―国頭村比地―
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国頭村比地
沖縄本島北部を山原(やんばる)と呼ばれている。山原と呼ばれるようになるのは近世になってからである。その地域は北山(山北)や国頭方と記される。山北(北山)は、北山・中山・南山が鼎立していた時代の名残りである。その北山の領域が山原である。近世になって領域(間切)の線引きの変更や町村の合併がなされ現在に至る。
その山原の領域は明治29年に国頭郡になるが、伊平屋島と伊是名島は島尻郡に入る。国頭郡には名護市・東村・恩納村・金武町・宜野座村・本部町・今帰仁村・大宜味村・国頭村・伊江村がある。山原には1市、2町、7村がある。近世から現在に至る変遷を記すと以下のようになる。
・名護間切→名護村(ソン:明治41年)→名護町(大正13年)→名護市(昭和45年)→名護市(現在)(55)
屋部村(昭和21年:名護町から分離。同45年に名護市に7字が合併)
・羽地間切→羽地村(ソン:明治41年)→(昭和45年に名護市に15字が合併)
屋我地村(昭和21年:羽地村から分離。同45年に名護市に5字が合併)
・久志間切→久志村(ソン:明治41年)→(昭和45年に名護市に13字が合併)
東村(大正12年に久志村から分離)→東村(現在)(6)
・恩納間切→恩納村(ソン:明治41年)→恩納村(現在)(14)
・金武間切→金武村(ソン:明治41年)→金武町(昭和55年)→金武町(現在)(3)
宜野座村(昭和21年:金武村から分離)→宜野座村(4)
・本部間切→本部村(ソン:明治41年)→本部町(昭和15年)→本部町(現在)(27)
上本部町(昭和22年本部町から分離、昭和46年本部町に合併)
・今帰仁間切→今帰仁村(ソン:明治41年)→今帰仁村(現在)(19)
・大宜味間切→大宜味村(ソン:明治41年)→大宜味村(現在)(17)
・国頭間切→国頭村(ソン:明治41年)→国頭村(現在)(20)
・伊江島→伊江村(ソン:明治41年)→伊江村(現在)(5)
山原の市町村に字(アザ)や区と呼ばれる行政字(区)が170ある。字のことをムラやシマと呼ぶが、明治41年に間切は村に、これまでの「…村(ムラ)」は字(アザ)と改称された。そのこともあって現在の沖縄の「…村」は「…ソン」と呼んでいる。以前の村(ムラ)と混同を起こさないためでもある。村(ムラ)と呼ばれてきた行政区が近世初期から明治41年まで長年にわたって使われてきた。そのムラに住む人たちのほとんどが、そのムラで生まれ育ち結婚し、そして人生を閉じていったのが多かった。土地制度(地割)との関わりである。
その環境で培われた習慣や伝統が、明治以降の県政やムラ・シマにおける生活改善などで、その多くが失ってしまった。それでも山原に、まだ生活の一部として息づいている。特に祭祀や神アサギや言葉や生業などに。廃藩置県後、130年という歳月が経ている。それでも、山原の人々がムラの歴史や伝統や祭祀、言葉(方言)、あるいは生業、自然などのことを消すことなく今に伝えているのは、伝統や文化と捉えてもいい。集落の発生と切り離せないウタキや神アサギやカー(湧泉)、それだけでなく山原に残る自然(ヤンバルのつく動植物)なども、山原のムラ・シマを見ていくキーワードである。
そこでは、「山原とはなにか?」との答えを出そうとする姿勢ではなく、山原には170のムラ・シマがあり、それぞれ歴史を刻んできたし、170のムラ・シマのもつ多様性を個性として引き出していく作業(記録)が必要である。一言でくくる、あるいは一つの答えを出すことも大事であるが、170のムラ・シマのそれぞれの個性を描き出し、記録していくことが重要である。
ここでの学問は、「山原とは何か」を問う手段であって目的ではない。山原を、そしてムラ・シマが何かをいろんな学問を通して究めていく。また、一つに結論を見つけようではなく、ムラを構成する要素を数多く拾って記録していく作業が大事である。各地で発刊される「字誌」の世界はその例である。
