷・仲宗根の四つの村の神人や人々が集まりウガン(御願)をする。四つの村の祭祀は玉城ノロの管轄である。タキヌウガンの前日、かつてはペーフや区長など何名かの人達が、ウカマ(広場)からイベを囲むように左縄を廻していた。それは近年までやっていたようである。(今年は左縄を廻すかどうか)

 15日三々五々と四カ字の神人と村人たちがスムチナ御嶽の広場(ウカマ)に字毎に集まり、神人が広場の香炉でイベに向かって祈りをする。その後、神人が時計回りでイベに登ってゆく。イベで神人が祈りの合図をするとウカマで待機している人達も手を合わす。イベでの祈りが終わると時計回りにウカマに戻り、そこでウガン(祈り)をする。そこでのウガンが終わると、四カ字の人達は自分の村に戻り、各村の御嶽でのウガンをする。
(玉城・謝名・平敷・仲宗根には、それぞれウタキを持っている。スムチナウタキは個々の村や集落のウタキとは性格を異にしている)

 スムチナウタキのイベに三つの香炉があった(22年前)。二基の香炉に「奉寄進」と「道光二拾年」と「同治九年 大城にや 松本にや」と刻まれていた。現在二基がある(一基不明なり)。


2019年7月9日(火)

 「北山の歴史」と関わる資料や調査記録にあたり拾う作業をしている。今週から本格的に執筆・編集作業に入れるか? 遅れを取り戻さないと。

・羽地村の銅山(金川) ・今帰仁村諸志のフプガー ・『海東諸国紀』(1471年) ・小学生総合学習
・大宜味村 ・国頭村 ・与論島をゆく ・本部間切具志川村の脇地頭を拝受し ・謝名の平田村
http--yannaki.jp-2008nen12.html
(参照)


2019年7月8日(月)

今帰仁村与那嶺の議事録(1949年)


【解 説】(仲原)

  この「與那嶺区文書綴」は194967月(昭和24年)に與那嶺公民館で収受した文書を綴ったもので、歴史文化センター所蔵の戦後の公民館文書としては年代が古い方に属している。綴られている文書は6点と少ないが、表題を追ってみると戦後4年たった当時の状況を垣間見ることができる。収受された文書のタイトルを挙げてみると、

 1.大掃除実施要綱について(発信者:今帰仁村長)
 2.区長会招集の件(発信者:今帰仁村長)
 3.職業調査依頼について(発信者:琉球用度補給庁長)
 4.家屋台帳調整方依頼について(発信者:今帰仁村長)
 5.掛売金請求の件(発信者:今帰仁村農業組合)
 6.北部農林高校移転記念式列席について(発信者:今帰仁村長)
 7.評議員開催について(発信者:兼次校後援会長)
 8.今帰仁村與那嶺区部落役員及び有志常会決議録
 9.復旧資金借入申込書
 10.水稲第一期作面積並びに作柄調査について(発信者:今帰仁村長)
 11.アルゼンチンへの帰還の件(発信者:今帰仁村長)等の文書が綴られている。

 1.の「大掃除実施要綱について」は、米軍の駐在衛生検査官が今帰仁村を巡視した際、家畜の飼育方や便所の衛生について改善するよう注意があったことを受け、今帰仁村長が区長、学校長、理髪組合長、農業組合長にあてて、毎週日曜日に区内の大掃除をするよう通達したもの。軍検査官が地域の衛生について指導検査していたことや、大掃除の実施について区長だけでなく、校長先生や理髪店、農業組合にも呼びかけがなされているのが、興味深い。

 当時の村長は松本吉英氏で、任期は19451950年、任期中の出来事として、各学校開設、農業組合設立、役所の新築、伊江村民一万人余受入、北山高校誘致、通過切換、電話開通などがある。

 2.の「区長会招集の件」は区長のみならず、各売店(共同売店)の主任にも宛てられた文書で、内容は「職業調査依頼の件」である。「職業調査」についての文書は次の3の文書に当たる。

