①今帰仁間切上運天村当歳五拾八前兼次親雲上勤書
1832(道光12)辰年)~1878(光緒4)年寅8月)
②今帰仁間切志慶真村当歳五拾前湧川親雲上
1843(道光23)年卯8月~1878(光緒4)年寅8月)
③今帰仁間切上運天村当歳五拾前諸喜田親雲上勤書
1842(道光22)寅年~1878(光緒4)年寅8月)
④今帰仁間切兼次村当歳四拾四前兼次親雲上勤書
1840(道光20)年庚子~(1878(光緒4)年寅8月)
⑤今帰仁間切与那嶺村当歳四拾五当志慶真親雲上勤書
1846(道光26(年丙午~(1878(光緒4)年寅8月)
⑥今帰仁間切諸喜田村当歳四拾九前諸喜田親雲上勤書
1838(道光18)年戌12月~(1878(光緒4)年寅8月)
⑦今帰仁間切今帰仁村当歳五拾四前湧川親雲上勤書
1840(道光20)年子9月~1878(光緒4)年寅8月)
⑧今帰仁間切謝名村当歳五拾弐前志慶真親雲上勤書
1845(道光25)年巳3月~1878(光緒4)年寅8月)
⑨今帰仁間切親泊村当歳参拾九当諸喜田親雲上勤書
1843(道光23)年癸卯閏7月~1878(光諸4)年寅8月)
⑩今帰仁間切親泊村当歳四拾五前志慶真親雲上勤書
1841(道光21)年丑年~1878(光緒4)年寅8月)
⑪今帰仁間切親泊村当歳四拾五前諸喜田親雲上勤書
1848(道光28)年申8月~1878(光緒4)年寅8月)
⑫勢理客村前兼次親雲上「口上覚」(1815~1857年)
⑬勢理客村湧川親雲上勤書(1851~1868年)
⑭新城徳助「口上覚」(1859~1883年)
⑮諸喜田福保「勤書」(1862~1859年)
以下の①②③④⑤⑥⑦⑧⑨⑩⑪は上の「勤書」からの記事である。(琉球大学図書館蔵:筆耕原稿記事金城善氏提供)。⑫~⑮からの記事は追加(工事中)
①道光弐拾五巳年義村王子様江御附添、嫡子今帰仁里之子親雲上御上国之時旅御供被仰付、二月廿日ゟ五月廿六日迄御仕舞方ニ付那覇詰仕同月廿七日出帆、九月卅日帰帆首尾能相勤置申候
①豊七年十一月廿一日ゟ同十二月二日迄夫地頭之時上様御婚礼御祝儀并譜久山親方掾紫地五色浮織冠御頂戴御祝儀付首里江罷登首尾能相勤置申
①同治五寅年御冠船ニ付六月三日ゟ同十日迄古宇利遠目番人被仰付首尾能相勤置申候
①同治元年壬戌九月十八日ゟ同十九日迄今帰仁城上使御立願ニ付さはくり公事繁多ニ付足被仰付相勤置申候②同治三年子八月廿五日阿応理屋恵御殿并今帰仁城御火ノ神所御普請ニ付本職掛而構被仰付同九月十三日迄首尾能相勤置申候
②同治七年辰八月七日ゟ同八日迄炬湊潟場針図引出試を以首尾申上候様殿内旦那様ゟ被仰付候付構仰付相勤置申候
②同治十年未三月十五日ゟ同廿五日迄御殿王子様御初地入御下光之時呉我村美御迎所美古宇利
村火立所仲原馬場今帰仁城親泊馬場四ヶ所目覆構被仰付首尾能相勤置申候
③ 同治三年子十月大和船盛福丸古宇利沖干瀬江走揚致打荷右潜上ニ付同十七日ゟ廿五日迄本職懸而昼夜相勤置申候
③同年同月与論島之者御仮屋江御状宰領ニ而持渡之砌古宇利東表外干瀬ニ而致破舟乗合人数救方并荷物相改潜用ニ小船漕出、同八日ゟ十日迄本職懸而昼夜相勤
③同八年未正月十五日五月十日迄南風掟役之時砂糖上納払方構被仰付首尾能相勤置申候
③同年八月今帰仁城并伊平屋島江御立願ニ付上使大宜味按司様金武按司様被遊御下光候付役々交代御拝ニ首里江罷登候付さはくり足被仰付同廿五日ゟ九月八日迄首尾能相勤置申候事
④咸豊八年戊午正月十五日、森山親方楽御奉行ニ而御上国之時、旅御供被仰付、同十一月廿二日 迄首尾能帰帆仕申候
④同治七年戊辰四月廿五日ゟ五月八日迄帰唐船両艘湖平底津口江御汐懸之時、那覇川迄挽船宰領被仰付相勤置申候
④同年八月七日ゟ同月八日迄炬湊潟場針図引出試を以首尾申上候様殿内旦那様ゟ被仰付候付、構被仰付相勤置申候
④同治十一年八月廿日ゟ同九月二日迄殿内阿つとう前様御百ヶ日之御焼香ニ付罷登相勤置申候
④光諸三年丁丑四月四日ゟ同五日迄東京博覧会御用諸木之品々苗種子荷入枝差一件并右諸木何十年ニ而何□之御用相立候段御首尾一件九ヶ揃ニ付惣山当足被仰付相勤置申候
⑤ 同年八月廿五日ゟ廿六日迄観音寺開御修甫御用御材木九ヶ割府ニ付構被仰付首尾能相勤
置申候事
⑤同九年庚午九月廿二日御殿王子様御上国ニ付海上御安全の御立願として伊平屋島江さはくり足被仰付同日早速古宇利村江差越くり舟三艘手組させ同廿七日其処ゟ出帆仕申候処、不順風ニ付大宜味間切根路銘村江汐懸、翌日早朝彼之津ゟ出帆、同日八ツ時分伊平屋島下着御立願相済十月十日帰帆仕首尾能相勤置申候事
⑤同年八月廿五日ゟ廿六日迄観音寺開御修甫御用御材木九ヶ割府ニ付構被仰付首尾能相勤置申候事
⑤同治三年二月廿八日去十三年成丑年以来帰唐船異国船御汐掛之節々諸雑費九ヶ統並構被仰付三月三日迄首尾能相勤置申候事
⑥同治元年戌九月廿日玉城岸本寒水三ヶ村□々疲ニ付玉城掟役江繰替被仰付同六年卯九月廿二日迄首尾能相勤置申候⑥同年八月玉城掟役之時左之通御褒美被成下候事其方事去ル酉十月平敷掟被仰付置候処、岸本寒水玉城三ヶ村之儀、年来疲入間切