ムラ・シマに生きる70歳以上の方々は、戦前・戦争・戦後の物のない時代、そして昭和30年代からの高度経済成長期、さらに宇宙に人間が飛んでいく時代。そのような裸足の時代から宇宙に人が飛たっていた時代を体験した方々は、過去にいくつか黄金時代があったが、裸足の時代から裸足の時代であった。今の70歳以上の方々は、裸足の時代から宇宙の時代の体験してきた方々であり、そのような三つの時代を経験した方々は過去になかった。
この時代を生きてきた方々の体験を記録というのは、将来に渡ってないであろう。この時代に生きた方々の記録を将来に届ける義務があるのではないか。100年あるいは200年の未来から、昭和・平成という時代を振り返った時、黄金時代というより、とんでもない時代があったのだとの議論がなされるであろう。現在に生きる方々の生の資料を届けるということは論や学説ではなく、実態のある議論がなされるであろう。山原には170のムラ・シマがあるが、国頭村比地を手がかりとする。
【国頭村比地】
比地はピジやフィジと呼ばれ、国頭村の一つの字(区)である。国頭村の字は南から浜・半地・比地・奥間・・・と北へつづく。比地の集落は西海岸の国道から山手の方の奥まった場所に位置している。比地は二つの川が流れ、一つは比地川、もう一つは奥間と境をなして流れる川代志(ハレーシ:奥間川)がある。集落があるのは二つの川に挟まれた場所である。比地は行政村になる以前の集落形態を今に伝えている。山原の村や集落を見ていく指針(モデル)となる地域である。
比地は比地・堀川・蔵前・長根・幸地・長尾の6つの小字からなる。比地と奥間の一部を分かち、統合して鏡地として区が成立した。大正15年のことである。半地は奥間から分かれた区である。比地の領域であった比地川の左岸と奥間の領域であった半地(比地川左岸)と交叉した形で分区している。比地川の下流域は仕明地であったとみられる。小字(原域)は分区以前の領域でみる必要がある。いずれも奥間ノロの管轄なので祭祀には影響及ぼしていない。海神祭(ウンガミ)のときのナガレミャーは鏡地の浜で行われる。
国頭村比地を立体的に描く作業を順次進めていく。(これまで紹介したのをここに集合させる。そのため統一を欠いているが、随時整理することに。最後部に100の質問を掲げてみました。比地の方々が、当たり前に誇りを持って答えてくれたら、あるいは日常の会話の引き出しにしてくれたらと。
「ウタキが三つあるようだな」「どこどこかね。もっとあるんじゃないか」など。
「ペーシモーで行われていた干支の旗の下に生まれと年が集まるのは珍しいようだよ」
「今はやっていないな。あれができれば、もっと元気がでるかもね。誰が何年生まれか
すぐわかるさ」
などなど。
【小玉森内にある火神の祠】(住居跡)
小玉杜内に10件近い住居跡(火神の祠)がある。それは屋敷跡である。かつて小玉杜(ウタキ)内に人が住み、そこには神アサギがあり、また各門中のイビがある。集落の発生の古い形態をみせているのではないか。沖縄のグスクは高い所に築かれている。グスク以前はウタキ(杜)である場合が多い。その杜の内部に住居を構え、古琉球から近世にかけて次第に麓に住居が移動していく。国頭村比地は、戦後まで杜の斜面に住み、その痕跡として火神の祠が今に残し、移動したものの今でもお参りを続けている。
▲根神屋の拝所
▲山口神社
【杜(ウタキ)内のイビと一門】
杜(ウタキ)の中に各一門のイベが四ヵ所にある。海神祭のとき、杜の神アサギ周辺にあるイビの前に一門ごとに集まりウガンをし直会(ナオライ)をする。また、神アサギ内に座っている一門から出した神人の前にささげものを持っていく。四つのイベは神アサギ近くの大きな赤木の根元にあるが、一ヶ所だけは窪地(堀切か)を越えた場所にある。その一門は他地域から比地に移住してきた一門ではないか(未確認)。杜(ウタキ)内のイベと一門と神人、さらに比地の集落とウタキの関係、それは原初的な姿を今に伝えているのではないか。

・山城姓/山川姓/神山姓/大城姓が古い一門
・根神・・・・山城門中
・シル神…大城・山川門中
・山城一門の総元締めは泉川家(ミルク田や他の拝所の管理)
・比嘉姓は本部からの寄留
・外間姓は那覇からの寄留
・宮城姓は与那
・江川姓は神山家から分家(戦後改姓)
【小玉杜の神アサギ付近の香炉(イビ)】(北から)
①奥間からきた人々
②アサギ門中(山川姓)
③浜からの一門?
