2002年8月の記録
沖縄の地域調査記録(もくじへ)
・中国ゆき ・古宇利島(サーザーウェー・ピローシ)
・企画展(今帰仁の墓) ・ムラ・シマ講座
・国頭村安田のシニググァー(海神祭)調査
・ヤガンナ島の墓調査
・上運天の龕屋(ガンヤー)と龕(ガン)
・羽地地域の神アサギと原石
・などなど
(画像は略)
中国ゆき 2002.8.6(火)
8月になりました。中国ボケがまだ続いている。上海―北京―万里長城―蘇州―上海のルート(その報告は改めてする)。取り急ぎ、無事帰っています報告。
しばらく画面から離れていたこともあり、書き込みいろいろあるようで何も書けません。昨日、先日放送された番組(NHK)が再放送されたようで、それを見た教え子からメールが届いた。20数年ぶりである。自分自身がでた番組はほとんど見たことがない。「変わっていました?! 変わってなかった?! 年相応に頭は薄くなりましたね」と返事しておきました。懐かしいもの。しっかり、二人の子のお母さんしているようでなによりだ。
古宇利島のサーザーウェー(ピロシー)
今日は平成14年8月4日(日)(旧暦6月26日)に調査した古宇利島のサーザーウェー(ピロシー)の概要をまとめてみた。参与観察記録の作成がまず基本である。その整理に追われてしまった。シリーズで報告するためまとめ中である。参与観察部分はシリーズで紹介できそうだ。平成3年に調査したことがあるので10年ぶりである。残念ながら今回は、最後の一日しか参加できなかった。
シリーズでもう少し詳細に報告するが、概要について紹介しましょう(地域から得たものは地域に還す。歴文の方針である)。参加できた部分のみの画像で紹介。下の①から⑥までの場面でサーザーウェーの歌を謡う。イルカ(ヒートゥ)を捕獲する時も歌を謡う。
サーザーウェーやピロシーなどの語義について、まだはっきりとわかっていない。サーザーウェーは「鷺追い」などと解されているが、明快な説明は、まだなされていない。天底のサーザーウェーには細い道筋をススキ振り、太鼓を敲きながら鷺を追い払うしぐさの場面がある。また上運天では寄ってきたスクをすくう場面があり、いくつかの祈りや願いの要素が読取れる。古宇利島のサーザーウェーについて、祭祀の名称だけでなく、全体を通した「神人の祈り」の視点で見ていく必要がありそうだ。「シリーズ」で、もう少し深めた説明をしたいと思う。
■参加した神人(敬称略・順不同)
①古宇利春夫 ②小波津平吉 ③兼次房江 ④山川貞子
⑤山川ツル ⑥田港フミ ⑦玉城フデ ⑧大城ユキミ
⑨玉城ユキ子 ⑩玉城タエ子 ⑪金城美津 ⑫金城キヌエ
⑬渡具知綾子 ⑭兼次光男(イルカ役)
※サーザーウェーとピローシを一つの祭祀とみてきたが、ここでは分けて考える。同日に行われているが、サーザーウェーとピローシでは神人の役目が異なっている(フンシーガミやクニマーイガミはサーザーウェーとピローシにも関わる)。
【流れに沿ったサーザーウェー(ピロシー)を紹介】
①サブセンター(ムラヤー)で ②ヌルヤーへ
③ヌルヤーの祠で ④新築の家で
⑤しちやぐやーで ⑥お宮の庭で
⑦ヒチャバアサギ(ピロシー) ⑧ヒートゥを捕獲する
⑨神人達が飲み物で懇談
今帰仁グスクへ2002.8.7(水)
午前中は墓(厨子甕)移転の確認あり。一基のようなので一人で対応する予定。移転日は11日(日)午前中。
午後から琉球大学の教育学部の学生達(40名程)が来館する。午後1時半から4時過ぎまでの講座となった(さらに、午後5時半から7時半までの講座と続く)。沖縄の、そして山原の歴史文化の厚みをどれだけ実感できただろうか。以前K高校の引率で来ていた方(現在大学院生)が声をかけてきた。学校現場の経験を持っているので、「今日の体験は体にしみ込んでいくように学んでいます」と。
今日のメンバーの多くが教職を目指す学生達だと思う。大学で学ぶことも大事、そして地域から学ぶことの面白さに気づいてくれたら、なおおもしろいのだが。本丸(主郭)から志慶真郭を眺めたときの、学生達の感動の声が耳に響いた。
その感動と同様に50年前、100年前、さらには600、700年まで遡っていける感性と知識が必要だといつも考えている(歴史の話をするときは、知識が知識で終わるのではなく、知識を通して各々の時代を見ていく。同時に100年200年先を見通していこうとする視点をもってもらいたい(無責任な、いいっぱなしの提言や言葉は慎んだ方がいい)。歴文の展示、そして講堂での話、さらには今帰仁グスクを歩きながらの講座でした。
学生達にとって「山原ゆき」は、当初ピクニック気分だったに違いない。学生達の表情に、ショックを受けた様子が何名か伺えた。短い時間ではあったが、何がつかんだ学生達がいたことはいいこと。
企画展示の準備 2002.8.8(木)
企画展(今帰仁の墓)の準備に入るので、これまで収集してきた資料の確認をする。
午後から「今帰仁の墓」(仮称)の全体プランについて職員に説明する。来週から現物資料の搬入にはいる。展示プランを描くまでには、もう少し資料の確認が必要である。
個々の資料を手にしながら、そこから言葉を発していく予定である。もちろん見通しは持っているが、作業を進めていく過程で、考えていたことが覆ったり、予想通りであったりする。そのことを若い職員達に体験をしてもらいたい。
