寡黙庵 2018年5月の記録        沖縄の地域調査研究(もくじ) 
                  (住所:沖縄県国頭郡今帰仁村字謝名)   
                            
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2018年3月)  2018年4月(先月は)

やんばる学研究会へ



2018年5月30日(水)

 以前スムチナウタキは「複数村(ムラ)のウタキとしたことがある。「奉納寄進」や年号の刻まれた石の香炉を集めてみると「立神」(旅立や無事帰郷)との関わりのあるウタキであることがよくわかる。クボウのウタキの「首里天加那志美御前、百御ガホウノ御為、御子御スデモノノ御為、又島国之、作物ノ為、唐・大和・宮古・八重山、島々浦浦ノ、船々往還、百ガホウノアルヤニ、御守メシヨワレ。デヽ御崇仕也。」のウタキであることが主である。祈りの百果報、五穀豊穣、航海安全などを祈るウタキである。

・複数村(ムラ)のウタキ(御嶽)―今帰仁村玉城のスムチナ御嶽―

 スムチナ御嶽(ウタキ)は今帰仁村(間切)中央部の玉城村(現在の字玉城)に位置する御嶽である。『琉球国由来記』(1713年)には「コモキナ嶽:神名コシアテモリノ御イベ 玉城巫崇所」とあり、玉城巫は玉城・謝名・平敷・仲宗根の四か村の祭祀を管轄する。このウタキの特徴は玉城・謝名・平敷・仲宗根にそれぞれウタキを持っているが、各村の御嶽とは別に四カ村のウタキとしてスムチナ御嶽が設けられている。集落の発生と関わる御嶽がある中で、スムチナ御嶽は集落の起源と直接関わるものではなくノロ管轄の制度化に伴って設立された御嶽と捉えることができそうである。

    ・玉  城・・・・ウタキ有り(タマグシク)
    ・謝  名・・・・ウタキ有り(お宮・グシク)
    ・平  敷・・・・ウタキ有り(ウガン)
    ・仲宗根・・・・ウタキ有り(お宮・グシク)

 スムチナ御嶽は標高143mの杜で玉城ノロ管轄の四つの村を見下ろせる場所にある。逆を言えば四つの村から見える位置に御嶽を設けている。旧暦4月15日のタキヌウガンの時は、四カ字の人たちがスムチナ御嶽の中腹のウカマ(広場)に集まり待機する。四カ字の神人達は、さらに頂上部のイベまで行って祈りを捧げる。

 イベに三基の石の香炉が置かれている。「奉寄進」と道光、同治の年号があるが判読ができない状態に風化している。平成元年の調査で「道光二拾年」(1840)と「同治九年」(1870)、「奉寄進」「大城にや」「松本にや」の銘を読み取っている。同治九年向氏今帰仁王子朝敷(今帰仁間切惣地頭職)が薩州に派遣されている。大城にやと松本にやはその時随行していったのか。それとも今帰仁王子の航海安全を祈願して香炉を寄進したのか。スムチナ御嶽での祈願の一つに航海安全があることが窺える。また雨乞いや五穀豊穣や村の繁盛などが祈願される。間切役人の「口上覚」に立神(タチウガン)が今帰仁グスクで行われている記事が散見される。このスムチナウタキでも行われたと見られる。それが、スムチナウタキをはじめ、謝名ウタキ、平敷のウタキ、勢理客のウタキなどにあるイベの香炉。

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   ▲ウカマに集まった村の人たち      ▲ウカマでイビに向って祈りをする神人

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     ▲スムチナ御嶽のイビ             ▲イビの前にある三基の香炉


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  ▲イビへの道に左縄が張られる     ▲後方の山の少し盛り上がった部分がウタキのイベ


  
 ▲勢理客のイビの前の香炉      ▲謝名のウタキのイビの香炉    ▲平敷のウタキのイビの香炉 

2018年5月29日(火)

 今帰仁村玉城のスムチナ御嶽で行われるタキヌウガンの調査。四ヶ村(字)が参加しての祭祀。玉城ノロ管轄の祭祀である。スムチナ御嶽には四ヶ字の人々が集まり、そこでのウタンが終わるとそれぞれの字でのウガンがある。今回は仲宗根に参加予定。玉城になるかも。

【今帰仁村玉城のスムチナウタキでのタキヌウガン】

 旧暦4月15日に行われるタキヌウガン。玉城・謝名・平敷・仲宗根の四ヶ字(アザ)合同の祭祀である。(玉城は寒水村と岸本村が合併した村(ムラ)でタキヌウガンに参加するのは玉城のみ)