④ハンダ屋門中(比地の元屋)(大城姓)
⑤比地の泉川屋門中(山城姓)(アマミンチュウ系統、さらに山口神社をもつ)
⑥比地の下道屋門中(神屋姓)
【比地の神アサギ】
比地の集落は比地川とカデシ川が合流する挟まったところに位置する。比地村の神アサギは『琉球国由来記』(1713年)にもあり、また幸地嶽・小玉森・キンナ嶽の三つのウタキも見える。旧暦の七月盆明けの亥に日に行われる海神祭がある。神アサギ内に奥間ノロをはじめ神人達が座り、周辺の所々に一門(一族)の人たちが集って直会をする。前日には神アサギでクェナーが行われていたという。海神祭の時、比地の神アサギから奥間アサギに行き、さらに鏡地の浜までいく。現在の神アサギは柱が8本で瓦葺きの屋根、タモト木や海神祭で使うユミや藁縄や猪を模したバーキが屋根裏に置かれている。
瓦屋根の神アサギから茅葺屋根の神アサギになる(平成15年頃?)。神アサギは小玉杜(ウタキ)内にあり、さらに最高部に位置している。

▲瓦屋根頃の比地の神アサギ ▲茅葺き屋根の神アサギ(平成20年)
【比地大滝】
【原石と比地】
「大宜味間切内法」が『沖縄県史』にないので他間切の内法の条文を掲げておく。大宜味間切でも例外なく、その条文はあったとみられる。県内の内法は明治20年のものなので、その頃、まだ生きている条文とみられる。印部土手(原石)は巡視し破損させた者に状況に応じて科銭を申しつけ、他間切の者はその番所に通知して科銭二十貫文を徴収することになっている。科銭は間切によって差がある。
【今帰仁間切内法】(第百四条)
役々ニ於テ田畑印部土手山野印部土手他村他間切トノ境界土手巡視シ若細メ又ハ破損シアル者ハ事ノ軽重
ニ応ジ科銭申付他村他間切ノモノハ其番所ヘ通知シ科銭二十貫文微収候事
【国頭間切内法】(第八十三条)
印部土手並名書牌文又ハ方切土手ノ義到テ大切ナル御仕置ニテ少迚モ相被候テハ御無沙汰ノ程モ不軽事候間
間切中印部土手帳表春秋田地御廻見前相改修補サセ若印部右無之候ハバ地頭代へ相達頭御役衆案内ノ上調
方可申付無其儀夫々不行届候ハバ科銭拾貫文申付尤不下知ノ品ニ依り重科ニモ可申及事
【久志間切内法】(第百十二条)
印部土手並名書牌文又ハ方切土手ノ義至テ不軽事候間間切中印部土手帳表春秋田地御見廻前相改修補サセ
若印部無之候ハバ地頭代へ相達頭御案内ノ上調方可申付無其義夫々不行届候ハバ耕作当へ科銭五貫文宛申付
尤不下知ノ品ニ依り重科モ可申及事
▲「ゐ いち原」の原石
【国頭村比地の石灯籠と国頭王子政秀】
1849年福寧府に漂着した国頭船には五人が乗り組んでいた。そこで救□を受け、、また船の修理をしてもらった後、福州を経て同年接貢船とともに帰国した。この国頭船が比地船であったことは、比地の中の宮とびんの嶽にある石灯籠及び石香炉によって知ることができる。・・・正面に国頭王子正秀の銘が刻まれ、横面に道光29年己酉と刻まれていた(現在摩耗し判読困難)。また中の宮の香炉の一基に道光29年9月吉日に神山仁屋と山川仁屋が「奉寄進」している。その香炉は小玉森の拝所にある「神山仁屋」とある香炉と同じ年代にちがいない。
びんの嶽の石香炉の一つに道光29年9月吉日に国頭王子正秀が寄進している(『国頭村史』)。
石香炉や大きな石灯籠は首里に住む按司クラスと関係がある。その典型的な石灯籠は今帰仁グスク内のもので、これまでの石燈籠の年号の古いのは今帰仁グスク内のものである(乾隆14年:1749)。
▲中の宮の前の国頭王子正秀の銘のあった石燈籠と祠内の11基の香炉
