今帰仁間切の地割 2017年3月11日(土)メモより
明治17年の「問答書」から今帰仁間切の地割と人身売買の実態はどうだったのか「問答書」から、いくらかでも把握しておく必要あり(『琉球共産村落之研究』所収より 田村浩著:295頁)。
【今帰仁地方旧慣地割ニ関スル問答書】(明治17年)より
・問 百姓地は各家に於いて古来所有の儘(地所の割換ありと雖も坪数の増減なきを言う)之を
保有するか又は村内戸口の増減に従い之が分配を為すことあるや、その方法手続き如何。
・答 毎戸古来所有の儘之を保有せず。戸口の増減に従い之を分配す。その方法は村中吟味の
上毎戸人員の多少農事の
勤怠と資産の厚薄を見合はせ持地数を定め之を分配す。
・問 然らば戸口の増減に従い之が分配をなすや
・答 否地所割換の年に之を分配す
・問 農事の勤怠資産の厚薄を見合はあせ配分するとき、例へば一家三人の人口に二地を
与へ一家五人の人口に一地を与える事あらん。然る時は其の分配方に差別あるが如し。
右様の事に付苦情を生ずる事なきや。
・答 然り一家三人の人口にて二地を取り又五人の人口にて一地を取る事あり。然ると雖も右は
人民中協議の上取り計らうことなれば苦情等の起りし事なし。
・問 百姓地を割換するは何年に一回なるや。臨時割換することあるや。その法如何。
・答 一定の年限なし。凡そ六年乃至十年目に割換す。又時の都合に由りては臨時割換する
事もあり。其の方法は村中吟味し実地立合見分の上之を取は計ふ。
・問 右割換年限は田畑共同じきや。
・答 然り田畑共前条の通り。
・問 百姓地地頭地を相対譲与或いは質入する等の事あるや。その取扱い振如何。
・答 内分にて質入れする等の事あり。その取扱振は相対口上の示談に止まる。
・問 右内分ニテ質入せる後俄ニ地所の割換あるときは質取主は金の損亡するか、又は質入
人にて前借金は之を償うか。
・答 右等の場合に於いては、今度配分せられし地所を、又更に金主へ引渡すに付損亡なし
尤も今度配分せられたる特地数前者より少なきときは金主の損亡なり。
・問 惣地頭地村地頭地及び仕明地等取扱並びに小作セシムル手続き如何。
・答 右は総べて百姓地同様取扱分配方並びに割換法とも其の特続百姓地に異なることなし。
但し人民仕明地請地は其の地主之を耕し或いは小作せしむるものあり。貢租は直ちに地主
より取り立つ。
明治36年の土地整理で地割制度は終りつげる。下の図は土地整理直前の地割の最後の様子を示すものである。「今帰仁間切平敷村字前田原」の土地保有者について報告したことがある。土地保有者がバラバラである。それは地割の実態を示すものである。平敷村は貧富割タイプである。(古宇利はダブリあり。確認のこと)
①貧富割(12村)
今帰仁・親泊・志慶真・兼次・諸喜田・與那嶺・崎山・平敷・勢理客・天底・湧川・古宇利
②貧富および耕耘力割(5ヶ村)
仲尾次・謝名・仲宗根・運天・古宇利?