 コモケナ(スムチナ)嶽そこでの祭祀や唱えについては、なんら記されていない。しかし、四ヶ村合同の祭祀となると重要な祭祀であったと見られる。今帰仁グスク近くにある「コバウノ嶽」がある。そこでの祭祀は国(クニ)レベルの祭祀だと言い続けている。北山監守と今帰仁アオリヤエ一族が首里に引揚げる(1666年)までは今帰仁アオリヤエの崇所であったとみている。『琉球国由来記』(1713年)の頃はクボウノ嶽は今帰仁ノロが肩代わりしておこなっていた。

 謝名村に、アフリノハナト、云う所アリ。昔、君真物出現之時、此所ニ、黄冷傘立つ時ハ、コバウノ嶽ニ、赤冷傘立、
 又コボウノ嶽ニ、黄冷傘立時ハ、此所ニ、赤冷傘立と、申伝也。
 
 また、コボウノ嶽での唱えは、以下の通りである。
  
首里天加那志美御前、百御ガホウノ御為、御子御スデモノノ御為、又島国之、作物ノ為、唐・大和・宮古・八重山、
   島々浦浦ノ、船々往還、百ガホウノアルヤニ、御守メシヨワレ。デヽ御崇仕也。

 スムチナ御嶽もクボウヌ御嶽と同様タキヌウガンの名称でウランサン伝説があり、国(クニ)レベルの祭祀ではなかったか。

  
   ▲スムチナ御嶽のイベ       ▲スムチナ御嶽のウカマでイベに向かって拝む(四ヶ字の方々)

 スムチナ御嶽でのウガンがすむと、玉城は神アサギへ、仲宗根はヒージャーガー、集落内のアガリギッチョへ、謝名はサンケモーへ、平敷は神アサギへ。そこでタキノウガンが無事終わりましたのでウガンで祭祀は閉じる。その後、村人達がオミキを酌み交わし、玉城は神アサギ内でご馳走を前に直会。

 
  ▲ヒージャーガーでのウガン      ▲アガリギッチョでのウガン

 
      ▲玉城の神アサギで             ▲玉城の神アサギ内で直会

 
    ▲謝名はサンケーモーでスミチナウタキに向かって返礼

2018年5月27日(

 三、四のテーマについて「まとめ」ようとしているが、もう少し補足してから。紫外線の影響がでてきているので「寡黙案」に籠もることに。とは言いつつ、山原船の件で画像を一枚撮影しながら向かうことに。歴史や民俗を読み取っていくには、どうしても車の時代以前の風景や生業を背景に見ていく必要がありそう。

  多幸山の馴れぬ山道を通過して恩納区域に出ると、遙か遠く名護や本部半島が手にとるように見える。
 途端に旅人は自分の家や村に対する懐かしさ恋いしさが一段と増して激しくなる。しかして陸路をとって
 山道や浜道を通るよりも、潮でぬれる心配と舟賃を支払わなければならないということがあるにしても海道
 をとって一刻も早く自分の村へ行き着きたい衝動にかられる。
  そこで久良波から舟で真っ直ぐに行く渡海交通が生れる。久良波からの帆掛舟交通もあったが、その多
 くは屋部、本部、今帰仁方面への旅人が利用した。多幸山を日暮れに通過してきた者は、久良波で宿を求
 め、翌日徒歩あるいは小舟を利用するのであった。したがって何時のまにか、今帰仁宿小、本部宿小という
 のができた。

 『恩納村誌』から恩納村の山原船での交通をしるために目を通してみる。
  ・久良波、山田あたりに今帰仁宿小、本部宿小ができる。
  ・久良波、山田と名護湾をはさんで対岸の屋部や安和との帆をかけた山原舟の航路があった。
  ・大正6、7年頃まで山原地域の貨物の運搬は山原船が主であった。
  ・貨物は砂糖、藍、木材、薪炭、山原竹、竹ガヤで那覇・泊方面へ出される。
  ・帰路は酒、日用雑貨、壺屋の焼き物など町方の品々を運んできた。
  ・山原船には二種類あり、石伝馬船とマーラン船。
    (マーラン船は布帆の比較的大型船、石伝馬船は竜骨のない平底船、カジ取りは困難は構造であった)
    (詳細は略)

