大雨が続いています。台風対策で晴れ間をみて「寡黙庵」へ。
「寡黙」に三ヶ月。15年前に「北山の歴史」をテーマに掲げ企画展を開催したことがあります。北山の歴史(地域)を識るための歴史をそれまで描いたものでした。それまで資料や先人方のまとめた報告や研究や書物を大急ぎで見てきました。北山の歴史に関わる文献の中身の収集に取りかかっているところです。付箋紙の挟まった文献や資料の山。二台のパソコンは故障で修理へ。以前使っていたパソコンがどうにか復活。過去のデータがいっぱい残っています。ラッキー。
北山の歴史
わたしたち兼次小学校の校歌に「せいしいろどる北山の」「その名もゆかし志慶真川」「ゆるがぬ意思はくばのタキ」とうたわれています。その北山城は世界遺産に登録されました。世界遺産に登録された今帰仁城跡を中心とした歴史をみんなで発表します。
まず今帰仁グスクのある場所を紹介します。今帰仁村今泊の山手にあり、標高100mの場所にあります。今帰仁グスクを中心としたどんな歴史があるのでしょうか。ここでは①今帰仁グスクができる前の時代 ②三名の北山王が登場した時代 ③北山がほろんだ後、中山から監守が派遣された時代(第一監守時代) ④第一王統が滅んで第二王統になった監守の時代(第二監守時代前期) ⑤1609年薩摩軍が琉球国(北山)を攻め滅ぼします(第二監守時代後期)。⑥1665年北山監守と今帰仁アオリヤエ一族が首里へ引き上げた後の今帰仁間切の時代はどうだったでしょうか。
①今帰仁グスクが築かれる前の時代
この時代は今帰仁グスクがまだ出来る前の時代です。グスクのある場所はどんなところだったのでしょうか。想像してみて下さい!
グスクができる前は、一帯には今帰仁ムラ・親泊ムラ、そしてグスクの裏側には志慶真ムラがありました。それらの三つのムラはどうなったのでしょうか(後で出てきますよ)。それらのムラのあった場所にグスクがつくられています。その時代を前北山時代や中北山時代があるが、そこは伝承の歴史になります。
そのころの伝承に北谷ナーチラーや志慶真乙樽の歌碑の話があります。
(絵で説明)
②三名の王様が登場する時代(北山王時代:後北山時代ともいう)
三名の北山王が登場する前は前北山時代や中北山時代といいましたが、この時代にはハニジ・ミン・ハンアンヂという北山王が登場します。それは中国の『明実録』という本です。北山王ハニジはハニジ(羽地)の名前から羽地出身だったかもしれません。ハニジ王の後に続くのはミン王です。北山が滅んだ時の王はハンアンヂです。
北山王の時代は中国と貿易をしていました。琉球(北山)から硫黄や馬などを輸出していました。中国からは陶磁器のおわんや皿などが運ばれてきました。ほかに刀子、サイコロ、ガラス玉などが出土しています。
この時代には今帰仁グスクはりっぱな石垣が築かれます。今帰仁グスクの石垣の石は古世代石灰岩や中生代石化岩と呼ばれています。今から1億5000年から2億5000年頃の石だそうです。石積には大きく三つ(亀甲積・相方積・野面積)あるが、今帰仁グスクの石積は野面積(割った石)です。
今帰仁グスクに三名の王が住んでいた頃のグスクを説明しましょう。グスクには九つの郭(石囲い)があります。①外郭(がいかく) ②大隅(ウーシミ) ③カーザフ ④大庭(ウーミヤ) ⑤北殿 ⑥南殿 ⑦主郭(本丸) ⑧大内原 ⑨志慶真郭 ⑩水汲み場 ⑪名前のない郭などがあります。(今帰仁グスクの郭の絵)
1416年北山ハンアンヂは中山の尚巴志に滅ぼされます。その時、北部の国頭按司、羽地按司、名護按司は中山に手をかして北山を滅ぼしました。なぜでしょうか。
③北山の滅亡後(第一監守時代)
1416年に中山の連合軍に滅ぼされたハナンヂは、これまでがめたててきた今帰仁グスク内のテンチヂアマチヂ(上の御嶽のイベ)が、最後まで守ってくれなかったため千代金丸でそのイベ(岩)を切って自害しようとしますが、岩を切ったため腹をきることができず、千代金丸を志慶真川に投げ捨てます。その刀が志慶真川の下流にながれつきます(どうなったのでしょうか?)
