2016年過去メモ
2019年8月ヘ
2016年9月8日(木)
今月下旬、数本の講演や講座、地域紹介がある。レジメはこれから。体調が悪いとは言っておれません。しかし、薬の副作用のため、顔面の腫れとかゆみ、それと眠気には勝てませんね。三本は国頭地方(現国頭村と大宜味村)の歴史とムラ・シマをベースにしたテーマでお願いされている。2008年3月1日(土)の調査メモを軸にしながら話すことに。今月の講演は講座などをすますと、国頭地方の拠点となった根謝銘(ウイ)について、まとめることに。近世の国頭地方の間切の上納物を掲げ、祭祀の中心となっていたノロ、ノロ家の遺品などから歴史の重みと目に見えない豊かさに気づいていてもらいたい。『大宜味村史 シマジマ』(本編)が発刊(374頁)されました。(販売は遅れるようです)
【国頭間切と両惣地頭家】
国頭間切と羽地間切の村を分割して大宜味間切が創設される以前の国頭間切の間切番所はどこだったのか。大宜味間切分割後の間切番所は浜村→奥間村へ移動している。分割以前は城村、あるいは根謝銘グスクのある根謝銘村だったのか。それとも、大宜味間切分割以前から根謝銘グスクの麓を流れる屋嘉比川下流域の浜村だったのか。『国頭村史』(宮城栄昌著)で「国頭間切の番所は、1673年の田港間切成立のときまで城村にあったであろう」と。
国頭按司や国頭親方などを拾ってみる。以下のことを踏まえて国頭按司(琉球)と薩摩との関係もあるが、国頭間切と地頭家との関わりに踏み込めたらと。
国頭御殿(按司地頭家)(王族以外で明治まで残ったただ一つの按司家)
・国頭按司の始祖は不明。
・国頭親方正胤(元祖:馬氏大宗)…奥間加治屋の次男
・二世国頭親方正鑑…父子ともに功積あり。
・三世国頭按司正格…1537年尚元王が大島遠征中に病気になり正格が身替りとなり按司の位を贈られる。
・四世国頭按司似竜…父の功績で位をもらう。(国頭正教)
・五世国頭按司正影
・六世国頭按司正弥…島津の琉球侵攻後、国質として薩摩に滞在。島津家久から国頭左馬頭の称号をを賜り、
太刀など武具を与えらえ、大阪夏の陣に従軍。戦は終わっていたという。1632年に再び年頭使として薩摩に
赴いている。
・1644年(順治1) 国頭王子正則 謝恩使(尚賢襲封)で江戸上り。
・1653年(順治10) 国頭王子正則 慶賀使(家綱襲職)で江戸上り。
・七世国頭按司正則…島津光久の信頼が厚く薩摩との交渉にあたる。羽地朝秀と対立。
西森ノ御イベ(下儀保村)は1657年国頭王子正則が島津光久の厄難を消すために創建(『琉球国由来記』)。
首里の国頭御殿は、その近くにある。異国奉行(廃官:旧記)。
・八世新城按司正陳
・八世国頭按司正美
・国頭王子総大は道光29年(1849)に謝恩で薩州へ赴いている。
・国頭按司正全の家録高は250石、物成82石(明治6年)の『琉球藩雑記』)
・国頭按司は奥間村の神アシアゲでの祭祀と関わる(『琉球国由来記』)。
・国頭家には家久からの拝領品(各画・鎧・甲などが保存されていたという(沖縄戦で焼失)。
国頭親方(親方地頭家?国頭殿内)
・国頭親方朝致→五世国頭親方朝季(三司官)→六世国頭親方朝治→七世国頭親方朝茲→八世大宜見親方朝楷
朝致は中国への進貢を二年一貢を陳情し許される。福州で客死。
・国頭親方先元(呉氏大宗:川上家)尚元王代
・二世国頭親方先次(尚寧王代に三司官となる)
・国頭親雲上憲宜(嘉靖?国頭地頭職兼大島奉行)(蘇氏)
・国頭親方景明→浦添親方(嘉靖38:1559年~隆慶元年:1567まで久米島へ流される)(和氏)
・国頭親方盛順(嘉靖年間三司官)正徳6年生~万暦8年没:翁姓)(尚元王代に三司官)
・国頭親方盛埋(万暦2年:1574)国頭間切惣地頭職となる。1580年に三司官となる。
・国頭親雲上盛許(豊見城家:国頭御殿十六世)
・国頭親雲上盛乗(十七世のとき、琉球処分となる)の家録30石、物成9石、作得27石(『琉球藩雑記』)。
・国頭親方は国頭按司同様奥間村の神アシアゲでの祭祀と関わる(『琉球国由来記』)。
・国頭親方家は首里の大中にある(首里古地図)。
・「浦継御門の南のひのもん」の世あすたべ三人の一人に「くにかミの大やくもいしおたるかね」
(国頭大臣塩太良加禰)(1546年)
・浦添城の前の碑文の「くにかミの大やくもい」は国頭按司正教?