 3.の「職業調査依頼について」が上記の区長会で通達された文書で、琉球用度補給庁からの調査依頼である。戦後の配給の基準となる収入の申告が、〇パーセントまたは低い収入でもって申告されるようになり、配給割当のバランスが崩れてきたのであろう。正確な職業調査をすることで、配給の割当の改善を図ろうという調査である。

 文書の発信者は琉球用度補給庁である。戦後の沖縄の自治機構は19458月に沖縄諮詢会、19464月に沖縄中央政府、同年12月に沖縄民政府、19508月群島政府、そして19524月に琉球政府という変遷をたどった。與那嶺区に収受されている琉球用度補給庁の文書日付が1949年であることから、この庁が沖縄民政府時代の一部局であることが分かる。

 文書中「救済者」「俸給者」「カムパン住込者(カンパン:コンセットなどの基地従業員宿舎)」などの言葉や、調査の立会人に警察官が参加していること、年令はアメリカ式に満で数えるなどの注意事項や、附表に記載されている「露天商、錻刀工、下駄業、女中給仕、樽桶業、荷馬車引・・・・」などの職業名に時代が見て取れる。

 4.は「家屋台帳調整方依頼について」。次年度(1950年度)の工務部(現建設課)の一般住宅工事に掛かる予算を計上に必要な基礎資料を作成するため、村の家屋台帳と各字の台帳とを付き合わせます、という通達。

 5.の「掛売金請求の件」は、與那嶺区が農業組合から掛けで購入した農業資材等の請求書。恐らく各字に請求書が送られたものと思われる。

 6.の「北部農林高校移転記念式列席について」は1949628日に、今の名護農業試験場から現在地に移転した北濃の移転式典参加についての文書である。

当日、村当局から迎えの車を出すが、午前5時半までに最寄りのバス停で待っておくように、という指示である。式典は何時から開催されたのであろうか。かなりの時間的な余裕をもっての参加であろうか。 

 7.の「評議員開催について」は、兼次校後援会から発信されたもので、校舎建築及び復旧についての予算打ち合わせと、後援会の正副会長の改選を行う旨が記された文書である。この頃兼次校(初等学校、中等学校)の校舎は茅葺校舎であった。昭和261951)年に石造校舎が完成するが、校舎建築には生徒地域一丸となって、川原の石や海岸の砂をオーダー(モッコ)やカゴに入れて運んだという。この年学校林が教師の指導の元、生徒たちによって開拓され、稲作、パイン、果樹が作付けされた。

 8.の「今帰仁村與那嶺区部落役員及び有志常会決議録」は、明記されていないが、字のどの地域かの復旧工事に掛かる資金を今帰仁農協組合から借り入れるための、部落常会決議である。出席者は29名。当時の区長は與那嶺蒲吉氏。借入金は二万円である。

 9.の文書は上の決議を受けての借入申込書。当時の農業組合長は幸地新蔵氏(戦前の名護国民学校長、戦後は沖縄諮詢会委員、沖縄議会議員、名護高校今帰仁分校校長を経て、初代今帰仁農業組合長に就任、その後琉球政府立法院議員)である。

 10.は「水稲第一期作面積並びに作柄調査について」。今帰仁村にまだ水田があった頃の調査文書である。二期作のうちの一期作目の刈取りの際の調査で、文書の末尾に「原名・作付面積・作柄(上中下)・氏名・備考」を記入する欄が設けられている。今帰仁にかつて水田があったこと、6月が一期作の収穫時期であることを確認させてくれる文書である。

 11.の「アルゼンチンへの帰還の件」は、恐らく戦前にアルゼンチンからいったん沖縄に引き揚げ、戦後再渡航を希望した方々に宛てた文書と思われる。『與那嶺誌』(平成7年)によると、アルゼンチンには与那嶺出身者が平成7年現在34戸、126名がご活躍という。昭和24年のこの文書に記された方々は、1930年代(昭和10年代)にアルゼンチンに移民された家族と思われ、4名がアルゼンチン帰還を希望している。帰還のための予防接種として「コレラ2回、腸チブス3回、発疹チブス2回、種痘2回」という数の多さに驚かされる。

 以上1949年の6月~7月の文書綴りを見てきたが、わずか11の文書を見るだけで、当時の「衛生」「農業」「学校」「字の動き」「生業」「移民」などについての情報を得ることができる。