尚巴志と連合軍に滅ぼされた北山に中山から尚忠を派遣して今帰仁グスク内で監守を勤めます。なぜ、中山から北山に監守を派遣したのでしょうか。それは北山・中山・南山と分立していた時代があり、北山はとても手ごわい相手でした。それで再び中山に向かって抵抗する気配があったからです。それと北山は中南部とは異なった文化を持っていたようです。それで中山と同じような文化にするねらいがあったからです。
第一監守時代はグスクの中には中山から派遣された按司と一族が住み、グスクの周辺に今帰仁ムラ・親泊ムラ、そして志慶真ムラの人達が住み、グスク内の按司たちを助けていました。尚忠が国王(1439年)となると弟の具志頭王子が二代目の監守となります。
校歌にでてくるクボウヌウタキは国家のウタキ(拝所)です。そこにはウランサン伝承があり、国頭の安須杜にウランサン(朝鮮傘)が立つ時期があります。安須杜から謝名のアフリバナハへ、さらにクボウヌウタキへ。そこから首里城にお知らせします。首里王府の王様一族は、北からやってきたと信じているようです。監守や今帰仁アオリヤエは君真物という神様がやってくると首里王府にお知らせする役目をいていたようです。(朝鮮傘の絵)
第一監守の時代は1469年までつづきます。
④監守の時代(第二監守時代前期)
首里で第一尚氏王統が滅びると、北山の第一監守は終わり、第二監守時代(前期)となります。第一から第二尚氏(尚円王統)になると北山では、しばらく監守を大臣が交替で監守を勤めます。西暦1500年頃になると、第二尚氏三代目の尚真王の時代になると尚真王の第三番目の尚紹威を北山監守(今帰仁王子)として今帰仁に派遣します。さきほど、志慶真川に投げられた千代金丸は伊平屋島の人が親泊のミジパイでみつけ尚真王に献上します。その刀を今年度つくります。来年の今頃、歴史文化センターに展示されます。
1.北山王時代以前
・北山(山原)域のグスク
・源為朝公の渡来と運天
2.北山王時代(三山鼎立~1416年)
・『明実録』に見る山北(北山)(怕尼芝・珉・攀安知)
・北山王の居城(今帰仁グスク)
3.第一監守時代(1417~1469年)
・監守を務めた尚忠と具志頭王子
・北山王と百按司墓
4.第二監守時代(前期:1470~1609年))
・要津運天港と郡島(『海東諸国紀』)
・監守を務めた今帰仁按司(尚紹威・
・北山の祭祀を掌った今帰仁阿応理屋恵
・古琉球の辞令書からみた今帰仁間切
・薩摩軍の琉球進攻と今帰仁グスク
5.第二監守時代(後期:1610~1665年)
・監守を務めた今帰仁按司(縄祖・従憲)
・北山監守が果たした役割
・山原の間切と同(主)村と番所
・山原の宿道(スクミチ)
・唐船の漂着と運天港
・フランス艦船の来航と運天港
6.間切時代(前期:1666~明治12年)
・今帰仁間切の分割と伊野波(本部)間切の創設
・久志間切・恩納間切・大宜味間切の創設
・首里に住む今帰仁按司(洪徳・鳳彩・宣謨・弘猷・鴻基・維藩)
・運天番所に務める間切役人
・元文検地と印部石(原石)
・山北今帰仁城監守来歴碑記にみる歴史観
・クニレベルのウタキ(クボウヌウタキ・アスムイ)
・今帰仁阿応理屋恵の廃止と復活
・『琉球国由来記』に見る村と神アサギ
7.間切時代(後期:明治13~明治41年)
・廃藩置県後の今帰仁間切
・地頭代→間切長
8.村町政時代(戦前:明治42~昭和20年)
・間切→村(ソン) 村(ムラ)→字(アザ)
・番所(役場)の移転(運天→仲宗根)
・間切長→村長
9.市町村政時代(戦後:昭和21~現在)
第六十一条 惣耕作当ノ義大切成農業被授置不軽勤候間兼テ申渡置候通無遅滯村々ヘ罷通下知方念入能々疲労立直候樣
ニ二卜ノ取計可為専要候若勤向大形ノ義共有之候ハゝ吟味ノ上可及重科事
第六十二条 頭御役並惣耕作当ノ義每月十四日廿九日両度ツゝ村耕作当召連レ原々又ハ家內々モ見届自然不行届者有之候
