寡黙庵  2018年12月の記録(今月)New

                        
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やんばる学研究会(今年度終了)

    

2018年12月28日(金)

 さあ、これから暮れの「寡黙庵」の部屋の片付けへ。家族や孫や甥たちが集まるので片付け。昨年のこのブログの最終は今帰仁村玉城の字誌で結んであります。この字誌が今日納品で「寡黙庵」にも届けられるとのこと。

 『玉城字誌』とどきました。表紙とグラビアの一部。(題字:大城武雄)

  

 今年は大宜味間切(村:ソン)の「杣山」のことで締めにします。そこに登場する間切役人の「口上覚」は確認できていませんが、明治の辞令書は何点か。抱えているテーマ(間切役人の世界、口上覚(勤職書)に結びつけてみるか。

2016年3月12日(土)メモ

 杣山についての問合せ。山に関しての知識はもっていないので少し勉強。
 文書まで読み通してみる時間がないので、『大宜味村史』(70頁)提供から基礎知識を。明日は大宜味村の山手を踏査してみるか。以下の情報を手にすると行かざるえません。

【杣山の指導・監督】

 王府の最高責任者は総山奉行、その下に国頭方山奉行が三名現地に派遣されていた。一人は加増奉行として国頭間切浜村の詰所に常駐し、大宜味間切と国頭間切の山林行政の指導にあたった。更に、間切には王府の役人として山筆者(廃藩置県後は山方筆者)が配置され大宜味村に詰所をおいて、直接指導監督にあたった。
 間切役人としては三名の総山当が任命され、間切の山林行政の全般的な取締りに当り、村には二名の山当が配置され、山工人、山師などを指揮し、山林の保護管理に当った。

 山奉行は、年二回春秋の原山勝負の時に間切内の杣山をくまなく巡回し、その成績を王府へ報告した。山筆者は月五回、総山当、村山当をひきつれ間切中の山林を巡回し、指導管理にあたった。更に地頭代、下知役、検者など間切行政の最高スタッフも毎月一回巡視を義務づけられていた。それらの役々は定期巡回の他に大風のあった翌日にはそれぞれの管内の山林、猪垣の被害状況をつぶさに調査し対策を講ずることが義務づけられていた。

【間切の杣山の種類】

 蔡温時代における大宜味間切の杣山の面積は、四千二百町九反で、国頭・久志間切についで三番目に広い面積をもつ間切であった。間切の杣山は山方切と呼ばれる区分方法で、各村に分割し管理させた。大宜味間切の山切は以下の七つに区分されていた。
  第一区 津波
  第二区 塩屋・田港・屋古前田・渡野喜屋
  第三区 根路銘
  第四区 大宜味・饒波
  第五区 喜如嘉
  第六区 一名代・根謝銘・城
  第七区 見里・親田・屋嘉比

 間切・村の杣山は、一般に仕立敷、仕立換山、籔山、中山の四種類からなっていた。
 仕立敷とは、王府の指示により建築材及び造船材に適する良材を仕立てる目的で設定された造林地のことである。敷地の選定・仕立の方法・管理の仕方まで厳しい規定のもとで行われた。仕立の対象樹木は、杦・杉・カシ・イク・ユシ木・チャーギ・桐・楠・センダンなどであった。
 仕立敷は間切で管理するものと村で管理するものがあった。いずれも、村百姓の15歳から50歳までの男子に現夫を賦課した。なお、人夫加勢と称して居住人にも現夫が割当られる場合があった。

【大宜味間切の主な仕立】

楠 敷

 押川から根路銘・大宜味の猪垣の内側で仕立られ沖縄最大の楠敷の美林があった。山奉行所公事帳に、大宜味間切根謝銘村並木相国寺には、当分実付候楠之有り、九、十月之頃、熟仕候間山奉行者にて、近間切之山当登らせ取調各間切配分をもって仕立方申すべきこと、とあり、十八世紀半ば頃から楠敷の仕立が始まったものと見られる。

杉 敷

 押川は間切が最も力をいれた仕立敷で、二かかえ三かかえもある杉の大木があり、杉敷としては沖縄最大の規模をほこっていた。明治になって押川開墾が行われた際に、伐採が許可され学校建材・公共施設の用材としてことごとく切りdっだされてしまった。

胡桃敷
 
 根路銘村の湧地山に仕立られ、明治の中頃迄管理されていたが、漸次伐採された。実は間切から御殿・殿内への上納物として重宝がられてた。
 1876年(光緒2)の「胡桃敷本数改帳」によると、胡桃敷は以下の通り。
   根路銘村湧地原
  一、胡桃敷 三百二十坪
     本数 27本(根廻一尺~六尺)
  一、胡桃敷四百四十坪
     本数37本(根廻一尺~八尺四寸)
    光緒二年丙子閏五月

樫 敷

 喜如嘉村遠山に仕立られ、太平洋戦争まで樫の大木が生い茂り大切に管理sれていたが、戦後の開墾によって姿を消した。山奉行所規模帳に、樫木の儀国頭間切安田・安波、大宜味間切内喜如嘉、久志間切内川田、右の村の山には所々に相見得とあり、蔡温時代から仕立敷として重視されいたことがわかる。大宜味間切の津波山にも樫敷があった。

 大宜味間切特有の山に中山がある。その性格は他の間切の里山・村山というものに類似している。中山は一般に松敷・竹敷などからなり、各村の仕立山の一種として保護管理されてきた。大宜味間切でとくに中山が設置された理由は、間切の地形に起因しているとみられる。村からすうぐ急勾配の山がせりあがっており、登りつめた先がやや平坦の台地状をなし、猪垣の築かれた開墾地へと続き、いわゆる村と開墾地の間の山林を中山と称している。中山は松や桧(ひのき)や竹など有用な樹木を仕立る目的の地に山くずれを防ぎ、貯水涵養林、開墾地を守る暴風林の役目を果たしており、近世にいたるまで自由な伐採を許さず、村内法をもとできびしく保護管理されていた。 

