山原の港(津)                           トップヘ


 これまで山原の港(津)について報告してきたが、ここに集合させてみる。そこから港が果たしてきた役割や歴史的な出来事を具体的な事例を通してみることに。とりあえず、目についたものを。11月の大学での講義で「港を通してみた歴史」(仮称)につて話す予定。そのことの頭の整理でもある。どんな内容になるやら!

 山原の港について『なきじん研究』(9号)でまとめ、企画展(山原の港(津)と山原船」(平成17年)を開催したことがある。その後、タイ国を訪れる機会があった。デルタ地帯に発達したバンコクの街の発展は那覇港と泊港の街の発達と類似していることに気付かされた。国海上交通の要となる港と地方(ここでは山原)の港の関わりをみていく。そこには、これまで見てきた歴史の常識を覆す場面とであうこと何度か。「歴史をみる視点」や「ウタキ(グスク)見る視点」、「祭祀を見る視点」として展開してきたような。もちろん、陸上交通を通した歴史も。


【造船の制限と用材の保護】(2014年10月13日メモ)

 一、刳舟(くりぶね)の製造を停止し主犯者は流刑に処し、従犯者は科銭百貫文徴せり。
 一、馬艦船は反帆、積高、船数(別に船舶製造の寸法帳あり)を制限し、船手奉行検査の上烙印せり。
 一、那覇、泊の馬艦船、諸間切の地船(ヂブネ)は六反帆以下とし、其の他は別に寸法帳依らしめたり。
 一、造船のときは山奉行等の奥書を以て出願せしめ検査の上許可を与えたり。
 一、大船の檣木材を盗伐せし者は流刑に処し、所轄山当は寺入且科銭五十貫文を徴せり。其の他船
   材の各部分に依り科銭に軽重いありたり。
 一、唐船用材は杣山以外の村内に在りと雖も御用木帳に登録保護せしめたり。

     『真境名安興全集第1巻』361〜362頁より。


2005.11.21(月)メモ

 「山原の津(港)と山原船」の図録の編集にはいる。これまでの調査を一冊にまとめる作業である。これまでの動きで報告した港や船と関わる部分の総括である。一カ月で発刊まで。日々目を真っ赤にしながらの作業が続きそう。
 
 もう一度、大正の頃の港事情の確認からスタートである。『沖縄県国頭郡志』(大正8年)から当時の港情報を拾うことから。
  

 【運天港】・・・港口東に開き海水の干潮時7尺5寸、満潮八丈5尺、東西4町10間、南北9町、港
          頭に古宇利島があり風波静穏、古くから内外商船や戦艦の停泊港。小船は運天
          村の前面に停泊、多量の良水があり運搬に便利。避難港。
 【瀬底港】・・・瀬底島と本島との間。海峡となり深さ十尋、軍艦の停泊港、風波が荒れると汽船や
          帆船の避難港となる。
 【名護港】・・・大正頃、農産物や商工品の輸出入で頻繁に船の出入りがあった。馬蹄形の底部に
         位置。小蒸気船石油発動汽船等の往来が日々頻繁。10数年前(大正から)は数十
         隻の山原船の帆が林立し壮観であった。天候が悪くなると名護湾内にある湖辺底
         港へ避難。
 【炬 港】・・・今帰仁村の大井川の下流域にあり。仲宗根のマチを抱える。石油発動汽船や帆
         船の往来あり。
 【塩屋湾】・・・陸地に囲まれ、湾港全面にさんご礁あり。そのため和船より大きい船は入ること
         ができない難点がある。

2005.11.15(月)メモ

 『沖縄県国頭郡志』と『球陽』に以下のような内容の古宇利島の船持の記事がある。以下の文は『国頭郡志』による。大城や玉城姓は古宇利に見られる。一族の先人にちがいない。

  康煕辛寅?春二月、大城の船四幅帆船(水梢七人)山川玉城等の船七幅帆船(七梢十九人)
  一斉に那覇を開洋せり。隅々読谷山沖に至るや逆風襲い来り為めに七幅帆船は暗礁に衝突し
  て船体全く破壊せらる。時四幅帆船相離るゝこと約一里、大城遥に其難破の様を看るや身命を
  惜しまず忽ち怒涛の中に舳先を転じ、到りて二十名を救助せり。然るに颶風益々強烈となり、
  大城の船も亦進退自由を失い遂に遠く大島七島なる諏訪瀬島に漂着するに至れり。後日天気
  静穏に帰し、一同無事に生還するを得たり。王府之を聴きて大城の功労を嘉みし、褒美として
  特に黄冠を賜はれり。

