屋我地の神アサギ  

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 屋我地島は本島側に羽地内海を抱える島である。17世紀中頃の「絵図郷村帳」に「屋か島」、「琉球国高究帳」に「屋賀島」とあるが村名はまだ出てこない。『琉球国由来記』(1713年)には羽地間切の内である。1713年当時、屋我地島にあった村は屋我村・済井出村・饒辺名村の三ケ村であった。我部村・松田村・桃原は現在の今帰仁村の湧川地内にあった村で、呉我は現在の今帰仁村の呉我山にあった村である。1736年に湧川地内から屋我地島に移動した。当時、それらとはべつに湧川地内から移動した村に呉我村・振慶名村がある。

 ここでは村が移動したとき、御嶽―神アサギ―集落がどのように形成され、また合併したとき神アサギ、つまり祭祀の統合はどうだったのか。我部・松田のように、そして呉我・振慶名などのように移動した時に御嶽をどう設けたのかを知る手掛かりとなる事例である。神アサギの建物は、そのすべてが茅葺きからコンクリートや瓦屋根の建物になっていて、かつての神アサギの姿は消えうせてしまっている。かつてあったはずのタモト木を失った神アサギが多い。祭祀が急速に消えていく中で、祭祀の過去の遺産としての神アサギの存在をしかと確認しておきたい。



   ▲屋我の神アサギ
【屋我の神アサギ】01
 屋我は屋我地大橋が架かる字である。屋我集落は1858年にヤガグスク付近から移動してきた集落である。神アサギは四本柱に瓦屋根の建物である。拝む方向は故地のヤガグスクに向いている。集落を背にヤガグスク(御嶽)に向かって祈る。集落と共に移動してきた神アサギとみてよさそうである。

  ▲饒平名の神アサギ
【饒平名の神アサギ】02
 神アサギは四本柱のコンクリート造りの建物。ノロドゥンチの側に位置し、アサギナー・公民館(ムラヤー)がある。饒平名村は屋我ノロの管轄村である。饒平名村も管轄する屋我ノロのじ辞令書(1625年)が残っている。御願(ウガン)の時、御嶽(ウタキ)に向かって拝むのか、あるいは背にするのか?

  ▲我部の神アサギ
【我部の神アサギ】03
 現在の我部に二つの神アサギがある。コンクリート造りで祠の形になっている。その一つが我部村の神アサギである。我部村は1636年に現在の今帰仁村の湧川地内から屋我地島に移動した村である。我部ノロは振慶名・呉我・我部の三ケ村を管轄している。香炉の置き方は御嶽(ウタキ)に向けて拝んでいる。御嶽は故地の方向と関わりなく御嶽をつくり、御嶽―神アサギ―集落の形態を見せている。

   ▲松田の神アサギ
【松田の神アサギ】04
 松田村は1690年頃まで今帰仁間切の内。その後羽地間切の村となり、1736年に現在の湧川地内から屋我地に移動する。移動後、さらに我部村と合併する。明治15年頃には我部村に合併している。また二つの神アサギがある。行政的には一つになるが祭祀は一体とならない例である。我部に松田神アサギと我部神アサギがあるのは、村が合併しても祭祀は一体となりにくい原則を示すものである。

  ▲済井出の神アサギ
【済井出の神アサギ】05    
 済井出の村名が登場してくるのは『琉球国由来記』(1713年)からである。それと屋我ノロの管轄村であるために屋我村から分離したとの伝承を根強く持っている。済井出の御嶽(ウタキ)と神アサギ、そして集落の位置関係をみると、明らかに移動集落である。小字の桃原にムラの中心となるウガーミと神アサギがある。一帯にあった集落が海岸沿いの兼久地に移動したと見られる。1736年に今帰仁の湧川地内から移動した桃原村の件があるので、その桃原村が済井出と合併したのではとの見方がある。もし桃原村が済井出村と合併したのであれば、屋我・松田と同様二つの神アサギがあるべきである。神アサギが一つなので、平坦地を意味する桃原という地名が、移動した桃原村とたまたま一致したにすぎないと見た方がよさそうである。神アサギは瓦屋根の四本柱(コンクリート)である。かつて四本柱の神アサギの痕跡をみせている。