向頭引并現銭無利借渡等ニ而段々補助仕候得共殊ニ人居茂不致繁栄兎角風水故ニ而も可有之哉与御差図之上去ル酉十一月与儀通
事親雲上申請風水入御見分ニ候処、段々風水悪敷闕異相補候手筋無之岸本玉城ハ勢理客天底謝名三ヶ村帳内ほかま原与申所江村越
仕寒水村ハ同所前之宿道明置岸本玉城弐ヶ村百姓地之内江敷替仕候ハハ人居繁栄疲労も可立直段委曲被申聞、・・・
⑥同治九年午五月今帰仁王子様被遊御上国候御時海上御安全之為御立願伊平屋島江罷渡五月廿七日ゟ六月十日迄御火神所并御
嶽々迄御使相勤置申候事
(工事中)
[新城徳助の「口上覚」(明治十六年六月十日)今帰仁村歴史文化センター所蔵
口上覚
乍恐申上候私事
[奉公人]
・咸豊九年未九月譜久山殿内御供被仰付同拾壱年酉八月譜久山里主様屋嘉被付光緒元年亥八月二八日迄難
有御奉公相勤置申候
【文子】
・光緒元年亥八月二九日間切文子被仰付明治三年辰十一月十二日迄首尾能相勤置申候
【古宇利掟】
・光緒元年九月二四日ヨリ古宇利掟間切諸上納物払方ニ付那覇江罷登候付代理被付彼ノ村江差越同十二月二十日迄相勤置申候
・光緒三年丑正月十五日より貢糖払方ニ付那覇江罷登同五月十日迄首尾能相勤置申候
・同四年寅七月九日ヨリ同八月十八日迄本職掛テ間切船新造ニ付積被仰付首尾能相勤置申候
【戸籍取調係】
・明治十三年辰八月十日より戸籍取調係り被仰付村之戸籍取調させ於国頭御役所ニ勘定等相遂明治十五年二月廿六日迄相勤置申候
【平敷村掟】
・明治十三年十一月十三日平敷村掟役仰付当分相勤居申候
・同十四年十二月二四日ヨリ同二六日迄地頭代以下作得帳租税課石井師道殿ヨリ御調査方ニ付国頭御役所ヘ持参遺以テ
御用ニ付差越相済置申候
・同十五年一月二五日ヨリ二月九日迄右同一件御同人ヨリ那覇ヘ御用被仰付罷登相済置申候
・同年三月廿六日ヨリ今帰仁小学校新築ニ付取調部係リ被仰付同六月丗日迄普請成就させ首尾能相勤置申候
・同年二月廿七日ヨリ今帰仁小学校学務委員被仰付当分相勤置申候
右通御奉公相勤置申候依之奉願候儀御都合之程茂如何敷恐入奉存候得共今般交代之西掟役相勤申度存候間成合申儀御座候ハバ何卒被仰付下度奉願候此旨宜様御取成被仰上可致下儀奉願候也
明治十六年六月十日 平敷村掟親泊村
新城徳助(当四十壱年)
新城徳助は「口上覚」(明治十六年)の外にそれ以降の「辞令書」がある。新城徳助は文子から、大文子→村掟→西掟→南風掟→大掟→首里大屋子→夫地頭(兼下知人)→惣耕作当へと昇級している。明治二十八年に「惣耕作当」となり、次は地頭代であるが、明治三十年に「沖縄縣間切島吏員規程」があり、地頭代職なくなり地頭代となることはなかった。明治二十八年に地頭代になったのが、諸喜田福保である。
・今帰仁間切文子新城徳助
戸籍取調掛申付候子事
明治十三年八月十日
・大文子新城徳助
今帰仁間切平敷村掟申付候事
明治十三年十一月十三日
沖縄縣廳
・平敷村掟新城徳助
今帰仁間切西掟申付候事
明治十八年十二月二五日
沖縄縣
・西掟新城徳助
今帰仁間切南風掟ヲ命ス
明治十九年十一月十日
沖縄縣廳
・南風掟新城徳助
今帰仁間切大掟ヲ命ス
明治二十年十一月十五日
沖縄縣廳
・南風掟新城徳助
今帰仁間切湧川村下知人兼務ヲ命ス
明治二十年十二月二十一日
沖縄縣廳
・大掟新城徳助
今帰仁間切首里大屋子ヲ命ス
明治二十一年二月二十九日
沖縄縣廳
・首里大屋子新城徳助
今帰仁間切兼次夫地頭ヲ命ス
明治二十一年十一月十二日
沖縄縣廳
・新城徳助
今帰仁間切惣耕作当ヲ命ス
明治二十八年十月四日
沖縄縣廳
【薩州・江戸上りに随行した楽童子や奉公人】
琉球国から薩州や江戸上りをした王子や親方などに随行していった楽童子が、帰国してから首里王府の芸能もそうであるが、地方の芸能に影響を及ぼしているのではないか。その学童子の中に各地の間切から殿内や御殿へ奉公した人物が散見できる。それらの奉公人が地方への伝統芸能の伝播の橋渡しをしているのではないか。それと奉公人は間切役人への登竜門である。
薩州や江戸へ随行していった楽童子達が、どのようなことをしているのか。そして、大和の芸能を見て琉球へ導入したのがあるのではないか。『琉球使者の江戸上り』(宮城栄昌著)で、「江戸における公式行事」や「薩摩邸における行事」や「使者たちの私的文化活動」で楽童子達(楽人)の役割が述べられている。享保3年(1718)の楽人は延44人である。中に獅子舞も演じられている。
琉球の文化や琉球人に対する評価は別にして、楽師や楽童子など楽人に推挙され、王子や親方等に随行して薩州や江戸上りできることは、名誉なことであった。そのことと各地に寄進されている石灯籠や石香炉など大和めきものと結びついている。それだけでなく、薩州や江戸へ持っていった芸能を各地の村踊(ムラウドゥイ)の番組に取り組まれていったとみられる。その体表的なものが各地の組踊りであり、今帰仁村湧川の路次楽や松竹梅や古典音楽などである。