③貧富および人頭割(3ヶ村)
玉城・岸本・寒水
④人頭割・年齢に関せず(1ヶ村)
上運天
津屋口墳墓
親泊馬場の東端より海岸へ通ずる右方を津屋口という。屏風の如き隆起珊瑚岩の下に饅頭形を鎖されたる古墳あり。摩滅せる墓碑を通して窺うに是向氏具志川氏(元の今帰仁御殿)の祖先にして北山監守韶威の嫡孫宗真公を葬れるが如し。宗真は其の号にして唐名を和賢といい嘉靖三十六年に生まれ万暦十九年三十五歳にて病死せし人なり。
今向氏七世百四五十年間の一族は運天なる大北墓に合葬せらる。然るに三世宗真公は何の故を以て津屋口に葬られしか是頗る疑問とする所なり。
土地の口碑によれば此の癩を病みしに依り津屋口に別殿を営みて之に居らしめ後遂に便葬せりという。該墳墓には別に門口なく且古来章魚及び豚肉等を供えざるの習慣あり、之によりて見れば伝説亦事実ならんか、大正六年編者具志川家を訪ねいて此事を質す。未亡人語って曰く、是れ慶長年間薩摩入りに際し退隠して遂に別殿に入りし人なりと、然るに墓碑には万暦辛卯易簀(死亡)とあり、辛卯は同十九年にして我天正十九年(1587年)に当たり慶長十四年より実に十八年前の事に属す。以て其事実にあらざるを知るべきなり。
墳墓記(碑文)
夫〇吾統人之志吾述人之事有也誠哉此言也〇典松公入奉
尚真帝王之敷命以康煕丙午移居干首里涘〇述兼得忠考而全故也保祿位顕名干京師偉哉盛哉
此〇〇売〇祖之心志而述昌祖之墓〇石也哉是以乙日謂命日我高祖今帰仁按司宗真石
先王尚真帝王第四之三子宗仁公之嫡孫也〇〇自出於此矣今乃其墓将敗壊故以為修築之以将堅
久之元計〇其夏也深故其言出而無食育方而無〇丁康煕戌午仲秋十七乙酉〇築始〇尌之何
所以為記誠一則恐人不知誤也一則恐或〇而難尋故封之高救尺也古人亦至干如此矣伏〇疾
宗真公〇鎮守列〇便役以時数〇有節是故孫子無〇而振振〇〇其証如此明則〇猶予之有遂致仕
而遠〇地於大屋泊以営殿間近築墓於津屋口以将便葬也干時万暦辛卯易簀不緯遺命而葬於
此今也〇百余載是故為風雨所敗壊〇乎辛寅日功〇成而増旧制塚頭酒〇孝心解志報本之心
不可勝〇也〇〇日君子楽楽其所自生礼恐其本〇〇〇退請〇其事干石以知来〇〇此墓不毀
壊曰為
大清康煕十七戌午仲秋二十二日立 友弟謹誌〇
『沖縄県国頭郡志』(島袋源一郎著)(大正八年)
http--yannaki.jp-imadomari.html(参照)
津屋口墓(アカン墓)(新聞記事)
壊された開かん墓(沖縄タイムス:1964.12.29)
三百年前から入口が閉ざされたままという秘密のベールにおおわれた今帰仁村字親泊にある「開かん墓」が最近、なにものによってこわされた。この墓は文化財としても研究の対象にされており、文保委では28日新城徳祐主事を現地に派遣して調査をした。
墓がこわされたのは二か月ほど前のことだが、さいきん子孫の具志川朝雄氏(具志川御殿)が調べてわかったもの。墓は親泊部落の東側海岸にあり石積みでつくられているが、正面のシックイでぬり固めた石がこわされ、あと石をハメこんであった。近くの人たちの話だと、二か月くらい前、夜中にハンマーで石をたたく音が聞えてきたという。
墓庭に建てられた碑によると、この墓に葬られているのは向姓具志川氏の先祖で三代目の北山監守宗真公となっている。宗真は1557年に生まれ1592年、35歳で病死した。北山監守というのは中山の尚巴志が北山を滅ぼしてあと、再び変が起こるのを封じるために、1422年から二男の尚忠を今帰仁城に駐留させたのがはじまり、ところで北山監守の一統向氏七世百、四、五十年の一族は、すべて今帰仁村運天の大北墓に合葬されていて、なぜ宗真公ひとりがここに葬られることになったのか、理由はよく知られていない。宗真は「らい」を病んだため別葬され、それで墓の口もないのだといわれている。
新城主事はこの機会に墓の内部を調査しようとしたが、内側からも二重に石垣が積まれており、それをはずすと墓全体が崩れる恐れがあるので、外側の石積みを修復するにとどめた。やはり「秘密のベール」はとりのぞくことができなかった。
新城主事は「北山監守の墓なのでおそらく中に宝物があると思ってやったのだろう。しかし、これまで調べた各地の有名な古墓にも身の回り品しかはいていなかった。開かん墓もそれと同じだと思う」と苦笑していた。
あかなかった古墳(琉球新報:1964.12.30)
