【仲宗根政善先生のアルバム】
▲仲宗根政善幼少の頃
▲仲宗根政善(東京大学在学中)(学生賞:昭和6年)
(後列:母・カナ・祖母、前列:右より政善・節子・勇助・冴子)
▲東帝大在学中 ▲仲宗根政善(昭和13年) ▲沖縄県立三中教師時代(妻敏代・長男泰昭)
▲沖縄県立三中、教師時代(中央) ▲沖縄県立第一高等学校の教師時代
【2013.03.11】
ひめゆり証言員・職員の研修会が「今帰仁村歴史文化センター」で開催致しました。仲宗根先生tの思い出や先生の人となりについて、参加者からお言葉を頂きました。一人ひとりのお言葉は、改めて収録いたします。
▲「宿道・津口をたどる」の原稿
下は「ひめゆりの塔」のタイトルのある原稿(宮古での講演)
▲姫百合塔参拝記念(今帰仁村諸志内間氏提供) ▲建児之塔参拝紀念(内間氏提供)
岩枕 南の巌の果てまで
かたくもあらん 守り来て
安らかに 散りし龍の児
眠れとぞ祈る 雲まき昇
学びの友は
【2013.03.09】
3月11日(月)、に「仲宗根政善先生寄贈本及び常設展」を目的として「ひめゆり平和祈念資料館」の方々が来館されます。先生の今帰仁村に寄贈ありました蔵書やノートや写真などを囲んで、思い出を語ることを目的としています。
「ひめゆり平和祈念資料館では「仲宗根政善 浄魂を抱いた生涯」として企画展(平成13年度)を開催されています。「ひめゆり学徒の戦後」(平成15年度)の企画展の資料をおかりして、御迎えいたします。
2013年 ひめゆり証言員・職員研修旅行日程表
日 時 2013年3月11日(月)
目的地 今帰仁村歴史文化センター、今帰仁城址
参加者 26人(一部変動あり)
ひめゆり平和祈念資料館 証言員 14人
(大見、富村、本村、津波古、仲里、宮良、上原、島袋、謝花、与那覇、新崎、大城、知念、宮城)
北部在住の同窓生 6人 (山内、北城、運天、大城、古堅、仲宗根、渡具知)
財団評議員 1人(仲程昌徳)
財団職員 5人(普天間、前泊、仲田、長元、金城)
日 程
09:00 パレット久茂地前(県庁側)出発
09:20 首里・バス停「那覇インター前」出発
金武サービスエリアでトイレ休憩
名護で北部在住同窓生と合流
11:00 今帰仁村歴史文化センター到着
「仲宗根政善先生寄贈本及び常設展」見学
11:20 「仲宗根先生の思い出」座談会(於:今帰仁村歴史文化センター講堂)
12:30 昼食(弁当・飲み物)
昼食後 文化センター展示見学・今帰仁城址見学
14:00 今帰仁出発
名護で北部在住同窓生下車
15:00 恩納・道の駅
読谷で1人下車
16:30 首里・バス停「那覇インター前」到着
17:00 パレット久茂地前到着・解散
おつかれさまでした!