ハゝ則々科策召行村役々ヘハ朔日十五日揃ノ砌其科可召行事
第六十三条 間切中老若男女共礼義作法正敷有之候樣ニトノ義每度御申渡被置候通每月朔日十五日夫地頭掟頭々ヘ申付ノ
上下断村罷通何歟麁礼ノ者ハ掟頭々ヘ相達則々其取扱可致候自然右躰ノ者差免候ハゝ吟味ノ上其取扱被仰付候事
第六十四条 田方ノ義署中ノ時分相耕不申ハ取美少ク年貢諸上納調兼百姓中可及難義候間能々気ヲ付下知方可入念候乍此
上不下知ノ廉相見ヘ候ハゝ頭御役衆御案内ノ上其科可召行事
第六十五条 畑方ノ義耕方致不念候ハゝ節々諸作毛出来兼疲ノ基候条屹度気ヲ付致差引耕方壅等行届候樣下知方可致候
自然職務大形ノ廉相見得候ハゝ頭御役衆御案内ノ上其科可召行事
http--yannaki.jp-2009nen1gatu.html(久米島調査メモ)
5月23日沖縄では「慰霊の日」である。沖縄は梅雨の最中。昨日、今日と大雨。2005年の運天での記録は「運天の字誌」に収録。
▲戦争体験を方言で語ってもらった(今帰仁村字運天公民館)(2005.4.25)
2005.04.27(水)調査メモ
運天の戦争体験を伺うことができた。運天の字誌の編集でいつも顔を合わせている方々だけでなく、戦争の体験をされた方々の参加があった。昭和の初期に産まれた方々7名である。一人ひとりの語りは改めて活字にして還すことになる。今日は方言で語ってもらった。
昭和19年の10.10空襲前後を中心に語ってもらった。戦争体験にシナリオがあるわけではなく、渦中の中にいた自分の動きや状況を記憶をたどりながら・・・。伊江島飛行場づくりへ徴用される期間は10日間、10回余り徴用された方も。読谷飛行場に徴用された方もいる。
昭和19年の10月10日は天気がよかったようで、潮干狩りに出ていた人たちが何人も。飛行機から爆撃があったが、しばらくは日本軍の演習だと思っていたという。昼間は壕や山の中に隠れ、晩になると食糧さがしをしたという。「青い目の米兵は夜には物が見えない」との常識であったようだ。爆撃の恐ろしさもあったが、食べ物がなかったこと、空腹がどうにもならなかったとのことが何人かの口からでた。昭和20年の3月に今帰仁村あたりに米軍は上陸し一掃作戦にはいている。壕や墓に隠れたりしている。
運天あたりの人々は屋我地から田井等、あるいは捕虜がはやかったようで近くの呉我に収容された人たちが多かったようだ。田井等のカンパンに収容された人たちもいた。爆撃から逃れたものの崖を飛び降り負傷した人たちもいた。那覇で爆撃がありあり、今帰仁に逃げのびてきた人たちもいる。
収容される場面、テーラ(現在の名護市田井等)や呉我などの収受所での様子、引き揚げ後の生活など。
60年前の記憶を一つ一つ記録にとどめていくが、記録が資料として遺されるだけでなく、平和につなげていく。記録する側のスタンスも問われている。
2019年6月22日(土)
以前、「歴史を秘めた運天港」を書いたことがある。「北山の歴史」を描くのに重要な地である。1609年、今帰仁城内に今帰仁按司(監守)、近くに今帰仁阿応理屋恵(ナkジンアオリヤエ)が居住しており(古琉球の辞令書から)、うどぅんや三番制があったことが知れる。今帰仁按司(北山監守)や今帰仁阿応理屋恵が首里赤平に引揚げる(1665年)まで番所(按司掟)の役割を果たしていたのではないか。今帰仁按司(北山監守)とその一族が首里に引揚げた時に、これまでの今帰仁間切は伊野波(本部)間切に分割し、今帰仁間切の番所は運天へ、伊野波(本部)間切番所は伊野波村へ、後に渡久地村へ移転。そのように見ると番所の設置が近世に入ってから。数カ所の間切の新設置(1673年)があるが、番所設置もその時期ということになりそう。(番所について書き換えが必要か)
歴史を秘めた運天港