北山城三代目監守・尚真公をまつってある今帰仁村親泊区在俗称アカン墓(口ナシ墓・ツエグチ墓ともいう)を何者かが墓の入り口をこじあけようとした形跡があり、修復にあたった子孫の具志川家(首里)の人たちが28日午後、文化財保護委の新城徳祐主事の立ち合いで内部調査をしようとしたが、墓口があけることができず取りやめた。
区民の話では九月ごろ、ツルハシをふるって墓をあばいている音を聞いた区民がおおく、昔から人々の間に「宝物が埋蔵されているのでこの墓はあけてはならない」と伝えられる昔話を信じた何者かが、宝欲しさにこじあけようとしたのではないかと新城主事はみている。
この墓口は内部とそと側からの石での二重積みで、開くことができないようにつくられており、この日も無理にこじあければ墓全体が陥没するおそれがあると中止した。
この墓は、北山城三代目監守・尚真公が約三百年前(ハンセン氏病)をわずらって死んだので俗称ツエグチ原(親泊区在)に別殿を設けて葬ったため、子孫は開くのを禁じられてアカン墓(開かない墓)と人々にいい伝えられているとの説が強い。中には不義などの行為で先祖の墓にいっしょにははいれなかったとの説もあるが歴史的考証がないという。歴代北山監守は皆運天区にある大北(ウフニシ)墓に葬ってあるが、この三代目だけが別葬されている。
この日アカン墓をあけるといううわさでかけつけた人たちが墓の周囲に黒山をつくり、三百年来のナゾがとけるのではないかと見守っていたが、墓口が開かないと知って複雑な表情で帰った。
新参政姓家譜大宗
新参一世幸光(嘉慶十四年己巳年十月二十八日生)(一八〇九年)
父泊村無系平良筑登之親雲上
(乾隆三十八年癸巳六月五日生)(一七七三年)
(咸豊 五年乙卯七月十六日死寿八十八号壽山)(一八八五年)
母今帰仁間切謝名村百姓松与那嶺女鍋
(乾隆三十八年癸己八月八日道光九年己丑十月十五日死
享年五十七号雪庭)
室今帰仁間切岸本村百姓嶋袋筑登之女真鶴
(嘉慶十五年康午十二月十六日生)(一八一〇年)
長女真鶴(道光七年丁亥十二月十八日)(一八二七年)
新参長男 幸常
新参次男 幸永
新参三男 幸佐
新参四男 幸長
新参五男 幸映
次女 思戸(道光二十二年壬寅十二月十七日生)
新参六男 幸得
新参七男 幸定
参八男 幸成
尚灝王世代
道光三年癸未二月八日結敧髻(一八二三年)
尚育王世代
道光二十四年甲辰十二月朔日叙筑登之座敷(一八四四年)
同二十六年丙午十二月朔日叙黄冠
尚泰王世代
同治十二年癸酉六月十二日陛新参士籍其褒書記干寫(一七八三年・明治六年)
覚寫
新家譜 泊村 平良筑親雲上
右は中城御殿御普請量為御加護 残百萬貫文差上度
(略)
仰付致下度奉存候事
以上
酉六月十二日
新参二世 幸常
童名思加那唐名政永與行一道光九年己丑十月朔日生(一八二九年)
父幸光
母百姓真鶴
室今帰仁間切玉城村百姓松田筑登之親雲上女
真蒲戸 道光十三年癸巳三月十日生同治五年丙寅十月九日死享年三十四号雪心
(一八三三年)
長女真鶴 咸豊二年壬子十月十日生同治五年十一月二十八日生
(一八五二年、一八六六年)
次女真鶴 咸豊十一年幸酉八月二十九日生(一八六一年)
尚育王世代
道光二十三年癸卯十一月二日結頭敧髻(一八四三年)
同治四年乙丑九月二十五年不禄享年三十七号菊隠(一八六五年)
新参二世 幸永
童名松金唐名致政永通行二道光十三年癸巳三月五日生(一八三三年)
父幸光
母百姓真鶴
室令今帰仁間切岸本村山戸大城女真鶴(道光十五年乙未四月三日生)(一八三五年)
新参長男幸通
新参次男幸吉
新参三男幸宗
尚泰王世代
道光二十八年戌申八月二日結敧髻(一八四八年)
咸豊十年康申十二月朔日叙筑登之座敷(一八六〇年)
新参二世 幸佐
童名思加那唐名政永隆行三道光十五年乙未四月二十九日生(一八三五年)
父幸光
母百姓真鶴
室西村無系次良玉城女真呉勢 道光十六年丙申十月二十四日生(一八三六年)
長女真嘉戸 咸豊六年丙辰五月十七日生(一八五六年)
新参長男 幸正
次女真鶴 咸豊十一年辛酉七月二十七日生(一八六一年)
新参次男 幸豊
三女真牛 同治九年康午閏十月五日生(一八七〇年)
尚泰王世代
道光二十九年己酉三月八日結敧髻(一八四九年)
新参二世 幸長
童名樽金唐名政永明行四道光十八年戊戌七月十八日生(一八三八年)
父幸光
母百姓真鶴
尚泰王世代
咸豊二年壬子二月六日結敧髻(一八五二年)
同十一年辛酉五月二十四日不禄享年二十四号仁心(一八六一年)
新参二世 幸映
童名松金唐名政永順行五道光二十年康子八月二日生(一八四〇年)