展示についていろいろ学んで欲しいことがある。私自身、何が見えてくるのか。いくつか頭で仮説を立てているが、仮説がもろとも崩れるのもまた楽しい、また実証できたときも嬉しいものがある。
夕方、今帰仁グスクを歩いてみた。伊是名・伊平屋島がくっきり見えたので撮影に行った。距離が遠くデジカメではうまく写っていない。
先日行った中国の万里の長城の規模の大きさ(約6700km)には驚かされた。今帰仁グスクの城壁もいいものがある。今帰仁グスクは石積み、万里の長城はレンガを積み上げている(部分によっては土塁や石積もあるようだ)。城壁はレンガと石積みの違いが面白い。今帰仁グスクの石積みの城壁は風情があっていい。北山の興亡を思い描きながら、眺めるとなおいい・・・・・。
▲今帰仁グスクの大隅の城壁(外側から)(2002.8.8) ▲万里の長城(八達嶺)
サーザーウェーの整理 2002.8.9(金)
明日はムラ・シマ講座である。国頭村比地にいく予定である。先日調査をしてみた。まだ途中であるが公開する。逐次まとめていくことにする。
【国頭村安田のウンジャミ】2002.8.11(日)
9時半から墓調査、そして4時過ぎから国頭村安田の海神祭(ウンジャミ)があり、一日外出する。昨日のムラ・シマ講座、そして墓調査、さらには国頭村安田の海神祭は後日報告する。
墓調査の現場に行ったら墓の主は来ていません。それで家まで訪ねてみた。すると「ああー、午後から、二時過ぎからだね」。それが沖縄なのだ。いつも感心する。「三時に国頭へ行かないといけないので、一時、一時半にしてもらえませんか」とお願いする。「いいよ」との返事である。ということで予定変更となる。
安田のシニグは昨年調査をし、まとめ(途中まで)はしたはずである(シリーズ2で)。今回の調査は、昨年につづくものである。連続した、あるいは統合できなかった痕跡なのかもしれない。それで今回は見逃すわけにはいかない。古宇利島では海神祭の中に吸収されているのかもしれない。そんな仮説をもちながらの調査となる。結果はどうか。
【ムラ・シマ講座】
さて、ムラ・シマ講座は「国頭村比地」である。比地は印象深いムラの一つである。神アサギが小玉森(ウタキと思われる)の頂上部にある。かつての集落が小玉森の斜面にあった。その痕跡が細い道、火神の祠、あるいは位牌を祭った建物として。建物は無いにしろ屋敷囲いの福木の大木、さらには建物の礎石やブタ小屋の跡があり、未だ斜面に集落の痕跡を残している。かつて集落のメインストリートを思わせる路筋を通っていると、ここで生活していたムラ人達の声が聞こえてきそうだ。
入り口(旧公民館跡)に「比地の小玉森の植物群落」の説明文が掲げてある。そこから曲がりくねった旧道を通り、頂上部にたどりつくと広場となっている。そこはアサギナーである。向かって右手の方に低い瓦葺き屋根の神アサギがある。かつては茅葺屋根の建物であった。
海神祭(ウンジャミ)のとき、神人達は神アサギの柱に合せて座ったという。昭和30年代には22本の柱があったとの報告がある。それだけの神人がいたというのである。今では数人いるかどうか(詳細については「比地をゆく」でまとめる)。アサギナーの回りに二、三軒の祠があり、神アサギを中心とした集落の形態が伺える。神アサギの中を覗いて、それから登ってきた路を下った。
子ども達が楽しみにしていた「やんばる野生生物保護センター」。子ども達の記録ノートはまだみていないが楽しみにしておこう。そこでの展示は海岸(イノー)から水系とたどりながら森へと進む。保護センターの東恩納さんが分かりやすい説明して下さり、子ども達だけでなく大人も興味深く聞いた。ブダイが吐き出す(エラから)砂の粒は5トンにも及ぶという。さんご礁のある海の砂の大半はサカナが作り出したものなのか!と驚いてしまった。水系の流れでみていく視点は、ムラ・シマの「比地をゆく―ムラヤ跡―旧道―集落跡―アサギナ―神アサギ―ウタキのイベ」をみていく視点と合い通ずるものがある。そういった筋道を辿る過程でヤマバルクイナやノグチゲラ、あるいはヤンバルテナガコガネなどに出会えれば幸い。
奥間川での昼食。子ども達はやはり水に入りたいようだ。ほとんどが水につかり泳いでいた。水着でおよぐ発想など山原の子ども達にはないようだ。水着スタイルはプール用なのである。着たままで泳いでいる(すべるので頭を打つから。注意はそれだけ)。
▲比地の神アサギへの旧道 ▲比地の神アサギナー
▲比地の神アサギ ▲アサギナーで行われるウンガミ
2002.8.10(土)
ムラ・シマ講座 国頭村比地をゆく。
北山時代の交易 2002.8.13(火)
午前中、具志川東中学の先生方の研修。レジュメもしっかりつくられての訪問でした。ありがたいですね。その途中から琉球大学法文学部の地理学教室のメンバーが地理学巡検で歴文を訪ねてくれた。二つのグループがバッテイングしてしまったので琉球大学のメンバーには地理学に視点をあてた話ができなくて申し訳なかったですね。またの来館を。具志川東中学の先生方の中には勾玉(願いが一つだけかないますと・・・)の効用でいいヒントをもらったようで。よかったですね。彼と一緒に訪ねて来てください。それも歴史文化センターの役目の一つか!?