 またここに綴られている公文書の半分はガリ版印刷で、あとの半分は直接手書きされたものだが、文体やカタカナの使用、書体などから、文書を作成した職員の年令や人となりが感じられ、パソコン作成の文書にはない味わいがあり、興味を誘う。


與那嶺区文書綴(1949、表紙ナシ)

今衛発第424号 1949613日  今帰仁村長 松本吉英
  各字区長、各学校長、理髪組合長、農業組合長 殿
    
大掃除実施要綱に就て

 標記の件に関しましては廔々通知しておきましたが、軍駐在衛生検査官の当村巡視の結果、左記の点速急に改善する様に注意がありましたので、ご多忙中の事とは存じますが、万障お繰合せの上実施する様、区民に徹底方針取計られ度く御依頼致します。

 1.家畜の規定通り飼育
 2.家畜飼育場は常時清潔を保持すること
 3.便所防蝿設備の徹底、屋根圍蓋の作成
   (6月中に全家庭洩れなく実施特に最命)
 4.ボーフラ発生場所の絶無 
   軍検査官は常時田井等地区衛生課の勤務、各町村を指導検査して居ますので、
   爾今毎週日曜日は大掃除を実施し清潔保持する様、御配慮相煩度。
    (注:「衛生班長金城氏より常会にて、74日」のメモあり)

今発第440
  1949年年623
            今帰仁村長 松本吉英 (公印)
 各区長
 各売店主任殿

      区長会招集の件
 標記の件に関しまして左記に依り開催致しますればお繰合せ御集会下さる様通知致します
 一、日時   625日午后2時 土曜日
 一、場所   村会議室

 協議事項  職業調査依頼ノ件ソノ他

琉補第175号 1949616日 琉球用度補給庁長
     今帰仁村長殿

      職業調査依頼に就いて

 現行配給法の基準たる生産率別人口報告が漸次生産%0%又ハ生産の低い方へと移動する傾向に有、隨って割當配給事務に種々の困難を感ずる様になって参りましたので、別紙案により貴市町村に依頼し、各世帯の職業調査を徹底的に為し、以って割當配給の改善を圖り度いと思ひますので首題の調査方依頼致します。


一、調査方法
 1.初回の調査は非農家より実施する
 2.調査は區長が主体となりて実施する
 3.調査の立會人として次の人を参加せしめる
  (イ)役場の戸籍係 (ロ)警察官
 4. 調査の立會人は夫々必要なる簿冊を携行する
 5.調査用紙に基き其の世帯主に對し、下記の事項を質問的調査を行ふ
  (イ) 世帯員の氏名、年齢、職業、戸主との續柄
  (ロ) 事業家は其の種類
  (ハ) 漁家は使用スル舟と種類と隻数
  (ニ)商店は自家営業、露天商の別

二、注意
 1. 年令はアメリカ式に満を以って算へる
 2.(6)は學生生徒は其の旨記し、(5)に在校名を記すること
 3.(6)の職業欄には事業経営者である業者と其の雇庸者である工員との区別を判別せしむること。

例、味噌醤油製造業と味噌醤油製造工。製靴業と製靴工。  
  右例の如く事業経営者には○○業と、その経営者に雇庸されてゐる者は○○工と名称記入の事。
 4.救済者は備考欄に記入すること
 5.俸給生活者と雖も或種の事業をなす人は(6)の職業欄に併記すること
 6、(6)には抽象的職業名称を使用せず可成具体的職業名称を用ふること(別紙附表参照)
 7.カムパン住込者は該調査に適用しない
 8.  (7)は無職者就業の適否又は身体障害状況を記載すること

 9. 特種団体として割當される団体は本調査に適応しない。即ち農業生産率別換算人口に
   計上される世帯が本調査の対象となる

三.調査後の整理
   調査終了せば整理の上、調査用紙の副を72日限迠に市町村を経て地區倉庫に送附すること
四.調査後の報告終了せば引續き初回の調査要領により生産%一%より35%迠職業別調査
   報告を実施報告する