2016年3月8日(水)メモ

【地租徴収の手続き】

 地租徴収の手続きは、先ず県丁に於いて、その間切何年度分幾何と定め、これを役所長に達し、役所長は更に間切即ち地頭代に対して令書を発し、地頭代は令所にヨリ、更に掟に対して伝書を発し、掟は地割の帳簿等により、各戸の納額を定め、これを人民に分賦するものとす。

 租税は組頭これを取纒めて掟に納め、掟よりこれを地頭代に納むるものとす。地頭代は一間切の税額を取り纏め金庫へ納付す。そお現品に係るものは先これを村屋に集め、掟耕作当等付き添い県丁に送付するものとす。

 税の徴収に村掟は重要な役割を果たしていることがわかる。『琉球国由来記』(1713年)の今帰仁間切の役職は、
  ・地頭代(湧川大屋子)→古宇利親雲上へ(1750年頃か)
  ・夫地頭 志慶真大屋子/奥間大屋子/郡大屋子/兼次代屋子/諸喜田大屋子
  ・首里大屋子
  ・大掟 ・南風掟 ・西掟 
  ・郡掟 ・運天掟 ・上運天掟 ・玉城掟 ・中宗根掟 ・平田掟 ・中尾次掟 ・平敷掟 
  ・与那嶺掟 ・今帰仁掟
 今帰仁間切の場合、1735年頃地頭代は湧川大屋子からは古宇利親雲上となる。位牌に古宇利大屋子とある場合は、その家から地頭代まで勤めた人物がいたということである。

 大宜味間切
  ・地頭代 (前田大屋子)→山川親雲上へ(乾隆24年:1759)には山川親雲上)
  ・夫地頭 平良大屋子/川田大屋子(この夫地頭は久志間切へ)
  ・首里大屋子
  ・大掟 ・南風掟 ・西掟 
  ・塩屋掟 ・川田掟 ・喜如嘉掟 ・津波掟 ・福地掟 ・根謝銘掟 ・大宜味掟

【大宜味間切の掟と担当村】

 ・津波掟(津波村・宮城)
 ・塩屋掟(塩屋村・田港村・渡野喜屋)
 ・根路銘掟(根路銘村)
 ・大宜味掟(大宜味村)(大兼久含む)
 ・喜如嘉掟(喜如嘉村・一名代村)
 ・屋嘉比掟(屋嘉比村・見里村)
 ・前田夫地頭(屋古前田村)
 ・饒波夫地頭(饒波村)
 ・親田夫地頭(親田村)
 ・根謝銘掟(福地掟)(根謝銘・城)
 
(『琉球国由来記』(1713年)では、地頭代は前田大屋子、夫地頭は平良大屋子・川田大屋子(地頭代含めて三員)であったが、その後地頭代は山川親雲上、夫地頭は前田、饒波、親田親雲上へ変更されている。平良村と川田村が久志間切に編入されるのが康熙58年(1719)なので、川田と平良の両村が大宜味間切から消えるので両村の夫地頭は大宜味間切の村名に変更したと見られる)。

 田港間切の創設は1673年
 田港間切から大宜味間切への改称、大宜味のマクから村へ、番所は田港村から大宜味村へ。その年は?

 大宜味村の某家の位牌に、

 嘉慶六年 前田大屋子 とあるのは、その人物は前田大屋子、夫地頭まで勤めた人物であることがわかる。もう一枚は大宜味村大宜味のN屋の位牌であるが、山川親雲上あり、手元の資料をみると、大宜味間切の地頭代は山川親雲上に変わっている。Nの位牌に山川親雲上が二人いて、二人の地頭代をだした家ということになる。同家の竹櫃に「大宜味村西掟・・・・仁屋」とあるが、西掟の辞令書を納めたものにちがいない。

   

2018年12月27日(木)

 頭が空っぽになると、次のテーマに移る。「移民」や「戦争」のことになると「平良新助」や「幸地新政」のことがよぎってくる。幸地新政については2018年6月15日で少し触れているが氏の「わが足あと」の米国での日本新聞(羅府)の投稿スクラップ原稿に目を通すことに。移民の動機と戦後の沖縄の動きに欠かせない内容である(もくじと原稿の一部)(「1942年5月9日以降日米戦のため日系人太平洋沿岸総立ち退き以後」とある)

  

2018年6月15日(金)メモ

 幸地新政氏の「わが足跡」を見つける。そのもくじはまえがきから六七までの項目が綴られている。以下の出来事は大正時代の移民と関わる事件である。少し紹介するが、六四は「移民哀話」(犠牲者の霊にささぐ)である。その中の「海外渡航の動機」部分を紹介しよう。

 大正初期といえば、沖縄では専制王奈良原知事の再来としての大味知事の暴政時代であった。中央では政治的には憲政擁護運動、思想的には新理想主義即ち「霊的合致」の運動が茅原崋山を主幹とした「第三帝国」によって天下の青年を風靡していた。

 海南の孤島、北山の一角に新理想主義にもえ、読書会を組織し、そして中央茅原崋山と呼応した十余名の青年グループがあった。

 「沖縄公論」主幹として一世の反逆児たる郷党の先輩宮里喜一をアドバイザーに、与那嶺善太郎、島袋源一郎、嘉手納善五郎、仲本吉正、上間常三郎、仲村源元、兼本嘉信、幸地新政の面々であった。

 「君たちが第三帝国」の読者であることは、其の筋でちゃんと調べてしっているんだ。注意人物として渡久地警察署の黒票にのっているんだ。注意したまえ」。

 巡回の序によく幸地の家に遊びにきた我謝巡査が好意の注意をした。
 幸地がそのことを次の読書会に報告すると、「これはわれわれ新人たるものの誇りである」と、益々読書に身をいれただけでなく、実際運動にまで進出するようになった。