【2013.02.02】(資料整理メモ)
仲宗根政善先生のノート類を広げてみました。その中の一冊(1965年8月12日~30日)の波照間島・石垣島調査ノートを筆耕してみました。その一部を紹介します。
【1965年8月12日~8月30日】(仲宗根政善ノート)
1965年8月12日
5時に目をさます。7時前15分に家を出る。母も飛行場まで送って下さった。屋比久、成田両君がもう先に来て待っていた。八時に離陸。天気快晴、海上静かで波たたず。ひょうびょうたる海上を飛んで都に九時につく。池間、狩俣の上をすぎずに直接北から飛行場に着陸。
15分ほどして、飛び立つ。来間島、下地の海岸がことのほか美しかった。うとうとする間に八重山についた。伊舎堂博一兄にであった。内間君が迎えにきてくれ、崎山旅館におちつく。午後から加治工君の案内で儀礼挨拶をすます。支庁で石川さんと出会う。波照間さんは宮古嫁に行ったとのこと。
晩喜舎場永珣翁が訪ねて来られ、例のように元気で話しつづけられる。
1965年8月13日
空は昨日よりも晴れて美しい。成田君と桃原君が小浜、屋比久、仲大底君、武永、内間君が黒島へ立つ。波止場で見送りしていたら伊藤洋一弘前大教授に出会った。旅館で寺本直彦(文部省初等教育局視学官)を待ち、宮良殿内を見学、石垣を見て廻る。
次第に昔のおもかげは失われて、新しいブロック建てが目立つ。島は静だ。夕焼け雲がことに美しい。 昨日は八重山教職員会館の屋上にあがる。新港は立派に完成。5万坪という砂地が出来た。工場官庁等の建物を建てる計画だという。
砂川君が訪ねてくれ、たのしく語る。
1965年8月14日
快晴、さわやかな朝風に吹かれながら、赤い瓦の上で囀る雀の声をきく。体の調子も上々だ。この分なら充分の成果をおさめることが出来よう。
みんなの波照間島を嵐去り
白波高く日はかげり行く
(前に来島した時の歌)
乱れ飛ぶ雲間に西日しらじらと
クバの葉さやぎ嵐吹かむとす
(鳩間島で)
白日に照らされた詩の島歌の島はただ光ばかりがみなぎり赤瓦の屋根が美しいばかりだ。外に詩もなく歌もなく過去の追憶にのみ詩情がある。
1965年8月15日
10時かっきり八島丸のエンジンがかかる。前に波照間へ行った時は波照間へ行く船を待って波止場に数時間も待ったことがある。あれから島の調査にはきちんきちん時間を考えないことにした。10時20分頃突堤を離れた。竹富島の白い浜辺は清らか美しく夏の日にさらされている感じであった。やがて小浜の島が見え、近づくに従っておお嶽が島の中央からもりあがって見えた。西表が右手に浮かぶ。2時10分頃に波照間島に着く。白い砂浜が人の足跡もなく、美しききよらかである。鰹工場はしんかんとして正午の太陽に照りつけられている。沖縄大学の研究調査団、早稲田大学の学生も一緒であった。玉城君が迎えに来てくれた。島は五六前と全然変わっていない。トラックに乗せて貰い、公民館まで沖大の学生と一緒に来た。公民館の前の木陰に休むと八重山本島よりも涼しいきよらかな風が吹く。玉城君があちこちらあっせんして貰って貝敷文夫さん宅におちつく。
夕日が西にかたむく頃、部落の路地うぃ」歩く。何という静かであろうと拝所の杜に夕日がさして、一層静けさのためであろうか。海が一切の雑音を吸い取ってしまうのであろうか。赤土の畑を照らされて夕あけく雲は島をおいつくしてあり。石垣に囲われ福木をもってまわしている。どの家も美しい。むぞうさにつまれたこの石垣がどうしてこうも美しいのだろうか。島の人々が別に美しいことを意識して積んでいるのでもない。冷水で体をふいた後、私はあたりをまるで夢に酔うたようにして歩いた。馬がまるで画面を浮いて歩くようにして野良から帰る。石垣の石と石との間からもまるで静けさが湧いて来るようにさえ感じられる。
1965年8月16日
