大宜味村び民俗編」(もくじ案)
・村の変遷
・寄留(ヤードゥイ)のムラ
・湧泉
・交通(海上・陸上)
・交易の品々
・土地利用
・各字の公共施設
・各字の屋号
一、農 業
イ、稲 作(水田地帯・稲の変遷・稲作の道具)
ロ、甘藷(イモ)(焼畑)
ハ、甘蔗(サトウキビ)(種類・製糖小屋)
ニ、ソテツ
ホ、作物
二、林 業
イ、山地の民有化(山の管理、材木の切り出し・運びだし)
ロ、炭焼き(タンヤキ)
ハ、炭焼の方法(鍛冶屋用、民家用・炭焼小屋)
三、漁 業
イ、イザイ(漁り)突き漁(イグミ)
ロ、アニク漁
・ナガリアニク(流れアニク)
・ビシアニク(座シアニク)
・ティルチキヤーロッカクー(六角)
ハ、イカ釣り
二、ササ入れ (いろいろな漁具)
ホ、網に漁
・地引き網
・投げ網
ヘ、海豚(イルカ)
四、大工(セーク)
五、鍛冶屋(ハンジェーク・イシジェーク)
六、土地制度(地割から個人所有地へ)
大宜味村には地割の痕跡が残っている。
(土地整理の時の図面と関わった人物の辞令書あり)
(臨時事務局当時の「辞令書」(十五点あり)
七、賦(ブー制度)(総動員賦:道路・公民館建設など)
事例
・拝所建設・公民館建設・道路工事・灌漑工事・海岸の防風林植付など
・ターガイ賦(他のネズミとり)・用水路修理や川さらいなど
八、字費(字運営費)
藁算(ワラザン)、スーツマー
九、共同作業
・イーマール(イーセー)(田植えや甘蔗の収穫)
・建築のイーマール
・芭蕉の伐採(喜如嘉)
・作り分け(ツクイワーキ)
・ハネー(田畑を質にして使用権を与え、利息分を使用権を与える)
・イシジャ(身売り)
・日雇人(田畑の少ない貧農や農家の者が収入を得るために日当をもらって、その日その日の労働を提供していた)
・ゲーン(所有権の目印)
十、部落内法
イ、イシナギエー
ロ、フダ制
ハ、家畜家禽取締り札
二、山林原野保護取締り札
ホ、風紀取締り札
ヘ、消費、節約取締り札
十一、計算方法
イ、お金の単位
ロ、スーツマーによる金銭の計算方法
ハ、ソテツの葉による計算方法
二、藁算(わらざん)
ホ、稲束や田地の面積の計算方法
ヘ、布や糸の売買の計算
ト、物の数・回数・月数・期間・穀物や酒の量・重さ
・竹や甘薯の節・束の数・袋の数・荷物の数・家の数
十二、食べ物
イ、常食 ・サンクェー(参食)
ロ、味噌の作り方(ソテツ・米)
ハ、豆腐の作り方(マードーフ・チヌマタ豆腐・モーイ豆腐)
ニ、酒の造り方
ホ、季節的食物、嗜好用食べ物、飢饉用食物
ヘ、その他(調味料・弁当・離乳食・老人用食・食器類
十三、住 居
イ、家屋の種類
・瓦葺きの家 ・茅葺きの家(アナヤー・ヌチヤー)・ターチヤー
ロ、家屋の配置図と屋敷図
ハ、間取り(各部)の名称
ニ、建築儀礼
神人たちによる儀礼・丑の時の御願・お招きの神々
ホ、ヤーフキユエー(家葺き祝)
ヘ、大工の建築儀礼(ヂーチヌウガン:土地引き御願:地鎮祭)
・手斧入れ(ティンダティヌウガン)・タティユエー(建て祝)
ミマールユエー(三廻祝)・棟上げ祝(ムノイアゲユエー) ヤーフキユエー(家葺き祝)
茅葺屋根(イカヌユエーは頂上部分けを葺き終えたとき)
ヤーフキユエー(家葺き祝)建築工事が全て終了した日の夕方。
十四、衣
イ、衣生活について
ロ、寝具
ハ、下着
ニ、おしめ
ホ,生理帯
ヘ、笠
ト、履き物
チ、雨具
リ、手ぬぐい
ヌ,筵家へ、無事結婚式を済ませたことの報告。
・ニビキの三日後
・ニビキ唄
・針突(入墨)
十六、産育
イ、妊娠
ロ、出産
ハ、満産祝
ニ、命名
ホ、生年祝
・一年目 ・ミタンカー ・十三スーガ(十三才の祝)
十七、葬 制
イ、死の与兆(人の鳴き声・タマガイ・ヤマタガイ
・ヤーフキタマガイ・葬式の行列らしき幻像が見られる)
ロ、日常の現像や夢によってみる死の予兆
・ユーガラサー・烏が鳴き叫ぶ ・メンドリがオンドリの鳴き声をする。
・夜、梟やこうもりなど夜鳥が家の中にはいる
・野鳥やバッタ類が家に入ってくる
・他の家の家畜が屋敷内に迷い込んでくる。しっぽを切りとって追い出す。
・歯がぬける夢は親類の者や家族内から死者がでる予兆。
・病人が死期が間近になると、その家の近くで火の玉がみられる。
ハ、死の原因
ニ、臨終
ホ、沐浴
ヘ、死装束と供物
ト、通夜
チ、相互扶助
リ、装具
ヌ、野辺送り
ル、副送品
ヲ、クラソージ(屋外に向けて塩をまく)
ワ、清骨(シンクチ)
カ、物忌み
ヨ、供養
・野辺送りの翌日から七日まで
・七日の焼香
・年忌焼香