 仲本が上京して葦原崋山に会って連絡をとったり、他のわれわれは選挙費をあつめて葦原の理想選挙を助けたり、朝日新聞社長当山嗣合をかついで解放打破運動に参加したりした。

 村では汚職の噂高い石嶺林野監守と無能の仲西校長排斥の火の手をあげた。

 これにたいする郡当局と警察の思いきった弾圧は、最初に読書会員の教職にあるものを捕らえて、各離れ島への追放左遷となって現れた。

 宮里は遠く宮古島に、岸本は伊平屋島に、嘉手納と兼村は津堅島に、山城は金武村にそれぞれ流された。過敏症な宮里は、烈火のように怒って辞令をたたきつけて言った。「断然外国渡航だ!海外雄飛!」と。

 結果的には幸地、宮里の海外移民は「海外追放、棄民政策」であった。その流れは平良新助、当山久三、謝花昇へ遡る時代の流れの渦中の出来事である。(詳細は今帰仁の移民と戦争編で扱うことに)

 先日、上間常三郎について訪ねてきた弁護士がいた。大正時代の農学校学校でのストライキとの関わった上間常三郎のことか。突っ込んだ質問はなかったので。名護に三中ができるのは昭和3年なので、その前の農学校でのこと。「ストライキと拙論」があり、いきさつについて書かれている。その時の校長が黒岩恒である。

※「新理想主義」の読書会に関わったメンバーが左遷された中で、島袋源一郎のみが左遷されず、教育会に残ることが
 できたのか。ずっと疑 問に思っていることである。幸地新政氏は大正6年9月2日に大義丸で那覇の桟橋を離れている。
 その頃源一郎は学校現場(訓導:校長)にい たので、それと沖縄県国頭郡志(大正8年発刊)の編集に関わっていたため
 かのか。


http--yannaki.jp-2003nen12gatu.html

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2018年12月26日(水)

 原稿圧縮の予定が増えるばかり。決断して三頁まで。結局、書き改め。原稿お待ちの方、遅れて申し訳ありません。これから最後の校正をして、晩には送付します。悪しからず。横道しないように!
   
    (原稿送付済み)


2018年12月25日(

 明治31年頃の山原船での輸出入の品目の確認。そのころ、大井川流域のフルマチから仲宗根にマチが移動するが、マチヤグヮーの店主は船を所有していたという。仲宗根のマチは那覇・泊、鹿児島商人など商店を経営していた。船の発着は大井川下流域の炬港(テーミナト)に停泊し、テンマー舟で上流部のフルマチやプンジャーマチ(ピサチ:トーセングムイ)まで遡って荷の積み卸しをしていたという。炬港は大正のころ定期便(汽船)が発着していたことがある。(運天に間切番所があったので運天港での積み下ろしか。明治後半の運天港の写真に山原船が二隻停泊し、テンマー舟の往来の様子がみられる)。

2003.11.22(土)メモから輸出輸入品を確認してみる。

 
今日は来館者がひっきりなしである。来館者が続くと、一つのことに集中することができないことが多い。いろいろと頭の中で駆け回っているが、ここに書き込むこ気にならないでいる。そういうときは、今頭の中を駆け回っていることとは、関係ない資料を捜しだし切り替えを行っている。今日もそうである。すっと決まったので、どこかで、すでに報告しているのかもしれない。立ち止まって、明治31年頃の今帰仁間切の「輸出品」と「輸入品」について具体的にみていくのもいいのではないか。当時の「新聞記事」から紹介してみよう。

 普段ムラやシマなどを歴史の動きや祭祀などを通してみているが、生活している立場に立って歴史を見ていきたいと考えている。そうすると、今私たちが常識としていることが、その時代に戻して考えたとき、常識ではないことに気づかされる。

 明治31年頃の今帰仁の様子を輸出品や輸入品から何が見えてくるのだろうか。また、当時のお金もそうである。例えば、白米の輸出品価格の5120円800厘は、五千百二十円八十銭である。数え方は品物によって斤・丸・本・升・間・枚・個などがある。

■輸出の部                  ■輸入の部   
品  目 輸出品数量 輸出品価格 種 類 輸入品数量 輸入品価格
製 藍 317790斤 1,5889円500厘 焼  酎 28480升 5696円000厘
薪 木 471755丸 2830円530〃 5694斤 911円040〃
木 炭 244055斤 3660円825〃 石  油 1130升 158円200〃
砂 糖 168047斤 6721円880〃 白  米 15815升 1897円800〃
白 米 42670升 5120円800〃 大  豆 11340升 190円700〃
角 下 224本 67円200〃 甘  藷 9224斤 73円792〃
楷 木 26本 2円600〃 素  麺 7000斤 56円000〃
徳 利 1185本 59円250〃 杉  板 190間 133円000〃
小 麦 150升 12円000〃 34150枚 136円600〃
杉四分板 30間 15円000〃 41本 10円250〃
丸 木 1140本 91円200〃 小  麦 600升 48円000〃
杉七分板 30間 39円000〃 樽  板 261丁 52円200〃
2475斤 297円000〃 2個 1円400〃
棚 木 6本 10円800〃 味  噌 500斤 22円000〃
ケキ木 80本 1円600〃 雑品入 233ケ 186円400〃
石 灰  3900升 3円900〃 戸  棚 4ケ 8円000〃
合 計 3,4823円085〃 昆  布 300斤 12円000〃
徳  利 2本 100〃
芋  粕 250升 750〃
650升 52円000〃
樫  木 10本 1000〃
イク木 50本 125円000〃
300升 60円000〃
製  藍 2400斤 120円000〃
西洋綛 20斤 6円000〃
合 計 9845円232〃


2018年12月24日(

 あまり意識しているわけではないが、物事を考えたり、詰めをするときパネルや棚や展示台を作っている。100枚以上のパネルをつくってきたが、それぞれの思いがある。それをつくる時間がわたしにとって欠かすことのできない場面である。その時間が脳裏に刻んできた記憶である。数多くの企画展のパネルであるしちんけな模型やスケッチである。このブログで紹介している画像もそうである。今回の棚づくり(3m60㎝×45cm)もそうである。その間30ページの原稿を2ページに収めるダンシャリの決断をする方針を決めた時間であった。

 さて、原稿のダンシャリの方針が決まったので今日で脱稿。昨日塗ったペイント乾いているかな。ダンシャリの方針を決めた時間の棚づくり。(余談) 原稿のダンシャリ実行へ、出発!