午後からは地元の兼次中の生徒が5名やってきた。「北山時代の交易」についての質問である。今帰仁グスクから出土している8割近いのものが中国からの移入品である。それだけでなく日本・韓国・ベトナム・タイなどの東アジアの国々のものも出土している。中国を中心とした交易があったのでしょう。展示されている品々がそうである。ならば、琉球国から何を持っていったのでしょうか。調べてもらうことにした(多忙な一日でした)。
11日(日)午後から諸志の仲村家の墓調査。
11日(日)午後5時から国頭村安田のシニググァー(海神祭)調査
12日(月)羽地地域の神アサギと原石の確認調査
毎年8月になると調査がどっとやってくる。今年も予定せずの調査となった。集中してくるので、頭の中はパンク状態となる。全体の調査メモは後ほど紹介するとして、とり急ぎ記憶に留めるため、写真とメモ程度にとどめておくことにする。
諸志の仲村家の墓(調査メモ)
▲ニークンガー沿いの仲村家の墓(諸志) ▲仲村利三郎の甕
仲村家(字諸志)の墓はニークンガー沿いにあり、隣接(約30m)して志慶真乙樽の墓もある。一帯に諸志(志慶真村)出身の方々の墓があるのは、志慶真村が現在地に移動する前は一時志慶真村が付近にあったといわれているが、それと関わっているのかもしれない。墓は崖をくりぬき、軒をつくり、正面はコンクリートが張られている。
仲村家には明治38年2月13日に中国(清国)で戦死した仲村利三郎氏と昭和33年に81歳でなくなった仲村ナベさん、そして三歳で亡くなったマツ(三歳)の三名が葬られていた。仲村利三郎氏と妻のナベさんは昭和45年10月31日に夫婦を一つの甕にしてある。使わなくなった仲村利三郎と書かれた甕がそのまま残されていた。今回は仲村利三郎とかかれた甕に親子三名を合葬して仲村家の新しい墓へ移葬した。仲村家の本墓の甕については、別に報告する予定。空墓になった墓の前に「明治三八年二月十三日清国盛省拉木屯ニ於テ戦死 陸軍歩兵軍曹勲七等仲村利三郎之墓」とあり、裏面には「昭和十三年十二月是立」(セメント造り)とある。
【国頭村安田のシニググァー】(海神祭)(調査メモ)
8月11日(日)旧暦の7月最初の亥の日に行われた。昨年はシニグ、今年はシニググヮー、あるいは海神祭(ウンガミ)と呼んでいる。安田の海神祭(ウンガミ)はシニグと交互に行われている。神人達(今回三名・白衣装ではない)が午後5時頃神アサギに集まり、神アサギの中での御願から始まった。
①
神アサギ
神アサギで拝む方向は北(辺戸に向かっている意識あり)、供え物は線香・泡盛・ミチ(白酒)・米・肴(肉・魚など)。線香は三箇所に置く。
②ニードーマ(根所)
次にニードーマと呼ばれる赤い屋根の祠(火神が三セット配置)へ、三名の神人と書記が中に入り、御願をする。神アサギで供えたものと同じ。それからカミギー(神木)へ。
③カミギー(神木)
そこは辺戸へのお通しだという。神アサギでの供え物を持参してくる。
④神アサギへ
再び神アサギに戻るが途中で二手に分かれた。一人の神人はニードーマの方から神アサギに向かった。二人はニードーマの方に曲がらず、シニグの碑のある方へと進みそこから神アサギに入った。
⑤各々の拝所へ
神アサギから一人はアサギに隣接したあるアサギンシー(旧家)の赤瓦屋根の祠へ。そこで同様な供え物を供えた。二人の神人は神アサギから道路を挟んだ所にあるナハメー(コンクリート造りの祠)に行って御願をした。
⑥アサギマー(アサギの庭・広場)
アサギマーにはコの字に筵が敷かれ、そこに村人(男の方々が多い)や来賓や主催者などが座り、イノシシ狩りや魚獲り、そしてウシデークの舞を見物したり、ミチ(白酒)や酒などが配られる。神人達は御願が終わると神アサギの側に座りはじまるのを待つ。その後、
⑦ヤマンシシトゥエー(猪獲り)
⑧イユートェー(魚獲り)
⑨ウシデーク
ウシデークが行われた(詳細については、シリーズで報告予定)。
▲安田の神アサギ(平成14.8.11) ▲ミチ(白酒)の入っている容器(神アサギ内)
【羽地地域の神アサギと原石】(調査メモ)
12日(月)午後から羽地地域(現在名護市)を訪ねてみた。羽地地域が大きく変わりつつある(すでに変わってしまったものもある)。羽地地域が大きく変貌する要素は、今に限ったことではなさそうだ。蔡温が行った羽地大川の改修工事、明治末からはじまった羽地大川の仲尾次方面への川筋の開削、そして昭和60年代の羽地グスク周辺の土地改良事業、今変ろうとする動きは羽地ダムと真喜屋ダム建設に伴う、それとの引き替えの公民館建設、神アサギなどの拝所のつくりかえなどがある。昭和30年代から40年代にかけて拝所を一つにまとめていったのが伊差川や古河知などのようなに神アサギと他の拝所の一箇所への集中化である。神アサギと他の拝所の一箇所集中という本来の形から逸脱して作られているため、ムラ・シマ本来の姿を見いだすのに非常に苦労する。