・ミチャヌミー(葬式の二日目の墓参り)
タ、厄払い
レ、禁忌俗信
ソ、ナキダマシ(泣き魂)
十八、特殊葬法
イ、胎児葬法
ロ、七才以下の子供葬法
ハ、ナンブチャー(癩病者)の葬法
ニ、妊婦又は偶数名の死者の葬法
ホ、猫の葬法
ヘ、嫁の葬法
ト、お盆の日の葬法
十九、墓 制
・墓の場所
イ、墓の種類
ロ、共同墓
ハ、門中墓
ニ、人墓
ホ、シルピラシドゥクル(ユンシリグヮ)
ヘ、童墓
ト、フーキバカ(流行病)
チ、その他(骨場:クチバ・ガンサなど)
リ、グソーミチ(後生道)
ヌ、墓の清掃
ル、ガンヤー
ヲ、禁忌俗信
ワ、墓造りの儀式
二十、遊び
二一、年中行事
イ、十二月二四日(火神の昇天)
ロ、十二月三一日(年の夜:トゥシヌユル、大晦日の事)
ハ、一月一日(正月)火の神の降臨)
ニ、一月二日(ハーウガン)
ホ、一月二日(初起こし)
ヘ、一月三日(初畑)
ト、一月七日(ナンカンシークー)
チ、一月十四日(ソーグヮチンクヮー)
リ、一月十六日(ジュウロクニチー)
ヌ、二月(彼岸祭り)
ル、三月三日(清明祭:シーミー)(サンガチサンニチー)
ヲ、三月(フシユフイ)
ワ、三月(田の祝い)
カ、四月十五日(シガチウマチー)
ヨ、四月(畔払い:アブシバレー)
タ、五月十五日(グンガチウマチー)
レ、六月(新米:ミイーメー)
ソ、六月(明け折目:アキウイミ)
(神ウタあり)
ツ、七月十三日~十六日(旧盆)
十三日(ウンケー)十五日(ウークイ) 十六日(終わりの遊び)
ネ、ウンザミ(ウムイあり)
ナ、八月十日(柴差)
柴差しのウムイあり
ラ、八月十五日(彼岸)
ム、八月(若草)」
ウ、九月九日(ハーウガン)
ヰ、十月(種取り)
ノ、十一月 ウニウイミ(藷の折目)
オ、十二月八日(ウルムッチー)
二二、信仰
イ、イッキジャマ信仰(生き邪魔)
ロ、生き邪魔抜き
ハ、ファナシャミ
ニ、シッキー信仰
ホ、ビュル信仰
ヘ、ブナガヤ信仰
二三、大宜味村のウンガミ
イ、田嘉里(屋嘉比)のウンガミ
ロ、謝名城のウンガミ
ハ、大宜味の
ニ、塩屋のウンガミ
ホ、ウカタビ
ヘ、ハンサガ
二四、その他
・大宜味村の猪垣
・大宜味の地割の痕跡
・明治36年の土地整理
(図と辞令書)
▲田嘉里で飼われている猪
二五、民俗地図の作成
【按司墓】(渡久地)(国頭郡志による)
渡久地の村後丘したに普通の墓所と趣を異にする古墳あり。俗に按司御墓と称う。これ尚円王の兄に当れる米須里主(顧姓久志氏等の租也)の墓なりと称う。里主は元伊平屋の人にして中山尚徳王に奉仕せしが、文明元年徳王廃せられ、尚円王位につきしかば、先王に対する節義を重んじ、かつ弟に仕ふるを耻ぢ家を捨てて北山に隠退し、而して具志川ノロクモイ(今の浜元)を妾として、この地に老を養へり(そのノロの墓はヲナヂャラ御墓といい、渡久地港北岸にあり)、米須の長男は喜界島大屋子を勤めその子孫、今同地八十戸を算すという。
▲渡久地の按司墓 ▲米須里主の墓碑
翁氏の鼻祖(大米須並をなじゃら)御墓発掘報告書(大正7年:昭和49年)
墳墓発掘の原因
□も発掘の動機は翁氏の先祖国頭親方の尊父は大米須公なりと伝られしが近頃歴史家の研究する所に依れば大米須と国頭親方の年齢は殆ど九十余年の差あるを以て御親子にあらずして、或いは国頭親方は大米須の御孫にあらずやとの疑念を惹起し、墳墓を発掘し、具体的調査するの必要を認め一門協議会を開き詮議の結果鼻祖大米須公並御夫人(をなぢゃら)御墓を発掘し、緻密に調査するに決定し、其の調査委員は永山盛廉、安谷屋盛堅、東恩納盛起、久志助英等を選定し、本部村渡久地に派遣せらるや、歴史家真境名安興氏に立会を乞い同伴して渡久地に至り大に利する所ありたり。
墳墓発掘ノ日時
最初は大正七年旧暦八月六日墳墓発掘することに定めたりしが、天天候荒立ち海陸共に旅行し難く八月十一日に延期したるに、尚ほ天気静穏に復せず不得巳、私事の為め曩に出発せる安谷屋盛堅並びに渡久地松太郎等に電報を以て依頼し、十一日午前七時は阿さたひ御墓、仝日午前十一時はをなぢゃら御墓を発掘着手の義式丈を行はしめ、十二日午後一時より調査委員が墳墓を発掘せり。
安可多部御墓の状況(按司墓)
その位置は国頭郡本部村渡久地うゑの原という山の麓にあり。亥に近き方に向かい渡久地の裏路通りに沿へ天然の洞穴を利用し少しも人工を施さず檀もなく至て質素の感あり。而して石棺十二個あり、陶製の逗子四十個ありて、墓内に厨子を以て充満し、或いは厨子を重ねおきて多し、奥面には数人の骨を混合して堆積せり。