調査をしてきた「操り獅子」(アヤーチ)(今帰仁村謝名・名護市川上・本部町伊豆味)の導入も、王子や親方などの薩州・江戸上りの随行者、そして間切からの殿内や御殿への奉公人(中には楽童子や躍人として随行)、奉公人が間切役人となる。そこから各村の豊年祭に組み込まれている芸能の地方への伝播の様子が見えてくる。
ただし、大和の芸能を琉球に移入していく場合、そのままの形で導入していくものと、琉球化していくものがある。「操り獅子」について、まだ直接の史料に出会っているわけではないが、江戸や大阪で「操」は見ている。その「操」(あやつり)は操人形かと思われる。その操の技法を学び、操りの人形部分を獅子にした可能性がある(もう少し資料を追いかけてみるが、果たしてどうだろうか)。
『琉球使者の江戸上り』の研究をされた故宮城栄昌氏は以下のように述べている。
「使者たちが受けた日本文化の影響も測り知ることのできないものがあった。それが琉球文化の中に日本文化の要素を混融させることとなり、琉球文化の領域と内容を豊かならしめることとなった。琉球文化は固有性に富んでいるといわれながら、異質性にも満ちている。その異質性は琉球に置かれている位置からくる外交活動の側面であった」
「また、宝暦二年(1752)の謝恩正使今帰仁王子朝義は、薩摩や江戸で島津重年に対し奏楽・漢戯・琉戯を演じ、明和元年(1764)の慶賀正使読谷山王子朝恒も同様であり、さらに寛政二年(1790)の慶賀正使読谷山朝祥も、薩摩・伏見・江戸で奏楽・作舞をしているから、舞踊が半ば公的に演ぜられることは、早くから行われていたようである。そして島津家に慶事があれば、格別盛大な祝賀の芸能があった。」
【今帰仁】
・天啓6年(1626) 孟氏今帰仁親方宗能 薩州へ派遣される。
・康煕2年(1663) 高氏今帰仁親雲上宗将 宮古→薩州→長崎
・康煕15年(1626) 向氏今帰仁親方朝位 薩州へ。
・康煕25年(1686) 向氏今帰仁親方朝位 薩州へ。
・康煕35年(1696) 向氏今帰仁親雲上朝哲 薩州へ
・康煕45年(1706) 向氏今帰仁親雲上朝哲 薩州へ。
・康煕48年(1707) 向氏今帰仁按司朝季 尚益王即位で薩州へ派遣
・康煕51年(1712) 向氏今帰仁親方朝季 年頭使で薩州へ。
・康煕60年(1721) 向氏今帰仁親方朝哲 年頭使として薩州へ。
・乾隆5年(1740) 向氏今帰仁按司朝忠 霊龍院(吉貴公妃)の薨で薩州へ派遣される。
・乾隆11年(1746) 尚氏朝忠 王子のとき薩州へ。
・乾隆12年(1747) 尚氏今帰王子朝忠 慶賀使として薩州へ。
(今帰仁グスク内に乾隆14年の今帰仁王子朝忠の石灯籠あり)
・乾隆17年(1752) 尚氏今帰王子朝忠 正史として薩州、江戸へ派遣される(謝恩使)。
・嘉慶25年(1820)(前年か) 向氏今帰仁按司朝英 前年台風で八重山→与那国島(慶賀改めて)
・同治9年(1870) 尚氏今帰仁王子朝敷 薩州へ。
・光緒元年(1875) 尚氏今帰仁王子朝敷 薩州→東京へ
▲勢理客のウタキ香炉の拓本(二基) ▲スムチナ御嶽の香炉の拓本
『中山世譜』(附巻)や香炉や石灯籠には確認できないが、道光二十六年(1846)丙午十月写文書「元祖日記」の記事に、
一、嘉慶二十四年(1819)己卯四月御殿大按司様御上国ニ付金城にや御旅御供被仰付同七月十五日那覇川出帆与那国嶋
漂着翌辰年六月帰帆仕申候
また、「先祖伝書並萬日記」(平田喜信)に、
一、兼次親雲上(道光20年死去)御事第四代ノ長男、幼少ノ頃ヨリ両惣地頭ノ御奉公勤勉之為メ、掟・・・・
一、二男武太(光緒5年死去)ハ両惣地頭ノ御奉公向全ク勤勉致候ニ付、平田掟役勤ミ志慶真村夫地頭役被仰付
、志慶真大屋子ト云フ・・・
新城徳助の「口上覚」にも、
一、咸豊九年(1859)譜久山殿内御供被仰付同拾壱年酉八月譜久山里之子様屋嘉被仰付光緒元年亥八月弐八迄難有
御奉公相勤置申候
などの記事を拾うことができる。石灯籠や石香炉に必ずしもないが(あったのもあろうが摩耗したり廃棄されたりしたのも多数あろう)、家文書などから、奉公人(後に間切役人となる)と御殿や殿内(按司や惣地頭)との密接な関わりが見いだせる。奉公人は間切への文物(首里文化)を運びこむ重要な役割を果たしている。石灯籠や石香炉は山川(鹿児島県)石や凝灰岩だときく。薩摩からの帰りの船のバラストとして持ち帰った石を使って石灯籠や香炉を作った可能性が大きい。
道光年の石香炉は年号の確認がぜひ必要である。そこに登場する親川仁屋と上間仁屋は今帰仁御殿や殿内などでの勢理客村出身の奉公人ではなかったか。「大城仁屋元祖行成之次第」(口上覚)に以下のような記事がある。奉公人と御殿や殿内との関係を伺いしることがきる。(もう少し整理が必要なり)
勢理客村大城仁屋(玉城掟)(口上覚)
一、嘉慶二十年亥十二月御殿御共被仰付寅年迄四ヶ年御側詰相勤置申候事
一、嘉慶二十四年卯正月嫡子今帰仁里之子親雲上屋嘉被仰付丑四月迄十一ヶ年相勤置申候
一、道光九年疱瘡之時宮里殿内江御雇被仰付十月よ里十二月迄昼夜相勤置申候
勢理客村兼次親雲上(覚)