 
 (工事中) 

2005.11.07(月)メモ

 勝連町(現在うるま市)の平安座、宮城、伊計島まで足を運ぶ。「山原の津(港)と山原船」の展示会がスタートし、改めて東海岸の山原船(馬艦船)の航路と船持ちを多くだした平安座の様子を確認するためである。

【平安座島】

 平安座島は海中道路を通り、手前にある島である。沖縄本島の東海岸の山原船(馬艦船)を操った船持ちを輩出した島である。


 
 
▲現在の平安座の漁港、後方が平安座島    ▲平安座の集落

【宮城島】

 宮城島の島の最高部の台地上(100〜120m)のシニグドーまでゆく。そこに歌碑が建てられている。宮城島には宮城・池味・上原・桃原の四つの集落がある。桃原の集落は平安座島に近いところに位置し、そこに漁港がある。上原と宮城の集落は景観上区分することは困難である。池味の集落は池味港を背にした斜面に発達している。かつては池味港から上原や宮城へ日用品が運ばれていたのであろう。

     高離島や 物知らせどころ にゃ物やべたん 渡地たばぅれ

 

 ▲シニグドーに建立されている石碑       ▲シニグが行われる場所

▲シニグドーから見た池味港、遠方が伊計島 ▲シニグドーから上原と宮城の集落をみる 



【伊計島】

 伊計島はイチパナリジマという。この島にはかすかな思い出がある。中学1年頃の夏休みだったと思う。ホワイトビーチ(勝連半島にある米軍の港)でキャンプをしたとき、屋慶名港からエンジン付の船で宮城島(池味港?)を経由して伊計島へ渡った。その時、接岸したのが一番下の岩場の港ではなかったか。大人に手をとってもらいヒヤヒヤ上陸した。ダラダラ坂を上っていくと学校にたどり着いた。ガジマルの木陰で水筒の水をがぶ飲みしながら休憩。そこから下方の港の方を見ると赤瓦屋根の家がたくさんあった。そんなことがかすかな記憶として残っている。

 伊計島の人たちも山原船を持ち、国頭や先島、奄美方面まで交易したという。現在の漁港の対岸に見えるのが伊計グスクである。伊計グスクのある島と伊計島は現在砂丘でつながっているが、かつては別々の島だったと見られる。伊計の集落は伊計グスクの近郊から現在地に随時移動した可能性がある。

 ▲漁港から見た伊計グスクの遠景       ▲現在の伊計漁港の船揚場


 ▲かつての船着場?          ▲かつての船着場と船を繋いた石か


▲かつての港に近い場所にあるシーサー   ▲海岸に近い場所にある二つの石柱

2005.11.04(金)メモ

 『独物語』(蔡温69歳のとき、国の将来のことを考えて首里王府の中枢部の役人達に語った書)に、当時の港や船についての様子も記してある。先日伝馬船の浸水式に立ち会った。その伝馬船についても触れているので紹介する。伝馬船は『独物語』には浦漕船(ウラコギフネ)とある。『独物語』から1700年代の船や湊について示唆が得られる。船や湊について記された文面(口語)を二、三掲げる。

  那覇泊は馬艦船(マーランセン:山原船)を準備してあるから是で山原並に諸離島を走り
   廻って生計を立て、なお同地所在の人々の便宜にもなっている。だが首里は船乗りにつ
   いて不案内で那覇泊とは様子が別である。右に述べた浦漕船(伝馬船)は首里人であっ
  ても櫓の押し方さえ稽古したら大丈夫乗ることが出来る筈である。その上各地の浦々に湊
  を作って置くならば天候の悪くなり次第どの浦へでも走り入り少しも心配がないと考えられ
  る。