羽地地域で祭祀場がまとめられているのが、伊差川・我部祖河・古河知・呉我・川上・源河である。神アサギが独立して残されているのは、仲尾・谷田・仲尾次・真喜屋である。親川と振慶名は内部に火神を配置してあり、本来の神アサギとは異なると見た方がよさそうである。下の写真は呉我の神アサギであるが、後方にあるのは別の場所にあった拝所をここにまとめ火神を祀ってある。そのようなパターンが伊差川・古河知・我部祖河・川上・源河である。作り替えられたが、本来の形(他の拝所とまとめられることなく)で残されたのが真喜屋の神アサギである(個々の神アサギについては「羽地地域の神アサギ」(山原の神アサギ)で報告の予定。
▲分散していた拝所がまとめられ ▲最近作り替えられた
ている(呉我の神アサギ) 真喜屋の神アサギ
学校職員の研修 2002.8.14(水)
11時から北中城小の職員の研修がはいていた。すっかり木(明日)と間違えていた。旧の七夕なので墓掃除しなければならない。その役割を担う年頃になってしまったか!急きょ、墓の清掃へ。草刈機を担いで。1時間半ばかり。車に携帯を置いていて作業していたので聞こえず。車に戻ってみたら6回の着信。歴文から。丁度終わっていたので急ぎで戻り、今帰仁グスクへ一目散。文化財の玉城くんが案内してくれていたので助かった。途中からバトンタッチ。たまにはそういうこともあるさ(あってはならんのじゃ。お客さんに対しては)。
今帰仁グスクが先の説明となりました。戻って歴文で自分の汗臭さに鼻が曲がりそうになったので裏ベランダの露天シャワーでさっぱり(誰も知らない露天シャワー)。また、気を引き締めていきましょう(そう言っては気を抜いている)。
墓の調査で夕方(潮の干潮)から、パソ姫とヤガンナ島に渡る予定にしていた。ちょっと準備が行き届かず明日に延期となる。ヤガンナ島はパソ姫が担当したいとのことで。まずは、現場踏査をしてからである。墓調査に使う今帰仁村全体の地形図の準備にかっている。四メートル四方の地形図を分布図に使う。
明日は、ドゥルマタの墓の木枠を展示室に運び込む。結構のスペースをとりそうである。一つ一つ現物を運び込むことで展示の実感が湧き出てくる。そろそろチラシや看板の作成にも入る。
合間をぬって「国頭村安田のウンガミ(シニググヮー)」の整理である。参与観察記録部分はほぼ終わる。それが言葉を発したり論じたりするもっとも基本的な作業であり資料づくりである。参与観察記録が崩れると、もともこもなくなる。それに参与観察記録は次の世代への橋渡しの資料(論や学説ではなく)でもある。
これから『運天の字誌』の集まりがある。今日の資料は地形図のみである。小地名をみんなで拾いましょう。
ヤガンナ島調査 2002.8.15(木)
早朝からのヤガンナ島調査となった。潮の干満は人の力では調整ができません。ヤガンナ島の調査は干潮時ということになる。干潮時のプラス・マイナス一時間半ということになる。今朝は干潮時を過ぎた午前7時島に渡った。8時過ぎに大分満ちていた。もう少し、もう少しと調査していると、島への渡り場まで満ちてきていた。それ急げ。靴が濡れる前にあげ、ピョンピョン飛びで一気に渡ってきた。島に取り残されることなく無事出勤できた。
【ヤガンナ島の墓調査】
夕方5時頃ヤガンナ島へ。ヤガンナ島へ渡る場所の潮が十分に引かない。6時までには完全に引くだろうと、しばらく待っていた。ヤガンナ島から墓の清掃を終わった方がポチャポチャ水の中を戻ってきた。「潮はそれ以上引かないですよ」とのこと。今朝はしっかり引いていたので、もっとひくだろうと待ってみた。逆くに満ちてくる様。「来週にしようか」とパソ姫に。しかし、来週調査ができるかどうか心もとない。「よし、渡ろう」ということになった。それから、約1時間ばかりの調査。島の西側の壁面と中央部を通る一筋の両側の調査をするのに精一杯。墓の数とメモ、そして写真撮影をした。潮の満ちるのに気が気でない。取り残されないように。不十分なので、来週再度調査をすることになった。
墓の形態からしたら掘りぬきの墓が圧倒的、そして亀甲墓など様々。墓口が開き、周辺に甕をわったり、放置されたりしている。それは移葬したのであろう。七夕、そして旧盆なので数名の方々が墓掃除にきていた。すでに清掃がなされた墓もあった。調査は、まだまだ不十分。今日、伺った方々の多くが湧川。一人の方は伊豆味からであった。墓の所有者の聞き取り調査を進めることで周辺の村(1736年まで5つの村が一帯にあった)の様子が分かってきそうである。なかなか調査に出る機会のないユックリズムのパソ姫にはハードな動きでした。
▲ヤガンナ島(西側から) ▲ヤガンナ島にある墓
昨晩の運天の字誌でいい情報をいっぱいいただいた。これから早速文化財のメンバー(ひさし・なぎさ)と昨晩いただいた情報の一つ上運天にあるガンヤー(龕屋)の確認にいく。期待通り残っているか?
