【宮城島】
宮城島の島の最高部の台地上(100〜120m)のシニグドーまでゆく。そこに歌碑が建てられている。宮城島には宮城・池味・上原・桃原の四つの集落がある。桃原の集落は平安座島に近いところに位置し、そこに漁港がある。上原と宮城の集落は景観上区分することは困難である。池味の集落は池味港を背にした斜面に発達している。かつては池味港から上原や宮城へ日用品が運ばれていたのであろう。
高離島や 物知らせどころ にゃ物やべたん 渡地たばぅれ
【伊計島】
伊計島はイチパナリジマという。この島にはかすかな思い出がある。中学1年頃の夏休みだったと思う。ホワイトビーチ(勝連半島にある米軍の港)でキャンプをしたとき、屋慶名港からエンジン付の船で宮城島(池味港?)を経由して伊計島へ渡った。その時、接岸したのが一番下の岩場の港ではなかったか。大人に手をとってもらいヒヤヒヤ上陸した。ダラダラ坂を上っていくと学校にたどり着いた。ガジマルの木陰で水筒の水をがぶ飲みしながら休憩。そこから下方の港の方を見ると赤瓦屋根の家がたくさんあった。そんなことがかすかな記憶として残っている。
伊計島の人たちも山原船を持ち、国頭や先島、奄美方面まで交易したという。現在の漁港の対岸に見えるのが伊計グスクである。伊計グスクのある島と伊計島は現在砂丘でつながっているが、かつては別々の島だったと見られる。伊計の集落は伊計グスクの近郊から現在地に随時移動した可能性がある。
道の島国頭等に向かうとき | 那覇に向かうとき | |||
明治26年 | 27年 | 26年 | 27年 | |
日本形船 | 7 | 5 |
5 | 4 |
琉球形船 | 48 | 40 | 60 | 30 |
計 | 55 | 45 | 65 | 54 |
上の香炉の年の記事を『中山世譜附巻』から拾ってみると、明治以前のものは按司や脇地頭が薩州へ使者そして派遣された年と一致している。近世末の御嶽や祠の「奉寄進」の香炉は大和旅と関わるものに違いない。Cも合わせ見ると唐旅も含んでいるのかも。 |