附 表
 露天商、錻刀工、下駄業、女中給仕、樽桶業、救済者、荷馬車引、軍作業、ミシン修理業、荷馬車修理業、貸本業、行商、帽子編業、竹ザル工業、産婆、芸能者、洗濯屋、代書印刷、線香業、衛護人、アイスケーキ屋・・・(以下省略)

今発第443
   1949623
             今帰仁村長 松本吉英 (公印)

 與那嶺区長殿
 家屋台帳調整方依頼について

 1950年度工務部新予算に依る一般住宅工事の計書立案の資料と致すべく、各町村の住宅出来高報告の必要上、各部落の家屋台帳整理を致したいと思ひますので、左記日割に村の台帳を持って各部落の台帳と照合し度いと思ひますから、区長又は書記は右様御承知下さいます様御願ひ致します。

      記

 日割り 7月1日    (注:「打ち合せ済み」のメモあり)

農発第194号  
  1949623日   今帰仁村農業組合(公印)

 與那嶺区長殿
        掛売金請求の件
 標記の件、本年度六月末日は事業〆切に付、又次年度の事業にも支障を来たしますから、六月末日迄に必ず納入をする様、左記の通り請求致します。
 (注:文書末尾に「硫安」「過石」「亜比酸カルシウム」「馬鈴薯」「硫酸ニコチン」「農用石鹸」等の品名と数量、単価、金額についての欄あり)

今庶発号外 今帰仁村長 松本吉英
   明日28日北農移転記念式ニ列席セラル方ハ當日午前五時半マデニ最寄ノバス停留所
   ニオ集リ下サイ。
   尚当日午前五時頃ヨリ自動車ヲ差廻スコトニナツテ居リマスノデ為念申添ヘマス
   1949627
  各字区長殿

兼次校號外
       1949627
                    兼次校後援会長 吉田正徳
 與那嶺区長 與那嶺区長 與那嶺蒲吉殿
   評議員開催ニ就テ
 標記ノ件左記ノ通リ開催致シ度イト思イマスカラ
 御出席下サイマス様オ願ヒ致シマス。
  一、日時  7月27日午后6時
  一、場所  本校宿直室
 議員、評議員(一名)出席ノコト
 尚、本日ノ会議ハ校舎建築及復旧豫算打合セ、後援会正副会長ノ改選ガアリマスカラ
  必ズ出席御願ヒ致シマス。
  (注:「評議員仲宗根松太郎氏、評議員未定ニ付、金城新政君ヲ」のメモあり)

今帰仁村與那嶺区部落役員及有志常会決議録

 一、 日時 1949627日午後2
 二、場所 與那嶺区事務所
 三、 出席人員27
 四、 提案事項
  、今帰仁農業協同組合ヨリ復旧工事運用資金トシテ金弐万円借入ノ件
 五、決議事項

 1.  区長復旧工事運用資金トシテ今帰仁村農業組合ヨリ借入レ當字復旧工事運用資金ト
   シテ振向ケル事ヲ提案
 2.本資金ニヨリ工事運用資金ニ充ツル事決議ス
      右之通リ決議セル事ニ相違アリマセン
              1949年6月29
        與那嶺区長 與那嶺蒲吉

復旧資金借入申込書
  一、金額     金弐万円也
  ニ、期間     自194975
            至  仝   年1030
  三、使途     復旧工事運用資金トシテ
  四、返済方法  一時拂ニシテ復旧工事助成金受取ニ依ルモノトス及資源
    右之通リ借入申込致シマス

   1945625

          今帰仁村與那嶺区長與那嶺蒲吉

   今帰仁村農業組合長 幸地新蔵殿

今産発第455号 1949630日 今帰仁村長 松本吉英

   與那嶺区長殿

 水稲第一期作面積並ニ作柄調査に就いて
   首題に就いて左記様式に依り調査の上刈取十日迄に報告御願い致します。

今社発号外 19497月7日  今帰仁村長 松本吉英
   與那嶺区長殿
     アルゼンチンへの帰還の件
   貴区在住の左記アルゼンチンへの帰還希望者の帰還手続につき問合せ度い事がある
   やうですから、至急軍政府総務部へ出頭さすやう御取計ひをして下さい。