一、道光二十五年乙巳御嫡子今帰仁里之子親雲上御上国ニ付而宮里殿内江御雇被仰付九月
より十二月迄昼夜相勤置申候事
一、嘉慶二十一年卯十一月廿四日御嫡子今帰仁里之子親雲上御婚礼之時御雇被仰付罷登
首尾能相勤置申候事
一、嘉慶二十年子三月故湧川按司様元服之時肝煎人被仰罷登首尾能相勤置申候事
一、嘉慶二十三年卯三月故湧川按司様御婚礼之時肝煎人被仰付罷登首尾能相勤置申候事
・附届ノ部(恩納間切問書書より))(明治17年頃)
付届けは吏員の昇級のときに行う。品目について間切によって異なっている。恩納間切の場合は、掟より上の役になったとき、例えば下知役、検者、地頭代になったとき、一人につき豚肉四斤づつ、山筆者へ三斤づつ、惣地頭へ三十斤付け届けをする。付届けをする役人は掟以上、下知役、検者、地頭代、
両惣地頭は、盆に薪十束、炭三十斤、ハライ葛(健康食品?)二斤、酒代銭五貫文なり。歳暮のときは豚肉三十斤、生姜二十斤、炭三十斤、薪十束を惣地頭へ差し上げる。
明治の初期の頃、昇級(出世)したとき、盆や歳暮のとき「付届」があり、恩納間切では豚肉、薪、炭、酒代、歳暮のときは豚肉、生姜、炭、薪などの品々である。
・脇地頭へ ・村々より
一 白菜半斤ツヽ 一 角俣半斤ツヽ
一 ミミクリ半斤ツヽ 一 辛子五合ツヽ
歳暮上物例
・公義へ ・間切より
一 干猪肉拾八斤 一 □壱斗八升付届の事
問 文子以上後(役か)上リの時地頭代以下役々へ付届並ニ盆暮当役々へ付届の定例如何
答 役々相互ニ付届ケスる事なし
問 文子以上地頭代マテ役上リの時々両惣地頭其他へ付届の定例如何
答 地頭代以下役上リ時々付届の定例以下の通リ
・両惣地頭へ ・地頭代例
一 肴拾斤ツヽ 一 焼酎弐合瓶一対ツヽ
・両惣地頭摘子元服次第 同人へ
一 肴弐斤ツヽ 一 焼酎壱合瓶壱対ツヽ
・両惣地頭惣聞へ 下知役検者へ
一 肴弐斤ツヽ 一 肴壱斤ツヽ
・両惣地頭へ 夫地頭捌理壱人例并百姓位取の節同
一 肴七斤ツヽ 一 焼酎弐合瓶壱対ツヽ
・右同嫡子元服次第同人へ
一 肴弐斤ツヽ
・右同惣聞へ
一 肴弐斤ツヽ
・下知役検者へ
一 肴壱斤ツヽ
・掟壱人例並ニ百姓赤頭取リ節同
・両惣地頭へ
一 肴五斤ツヽ 一 焼酎弐合瓶壱対ツヽ
・右同嫡子元服次第同人へ
一 肴弐斤ツヽ 一 焼酎壱合瓶対ツヽ
・首里那覇両宿並下知役筆者へ 役上リ人数模合ニテ
一 肴五斤ツヽ
・ゴリ方へ筵チントシテ
一 銭五貫文
・右同嫡子元服次第 ・同人へ
一 肴壱斤五合ツヽ 一 焼酎壱合瓶壱対ツヽ
・右同惣聞へ
一 肴壱斤五合
一問 役々より両惣地頭其他へ盆暮等付届の定例如何
答 盆暮等は役々より付届の例なし
一問 村又は間切より付届の定例如何
答 以下の通り
・聞得大君殿へ ・間切より
一 干猪肉壱斤 一 □四斤四合五勺
・佐敷殿へ ・間切より
一 干猪肉壱斤 一 □四斤四合五勺
・両惣地頭へ ・間切より
一 □壱斗弐升ツヽ 一 代々九年母弐拾粒ツヽ
一 焼酎八合ツヽ 一 猪シヽ拾八斤ツヽ
一 銭弐百五拾文ツヽ
・右同嫡子嫡孫元服次第
一 □弐升ツヽ 一 肴五斤ツヽ
・脇地頭へ ・村より
一 □五升ツヽ 一 焼酎弐合ツ
一 代々九年母七拾粒ツヽ 一 肴七斤ツヽ
・下知役検者並ニ首里宿へ ・間切より
一 □弐升ツヽ 一 肴五斤ツヽ
・下知役検者詰所へ
一 九年母五拾粒ツヽ
・筆者在番下知役筆者並ニ那覇宿へ
一 □壱升ツヽ 一 肴弐斤ツヽ
・地頭代へ
一 □弐升 一 肴弐斤
・捌理へ
一 □壱升ツヽ 一 肴弐斤ツヽ
・勘定主取へ
一 □弐升
・宰領人へ
一 干塩肴五斤
「勤書(口上覚)と間切役人の動き」の報告レジメを。間切役人となる前の御殿・殿内(両惣地頭家)などに奉公した奉公人が間切の掟(ウッチ)に推薦されていく。そのことが「羽地按司御初入」に見られるように、御殿奉公をした仲尾親雲上の働きが後に間切役人に推薦されていく様子が見えてくる。今回「間切役人の動き(世界)を「勤職書(口上覚)」と役人の昇級過程を「辞令書」から見ていく。
1870年に羽地按司(旦那様)一行を羽地間切の案内をしたのだが奉公人の仲尾親雲上(御殿奉公9~19歳)である。羽地間切の真喜屋(ノロ)・親川村の御殿火神・親川城・御嶽・御川、仲尾村のノロ火神、真喜屋のろ火神と御嶽で「立願」(タチウガン)をしている。勤職書(口上覚)に度々「立願」をしている。その受け入れをしているのが間切役人である。宿泊や休憩はウェーキ(豪農)である。羽地按司一行の歓迎会には仲尾次ウェーキ(松田仁屋)、仲尾親雲上、伊差川村の古我知大屋子(伊差川古我地屋)、川上村の真喜屋掟(新島ウェーキ)、源河村の現呉我村(源河ウェーキ)、我部祖河村のこしの宮城仁屋(我部祖河ウェーキ)などの家々である。それは御殿奉公をお願いする場でもある。(御殿奉公をすると地頭代まで昇級できるコースある。エリートコースというのは、その意味である)