福木の実の夏日に輝きその木陰がしっとりと朝露に濡れる。からっと晴れた島の影は海風がはらい清めたようにさわやかである。島全体が海の潮風に清められている。
(浦仲浩さんから基礎語彙の調査)
1965年8月17日
石垣繁君から白保方言の動詞の活用をとる。十時頃まで頑張る。台風警報発令。昨日から東風が如何にも気持ちよく吹きつけていた。夏にしてはさわやかすぎる感じがあった。やはり台風前兆であった。
1965年8月18日
昨夜から台風は島に吹きつけた。朝起きると福木もたわみそうな強風が吹
きつけている。
「17.21時台風は石垣島の南方約500k海上にあって中心気圧60米~70米、25mの暴風半径は250~300k、石垣附近にちかづく。まだしばらくつづきます。昨夜○時
猛烈な台風が通過する。東北の風次第に時化て来ます。厳重なけいかいを要す。
18日午前〇時5分猛烈な台風は石垣島を通過する。今日昼頃東の風、後南東の風、
最大風速40米以上厳重なけいかいを要します」
台所で皆が座ってラジオを聞いていた。どうしてどの家も瓦葺きの立派な家で石垣でかこまれているだろうと、不思議でならなかった。しかしこの島では茅葺では持たないのである。どんな犠牲を払っても家屋だけは台風に耐えうる瓦葺きにしておかなければ生きては行けないのである。結構は一切のものを台風が吹き倒して最後に残ったのが、この美しい瓦屋根と石垣なのだ。
外から来た者にとっては、その内部に包まれた苦闘の歴史はうかがいしることは出来ない。昨日まで東海から流れて来た風も外から来た我々にはこよないころよいさわやかな風であったが、実は魔の台風の気味悪いほほえみであったことが、今日になってはっきりした。
部落の東北端にある貝敷さんの家の屋敷東北の隅に幾十年か台風に堪えた福木が今ふきつける台風にゆらいでいる。低くたくましいこの福木を見ていると悲壮な感じさえする。石ころの多い荒れた野を海から吹きつけて来る猛烈な風をこの福木はうけとめて民家をまもっている。
一昨日こちらへついた時は荒涼たる野に夕日が沈んでいた。こんな静寂な島があろうかと、私は御嶽の静けさをじっと身に感じていたのだが、その静かな野を60米近い強風が吹きまくっている。日本最南端のこの島に立ってひょうびょうたる南海から荒れ狂って北上する風を、この福木がうけとめている。ここから南には果てしない太平洋がある。前に来た時もお嶽の古木が枝へし折られるのをじっと戸の間から眺めたことがある。堅牢な家の中にいてじっとしているのはたのしい。
貝敷さんからこの台風の時に方言を教えて貰うと思ったが、台風の吹きすさぶ中をかっぱをかぶって出て行かれた。むしろ多忙を極めて居られるのである。
正午から風雨が猛烈になった。
本島を襲う時は、一日に幾度と台風情報を放送するのに、八重山を襲っている時は、ほんのわずか放送するだけである。心細い島にいると、なるほどこんな情けないことはない。福木の実が吹きちぎられて飛ぶ、福木の枝が生々しく吹き折られて庭をころがっている。
前の瓦の屋根が吹き飛ばされてしまった。堅牢な屋根の戸締りの厳重さ、前部落はほとんど屋根をとられたとのことであり、学校の図書室もふっとばされたらしい。生徒会長で、先生方もいないし、どうしようかと、如何にも心配そうにしている。吹きすさぶ嵐の中にいて私は那覇市内の佐藤首相の日の丸の旗並を想い浮かべ何か腹立たしい気持ちがおこる。生活のきびしさとたたかっている島民は一体どううけとるだろうかと思ったりした。嵐の中からはるかの夜空を想い浮かべ、日の丸の旗を心の中にえがいても、どうしても美しくは思えなかった。
石垣の上に台風にふるえている木々葉ばかりが眼に浮かぶ。放送は沖縄本島に吹きつける時は時に刻々放送するのに八重山の島々に吹きつける時は、ぽつりぽつりしか放送してはくれない。この島に来て台風を一度でも経験したらもっと放送はよくなるであろうとも島人は憤りににた気持ちをもらしていた。