 
    ▲ペイント塗りの前            ▲ペイント塗りの仕上がりはどうか?

2018年12月23日(

 作業中途中で「平良新助翁」の件で取材あり。新助資料に目を通す。新助資料は移民と戦後の沖縄援助に収録。(米・沖縄の新聞記事スクラップ、手紙類など)

http--yannaki.jp-2003nen12gatu.html
(2003年12月以下の調査をしている。
【古宇利島をゆく】 【名護市済井出】 【並里の満名殿内と崎本部の満名殿内】 【本部町崎本部の墓調査】
【座味城跡内の石灯籠】 【今帰仁間切(村)役場移転問題】 【古琉球の辞令書に登場する貢(ミカナイ)】
【古宇利島の語義と音】


2018年12月22日(土)

 
昨日から「寡黙庵」の資料整理の棚づくり。ほとんどが立てられないコピー資料。今日明日で仕上げねば。果たしてどうか。年末の大掃除が待っている。体は年末の休暇であるが、脳は港・江(山原船と交易)、山原のムラ・シマ、北山の歴史、戦争、民俗、移民、『新今帰村史』の内容と発刊計画の件など.。今日の一件はキャンセル。

 1月の中旬には今帰仁村兼次で食べ物について字誌に収録の調査を行うことに(県の「行事食に関する民俗調査」)にそのレジメつくり。四時頃から「平良新助」についての取材で、新助資料の開示。近々、記憶がプツンと途切れるかも。

 ここ三ヶ月ほど、朝食は切り餅二個(醤油とキムチつけ)。油であげて塩で食べていたが、片付けまで時間がかかるのでグリルプレートで、二回ほど焦がして煙や火をだしてしまう。(使い方くらい学習してと声がかかる。独ぐらしになった時のことを考えてのことのようだ) 今朝は切り餅二枚、何故かコーヒー。

 
    ▲久しぶりの大工作業          ▲夏からの朝食(切り餅二枚とスープかお茶)

2018年12月21日(金)

 「琉球国旧記」(1731年)の「江港」の入江や河口の港を踏査していると、蔡温の時代(18世紀前半)の江や港としていた使われていた場所は、今の海岸や河口より奥まった場所ではないか。テー港へ流れる河口ではなく、旧記に「大為江(岸本邑)」とあり、もっと上流部が江・港として使われていたとみられる。他の地域にも多くみられる。調査物が多く、後に詳細な説明をすることに。

 国頭村伊地の遠見所まで足を運ぶ。伊地の遠見所を踏査されて方から説明をいただいたのだが、私の記憶違いなのか確かめてみた。以前は遠見所近くまで車が入ったのであるが、今回は大分手前に置かないと通らない。遠見所のサークル(丸い石囲)は三ヶ所確認した記憶である。一番手前のサークルは所々に石が見えるだけ。第二、第三の石囲いはしっかり遺っていることを確認。三番目の石囲いに行くには草木でなかなか困難。以前は道筋があったが、今回は木々や草木をかき分け。

 第二番目のサークルで両手を広げると右手に辺戸、正面に伊是名・伊平屋島、左手に古宇利島、今帰仁グスク近くの大嶺原、瀬底島、そしてその右側に伊江島が見通せる位置関係にある。両手を広げたその範囲に見事におさまっている。

  (サワガニの豆腐(ガイドーフ)づくり拝見と試食まで)(大豆の豆腐づくりが頭にあって・・・。美味でした)

 
   ▲兼次調査の時、見事な虹がかかっていた           ▲第一タンクに立ち寄る

 
    ▲テー港(大井川の河口)              ▲孟揚清(大里親方宗森)が漂着した港

 
   ▲第二の石囲(12の球玉が配置されている)              ▲第三の石囲い

 
 ▲奥間の黒丸先・古宇利島・大嶺原・・・        ▲伊地川沿いから遠見所のある森をみる

   
     ▲カニの甲羅はずし               ▲煮えたぎるのを待つ         ▲仕上がったカニトーフ

2018年12月20日(木)

 年内に片付けないとならないのがあと一件。午前中、国頭村の「港・江」を廻ってみるか。午後には大宜味村で職員のおばあさんが豆腐をつくるのでと、試食に誘われているので立ち寄ることに。今では消えかかった豆腐づくりのようだ。山原の素朴な「おばあの豆腐づくり」の風景がみられそう

http--yannaki.jp-2008nen7gatu.html
(元文検地・御嶽など)


2018年12月17日(月)

 故仲松弥秀氏は昭和の初期今帰仁村で教鞭をとられ、「大井川の町的研究」という論文を発表されている。そこで、山原船や伝馬舟、那覇へ薪、藍、日用品などを積出していた、明治の様子を記してある。(大井川下流域域の画入)

 「兼次字誌」用の聞取調査(戦争体験―護郷隊隊員二名+一名12日)(1月の字誌会議提出)

http--yannaki.jp-201801.html
の調査記録より

・大井川町の前身
 今は三村を合して字玉城となっている。その中の寒水が大井川町の前身である。一名浜と言うを考えれば、往時は海岸だったかも知れぬ。前述の如く現大井川町地帯は水田をなしていた。従って道路は山岳より寒水を経て仲宗根に円弧を描いて通されている。又大井川河谷を利用して伊豆味、呉我山盆地方面より今帰仁へ達する道路あり、丁度その交差点に寒水が位置していた。斯く好位置にあった寒水へ、明治17、8年頃外間政得という人が初めて小店を構えたのが此の地方中心的地になった種子であるらしい。氏は那覇の人で最初屋我地へ移住してきたという。