「立願」は「上国や薩州上り」の祈願(航海安全)と見られる。それは按司クラスの江戸上や薩州上の祈願であり、随行していった奉公人が無事帰国したとき、ウタキやグスクに寄進した石燈籠や「奉寄寄進」の石香炉(加治木石・山川石)とみている。
http--yannaki.jp-norodonti.html(奉公人の随行)参照
(工事中)
羽地按司御初入(1870年9月3日~26日)(『地方役人関連資料』名護市史資料編5)
・1870年9月
赤平仲尾親雲上(9~19歳まで御殿奉公)。檀那様が羽地間切にやってくる。
・9月3日 羽地按司をお迎えのために9月3日に出発。
・9月6日 羽地按司出発日に首里に到着。
台風のため出発を延期する。
・9月8日 首里を出発する。読谷山間切宇座村で一泊する。
・9月9日 恩納間切番所で一泊する。
・9月10日 名護間切番所で一泊する。
・9月11日 羽地間切番所に到着し真喜屋村で宿泊する。
・9月13日 按司一行は親川村にある御殿火神、親川城、勢頭神御河、御殿御川
仲尾村のろ火神、真喜屋のろ火神と御嶽で御立願
・9月14日 按司一行は屋我地島へ渡って我部村のろ火神と御嶽、饒平名のろ火神、いりの寺、東の寺で御立願
(お昼の休憩所は饒平名村我部祖河大屋子の家でとる。済井出村と屋我村を巡検し
真喜屋の宿舎に帰る)
・9月15日 羽地間切主催の歓迎の宴が行われた。
・9月16日 羽地按司からのお返しの御馳走の招待。
真喜屋村の宿舎へ赤平仲尾親雲上が参上した。
(招待者:間切役人(サバクリ・惣耕作当・惣山当・文子・御殿奉公した者・各村から下知人など)
神人14人、勘定主取・80歳以上の老人達)
・9月17日以降
羽地按司一行は羽地間切の以下の家に招かれる(以下の6家)。
仲尾次村の下の松田仁屋(仲尾次ウェーキ)、上の仲尾親雲上
伊差川村の古我知大屋子(伊差川古我地屋)
川上村の現真喜屋掟(新島ウェーキ)
源河村の現呉我村(源河ウェーキ)
我部祖河村のこしの宮城仁屋(我部祖河ウェーキ)
・9月26日 羽地按司一行は帰途につく。
赤平仲尾親雲上達は羽地大川の中流のタガラまで見送る。
明治の辞令書(新城徳助の昇級過程を示す辞令)
・根謝銘(ウイ)グスクの特徴
根謝銘グスクは14世紀から15世紀に機能した城塞的なグスクで、地元では「ウィグシク」と呼んでいる。城集落背後の標高約100メートルの舌状丘陵端に形成され、丘陵頂上部に古世紀石灰岩の割石で石塁を巡らし、尾根筋は人口の堀切で切断している。
根謝銘(ウイ)グスクの調査は、表採や縄張りなどの確認がなされている。発掘調査も□□年に一部行われている(文化財報告書)。考古学と歴史学の両面からの研究が進めている最中である。それと関わる六つの村との関わりも必要となってきている。グスクと関わる屋嘉比ノロと城ノロの遺品から、祭祀との関わりで歴史をみていくことが可能である。さらに、これまで調査をすすめてきたグスクとウタキを構成する要素の理論づけを整理している。周辺の古墓なども。
①国頭地方の拠点としてのグスク
・『海東諸国紀』(1472年)に載る「琉球国之図」には、ひときわ大きな円形の城塞マークの中に「国頭城」と記載されており、これが根謝銘グスクではないかと考えられている。根謝銘グスクは国頭地域の要となったグスクととらえられ、16世紀前半の首里への按司集居までは、国頭地域の拠点だったと考えられる。
・『おもろさうし』には、屋嘉比港が貿易港として栄えた時代をたたえたオモロが残されている。屋嘉比川の河口にあたる屋嘉比港は、根謝銘グスクの直近に位置し、グスクと対になる港としての役割を持っていたと考えられる。
・屋嘉比川の河口にあたる国頭村浜は、1673年の田港間切創設時に、国頭間切番所が設置された地である。それ以前の間切番所の位置は不明だが、根謝銘グスク周辺にあった番所が、田港(大宜味)間切の新設によって移動されたのではないかという説もある※2。
※2:国頭間切には、間切の中心となる同村(国頭ムラ)がないが、中心地だった「インジャミ(根謝銘)」から国頭(クンジャン)の漢字が充てられたと考えられている(『なきじん研究』2009年)。
②御嶽と集落との関係
・根謝銘グスクに隣接する謝名城と田嘉里は、それぞれ城、根謝銘、一名代、屋嘉比、親田、見里の村(ムラ)が、1903年に合併してできた行政区である。グスク内部にある中城御嶽、大城御嶽は、それぞれ謝名城、田嘉里の御嶽であり、この両御嶽に寄り添うように、6つの村(ムラ)が形成されていったと考えられる。
・グスク内には地頭火の神、ウドゥンニーズ・トゥンチニーズなどの拝所があるが、これらは首里に住む総地頭との関係で設置されたものである。グスクには、集落レベルの拝所と総地頭などの支配者層の拝所が混在して存在している。
・城(グスク)のウンガミには、城ノロが管轄する謝名城、喜如嘉、饒波、大宜味、大兼久が参加する。屋嘉比ノロが管轄する田嘉里は、城のウンガミには参加せず、大城御嶽を拝むだけで、それぞれの管轄は継承されている。
※『琉球国由来記』(1713年)に城村に神アサギがないのは?