 
 ▲名護湾に面した安和と屋部海岸   ▲岬の向こう側に恩納村山田方面(もやって見えません)

 2014年11月16日(日)踏査でジョウガービラにつて触れている。麓に見えるのが名護湾、対岸は恩納村である。恩納村と安和・屋部との間を山原船が帆をなびかせながら往来していた時代がある。

【門川坂】(ジョウガービラ)
(国頭郡志)

 門川坂(嫦娥坂)は名護本部間の険路なり。字安和より四五町にて門川に入る。これより道即ち川、川すなわち道にして左右高山の間なる渓谷に大理石のごとき、石灰岩の散在せる中を辿ること四五町にして、いわゆる門川坂となり。さらに曲折蛇行三四町にして峠に達す。この間昔時は樹木鬱蒼として昼なお暗く魑魅魍魎の出現を畏怖せし程なりしが、今は森林全く荒廃して昔日の感なし。本部境なる峠に達すれば東西の両海を見下して眺望よし。
 
       ▲門川坂途中                 ▲門川坂の峠から名護湾が

 この門川坂は「組踊伏山敵討」に登場する道筋のようである。

 君のかたきを討たんてやい、思い立つ身の志、深く編み笠顔隠し、神や仏に念願し、いざや最後と勇み立ち、忍ぶ心や余所知らん君と親との敵かたき共に月日を戴かん、昔かたりを身にとめて、夜も昼をも絶間なく、村々里々越に来れば、此所ぞ名に立つ門川道、歩みかねたる坂ひらも、心勇めて走い登てエイ今ど本部の嘉津宇岳、山の麓に忍び着ちや。


2018年5月24日(木)

 玉城の古島原にあった玉城集落が現在地に移動したのは『球陽』の記事によると1863年のことである。すると『琉球国由来記』(1713年)の記事は移動前のことが記されていることになる。『沖縄島諸祭神祝女類別表』(明治17年頃)は移動後ということになる。

 『琉球国由来記』(1713年)の玉城村のオモキナ嶽神名コシアテモリノ御イベとある。玉城巫火神(玉城村移動前の場所)、麦稲四祭、年浴、大折目、柴指、芋ナイ折目、三日崇がある。外に山留があり、玉城巫の祭祀場である。その中に大折目があり、玉城村掟、玉城村百姓、謝名村掟、百姓、中宗根、謝名、平識(敷)、中曽根の四ヶ村が関わっている。四ヶ村の百姓が集まって行われるコモケナ(スムチナ)御嶽は当時から同じ場所である。四ヶ村の祭祀は玉城巫の管轄である。スムチナ御嶽でのウガンが終わると、それぞれの村でのウガンがある。玉城村はスムチナ御嶽のウガン(旧四月十五日:タキヌウタン)が終わると故地での神アサギでのウガンが行われていたと見られる。現在、玉城はスムチナウタキから故地(古島原)は行かず、移動した外間原にある神アサギで行っている。(他の字はスムチナウタキからそれぞれの字へいく。自分の字に戻る途中拝む場所があるが略されている。(まだ、調査していない仲宗根の調査予定)

 『沖縄島諸祭神祝女類別表』(明治17年頃)
 この記録は玉城集落が現在地移動後の場所で、神アサギをはじめ数カ所の拝所が集められている。他の村(字)でも拝所が合祀された時期でもある(神社化)。現在の玉城は明治36年に玉城村・岸本村・寒水村の合併村であるが、祭祀は一本化されない。今でも神アサギは三ヶ村跡にある。

 玉城の神人の員数
   玉城ノロクムイ一人
 玉城村の拝所(五ヶ所)
   ・ノロ火神所一ヶ所 ・内神火ノ所一ヶ所 ・島ノ大屋子火神一所 ・神アシャゲ一ヶ所
   ・百々喜名嶽(スムチナ嶽のこと)

 (全体の動きは講座で説明)
   

2018年5月23日(水)

 来月のムラ・シマ講座の下見で今帰仁村の玉城の集落の故地へ。尚泰王13年(1863年)の「本年、今帰仁郡(間切)の寒水・岸本・玉城等の三村の、改めて村籍を還す准す」の確認でもある。バスで案内するので通路の確認。グスク学ぶ会の長嶺さんをさそう。(詳細は講座で)

  
    ▲玉城村の故地(古島原)             ▲御嶽(ウタキ)内にある遙拝所(二ヶ所)