【国頭間切と両惣地頭家】
国頭間切と羽地間切の村を分割して大宜味間切が創設される以前の国頭間切の間切番所はどこだったのか。大宜味間切分割後の間切番所は浜村→奥間村へ移動している。分割以前は城村、あるいは根謝銘グスクのある根謝銘村だったのか。それとも、大宜味間切分割以前から根謝銘グスクの麓を流れる屋嘉比川下流域の浜村だったのか。『国頭村史』(宮城栄昌著)で「国頭間切の番所は、1673年の田港間切成立のときまで城村にあったであろう」と。
国頭按司や国頭親方などを拾ってみる。以下のことを踏まえて国頭按司(琉球)と薩摩との関係もあるが、国頭間切と地頭家との関わりに踏み込めたらと。
国頭御殿(按司地頭家)(王族以外で明治まで残ったただ一つの按司家)
・国頭按司の始祖は不明。
・国頭親方正胤(元祖:馬氏大宗)…奥間加治屋の次男
・二世国頭親方正鑑…父子ともに功積あり。
・三世国頭按司正格…1537年尚元王が大島遠征中に病気になり正格が身替りとなり按司の位を贈られる。
・四世国頭按司似竜…父の功績で位をもらう。(国頭正教)
・五世国頭按司正影
・六世国頭按司正弥…島津の琉球侵攻後、国質として薩摩に滞在。島津家久から国頭左馬頭の称号をを賜り、
太刀など武具を与えらえ、大阪夏の陣に従軍。戦は終わっていたという。1632年に再び年頭使として薩摩に
赴いている。
・1644年(順治1) 国頭王子正則 謝恩使(尚賢襲封)で江戸上り。
・1653年(順治10) 国頭王子正則 慶賀使(家綱襲職)で江戸上り。
・七世国頭按司正則…島津光久の信頼が厚く薩摩との交渉にあたる。羽地朝秀と対立。
西森ノ御イベ(下儀保村)は1657年国頭王子正則が島津光久の厄難を消すために創建(『琉球国由来記』)。
首里の国頭御殿は、その近くにある。異国奉行(廃官:旧記)。
・八世新城按司正陳
・八世国頭按司正美
・国頭王子総大は道光29年(1849)に謝恩で薩州へ赴いている。
・国頭按司正全の家録高は250石、物成82石(明治6年)の『琉球藩雑記』)
・国頭按司は奥間村の神アシアゲでの祭祀と関わる(『琉球国由来記』)。
・国頭家には家久からの拝領品(各画・鎧・甲などが保存されていたという(沖縄戦で焼失)。
国頭親方(親方地頭家?国頭殿内)
・国頭親方朝致→五世国頭親方朝季(三司官)→六世国頭親方朝治→七世国頭親方朝茲→八世大宜見親方朝楷
朝致は中国への進貢を二年一貢を陳情し許される。福州で客死。
・国頭親方先元(呉氏大宗:川上家)尚元王代
・二世国頭親方先次(尚寧王代に三司官となる)
・国頭親雲上憲宜(嘉靖?国頭地頭職兼大島奉行)(蘇氏)
・国頭親方景明→浦添親方(嘉靖38:1559年~隆慶元年:1567まで久米島へ流される)(和氏)
・国頭親方盛順(嘉靖年間三司官)正徳6年生~万暦8年没:翁姓)(尚元王代に三司官)
・国頭親方盛埋(万暦2年:1574)国頭間切惣地頭職となる。1580年に三司官となる。
・国頭親雲上盛許(豊見城家:国頭御殿十六世)