・大宜味村の創設は1695年か
・田港間切から大宜味間切へ改称、その時大宜味村が創設されたか。
・田港間切(後に大宜味)と国頭間切(田港間分立以前)を北山王ハニジ以前の興亡との関係
・「海東諸国紀」(1471年)の国頭城の国頭間切の拠点か
〔根謝銘グスクと関係する村(ムラ)〕
・城ノロ管轄ムラ・・・・・・・・・・・城・根謝銘・一代名・喜如嘉・饒波・(大宜味)
・屋嘉比ノロ管轄ムラ・・・・・・・屋嘉比・親田・美里・浜
【薩州・江戸上りと楽童子と奉公人】
琉球国から薩州や江戸上りをした王子や親方などに随行していった楽童子が、帰国してから首里王府の芸能もそうであるが、地方の芸能に影響を及ぼしているのではないか。その学童子の中に各地の間切から殿内や御殿へ奉公した人物が散見できる。それらの奉公人が地方への伝統芸能の伝播の橋渡しをしているのではないか。
薩州や江戸へ随行していった楽童子達が、どのようなことをしているのか。そして、大和の芸能を見て琉球へ導入したのがあるのではないか。『琉球使者の江戸上り』(宮城栄昌著)で、「江戸における公式行事」や「薩摩邸における行事」や「使者たちの私的文化活動」で楽童子達(楽人)の役割が述べられている。享保3年(1718)の楽人は延44人である。中に獅子舞も演じられている。
琉球の文化や琉球人に対する評価は別にして、楽師や楽童子など楽人に推挙され、王子や親方等に随行して薩州や江戸上りできることは、名誉なことであった。そのことと各地に寄進されている石灯籠や石香炉など大和めきものと結びついている。それだけでなく、薩州や江戸へ持っていった芸能を各地の村踊(ムラウドゥイ)の番組に取り組まれていったとみられる。その体表的なものが各地の組踊りであり、今帰仁村湧川の路次楽や松竹梅や古典音楽などである。
今、調査を進めている「操り獅子」(アヤーチ)(今帰仁村謝名・名護市川上・本部町伊豆味)の導入も、王子や親方などの薩州・江戸上りの随行者、そして間切からの殿内や御殿への奉公人(中には楽童子や躍人として随行)、奉公人が間切役人となる。そのような芸能の伝播の様子が見えてくる。
ただし、大和の芸能を琉球に移入していく場合、そのままの形で導入していくものと、琉球化していくものがある。「操り獅子」について、まだ直接の史料に出会っているわけではないが、江戸や大阪で「操」は見ている。その「操」(あやつり)は操人形かと思われる。その操の技法を学び、操りの人形部分を獅子にした可能性がある(もう少し資料を追いかけてみるが、果たしてどうだろうか)。
『琉球使者の江戸上り』の研究をされた故宮城栄昌氏は以下のように述べている。
「使者たちが受けた日本文化の影響も測り知ることのできないものがあった。それが琉球文化の中に日本文化の要素を混融させることとなり、琉球文化の領域と内容を豊かならしめることとなった。琉球文化は固有性に富んでいるといわれながら、異質性にも満ちている。その異質性は琉球に置かれている位置からくる外交活動の側面であった。」
「また、宝暦二年(1753)の謝恩正使今帰仁王子朝義は、薩摩や江戸で島津重年に対し奏楽・漢戯・琉戯を演じ、明和元年(1764)の慶賀正使読谷山王子朝恒も同様であり、さらに寛政二年(1790)の慶賀正使読谷山朝祥も、薩摩・伏見・江戸で奏楽・作舞をしているから、舞踊が半ば公的に演ぜられることは、早くから行われていたようである。そして島津家に慶事があれば、格別盛大な祝賀芸能があった。」
『向姓家譜大宗尚韶威』などの家譜から、丁寧に拾い掲げている。
【今帰仁】
・天啓六年(1626) 孟氏今帰仁親方宗能 薩州へ派遣される。
・康煕二年(1663) 高氏今帰仁親雲上宗将 宮古→薩州→長崎
・康煕壱拾五年(1626) 向氏今帰仁親方朝位 薩州へ。
・康煕弐拾五年(1686) 向氏今帰仁親方朝位 薩州へ。
・康煕参拾五年(1696) 向氏今帰仁親雲上朝哲 薩州へ
・康煕四拾五年(1706) 向氏今帰仁親雲上朝哲 薩州へ。
・康煕四拾八年(1707) 向氏今帰仁按司朝季 尚益王即位で薩州へ派遣
・康煕五拾壱年1712) 向氏今帰仁親方朝季 年頭使で薩州へ。
・康煕六拾年(1721) 向氏今帰仁親方朝哲 年頭使として薩州へ。
・乾隆五年(1740) 向氏今帰仁按司朝忠 霊龍院(吉貴公妃)の薨で薩州へ派遣される。
・乾隆壱拾壱年(1746) 尚氏朝忠 王子のとき薩州へ。
・乾隆壱拾弐年(1747) 尚氏今帰王子朝忠 慶賀使として薩州へ。
(今帰仁グスク内に乾隆14年の今帰仁王子朝忠の石灯籠あり)
・乾隆壱拾七年(1752) 尚氏今帰王子朝忠 正史として薩州、江戸へ派遣される(謝恩使)。
・嘉慶弐拾五年(1820)(前年か) 向氏今帰仁按司朝英 前年台風で八重山→与那国島
(慶賀改めて)
・同治九年(1870) 尚氏今帰仁王子朝敷 薩州へ。
・光緒元年(1875) 尚氏今帰仁王子朝敷 薩州→東京へ
『中山世譜』(附巻)や香炉や石灯籠には確認できないが、道光二十六年(1846)丙午十月写文書「元祖日記」の記事に、
一、嘉慶弐拾四年(1819)己卯四月御殿大按司様御上国ニ付金城にや御旅御供被仰付
同七月十五日那覇川出帆与那国嶋漂着翌辰年六月帰帆仕申候
また、「先祖伝書並萬日記」(平田喜信)に、
一、兼次親雲上(道光弐拾年死去)御事第四代ノ長男、幼少ノ頃ヨリ
両惣地頭ノ御奉公勤勉之為メ、掟…
一、二男武太(光緒五年死去)ハ両惣地頭ノ御奉公向全ク勤勉致候ニ
付、平田掟役勤ミ志慶真村夫地頭役被仰付、志慶真大屋子ト云フ…
新城徳助の「口上覚」にも、
一、咸豊九年(1859)譜久山殿内御供被仰付同拾壱年酉八月譜久山里之子
