山原の神アサギ  2016年8月31日(水)                         (仲原)

 トップ(もくじ)

 ・山原の神アサギ
 ・旧名護間切域の神アサギ

 2004.11.24(水)に神アサギについて以下のように報告している。これまでの調査を踏まえ書き改めるが、「ムラ・シマ」を歴史的に見ていく上で歴史的変遷で祭祀は変化しにくい部分をになっている。特に『琉球国由来記』(1713年)から300年余ムラ・シマの中で継続されていること。そのことと、分布する領域を神アサギ文化圏と位置付けている所以である。

1.はじめに
2.神アサギの形態と分布
3.『琉球国由来記』(1713年)に見る神アサギ(アシアゲ)
4.祭祀と神人の位置付け
5.祭祀から見たムラ・シマ
6.おわりに

1.はじめに

 ここ何年か「山原のムラ・シマ」を歴史や祭祀、あるいは神アサギや御嶽や集落の呼称など様々なキーワードでみてきた。今回は神アサギと祭祀を中心にムラ・シマを見ていく。沖縄の歴史や文化を大きく三つの柱と見ることができる。一つは沖縄(琉球)の人たちが本質的に持っているもの。二つ目にグスクから発掘される大量の中国製の陶磁器類から中国のもの。そして三つ目は言葉や鉄など日本からのもの。神人、神人が関わる祭祀、そして御嶽は琉球の人たちが持っている本質的なものを知る手がかりになるものではないか。神アサギや祭祀を通してみていくことにする。

2.神アサギの形態と分布

イ.神アサギの形態
 神アサギは地域によってアシャギやハサギと呼んでいる。その呼称から「屋根に足をつけてあげる」ことに由来するとか、「神にご馳走(アシ)をあげる場所」だからという。久志の汀間や大浦や瀬嵩などの神アサギはかつて海浜や潮がくる場所にあったことから「足上げ」だと解しているようである。呼称が必ずしも機能を言い当ててない場合がある。

 神アサギが果たしている役目から見ると、まず祭祀空間であること。そのことは間違いなさそうである。たとえば、山原のグスクやウタキ内にある神アサギは祭祀空間としての施設である。集落内のアサギマーにある神アサギは、祭祀空間と穀物の集積場所である。久志の汀間などの例は、貢租の穀物などの運搬に便利な水辺の場所に設置したと見た方がよさそうである。

 神アサギが祭祀空間として見られるのは、例えば国頭村安波や根謝名グスクや親川クスク、名護グスク、そして大正時代まであった今帰仁グスクの中の神アサギ。グスク内の神アサギを貢租の集積する場所とするには大変な労力を必要とする。そういう神アサギは祭祀空間の場、集落の中心部や川辺や海岸に近い神アサギは祭祀空間でもあるが、穀物の集積場所としての利用もあったのでではなか。そのため「集積場所」と言われているのかもしれない。

ロ.神アサギの分布(分布図略)
 まず、『琉球国由来記』(1713年)から神アシアゲ(アサギ)の分布をみる。山原地域に神アサギ、中南部には殿(トゥン)が分布するのは何故か。そして恩納間切では神アサギと殿が共存している。恩納間切の谷茶村まで金武間切のうち、富着村以南は読谷山間切のうち。富着・山田・真栄田・塩屋に神アサギがある、あるいはかつてあったことが知れる。恩納間切の南側の村も北山の影響を受けている可能性が強い。

3.『琉球国由来記』(1713年)に見る神アサギ(アシアゲ)

 1713年頃の山原の村と神アサギを整理したみた。中には神アサギを持っていない村がある。そこは村の歴史を辿ることで見えてくる。その中の大宜味間切の11村の内神アサギがあるのは5となっているが、神アサギがなかったのではなく脱漏であることがわかる。