運天港は沖縄本島北部の今帰仁村にある港である。運天港は古くから知られ、『海東諸国紀』(1471年)の「琉球国之図」に「雲見泊 要津」と記されている。「おもろさうし」で「うむてんつけて こみなと つけて」と謡われている。さらに古くは12世紀頃、源為朝公が嵐にあい「運は天にあり」と漂着したのが「運天」の名称になったという。その話は運天で終わることなく、為朝公は南に下り、南山の大里按司の妹を娶り、その子が瞬天王となり、浦添城の王(英祖王)になったという。為朝は妻子を連れて大和に帰ろうとするが、出て行こうとするたびに波風が立ち、とうとう一人で帰っていった。妻子が待ち焦がれた場所がマチナト(待港、今の牧港)だという。運天に為朝公が一時住んだというテラガマがあり、また「源為朝公上陸之跡碑」(大正11年)が建立されている。
北山・中山・南山の三山が鼎立していた時代の北山の居城は今帰仁グスクである。最大規模を誇る今帰仁グスクの北山王は明国と貢易をしている。その時の港は運天港だと見れる。今帰仁グスクの麓は親泊があるが、進貢船規模の大型船の出入りできるクチがない。大型船は運天港に着き、そこから小舟で親泊まで荷物を運搬したのであろう。
運天港は1609年の薩摩藩(島津軍)の琉球侵攻の時、こほり(古宇利島)と運天港は船元になった場所である。70,80隻の船が古宇利島から運天港あたりに帆を下ろし休息をした。一部は羽地内海の奥まで散策したようである。一部は今帰仁グスクを攻め入り焼き討ちにしている。薩摩軍は、南下し首里城に攻め入り琉球国は征伐された。時の王は尚寧である。薩摩軍に捕虜として薩摩へ連れて行かれる途中、再び運天港を経由して薩摩へ向かった。
その後、運天港は薩摩へ運ぶ米(仕上世米)を積み出す港の一つとなる。仕上世(しのぼせ)米を積み出す四津口(那覇・湖辺底・勘定納・運天)の一つが運天港である。
運天には百按司墓があり、第一監守時代あるいはそれより古い時代の墓と見られる。今帰仁グスクで監守を勤めた今帰仁按司一族の墓が1722年頃、今帰仁グスクの麓のウツリタマイにあった按司墓を運天港に移葬している。1742年に大島から琉球の運天港に回送された唐船があった。修理する間、運天で40人余の唐人を収容した。その時、三司官を勤めていた蔡温も訪れ指揮を執っている。また、運天には大和人墓が二基あり、一基は屋久島の宮の浦の船乗りだったと見られる。もう一基は安政五年の年号があり、それも大和人の墓である。運天港が薩摩と琉球をつなぐ港として機能していたことがわかる。
1816年にはバジル・ホールが運天港を訪れている。当時の運天の様子を描いている。また1846年にはフランスの艦船が三隻運天港に一カ月程碇泊し、琉球国と条約を結ぼうとした。その間に二人の水夫が亡くなり、対岸にオランダ墓をつくり葬ってある。ペリーの一行も運天港を訪れている。その時、島津斉彬は運天に出島をつくりフランスと貿易をする構想があった。中国の冊封使が琉球にやってくると、大和船は運天港に着け、薩摩役人は浦添間切の城間村へ隠れ、琉球国が薩摩に支配されていないとカモフラージュする役割を果たしている。
運天港には今帰仁間切の番所が置かれ、行政の中心となった場所である。番所(役場)は大正5年まで運天にあったのを仲宗根に移動した。今帰仁の行政の中心は運天から仲宗根へと移った。また、かつての運天港は運天新港(浮田港)や古宇利大橋の開通でフェリーの発着場としての機能は失ってしまった。しかし、今帰仁廻り(神拝)で訪れる人々の姿が見られた。そこには琉球(沖縄)の秘められた歴史があり、それを肌で感じ取ることができる地である。
▲平成の運天集落 ▲明治30年代の運天港(『望郷沖縄』より)
▲明治30年代の運天港(『望郷沖縄』より)
2012年02月17日(木)調査メモ