上運天の龕屋(ガンヤー)と龕(ガン)
龕屋はしっかり残っていたが、龕はペッチャンコになっていた。しかし今帰仁村にまだ形として残っていたことは貴重である。ガンヤーは戦前にコンクリートで建立したという。以前は運天のクンジャーへ降りるところにあって、プルガンヤーの地名として残っている。幅約196cm、高さ185cm、長さ471cmある。中のガンや壊れている。担ぐ棒部分は304cmある。ガンは着色してなかったという。ガンは壊れているが、そのものの復元は困難であるが、スケールがとれるので新しく作ることは可能である。今帰仁村のものかどうか、まだ確認できてないが昭和30年代のガンヤー(龕屋)及び中に置かれているガン(龕)の写真が歴文にあるので一緒に紹介しましょう。このガンも企画展(今帰仁の墓)で展示できればと考えている。今帰仁村には影も形もないと思っていたので、壊れているものの葬制について貴重な資料になる。なぎささんは、ガンとの出会いに感激。上運天のガンヤー及びガンは下の写真でイメージできそう。ガンヤー、そしてガンの確認が今帰仁村できたのは大きな収穫である。引き続き現物の実測調査をする予定。
▲ガンヤーの内部(2002.8.15) ▲ガンヤーとガン(場所不明)(昭和30年代)
歴文の動き 2002.8.16(金)
一日出張なり。印刷所で最後の青刷校正と確認。ニーブイカーブイしながら3時間余り。無事校了なり(四時半まで缶詰)。来週末には歴文の機関紙が刊行される。この「歴文の動き」はまもなく一年になる。まだ振り返って読んでいないのでどうということはない。このHPはノート代わりであることはスタートの時に書き記しておいた。それは今も変わりはない。他人の書物を読むことはほとんどしない。しかしヒントを得ることは度々ある。現場で自分の目で見たもの、考えたことを言葉にしていくことは歴文の一貫した方針であり、またスタンスでもある。それでいて、いつもマイペースでやってきた。
明日は朝から墓調査がはいている。楽しみでもあるが、少しハードだな。あれもこれも工事中なので、時間よとまれ。消化不良起こしている。でも夏にどれだけ動けるかが勝負だと、よく言っていたことが懐かしい。
旧羽地村の原石(二基)
二つの原石は以前に確認していたものである。久しぶりの対面である。羽地地域の元文検地が行われたのは1741年から42年にかけてである。
左側の「や うちはら原」は字古我知の現在の古我知原土地改良の最中確認されたもの。名護市の文化財に指定されている。近くに行政区内原が我部祖河と古我知の一部を割いて独立した。原石のある一帯は「うちはら原」だったのであろう。
もう一基は我部祖河のお宮の建物の後ろにある。現在の小字は与那川原である。この原石は木に挟まっている。「ホ お□□」とあるが全体の判読はできていない。以前判読できたように思うが、その資料をすぐ出すことができないので保留にしておく(二基とも撮影は2002.8.12)。この辺は、大分動いているような印象。元文検地の時の竿入帳も、再度読み通して検討することにする。竿入れの資料は、歴文の研修室のどこかに埋まっているでしょう。
▲「や うちはら原」(在古我知) ▲「ホ お□□」(在我部祖河)
S家の墓調査 2002.8.17(土)
午前9時半から今帰仁村諸志のS家の墓調査をする。墓は崖をくり貫いてあり、墓口は野面積みになっている。そこから新しい墓へ移葬した。与那嶺の海岸に近いクチャヌヘイと呼ばれる墓地。標高約13mの丘の切り立った面を掘り込んだ墓。墓口は琉球石灰岩の自然石を積み上げて閉じてある。
墓室は楕円形に掘り込まれ、奥の方が二段になっていた。10基の厨子甕が二列に置かれていた。奥の一段高い所に6基、下の段に四基。そして中央部に洗骨されていないのが一体ある。おそらく最後に葬られた方が洗骨されずに、今まできたのであろう(今回の墓を開け、骨を拾い新しい骨壷に葬った)。
この墓には乾隆42(1777)年に56歳で死去された前古宇利親雲上から光緒6(明治13)年に死去した五良玉城が葬られている。S家との関わりについては聞き取り調査をしてからまとめることにする(詳細については別に報告の予定)。前古宇利親雲上とあるのは、今帰仁間切の地頭代をした人物である。また間切役人の大掟をした人物も出ている。S家から20名が参加。
〔調査記録撮影〕 仲原(歴 文) 玉城 寿(文化財)
仲里なぎさ(文化財) 仲原 真(学 生)
〔今帰仁村諸志のS家〕の墓調査記録メモ
①蓋ナシ。銘ナシ。有頚の厨子甕
②蓋に銘あり。有頚の厨子甕
乾隆五拾四年己酉七月六日
行歳四拾三 辛亥八月廿九日
洗骨
今帰仁間切仲尾次村大掟
与那嶺仁屋
③蓋の裏に銘あり。有頚の厨子甕。
大清嘉慶十一年丙寅十二月廿二日
死去 故兼次親雲上妻 寿八拾四□
八月十七日洗骨
拾八年葵酉 三月十一日死去
乾隆四十二年丁酉 寿五十六
兼次親雲上
道光五年乙酉
骨入加
(③の厨子甕には乾隆42(1777)年3月11日(56歳)に死去した前兼次親雲上
と嘉慶11(1806)年12月22日(84歳)に死去した故兼次親雲上の妻を道光
5(1825)年に夫婦を一つにした。)
④蓋の裏に銘あり。有頚の厨子甕。胴部に銘があるが判読しにくい)
道光五年乙酉
五月十一日死去加那
同七年丁亥八月
二十一日洗骨
⑤蓋のふちとうらに銘あり。有頚。誌板に同様な銘あり。
〔ふち〕
光緒六年庚辰八月廿日死去
仲尾次村五良玉城寿歳五十五
〔蓋のうら〕
明治十六年
未九月廿日 洗骨仕候
⑥蓋のふちに銘あり。有頚の厨子甕
