山原の神アサギ


・はじめに

・神アサギのある村(ムラ)―アサギロード

・ウタキや神アサギを中心とした集落景観

・歴史的風景を残す今泊と運天

・『琉球国由来記』(1713年)に登場する古層の村(ムラ)

  郡(古宇利)/湧川(1738年創設)/天底(1719年伊豆味から移動)/勢理客/

 上運天/運天/仲宗根/玉城/寒水/岸本/謝名/平敷/崎山/仲尾次/

  諸喜田/志慶真/兼次/親泊/今帰仁

・公儀ノロと管轄村

 ①郡ノロ(古宇利村)

 ②勢理客ノロ(勢理客・上運天・運天)(※後に湧川)

 ③玉城ノロ(玉城・謝名・平敷・仲宗根)

 ④中城ノロ(崎山・仲尾次・諸喜田・兼次)(後に志慶真)

 ⑤今帰仁ノロ(今帰仁・親泊・志慶真)

・神アサギのない字(アザ)
   越地  呉我山 渡喜仁



今帰仁の神アサギ

 山原の村々に神アサギやハサギと呼ばれる祭祀に関わる建物がある。神アサギのある村を「古層の村」と呼んでいる。古琉球の時代から(17世紀以前)からあった村と考えられている。かつては茅葺き屋根で軒の低い建物であったが、現在は瓦葺きやコンクリートになっている。神人たちが祭祀のときに使った施設である。神アサギ内にはタモト木があり、神を招いて座らせたという。以前は香炉もなかったが、香炉が設置されたところもある。神アサギは沖縄本島の北部から奄美の南側にかけて分布している。『琉球国由来記』(1713年)に、当時の村やノロ、そして神アサギ(ハサギ:アシャギ)の存在を確認することができる。

 与論のシニグを見るとサークラ(一族?)毎に行われている。沖縄本島北部ではムラ毎に行われている。与論島ではシニグが行う毎に仮小屋をつくっている。山原の神アサギは固定化しているが、それは近世になってからのでことではないか。また、ムラ毎に行っているが、近世以前は一門ごとの祭祀ではなかったか。一門毎に行っているのはハーウガミ(河拝み)である。薩摩軍の琉球侵攻以後、村(ムラ)成立し、村ごとに租税を課すことになり、神アサギは祭祀空間と同時にムラの租税(穀物)を一時集積する場となったと見ている。

 神アサギを見ていくことは近世の村の成り立ちを祭祀や租税など立体的に描くことにつながっていく。明治以前に村が創設されると祭祀を行い、神アサギを造らなければならなかったのか。大正以後に新接されたアザ(字)が祭祀や神アサギを必要としなくなった理由も見えてくる。300年余、神アサギが遺り、旧暦で行われる祭祀が神人はいなくなるが、区でかろうじて行われている理由がわかる。

 建物はは茅葺きからセメント瓦葺き、赤瓦へと変わるが神アサギは遺っている。


【今帰仁の神アサギ】

 今帰仁村内に21の神アサギがある(湧川のヒチャアサギは奥間アサギといい、各字の神アサギとは別である)。崎山から西側では神ハサギ、平敷から東側ではアサギという。神アサギを見ることは村(ムラ:現在のアザ)を歴史的に見ていくことにつながる。明治三十六年以前に創設されたムラは神アサギを設け、神人を置き祭祀を行わなければならなかった。祭祀や神アサギやウタキは村の成り立ちと切り離すことができないものである。そのため、村が合併しても祭祀は一つにすることはなく、その伝統は今に引き継がれている。

 例えば今泊や諸志に二つの神ハサギがあり、玉城には三つの神アサギが今でもある。それは行政として合併しても祭祀は一つにはならないという法則をなしている。祭祀が制度としてなくなると、分字しても新しく神アサギを作る必要がなくなった。越地と呉我山と渡喜仁の三カ字に神アサギがないのはそのためである。祭祀は元の村に参加する。