中央に安置せらるる石棺の蓋に大米須の三字を書し、その中には「乾隆三十九年甲午八月十二日翁氏国頭親方の御親父の由承之」と書したる。木札を発見せり。然し厨子に銘書あるものは土地の人民なるものの如し。又銘書なきもの六個ありて大米須の御子孫なるや否判明せず。従って調査の目的達する能はずるは遺憾に不堪なり。
古老の伝ふ所に依れば墓内に石碑を入れたる趣き、調査したるも是亦発見する能はず。石棺に乾隆三十九年午八月十二日云々と書したる木札と、今回延期に延期を重ねて午年八月十二日に発墓したると仝年月日も相当したるは実に寄寓の感あり。今回記念の為め左の通り木札に記載し大米須の石棺に入れたり。
大正七年九月十六日(旧暦七月十二日)一門立会の上御嶽墓を発掘す。古老の指示に従い墓内に入れ置きたりという。石碑を捜索するも発見すること能はず。当時石棺十二個陶製厨子四十個あり。銘書明なるもの及び不明のものも一々謄写し置きたり。
大米須の石棺に別札乾隆三十九年八月十二日云々の木札ありしに依り其のまま複製し、原文の通り書し入れ置けり。
大正七年九月十六日
立会人
歴史家 真境名安興
翁氏 永山盛康
安谷屋盛堅
東恩納盛起
顧氏 翁長助持
普天間助宜
久志助英
今回墳墓発掘の際本部村渡久地百三番地島袋盛三郎より願出に依り厨子一個渡せり。
御夫人御墓の状況(おなぢゃら墓)
その位置は国頭郡本部村渡久地志なきらゑ原という山の麓にあり、渡久地川に面し未申の中に向かい阿さたび御墓(按司墓)とは梢差向かふの方に1檀あり。阿さたか御墓と比し堅牢にして且つ結構なり。外部を高地にして好景色の感あり。墓内は厨子以て充満し、少も余地なし。石棺六個陶製角形六個、厨子五十七個あり。火葬して数人混合して大壺に入れたるものあり。上檀の中央に安置せらるる石棺に二人合納せらるるも銘書判然せざるは最も遺憾とする所なり。下の中央にある石棺には具志川のるくむひと銘書あり。或いは大米須の御妾たりし具志川のるくむひと推察せらる銘書不明のもの十一個ありて、御夫人の御骨を確実に認むる能はず嗚呼。
裔孫たるものは一生涯遺憾千万なり。期して願くば尚一層研究を重ね探索を継続して鼻祖御夫人の御骨を確認せられんこと
附言
本部村渡久地二十三番地士族名城政致より申出に依り厨子一個を渡せり
阿さたひ御墓(按司墓)に入れたる厨子に銘書ありて村民との関係者の様に認めらる者の様に認めらるもの左の如し。
一、満名村松田にや 一、具志川のろくもい女子 まうし
一、乾隆三十九年五月浜元村 健堅親雲上女房
唐山仲宗根 一、伊野波村仲程
一、嘉慶十七年大辺名地村 渡真理親雲上妻
唐山蒲渡久地 一、乾隆三十八年三月廿五日
一、乾隆十九年死去八月廿一日洗骨 伊野波村加那玉城
浜元村辺名地親雲上アンシ 一、渡久地村前石嘉波親雲上
乾隆○○○○丁亥謝花掟 妻
一、金状 松 一、道光三年未八月浜元村
浜元村前並里親雲上 上渡久地妻
一、乾隆五十六年戌浜元村 一、道光十七年丁酉二月十九日死
石嘉波大屋子 浜元村満名村大屋子 妻
一、浜元村 一、乾隆三十五年庚寅二月七日
並里親雲上 浜元村島袋筑登之の妻
一、乾隆三十六戌 浜元村 一、嘉慶七年三月
浜元にや 石嘉波大屋子 浜元村渡真理親雲上
一、伊野波村仲程 一 ○○○○親雲上
渡真理親雲上 伊野波雲上妻
一、嘉慶元年辰六月九日 一、辺名地村當山辺名地親雲上
辺名地村辺名地親雲上母 男子 女加那覇
一、辺名地村 一、前辺名地親雲上 男子
辺名地親雲上 妻 太良にや
一、志ひら下こうり浜元村 一、乾隆十六年辛未
辺名地親雲上妻 大掟文子
一 浜元村 一、伊芸親雲上
並里親雲上妻 一、渡久地村仲宗根方
一、大辺名地仲村渠親雲上 玉城にや
具志川のろくもい女子 一、乾隆十四年寅十四日
一、タンチャ掟 辺名地村辺名地親雲上
渡口村 一、渡口にや女房
一、乾隆二十九年甲申正月十六日 武太父親
浜元村渡久地大屋子
一、伊芸親雲上母
真部親雲上
一、申八月廿四日
筑登之親雲上女子ウシ 一、銘書不明十一個
一、乙未
辺名地掟女房
昭和四十九年四月十三日 旧三月二十一日
ヌール墓を開けた。
沖縄県大宜味地方旧慣問答書(明治17年)
1.吏員の事
一問 筆算稽古人及び文子推挙の方法如何
答 筆算稽古人は村々に於いて吟味の上家内柄並に人体見合せ、稽古せしむる人員の定なし。手習文子は村々筆算
稽古人り志願の内人体見合せ、間切吏員吟味の上之を推挙する。而して手習文子より大文子までの役、上りは勤