・恩納間切(8村中7) 
   ①恩納村 ②真栄田村 ③読谷山村(山田) ④富着村 ⑤瀬良垣村
   ⑥安富祖村 ⑦名嘉真村 ⑧前兼久村

・金武間切(6村のうち6)
   ①金武村 ②漢那村 ③惣慶村 ④宜野座村 ⑤伊芸村 ⑥屋嘉村

・久志間切(11村のうち10)
   ①久志村 ②辺野古村 ③古知屋村 ④瀬嵩村 ⑤汀間村 ⑥嘉陽村
   ⑦天仁屋村 ⑧有銘村 ⑨慶佐次村 ⑩大浦村 ⑪安部村 

・名護間切(11村のうち11)
   ①名護村 ②喜瀬村 ③幸喜村 ④許田村 ⑤数久田村 ⑥世冨慶村
   ⑦宮里村 ⑧屋部村 ⑨宇茂佐村 ⑩安和村 ⑪山入端村 

・本部間切(15村のうち13)
   ①伊野波村 ②具志川村 ③渡久地村 ④伊豆味村 ⑤天底村
   ⑥嘉津宇村 ⑦具志堅村 ⑧備瀬村 ⑨浦崎村 ⑩謝花村
   ⑪辺名地村 ⑫石嘉波  ⑬瀬底村 ⑭崎本部村 ⑮健堅村

・今帰仁間切(18村のうち20)(1はグスク内)
  ①今帰仁村 ②親泊村 ③志慶真村 ④兼次村 ⑤諸喜田村 
  ⑥与那嶺村 ⑦崎山村 ⑧中城村 ⑨平敷(識)村 ⑩謝名村 
  ⑪中(仲)宗根村 ⑫玉城村 ⑬岸本村 ⑭寒水村 ⑮勢理客村 
  ⑯上運天村 ⑰運天村 ⑱郡村

羽地間切(18村のうち18)
  ①瀬洲村 ②源河村 ③真喜屋村 ④中(仲)尾次村 ⑤川上村 
  ⑥中(仲)尾村 ⑦田井等村 ⑧伊指(佐)川村 ⑨我部祖河村 
  ⑩古我知村 ⑪振慶名村 ⑫呉我村 ⑬我部村 ⑭屋我村 
  ⑮饒辺名村 ⑯済井出村 ⑰谷田村 ⑱松田村

・大宜味間切(11村のうち5)
  ①城村 ②根謝銘村 ③喜如嘉村 ④大宜味村 ⑤田湊(港)村 
  ⑥塩屋村 ⑦津波村 ⑧平南村 ⑨平良村 ⑩屋古前田村 ⑪川田村

・国頭間切(16村のうち15)
  ①比地村 ②奥間村 ③浜村 ④親田村 ⑤屋嘉比村 ⑥見里村 
  ⑦辺土名村 ⑧与那村 ⑨辺戸村 ⑩安波村 ⑪安田村 ⑫宇良村 
  ⑬伊地村 ⑭謝敷村 ⑮佐手村 ⑯辺野喜村

国頭間切・大宜味間切・羽地間切・今帰仁間切・本部間切・名護間切・久志間切・金武間切・恩納間切の村数106あり、神アサギは106村のうち98村にある。ただし、一つの村に二つの神アサギがある場合もある。羽地間切真喜屋、今帰仁間切今帰仁村はグスク内の神アサギがある。

『琉球国由来記』(1713年)における山原の神アサギ98、現在の神アサギ数は118近くある(ただし、戦前や明治17年頃にあった神アサギ含む)。現在の神アサギ数を確認してみる。

今帰仁村……………………………20(湧川の奥間アサギ1含まず)
  本部町………………………………15
  旧名護町(現在名護市)……………11
  旧久志村……………………………9(間部1含む)
  東 村……………………………… 5(宮城1含む)
  旧羽地村……………………………18(統合した4含む)
  大宜味村……………………………10(統合した3含む)
  国頭村………………………………16(楚洲1含まず)
  恩納村………………………………7(真栄田と山田2含む)
  金武町………………………………3(屋嘉・伊芸・金武以前の含む)
  宜野座村……………………………4                                                      
               (現在の神アサギ合計118)