父幸光母百姓真鶴
室今帰仁間切謝名村百姓三良親川女思武太 道光二十二年壬寅七月二十五日生
(一八四二年)
新参長男 幸亀
長女思亀 同治八年己巳九月十九日生(一八六九年)
尚泰王世代
咸豊二年壬子二月六日結敧髻(一八五二年)
同治十一年壬申十二月五日不禄享年三十三号寒梅(一八七二年)
新参二世 幸得
童名真蒲戸唐名政永慶行六 道光二十六年丙午六月二日生(一八四六年)
父幸光
母百姓真鶴
運天の主な出来事(明治以降)
明治の廃藩置県後、運天港を取り巻く状況も大きく変化していったが、それらの主な出来事を見ていこう。
・明治16年 今帰仁郵便局が番所の隣に新築される。
・明治37年 今帰仁郵便局が運天村から寒水村に移る。
・明治37年 日露戦争時、運天港に燃料(石炭)や給水施設がつくられる。
・明治41年 今帰仁間切が「今帰仁村」となり、運天村が「字運天」となる。番所は「村役場」となる。
・明治44年 大北墓が修理が行なわれ、島袋源一郎により調査がなされる(『国頭郡』収録)。
・大正 5年 村役場が仲宗根に移転する。
・大正12年 「源為朝公上陸址之碑」建立される。
・大正13年 運天遂道(トンネル)が開通する。
・昭和19年 日本軍の高速輸送艇や特殊潜航艇・魚雷艇の基地となる。
このように明治以降の運天の流れを見ていくと、郵便局ができたものの11年後には寒水村に移転(その後更に仲宗根に移転)、その後を追うように、村役場も大正五5年に仲宗根に移転した。役場の移転については、大正 2年に「沖縄毎日新聞」に投書が掲載されている。
「本村役場は旧藩当時運天港に建設せし以来、已に幾百星霜を閲し、最西端今泊を距る二里余。東端湧川より半里、何等交通運輸の便なきのみか、僅に二、三十戸に過ぎざる小部落にて、背後に百按司墓を負ひ、前方屋我地島と相対して、其間に運天港を擁し、極めて寂莫荒寥の一寒村の候。予輩は何が故に数百年来、敢へてかかる不便と苦痛を忍ぶの要あるかを怪しむ者に候。今泊在の吏員に至りては早朝家しても役場到着は十時頃なるべく。それより汗を拭き去り、涼を納れて卓に向かへば時辰は十一指すべし。一時間にして食事をなし、更に二時より初めて二時間を経れば四時となり、退散を報ずべし。然れば毎日執務時間は僅々四時間を越えざるべくと存候〈以下略〉。 │
本村の役場は旧藩当時運天港に建設されて以来、既に長い年月を経ており、(運天は)村の最西端の今泊から約 8km、東端の湧川から約 2kmあるが、交通の便もなく、僅か 二、三十戸の小さな村で、背後に百按司墓、前方は屋我地島、その間に運天港があり、非常に寂しい村である。私は何故数百年の間、こんな不便をそのままにしておくのか不思議でならない。今泊に住む職員は、早朝家を出ても、役場に到着するのは10時頃、それから一息ついて仕事にかかるともう11時である。 一時間経つと昼食で、 二時から仕事を始めても 2時間経てば 4時となり、退出の時間である。すると毎日の業務時間は僅か 四時間足らずとなろう)。
この投書の三年後、役場は仲宗根に移転し、かつては山原の政治・経済の中心地であった運天は、仲宗根にその地位を譲ることとなる運天に行くには明治40年に運天を訪れた菊池幽芳が記していたように「山坂越えで随分難儀な道のり」であったが、大正13年に開したトンネルのおかげで村内(ムラウチ)と村の外との行き来が楽になり、海上輸送の時代から荷馬車や車での運搬の時代が運天にも到来した。
①今帰仁間切与那嶺の大屋子宛辞令書(嘉靖42年:1563)(中城ノロ家)
②今帰仁間切東の掟宛辞令書(嘉靖42年:1563)(具志堅上間家)
③今帰仁間切浦崎の目差宛辞令書(萬暦14年:1586年)(中城ノロ家)
④今帰仁間切玉城の大屋子辞令書(萬暦20年:1592)(中城ノロ家)
⑤今帰仁間切辺名地の目差職叙任辞令書(萬暦32年:1604)(仲村家)
⑥今帰仁間切中城ノロ職叙任辞令書(萬暦33年:1605)(中城ノロ家)
⑦今帰仁間切具志川ノロ叙任辞令書(萬暦35年:1607)(仲村家)
⑧今帰仁間切与那嶺の大屋子叙任辞令書(萬暦40年:1612)(中城ノロ家)
⑨今帰仁間切謝花の掟叙任辞令書(萬暦40年:1612)(仲村家)
⑩今帰仁間切与那嶺の大屋子叙任辞令書(崇禎16年:1643)(中城ノロ家)
⑪今帰仁間切中城ノロ叙任辞令書(隆武8年:1652)(中城ノロ家?)