 次に岸本村の平良福五郎氏が運送業兼小店を構えた。氏は山原船で那覇へ薪、藍などを積出し日用品と取引したのである。然して当時は今の転馬舟着場のピサチ辺に山原船碇泊し、そこより上流大井川橋の少し上即ち寒水の手前に転馬舟が着き荷物の積み下ろしが出来たという。第三番目に玉城某氏が小店を開く、氏は那覇の人で名護を経て移住して来たという。

 斯くの如くにして次第に此の地に商店が出来地的中心地に進展してきた。而していつ誰が初めたともなく全く自然的に道路の両側へ市場が発達したのである。これは実に市場の発生過程の好例として□に出来たものと思う。然して又何時とはなく此の市場は地元寒水村の管理の管理となったのである。斯くして小町と市場とは原因結果となっていよいよ町の形態を帯びて来たのである。明治二八年頃は其の最盛期にして、店十軒(二件は菓子屋)理髪店三軒、飲食店三軒、豚肉販売所の外に料理屋が四軒(中一軒は二階建)もあり、家屋は道に沿って今の橋の所まで並んでいたという。推して其の繁栄が知られる。

 ところが明治三十年頃山岳―仲宗根線が出来て以来は次第に衰落し、其の変わりに山岳が勃興して来たのである。其の後明治37、8年頃郵便局が運天より此の地へ移転されたけれど差したる影響なく、到頭山手線の郡道が仲宗根まで開通すると共に又市場が村営の形で移転され、生命の緒を切られ急激に衰頽して元の面影を止めず、只だ古市の別名によって僅にそれと知るのみとなり終した。如何に交通路が人生に深き影響を与えるかを知ることが出来る。

 
▲大井川下流域(左岸)の墓(玉城ノロ一族の墓)      ▲大井川下流域の左岸の近世以降の墓

2018年12月15日(土)

 久しぶり天気が晴天。山原(やんばる)の入り江と港を踏査してみるか。

〔恩納間切〕(『琉球国旧記』附巻之五 江港より)(1731年)

 ・名嘉真江(なかまがあら)《名嘉真村の東にある》
 ・名嘉真《名嘉真村の南にある》
    ※名嘉真川の河口で、昔は山原船が新島まで入り、砂糖や林業製品を積み出した。
 ・安富祖《安富祖村の北にある》
 ・安富祖川の河口で、山原船の交通が盛んであった。
 ・瀬良垣港《瀬良垣村の東にある》
 ・仲泊《仲泊村の南にある》
   ※石川地峡の西にある仲港は、人工的に港を造成し、東海岸の物資も集まり、山原船
    来た。
 ・外川港《仲泊村の南にある》
 ・山田江《山田村の南にある》
 ・真栄田(4)《真栄田村の南にある》
   ※今も真栄田漁港がある。
 ・比留(びる)《塩屋村の南にある》
   ※今の恩納村真栄田。ビルの港には、ビルバナレという小島があり、台風時の避難港
     として知られていた。オモロに歌われた地名である。
 ・恩納《恩納村の東にある》
   ※今も恩納漁港がある。山原船が集まった。特に恩納でとれる陶土が、山原船で壺屋へ
    運ばれたことは有名である。
 ・内那喇《恩納村の南にある》
   ※内ノ浦であろう。
 ・久波《久波村の西にある》
   ※久良波江の誤記か。
 ・久良波江《久波村の西にある》
 ・谷茶江《谷茶村の南にある》
 ・谷茶港《谷茶村の南にある》
 ・谷茶港《谷茶村の北にある》


    ▲『恩納村誌』より(山原船の発着場)        ▲山原の「江と港」分布図(「なきじん研究」9号)

http--yannaki.jp-tiyoganemarutohokuzann.html千代金丸と北山(講演レジメへ)


2018年12月14日(金)

 締め切り原稿追われている。やっと、そのテーマ戻ってきた。今日、明日で仕上げないと。「琉球国旧記」(1731年)の「江、港」(山原のみで100ヶ所余)を思い出しながら。調査依頼の封書が届いていますが、開封すると、そのテーマに頭がいくので、以下の原稿を脱稿してから。

 山原の津(港)は、必ずしも船が岸辺に接岸できるものではない。良港と言われている運天港も直接船が接岸できるようになるのは戦後のことである。

 山原船が運航していた時代の津(港)は、潮の干満や風の影響を大きく受けた。海が遠浅の場合、山原船は沖に碇泊させ、伝馬船(テンマーセン)の小船で荷を運び本船に積み込む。蔡温の『独物語』(1749年) は18世紀の津(港)の様子を次のように述べている。
 
 「諸間切浦々の干瀬共石原にて着船の港無之候に付て商売船逢逆風候時入着不罷成及破損候船多々有之候、右石原割除き間切毎に浦々の場所見合を以港作置候はゞ商売船は不及申其余の諸船の天気荒立次第則々港へ走入絶て難儀無之積に候」

 那覇・泊には山原や諸離島を走り回る馬艦船、また浦漕船がある。馬艦船、山原船ともに構造上はシナ式のジャンク型であるが、外航船として利用されていた大型の船を馬艦船、沖縄本島北部(山原)を往来していた小型船を山原船と呼んで区別したようである(『近世薩摩関係史の研究』380頁参照、喜舎場一隆著)。両船を区別した次のような琉歌がある。

    船のつやうん   (船が着いたよ)
   つやうんなたくと  (着いたと、鉦(が鳴っていたので)
   まらん船だらんで (馬艦船かと思って)
   出ぢちて見れば  (出て見れば)
   山原だう      (山原船であった)

 各「江と港」での様子は、以下(略)


2018年12月13日(木)

 二、三日更新ができずでした。接続テスト。


2018年12月10日(月)