4.祭祀と神人の位置付け

 祭祀を首里王府との関係で租税を納める、租税をとる関係で捕らえることができないか。つまり、祭祀は祭祀に名付けた休息日と。神人は公務員と位置づけて祭祀をみる視点が必要ではないか。

 神人の祈りを聞いていると、五穀豊穣・村の繁盛、そして航海安全である。それを神人の基本的な三つの祈りというようになっている。その三つの祈りは神人のプライベートの祈りではなく、ムラ全体、ムラの人々の祈願でもある。もちろん神人が家庭に戻ると位牌や火神に手を合わせて祈りをする。それはプライベートや一門の祈りである。御嶽や祭祀場における神人の祈りは、公の祈りである。その勤めをする神人を公務員位置づけている。
 神職を務めている間ノロさんはノロ地、他の神役の神人達も畑などの土地の配分を受けていたであろう。掟は掟地と呼ばれる土地がある。掟の役職を務めている間、その土地を授かっていたのであろう。

5.祭祀から見たムラ・シマ

 『琉球国由来記』(1713年)の祭祀のところで、気になったのは百姓やおえか人(間切役人)は地方にいるので、関わる村の祭祀に参加する。もちろんノロや神人は参加する。その中で首里に居住しているはずの按司地頭や惣地頭や地頭(脇地頭)の祭祀への参加がある。

 脇地頭はかかえ村への参加となろう。按司地頭と惣地頭はどこの村に出席するのか。例えば、恩納間切では城内(恩納村)の殿と神アシアゲでの祭祀に両惣地頭が参加している。金武間切では金武ノロ火神(金武村)と金武神アシアゲでの祭祀に両惣地頭が参加。

 名護間切では名護ノロ火神と名護城神アシアゲに惣地頭、本部間切は伊野波村のカナヒヤ森の祭祀に惣地頭が参加する。今帰仁間切の場合は今帰仁グスク内の里主所や城内の神アシアゲに按司、惣地頭が関わる。『琉球国由来記』では今帰仁ノロや百姓やオエカ人、今帰仁ノロとトモノカネノロの参加もある。

 羽地間切は中尾神アシアゲや池城神アシアゲに惣地頭が参加。久志間切は久志村の神アシアゲ、大宜味間切では城ノロ火神に按司と惣地頭が参加する。さらに喜如嘉村の神アシアゲや田港ノロ火神やウンガミにも参加。国頭間切では奥間村神アシアゲに両惣地頭が参加している。

 惣地頭や按司地頭クラスは間切の主村の祭祀と関わるのは興味深い。惣地頭や按司地頭は間切から作得を得ていたので祭祀に参加、あるいはかかわりを持っていたのであろう。

  ・村(ムラ)の祭祀を首里王府との関係でみる。
  ・祭祀を司るノロをはじめ神人は公務員である。
  ・神人の祈りは五穀豊穣・ムラの繁盛・航海安全(豊漁)が主である。
  ・祭祀は「神遊び」といわれるように村人の休息日である。
  ・神人の祈りは国の貢租に関わるものである。


6.おわりに

 神アサギの分布は沖縄の歴史の三山の時代の北山の範囲と重なる。「北山文化圏」のキーワードになったのが神アサギの分布であった。中南部には以下の12の神アサギがある。山原の神アサギと数少ない中南部の神アサギとの関係をどう説明するのか。二つの仮説を立てている。・・・

   ①越来間切の大工廻神アシアゲ(大工廻村)
   ②兼城間切神アシアゲ(波平村)
   ③高嶺間切神アシアゲノ殿(真栄里村)
   ④真壁間切神アシアゲ(名嘉真村)
   ⑤真壁間切神アシアゲ(新垣村)
   ⑥真壁間切神アシアゲ(真栄平村)
   ⑦真壁間切真栄平アシアゲ(真栄平村)
   ⑧喜屋武間切神アシアゲ(上里村)
   ⑨南風原間切神アシアゲ之殿(照屋村)
   ⑩知念間切神アシアゲ(安坐真村)
   ⑪玉城間切神アシアゲ(奥武村)
   ⑫西原間切翁長神アシアゲ(翁長村) 