この島にこの苦難に堪えて生きていた人間のあかしを何とか立ててやりたいという気持になり、この島の言葉を一語でも私は拾いあつめておきたい気持になった。学問の根底にそれがなくして、ただ言葉のけいがいを集めるだけでは申訳のないことである。
1965年8月19日
(以下略)
【2012.11.14】
仲宗根政善先生と教え子(ひめゆり)の一人、山内佑子先生と黒島奈江子先生、玉城則子先生方が訪れ、仲宗根先生の御前で思い出話をして下さいました。三方は、私の小学校、中学校の恩師です。戦争の話(ひめゆり学徒)、戦後のこと。仲宗根先生を中心とした話題がつきず。急きょ、座談会。先生も喜んで下さっています。
▲左から山内佑子、玉城則子、黒島奈江子さん(2012.11.14)
1907年(明治40年4月26日)
沖縄県国頭郡今帰仁村字与那嶺にて,父仲宗根蒲二,母カナの長男として生まれる 。生家は農業を営む。母カナは,名護の町を一度見たいというのが夢であったが,終生ついにかなえられなかった。祖父政太郎は,謝花昇(1908年死亡)に私淑していた。謝花は近在まで出張してくる都度,仲宗根家に宿をとった。
1914年~1919年(大正3年~8年)
兼次尋常小学校(大正8年4月1日,高等科併置,校名を兼次尋常高等小学校と改名する)に入学。桃原良明校長(4代),安里萬蔵校長(5代),安冨祖松蔵校長(6代),上里堅蒲校長(7代),当山美津(正堅夫人)等から直接教えを受ける。32歳の若さで赴任してきた上里校長に出会ったことによって,生涯を決定される。伊波普猷「血液及び文化の負債」の民族衛生講演で兼次小を訪れる。
1920年(大正9年)
沖縄県立第一中学校に入学。大宜味朝計,島袋喜厚,上地清嗣等, 国頭郡から7名。中城御殿(現博物館)裏にあった駕籠屋新垣小に最初下宿。
母カナ死亡(享年40歳)。14歳になるまで,一晩中目がさえて一睡もできなかったということは一度もなかったが,虫のしらせか母の亡くなった夜だけは,蚊帳の上をぐるぐる飛んでいるホタルが妙に気になって,とうとう一睡もできなかったという経験をする。
泉崎橋の近くで,初めて伊波普猷の姿に接する。4年から5年にかけて,英語を担当していた胡屋朝賞先生の感化を受ける。
1926年(大正15,昭和元年)
福岡高等学校文科乙類に入学。沖縄から最初の入学者であった。級友から珍しがられ,親切にされる。翌27年には,大宜味朝計が入学。
伊波普猷著『孤島苦の琉球史』と『琉球古今記』を買い求め貧り読む。
安田喜代門教授から『万葉集』の講義を聞き,万葉の中に,日常用いている琉球方言がたくさん出て来るのに興味を覚える。また,考古学の玉泉大梁教授から,日本史の中ではじめて琉球史の概要を聞く。ドイツ語担当白川精一教授の感化を受け,ドイツ語に興味を持つ。
1929年(昭和4年)
東京帝国大学文学部国文学科入学。同年入学者に林和比古,永積安明, 吉田精一,犬養孝,岩佐正,西尾光雄等がいた。
本郷妻恋町に最初下宿。2年の時から国語学演習で,橋本進吉教授に厳しく鍛えられる。同ゼミに先輩の服部四郎,有坂秀世氏等がいた。服部氏が,今帰仁村字与那嶺方言のアクセントを調査し整理して,法則を示してくれたことによって, 郷里の方言に一層興味を持つようになる。金田一京助助教授のアイヌ語の講義,佐々木信綱講師の万葉集の講義を受ける。
伊波普猷先生宅に出入りするようになる。
1931(昭和6年)
第二回南島談話会で,はじめて柳田国男,比嘉春潮,仲原善忠, 金城朝永,宮良当壮に会う。
1932(昭和7年)
東京帝国大学文学部国文学科卒業。世は不況のどん底にあって,町にはルンペンがあふれていた。就職口もなく,朝日新聞に広告を出しても家庭教師の口すら年の暮れまで見つけることができないというような状況であった。