   追伸 出頭の際に区帰の予防注射済みの証明書持参させて貰い度い(コレラ2回、
       腸チブス3回、発疹チブス2回、種痘2回)一家族から二人以上の希望者があ
       りますときには、代表者に全員の注射済証明書を持参させてよい。 
         (注:「本人へ伝達、既ニ総務部ヘ打チ合セ済」のメモあり)


2019年7月7日(

 梅雨で雨続き。草刈りする機会がなく、晴れ間をぬって草刈り。雨で今回の「ムラ・シマ講座」は出来ず。午後から過去に使った資料の箱詰め(ほとんどコピー)、そして職場へ運び込み。

 
      ▲「寡黙庵」の草刈り          ▲カンナ通りの草刈り(大雨で途中まで)

2019年7月6日(土)

 16世紀後半から17世紀にかけて、歴史と関わる人物や旧家の墓が造替えられたり、移転している。どうも、その時期墓の造替えや移転などのブームがあったのではないか。

2014
年4月26日(土)メモ

 『球陽』の尚貞王21条(1689年)に「始めて獅子形を建てて八重瀬嶽に向け、以って火災を防ぐ」とある。「東風平郡富盛村は、屢々火災に遭い、房屋を焼失して民其の憂いに堪えず。是れに由りて村人、葵応瑞(唐栄の大田親雲上)に請迄して其の風水を見せしむ。応瑞、遍く地理を相し、之れに属して曰く、我、彼の八重瀬嶽を見るに、甚だ火山に係る。早く獅子の形を作り、八重瀬に向ければ、以て其の災いを防ぐべしと。村人皆其の令に従い、獅子石像を整理城に蹲坐せしめ、以て八重瀬に向く。爾よりして後、果して火災の憂を免るるを得たり。」

 ここに登場する葵応瑞(唐栄の大田親雲上)は嘉味田家(越来王子朝福尚龍徳)の五世喜屋武按司(五世向殿柱)のとき東風平間間切富盛村にあった墓の風水を見てもらっている。(墓は廃壊・・・)。康煕27年(1688に墓の絵図を王府に提出、その時、墓の移動までは認められなかったようである。七世向棟(喜屋武按司)のとき(乾隆15年:1750)に東風平間切富盛村から「安里村之東大堂松尾」に移し、そのことを「墓誌」(家譜にも)に記したようである。安里へ墓を移したときの風水見は阮超陛である。

 向氏家譜(嘉味田家)の家譜の申請は「大清康煕31年壬申榴月穀旦殿柱」(五世:1692)である。

中国留学を盛に行なっていた久米村では、先に紹介した周国俊さんだけでなく、当時の 首里王・尚貞の命令により蔡応瑞という人も銀30両を与えられて福州に留学、儒学だけ でなく風水を学びました。 帰国後の1685年、彼は伊是名島の風水を ...

 ・1678年  「 墳墓記 」 に造替え(今帰仁監守三世和賢の墓、1591年に亡)。
  ・1685年 蔡応瑞が王命により伊平屋諸島の風水を見聞する。
 ・1686年 蔡応瑞が護佐丸の墓の風水を見聞する。
 ・1687年 伊是名玉陵が改修される。
 ・1688年 伊是名玉陵が修復される。風水にかなった景観であると判断された。
 ・1688年 喜屋武按司向殿柱が東風平間切富盛に風水にかなった墓地をみつける。
 ・1689年 蔡応瑞が風水判断で東風平富盛に石造獅子を建て、火災を防がせる。
 ・1689年 内間東殿が瓦葺きになる。
 ・蔡応瑞が風水判断で東風平富盛に石造獅子を建て、火災を防がせる。
 ・1740年 護佐丸父祖の墓(山田城)
 ・1751年 地理師阮超陛の風水判断で7世喜屋武按司向棟、5世向殿柱の富盛の墓地を
       安里に移動する。
 ・1761年 運天のウーニシ墓、十世宣謨(今帰仁王子)の時に今帰仁城麓より移転。
 ・1790年   乾隆五十五年庚戌六月六日死去父親(上間家のとき赤墓を創設か)

 ・護佐丸の墓の建立は?
     