 恩納間切の富着以南は読谷山間切、中山の間切の村である。その村に神アサギがあるのは? 何か示唆しているようである。上の12の神アサギ同様。二つの仮説も一つに絞れるかも。もう少し資料を踏まえて考えてみることに。



2016年8月29日(月

 昨日の午後、積み残してあった名護間切域(名護市の一部、旧名護町)の神アサギ(ムラ)を踏査する。汗をかくと
ウルシでかぶれた顔中が真っ赤になる。それでも楽しい発見がある。『琉球国由来記』(1713年)に出てくる村の神アシャゲ(以下神アサギと記す)は以下の通りである。踏査した順。『琉球国由来記』(1713年)に記されて神アシアゲ(アサギ)の総てが残っている。以前紹介したことがあるが、名護城(ナングスク)にはウタキ(後にグスク?)を構成する要素を確認することができる。ウタキ(グスク)内にウタキのイベ、カー、旧家跡、ノロドゥンチ、スイドゥンチ、根神屋などがある。

 名護城神アサギの海神祭のとき、名護巫・屋部巫・喜瀬巫が名護城内の神アサギに揃っての祭祀である。羽地間切の池城神アサギ(羽地城内の神アサギである)での祭祀(海神祭)も名護城内の神アサギと同様、羽地間切の仲尾巫・真喜屋巫・屋我巫・我部巫・我部巫・伊差川巫・源河巫・トモノカネノロが揃っての祭祀である。ところが、1666年に今帰仁間切と伊野波(本部)間切に分割、1673年に国頭間切が国頭間切と田港(大宜味)間切に分割したところでは間切の全ノロが集まっての海神祭(ウンジャミ・ウンガミ)・大折目(ウプユミ)がない。
 
①宮里村の神アサギ)
②宇茂佐村の神アサギ
③屋部村の神アサギ
④山入端村の神アサギ(1736年の移動村)
⑤安和村の神アサギ
⑥世冨慶村の神アサギ
⑦数久田村の神アサギ
⑧許田村の神アサギ
⑨幸喜村の神アサギ
⑩喜瀬村の神アサギ
⑪名護城の神アサギ

【名護村と三つの村】(東江・城・大兼久)


  ▲名護が「那五」と記した『海東諸国紀』(1472年)       ▲名護市の全域(『名護市史』より)

 
▲名護村(ムラ)が東江・城・大兼久の三か村が創設される ▲大正末頃の名護三ヶ(『共産村落之研究』


『絵図郷村帳』(1646年)の「名護間切名護村、かねく村(当時無之) 城村(当時無之)」とあるが、「当時無之」をどう解するかで、村の成り立ちの実態が大分違ってくる。それと「間切村名尽」が『琉球資料三〇と三二』にある(『那覇市史』(琉球資料上所収)。資料三〇には出てこないが、三二に「東江村・大兼久村・城むら」と出てくる。前者に今帰仁間切湧川村(1738年創設)は出てこないが、後者には出てくる。すると「名護間切の東江村と大兼久村と城村」が行政村になったのは、その頃とみてよさそうである。行政村にはなったのであるが、神アサギの創設や祭祀の分離は行われていない。そこでも祭祀は強固であるとの法則が見出される。

 『琉球国由来記』(1713年)の名護間切に、以下の三ヶ所が出てくる。
   テンツギノ嶽       名護村
   名護巫火神      名護村
   名護城神アシアゲ  名護村】

 『絵図郷村帳』に「城村」と「かねく村」は「当時無之」として登場する。その後の『琉球国高究帳』には「名護村」のみ出てくる。「当時無之」は『絵図郷村帳』の時には「城村」と「かねく村」は、行政村としてなかったと解すべきか。『絵図郷村帳』はそれらの村が存在した頃に編集されたと見るべきか。「当時無之」をどう解するかで、行政の名護村の変遷に大きく影響してくる。