▲イビヌウタキの祠 ▲イビヌウタキの祠内の香炉
【国頭村比地の御嶽】(キンナ嶽)
幸地嶽とキンナ嶽は別々の御嶽である。『琉球国由来記』(1713年)で幸地嶽としてあるのは、一帯はウチバルと呼ばれている。ウチバルは河内(こうち)原の「こ」が脱落した呼び方で、カワチに幸地と漢字を充てたのであろう。幸地嶽は河内原にある御嶽ということになる。杜全体が幸地御嶽で祠はイビかイビヌメーとみることができる。
現在イビヌウタキと呼ばれている場所に祠があるが、そこはキンナ嶽で「中の宮」と呼ばれている所は、キンナ嶽のイビヌメーに相当すると考えていい。そしてキンナ嶽は「中の宮」と呼ばれているが、「中の宮」は『琉球国由来記』の神名中森ノ御イベからきたもので、中ノ嶽とも呼ばれている。キンナ嶽の神名(イビ)の名称が中森ノ御イベだとみている。
中の宮(イビヌメー)の中にある香炉と国頭王子(正秀)の石燈籠に、この御嶽の性格が読み取れそうである。比地村の御嶽(小玉杜)と性格を異にした御嶽である。ここで関心を持っているのは石燈籠の銘や香炉とイビヌメーヌ嶽付近から出土したという鏡や鉦皷などである(『沖縄の古代部落マキョの研究』所収325頁)。按司や王子クラスの御嶽と見てよさそうでる。特に按司や王子などの薩摩や唐旅に関わる航海安全に関わる御嶽とみることができそうである。
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▲キンナ嶽のイビ? ▲中の宮(キンナ嶽イビの前か)
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▲中の宮の中にある10基余の香炉 ▲国頭王子の銘のある燈籠
【キンナ嶽のイベ】(イビの前の嶽)
キンナ嶽(中の宮)前の比地川の対岸の山の中腹にある祠のことである。『沖縄古代部落マキョの研究』稲村賢敷著に次のようなことが報告されている。「そこの祠の東隅から銅製の器具数種を拾得された」という。山川乙正氏蔵とあるが、まだあるだろうか。イビの前の御嶽の祠に10余りの香炉が置かれている。
①銅鏡四
②鉦鼓一
③円鐘一
④馬具?二個
【国頭村比地の御嶽】【幸地嶽】(神名(イビ名?):アカシニヤノ御イベ)
比地川の左岸にある拝所である。
【国頭村比地村の御嶽】(小玉森)
国頭村比地の小玉森(ウタキ)は興味深くみてきた。アサギムイともいい、『琉球国由来記』の小玉森は「クダの杜(ウタキ)」のことではないか。クダはマクやマキヨ同様、小規模の集落のこと。マは間で広場や空間のこと。するとクダマ(小玉)杜はクダの広場の杜、つまりウタキのことだと解することができる。まさに集落の発生と関わるウタキである。
これまで調査したウンジャミや神アサギもあるが、ウンジャミのとき、それぞれの一門が赤木や福木の大木の下に香炉を置き、一族がその前に集まり線香をたてる。その風景は比地村は複数の集団からなる村ではないか。マク・マキヨクラスの集団が一つの村を形成し、神人はそれぞれの一族から出してきた姿ではないか。
神アサギの中に座っている神人達は、一門からだされた供え物がお土産として持ち帰る。それは神人達の報酬である。その姿は、かつての神人たちの報酬の受け取りの場面であったにちがいない。一族一門が繁盛すれば、報酬が多くなる計算である。祈りのときの唱えに「村(ムラ)の繁盛」があるのは神人の報酬につながっていた。