  茶湯崎に湊を築修し置いたら首里全体の便宜は無論のこと山原並に離島からの首里向き
  上納物並に地頭用の荷物類も茶湯崎で陸揚げして便宜がよいし、また首里からの支那行き
  や日本行きの貨物も積み下し積み上げがたやすく如何にも重宝になることは決定的である。
    但し諸船着場の湊の作りざまはその法式がある。水源の無い所は湊を作っても又々泥土
    が満ち塞る筈だ。水源のある所は其の法式で作って置いたら雨のある度に泥土を引き流し
    浅くはならない。幸い茶湯崎は水源がある。




  浦漕船とて三四拾石八九拾石積にても心次第相仕立浦々走廻り薪木商買仕候儀国中之
   重宝第一に候右浦漕船之儀専櫓漕にて向風にも走申船に候右船さへ仕立置候はば薪木
   商売は不朽申仕上世米並砂糖樽右船に積入さばくり一人宰領にて那覇江乗廻せ相納候は
   ば百姓手暇費無之尤船主も右船賃を取各勝手能罷成儀案中之積に候
   但、浦漕船作様其方式有之候


諸港津巡視(沖縄県史 21 旧慣調査資料)より    (2014.10.12:メモ)

1.与那原港

 与那原港は那覇港につぎ山原船の出入、最も頻繁なる港にして、常に数十艘の船舶輻輳せり。本港には船舶取締所ありて、与那原村一ヶ村の出入山原船を検査す。仝所の取調によるものは輸出の重もなるものは焼酎にして、輸入の重なるものは薪炭とす。而してその焼酎の出港先は重に国頭、久志、金武の三間切に向かうものにして、本港より直に道の島に向て航行するもの等は、未だ発見する能はず、然れども本港には道の島より日本形船の入港することも、亦少なからざるべければ、是等か自然積載することあるも知るべからず。然れども是等の船舶に向ては何等の規程なきを以て出入港の度数たに知る能はずと云う。亦遺憾極まれりと云う。

 本港に接続して小那覇下と唱う所あり。西原間切小那覇村に属す。今回幸いに本間切に一泊せるを以て輸出入等の項を取調べたるに仝地は首里より焼酎の仕込を為すに、最も便利と見え東海に浜せる平安座以南のものは大概仝地より積載するものの如し。是等は別に津口手形(焼酎販売人は別に此手数を要せずと云う)のあるにあらされば輸出高は之を確知する能はざれども、あるいは却って与那原港よりも多額を輸出するやも知るべからず。今本部間切を取調べたる明治26年度中の輸出入の主なものを掲げる。

【輸 入】(船数:23)
 薪・木材・竹茅・樽板

【輸 出】(船数:29)
 米・焼酎・茶・金(金具?)



2.泡 瀬

 泡瀬港は美里間切に属し往古泡瀬島と称する一の島嶼なりしも、漸々本地に接続して、今日の如く人家稠密なるに至りしものなりと云う。

   (続く)
 



3.平安座

 平安座は与那城間切に属す。一小島嶼にして戸数僅かに三百余戸に過ぎざるも島民は主に漁業と航海とに従事するものなるが故に、道の島に向て航行するもの実に夥しく、あるいは津口手形を受くるあり、受けざるありて、其の正確なる度数は之を知る能はざれども、村民の言う所に依れば本年の如きも、現に数十回の往復を為しtがるが如く、その主なるものは津堅門加那外十三名あり。

 而してその目的tがる総て道の島の産牛を買入るが為に航行するものにして之を買入るるには熊本県の焼酎を輸出して以て彼此交換するものの如く其の航行する船舶は総て刳舟三艘若しくは四艘を組合せたるものにして(此の組合せを為したるものを方言にてテンザン舟と云う)一回少なくとも二石あるいは三石を積載するを得べしという。


   (続く)

4.名護湾

 名護湾は名護間切大兼久、城、東江の三ヶ村に渉る港湾を総称したるものとす。本港は国頭役所の所在地なるを以て焼酎の輸入実に夥しく国頭地方第一の最多額を輸入す。就中商人にして五反帆船を所有し常に那覇に往来し焼酎の輸入を図るあり。

 其の他百般の総て、遂日繁栄に赴くか如し、然れども船舶の出入は、主に那覇間に於いて為すのみにして、遇々国頭大宜味本部より入港するものとあるも、其の数僅少なりとす。殊に直に他府県に航行せんとするが如きは末だ、曾て見ざる処にして、他府県より来るものも、曾て之れあらずと云う。或いは然るか如し故に先ず目下の情勢に於いては本港は密輸の懸念なからるべしと思推す。