たまたま,県視学の幸地新蔵氏から,郷里の第三中学校に来ないかとの手紙があって,伊波普猷先生に相談。「東京でいくら待っても職はないし,2,3年資料でも集めて来てはどうか」と言われ,帰郷する気になる。
★「語頭母音の無声化」(『南島談話』第5号)。
★「今帰仁方言における語頭母音の無声化」(『旅と伝説』)。
1933年(昭和8年)
名護の沖縄県立第三中学校に教授嘱託として赴任。伊波普猷先生から,蚕蛹の方言を調査してほしい旨の手紙を受け,さっそく生徒126名を対象に,国頭郡の各部落の方言を調査し報告する。方言使用禁止の風潮の中で,方言を調べ研究するのを,生徒たちから不思議に思われる。伊礼正次,サイ夫妻の長女敏代と結婚。
1934年(昭和9年)
★「国頭方言の音韻」(『方言』第4巻第10号)。
1936年(昭和11年)
折口信夫先生を嶋袋全幸氏と共に案内。正月を名護で迎える。北山城趾見学の帰り,与那嶺の実家に立ち寄る。
三中から沖縄女子師範学校・沖縄県立第一高等女学校に転勤を命ぜられる。『姫百合のかおり』(沖縄県女子師範学校・沖縄県立第一高等女学校,30周年記念号)の編集委員を勤める。
★「加行変格『来る』の国頭方言の活用に就いて」(『南島論叢』)。
1937年(昭和12年)
川平朝令校長から「国民精神文化研究所」に研修に行くことをすすめられ,あまり気のりがしなかったが, 東京へ転ずるきっかけをつかむことができるかも知れないとの希望があって,目黒長者丸にあった同研究所へ入所する。
伊波先生を塔の山の御宅に訪ね,入所報告をすると「紀平正美などが,『神ながらの』道を講じているようだが,あんなのを学問だと思っては大間違いだ。研究所に通うより,うちに来て勉強するがよい」と注意を受けて近くに宿を貸りる。先生に励まされ,研究意欲に燃えて,夏の終わりに帰省。
1942年(昭和17年)
女子師範付属国民学校主事に任命される。
1943年(昭和18年)
新制師範沖縄師範学校女子部教授兼予科主事に任命される。
1945年(昭和20年)
沖縄,戦場と化す。
3月24日晩,貴重資料の中から方言ノート2冊をリュックサックにおしこみ,城岳の家を出,そのまま,女生徒を引率して,南風原陸軍病院に向かう。第1外科に配属。
5月25日,米軍,南風原陸軍病院近くまで侵攻,南部へ移動しなければならなくなり,方言ノートを壕の奥の抗木におし込み,壕脱出。島尻摩文仁村波平第1外科壕に入る。
6月18日晩,軍は解散命令を発して,学徒動員を解く。第1外科勤務の生徒は伊原の壕で解散。
6月19日未明伊原道路上で負傷。砲弾の破片はまだ首筋に残る。
6月23日,喜屋武海岸で米軍に包囲され,生徒12名と一緒に捕虜となる。
8月15日,ポツダム宣言受諾。終戦。東恩納にあった教科書編集所で,戦後の小中高校の教科書編集に従事。
1946年(昭和21年)
沖縄文教部(東恩納在,部長・山城篤男)編集課長に任じられる。
金城和信夫妻が中心となり,摩文仁に集まっていた真和志村民によって,「ひめゆりの塔」が建立された。7日に除幕式と第1回の慰霊祭を挙行。戦死した生徒たちを弔った「いはまくらかたくもあらむやすらかにねむれとぞいのるまなびのともは」の歌をささげる(4月)。後に真和志村民によってその歌碑が建てられた。
沖縄師範健児之塔(建立,昭和21年3月)に,「いはまくら」と同日詠んだ「みんなみのいはをのはてまでまもりきてちりしたつのこくもまきのぼる」の歌が後に刻まれる。
山城善光氏帰沖,伊波先生からの手紙と『琉球国由来記』の写本,服部四郎氏から米語辞典が届けられる。
1950年(昭和25年)
一中健児之塔建立。碑に刻む歌を胡屋朝賞校長に懇望され,一中の校歌4番をもとにした「よどみなくふるいはげみしけんじらのわかきちしほぞそらをそめける」 の歌を献納。
1951年(昭和26年)