 
                     ▲御嶽(ウタキ)のイベ

  
▲移動を記念碑した碑(昭和12年建立)    ▲故地から移動してきた殿         ▲玉城村の神アサギ


2018年5月20日(日)

 頭の中が走り続いている。昨日は「恩納村の神アサギ」をとりだし一服。それは「恩納村史の村落編」結びつけたい。神アサギを手がかりに各字を独立させ、各字に神アサギを手がかりにムラの形、現在の小字印部石、土地整理期の村全図、字図、各村の変遷、地割、『琉球国由来記』(1713年)のウタキや祭祀を村落ごとに、そして歴史年表(出来事)などを組み込みながら描くことの面白さ。そんな夢のある村落史を提案しながら、すっきりと。

http--yannaki.jp-onnnaasagi.html(恩納の神アサギ)


2018年5月18日(金)

 今帰仁村湧川の塩田の撮影に立ち会い。ドロンを使っての撮影。その後、上運天で上運天と運天などについてレクチャー。オランダ墓と島津斉彬と西郷隆盛の奄美大島、沖永良部への島流しなどについて。湧川の塩田と湧川村の創設と士族の湧川村への居住、湧川地内にあった村の羽地間切・屋我地島へ移動。

 名護・今帰仁・本部のウタキの様子を確認のため、過去の記録を復活。記憶の彼方に行ってしまった恩納村の思い出すことに。夕方から村史編纂室の移転ご苦労さん会。ごちそうが出るらしい。

http--yannaki.jp-2004nnkieoku.html


2018年5月17日(木)

 多忙のため過去の記録の復活。これから二軒。

http--yannaki.jp-2005nen1.html



2018年5月16日(水)

 今帰仁村字玉城の『玉城誌』の編集会議。写真の割り付けに入る。600枚余の写真をグラビアと本文中の割り付けに入る。

 

 

 「寡黙庵」のホウライカガミ(食草)の近くにオオゴマダラがやってきた。今年になってはじめて。デジカメに納めようとしたが、携帯に電話がはいり、追いかけることができず残念。ユラリユラリと飛ぶかと予想していたが、三段飛びで消えたしまった。ジャコウアゲハやモンシロチョウやアオイロアゲハなどが目に付く。
 


2018年5月15日(火)

 月曜日、大宜味村田港から「田港誌」について二人の方が村史編纂室に訪れる。一時間ばかりレクチャー。本番は6月15日。1673年に田港間切(後に大宜味間切)が国頭間切と羽地間切から村をとり創設される。田港に番所を置いたことで同村名が間切名となる。田港に番所を置いた理由、田港村から、まだ村がなかった大宜味に大宜味村を置き、同時に田港間切から大宜味間切と改称。などなど。