 2018年3月23日に屋嘉比ノロ家の遺品の調査をしたことがある。理解できなかった「やくひのろくもい代合之時日誌」の文字のこと。女官御双紙(1706年)の「今帰仁あふりやい」や「噯間切のろくもい」の代合とあり、屋嘉比ノロの代合(交代)の時の文書(辞令書か)が竹筒に納められていたことになる。のろについて、もう少し整理してみるか。

2011年1月29日(土)メモより

 『女官御双紙』(170613年)に「今帰仁あふりやい」と「伊平屋島ののろ二かや田」、さらに「噯間切のろくもい」の代合(交代)について、以下のように記してある。

 一 今帰仁ふりやい代合之時言上ハ御自分より御済めしよわちへ御拝日撰ハ三日前ニ今帰仁あふりやいより
    御様子有之候得共首里あむしられより大勢頭部御取次にてみおみのけ申御拝の日ハ首里大あむしられ為
   御案内赤田御門よりよしうて按司下庫裡に控居大勢頭部御取次にてみおみのけ申今帰仁あふりやいより
   みはな一〆御玉一対作事あむしられ御取次にておしあけ申按司御座敷御呼めしよわれハよしろちへて美待
   拝申
   天かなし美御前おすゑんミきよちやにおかまれめしよわれハ御持参の御玉貫真壁按司あかなしよりおしあけ
   めしよわる合済御飾の御酒より今帰仁あふりやいに美御酌御給御規式相済按司御座敷にて首里大あむしら
   れ御相伴にて御振舞給申相済みはい御暇乞大勢頭御取次にてみおミのけておれ申
 一 同時御印印判ハセと新雲上よりみはいの日早朝首里殿内へ将来らる首里大あむしられよりミはいの時
   早朝今帰仁あふりやいへ上申
 一 伊平屋ののろ二かや田代合之時も上相済首里殿内火神御前へみはな一ツ御五水一対持参にて玉かはら
   は
き立御拝四ツからめき申尤御拝日撰前以以日引合有之事
 一 噯間切のろくもいた代合之時も右同断

 「今帰仁あおりやえ」の写真と関わる記事がある。

   「国頭郡今帰仁村今泊で旧按司家阿応理屋恵所蔵の佩佳玉は二十二個の所謂曲玉と、多数の水晶玉
   製丸玉とを交へて極めて見ものであるが、之を納めた袋に、玉かはら一連。内かはら一、大形。かはら
  二十一、小形。水晶之玉百十一。昭和四年四月四日現在。と書いてあった。(本誌記者云う、袋の文字は  
  古くより此の形式に書いてあったのを昭和四年に袋を新調して書替へたのみである。阿応理家では今も
  その一連の玉全体を玉ガハラと呼んでいるのである。 

 下の写真は今帰仁阿応理屋恵が一連の勾玉と水晶玉(ガラス)、前に広げられた袋に「玉かはら」など文字が読める。『沖縄県国頭郡志』(大正8年)でいう「今帰仁村今泊阿応理屋恵按司所蔵目録」というのは、写真の文字のことであろう。それらの遺品は昭和11年に開館した「沖縄郷土博物館」(首里城北殿)で昭和1015日より1114日まで展示されたことがある。

 
一連の勾玉と水晶玉(ガラス)をかけた阿応理屋恵  「国頭郡志」のグラビアより

※下は「屋嘉比のろくもい」の遺品で竹筒に「やかひのろくもい代合の時之日誌」と墨書きがある。また。線彫りで「・・・四拾二年・・・」らしくあるが、それは未判読。

  
               ▲屋嘉比ノロ殿内の遺品

yannaki.jp/201803ugoki.html 参照


2018年12月9日(

 運天(港)は「北山の歴史」を展開していく時、欠かせない場所である。「源為朝公運天渡来伝説」「おもろ」、『海東諸国紀』(1472年)、北山の時代か第一監守時代の諸按司の墓と云われている百按司墓、第二監守時代の監守とその一族が葬られている大北墓など、古琉球の時代の北山の支配者の墓が運天におかれていること。など、沖縄の、北山の歴史と関わることが数多くある。そこに運天港と関わる出来事をここに集約することに。

 薩摩群の運天、こほり島へ。近世になると仕上世l米の積出し港(四津口の一つ)、1665年に今帰仁間切を分割して伊野波間切(翌年本部間切)を創設した以前の番所は今帰仁城(今帰仁村)か。間切分割後は運天津口、本部間切は伊野波村から渡久地村へ。薩摩支配をカムフラージュする港となる。

2010年728日メモ

 1816年に運天港(村)訪れたバジル・ホールの『朝鮮・琉球航海記』(197~198頁)(岩波文庫)を手掛かりに、運天(港)や周辺の様子を浮き上がらすことができないか。下にその様子を記した文章を掲げ、200年近くたった今、どのようになっているのか、いくつか拾ってみる作業をしてみた。19世紀初頭、運天(港)周辺の外国人がみた様子を画像でたどってみた。1816年の運天の風景が、今の運天にどれだけ見つけることができるか。

【バジル・ホールがみた運天(港)】【1816年10月11日】

 「この村は、これまで琉球で見たどの村よりも整然としていた。道路は整ってきれいに掃き清められ、どの家も、壁や戸口の前の目隠しの仕切りは、キビの茎を編んだこざっぱりとしたものであった。

 垣のなかには芭蕉や、その他の木々がびっしりと繁茂して、建物を日の光から完全にさえぎっていた。
 浜に面したところには数軒の大きな家があって、多くの人々が坐って書き物をしていたが、われわれが入っていくと、茶と菓子でもてなしてくれた上、これ以後、自由に村へ出入りすることさえ認めてくれたのである。

 この人々は、ライラ号が港に入るつもりがあるのかどうか、もし入港するなら、何日くらい滞在するのかを知りたがった。われわれはそれに対して、入港するつもりはない、と答えたのだが、だからといって喜びもしなければ残念がるわけでもなかった。