⑫今帰仁間切本部目差叙任辞令書(順治13年:1654)(中城ノロ家)
⑬今帰仁間切西目差叙任辞令書(康煕3年:1664)(中城ノロ家)
⑭今帰仁間切上間大屋子叙任辞令書(寛文7年:1667)(中城ノロ家)
2011年1月29日(土)メモより
『女官御双紙』(1706~13年)に「今帰仁あふりやい」と「伊平屋島ののろ二かや田」、さらに「噯間切のろくもい」の代合(交代)について、以下のように記してある。
一 今帰仁ふりやい代合之時言上ハ御自分より御済めしよわちへ御拝日撰ハ三日前ニ今帰仁あふりやいより御様子
有之候得共首里あむしられより大勢頭部御取次にてみおみのけ申御拝の日ハ首里大あむしられ為御案内赤田御門
よりよしうて按司下庫裡に控居大勢頭部御取次にてみおみのけ申今帰仁あふりやいよりみはな一〆御玉一対作事
あむしられ御取次にておしあけ申按司御座敷御呼めしよわれハよしろちへて美待拝申
天かなし美御前おすゑんミきよちやにおかまれめしよわれハ御持参の御玉貫真壁按司あかなしよりおしあけめしよわる
合済御飾の御酒より今帰仁あふりやいに美御酌御給御規式相済按司御座敷にて首里大あむしられ御相伴にて御振舞給申
相済みはい御暇乞大勢頭御取次にてみおミのけておれ申
一 同時御印印判ハセと新雲上よりみはいの日早朝首里殿内へ将来らる首里大あむしられよりミはいの時早朝今帰仁あふ
りやいへ上申
一 伊平屋ののろ二かや田代合之時も上相済首里殿内火神御前へみはな一ツ御五水一対持参にて玉かはらはき立御拝
四ツからめき申尤御拝日撰前以以日引合有之事
一 噯間切のろくもいた代合之時も右同断
「今帰仁あおりやえ」の写真と関わる記事がある。
「国頭郡今帰仁村今泊で旧按司家阿応理屋恵所蔵の佩佳玉は二十二個の所謂曲玉と、多数の水晶玉製丸玉とを交
へて極めて見ものであるが、之を納めた袋に、
玉かはら一連。内かはら一、大形。かはら二十一、小形。水晶之玉百十一。昭和四年四月四日現在。
と書いてあった。(本誌記者云う、袋の文字は古くより此の形式に書いてあったのを昭和四年に袋を新調して書替へた
のみである。阿応理家では今もその一連の玉全体を玉ガハラと呼んでいるのである。
下の写真は今帰仁阿応理屋恵(アットメー)が一連の勾玉と水晶玉(ガラス)、前に広げられた袋に「玉かはら」など文字が読める。『沖縄県国頭郡志』(大正8年)でいう「今帰仁村今泊阿応理屋恵按司所蔵目録」というのは、写真の文字のことであろう。それらの遺品は昭和11年に開館した「沖縄郷土博物館」(首里城北殿)で昭和□年10月15日より11月14日まで展示されたことがある。
近年目にした「勤職書」(口上覚)に「立願」として首里の御殿から度々訪れている。
▲一連の勾玉と水晶玉(ガラス)をかけた阿応理屋恵 ▲「国頭郡志」のグラビアより
2003年12月11日(木)記録
今帰仁村の役場は現在字仲宗根にある。近世から大正5年まで今帰仁間切(村)の番所(役場)は今帰仁の東側の運天港にあった。大正5年に運天にあった役場が今帰仁村の中央部の仲宗根に移転する。その後押しは大正2年8月15日の「沖縄毎日新聞」(今帰仁通信)の記事ではなかったかと考えている。
[役場移転問題](運天から仲宗根へ)
本村役場は旧藩当時運天港に建設せし以来巳に幾百星霜を閲
し最西端今泊を距る二里余東端湧川より半里等交通運輸の便
なきのみか僅にニ三十戸に過ぎざる小部落にて背後に百按司墓
を負ひ前方屋我地島と相対して其間運天港を擁し極めて寂莫荒
廖の一寒村に候
予輩は何が故に数百年来敢へてかかる不便と苦痛を忍ぶの要
あるかを怪しむ者に候 今泊在の吏員に至りては早朝家出しても
役場到着は十時頃になるべくそれより汗を拭き去り涼を納れて卓