 大宜味村全体のことが頭をよぎる。来月は田港にしぼって話をする予定であるが。

 
・根謝銘(ウイ)グスクは大宜味村謝名城(城)にある。
 ・根謝銘グスクはウイグスクと呼ばれる。
 ・標高100mの所に位置する。
 ・14~15世紀頃の筑城で大型のグスク
 ・丘陵頂上部に本部石灰岩で石塁をめぐらしてある。
 ・ウイグスク内に大グスク(イベか)と中グスク(イベ?)がある。
 ・出土遺物(土器・カムィ焼・青磁・鉄釘・獣骨などが出土
 ・貝塚も確認されている。
 ・1471年の『海東諸国紀』の「琉球国之図」に根謝銘(ウイ)グスクに「国頭城」とある。
     (国頭按司の居城か。「国頭城」は北山滅亡後の「監守」制度を示しているものか)
     (国頭間切の拠点は根謝銘(ウイ)グスクとみられる。国頭按司はまだウイグスクに居城)
 ・1522年(弘治11) 真珠湊碑文に「まかねたるくにかミの大ほやくもい」(国頭の大やくもい)とあり、
     そのころ首里居住か。
 ・1624年(天啓4) 「本覚山碑文」に「国かみまさふろ」とあり、首里居住か。
 ・1597年(万暦25) 浦添城前の碑に「くにかミの大やくもいま五良」とあり、その当時の
      国頭大くもいは首里に居住か。
 ・根謝銘(ウイ)グスクは1500年代まで(各地の按司を首里へ集居)は国頭按司の居城地か。
     (1673年まで国頭間切は大宜味間切を含む地域である。大宜味按司はまだなし)
 ・国頭間切の安田里主所安堵辞令書(1587年)の「くにかみまきり」は大宜味間切分割以前
     (その頃国頭按司は首里に住む)
 ・国頭間切の安田よんたもさ掟知行安堵辞令書(1587年)の「くにかみまきり」は大宜味間切分割以前      (その頃国頭按司は首里に住む)。
 ・神アサギ/ウドゥンニーズ・トゥンチニーズ(御殿根所
     /殿内根所)/地頭火神/カー/堀切/アザナあり
 ・旧暦7月に海神祭が行われる。  ・按司墓あり
 ・屋嘉比川の河口に屋嘉比港あり(オモロ)
 ・『絵図郷村帳』(1648年頃)に「国頭間切 ねざめ村・城村・はま村・屋かひ村」とある。
 ・『琉球国高究帳』に「国頭間切 城村・屋嘉比村」とある。
 ・屋嘉比川の下流右岸に国頭番所(浜村)が置かれた。後に奥間村へ。
 ・1673年に国頭間切を分割して国頭間切と田港(大宜味)間切が創設される。
    田港間切の番所は田港村へ、後に大宜味村(旧記の頃)、さらに塩屋村、大宜味へ移設。
 ・1673年に屋嘉比村から見里村が分離したという。
 ・1673年後に屋嘉比村から親田村が分離したという。
 ・根路銘(ウイ)グスク内の地頭火神は国頭按司と国頭惣地頭火神と大宜味按司と大宜見親方の
  火神が重なっても問題なし。
   (国頭按司地頭クラスの石燈籠は国頭村比地・辺戸・奥にあるので、間切分割後の
    国頭按司は国頭間切内へ)
 ・1695年 屋嘉比村・親田村・見里村が国頭間切に移される。
 ・1713年『琉球国由来記』に、「大宜味間切 城村・根謝銘村」、「国頭間切 濱村・親田村・
    屋嘉比村・見里村」とある。
 ・1719年国頭間切の村であった見里村・親田村・田嘉里村が大宜味間切へ。
    (1736~95年の絵図には番所は塩屋村にあった:大宜味役場蔵?)
 ・1732年(雍正10) 国頭番所は浜村から奥間村へ移設。
 ・明治36年に根謝銘村と城村と一名代村が合併し謝名城村となる。
 ・明治36年に親田村と屋嘉比村と見里村が合併して田嘉里村となる。
 ・明治41年に国頭間切は国頭村(ソン)、大宜味間切は大宜味村となる。これまでの村(ムラ)は
     字(アザ)となる。
 ・1911年塩屋にあった役場を大宜味へ移転。



2018年5月14日(月)

 今帰仁村字兼次と諸志に「村屋敷原」がある。兼次の「北村屋敷原」と「南村屋敷原」、諸志の「村屋敷原」はムラウチと呼ばれている。村屋敷原は村(字)の集落部分である。そこはムラウチとよばれ、字(村)の家々が集中した部分である。『琉球共産村落之研究』田村 浩 著(1927年)に「御當国御検地」帳から土地の種類を37あげている。その一つに「村屋敷」がある。「旧村屋敷ト称シテ村の所有ニ属ス」とある。「村屋敷」原の原名がつけられた見られる。つまり地割制のころ、土地は共有地であり、集落部分は村有地であったことを示している。

 それとは別に当原(ハタイバル)に与那嶺や仲尾次、崎山、平敷(当江原)がある。それと字名が原名となっている字がある。親泊原(旧親泊村)、今帰仁原(旧今帰仁村)、大島原(謝名の旧集落)、岸本原(旧岸本村)、寒水原(旧寒水村)、古島原(旧玉城村)、仲宗根原(字仲宗根)、上運天原(上運天)、運天原(字運天)、古宇利原(字古宇利)がある。今帰仁村の「村屋敷原」だけでなく、村名原、当原、古島原も村有であったことを示している。

 集落部分が「村有地」であったことは、土地整理以前の地割の痕跡を示すものである。
   (昭和60年頃、今帰仁村には字(村)の境界線の入った地形図はあったが、小字の境界線の入った地形図はあり
    ませんでした。一筆ごとの境界線を引いて作成したのが下の小字図である。現在は今帰仁村の作成されている。
    その頃からムラや集落、ウタキとイベの概念を明確にして議論をする必要性を説いてきた。古琉球の辞令書のま
    きり・ムラ・ハラについての分析をしきた(昭和62年)ことがある。)