功を調べ、吏員中 にて取計い掟以上の役職も勤功(地頭代は尚人品をも撰ぶ)を以て進むを例とす(掟捌理夫地頭
地頭代は言上惣耕作当惣山当は三司官印紙を以てなる〉
一問 地頭代以下の役職交代は凡そ年限の定りある本人の勝手なるや
答 凡を定あり地頭代三年、勘定主取・惣耕作当・惣山当十四、五年位夫地頭二年、首里大屋子・大掟・南掟・西掟
各一年、掟四、五年、文子三十年位なり
一問 旧地頭へ奉公するの手続、並び年限給料の有無又は掟へ採用の手続現今の人員若干なるや
答 右は筆算稽古人之内より文子へ採用すること同しく続にて奉公せしむ年限は定るなれども雖とも凡そ三十年位にて、
掟へ進む給料なし。間切より正頭三分七厘三毛余を引く人員は両惣地頭へ六十七人なり。
一問 掟へ採用の手続如何
答 掟へ採用方は、縦令ば甲年按司地頭より乙年惣地頭より両年間切より順番を以て人体勤功取調掟へ採用す
一問 吏員の中病気其他の事故にて、辞職の後病気快するときは、再び元役に復するか
答 辞職の後は再び採用することなし。尤も右等の場合に於ては壱年以内は吏員中吟味の上足勤(次後のものより順々
に勤める)さしめ、本人全快の時は即ち、足は引取るを例とす。一年以上の事故又は病気の節は両惣地頭差図の上
其計ひを為する。
一問 地頭代以下役々俸給額如何
答 手習文子 仮文子 相附文子 大文子 惣山当 惣耕作当
勘定主取 掟 捌 理
夫地頭 地頭代
同なし
同なし
同なし
同九升六合弐勺三才
同なし
同九斗 同なし
同九斗 同なし
同壱石三斗四升九合弐勺四才 同なし
同一石三斗四升九合弐勺四才 同なし
同六年 同三石五斗五升七合七夕
同壱石八斗 同三石五斗五升七合七夕
同弐石七年 同三石五斗五升七合七夕
同壱石八斗 役俸米五石五斗壱舛九合先免夫米四石弐斗先
同三分 同三分五厘 同三分五厘 同壱人 同壱人 同壱人
同壱人 同壱人 同壱人 正頭一人
両惣地代(ママ)
奉公人
同なし
同なし
同三分七厘
三毛余
一問 吏員人員幾許なるや
答 地頭 壱人 夫地(頭脱か)三人 首里大屋子・大掟・南掟・西掟各壱人 惣耕作・当惣山当 各三人
勘定・掟 七人 大文子 八人 相附文子 四人 仮文子 五人 手習文子 一七人
一問 吏員の旅費は如(何 脱か)
答 首里那覇登之時、左記の通り 一人に付一日分
一米五合 一銭四貫文 一供弐人 一茶四勺 一菜種子油二勺 一薪二勺
但地頭代
一米五合 一銭四貫文 一供夫一人 一茶四勺 一菜種子油二勺 一薪木六勺
但夫地頭代以下掟まで
一米五合 一供壱人
但文子
2.相続の事
一問 跡相続は必ず嗣一男に限るか
答 然り嗣一男に限る
一問 巳を得さる事情あるときは二男三男へ相続せしむるや、又二男三男へ相続せしむる父母の勝手するや
答 已を得さる事情あるきは二男三男へ相続せしむる事あり。又嫡男に相続せしめざる時は二男三男の内孰れも
父母の勝手なり。然し親類中へ一応協議の上取計う。
一問のみにて男子なきときは如何
答 男子なきときは聟養子す。血統の内より見合せ養子するもあり
一問 女子に相続せしむる時あるや
答 無し
一問 男子あると雖も長子女子なるときは女子へ相続せ(し脱が)むることありや
答 然らず右等の事なし
一同 数人の兄弟ありて分家するときは其手続如何
答 分家に付て手続等はなし。然し屋地等の割前あるを以て、必ず村方へ申出つ
一問 分家するときは地所財産等分与するの慣例なるや。又は之を与ふと否とは父母兄の勝手なるや
答 分家スるトキは資産の厚薄ニ従ひ夫々相応の分与をナス然シ是レは父母兄の勝手なり
一問 右分与の多少ニ付苦情等差起る事はなきや
答 右等の事はなし又苦情等申出ツる事は出来ザる習慣ナリ
一問 絶家再興は血統深き者より之を相続せしむべしと雖も事情に依リ血統薄縁なるも相続せしむることあるや
答 都合に依リテは親類中協議の上血統薄縁なりてるも相続せしむる事あり
一問 右等の者争を生ずるときは如何せしや
答 其時は親類中より再三四説諭を加へ又村及間切より説諭し納得(せ脱か)させときは親類中より薄庁(ママ)へ
訴へ出ず
3.模合の事
一同 模合の名称如何大模合小模合龕模合取り抜模合等凡そ幾種あるや
答 模合は大模合小模合の外称なし
一問 大模合(小脱か)模合と組立方に異なる事あるや
答 各組立方に異なる事なし
一問 大模合とは総金額凡そ何位なるや
答 模合は米にして凡そ五十俵より三十俵金にして百円より六十円位を云う
一問 小模合は如何
答 小模合は凡そ弐拾円以内
一問 模合は一体何の為めに設けるか