8月5日戦死した生徒たちの七回忌を機に,★『沖縄の悲劇-姫百合の塔をめぐる人々の手記』を華頂書房から上梓。
アイフェル講習会のため,群島政府の費用で上京。同行した喜屋武真栄氏は,リフェンダーファーに見つかり,強制的に帰沖を命ぜられる。喜久里真秀氏と2人はこっそりのがれて受講。
1952年(昭和27年)
沖縄群島政府廃止のため文教部副部長の職を辞して,琉球大学に転ずる。後,教授兼図書館長に任命される。
1955年(昭和30年)
琉球大学副学長に任命される。
上京,御徒町に伊波冬子氏(普猷夫人)を訪ねる。貴重資料を,琉球大学に伊波文庫として永久に保管して欲しい旨,承って帰省。後,翁長敏朗事務局長が上京。「おもろ覚書」の遺稿を除いて,すべての資料を譲り受け,「伊波文庫」として琉球大学図書館に保管された。
国文科で東京大学の服部四郎教授を招聘,国語学を中心に講義。服部教授招聘を機に,琉大方言クラブが結成される。同クラブから幾多の俊秀が輩出することになる。
1956年(昭和31年)
東京大学総長矢内原忠雄先生が沖縄教職員会の招きで来島,講演会が開催される。島ぐるみの土地闘争に関連して,停退学処分に付された学生6名のうち4名を,国文科専攻の中から出す。
1958年(昭和33年)
副学長を退任。
1959年(昭和34年)
教員の認定講習のため,本土から派遣されてきた教授団の1人,先輩の松田武夫氏を宝来館に訪ね,以来深い親交を結ぶ。
1960年(昭和35年)
東京大学長茅誠司氏が沖縄教職員会の招きで来島,講演会が開催される。
★「沖縄方言の動詞の活用」(『国語学』第41集)。
1961年(昭和36年)
伊波普猷先生ゆかりの地浦添に,墓と顕彰碑を建て,東京築地本願寺に安置されていた御霊を,8月31日の命日にお迎えし,第1回物外忌を催す。
★「琉球方言概説」(『方言学講座』第4巻)。
★「琉球方言と文学」<座談会>(『塔』)
1963年(昭和38年)
ハワイ東西文化センターへ出張(3月~64年7月)。
1964年(昭和39年)
神戸大の永積安明教授を国文科で招聘したところ,米軍から同教授への渡航許可が降りず,学内問題となる。国文科を中心に「渡航拒否反対闘争」が起こる。
アジア財団の学術調査費の援助を受けて,宮古の言語調査を行う。調査,研究の成果を『宮古諸島学術調査研究報告,言語・文学』(琉球大学沖縄文化研究所編)として,1968年4月に刊行。
1968年(昭和43年)
東京大学にて長期研修(4月~69年3月)。
★「3本の指-おもろそうし校本・辞典・総索引-」(『文学』36)。
★『ああひめゆりの学徒』を文研出版から刊行。51年版に「ひめゆりの塔に祀られた戦死者名簿」を付す。
1969年(昭和44年)
★「仲原先生をしのぶ」(『仲原善忠選集』)
★「東西南北」(『IDE』88号)。
1970年(昭和45年)
★「仏桑華の花」(『心のかけ橋』)
1972年(昭和47年)
『全国方言資料』10,11(琉球篇I,II)を担当。
★「安里先生のことども」(『安里源秀教授退官記念論文集』)
1974年(昭和49年)
★『沖縄の悲劇-ひめゆりの塔をめぐる人々の手記』(東邦書房)刊行。 68年版の題名を元に戻す。
1975年(昭和50年)
定年により琉球大学を退職。後任に,ドイツから帰国した上村幸雄氏が就く。
★「与那嶺方言の撥音「ン」と促音「ツ」」(『琉球大学法文学部紀要 国文学・哲学論集』)。
★「思い出」(『伊波普猷全集月報8』
★『今帰仁村史』の言語の項を担当執筆。
1976年(昭和51年)
名誉教授の称号を授与される。
★「おもろの尊敬動詞『おわる』について」(『沖縄学の黎明』)。
★「言語学から見た沖縄-宮古方言の語彙体系を求めて-」(『人類科学』)。
★「宮古および沖縄本島方言の敬語法-『いらっしゃる』を中心として(九学会連合編『沖縄』)。