 村の正面に平行して30フィート(9m)の幅をもつすばらしい並木道があった。両側からさし出た木々の枝は重なりあって、歩行者をうまく日射しから守っている。そこに木のベンチが置かれ、木のそばには石の腰掛けをしつらえた場所もいくつかある。全長約四分の一マイル(400m)ほどのこの空間は、おそらく公共の遊歩場なのだろう。

 半円形をなす丘陵は、村を抱きかかえるとともに、その境界を示しているようであった。丘陵の大部分がけわしいが、とくに丘が港に落ち込む北端の岬では、80フィート(24m)のオーバーハングとなっている。崖の上部は、基部にくらべてきわだって広い。地面から急斜面を8~10フィート(2、3m)上がった位置に、堅い岩をうがって水平に回廊が切り開かれ、壁にむかっていくつもの小さい四角い穴が深く掘り込んであった。ここに死者の骨を入れた壷を収めるのである。

 この断崖のふちからは木や蔓草が垂れ下り、下から生えている木々の梢とからみあって日除けを形づくり、回廊に深い陰影をなげかけている。しんと静まりかえった荘重な雰囲気である。

だが一見したところ、ここは墓地本来の目的である墓碑や碑銘などの役割を示すものが何もないのは意外である。たまたま樹木や灌木の茂みの間に一本の道のようなものがあるのに気がついたわれわれは、その先に何があるのかつきとめようと、藪の間をぬって続いている小道をたどりはじめた。木や草は旺盛な生命力を示し、この日経験したさまざまの興味ある出来事によってわれわれの気分もまた高揚していたのだった。だがわれわれは突然、予想もしなかった死者たちの場所の神聖かつ陰惨な光景に行きあたってしまったのである。一行の陽気な気分は一瞬のうちにふきとんでしまった。

 この村は運天Oontingという名前である。那覇の首長たちが口にし、われわれがWinchingあるいはOonchingと記録したのと同じ土地であろう。

 われわれが発見したこのすばらしい港は、海軍大臣メルヴィル子爵を記念して、メルヴィル港と名付けられることになった。
 
※「公共の遊歩場」は運天番所の前の馬場後と見られる。「咸豊七年丁丑『御首尾扣帳』
  (今帰仁間切番所所蔵と宮城真治民俗調査ノートにある)に、「三月三日、五月四日は
  番所の前、アブシバラヒは仲原馬場、八月十一日
  親泊馬場に馬揃仕、役々中相揃、酒二合、七寸重壱次自参、見物仕申候」とあり、三月
  三日と五月四日に番所の前で馬を揃えて重箱を持参して見物している。その様子から
  運天番所前に馬場があったことがしれる。「咸豊七年丁丑」は1857年である。「死者たち
  の場所」は、明治21年頃に修復する前の百按司墓のことであろう。   

            明治末の運天港の様子(『望郷沖縄』所収より)

       ▲昭和35年頃の運天港                ▲崖中腹にある墓


  ▲「いくつもの四角い穴」はこれか?      ▲「公共の遊歩場」は番所前の馬場のこと?

http--yannaki.jp-2011nen6gatu.html
  
・宮古 ・久米島 ・沖縄戦 ・各間切の神遊(休日) ・中城ノロの祭祀 ・大宜味のムラ・シマ ・瀬底島 ・沖縄の食事 
   ・湧川の新里屋


2018年12月8日(土)

 
ムラ・シマ講座のコースの下見でコースの確認。雨後と水道工事でバスの運行ができずコースの変更あり。

 ムラ・シマ講座を終えると、午後から庭と畑跡地(道路沿い)の草刈り作業。通りすがらの方々に見守られながら。(下の段の草刈りが終えたころ、軽トラックが停車。「その草どうするの?」「そのまま堆肥にします」「ヤギの草にくれませんか?」「どうぞ、どうぞ」「明日運びます」との会話。どうも、乗用車に草刈り機をのせてきての草刈り。どう見てもヤギや牛を養っている姿には見えなかったようで。適当な運動になったか。明日の節々の痛さが怖い。ムラ・シマの話には土と汗臭さ、そして足が地についたていないとダメだと口癖。ハハハ 
  
  ▲兼次側から今帰仁グスクを眺める      ▲島袋源一郎先生顕彰碑      ▲兼次古島にある水蔵(ミジグラ)

 
   ▲カンナの回りは手作業(ほんとの老人姿)         ▲草刈り機を振り回している姿は青年(自己評価) 

 
         ▲「寡黙庵」の庭の手入れをしないとな・・・・・・・・・間もなく新年」

2018年12月7日(木)

 ムラ・シマ講座の準備をしましょう。

 兼次のイリバンタに建立されている「島袋源一郎先生顕彰碑、兼次側から眺めた今帰仁グスク、近世後半につくられた水倉(ミヂグラ)へ。古島原にあった集落跡、カニマン殿内(神アサギ跡、アサギは集落内へ移動)、兼次のウタキ(ウカマとイベ)、兼次はナカグスクノロ管轄、タキヌウガンのコースで。兼次古島遺跡と水路の確認。集落内の神ハサーギへ。ウイヌハーから引かれた第五タンクのコースで踏査。

 
 



          ▲今帰仁間切兼次村全図(明治36年)(6000/1)


2018年12月5日(水)

 「北山の歴史」で欠かすことのできないのが祭祀である。『琉球国由来記』(1713年)の「今帰仁城内神アシアゲ」を見ると、そこには按司・惣地頭・オエカ人など役人、それと百姓の参加が見られる。北山監守一族が首里赤平村への引揚げた後の今帰仁グスクは、按司や惣地頭、オエカ人とノロを中心とした神人や百姓が継承してきたと見るべきである。

城内神アシアゲ内での祭祀(1713年)

【今帰仁城内神アシアゲ】(今帰仁村)