 
 ▲今帰仁村兼次の(南北屋敷原)   ▲今帰仁村諸志の「村屋敷原」

 以下の字兼次の二基の「か祢寸原」の記石(ハル石)は兼次の集落移動や村屋敷原とつながってくる史料である。か祢寸原から村屋敷原へ(原域の変遷)。
   


2018年5月12日(土)

今帰仁村上運天(ムラ・シマ講座)

 ・うむてん つけて(おもろ)
  ・うんはてんにあり(運は天にあり) 
 ・上うんてん 下うんてん(絵図郷村帳)(ウインシマ・ヒチャンシマ) 
  ・ 「絵図郷村帳」の朱書の押札に「上り絵図上、上下之運天村無之、運天村と一村
   相見得申候 御記録奉行」とある。奉行所は運天村の内にあった(番所のある下運天か)。
 
 ・1713年の『琉球国由来記』に「ウケタ嶽」、元文検地の記部石に「ユ うけた原」がある。
   (現在の小字に「ウケタ原」(浮田)はないが、現浮田港に地名としてある)


 1741年大島に漂着したとき、唐船を運天港へ回した時、蔡温は浮田港(上運天)から
  指示をだしている。

 ・1846年にフランス艦船が三隻が運天港に停泊したことがある。その時、二名の船員が
  亡くなり、上運天の対岸の屋我地島に墓をつくり葬った。

 上運天の中心は安里集落、ウヘェのすそ野からアサトガー、フテンマガーの泉がある。番所のある運天港への道筋がある。天底からのナカミチ、仲宗根と勢理客からの宿道があり、ギマラ附近で合流。ギマラに番所を風刺した琉歌の碑がある。(運天の番所 通いほしゃ あいしが きまの大道の ぎまの くささ)間切番所に勤めたいが、ギマがはえている宿道、番所への道筋はギマのような臭さよ)


 上運天のウタキは集落の原初的な形態をみせている。ウタキの内部や周辺にウタキのイベ、神アサギ、旧家の跡があり、お宮(昭和15年)に合祀されたようであるが、合祀以前の拝所ものこしている。

 (いつものことながら、参加者の質問には圧倒されます。今回は雨天のため座学でした。)
   
  ▲旧4月15日のタキヌウガン(下運天側)     ▲ウタキ内にある神アサギ       ▲上運天の掟火神の祠


  ▲ワルミ海峡を航行する運搬船           ▲海軍基地の様子(昭和19年)

2018年5月11日(金)

 「寡黙庵」にスキャナー器を置いていないので自宅で100枚余の写真のスキャンをする。スキャンがほぼ終わったので画像の割り付けへ。言葉でいかに付近のことを説明しても画像にはかないません。正面の茅葺きの家はミネーヤ(現山城宅)、上方左手の屋敷は嘉陽氏宅、川(大井川)の右手の森が大井川ウタキ)との説明文がある。ウタキ(現在なし)付近までサバニが遡っていた。小中学生が泳いでいる姿が見られる。貴重な写真が数多くあり「玉城誌」に収録。二、三日で片付けないと動きがとれなくなる。明日の講座の資料もつくらないと。

  
▲玉城消防団基金募集会員舞踏会員(1948年旧3月15日受付中)  ▲昭和30年代のプルマチ入口付近(平良鉄男氏提供)

2018年5月10日(木)

 ムラ・シマ講座(25年目)がスタートする。今年は今帰仁村上運天から。その下調べで上運天へ。何を話そうかと現場へ。

 ・うむてん つけて(おもろ)
 ・うんはてんにあり(運は天にあり)
 ・上うんてん 下うんてん(絵図郷村帳)(ウインシマ・ヒチャンシマ)
 ・ 「絵図郷村帳」の朱書の押札に「上り絵図上、上下之運天村無之、運天村と一村
  相見得申候 御記録奉行」とある。奉行所は運天村の内にあった(番所のある下運天か)。
 ・1713年の『琉球国由来記』に「ウケタ嶽」、元文検地の記部石に「ユ うけた原」がある。
   (現在の小字に「ウケタ原」(浮田)はないが、現浮田港に地名としてある)
 ・1741年大島に漂着したとき、唐船を運天港へ回した時、蔡温は浮田港(上運天)から
  指示をだしている。
 ・1846年にフランス艦船が三隻が運天港に停泊したことがある。その時、二名の船員が
  亡くなり、上運天の対岸の屋我地島に墓をつくり葬った。