道光弐拾年庚子二月五日死去
故仲尾次村前古宇利親雲上
⑦銘なし。有頚の厨子甕
⑧胴部の内側と外側に銘あり。有頚の厨子甕
〔外側〕大清同治四年乙丑九月十四日洗骨
〔内側〕前古宇利親雲上
男子□□ 仲村にや
⑨銘なし。有頚の厨子甕
⑩蓋のうらに銘あり。有頚の厨子甕
道光五年乙酉
十月二日死去 石嶺にや
母親
同七年丁庚八月二十一日洗骨
▲墓の内部の様子 ▲③の甕の蓋の銘書 ▲墓室から出された厨子甕
二枚の辞令書 2002.8.18(日)
国頭村安田にあった二枚の辞令書は以前から気になっている。昨年今年と安田のシニグとシニググヮーの調査をしたこともあり、祭祀と国(琉球国)について述べる。そのため、この二枚の辞令書を使って首里王府と国頭間切、そしてムラとについての支配関係をできるだけ明確にしておきたいと思う。国都首里から遠く離れた国頭間切の一つのムラをどのように支配していたのか。ムラを支配するため、末端まで支配権力を徹底させるためにどのような方法をとっていたのか。さらに祭祀を政治にうまく取り込んでいる姿が見え隠れしている。祭祀を祈りや神が何かという議論も大事であるが、支配する、支配される関係。言葉を変えれば税をとる側と採られる側という視点で、祭祀を捉えてみようと考えている。
三山が統一された後、また第二尚氏王統になってからの辞令書であるが、ここに掲げ国の地域支配について考えてみたいと思う。難解な文面なのですぐにとはいかないがゆっくり考えてみる。とりあえず、二つの辞令書を前文掲載しておこう。『沖縄県国頭郡志』(大正8年)に掲載されたものを『辞令書等古文書調査報告書』(沖縄県教育委員会)(昭和53年度)に形を整えて掲げられている(「沖縄諸島逸在辞令書」)ので、それをここで利用する。二枚とも古琉球の辞令書である。
〔国頭間切の安田里主所安堵辞令書〕
しよりの御み事
くにかみまきりの
あたのさとぬし〔ところ〕
この内に四十八つか〔た〕は
みかないのくち
御ゆるしめされ候
一人あたの大や〔こ〕に
たまわり申〔候〕
しよりよりあたの大や〔こ〕か方へまいる
万暦十五年二月十二日
〔国頭間切の安田よんたものさ掟知行安堵辞令書〕
しよりの御み事
くにかみまきりの
あたのしろいまち
この内に十四つか〔た〕は
みかないのくち
御ゆるしめされ候
〔脱けた部分あり〕
このふんのおやみかない〔ハ〕
〔脱けた部分あり〕
のろさとぬしおきてかないとも〔ニ〕
御ゆるしめされ候
此ちもどは三かりやたにて候へども
万暦十四年に二かりやたなり申〔候〕
□□□にいろいろのみかないの三分一は
おゆるしめされ候
一人よんたもさおきてに
たまわり申〔候〕
しよりよりよんたもさおきての方へまいる
万暦十五年二月十二日
安田のシニグ、シニググヮー(ウンガミ)で国と間切、そしてムラについて紐解くのでここに掲載のみ。
ヤガンナ島のこと 2002.8.20(火)
朝は湧川と今泊の区長さんからヤガンナ島のこと。ガンヤーや古い墓地などについて話を伺ってきた。今帰仁村で火葬場が建設されたのは昭和35年頃である。それ以前は棺(ヒツギ)に遺体を納め、その棺を墓室にいれる。その後三年経つと洗骨して厨子甕に納めて墓室に置く。今帰仁村での一般的な葬制である。葬制についてボツボツ説明にはいる予定。
湧川ではヤガンナ島の様子。昭和27年の豊年祭の写真二枚があった。その時に「湧川の豊年祭」に「七福神」を取り入れたという。教わったのは名護市のようだ。古い墓はアタガー一帯やクンジャドーにある。新しい墓地はクガニムイあたり。ヤガンナ島には呉我の人達の墓もあるという。
今泊のガンヤーのあった場所とシマワカレ(島別れ)の場所について伺ってきた。ガンヤーは集落の西側に、シマワレ場所は三、四カ所にあるようだ。ニークン橋付近、アジマー(今帰仁グスクへの上り口)など。
古宇利島も宮城新喜氏と古宇利春夫氏の話としてガンヤーのあった場所、戦争でガンヤーとガンが壊されてしまったという。復活はできなかったようで、ガンを失った後は棺(ヒツギ)をガンに入れず、直接四名で縄(ロープ)で結わえた棺を棒で担いで墓に運んだという。
湧川の公民館に昭和27年の豊年祭の写真が二枚あったので紹介する。写真の解説は別にする予定なり。午後からは県文化課の沖縄の焼き物調査があった。古河知焼きと喜納焼きなどが主だった(12基)。
▲湧川の豊年祭(昭和27年) ▲「七福神」を取り入れた時(昭和27年)
ドゥルマタの墓 2002.8.21(水)
ドゥルマタ墓の組み立て。ドゥルマタは地名(泥が堆積し、二股に分かれた場所)。この墓は大井川の下流域右岸にある墓で、前面が木の枠でつくられ、木墓とも言われている。内部には石の厨子甕や素焼きの厨子甕、ボージャー甕などが納められている。平成7年頃、木枠を外してブロックで前面を作り変えたため、木枠ハ歴史文化センターに運び込まれたものである。
▲ドゥルマタの墓 ▲ドゥルマタの墓の仮組立中
今帰仁の墓―後生の世― 2002.8.22(木)
午前中建築に関わるメンバーや学生達が30名ほどやってきた。9時半から12時過ぎまでばっちりの講座となった。最近、大学の講座をやっているような感じだ。山原学特殊講義、あるいは歴文山原学講座として定着させてみようか(冗談)。
午後からは、ドゥルマタ墓の台座とバックづくり完了。明日には組み立てることができそうだ。これまで調査した墓のアルバムを捜し集めてみた。二、三見つからない墓調査もあるが大方揃っている。写真の選び出しや調査ノート探しをしなければならない。それは大変だ。12、3年分の調査データだから記憶の彼方にいっている。一つ一つ記憶をたどるしかないか。気づかなかったが、びっくりするような墓もある。