▲大北墓の移設を記す碑文(家譜より) 

http--www.yannaki.jp-nyagouuematoakhaka.html(上間家:赤墓参照)


2019年7月5日(金)

 「沖縄縣国頭郡今帰仁村内中期調書」(大正十年)がある。今帰仁村の部分のみ紹介してみる。この調査の後、今帰仁村では越地・呉我山が本字から分離独立する。大字(字)に属していた部落(集落)は一般的に山原ではヤードゥイや寄留と呼ばれる。寄留してきた人たちが集落内に住むことができず、本部落外の土地に土地を求めて住み集落を形成(地割制との関係)。

    
  (工事中)

   大 字    大字ニ属スル
部落ノ名
  戸数 
(戸)
 人口
 (人)
   備 考
 1  今 泊   ●親泊
 東上原 
   359
 91
計450
 1980
 414
1994
   親泊ハ今泊ノ主部

※明治36年に今帰仁と親泊が合併 
 2  兼 次   ●兼次
 上原
    88
  14
計102
 423
 50
計473
   
 3  諸 志   ●諸志
 □□□
   131
 13
計144
     ※明治36年に諸喜田と志慶真が合併
 4  与那嶺   ●与那嶺
 上原
   111
 17
計128

  686
  59
計745

   
 5  仲尾次   ●仲尾次
 前原
         
 6  崎 山   ●崎山
 上原
         
 平敷   ●平敷
 戸茶
 當原
         
 8  謝 名   ▲越地
 中原
 大島原
 上手名原
         中原ハ謝名ノ主部ニ付注記スル

※謝名の越地は字越地へ分離独立
※昭和12年に分離
 9  仲宗根   ●仲宗根
▲越地原
▲トキジン原
         仲宗根の越地原は越地へ(昭和12年に分離だ独立)
※トキジン原は昭和16年分離独立
※仲宗根越地原は字越地へ分離独立
 10    玉 城   寒水
岸本
コンジャ堂
我呉山
   84
 65
 24
 36
計209
     ※明治36年に玉城・岸本・寒水が合併して玉城
※呉我山が大正□年に字となる。
 11   湧 川   シュリ
首里ノヒゲ
兼久
村内

中福
中山
         ※中山は呉我山へ
 12  天 底   ●天底
 コンジャ堂
 ワルミ
         
 13  勢理客   ● 勢理客
 トーバル原
 トキジン原
 中増
 中道
        ※中増ハ勢理客jノ主部トス

※トキジンが分離独立する。
 14  上運天   ●上運天
 和呂目
 親川
 □□□原
         
 15  運 天   ●下運天
  渡久山
    62
  66
計128
     
 16  古宇利   ●古宇利
 上原
   129
 26
計155
 129
 26
計155
   


2019年7月4日(木)

 大宜味村の上原をゆく。上原での植物の方言と生活についての調査が行われた(大宜味村史)。私は別テーマを持っての参加。上原の方々(寄留人・寄留地)の話の端々から上原(ムラ:現在字)の姿を直に体験したくて。その詳細は大宜味村史の民俗編とシマ・ジマ(本編)などの編集に関わってきた。他の地域の「屋取」や「寄留人」の調査の手がかりとなるキーワードを見つけることができる。

 大正10年の「注記調査」をみると、
   根路銘(計179戸、932人)
    根路銘(145戸、人口718人)
    上原  (34戸、人口214人)
 上原の根路銘からの分離独立は大正13年8月15日である。大正10年の「注記調査」の戸数34、人口214人も分離の要因となったと見られる。

  
 ▲上原での調査               ▲上原多目集会施設(公民館)       ▲上原の木炭焼窯

2019年7月3日(水)

「轉籍願」の文書 (2002・5・18メモ)

  歴史文化センターに「轉籍願」の文書がある。それは那覇士族が今帰仁間切仲尾次村へ寄留してきた時の文書である。このような文書資料は非常に少ない。村に転居する場合の手続きがわかり興味深い。光緒五年は明治十二年にあたり廃藩置県の年である。廃藩置県前後に首里那覇などの士族が地方に寄留する場合「転籍願」を提出していた時代である(もちろん例外もあろう)。以下の文書の形式で村内に寄留したことがわかる。