5.勘手納港

 勘手納港は羽地間切仲尾、仲尾次の両村に亘るの湾口を称するものにして、旧藩の頃にありては、本港に於いて国頭、大宜味、羽地の貢物を収納したりしと云う。本港は特に港名もありて、或いは船舶の出入も頻繁なるが如しと雖えども、現今只その名の存するのみ。

 僅かに貢租を搭載して那覇に航行するに過ぎず、然るに呉我、源河、稲嶺、真喜屋等は目下常に、船舶の出入り絶えざるものの如く、随て焼酎の輸入も少なからず。特に稲嶺村には製造営業人あるを以て、当村より他に輸出するものも、僅少ならず。然とも本間切の船舶が他府県に航行することあらざるを以て密かに輸出を為すものはあらざるべきも本間切は藍を生産最も多きが故に之を買入れん為め道の島より来るの船舶僅少ならずと云う。

 かの屋我地島は塩田ありて、本島にも亦来るもの少なからざるを以て是等の船舶が自然本間切の営業人より買入れて積載することあるや、未だ知るべからず。故に多少の懸念なきにあらざれども、又深く憂ふるに足らざるべしと思はる、然れども焼酎営業人が輸出の情況尚一層注意を要すべきこととす。
 


6.運天港

 運天港は那覇港にも優れた良港と称す。然れども本港に定繋せる船舶は極めて僅少にして輸出入共に他間切船に依ると雖も、多くは那覇の往復に止まりて、他府県に航行して営業せんとするが如きものあるにあらず。

 □々道の島に航行せんとするもの、又は道の島あり。那覇に航行せんとするもの風潮の為め一時寄港することあるも、其の数実に僅少にして、故らに本港より酒類を買い入れて脱税せんとするか如きは目下の処にては、之れあらざるべし。

 然るに本港湧川村沖に碇泊せる日本形船舶一艘あり。其の在籍を問うに喜界島にして沖永良部島より来り。順風を俟って帰島せんとするものなりと。或いは密に焼酎を積入したるやも図られされば、必ず之を臨検せんとせしに、生憎強風に遭い之に近寄る能はず遺憾なから空しく本港を出立したり。



   ▲現在の今帰仁村の運天港


7.炬 港

 炬港は運天港に接近し、仝間切謝名、仲宗根、崎山、平敷、寒水、岸本の六ヶ村に亘る」本港も旧藩の頃右六ヶ村の税品を収納したる所なれば、那覇との往復常に絶えず、然れども港内水浅いくして大船を入るる能はざれば道の島往来等の船舶此所に寄稿するか如きことあらず。且つ焼酎販売営業者も僅少なれば、到底他府県に迄輸出せんとするか如きは之あらざるべし。

 (昭和の初期、泊との間で定期便が運航してる)


8.渡久地港

 渡久地港は国頭地方にありては名護につぐべき物資輻輳の地にして、其の地にして其の港湾もまた余り悪からず。山原船の出入常に頻繁なりとす。当港は焼酎の販売者も多額の仕入を為してその販路最も広きが如し。特に帯水を隔てて瀬底島なるものあり本島は道の島に往返するの船舶常に寄港する所にして明治26年27年両年間の度数を概算する。

   道の島国頭等に向かうとき    那覇に向かうとき  
         明治26年  27年 26年  27年 
 日本形船  7  5
 5  4
琉球形船   48  40  60  30
計   55 45  65  54


  ▲現在の本部町の渡久地港


【国頭村安田港】 2005.1.6(木)メモ

 国頭村の安田漁港をゆく(元旦)。現在漁港として整備されているが、山原船が往来していた頃の港とは異なる。また、漁港あたりは必ずしも、かつての港ではない。

 明治14年安田村を訪れた上杉県令日誌に「古堅家ヲ発ス、路左ニ折レ、薯圃ヲ貫キ、海浜白砂ノ間ヲ過キ、両舟ヲ買ヒ、纜ヲ解ク、夫レ安田港ノ勝概タルヤ・・・・山原船数艘碇泊シ・・・」とある。