★「伊波先生の思い出」(『伊波普猷-人と思想』)。
★「伊波先生の思い出」(『養秀』)。
★「おもろ語の「くもこ」について」(『新沖縄文学』)。
1977年(昭和52年)
ひめゆり学徒戦没33回忌をとり行う。
★「さやはの春秋」(『青い海』)。
★「仲原先生をしのぶ」(『仲原善忠全集付録』)
1978年(昭和53年)
上村幸雄教授を中心に「沖縄言語研究センター」を設立。同センター代表に就任。「琉球列島の言語の研究・10年計画」が始まる。
★「いしやらたうくすく」(『青い海』)。
1979年(昭和54年)
沖縄師範女子部と一高女の旧ひめゆり学徒,34年目の卒業式を行う(3月4日)。
★「なかべきよら御城」(『青い海』)。
1980年(昭和55年)
第24回沖縄タイムス文化賞受賞。ライフワーク『今帰仁方言辞典』原稿を角川書店に入稿する。
★『ひめゆりの塔をめぐる人々の手記』を角川書店から刊行。「ひめゆりの塔に祀された戦死者」遺影を付す。
★「宮良先生のお人柄」(『宮良当壮全集』)。
1981年(昭和56年)
★「東恩納先生をいたむ」(『東恩納寛惇全集』付録10)。
★「春潮先生の思い出」(『沖縄文化』)。
1983年(昭和58年)
第1回東恩納寛惇賞受賞。沖縄県文化功労賞受賞。
★『沖縄今帰仁方言辞典』(角川書店)刊行。
★『石に刻む』(沖縄タイムス社)刊行。
1984年(昭和59年)
第74回日本学士院賞・恩賜賞受賞。第12回伊波普猷賞特別賞を受賞。
1987年(昭和62年)
★『琉球方言の研究』(新泉社)刊行。
1988年(昭和63年)
★『蚊帳のホタル』(沖縄タイムス社)刊行。
1989年(平成元年)
沖縄ひめゆり平和記念資料館設立とともに館長に就任
1992年(平成4年)
妻敏代,死去(享年82歳)
1995年(平成7年)
2月14日午前6時35分,肺炎のため死去(享年87歳)
①コーナー
②コーナー ③コーナー
④コーナー ⑤コーナー
⑥コーナー ⑦コーナー
⑧コーナー ⑨コーナー
⑩コーナー
【仲宗根政善先生の屋敷跡】(今帰仁村与那嶺)(2012.9.8)
今帰仁村与那嶺の仲宗根政善先生のお宅跡を尋ねました。床をのせる石や踏み石、赤瓦が石垣に積んでありました。また石壁や石柱があり、かつての佇まいが浮かんできます。先生はそこで過ごした期間は短かったと聞いています。赤瓦屋根の建物があった頃(昭和52年)、先生とご一緒に訪ねたことがあります。仲宗根先生の言語形成期を過ごした地が、そこだったのでしょう。その地が『今帰仁方言辞典』を産みだした地だと言えるかもしれません。
仲宗根先生のファイルの中に一冊「今帰仁の写真」というのがあります。『今帰仁方言辞典』に納まっている写真もあります。
【仲宗根先生のファイルの写真】
―仲宗根先生が産みだした今帰仁方言辞典の地 (与那嶺)
アルバムの中に50枚近い写真がありました。それらの写真は仲宗根先生の方言研究の根底を流れる思想のように思われます。「その人が持っている言葉、その人が亡くなると消えてしまう」という内容の文章がありました。画像の風景はこの土地(風景)を壊し、失ってしまうと地名として遺ったにしろ、その地名(言葉)は消えたに等しい。(モノクロ写真は昭和49年以前か。カラー写真は昭和49年1月)
そのような叫びのよう思いで、土地改良を目の前にしてシャッターを切ったのではなかったか。今回寄贈いただいた本や資料の中に写真アルバム(今帰仁の写真)は、この一冊のみである。私は、これらの写真を手に、与那嶺の地を訪ずねてみたが、上の四枚の風景は残念ながら全く消えていました。下の土地改良中の場所は確認することができます。それ以前の風景や地名は消えて・・・。
【ミーガー】(仲宗根政善原稿より:原稿用紙4枚)