に向へば時辰は十一を指すべし 一時間にして食事をなし更に
二時より初めて二時間を経れば四時となり退散を報ずべし 然れ
ば毎日の執務時間は僅々四時間を越えざるべくと存候
加之人民の納税、諸願届書類の進達等学校に各字の小使派遣
等日々一万五千の村民が如何程多大の迷惑と傷害を受け居る
かは門外漢の想像し得ざる所に有之候
曩に役場移転問題議に上りしも郡長と議員との意見衝突の為に
遂に沈黙の悲運に逢着したりと 些々たる感情の為めに犠牲とな
る村民こと不憫の至りに候
その記事が出て三年後の大正5年今帰仁村役場は運天から中央部の仲宗根に移転する。
運天(港)が果たした役割(35年前のまとめ)
運天港は「北山の歴史」を描く上で重要な地点であり、どのような港であったのか。
・良港としての自然条件が備わっている。
・北山の時代から、海上交通の重要な要所として機能していた。
・『おもろさうし』に「うむてん」とうたわれている。
・薩摩軍の琉球侵攻の舟元がこほり(古宇利)と運天であった。
・近世紀から、源為朝の運天上陸伝説がある。
・薩摩への「仕上世米」の積み出し港であった。
・運天に番所・在番が置かれた。
・近世琉球の中国対策の一役を担っていた。
・歴史的な百按司墓・大北墓・大和墓・オランダ墓や古墓群などがある。
・琉球・日本との通商を目的とした外国船が来航した。
・避難や風待ちのために一時寄港地として利用された。
運天港は北山の時代から海上交通の要所として琉球・日本はもとより諸外国にも知れ渡っていた。『海東諸国紀』「琉球国之図」(1471年)の項で述べたように、地図に記された運天港の部分に「要津」とわざわざコメントを入れる程、地図の製作者にとって文字通り海外交易の際の重要な港として認識されていたことが伺い知れる。
このように15世紀には既に貿易港として機能していた運天港であり、それは薩摩の琉球侵攻以後も中国を始めとする対外政策上、重要な拠点の一つであった。ペリーの来航により実現はしなかったものの、薩摩藩が運天港に商館を建て、古宇利島を出島に仕立て、鎖国の中での海外貿易地にしようという計画も立てられていた程である。政治・経済の舞台の一つであり、番所が置かれ、百按司墓や大北墓など、位の高い人々の墓が造られた場所でもある。源為朝が流れ着いたとする伝説があるのも(「運を天にまかせて」という語呂合わせが当てはまるということを抜きにしてなお)、運天の名が多くの人に知られ、為朝が流れ着くにふさわしい場所と考えられていたからではないだろうか。
近世、運天港の周辺にはムラの人々は住んでおらず、番所を中心とした公の世界であり、運天の活気は運天港の動き―船の出入り―と連動していた。しかし、海上輸送から陸上輸送に転換したことで運天番所(役場)の利用が不便になり、役場が仲宗根に移転したことによって、表舞台としての運天(港)の役割はひとまず幕を下ろすこととなる。明治40(1907)年に運天を訪れた菊池幽芳によると「現在この港は誰にも利用されておらず、ただ近海を通る漁船や汽船が暴風に遭うと逃げ込んでくるだけ」とあり、役場移転のほぼ10年前ではあるが既に閑散とした港の様子である。
「運天港」は古琉球の時代から近世末に至るまでの今帰仁や山原を考える上で、いくつものテーマを示唆してくれる場所である。運天港は今は小さくなってしまった感のある一つの港にすぎないが、その港をめぐる歴史は非常にダイナミックで、しかも関係する範囲が地理的にも広く、一つひとつの課題を丁寧に掘り起こしていくことで琉球や世界の歴史を展開することができるテーマである。個々の課題の持つ視点を通して、運天港の果たした役割やその全体像がようやく掴めてくると言えるのではないだろうか。