神アサギの建物は瓦屋根、赤瓦屋根、コンクリートとなっている。かつては茅葺き屋根の軒の低い建物であった。茅葺屋根が残っているのは村内では崎山のみである。


①ハサギンクヮー(今泊)

 今帰仁村の今泊に二つの神アサギがある。その一つはハサギンクヮ―(『琉球国由来記』(1713年)には安次嶺アシャギ)と呼び、かつての今帰仁村のアサギである。祭祀は今帰仁ノロの管轄で親泊村と一体になった形で行われている。現在四本のコンクリート柱で線香は海側の方向に向かってたてる。神ハサギでの祭祀はシマウイミ(旧盆明けの子の日・旧8月11日・プトゥチウガン新12月24日)に使われる。写真はシマウイミの場面である。

 


②フプハサギ(今泊)

 今帰仁村今泊のウプハサギ(親泊村のハサギ)である。公民館の側にあり戦前から数回に渡って付近を移動している。祭祀は今帰仁村(ムラ)と同様今帰仁ノロの管轄である。四本のコンクリートの柱で、香炉は海の方向に向かっている。中にタモト木の代わりにコンクリートの柱が横に置かれている。シマウイミ・プトゥチ御願のときに神ハサギで祭祀が行われる。写真はフプハサギである。

 

③兼次の神ハサギ

 兼次ムラは中城ノロの管轄である。兼次の旧集落は、かつて山手の古島原にあった。集落の移動とともに神ハサギも移動したようである。古原にハサギ跡地といわれる場所があり、拝所となっている。ハサギは集落の移動に伴って移る傾向にある。その事例の一つである。香炉は旧集落地の方に向かい、タモト木を模したコンクリートがある。コンクリートの8本の柱がある。写真は兼次の神ハサギである。



④志慶真の神ハサギ(向かって左側)

 志慶真村は17世紀の初頭まで今帰仁城の後方にあったが薩摩軍の琉球侵攻(1609年)の後、幾度かムラ移動する。最後は明治36年諸喜田村に統合される。志慶真村は、今帰仁ノロの管轄村であったが今では中城ノロが祭祀を行っている場合が多い。ただし、志慶真乙樽の神役は今帰仁城ウイミ(海神祭)のときは今帰仁ノロの管轄で祭祀を行っている。諸喜田村と志慶真村が合併して諸志となるが神ハサギは並んである。左側が志慶真の神ハサギ。



⑤諸喜田の神ハサギ(向かって右側)

 諸喜田村は明治36年に志慶真村と合併して諸志となる。スクジャの呼び方は諸喜田にちなんだ呼び方で、中城ノロの管轄である。戦後神ハサギを統合した時期があるが、具合が悪く再度二つの神ハサギにした。諸喜田村の神ハサギはヌンドゥルチの西側にあったのを戦後一時期志慶真のハサギと一つにしたが、現在地に二つのハサギが並び、二つのムラの合併の面影を遺している。(右側が諸喜田の神ハサギ)
 

⑥与那嶺の神ハサギ 

 与那嶺村の祭祀は中城ノロの管轄である。神ハサギは赤瓦屋根の建物で、かつては西側にあったという。そこに石柱が残っていて、神道が側を通っている。ウプユミ(旧7月の最後の亥の日)時、中城ノロは崎山・仲尾次・与那嶺・諸喜田・兼次の村々を弓・ナギナタなどを持ち、ノロは馬に乗って祭祀を行っていたという。香炉は御嶽を背にして海の方に向けて置かれている。

 


⑦仲尾次の神ハサギ

 
仲尾次は中城村と呼ばれていた。祭祀は中城ノロの管轄である。仲尾次の御嶽(ウタキ)は崎山を超えた平敷地番のスガー御嶽(中城グスク?)である。中城ノロは中城村に居住していた時期もあったであろう。祭祀管轄内の崎山・与那嶺・諸喜田の村にノロ殿内跡があり、その名残りを残している。現在のノロ殿内は諸喜田(諸志)にある。仲尾次の神ハサギは、村屋(ムラヤー)の葺き替えなどで何度か移動している。現在の神ハサギは平成5年建立である。