与那嶺にミーガーという水の涸れようになった古井戸がある。テーラ屋ガーやシヂマヌヤガーの出来たのは、私どもの小学校の頃であって、それまでは、部落民の多くはここに水汲み、水あびをした。静まりかえった夏の夜半などにも、時には桶の音が聞こえることがあった。さゝやかな清水が流れて下にはたんぼが出来ていて、青々とした田芋が生いそのかげには鮒が泳いでいた。今では隣二三軒の者が洗濯に行くぐらいで、飲水には使用していない。三十年四十年と側を通っているけれども一度も立寄って中をのぞいたこともなく、ただ心の中でいつも思い浮かべているだけである。
ミーガーはその名称からして新しく出来た井戸にちがいない。フブシマガー(大島川)の近くにあった与那嶺の部落が、アガリンバーリへ、メンバーリへと発展するにつれ、部落民の水の需要をみたすために、あらたに掘られた泉であろう。山にも野にも木の生い茂った時代には水も豊富に流れていたにちがいない。
ミーガーの後方の木立のそばに鍛冶や卯屋があった。瓦で葺いてはあったが、壁もぼろぼろに朽ち、柱ばかりが立って、ふだんは食はず芋の青黒いはっぱが柱の礎を蔽うていた。時たま鍛冶屋が廻ってきて仕事を始めると、このあたりはにわかに活気づき部落中のこわれた鍋や釜鍬鋤類がどっさり持ち運ばれて、朝から晩までトンチンカンとせわしかった。小学校の時には習った村のかじやなどは、この鍛冶屋があったために我々には興味深い教材であった。ふいごのここちよいひびき、炎の中にまったかにどろどろととけている鉄、鍛冶屋が花火を散らして金床(金敷)に金槌を打つ動作は、まるで芝居でも見ているようにたのしかった。私の隣りにカンジャーヤーという屋号の家があった。ハンゼークヤーという屋号がほかにもあった。この二つの屋号は同じ意味でありながら、かなりニューアンスを持ち、ハンジェークヤーは上品に聞こえた。そこのおじさんは毛深く色の黒い逞しい方であったが、もとはカンジャーヤーで仕事をしたらしく、床下にはまだ鍛冶屋道具がわずかばかり残っていた。今泊のクビリにも、兼次にもこういった鍛冶屋があって、一昔前まではどこの部落でも、鍛冶屋は繁昌し、部落の小さい工場であった。戦前仲宗根のサンタキに伊波カンジャーヤーが一軒だけ残っていた。
私は二年前、与論に旅行した。野路を歩いていると、あかあかと夕日が西の海に沈んでいた。ふと島影が浮かんでいるのに気がついた。畑につくばっている老婆に「あれは何という島ですか」と尋ねると、伊平屋島だという。郷里今帰仁から、いつも見馴れた島だが、反対の方から眺めるとまるで形もちがって見える。島をふりかえりふりかえり茶花の部落へと歩いていると途中に日はとっぷり暮れてしまった。部落への入口にさしかかった頃、みちばたのみすぼらしい小屋のかべの隙間からあかあかと燃えさかる炎が見えた。立ち寄って見ると、一昔前今帰仁にあった鍛冶屋であった。まだ鍛冶屋が重要な役割を果たしつつある。神話や伝説の世界にはいったようで、哀感にみち、火の神秘な力が燃えさかっていた。
からりと晴れた夏の空に、白雲が悠々と流れている。俄かに黒い雲が空を蔽い、雷がとどろいて夕立が降る。この雨を夏ぐれという。野路を歩いていた女童達が、駈足になって松並木の老樹の蔭に雨宿りをする。
jo: ?ai da: sa ?ja: wanu: ?ant'zi di: taru: という。何という素晴らしい表現かと思う。?ai: da: はともに感動詞である。 sa も感動助詞である。 ?ja: も君と呼びかえけるよりはむしろ感動詞に近い。六つも感動詞を重ねるのだから、共通語でなど、到底表現のしようがない。ずぶぬれになった女童はこうさけんで、お互いの姿を見合ってはがらかに笑っている。こうした表現は土から生まれたなまの表現である。他に訳しようもない独自の表現である。生命は個的であってはじめていきいきと輝く。詩の母体でもある。