 今帰仁間切(村)で寄留人の多い字(村)は天底(56・6%)・運天(58・3%)・湧川(50・4%)・玉城(45・8%)上運天(30・5%)・勢理客(26・4%などである。今帰仁間切全体の寄留士族の比率の平均は19・9%である。因みに「転籍願」が出された仲尾次村は19・6%なので平均的な村ということになる。
     
       轉 籍 願
     無 禄      父那覇西村士族亡長男國吉眞千二男
     家 族             國  吉  眞  益
                   當年六十幸巳八月十日生

        今帰仁間切平敷村
           平民玉城牛長女  妻  蒲 戸 
                當年五十五丙戌九月二十日生
                        
                長男  國 吉 真 映
                   當年二十五丙辰五月五日生
         久米村士族岸本
          恵廸二女真映  婦  真 鶴
                   
當年二十四丁巳六月十日生

     光緒五年己卯十一月ヨリ今帰仁間切仲尾次村江
     住居仕居候處私儀爾来同村ニ轉籍
     住居仕度奉存候条何卒是迄之通士族籍ニテ
     被差免被下度別紙財産取調書 相副此段
                            奉願候也
                今帰仁間切仲尾次村住居士族
     
明治十三年辰六月六日出ル    國 吉 真 益

        記
    建家二間角萓薺二棟
     牛一疋
     豚一疋
     野羊三疋
   右財産取調書如斯御座候也
   明治十三年辰六月六日出ル 

今帰仁間切仲尾次村住居士族
                     國 吉 眞 益
 印

     (画像略)


2019年7月2日(火)

 「北山の歴史と文化」のテーマで講座(3日)。その準備。多くは画像と資料で説明。

はじめに

1.山原の五つのグスクの頂点―今帰仁グスク―

2.山北王の怕尼芝(ハニジ)は羽地按司あるいはハニアジ?

3.古琉球の間切から近世の行政区分へ

4.山北王時代の支配形態

  ①印や衣冠から

  ②硫黄の交易の経路は?

  ③山原のグスクの陶磁器類の物流経路は?

5.『明実録』」にみる山北王とその時代

6.根強く残る山北王以前の歴史(中北山)

    7.派遣された山北監守と今帰仁阿応理屋恵(按司)

    8.山北監守(今帰仁按司)(第二尚氏系統)

    9.今帰仁阿応理屋恵按司―継承と住居地―

   10.今帰仁阿応理屋恵按司の廃止と復活

   11.今帰仁阿応理屋恵按司と今帰仁グスクでの祭祀

   12.阿応理屋恵按司の伝世品

    むすび







2019年7月1日(

 鎌倉芳太郎資料(所収)に「今帰仁間切公事帳」(ノ条、丙午二月 奥書)ある。(書籍名は確認してから)。公事帳の一部?だと見られる。これには山原の西側と東側ルートの請と立、兼ることも記されている。

 一 伊平屋島より立火国頭間切戸村火番所請次候尤郡村も請次双方兼而相済候
 一 辺戸村立火国頭間切伊地村火立火番所請次候
 一 伊地村立火今帰仁間切郡村火番所請次候尤本部今帰仁境大嶺請次双方兼而相済候
 一 郡村立火本部今帰仁間切境大嶺火番所請次候
 一 大嶺立火伊江島火番所請次候
 一 伊江島立火本部間切瀬底村火番所請次候尤読谷山間切も請次双方兼双方兼相済候
 一 瀬底村立火読谷山間切火番所請次候
 一 読谷山間切立火弁之嶽火番所請次候
    〇右西方立火之次第

 一 国頭間切安波村とひし之辻立火同間切安田村いほ嶽火番所請次候
 一 安田村いほ嶽立火久志間切川田村宜名之崎火番所江請次候天仁屋村へも請次双方兼而相済候
 一 宜名之崎立火久志間切天仁屋村火番所請次候 
 一 天仁屋村立火与那城間切上原村火番所請次候
 一 上原村立火与那城御嶽火番請次候
    〇右東方立火之次第 

  
 ▲久米島ソナミの火立所           ▲伊是名島の火立所