徳之島の手々(徳之島町)に立ち寄る。『のろ調査資料』(宮城栄昌・富村真演・中山盛茂共著)で、徳之島のノロについて以下のようなことが記されている。まずはそれらの情報を持ちながらノロや拝所や祭祀を見る必要がありそうだ。今回徳之島町郷土資料館で、掘田(稲富)家文書や二本の簪と布などを拝見させていただきました。てゝノロの辞令書や二本の簪や布(帯?など)は徳之島(奄美)における薩摩支配以前、その後のノロの変容を知る上で貴重な史料である。
・徳之島は三つの間切に分れる。
・三山分立時代には、与論・沖永良部・鬼界島とともに北山王の支配下。
・奄美大島は中山王の支配下。
・与路・請島は徳之島下に属していた。
・首里の主の子孫とするものが大親役として全島を行政的に支配、その下に与人・目指・筆子・掟がいて間切や村を治めていた。
・神女組織として全島支配の大阿母がいたはずであるが記録・伝承につたわらない。
・西古見にオハムシラレ墓がある。
・各部落毎にノロがおり、カンギャナシ(神加那志か)ともいう。
・その下に根人(ニッチュ)・オツカミ・シドカン(勢頭神か)グーシなどがいる。
・ノロにアラホレとく女性がついていた。
・昔はカンギャナシ三十三ヶ所、神人約六十人がいたという。
・ノロの祭祀中重要なものは、二月壬申に迎えて四月壬申に送るナルコ神(山幸)テルコ神(海幸)。それは、豊作・豊漁の祈願
が主。
・春のイナグンヘー(麦の初穂祭)と夏のナツヲンミ(稲の初穂祭)として麦・米をノロに捧げる(沖縄の二、三月の麦穂祭及び麦
大祭、五、六月の稲穂祭及び稲大祭に相当するか)
・祭りの時のノロの服装は、筒袖白衣で珍絹を頭に被り、勾玉を頸にかける。
・ショウジ(イジュン:清水・湧泉)は水の神の祈願。
・ノロが琉球王への貢納物の調達、貢納船の航海安全の祈願(同様な祈願は沖永良部・宮古・八重山などにもある)
・徳之島の山ノロが与路・請島への途中トンバラ石に漂着し、その事故後両島は別の間切となった伝承。
・薩摩支配後もノロの存在は黙認される。
・1628年薩摩は琉球王による任命を禁止する。享保年間ノロが代替わり毎に渡琉して聞大君に拝謁することを厳禁する。
・役地も取り上げるが、ノロの存在は黙認される。
・奄美本島では寛政年間まで亀津代官所で豊作祈願・雨請を行う。年三回のウンメ(折目)祭を行い、民間の生産・新築・旅立
御願を行い、豚・鶏・米・縄などの献上を受ける。
・文政14年薩摩による砂糖総買上げから、ノロへの弾圧も強化される。安政2年迷信禁止が出される。
・明治2年の廃仏毀釈の際、カンギヤナシは桎桔に乗せ祭祀を廃止する。ノロの衣類や珠玉などを焼く。
・天文元年井之川村の安住寺を廃止して高千穂神社を亀津・面縄・阿布木名に創設する。
【奄美のノロ辞令書】(⑥⑦はノロ辞令書?)
①喜界島の阿伝ノロ辞令書(隆慶3:1569年)
②宇検村(屋喜内間切)名柄ノロ辞令書(1583年)
③名瀬市大熊ノロ辞令書(万暦15:1587年)
④徳之島にし間切てゝノロ辞令書(万暦28:1600年)
⑤瀬戸内西間切の古志のろ職補任辞令書(万暦30:1602年)(奄美大島)
⑥(瀬戸内町の須子茂のねたち)(万暦2:1574年)
⑦(瀬戸内町の須子茂のたるかち)(万暦2:1574年)
▲掟大八目の墓(按司墓) ▲六名の下臣の墓碑 ▲按司墓の案内板
▲掟大八の力石説明版 ▲掟大八が力ためしに持ちあげたという石(左)
▲徳之島町郷土資料館所蔵の二本の簪 ▲西目間切てゝのろの辞令書
2012年02月15日(水)調査メモ
【大城城】(フーグスク:天城町松原上区)
天城町に大城(フーグスク)・大和城(ヤマトゥグスク)・玉城(タマグスク)などがある。今回大城の頂上まで登る。標高329mの山で頂上部に平坦部があり、郭があり、土塁と一部石積みが見られる。頂上部の平部の中央部にトタン葺きの拝所がある。その後方の最高部はウタキのイベにあたる場所がある。グスクやウタキを構成する石積みや土塁、曲輪、南風門、辰己門、虎口跡・見張台などがある(鹿児島県の地名:平凡社)。