下に三家の厨子甕の写真を取り込んでみた。それぞれの墓に葬られた方々を手がかりに何を見つけていこうとしているのか。葬制を知ることも一つの視点に違いないが、その向こうに「くに」という人を窮屈にしている枠組みが見え隠れする。もしからしたら、窮屈な枠組みを作り出しているのは私たち自身なのかもしれない。近世も今もかわらないようだ。
今日、「今帰仁の墓―後生の世―」のタイトルを掲げてみた。これから、いくつか展示の柱を立てていくが、今回は近世から明治にかけての墓が中心となる。そのため「くに」という枠組みにしっかりはまり込んだ近世という時代の中での議論になりそうだ。まだ、まだ資料の整理はついていない。どんな結末になるのか・・・・・・。
後生の世(グソウヌユ)は、「くに」という枠組みのなかった時代と同様、もっともっと豊かな世があるに違いない。後生の世に、そんなことを期待しているのかもしれない。そうはいかんだろうが。果たしてどうだろうか。何度も自問自答を繰り返している。
▲今帰仁村諸志(中城ノロ家の厨子甕と誌板)(1990.11)
▲今帰仁村諸志(仲村家) ▲仲尾次の仲里家の厨子甕
小浜原の池城墓 2002.8.23(金)
今帰仁村字平敷の小浜原に池城墓がある。墓室に「寛文三年」の年号が記された石棺の厨子甕がある。今帰仁村で確認されている銘書のある厨子甕では一番古いものかもしれない。もちろん、それ以前のもあると思われるが。石棺はサンゴ石灰岩(ウミイシという)をくりぬいて造ってある。蓋も同じくサンゴ石灰岩で造られている。切り妻型の屋根である。
「寛文三年癸卯八月廿三日」(西暦1663年)は日本年号である。明治の初期まで中国年号を使うのが一般的であったが、17世紀の中頃数年間日本年号を使った時期がある。琉球が大和化したことと符合する。年号の前の文は「さき山大やこもい」(大屋子)か。(墓の庭にある石碑の文面と合わせて見ていく必要がある(略)。
▲池城墓の墓室の中にあるサンゴ石灰岩の厨子甕
後生の世 2002.8.24(土)
「後生の世」の方々は昨日のウークイで再び、あの世に戻られたようです。しかし歴文の「後生の世」の企画展はこれからです。どうなるか気にしながらお帰りになったのでは! 展示作業はボツボツ進めています。展示は展示全体が芸術作品。そういう展示ができるかどうか。
今日はドゥルマタの木墓を展示してみた。墓を閉じてあった単なる木と板だったかもしれない。それも大分朽ちたもの(もちろん、釘で打ちつけることはできません)。
展示室の空間に静かに、そして墓をつくった大工の息遣いに触れ、そして中に葬られている方々の声を耳にしながら組み立てる時間が与えられた。そんな思いでの作業であった。展示に向かう張り詰めた緊張感、そして方針が決まったときの心地よさ。まだ一つの墓のモデル展示であるが、久しぶりに味わう展示の醍醐味でもある。これから職員や学芸員実習の学生達も、展示の不思議さとおもしろさを体験するでしょう。
下の木墓のスケールは高さ165cm、横幅が270cmである。一本の柱は20kg以上あり。柱はどんな木? 板はセンダン?鋸やノミを使っている。現場は21日の写真(写りがいまいち)。岩をくり貫いた墓である。この墓は全体の展示でどんな位置づけになるか興味深い。
▲木墓の展示をする。 ▲そろりそろりの組み立てでした。
近世の墓地の規模 2002.8.25(日)
午前中、今帰仁中の生徒が来館。今帰仁グスクについての質問。
墓地についての近世あるいは明治の資料にあたっている。いくつか掲げ、近世の今帰仁間切における墓地についてどういう取り決めの中で墓づくりがなされていたのか。
田地奉行規模帳(乾隆2年、1737)に墓地について以下のように記されている。雍正13年(1736)に22間四方に定めたのであるが12間四方にする。また先祖からのも12間四方以外はすべて所中(所管?)へ渡すこと。半分規模に制限される。自分勝手に規模を拡大すると厳しい罰則が待っていた(丁寧な読み込みが必要なので企画展の冊子に掲載)。
国頭村の共有墓地(『琉球共産村落之研究』所収)
諸士墓地の儀(乾隆二年)
雍正十三年卯年二拾二間四方ニ相定置候得共右以前ニ墓地申請其近辺竿迦之所絵図間付
ヲ以 テ訟相達致格護置候所ハ右様之通拾弐間四方墓主江可相渡候左様而右絵図之内可
竿入所ハ高取立請地ニシテ墓主江相渡竿入難成所ハ惣而所中江可相渡事
但何之證跡モ無之先祖以来相譲候節ヲ以テ致格護置候墓地之儀ハ拾弐間
四方外ハ惣而所中江可相渡事
〔今帰仁間切各村内法〕 (第61条)
私ニ墓所築造又ハ区域ヲ広メ居ルモノハ科銭百五十貫文
申付候事
但他村他間切ノモノモ前条但書ニ依リ取扱候
〔墳墓地〕(沖縄県旧慣租税制度)
墳墓ハ重ニ荒蕪地又ハ不毛ノ土地ヲ撰ヒ士族ハ拾弐間四方平民ハ六間四方ノ制限
以内ニテ築造ヲ許シタルモノニシテ藩制中按司又ハ親方ト称スル者等ニ至リテハ
墳墓以外ニ大ナル敷地ヲ附属トシテ下附シタルモノアリ置県後モ明治十五年伺定
ノ上旧来ノ通リ其新築ヲ許可セリ売買譲与ハ旧藩以来自由ニ放任シ置キタルモノ
トス但し築造願ニ対スル許可ノ外ニ券状ヲ下附シタルモノナシ
学芸員実習 2002.8.27(火)
学芸員実習がはじまりました。今日は県内の学生達三名。初日からハードな実践となりました。実習期間中は日常的な動きと異なり、職員の動く幅が大きくなってくる。また、そうじゃないといけいないと考えている。