 上運天の中心は安里集落、ウヘェのすそ野からアサトガー、フテンマガーの泉がある。番所のある運天港への道筋がある。天底からのナカミチ、仲宗根と勢理客からの宿道があり、ギマラ附近で合流。ギマラに番所を風刺した琉歌の碑がある。(運天の番所 通いほしゃ あいしが きまの大道の ぎまの くささ)間切番所に勤めたいが、ギマがはえている宿道、番所への道筋はギマのような臭さよ)

 上運天のウタキは集落の原初的な形態をみせている。ウタキの内部や周辺にウタキのイベ、神アサギ、旧家の跡があり、お宮(昭和15年)に合祀されたようであるが、合祀以前の拝所ものこしている。
   (詳細は講座で)

  
     ▲御嶽内にある神アサギ             ▲『琉球国由記0(1713年)のウケタ嶽   ▲記部石のウケタ原』

  
 ▲ワルミ海峡(戦前の海軍基地)            ▲明治5年の海図    ▲潜航艇の配置や爆撃を受けた船名

2018年5月9日(水)

 ちょっと過去の記録が必要で復活。

http--yannaki.jp-ka2008ne3.html


2018年5月8日(火)

 羽地内海の湧川よりの塩田跡地を行く。満潮時でヤガンナ島に渡ることができず。スヤーのウタキとワルミのティラまで。スヤーのウタキは塩炊きをした跡地、ワルミのティラは屋我地島に移動した我部村のウタキのイベ。我部村は移動地でウタキを造っているが、故地のウタキでもウガン(祈り)を行っている(最近は?)。

 ワルミの道の駅で昼食をしようと立ち寄ると声がかかる。「教え子です」と。農業高校生になっているようでゴーヤーのピーアール。ありがたくゴーヤーの苗をいただく。「寡黙庵」の庭に植える。タイミングよく今日が梅雨入り。庭の小さな畑は、ゴーヤー、イチゴ、バナナ、パッションフルーツ(数多く実っている)、トマトなど。一段と賑やかになりそう。植物はちょっとでも手をぬくとヘソをまげてしまう。これらの作物は自家製。息抜きの観賞用ですが、気は抜けません。(苗のほんどいただいたものです)間もなく農家になりそう。ハハハ

 
    ▲干潮時の内海(塩田跡が見える)                   ▲ワルミのティラ(イビ)

  
     ▲本日植えたガーヤー       ▲変な形でなっているバナナ     ▲まだ小さなスイカ

  
  ▲イチゴは何度も収穫  ▲ゴーヤー(旅に出たためヘソを曲げたゴーヤー)  ▲バナナ二本植える


2018年5月7日(月)

 一日限りのまつり、大宜味村田嘉里の方々の「まつり」に参加している姿をみながら、また言葉をかわしていると、調査研究の成果を村人に僅かではあるが還すことができた思いがします。特に資料の提供と公開を許るしてくださった屋嘉比ノロ殿内にはお礼申し上げます。ノロ殿内の遺品の原物の展示は来年にしましょうとの返事もいただきましたので、神衣装類やカブ簪やタマカーラ(勾玉)などの展示できそうです。ノロ殿内の大城氏の姿がありました。頑固そうな表情をくずす方ではありませんが、ニコッとされたような表情に安堵させられました。

 展示では表現できなかった、数多くの歴史的なことを学ばせていただきました。そのことは『大宜味村史』(民俗編)と『シマジマ』編に収録してあります。調査研究、そして本にする、さらにこのように展示し村民に紹介する、そこまでが地域史づくりの役割だと念頭に入れています。地域から学んだことは地域に還す、その一部ができたかな?

 さて、次へ

  
                 ▲田嘉里集落センター(公民舘)

 5月6日(日)大宜味村田嘉里で「グラ(たけのこ)まつりが行われます。1日限りのまつり。田嘉里では「たけのこ」のことをグラと呼んでいます。どのような意味だろうか。竹の子というと地上に出てくる直前の様子を想像しますが、まっすぐに地上に出たところを収穫しています。「まっしぐら」に伸びだすことに由来するのだろうか。あるいは 御手座(みてぐら)で、神が宿る依代(よりしろ)として手に持つ採物(とりもの)をさしたようであるが、神への供え物だろうか。興味津々