答 模合は貧困人を援う為に設けるものにて上納不足の時或くは父母疾病に罹り其他不意の災難に遭ひし
とき又牛馬等買入の為に設ける事もあり
一問 模合は専ら男子間に行るか又女子間にも行るか
答 模合は男子間に行れ女子間に行れず
一問 模合取入の先後賦付方法如何
答 右賦方は一番目は起し人へ相渡し二三番目は惣人数の内不便の軽重を見計リ預メ賦付其後よりは各番目
前年に鬮取りを以て相定め尤も不意の災殃等遭ひ番先出願の方は其情実協議の上鬮取リ無く直に相渡す
一問 模合米出額は送前、掛前の区別ありや
答 然り送前の者は一人分の出額に二割リ五分の利子
一ケ年分相付差送り又掛前の方は一人分出額より売貨米〈一人の出額分〉割前高を減少して差出す
一問 模合関したる苦情等も起る事あるか如何
答 模合は預メ約条を定め夫々厳格に取扱うに付苦情等の起ることなし
一問 模合の組立方且盟約等如何
答 模定左の通
模定
一、此模合の義毎年上納米皆同相済次第取立方より五日前に触差出侯はば当日四ツ時分米持参を以て相揃侯
事尤も時欠の方は一時に米壱升づつ日中差欠侯方は吟味次第科米召行侯事
一、模合証文仕付の義慥ニ人体より四人づつ口入相立侯
一、模合米不納の方は係前は掛捨送前は口入人にて相弁侯事
一、焼酎壱升 但鬮当例物
一、同弐升 但取目例物
一、米壱斗先 但同上肴料
一、米〈此の額模合米一人の出テ分〉但売貨
一、焼酎ニ升 但事情に由リ番先出願の時鬮当籠て
証 文
一、米 但弐割五分利
右者無拠入用に付本行の員数模合相企何番目慥に受取申候尤送前の義は定日刻限通米何俵宛模合揃所へ堅固
に相納可申侯若シ相違の義共出来侯は口入人にて少も無間違送前結構に首尾方可仕侯此上不届の義共侯はヽ
模合法様の科米召行侯上口入人誰ソ壱人の家財より當高の分は不依同色に御引取可被成候其時一言も口能申上
間敷侯為後証如斯御座候以上
何年月日
借 主
何 某
模合人数 口入人
何某々々
4.付届の事
一問 文子以上後(役か)上リの時地頭代以下役々へ付届並に盆暮当役々へ付届の定例如何
答 役々相互に付届けずる事なし
一問 文子以上地頭代マテ役上リの時々両惣地頭其他へ付届の定例如何
答 地頭代以下役上り時々付届の定例左の通リ
両惣地頭へ 地頭代理
一 肴拾斤づつ 一 焼酎弐合瓶一対ツヽ
両惣地頭摘子元服次第 同人へ
一 肴弐斤ツヽ 一 焼酎壱合瓶壱対ツヽ
両惣地頭惣聞へ
一 肴弐斤ツヽ
下知役検者へ
一 肴壱斤ツヽ
両惣地頭へ 夫地頭捌理壱人例并百姓位取の節同
一 肴七斤ツヽ 一 焼酎弐合瓶壱対ツヽ
右同嫡子元服次第同人へ
一 肴弐斤ツヽ
右同惣聞へ
一 肴弐斤ツヽ
下知役検者へ
一 肴壱斤ツヽ
掟壱人例並ニ百姓赤頭取リ節同
両惣地頭へ
一 肴五斤ツヽ 一 焼酎弐合瓶壱対ツヽ
右同嫡子元服次第同人へ
一 肴弐斤ツヽ 一 焼酎壱合瓶対ツヽ
首里那覇両宿並下知役筆者へ 役上リ人数模合にて
一 肴五斤ツヽ
ごり方へ筵ちんとして
一 銭五貫文
評定所公事持へ
一 銭五貫文
両惣地頭へ 大文子壱人例〈但相付文子以下は例なし〉
一 肴壱斤五合ツヽ 一 焼酎壱合瓶壱対ツヽ
右同嫡子元服次第同人へ
一 肴壱斤五合ツヽ 一 焼酎壱合瓶壱対ツヽ
右同惣聞へ
一 肴壱斤五合
一問 役々より両惣地頭其他へ盆暮等付届の定例如何
答 盆暮等は役々より付届の例なし
一問 村又は間切より付届の定例如何
答 左の通り
盆上物例
両惣地頭へ 間切より
一 薪木拾束ツヽ 一 明松三束ツヽ
一 白菜壱斤ツヽ 一 角俣壱斤ツヽ
一 ミミクリ壱斤ツヽ 一 辛子壱升ツヽ
一 玉子五拾甲ツヽ
脇地頭へ 村々より
一 白菜半斤ツヽ 一 角俣半斤ツヽ
一 ミミクリ半斤ツヽ 一 辛子五合ツヽ
歳暮上物例
公義へ 間切より
一 干猪肉拾八斤 一 □壱斗八升
聞得大君殿へ 間切より
一 干猪肉壱斤 一 □四斤四合五勺
佐敷殿へ 間切より
一 干猪肉壱斤 一 □四斤四合五勺
両惣地頭へ 間切より
一 □壱斗弐升ツヽ 一 代々九年母弐拾粒ツヽ
一 焼酎八合ツヽ 一 猪シヽ拾八斤ツヽ
一 銭弐百五拾文ツヽ
右同嫡子嫡孫元服次第
一 □弐升ツヽ 一 肴五斤ツヽ
脇地頭へ 村より
一 □五升ツヽ 一 焼酎弐合ツヽ
一 代々九年母七拾粒ツヽ 一 肴七斤ツヽ
下知役検者並ニ首里宿へ 間切より
一 □弐升ツヽ 一 肴五斤ツヽ
下知役検者詰所へ
一 九年母五拾粒ツヽ
筆者在番下知役筆者並ニ那覇宿へ
一 □壱升ツヽ 一 肴弐斤ツヽ
地頭代へ
一 □弐升 一 肴弐斤
捌理へ
一 □壱升ツヽ 一 肴弐斤ツヽ