・国頭親雲上盛乗(十七世のとき、琉球処分となる)の家録30石、物成9石、作得27石(『琉球藩雑記』)。
・国頭親方は国頭按司同様奥間村の神アシアゲでの祭祀と関わる(『琉球国由来記』)。
・国頭親方家は首里の大中にある(首里古地図)。
・「浦継御門の南のひのもん」の世あすたべ三人の一人に「くにかミの大やくもいしおたるかね」
(国頭大臣塩太良加禰)(1546年)
・浦添城の前の碑文の「くにかミの大やくもい」は国頭按司正教?
・
1667年羽地朝秀(向象賢)は、按司地頭と惣地頭は年に一日、脇地頭は二日に限って使役させることした。また従来按司地頭と惣地頭は領内から忰者(コモノ)を五、六十人、脇地頭は十人から二十人を使用していたのを、按司衆は十三人、親方部は十二人、以下位階に応じて減らすこととした。御歳暮の礼として三司官などに贈っていた猪二枝やからかみ一手などを禁止した。
以前紹介した石香炉と石灯篭である。それらの香炉や石灯篭は国頭按司や国頭親方と関わるものではないかと見ている。ただ、下にある国頭王子正秀が国頭御殿の国頭按司(王子)にみられないが『中山世譜』(附巻六)に「馬氏国頭按司正秀。(道光22:1842)七月十一日。薩州に到り。九月二十七日に国に帰る」とあり、その時は按司である。同人は道光29年(1849)に佛夷(フランス)が来たので使いとして薩州に王子として派遣されている。その時の寄進ではないか。船三隻が運天港に到着しているので道光26年(1846)の出来事のことか。馬氏国頭王子正秀は咸豊9年(1859)にも太守公の継統の大典の祝賀で特別に派遣されている(その頃のことは整理が必要なり)。
【国頭村比地の石香炉と石灯籠】
1849年福寧府に漂着した国頭船には五人があ乗り組んでいた。そこで救□を受け、、また船の修理をしてもらった後、福州を経て同年接貢船とともに帰国した。この国頭船が比地船であったことは、比地の中の宮とびんの嶽にある石灯籠及び石香炉によって知ることができる。・・・正面に国頭王子正秀の銘が刻まれ、横面に道光29年己酉と刻まれていた(現在摩耗し確認困難)。また中の宮の香炉の一基に道光29年9月吉日に神山仁屋と山川仁屋が「奉寄進」している。
びんの嶽の石香炉の一つに道光29年9月吉日に国頭王子正秀が寄進している(『国頭村史』)。石香炉や大きな石灯籠は首里に住む按司クラスと関係がある。その典型的な石灯籠は今帰仁グスク内のものである。
【国頭村辺戸の石灯篭と石の香炉】
【国頭村奥の石灯篭と石の香炉】

※奥に拝所が二ヶ所にある。ミヤギムイとウプウガミである。ミヤギムイ(ウガミグヮー)は
マハハの女神、ウプウガミはイビサトヌシの男神を祀っているという。両者をあわせてシリ
グチヌウタキともいうようである。二つのウタキのイベに5基づつの香炉が置かれていたと
いう(『沖縄民俗』(奥部落調査:1965年)。
道光二九年(1849)玉城某 奉寄進(両ウガミにある)
咸豊九年(1859)宮城某 奉寄進(マハハにある)