与論踏査(2018年2月)
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    ▲与論城跡の正面付近                ▲城集落の石囲いの屋敷

 22日23日と与論島へ。フェリーが港(供利港)へ着くと宿のバスが向かえに。宿の手続き済むと車をかりて与論の図書館へ。図書館で調べ。今回の与論島踏査の流れ(ストーリー)を決める。『与論町史』から東家、基家、龍家の屋敷跡の確認がしたくて図書館の職員に伺う。城・朝戸・麦屋あたりにあることを教えてもらう。大字の区分もあやふや。図書館にあった『与論主世鑑』(附瀧野氏等系図並系統伝禄)(昭和11年)をみる。三家の最初の部分を詳細にみる必要がありそう。それらの野史から琉球の時代の与論の正史でも組み立ててみる必要がありそう。与論城へ足を運ぶ。「与論を見る視点」として、メモったノートから。与論島は、琉球時代北山の時代、三山統一首里王府時代、薩摩の時代など、それぞれの時代の名残を数多く残している贅沢な博物である。そんなことを考えながらの与論踏査である。、

・琉球の時代
 ・三山時代の北山
 ・三山統一後の時代と与論
 ・城(グスク)と城(グスク)集落、グスクの地名(グスクは高地性集落(50m~)
 ・「おもろさうし」のかゑふた(与論の古称)、親のろ、のろ、島ののろ
 ・ハンタフェーの崖中腹の墓群(風葬)
 ・与論グスク週への集落形態(曲りくねった道筋はグスク時代からのものか?)
     グスク正面付近の低い石積みの屋敷(近年の石囲いの屋敷ではあるが、
     仙台市入来町や知覧の武家屋敷などが設計者の念頭にあったか)
 ・与論のシニグと沖縄本島北部のシニグ
 ・与論に古辞令書が見つかっていない。
 ・明治まで続く針突
 ・地名や言語の共通性

 今回与論城跡の石囲いとピャーパンタの崖中腹に多くある墓に注目してみた。ピャーパンタ(坂端地)呼ばれる崖に墓。本部半島の岩陰の墓に類似している。与論城跡の断崖にある墓地へ散策道が一部伐開され見通しがきき、滑らないように整備しなおしてある。そこに墓をもつ方のふるさと納税で整備。

・薩摩支配下の与論
 ・急速に薩摩化する与論
 ・城の低い石積みの屋敷は、鹿児島の武家屋敷をイメージしたものか。
 ・色濃く残しているもの
   土葬になるが、洗骨して納めた葬った厨子甕の蓋部分は埋めず)
 ・崖中腹の墓も利用される。
 ・十五夜祭り(琉球・与論・大和)

・明治の与論

・アメリカ統治の与論(昭和28年に鹿児島県へ)

・復帰後の与論


  ▲城の屋川(ヤゴー)        ▲与論城築城のころから使われたという地下川 ▲城地区公民館          
 ▲城の集落(低い石積み囲いの屋敷)  ▲与論城跡の崖へ散策道が整備され墓が見通せるように
 

 
 ▲崖中腹の一積みの墓の一つ            ▲岸本墓


  ▲按司根津栄の船蔵跡          ▲按司根津栄神社の鳥居


       ▲与論城主 又吉安司 花城真三部郎の奥津城
  

オモロと与論(ノロ関係は未調査)

 朝戸のユウトクダークラ(徳田家にノロの神衣装と首飾り(勾玉?)が保存されているという)

 おもろを通して与論をみていく。

  うらおそいおやのろが節
一 玉の御〇で加那志
  げらゑ御〇で加那志
  神 衆生、揃で
  誇りよわへ
又 奥武の嶽大主
  なです杜大主
又 かゑふたに 降ろちへ
  厳子達に 取らちへ  


 はつにしやが節
一、かゑふたの親のろ
  とからあすび 崇べて
  うらこしらへ
  袖 垂れて 走りやせ
又 根の島の親のろ
又 のろのろは 崇べて
又 神々は 崇べて
又 北風 乞わば





 「正保国絵図(琉球国(1644~48年)の「与論嶋」の記載文字をみると、「異国船遠見番所」がある。この地図上では鬼界嶋・大嶋・徳之嶋・永良部嶋・与論嶋は琉球国之内とされている。遠見番所の設置は1644年である。与論嶋の異国船遠見番所の設置の北限が与論嶋である。異国船遠見番所が与論嶋のどこにあるのか以前から気にしながら嶋を踏査してきたが、確認できていない。(下の絵図は「琉球国絵図史料集第一集」(沖縄県教育委員会)より)

 下の画像の岩の場所が何使われたのか聞き逃してきた。「一積みの旗立てぃ岩」であり、その隣にある大きな岩である。展望のきく場所である。根津栄と関わる場所なのか、あるはシニグが行うサークラの拠点なのか。近世の「異国船遠見番所」に使われたか。

 「琉球国絵図」の図に鬼界嶋、大嶋、徳之嶋、永良部嶋、与論嶋は「琉球國之内」とある。1611年い与論嶋以北は薩摩に割譲されたのに、琉球國之内とされている。


▲絵図に「異国船遠見番所」がある。


 
        ▲近世に置かれた「異国船遠見番所」跡?(西区)