勘定主取へ
一 □弐升
宰領人へ
一 干塩肴五斤
5.礼の部
6.冠
一問 男子は何歳ニシ(テ脱か)□髻を結ぶか
答 十五歳正月朔日□髻を結う慣例なり
一問 □髻を結う時の祝儀は如何親類故旧等を招請するか酒肴等を排設し音曲を奏し舞踏をなすか夫れには
定式の歌曲等あるか〈又酒肴モ定式の数あるや〉
答 男女元服するは、えぶし親〈筆算人より之れをなす〉より□髻を結ひ冠者装束してえぶし親の酌を取り霊前
並火の神前に至リ瓶酒を飾り拝礼をなし済て酒肴〈豚肉、魚、豆ふ大根、昆布等にて定数なし〉排設親戚故旧
を招き歌曲舞踏をなして祝儀を為(ママ)をなす〈歌は御前風を始め後は興次第〉
一問 女子も何にか笄札に当るべき式あるや
答 右に当るべき式なし
一問 同上の時間門に貼する朱紙の聯句式の文句あるか又門え止らず室内にも之を貼するか
答 然れ聯句は貼せず
7.婚
一問 男子は凡そ何歳にして娶るか。女子は凡そ何歳にして嫁するや
答 男子は十八、九歳より二十二三歳にして娶り女子嫁するも年齢大抵同断
一(問脱か)嫁娶は総て媒に頼るか野合して夫婦となるものあるや又は少小の時より父母預め婚約
をなすものあるか
答 嫁娶は各父母相談の上に頼るの定例なり婚約の比合は八九歳より十五六或クは其時差掛りなすものもあり然かし
或は幼少にして両親を失ひ困窮にして奴僕となり嫁娶の手術不行届已むを得ず密に夫婦となり又た互に情を□み
父母の命媒約の言を待たして縁を結ぶものも間々之れあり
一問 然らは右様情を寄せ野合して夫婦となるものは如にか父母親類或くは村方に於て懲戒をなし等の事はなき乎
答 然り懲戒を為なさず
一問 従兄弟姉妹再従兄弟姉妹等親戚間に於て婚姻を結ふものあるか
答 然り血統は再従、外戚は従兄弟姉妹よりは結をなす
一問 夫婦の年の釣合は如何夫より長するを例とするか長せさるを例とするか
答 夫婦年の釣合は同年なるを好とす
一(問脱か)甲村のもの乙村のものと結婚し又は甲間切のものと乙間(切脱か)のものと結婚するの例あるか
答 然り右様の例あり
一問 妻を娶る時は雑用等の名目を以て金円を女家へ送るの例なきか。其金額凡そ幾許ふ(ママ)るか。又離婚の時は
其金は再ひ夫家へ返へすの例なきか。其外にも幣札等あるか
答 別紙段雑用等の名目を以て女家へ金円を送る定式なし。或くは該家極貧にして奴婢等に成るものは見受米等
送るものもあり。亦た右米は夫より妻を好せすして離縁すれは返却せず妻夫に依リ休縁セは之を返還するを例とす。
且つ幣礼とは称せずとも米一斗以内弐三升も家内柄次第婚礼前々日前日に女家へ送る事あり
一問 妾を置くものあるか妾は身代金として多少の金額を以て買ふの風にあらざるか
答 妾を置くものなし
一問 娼妓を以て妻となすのあるか
答 なし
一問 夫となる人婦の家に至り親迎する時の模様如何親迎して後両三日間遊郭へ留宿し家人も酒肴を携へ
親戚故旧を迎へて遊興する等の例なきか
答 夫となるものは婦家に至リ親迎することなし婦を迎るには夫家より再婚再嫁せすして子供多く出生せる
夫婦一対或くは二対並に親類より両三人婦家ヱ至り持参の酒肴を以て婦の父母の酌を取リ済て婦を迎ひ
婦家よりも右同然附添へ夫家へ参リ婦□内室に入り夫ト一饌に食を共にし〈酌の取リ替へ□し礼教備はらす
と雖水盛と称す〉父母並親類等より女家の親類等の酌を娶り夫々異りて歌に味線〈歌三味線のことか〉を興行
し儀を為す〈夫遊郭へ留宿することなし〉
一問 親迎の後ち両三日間夫は他の家を借リ止宿等して遊ぶことなきか
答 なし
一問 夫とより何にか婦の父母を見るの式はなきか
答 あり婚礼の翌日夫、酒肴を携へ婦家に至り該父母の酎を娶る例なり
一問 父母の命を待たずして情を□み夫婦となるものも別段に婚姻の式を挙るか
答 是は一定なら前項同断更に其式をなすものあり又たなさざるもあり
一問 祝儀杯の時招きに預るもの何にか持参するものあるや
答 然り男は酒〈一二合〉女は重の物〈豆ふ大根昆布杯の〆もの〉持参す
一問 婦となる人始て夫の家に帰る時の衣服装飾其他の模様は如何
答 其時婦の衣裳は紺地或くは色掛を着す途中に行くは夫方の親類を先にして次に婦其後より婦方の親類順序を
為す而て婦の櫛箱並衣類入〈ひち小、庫理箱或は風呂敷〉を婦の後より持行く
一問 夫婦と公認するは何々の事を為して後なるや
答 結婚するは別段村方に於て引合等も之れ無とも前項通媒に頼り公然縁組をなす上は村中其夫婦たるを能く
之を認む
一問 婦夫家に帰り上は村方え届出等之れあるや