様屋嘉被仰付光緒元年亥八月弐八迄難有御奉公相勤置申候
などの記事を拾うことができる。石灯籠や石香炉に必ずしもないが(あったのもあろうが摩耗したり廃棄されたりしたのも多数あろう)、家文書などから、奉公人(後に間切役人となる)と御殿や殿内(按司や惣地頭)との密接な関わりが見いだせる。奉公人は間切への文物(首里文化)を運びこむ重要な役割を果たしている。石灯籠や石香炉は山川(鹿児島県)石や凝灰岩だときく。薩摩からの帰りの船のバラストとして持ち帰った石を使って石灯籠や香炉を作った可能性が大きい。
ワラザン(藁算)調査の来客があり、勢理客のヌルドゥンチ跡の神屋、そして近くに勢理客のウタキの香炉の確認まで。勢理客のウタキのイベの祠に二基の石香炉がある。それには銘があり「奉寄進 道光拾九年? 八月吉日 親川仁屋」と「奉寄進 同治九年九月吉日 上間仁屋」である。勢理客のウタキの中のイビに二基の香炉が置かれている。一基はスムチナ御嶽の香炉の年号と一致する。その同治9年は今帰仁王子朝敷が薩州へ派遣された年である。
道光年の石香炉は年号の確認がぜひ必要である。そこに登場する親川仁屋と上間仁屋は今帰仁御殿や殿内などでの勢理客村出身の奉公人ではなかったか。「大城仁屋元祖行成之次第」(口上覚)に以下のような記事がある。奉公人と御殿や殿内との関係を伺いしることがきる。
勢理客村大城仁屋(玉城掟)(口上覚)
一、嘉慶弐拾年亥拾二月月御殿御共被仰付寅年迄四ヶ年御側詰相勤置申候事
一、嘉慶24年卯正月嫡子今帰仁里之子親雲上屋嘉被仰付丑4月迄十一ヶ年相勤置申候
一、道光9年疱瘡之時宮里殿内江御雇被仰付十月よ里十二月迄昼夜相勤置申候
勢理客村兼次親雲上(覚)
一、道光25年乙巳御嫡子今帰仁里之子親雲上御上国ニ付而宮里殿内江御雇
被仰付9月より12月迄昼夜相勤置申候事
一、嘉慶21年卯11月24日御嫡子今帰仁里之子親雲上御婚礼之時御雇被仰付罷
登首尾能相勤置申候事
一、嘉慶20年子3月故湧川按司様元服之時肝煎人被仰罷登首尾能相勤置申候事
一、嘉慶23年卯三月故湧川按司様御婚礼之時肝煎人被仰付罷登首尾能相勤置申候事
勢理客の御嶽とスムチナ御嶽の三基の石香炉の採拓をする。そこに彫られた年号と「…仁屋」の人名をしかと確認したくて。それが揺れていると他の史料とのかみ合わせができなくなる。香炉は雨風にさらされ、また線香をたくので摩耗が激しく、判読がなかなか困難である。
No. |
名称 |
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名 称 |
内 容 |
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1 |
第廿号 |
修業証書 |
沖縄県平民宮城記補(明治11年10月生) |
喜如嘉小学科第二年修業候事 |
明治廿四年三月廿六日 |
沖縄県国頭地方大宜味学区喜如嘉尋常小学校 |
2 |
第拾壱号 |
修業証書 |
沖縄県平民宮城記補(明治11年10月生) |
尋常小学科第一年修業候事 |
明治廿三年三月廿六日 |
沖縄県国頭地方大宜味間切喜如嘉尋常小学校 |
3 |
第二拾三号 |
修業証書 |
沖縄県平民宮城記補(明治11年10月11日生) |
尋常小学科第三年修業候事 |
明治二十五年三月廿一日 |
沖縄県国頭地方大宜味間切喜如嘉尋常小学校 |
4 |
第弐拾三号 |
修業証書 |
沖縄県平民宮城記補(明治11年10月11日生) |
尋常小学科第三年修業候事 |
明治二十五年三月廿一日 |
沖縄県国頭地頭大宜味間切喜如嘉尋常小学校 |
5 |
第廿拾四号 |
卒業証書 |
沖縄県平民宮城記補(明治11年10月生) |
尋常小学科卒業候事 |
明治廿六年三月廿日 |
沖縄県国頭地方大宜味間切喜如嘉尋常小学校 |
6 |
第百七十号 |
修業証書 |
宮城記補(明治11年10月生) |
高等小学校修業年限四ヶ年第一学年ノ課程ヲ修業セシ事ヲ証ス |
明治廿七年三月廿日
|
沖縄県国頭地方国頭高等小学校 |
7 |
第百丗九号 |
修業証書 |
平民宮城記補(明治11年10月生) |
高等小学校修業年限四ヶ年第二学年ノ課程ヲ修業セシ事ヲ証ス |
明治廿八年三月廿三日 |
沖縄県国頭地方国頭高等小学校 |
8 |
第七七号 |
卒業証書 |
沖縄県平民大城記補(明治11年10月生) |
高等小学校修業年限四ヶ年ノ教科ヲ卒業セシコトヲ証ス |
明治三十年三月十八日 |
沖縄県国頭郡国頭高等小学校長泰蔵吉印 |
9 |
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沖縄県琉球国々頭郡大宜味間切屋嘉比村 宮城記輔 |
明治廿七八年戦役ノ際軍資ノ内ヘ金参戦献納候段殊勝ニ候事 |
明治三十年六月一日 |
沖縄県知事従四位勲四等男爵奈良原繁 |
10 |
第弐百壱号 |
修業証書 |
沖縄県平民大城記補(明治11年11月生) |
尋常師範学科第一年級修業候事 |
明治三十一年三月廿七日 |
沖縄県尋常師範学校 |
11 |
第 号 |
修業証書 |
沖縄県平民(明治11年11月生) |
師範学科第二学年修業候事 |
明治三十二年三月廿六日 |
沖縄県師範学校 |
12 |
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大城記補 |
国頭尋常小学校雇教員ヲ命シ月俸金七円ヲ給ス |
明治三十三年七月十三日 |
国頭郡役所 |
13 |
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大城記補 |