 隣接する城(現在の謝名城)の根謝銘(ウイ)グスク周辺にもグラが繁茂しています。古くからグラを食用にしていた可能性があります。まだ、未確認ですが首里に住む国頭按司や大宜味按司などへの「付届」の品の一つだったかもしれません。

 「まつり」で屋嘉比ヌンドゥンの遺品の展示をすることに。神衣装や簪(かんざし)や刀などの原物の展示はできませんが、文書や証書などの展示は行います。グラは首里王府への献上物だったかも。



2018年5月5日(土)

 田嘉里までゆく。収穫する前のグラが見たくて。屋嘉比川の上流、屋嘉比集落、集落内では、グラの収穫でグラを湯がくボイラーの音。明日のまつりの準備、いたってのんびりと。

  
        ▲竹林の中に最近芽を出したグラ              ▲湯がいて・・・

201年5月4日(金)

 これから田嘉里まで。グラの撮影で田嘉里まで。ところが連休で大宜味・国頭への車で混雑。途中で今帰仁の寡黙庵へ。明日予定の今帰仁村上運天と湧川の塩田跡へ。今帰仁村湧川の手々原と屋我名島の塩田跡までゆく。近々塩田跡と塩造りの取材があり。しばらく行っていないので、現場がどうなっているのかの確認。

 湧川について、
  ・湧川の歴史
  ・湧川の11の小集落(散在集落)
  ・1738年に創設された湧川村(呉我・振慶名・我部・松田・桃原の村が羽地間切へ移転)
  ・湧川の二つの神アサギ(一軒は湧川村の神アサギ、一軒は奥間旧家跡)
  ・バジル・ホール(1817年)の羽地内海の塩田図
  ・湧川のフプユミとワラビミチ
  ・湧川の塩づくり
  ・湧川の塩田跡(手々原の塩田跡図)
  ・二つの製塩伝説(ワルミのティラーと「琉球国由来記」(1713年)の塩造り由来)
 塩田趾地を踏査しながら、上のことについて頭の整理をしてみた。

 
▲手々原と屋我名島の塩田跡(嵐山展望台より)      ▲屋我名島の塩田跡(石囲い)

  
 ▲塩田とセットのクミとウスタンク   ▲塩炊き小屋にあった石積みの煙突   ▲我部の塩造りの拝所

201年5月3日(木)

 大宜味村田嘉里の公民館(集落センター)内での展示会。その準備で職員と展示用のパネルを作成し、車で会場へ運ぶ。各コーナーのキャプション入れと文書関係の原物を配置するのみ。大宜味村村史の職員がてぎわよく作業をしてくれるので、脇でながめているだけ。

 6日の解説をまとめようとHPに向かいかけていると、体調がおかしい。救急病院へ。いろいろ検査。結論は膀胱結石でした。痛さに二度ほど失神。「結石が膀胱まできているので排出されますよ、画像をみながら」の診断結果。点滴と一緒に痛み止めと造影剤の注入。夕方四時頃には痛みが薄れ検査の結果がでたので、紹介状をお願いして帰宅。

 
      (未完成状態)


2018年5月2日(水)

 数日寡黙庵を留守にしていたら、ユリやパッションフルーツ、ミニトマト、イチゴなどが実っていた。小鳥が庭先まで降りてきた鳴いている。これから展示の仕上げにはいります。

   

【田嘉里の展示の準備】
 

2018年5月1日(火)
 
 ベトナム(ホーチミン市・ミドー・メコン川デルタ・タイソン島)、ベトナム国内空港でハノイ市へ(フランス植民地時代の街並み)、ハロン湾クルーズ、チェエンクン洞、ベトナム陶磁器の発祥地ハッチャン村。

 ベトナム国の全体像がわからず、ガイドブックの地図を拝借。地図で確認すると南部のホーチミン市から入り、三日目は一気に北部のハノイへ。伽羅(キャラ)や沈香、香料、ベトナムの大河を往来しているジャンク船や小舟、ハイホン、バロン湾の船、15、6世紀の大交易時代の日本人町や琉球との関わり、ベトナムの陶磁器など。

 ベトナムの日本人町と船につていの関心。ジャンク型の船(現在エンジン付)、かつての帆船の帆は形だけか。


  
                       フランス植民地時代の中央郵便局内    ▲ホーチミン市外(水田) 


  
  ▲メモコン川流域(水上市場:ミトーで乗った小舟)      ▲メコン川を往来する船
  
 ▲ハロン湾の奇岩と渡しの船(タウゴー島)                     ▲バチャン焼きの街