答 然り村方え口頭の届出なす
8.喪
一問 人死すれば第一第二第三の手続如何僧を請するか。僧幾人と定りあるか
答 人死すれば即ち号哭して第一屍を浴し髪を結ひ第二死差の衣服を被せ第三棺に収めて之を送る僧は請ふことなし
一問 鉦は死すると直に之を鳴すか。●二点連三点連等の区別あるか
答 鉦を鳴さず
一問 棺は坐棺臥棺か
答 臥棺なり
一問 棺に用る木材に定りあるか
答 然らず杦七分板並雑板
一問 棺の大さ如何
答 長さ三尺四寸四分●あ深壱尺四寸四分
一問 屍を棺に収る時、屍の動揺せざる様物を棺中に詰るに何を以てするか
答 臥棺にて何む詰る事なし
一問 存生中平生珎愛せし器物等は棺中に入れて送る等のことあるか
答 煙草入並手掛は棺中に入れ外に入れものはなし
一問 親族の凡そ棺に入る事あるや
答 右等のことなし
一問 他の物品入る等の事あるか
答 五穀の籾、針を紙袋に入死人の首に掛く
一問 葬送の模様如何
答 其模様四流旗燈炉位牌天蓋龕を備へ子孫親類号泣して村人等列送る
一問 洗骨は何年の後之をナスカ其骨を始末スる方法如何
答 三年後或くは七八年になすものもあり一定の年期なし其骨は壺に入て亦た之を墓内に収む
一問 喪に居るものは簪を脱する等の事あるや
答 然り喪中は簪を脱す
一問 喪中結髻等の事如何
答 喪中結髻す。然し剃刀を遣り鬢附油等を用ひず
一問 喪中他人に接するに平常と異なる事あるや
答 喪中見舞人に接するの外他人に接せず、他人も輙く其家に至らず祭
一問 人死して後ち三日或くは一七日目には吊祭((弔))の式あるか。其時は酒肴を備ふか、其外二七日
三七日或は四十九日一周忌七年忌抔同断なるか
答 葬送翌日墓参し、其後四十九日まで七日目に酒肴を備う。一周忌三年忌七年忌十三年二十五年右同断〈四十九
日よりは霊前に於て祭る〉三十三年忌供物は前項に異なり〈豚魚、餅、吸物、●ニ汁一菜の膳〉
一問 酒肴を備へ墓所に至り祭をなすは何月何日なるか
答 正月十六日なり
一問 清明彼岸等は如何
答 右等祭は執行せず
一問 祖先を祭は如何春夏秋冬を以てするか、或くは単に命(日脱か)のみなるか
答 別に春夏秋冬並命日も祭ることなし。単に前項の祭りのみを執行す
一問 盆祭リは如何の式あるや
答 十三日晩方門左右に明松を燃し、主人出て拝してショウ・ラウを迎ひ入て霊前に香を焼き拝礼をなす茶湯
果類(あた子並つぐの実、メヨウカ、コウガ、九年母、荻)を供し十四日朝晩茶湯並三度の膳(粥或は唐芋)を供し
十五日右同断(晩膳は一汁一菜)酒、餅〆物(豚肉魚野菜)を備へ夜九ツ時分計り焼香拝礼して門外、或は浜辺
まで送る。而て兼て飾置の果類其辺に送り置く例式なり
一問 地頭火の神土地君等のを祭るには其式間切を以てすか、其時はのろこもり主祭たるか、又のろこもりは
神歌を唱へ神舞等をなすか、其装束如何
答 地頭火の神祭費は毎月朔望間切費年中麦の穂祭稲の穂祭稲の大祭は両惣地頭費を以てす。而して其祭は
のろこもり管せず。払除当之を任す土地君は祭らず〈根路銘村一ケ村は地頭火の神を祭る尤も祭費等も地頭
費村費の区別右同断〉
一問 地頭火の神を祭るには其式如何
答 朔望は塩沙を供し麦の穂祭稲の大祭には美花米御五水を備へ払除当色掛を着し香焼き礼拝をなす(根路銘
村火の神も其式同断)
一問 麦の穂祭りとは毎年二月何日に之を行うか、其日酒饌を備へ神を祭り百姓業を休む等の事あるか
答 右祭りは二月中執行するとも、日は期定なし。又供物は酒美花米なり当日より翌日まで百姓稼業を休む
一問 四月あぶし払同断
答 前同じ
一問 五月稲の穂六月稲の大祭も同断
答 前同じ
(工事中)
④ソーヌウタキ
ソーヌウタキまでは行くことができない。ソーは小さな谷間のこと。谷間にあるウタキのことだろうか。ウタキまで行けないので道路から遥拝(ウトゥーシ)をする。
⑤プトゥキヌメーヌウタキ
一周線から階段を上っていく。岩場の半洞窟に丸っこい石があり、ビジュル石のようだ。神人達の意識にビジュルメー(ハマンシ)が女、プトゥキヌメーが男の神との認識を持っているようだ。
⑥プトゥキヌメーの御願をすませクヮッチモーの手前で神人が横一列になって御願をする。「自分の勤めをちゃんとしました」との報告だそうだ。
⑦クヮッチモー
クヮッチはご馳走のこと。モーは広場や丘のこと。持参してきたご馳走を広げてウサンデーをする。最近の弁当の中身はスシ・かぼちゃの天ぷら・タコの味噌炒め。飲み物は酒やジュースなど。
⑧ビジュルメーヌウタキ(ハマンシ)