雇ヲ命シ月俸金八円ヲ給ス |
明治三十四年四月一日 |
臨時沖縄県土地整理事務局 |
14 |
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雇大城記補う |
測量課勤務ヲ命ス |
明治三十四年四月一日 |
臨時沖縄県土地整理事務局 |
15 |
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雇大城記補 |
事務格別勤勉ニ付為其賞金七円給与ス |
明治三十四年十二月二十四日 |
臨時沖縄県土地整理事務局 |
16 |
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雇大城記補 |
助手ヲ命シ月俸金拾弐円ヲ給ス |
明治三十五年山月三十一日 |
臨時沖縄県土地整理事務局 |
17 |
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助手大城記補 |
月俸金拾五円ヲ給ス |
明治三十五年九月三十日 |
臨時沖縄県土地整理事務局 |
18 |
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助手大城記補 |
事務勉励候ニ付金参拾六円給与ス |
明治三十五年年十二月二十日 |
臨時沖縄県土地整理事務局 |
19 |
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助手大城記補 |
月俸金拾九円ヲ給ス |
明治三十六年四月一日 |
臨時沖縄県土地整理事務局 |
20 |
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助手大城記補 |
事務格別勉励ニ付金八円賞与 |
明治三十六年七月七日 |
臨時沖縄県土地整理事務局 |
21 |
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助手大城記補 |
計算課兼務ヲ命ス |
明治三十六年七月廿七日」 |
臨時沖縄県土地整理事務局 |
22 |
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元臨時沖縄県土地整理事務局助手大城記補 |
在職中事務格別勉励ニ付金八拾五円賞与 |
明治三十六年十月十五日 |
臨時沖縄県土地整理事務局 |
23 |
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助手大城記補 |
御用済ニ付助手ヲ免ス |
明治三十六年十月十五日 |
臨時沖縄県土地整理事務局 |
24 |
第七九〇〇号 |
証 |
沖縄県大城記補 |
於本館商用簿記学卒業候事 |
明治三十八年八月 |
東京簿記精修学館 講頭 大原信久 |
25 |
第八〇九九号 |
証 |
沖縄県 大城記補 |
於本館銀行簿記学卒業候事 |
明治三十八年十月 |
東京簿記精修学館 講頭 大原信人 |
26 |
第五三四号 |
修業証書 |
沖縄県平民大城記光(明治41年2月3日生) |
尋常小学校第四学年ノ課程ヲ修業セシコトヲ証ス |
大正七年三月二十三日 |
沖縄県国頭郡喜如嘉尋常小学校 |
27 |
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大城記補 |
国頭街道改修工事監督助手ヲ命ス 日給五拾八銭給与 |
大正七年三月三十一日 |
沖縄県 |
28 |
第六五号」 |
修業証書」 |
沖縄県平民 大城記光(明治41年2月3日生) |
高等小学校第一学年ノ課程ヲ修業セシコトヲ証ス |
大正十年三月廿二日 |
沖縄県国頭郡喜如嘉尋常高等小学校 |
29 |
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雇大城記補 |
技術科建設勤務ヲ命ス |
大正十年八月十七日 |
沖縄県鉄道管理所 |
30 |
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大城記補 |
沖縄県鉄道管理所雇ヲ命す月俸五拾円給与 |
大正十年八月十七日 |
沖縄県 |
31 |
第一八号 |
卒業証書 |
大城記光(明治41年2月3日生) |
高等小学校(修業年限弐箇年)ノ教化ヲ卒業セシコトヲ証ス |
大正十一年三月二十二日 |
沖縄県国頭郡喜如嘉尋常高等小学校 校長與儀達廣 |
32 |
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第一学年B組 |
大城記光 |
剣道寒稽古中皆勤セシコトヲ賞ス |
大正十三年二月九日 |
沖縄県立農林学校学友会会長 |
33 |
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褒状 |
第弐学年大城記光 |
右本学年間品行学力方正優ナリ依テ磁茲ニ之ヲ賞ス |
大正十四年三月二十一日 |
沖縄県立農林学校 |
やんばるの戦後を考える視点
生業と祭祀から見る戦後の生活変容
仲原 弘哲(南島文化研究所特別研究員)
今帰仁村歴史文化センター館長(2013 年当時)
はじめに
Ⅰ 生業の変容
1. 山原(やんばる)の歴史的背景
2. 風景や生業の変貌
3.戦後の公民館資料(一事例)
Ⅱ 祭祀の変容
祭祀の位置づけ
1.祭祀は休息日(遊び)である
2.祭祀を執り行う神人は公務員である
3.神人の消滅はあるが、祭祀は行われている
4.祭祀の廃止
結 び