そこから徳之島の東海岸の宮城(徳之島町花徳)や西海岸の大和城(天城町天城)や玉城(天城町天城)が見渡せる。大城は麓の松原集落との関わりより、徳之島全体を統括するノロクメの祭祀場と見ることができそうである。祭祀は集落というよりノロクメ一門の祭祀場のようである。
【徳之島のノロ】
『伊仙町誌』に「徳之島のノロ関係断片資料によると、いつの時代かわからないが、各部落にノロを置いたようで、それによると面縄間切に十一名、東間切に十一日、西目間切十五名、合計三十七名の名前が書かれている。各部落においたが、いなかった部落もあるところから、一人で二部落くらい兼務したようである」とある。各部落の拝所(グスクや神社など)にノロ(ノロクメ)と関わる伝承が根強くあるのは、そのことを物語っているのであろう。
大城城の登り口に案内版が設置されている。説明版に以下のようにある。
「大城城(ふぅぐすく) 中世の山城、按司ガナシの居城と言われ、石垣など遺構が残る。
徳島真世湾按司の武勇伝説の美人妻をめぐる真牛湾按司と武勇の達人インカセクマゼ
の忠勤賢者伝説が伝わる。その後、琉球王朝時代にはノロの祭り場となったといわれ、
今でもその子孫が祭りを行っている」
・徳之島西目間切てゝノロ辞令書(万暦28:1600年)
しよりの御ミ事
とくのにしめまきりの
てゝノロハ
もとののろのくわ
一人まなへたるに
たまわり申す候
しよりよりまなへたるか方へまいる
万暦二十八年正月廿四日
【沖永良部島のノロ】
沖永良部島のノロを謡ったおもろがある。「ゑらぶおわる 三十のろ」「三十のろは」と謡われているので徳之島に部落の数ほどのノロがいたことがわかる。島全体のノロを統括したノロが各島にいたと見られる。ノロとヒャー(百:役人)は一体の関係にある。ノロ家の男側は役人を勤めている。
【ノロとヒャーや役人】
例えば今帰仁間切の中城ノロ家に、10枚の辞令書があった。二点がノロ辞令書で他は大屋子・掟・目差などの役人の辞令書である。本部町の仲村家の三点の辞令書の一枚は具志川ノロ辞令書で、他の二点は目差・掟の役職の辞令である。
奄美大島の宇検村名柄の吉久家に五点の辞令書がある。同家の五点の内一点がノロ辞令書で、他は掟・目差の役人職の辞令書である。
①屋喜内間切の名音掟職補任辞令書(嘉靖33年:1554)
②屋喜内間切の名柄掟職補任辞令書(嘉靖35年:1556)
③瀬戸内間切の阿木名目差職j任辞令書(隆慶5年:1571)
④屋喜内間切の崎原目差職補任辞令書(隆慶6年:1572)
⑤屋喜内間切の名柄のろ職補任辞令書(萬暦11年:1583)
大城城昇り口の説明版 ▲城への登り道(左側に空堀あり) ▲頂上部の平場の拝所(祠)
▲頂上平場の祠の後方の碑 ▲頂上部にある標柱(三三八)▲頂上部から東海岸が望める(靄のため見えず)
今帰仁間切の番所と主村
・今帰仁村(グスク内?)→運天村(1666年か)→字運天→字仲宗根(大正5年)
運天は今帰仁間切の番所があった場所である。運天に番所が置かれたのは1666年以降のことだと見られる。1666年は今帰仁間切(現在の本部町を含む領域)が二つに分割された年である。分割後の今帰仁間切の番所は運天港へ、もう一つの伊野波(本部)間切の番所は伊野波村に設置されたと見られる。分割前の今帰仁間切の番所はどこだったのか、そのことを知るための作業でもある。
先に結論めいたことを言うと間切分割前の今帰仁間切の番所は今帰仁村(ムラ)にある今帰仁グスク内か、あるいはグスクに接してあったと見ている。グスク内、あるいは外に番所の建物の礎石などの遺構の確認はまだできていない。今帰仁グスクの外側の郭内に古宇利殿内火神(フイドゥンチ火神)があり、それが地頭代火神の可能性がある。であれば、火神の祠付近に今帰仁間切番所の建物があった可能性がある。グス内の北殿と呼ばれている場所の礎石も気になる。グスク内に番所が置かれた例として知念間切の番所(知念グスク内)と中城間切(中城グスク内)があるが、それは近世になってからのようである。