ビジュルは人形の形をした石。別名のハマンシは浜(海岸)の石に因んだ呼び方のようだ。縦穴の小さな洞窟にビジュルが数個ある。神人はプトゥキヌメーが男神、それに対しビュルメーは女神との認識を持っている。
⑨イソーバイ(神人が横一列になって祈る)
ビジュルメーでの御願をすませマチヂに至る途中で神人達が横一列になって御願をする。「自分の勤めをちゃんとしました」との報告だそうだ。
⑩マチジヌウタキ
集落の上の方にあるマチヂヌウタキのイベまで最近開けられた。大きな岩の下でウガンをする。マチヂは集落から上の方に位置し、チヂは頂上やてっぺんのこと。ウタキの名称は「上の間(空間や広場)」の意味なのだろうか。
⑪神アサギ
島一周のウタキを回ってくると神アサギにいく。女神人達が到着すると、フンシー神と合流する。神アサギの中からナカムイに向かって祈りをする。
⑫ナカムイヌウタキ
ナカムイのイベまで登らず、神アサギの中からナカムイに向かってウガンをする。ナカムイへのウガンが終るとタキヌウガンは終わりである。
⑨根ガ底原
⑩雨底原
⑪宇辺ノ花原
⑫大当原
⑬仏ノ上原
島の北東部に位置し、原名は七森七嶽の一つプトゥキヌメーがあり、仏に似た小石がいくつもあり、祭られている。原名は仏に似た石が祭られていることに因んだ呼び方であろう。海岸線に渡海からつづく浜があり、数多くのポットホールがある。
⑭城 原
⑮宿ノ前原
⑯立ち原
⑰道ノ下原
⑱流し原
ナガシバイと呼ばれ島の北西部に位置する。北は海に面し、段丘になっている。南側にも二段目の段丘がある。二段目の段丘地域は緑地となっている。キータイイシ(火焚き石)と呼ばれる場所があり、火をおこして旅人や那覇港を出港した船を見送る場所だという。古宇利島を一周する道路が通り、数件の家があり、そこはシチャバル(下原)の集落である。
⑲渡海原
トゥケイと呼ばれ、島の北側に位置する。海岸線に砂浜がありトケイバマという。海岸一帯に円筒状も空洞になった岩が数多くありポットホールと言われている。つの段丘があり、畑はサトウキビと芋が植えられている。原野も多い。
▲古宇利の小字マップ
ムラウチの集落③
古宇利島の南斜面に集落が発達し、ムラウチと呼んでいます。ムラウチ集落は、さらに東側(アガリバーイ)、中(ナカバーイ)、西側(イリンバーイ)の三つに分かれています。
【アガリバーイ】歴史文化センターは今日が仕事初めです。休館中の事務処理(苦情も含めて)に追われています。年末から周辺整備できょ工事があわただしくなり、歴文への出入りに支障をきたしています。早速、来客;への導線の貼り紙から。3月まで迷惑をおかけします。
正月元旦の日の出を見届けた後、名護市呉我まで行く。元旦の朝、十年余り朝日を見に行っている。ここ三、四年は一人で。いつの間にか子供たちはついてこなくなっている。それに連れも。お陰で朝日を確認して、自由奔放に麓の羽地一帯の集落を歩いている。
今年は呉我まで。呉我に気にいった長閑なカー(ビーガー)があり、正月の若水を汲みに来る方が今でもいるのか(途中で気づいたが、それは旧正なのだ)。ビーガーは清掃され水を汲む柄杓が供えてあった。側にハミダー(神田)があるが、田植えはもう行っていないようだ。旧暦の二月の大安にビーダウグヮンが行われる。
途中、呉我の神アサギに立ち寄るとムラの方々がアサギナーにゴザを敷いて新年の祈願祭が行われていた。古宇利島でも新年のウガンをお宮の前でやっているようだが、名護市呉我でも行っている。
呉我の集落の後方の鍛冶屋原(カンジャーバル)までいく。『沖縄県国頭郡志』に、
呉我の後方に鍛冶屋原があり、古へ官立の鍛冶職を置きたる所
なり。元各間切の農具は官給にして人民は、その代償として一定
の租税を納めたりしが、後更めて各間切に鍛冶職を置き、而して
人民の利便を図れり。県下各地にカンヂャーヤー原といえる地名、
あるいは多くの其の跡地なりという。寛文九年(1667)十二月三十
日附御教書の一節にいう。
此中諸間切遣候、鍬、へら、はいし賃として百姓一人に付米一升五合づつ相掛、
半分は公儀半分は鍛冶細工へ相納候処、百姓疲申候付未之春頃右出米差免、諸
間切へ鍛冶細工二人づつ立置、夫引合相定候事
とある。呉我は1736年に今帰仁間切地内から現在地に移動した村である。上の文書(1667年)と呉我村(1736年に移動)の鍛冶屋の成立とは時代が異なる。1736年以降に呉我村に鍛冶屋が置かれたことに因んだ原名なのであろう。果たして鍛冶屋跡地を見つけることができるか?