 


⑧崎山の神ハサギ
 
 崎山村の祭祀は中城ノロの管轄である。崎山にノロドゥンチの祠があり、中城ノロの住居があった痕跡がみられる。旧暦6月最後の亥の日にノロドゥンチを拝み、そこから崎山・仲尾次・与那嶺・諸喜田・兼次の5ケ村を神人は弓やナギナタなどを持ち、ノロは馬に乗って祭祀を行っていたという。崎山の神ハサギは茅葺き屋根や石柱・タモト木などがあり、村々にあった神ハサギの古い形を遺している。

 

⑨平敷の神アサギ 

 平敷から東側のムラ(字)では神アサギと呼ぶ。神アサギはセメント瓦葺きで御嶽(ウタキ)の中にある。回りにイベ・ペーフドゥンチ・掟ドゥンチ・島田ドゥンチなどの拝所がある。かつて、御嶽の周辺にあった拝所を御嶽に移動したという。御嶽を中心に集落が展開していた形跡が見られる。平敷の祭祀は玉城ノロの管轄である。馬に乗って玉城ノロが平敷の神アサギまできて祭祀を行ったという。ムラ・シマ講座(平成5年)




⑩謝名の神アサギ 

 謝名の祭祀は玉城ノロの管轄である。神アサギは謝名の大島原にあり、御嶽を背に南斜面に集落が発達している。昭和初期、アサギ周辺に旧家・後の殿内・前の殿内・イリン殿内・地頭火神などがあったという。昭和35年に茅葺き屋根から瓦葺きの建物になった。アサギには庭(ナー)があり、そこに舞台をつくり豊年祭を満4年ごとに行う。

 

⑪仲宗根の神アサギ

 
仲宗根は玉城ノロの管轄村である。旧集落は御嶽(ウタキ)を背に南斜面に発達している。旧集落の南方の麓に前田原があり、かつての水田地帯である。神アサギは村屋(公民館)一帯を何度か移動している。御嶽の入口に鳥居がたった頃の神アサギは茅葺き屋根の建物であった。アサギ内にはタモト木と香炉が置かれている。現在の神アサギは上の方に移動している。

 


⑫玉城の神アサギ

 
玉城の神アサギは現公民館の東側の御嶽(?)の中にある。アサギナーに村移動を記念して「玉城殿堂建設記念碑」を建立している。裏面に玉城石・ウペフ殿内・玉城勢・内神殿内・シリトン内など、それに稲蔵祠を整備したと刻まれている。旧暦4月15日はタキヌウガンで、スムチナ御嶽に玉城・謝名・平敷・仲宗根の神人や村人が集り祭祀が行われる。そこでの御願が終わると各字へ戻る。玉城の神人と参加者はアサギナーに集り御願をする。(平成3年のタキヌウガン)

  


⑬岸本の神アサギ 
 岸本村は玉城に合併統合された。岸本ノロの管轄。岸本村も1862年に村が疲弊したために王府から移動を許された。明治15年頃の調査で「ノロクモイ火神・神アサギ・島ノ大屋子」が記されている。現在の神アサギは瓦葺きのブロックの柱の建物。アサギの近くに岸本ノロの家跡がある。「大正二年十月十七日附願岸本ノ加ネイ大城カマト死亡跡職大城カマド採用ノ件認可ス」(沖縄県知事印)とある(写)。 

 


⑭寒水の神アサギ

 
寒水は別名パーマと呼んでいる。村の祭祀は岸元ノロ管轄である。1862年に玉城・岸本の村が移動したとき、寒水村も移動している。寒水の御嶽は昭和30年代まで大井川を越えた対岸に位置していた。近世中頃(?)に大井川の流れを変えるため開削がなされた、そのため御嶽を集落が分断されたという。神アサギの庭(ナー)で豊年祭を行う。近くに獅子小屋もある。(写真は昭和40年頃)