学生達にとってはじめての職場体験であるし、また経験のない展示作業を実践するわけだから、緊張感も大分あるようだ。看板と展示パネル用の台づくりから。ノコギリを使い、釘を打ち、そして明日からペンキ塗り。さらにラミネート張りや展示パネルの作成とつづく(出だしの作業が強烈で、実習が終わってから、ペンキ塗りとのこぎりを使った印象しか語らない卒業生も、一人いたな。だれじゃ)。
学生達にとって特別メニューが待っていた。広島のメンバーが29日(木)からやって来る。その宿泊先の草刈りと室内の清掃。その報告は明日にでも。広島のメンバーは、桃源郷の山荘でサバイバルの生活になりそう(覚悟)。この「動き」を見ていたら、連絡が欲しい。どんなメンバーがやってくるのか、皆目知りません。車や宿泊などの準備が必要なので。サバイバルは学芸員になるための一つの体験だと思えばいいか(もちろん、安全面は万全を期する)。台風がやってくるので、沖縄に来れるか心配だな。沖縄に来てからは、台風が来ようが嵐になろうが大丈夫。
さて、朝のミーティングが終わると、さっと大井川下流域と渡喜仁のハキジヌメー付近、約30カ所の墓を訪ねてきた。いや、びっくりするやら見事な墓が数多くある。墓にも個性があり、葬られた方々の経済状況や身分や他界された「後生の世」の方々への向き方がよく見えてくる。学問を通して墓についてしるのであるが、それは手段であり必ずしも目的ではないということ。墓を通して、その時代の人たちが「後生の世」をどう捉えているのか。墓地と集落との住み分けの境界線(島別れ)など謙虚に見ることができればと考えている。
スケジュールが混迷 2002.8.28(水)
台風の接近で明日からのスケジュールが混迷状態。学芸員実習二日目。大工仕事やペンキ塗りが板についてきたようだ。見本として一枚だけパネルを完成させてみた。その印象は?(すっかり聞くことを忘れてしまった)
明日は作品を手に紹介しましょう。担当の大学の教授殿、学生達は正真正銘がんばっている。
▲パネルづくりの仲宗根さん ▲看板づくりの与那嶺、安田くん
大宜味村の喜如嘉や国頭村の半地や奥間などをフィールドにしていろいろ考えてみたいということでしょう。それにいくつか提案をする形となった(詳細についてはここでは省く)。
午後から今帰仁村玉城の公民館に50名余りの方々が集まった。わざわざ話を聞きに。知っている方の顔もあり。それだけ自分達が住んでいるムラの歴史や様子を知りたがっているのだと実感する。
玉城は明治36年に玉城・岸本・寒水の三つの村が合併したムラだということ。そのことが現在のムラ(字)にどんな影響を及ぼしているのか。ノロ制度や村移動やフルマチなど。一本の橋や道路ができることで、自分達の住むムラの経済状態まで影響を及ぼすことなどの話となった。後はシマの人たちの質問に答える形。いい質問がいくつもあった。ムラの成り立ちについて、踏み込んで話ができなかったので。いずれ、またですね。最後まで聞いて下さってありがとうございます。こっちの方が感謝ですね。ムラの方々からの質問は、私の方が学ぶのが多い。
台風の余波 2002.8.29(木)
台風の余波で風が強い。といっても台風並ではない。実習三日目となると慣れない場での実習である。疲れが見えてくる頃。展示パネルづくりと同時に運天にあった木の墓の前面部分を組み立てる。今帰仁村には木で閉じられた墓が何箇所かある。それらの墓は、しだいにコンクリートやブロックで閉じられてきている。それも未調査のまま。木で閉じられた墓の内部調査は、これまで一例もない。調査をすることなく閉じられてしまったということである。現在残っている木の墓がそのまま残されるとは限らない。木からブロックやコンクリートに変わる時には、内部に葬られている甕などの調査をしておきたい。
さて、展示プランもボツボツ固めなければならないが、全体の展示まではもう少し資料の確認が必要だ。夕方に広島から二人の学生が今帰仁入りする。明日の夕方には8名が揃うようだ。7名が沖縄入りしている。残り一人が明日。学芸員実習の目的を忘れないよう期待している。
台風並みの風 2002.8.30(金)
今朝から台風並みの風が吹いている。去ったと思った後の風が強い。学芸員実習の学生達は、風にも負けずですね。夕方全員集合。宿泊の準備でバタバタするなり。
博物館の分科会 2002.8.31(土)
9時から展示や歴史などの講座。ビデオを見てから様々な視点での解説をする。午後から社会教育研究全国集会沖縄・名護集会があり、分科会で「歴文の動き」や役割についての報告予定である。11名の学芸員実習の学生達もそれに参加する。
午後1時過ぎから名護博物館で博物館の分科会に学生達も参加。実習初日からきつい講義、講演。学生も発言の場があってよかったですね。社会に放り込まれたといったところか。
南風原文化センターと今帰仁村歴史文化センターが報告。県内でも独自性を発揮している博物館だと思っている。現場の声をじかに聞くことができたことは幸いなり。他府県と沖縄の博物館の温度差(良い悪いの問題ではない)は歴史文化の違いだと認識している。その違いを認め合うのは当然のこと。温度差を縮めていこうとする発想そのものがおかしいのである。沖縄をしることで広島を深くしる。そういう研修会や実習であって欲しい。
広島のみなさん、学生達は今日から始まりました。初日からハプニングが起きたようですが、それもいい体験。山荘の周りにホタルがチラチラ。今晩あたりはホタル鑑賞にひたる余裕があるかな?