調査を進めてきた「間切番所と同村と祭祀」から、間切番所と首里に住む按司や惣地頭が関わる祭祀との関係を整理すると、間切分割以前の番所の位置(村)が見えてきそうである。
運天に番所が置かれた年代は今のところはっきりしていない。間切分割があった1666年だと見られる。もちろん『琉球国旧記』(1731年)の今帰仁間切の今帰仁駅(番所)は運天邑(村)である。「薩摩藩調製図」(1737~1750年)でも運天に番所が記されている。『琉球国由来記』(1713年)の按司と惣地頭が関わる祭祀をみると、それは今帰仁グスクでの祭祀と関わっている。今帰仁里主所火神(今帰仁村)と今帰仁城内神アシアゲ(今帰仁村)での麦稲穂祭・大折目(海神祭)・柴指・芋ナイ折目などの祭祀である。
その頃には番所は運天村に置かれているが、按司と惣地頭が関わる祭祀は運天村に組み替えていない。按司と惣地頭は番所のある運天村での祭祀には関わっていない。それは番所が移っても祭祀は変わらないという法則を、ここでも見い出すことができる。
番所が移動しても祭祀はそれまで通り同村で行っている。分割した間切は按司や惣地頭が関わる村や場所に番所があったということになる。そこから今帰仁間切が分割する以前の番所のあった村(ムラ)は今帰仁村(ムラ)で、同村にある今帰仁グスクにあったと言えそうである。今帰仁グスクのどの場所にあったかは、隣接してか、それともグスク内にあったのか結論はこれからである。
番所が移動しても按司や惣地頭が関わる祭祀と村の変更はほとんど見られない(国頭と大宜味間切の分割のみ例外か)。今帰仁間切の運天村もそうであるが、間切番所が今帰仁村から運天村に移るが、按司と惣地頭が関わる祭祀は、そのまま今帰仁村で行われている。『琉球国由来記』(1713年)には番所は運天村に移動しているが。運天村の神アシアゲでの祭祀に参加する役人は掟と百姓、巫・掟神である。因みに運天村の祭祀を管轄するノロは勢理客(シマセンコ)ノロである。首里に住む按司と惣地頭は今帰仁グスクでの祭祀と関わり、運天村とは関わっていない。関わるとすれば脇地頭である。
運天港に大北墓がある。その墓の建立は乾隆26(1761)年である。今帰仁グスクの麓のウツリタマイからの移動である。その墓の移葬は今帰仁グスク(村)にあった番所が運天村に移動したことによるかもしれない。ただし、按司と惣地頭の今帰仁グスクでの祭祀の関わりはそのままである。
▲1666年以降間切の番所が置かれた運天港8両写真とも昭和30年代)
【今泊(今帰仁)のウフユミの様子(大正の頃】(『沖縄県国頭郡志』)
神職行列の順序はサキモリ(先守)、ノロ、供ノカネイノロ、クロモリ、ヨモリの五人相続き其の後に神女数人を従へ(其の中に
志慶真乙樽及び花の真牛の身代わりあり)白衣の装束に白八巻をしめ大弓を持ち馬に乗りて(今は馬を牽くのみ)今帰仁城内
に登り本丸の際場に於いて唐船の模型を擁し七廻りしたる後、天神地祇(テンチヂ)を祀る。而して城の西方海神道と称ふる間
道より一同海岸に下り海水にて口を漱ぎ海神を拝し、更に神アシアゲに至りて漁りの真似をなす。此の祭りには男及び懐妊者
を伴うべからずという」
【大折目・海神祭】(『琉球国由来記』(1713年)
毎年七月、大折目トテ、海神祭、且作毛之為ニ、巫・大根神・居神、都合二十人余、城内、ヨウスイト云所ニ、
タモトヲ居へ、花・五水(両惣地頭ヨリ出ル)祭祀シテ、アワシ川ノ水トリ、巫・大根神、浴テ、七度アザナ廻りイタ
シ、於庭酒祭ル也。(自按 司出ル)ソレヨリ縄ヲ引張、舡漕真似ヲ仕リ、城門外ヨリ、惣様馬ニ乗、弓箭ヲ持、
ナガレ庭ト云所ニ参リ、塩撫、親川ニイタリテ水撫デ、又城内、ヨウスイニテ、祭祀也。