森全体がウタキでウタキの中に一門一族のイビがあり、神アサギもある。周りに旧家とみられる神屋が何軒かある。ウタキの中に家々があり、斜面にもシマンポーヤー・根神屋跡がある。比地の集落ははウタキの内部から斜面にかけてあったのが、次第に麓に移動していったとみられる。集落とウタキが密接に結びついていたことがわかる。集落の発生と村の成立で、神人は一門から出していく形で継承されてきている。
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▲国頭村比地の小玉森(ウタキ) ▲ウタキ内にある神アサギ(平成15年)
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▲それぞれのイビに一門が集まる ▲福木や赤木の大木の下に香炉が数カ所にある
国頭村比地に小玉森がある。『琉球国由来記』(1713年)に比地村に幸地嶽と小玉森とキンナ嶽のウタキがある。その中の小玉森について興味を持っている。というのは、小玉森に各地の集落が山手から麓に移動していくが、移動前の集落形態を残しているのではないか。そう考えている。明治13年の比地村の世帯数は世帯数74戸、人口333人(男164人、女169人)である。74世帯すべてが小玉森の内部や斜面にあったとは見ていないが、集落の中心部は小玉森内にあったことがわかる。この森全体がウタキだとみている。二つは・・・嶽とするが、小玉森は嶽ではなくわざわざ森としていることは、何か理由があるにちがいない。小玉は後方に少し高い森があるので、その名称にしたのであろう。
比地村は奥間ノロ管轄の祭祀である。奥間ノロ家は奥間にあるが、下の図の小玉森の頂上部の平場に巫家と記されている。奥間ノロを比地村から出していたこともあったのであろうか。『沖縄の古代部落マキョの研究』(稲村賢敷著:320~337頁))に「小玉森神名アマオレノ御イベ 国頭間切、比地村(由来記)」として貴重な詳細な報告がなされている。
小玉森の頂上部は平坦になっていて、そこには神アサギやノロ家の跡の拝所、カミヤー(位牌があるので旧家跡)などがある。神アサギの前の庭(ナー)で海神祭(ウンガミ)を行う。海神祭のとき、数本の大木の下に香炉が置かれていて、それぞれの一門の人々が集まる。それは比地の各一門のようである。つまり、かつての復数の一門(血族集団)があり、それが行政村(ムラ)にされる以前の姿ではなかったか。小玉森全体がウタキで、大木の下に置かれた香炉のところはイベ(イビ)と位置付けている。複数の集団があった時代があり、それをくくり行政村(ムラ)にしたのが近世の村(ムラ)の形だと考えている。行政村にしたとき、神人をそれぞれの一門から出し、それが一門世襲として継承されてきている。根神を出す一門、内神を出す一門などと。
頂上部にいく途中に、島ンボー、チハヌヤー、根神ヤー、ハンダヤー、下道ヤーなどがあり、家々が森(ウタキ)の斜面にあり、そこに集落を形成している。山原の各地にそのような集落形態を持つムラをいくつも見ることができる。そのような集落形態が古琉球の時代の一般的な姿だったのではなかったか。小玉森に窪道(空堀)が80m近くあるのは珍しい。グスクに空堀が見られるが。

▲小玉森ノ鳥瞰図(『沖縄の古代部落マキョの研究』より

▲小玉森の頂上部にある拝所 ▲拝所の内部(香炉に神山仁屋とある)

▲窪道(空堀) ▲ゐ ひち原の原石 ▲頂上部にある大木の一本

▲手前の小高い森が「小玉森」 ▲頂上部にある比地の神アサギ