⑮湧川の神アサギ

 湧川は1738年に創設された村(ムラ)である。そのため『琉球国由来記』(1713年)には村の存在はない。明治15年頃の「沖縄島諸祭神祝女類別表」の湧川村に「字ノロクモイ火神壱ケ所、神アシアゲ壱ケ所・カレキヤマタ嶽壱ケ所」とあり、当時神アシアゲが一ケ所あったと明記されている。

 
   

⑯奥間アサギ(湧川)

 湧川に奥間神アサギと呼ばれているアサギがある。このアサギはムラの神アサギとは異なる。湧川の二つの神アサギは、二つのムラの合併の痕跡ではない。建物は他の神アサギと類似するが、火神(三つの石)が置かれていること。神アサギに火神を祭る例よほどのことである。それは奥間アサギと呼ばれているように旧家の奥間家の屋敷跡(殿地)と考えた方がよさそうである。

  
    

⑰天底の神アサギ

 天底村は1719年に本部間切から今帰仁間切に移動してきた村である.1713年の『琉球国由来記』には本部間切の村である。天底ノロは天底と伊豆味村の祭祀を掌った。大正時代まで天底ノロは馬に乗って伊豆味へいき祭祀をやっていたという。現在の神アサギは瓦葺きであるが、かつての神アサギは石柱の建物であった。(写真は平成元年のサーザーウェー)

 
   

⑱勢理客の神アサギ

 「せりかくの のろの あけしの のろの......」とオモロで謡われる村である。勢理客ノロは勢理客・上運天・運天の村の祭祀を掌る。ウプユミやワラビミチの時、湧川の祭祀にも関わる。勢理客ノロ殿地跡は神アサギの側にあり、火神やワラザンが祭られている。ノロ殿地に簪(カンザシ)が二本残っている。一本の簪は竿部分を失っている。戦争のとき家が焼けてしまい、簪も焼け銀メッキがとれている。(写真は平成3年のムラ・シマ講座)


   ⑱勢理客の神アサギ


⑲上運天の神アサギ 
 上運天の祭祀は勢理客ノロの管轄である。神アサギは6本の柱をもち、瓦葺の建物である。昭和30年代まで茅葺き屋根の神アサギであった。サーザーウェーのとき、アサギナーでスクをすくう所作が行われる。また、ワラビミのとき、勢理客ノロは湧川・勢理客・上運天、最後に運天の神アサギまで祭祀行う。神アサギの屋根裏に獅子が置かれている。上は昭和30年代の茅葺き屋根の神アサギ,下は現在の神アサギ。

 
 

⑳運天の神アサギ

 運天の祭祀は勢理客ノロの管轄ムラである。ワラビミチのとき、湧川・勢理客・上運天・運天と神人と子供(太鼓をたたく)が参加し次々と村をまわる。運天の神アサギが最後である。運天の神アサギはムラウチにあり、屋根の低い瓦屋根葺きの建物である。アサギの側に井戸と脇地頭の火神の祠がある。神アサギの柱はブロックになっているが、四本の柱の建物だった痕跡を残している。

   

㉑古宇利の神アサギ

 古宇利島は一ノロが一村(島)を管轄する。神アサギは中森の側に位置し、豊年祭を行う舞台とアサギナーがある。4本柱のコンクリートの神アサギである。かつての古宇利島の神アサギは石柱の茅葺き屋根であった。神アサギはタキヌウガンやプーチ御願のときなどにも使われるが、海神祭(ウンジャミ)の時のメイン会場になる。現在一つの神アサギであるが、アサギマガイやヒチャバアサギなどの地名があり、複数のムラ(集落)が融合した痕跡が見られる。写真は平成8年のウンジャミ。