 安田村に漂着した朝鮮人にどう対応しているかは、首里王府の機構が地理的孤島と言われる沖縄本島の末端までどう機能していたかを知ることができるし、さらには首里王府が異国に向けた姿勢が窺える。また、安田から辺戸岬を回り西の海上から泊へ移送するか、それとも東回りにするか。単なる風波だけの問題ではなく、与那原あたりから陸上で泊まで移動ことは、琉球国の内情を異国人に知られることになる。

 そのため、一部陸路(前例があった)を通り、西コースで泊まで移送している。在番や検者、横目、御物奉行、御鎖之側、大夫、通事、医者、評定所筆者などの首里王府役人の動きそのものが首里王府の異国船や異国人への国策としての対応である。


・.安田港
(国頭村安田)

 国頭村安田港ゆきは、乾隆59年(1794)に朝鮮人十名が安田村いふ干瀬に漂着した出来事があったからである。安田のシニグやウンジャミグヮーや神アサギの調査で何度かきている。今回は「朝鮮人十人国頭間切安田村江漂着ニ付送届候日記」の様子を200年前の出来事であるが、いくつか確認しておきたかった。伊部干瀬は現在の漁港付近ではなく伊部集落沖の干瀬とみられる。

 朝鮮人の漂着とは別に、1853年7月21日にぺりー一行が伝馬船二艘で「あだか」にキャンプを張り、22日には出帆している。

 『国頭村史』から概要をまとめてみた。
  1794年1月30日明け方数十人乗りの七反帆唐(朝鮮)船が国頭間切安田村の伊部干瀬に10人漂着した。乗組人が浜にたどりつくのを遠見番が見つけ番所に報告した。番所から検者知名筑登之親雲上と在番松崎筑登之親雲上の名で飛脚を出し、三司官与那原親方に届けられ、さらに国王尚穆に伝えられた。首里王府が朝鮮人だとわかったのは2月9日である。
  2月4日に出された鎖之側富盛親雲上から以下のような「覚」は唐人としてである。それは間切在番と検者に出されている。途中から朝鮮人扱いとなる。

   一漂着唐人へ地下人不相交様、堅固可申渡候事
    一唐人罷居候近辺、女往還堅禁止之事
    一大和年号又は大和人之名乗并斗升京分唐人へ見せ申間敷事
       附通用之金相尋候ハバ鳩目金相用候段可答事
    一村中火用心能々入念候様毎晩申渡、検者ニ而其首尾可申出事
    一村中ニ而大和歌仕間敷事
    一唐人滞在中御高札掛申間敷事
      右之通堅固可被申渡置候以上

 
 その「覚」は、琉球国が薩摩の附庸国であることを知られないための対応の仕方である。那覇(泊)への移送は、海路と陸路の意見がでたが陸路に決定する。安田村から西海岸の奥間村(国頭間切番所あり)に出て、同村のかかんず(鏡地)の浜から乗船する手はずとなる。鏡地の浜に長さ三間、横九尺の小屋が作られ、そこが仮の宿となる。

・9日朝五ツ時分安田村を出る。夜の五ツ時分に鏡地浜に到着する。
・10日「朝鮮人が順風次第奥間村から泊へ向けて出船の予定。
・18日国頭間切地船で鏡地港を出発する。
・18日本部間切瀬底二仲に到着する。
・20日渡久地港に廻船しする。
・21日渡久地港を出港する。
・同日七ツ過時分に泊沖に到着する。
  (外国船が漂着した場合は、乗組員を移送して泊屋敷に収容し、接貢船
  で中国に送るのが慣例である)
・5月朔日 接貢船泊を出船する。
・5月20日 順風なく那覇川に戻る。
・6月18日 那覇川口外にて接貢船に乗り付けて出帆する。



  ▲ミチブーにつくられた安田の漁港      ▲網にかかった魚をはずしている(1日)

 【参考文献】
・『国頭村史』国頭村役所発行
・『琉球王国評定所文書』第1巻「
・『沖縄県史料』漂着関係記録(前近代5)「朝鮮人送届日記」参照。


 港(津)とは別の関心で国頭村辺土名の「世持之宮」内の香炉をみる。確認できたのは○の香炉である。ただし、磨耗し文字の判読が困難のもある。画像で紹介していない香炉は奥にある、あるいは新しいのに作り変えられていたか未確認。