 「御当国御高並諸上納里積記」(1743年頃か)には、名護間切の村は世富慶村・名護村・喜瀬村・幸喜村・許田村・安和村・宇茂佐村・屋部村・山入端村・宮里村・数久田村の11ヶ村である。前回のムラ・シマ講座で行った羽地間切の田井等村は登場するが親川村はまだ出てこない。分村する前の資料である。

 『沖縄県統計慨表』(明治13年)を見ると、名護間切の村は13ヶ村が登場する。新しく出てきた村は城村と東江村と大兼久村の三ヶ村である。そこで名護村が消えている。流れから見ると名護村が東江・城・大兼久の三つの集落となり、それが行政村になったと見られる。

 明治13年当時の東江村は147世帯(人口697人)、城村は80世帯(人口497人)、大兼久村は201世帯(1016人)である。他の地域の村規模と比較すると名護村は大規模な村であったことがわかる。分村した大兼久村と東江村も大規模な村である。

 名護グスクの麓に展開していた名護村が三つの村に分かれるが、行政村として独立した村の祭祀はどうなっていったであろうか。

 「沖縄島諸祭神祝女類別表」(明治17年)を見ると、名護間切は城村しか出てこない。名護城嶽と神アシアゲとのみ登場。東江村と大兼久村に神アサギを造らなかったのはなぜか。羽地間切の田井等村から親川村が分かれたが、祭祀は一緒に行っているのと同様なものか。そのあたり、名護村から分れた城・東江・大兼久の集落が行政村となり、再び名護村に統合されていく過程を丁寧にみていくことにする。行政村になっていく過程で祭祀や土地制度や低地の仕明など、複雑に絡んでいるようである。



 
▲「名護町先住地及び移住地図」(大正の頃)
         『琉球共産村落之研究』(田村浩著)所収


【名護村の行政村としての変遷】

  
 ▲名護グスク(ウタキ)周辺の集落が発達して移動(16世紀頃からか) ▲1738年頃~明治36年(行政村として成立)


   
▲明治36年に三つの村が統合して再び名護村


【名護グスク(ウタキ)を中心とした祭祀】

 名護間切には「名護のろくもい」と「屋部のろくもい」と「喜瀬のろくもい」の三名。ノロが保有していたノロ地は一町歩内外。(一町は3000坪、一畝は300坪)(一石は約150kg)

  ・名護のろくもい(東江・城・大兼久・数久田・世富慶・宮里)
     作得 米二石四斗三升一合四勺

  ・喜瀬のろくもい(喜瀬・幸喜・許田)
     作得 米一石六斗八升八合

  ・屋部のろくもい(宇茂佐・屋部・山入端・安和)
     作得 米二石四斗一合五勺二才
        雑穀   七升四合二勺五才 

【名護グスク内の拝所など】

  
 
 ▲名護グスクの遠景                ▲名護グスク内への道          ▲グスク内にあるの神アサギ

   
    
      ▲名護グスクグスク(ウタキ)のイベ             ▲名護神社の神殿の側のカー 

【名護グスク周辺の拝所】

 
           
▲ノロの火神を神殿と拝殿にしたという(昭和4年)             ▲名護ヌルドゥンチ跡

 
     
 ▲イジグチ                  ▲名幸祠一門の拝所         ▲プスミヤー跡                       
 
 
    
▲ニガミヤーの跡地                 ▲ウッチガミヤー跡

名護間切(現名護市)の神アサギ(現在2016.8.21))

  
     ①宮里の神アサギ          ②宇茂佐の神アサギ      ③屋部の神アサギ    
    、


  
  ④山入端の神アサギ             ⑤安和の神アサギ            ⑥世冨慶の神アサギ

  
      ⑦数久田の神アサギ             ⑨幸喜の神アサギ           ⑩喜瀬の神アサギ



   ⑪名護城内の神アサギ