 ・麦稲大祭(按司・惣地頭・今帰仁・親泊二カ村オエカ人・同村百姓) ・麦祭(二カ村オエカ人。同村百姓) ・稲祭(同オエカ人・同百姓・志慶真村オエカ人・同村百姓) ・大折目(按司・惣地頭・オエカ人・百姓) ・柴指(按司・惣地頭・オエカ人・百姓) ・芋ナイ(按司・惣地頭・オエカ人・百姓) ・大折目次日(オエカ人・百姓)  (上の祭祀は今帰仁巫トモノカネ巫の管轄)   (以下、古宇利の祭祀に錯綜しているので注意)

  ・毎年七月大折目(海神祭)   
  毎年七月、大折目トテ、海神祭、且作毛之為ニ巫・大根神・居神、都合二十数人余、
  城内のヨウスイト云所(城内神アサギ跡)ニ、タモトヲ居ヘ、花・五水(両惣地頭ヨリ出
  ル)祭祀シテ、アワシ川(アーシージャー)ノ水トリ、巫大根神、浴テ、七度アザナ廻
  リイタシ、於庭酒祭ル也(自按司出ル)。ソレヨリ縄ヲ引張舡漕真似ヲ仕リ、城門外
  リ、惣様馬ニ乗、弓箭ヲ持、ナカレ庭ト云所ニ参リ、塩撫、親川ニイタリテ水撫デ、又
  城内、ヨウスイニテ、祭祀也。

 ※『琉球国由来記』(1713年)の祭祀の流れは村移動前の様子を示している。
 ※ナカレ庭→シバンティナの浜か(潮撫)
 ※タモトは神アサギ内に置かれる。

  
    ▲グスク内の神アサギ跡       ▲上の御嶽のイベ(テンチジ)        ▲下の御嶽のイベ(ソイツグ)


        【上の海神祭(大折目)は周辺の村が麓に移動後の流れである】


http--yannaki.jp-2011nen5gatu.html(タイ往き)・大学での講義レジメなど)


2018年12月4日(火)

 29日から神戸(兵庫県)→蒜山(岡山県:大神山神社:大国主命)→大山(鳥取県)→勝山(庭の滝)→出雲(島根県)→足立美術舘→岡山県→兵庫県(姫路城)のコースをゆく。日本の神社化(明治8年化、沖縄県は昭和初期)、島根県や鳥取県と岡山県では砂鉄・たたら・備前焼・備前の刀剣など。岡山県は千代金丸の複製の件。途中、鳥居龍蔵、柳田国男の情報が入る。明治・大正・昭和にかけて沖縄県を訪れた研究者達である。足立美術館創設者の経歴に関心をもつ。沖縄県の阿波根昌鴻氏と喜納政業氏と生き様をダブらせながら。姫路城は四度目か。天守閣まで登れるか体力テスト(最後か)。詳細は別に。

 
 ▲大神山神社の石畳道(やく700m)    ▲大神山神社の奥の宮

 
        ▲出雲大社                             ▲姫路城

http://yannaki.jp/2008nen4.htmll 2008年4月に姫路城を訪れている。修復中にも)

 大宜味村の饒波と根路銘での植物名や生活との関わりの調査、そばで伺う。終わってから、藍染めで作品を制作している方から、藍の製造で石灰(消石灰)の入手(恩納村)や製造について伺う。根路銘では神社型の祠について頭を巡らす。

 
▲大宜味村根路銘の神社形式の祠(ハニマク)       ▲根路銘公民館での植物名の調査

2018年12月3日(月)

 「北山の歴史」に関わる記事や資料を集約する。2008年6月18日の新聞記事もその一つである。(以下の画像は今帰仁村歴史文化センター所蔵)

2008
618日(水)記録から

 大正131220日付の「琉球新報」に以下のような記事がのっている。大正13年に開通した今帰仁グスクへの道沿いの画像がいくつもあるので何枚か紹介することに。昭和25年から同31年にかけて。「北山城址参詣道 九町」の碑がある。参詣道の開通から数年後に建立されたようである。この道の開通で車が今帰仁グスクまで行けるようになった。これ以前は親川(エーガー)の側を通るハンタ道が今帰仁グスクへの主要道路であったのである。

 ほぼ同じ場所であるが、戦後になって風景が年々変わっていっている。風景もそうであるが、歴史は生き物で変化していく。どこで切るのか、どんな視点で捉えるのか、立場によって答えはいくつもあることに気づかされる。

 一帯には水田があり、子供達はまだ裸足の生活。電気もなくランプ、洗濯は川へ。作物は旧暦のサイクルで栽培。山手は段々畑。戦後バスが走るようになり、祭祀が生活の中にまだ生きている時代である。

 
 春秋絶えぬ巡礼者の為に
   北山城 参詣道路成る
   明日 落成式
  今帰仁村字今泊にて古蹟北山城を永遠に保存し、かつ春秋絶えぬ巡礼者のためにあらたに参詣道路開
 さくの企画をなし、昨年と本年の二カ年にわたり
  農閑期を利用してこれを遂行せしが、此程竣工せしをもって明二一日午前九時より親泊馬場において落成
 式を挙行し、参道十町を児童有志者諸旗行列をなして字児童学芸会青年棒術二輪加芝居を行ふ由であるか
 ら当日は定めし賑盛きはむることであろう猶同字においては村当局と相はかり具志川御殿島袋源一郎外有志
 及県下に散在せる
  北山系度に拝殿並に石碑建設企画をなせりといふ因に工事の報告左の如し 
    参詣間数  千百六十間 自動車が通ず
    夫役総数  一万二千八百七十六人  両字人民労力奉仕
    諸雑費   千円
    村費補助  一千三十円  敷地買収及補助額
    換算諸経費 五千九百円 


 
大正13年に開通の今帰仁グスクへの道(昭和25年)    今帰仁グスクへの道(昭和27年)

 

    今帰仁グスクへのあがり口付近の交差点(左右の道は現国道505号線)(昭和30年頃)

http--yannaki.jp-2009nen10gatu.html (過去の調査記録)
http--yannaki.jp-2008nen5gatu.html(過去の調査記録)