  @道光二十二年(1842)壬寅 奉寄進 宮里仁屋
  
A咸豊九年(1859)巳未十一月吉日 奉寄進 金城仁屋 仲間仁屋
  
B咸豊十年(1860)九月 奉寄進 宮城仁屋
  C光緒十一年(1885:明治18)乙酉五月吉日 奉寄進 謝敷仁屋
  D昭和四年(1929)巳己霜月十九日 区民一千五十一人 奉寄進
  
E一九五一年十一月十日南米ブラジルヨリ帰国 辺土名上門 記念
                    宮城久保

 
 上の香炉の年の記事を『中山世譜附巻』から拾ってみると、明治以前のものは按司や脇地頭が薩州へ使者そして派遣された年と一致している。近世末の御嶽や祠の「奉寄進」の香炉は大和旅と関わるものに違いない。Cも合わせ見ると唐旅も含んでいるのかも。


  @道光22年(1842) 
    馬氏国頭按司正秀が薩州へ。7月11日出発し、9月27日に帰国している。
  A咸豊9年(1859)
    馬氏国頭按司正秀が薩州へ。6月初10日出発し、10月21日に帰国している。
  B咸豊10年(1860)
    馬氏辺土名親雲上正蕃が薩州へ。5月29日出発し、9月24日に帰国している。

  Cの謝敷仁屋について『国頭村史』(宮城栄昌 258頁)は、
   謝敷ナバは1884年(明治17)12月現在なお福州に滞留していた。いつ帰国したか不明
   であるが、辺土名世神への寄進の香炉に「唐旅帰リ、光緒十一年乙酉新門謝敷仁屋」と
   刻んでいる謝敷仁屋はナバのことと考えられる点からみて、彼は1885年中(光緒11年)
  に帰国したのではなかろうか」と述べている。

・1753年山奉行筆者が津口勤番を兼務したとき、辺土名村は宇良・伊地とともに、検者の下で船の
 積荷などの津口改めがなされた。


  ▲国頭村辺土名の「世持之宮」       ▲咸豊九年奉寄進の香炉


   ▲道光二十二年の香炉か?        ▲咸豊十年の奉寄進の香炉


 ▲1951年ブラジル帰国の寄進の香炉      ▲地頭火神(辺土名脇地頭)


【根謝銘グスクと屋嘉比津(港)】

 根謝銘グスクと関わる津(港)は屋嘉比川(現在田嘉里川)の河口が港として機能しているが、グスクが機能していた時代は、もっと上流部にあったと見られる。現在の屋嘉比川の河口にサバニが数隻あるのみ。
 
 屋嘉比川はもう少し上流部まで入江になっていて山原船が出入りしていたという。



   ▲屋嘉比川の河口付近(屋嘉比港)      ▲後方の中央部の山が根謝銘グスク

【貢納物品領収旧藩慣例並ニ置県後取扱順序】(明治16年)
(『沖縄県史』14巻)メモ
 
  旧藩ノ節ハ鹿児島上納米ノ払下ヲ買受ケタル商人ヨリ在番役ヘ請取方申出テタル時ハ在番役
  ノ照会ニ拠国頭地方今帰仁本部羽地名護ノ四港ニテ近傍間切ノ貢米ヲ収入シ買請ノ商人ヘ渡
  シ来リシ処明治七年内務省直轄以後ハ藩庁ヨリ石代金上納トナリ人民之貢米ハ悉皆那覇納メ
  トナル置県後モ同シ
    ・貢物納入蔵割
     那覇蔵納リ
       島尻地方
       一 拾五カケ間切
        一 国頭地方
        一 大宜味間切
        一 国頭間切但安田村安波村ノ義ハ首里ヘ相納候ニ付除ク
        一 今帰仁間切
       一 羽地間切
       一 本部間切
       一 名護間切
       一 恩納間切
           〆
       一 宮古島
       一 久米島
       一 八重山島
       一 伊江島
       一 慶良間島
         弐拾弐ケ間切
          〆 六島
      首里蔵納リ
       国頭地方  
       一 安田村
       一 安波村
       右ハ国頭間切ノ内船場運送ノ都合ニ拠リ首里ヘ相納来候
       一 金武間切
       一 久志間切
         〆
       中頭地方
       一 中頭地方 拾壱ケ間切
         〆 拾三ケ間切ト弐ケ村