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【資料目録1へ】【仲宗根政善先生企画展】
【066】平良松四郎氏の履歴書・教員免許賞等(コピー)(仲)
平良松四郎氏は国頭郡大宜味村大宜味出身(明治36年5月2日生)
現住所:大阪市東成区(昭和14年)
内 容:
・平良松太郎履歴書(コピー)(2枚)
・教員免許状(沖縄県 文部省)(昭和六年四月弐廿五日)
・教員免許状(大阪府・昭和14年1月13日)
・沖縄県立第一高等女学校教諭兼沖縄県女子師範学校教諭ニ任ス 五級俸當辞令
(昭和十六年四月十六年四月十二日)
・沖縄県女子師範学校教諭ニ兼任ス(昭和十七年九月七日) 沖縄県
・沖縄縣立第一高等女学校舎監兼沖縄県女子師範学校舎監兼任(沖縄縣)
(昭和十七年二月二十八日)
・教職員恩給需給者カード(平良松四郎)



【067】『タイトルなし』(仲)
原稿用紙 20×20 16枚 (直筆原稿)
内 容:
書きだし「過去において、正しいことをしたとか、あるいはたのしい経験をした(扱ったとかいう)者にとっては、過去を語ることはたのしいことであろう。
私は決して暖かい眼を持った教師でもなかったし、ごく平々凡々な教師であったと、今でも平凡な人間であります。正しいことをしたという自信もなく、戦争ではひどいめにあわされ、戦後は米軍の圧政のもとで喘ぎ喘ぎもがき苦しんで来た者であり、われわれの過去は苦渋にみちていました。過去を語ることはむしろ苦痛であります。
・戦後の教育(教科書)のこと
・生き証人として
・牛島満司令官の自決(6月23日のこと)
・沖縄戦最後の日、私達十三名は沖縄最南端の喜屋武断崖の上で捕虜
・捕虜となり豊見城村田頭へ(生徒と引き離され)、更に伊良波へ連行
・那覇は十・十空襲で灰塵に帰し
・沖縄戦がかくの如き惨状
・沖縄戦の惨状を見ていたら、平和憲法はおしつけだ、それを廃して軍備を充実しようという論は
でなかったであろう。
・那覇の残骸から、別の国をいくような広い道路
・美しかった普天間街道の並松はもうなく、へし折られた老松
・野嵩へ。静かな部落も、どの家も捕虜で超満員(テントに収容:山城篤男先生と一緒となる))
・安里延君のこと(終戦直前の教学課長:戦後文教部の視学課長)
・琉球大学の元学長与那嶺松助君、水谷裁判長、前コザ市長大山朝常、前立法院議長長嶺
秋男氏などに触れている。
・水谷裁判裁判長については詳細に触れている。
「沖縄の戦禍によって破壊された建造物は、これから国家が補償すべきである。たとえば
首里城正殿とか尚家とか例にとって話しておられたが、法律の知識のない私には、そんな
ことが出来るだろうかと聞き流したことがありました。
・再び野嵩からトラックで宜野座村古知屋(現在の松田)の収容所(収容所の様子)
・戦争中のわれわれの最大の願いは、山原の谷川の清水にあびて腹いっぱい飲んで死にたいと
いうことでした。死なずに谷川の清水にあび、足もとのえびを見つめ、青空を仰ぎ、生きている
ことを肌をさすりながら感じたのであります。
・今帰仁においた両親が大浦崎(ナガサキと言っていた)に生きているらしいとのうわさが伝わる。
・収容所から密行して長女と親にあうことができた。
・私は再び教壇にたつまいと。(多くの教師たちが教壇から去る)
・石川という二世が国頭村奥間に行くというのでしがみつくようにジープに乗る。
・恩納村近くになって大きな塵捨て場があり、軍のトラックが塵をこぼすと、そこに無数の子供たちが
きたない袋をさげて群がっていました。小さい乞食の集団である。それがわれわれが教えていた
国民学校の学童たちであった。
・あの時ほど戦争のみじめさを身にしみて感じたことはなく、そこではじめて教科書を作ってやらな
ければという気になりました。
などのことが16枚の原稿用紙に書き綴ってあります(全文紹介したいですね)

▲1枚目部分

▲12枚目部分
【068】『ひめゆりの乙女たち』展を見て(仲)
「あれから35年「ひめゆりの乙女たち」展―鉄の暴風・沖縄戦の全容」は朝日新聞社と沖縄タイムス社共催で、1980年7月16日から東京、名古屋、大阪など全国八都市で開催されています。各会場に寄せられたアンケートを収録したのが「ひめゆりの乙女たち」展(本土の声440枚収録)、一万枚のアンケートのなかから、まとめたもの(朝日新聞社発行)です。
この展示会のアンケートから30年余が過ぎ、目を通しながら当時50歳代の方々は80歳代、戦争の体験の風化が叫ばれている昨今、緊張が続いている東アジアの国々。事あるごとに、戦前の昭和と平成の時代は重なってしかたがないと。行きついたのはいずれも戦争・・・・・・。
[アンケートの一部](ここにかかげたのは仲宗根先生がラインを引いた感想の一部です)
「ひめゆり学徒」と同年齢期の女子学生の感想と意見、「ひめゆり学徒」と同年代の女教師の感想と意見として開催されています。それらのアンケートに目を通された仲宗根政善先生はアンダーラインや〇印をされています。一部紹介します。
・この展示会を見て、私と同じ位、あるいはもっと若い少女たちが戦争というものを真剣に考え
戦い自決していった姿を知り大へん感銘をうけた。もっともっと戦争について考えねばいけな
いと思った。
・私の母も沖縄戦を体験した一人です。私に今でも沖縄の話や戦争の話をしたがらないわけが、この
展覧会をみてわかったような気がしました。母があの戦火の中、生きのびてくれた事が私にとって
すべてのものすくいです。
・人間の永遠の課題が私の前につきつけられたような感じ、目が開かれた思いがする。
・私の弟も沖縄師範卒業の年に戦死しました。妻の女(神谷ノブ子)もひめゆり部隊で戦死した。
誰の為に、何故死なねばならなかったのか、目に見えない国家権力というものに、それおそろしくなる。
「ひめゆり8首」に、仲宗根政善先生は、次の歌をよせられています。
いはまくら かたくもあらん やすらかに
ねむれとぞいのる まなびのともは

【069】『嘉数台地では勝っていた』(オキナワグラフ) ファイリング10(仲)
・オキナワグラフ記事4月号掲載より(コピー)
・沖縄墓参 昭和59年4月23日 独立歩兵第二十三大隊 石四二八部隊(加藤・日比野 編修)
・野戦の兵隊(絵図)
・戦闘戦史
・別紙 其の一 嘉数附近ノ経過要図(4月12日 4月21日)
・嘉数附近ノ戦斗(昭和20年4月9日夜間戦斗配置)(4月10日~24日)
・別紙 其の二 阿波茶 仲間戦斗経過図(4月22日 5月10日)
・其ノ三 沢岻附近ノ戦斗(5月11日 5月14日)
・其ノ四 那覇市附近ノ戦斗(5g津16日 5月29日)
・阿波茶ノ戦斗 (昭和20年4月25日ヨリ5月16日迄)
・其ノ五 八重岳ノ戦斗

・同ファイルに20世紀の軌跡の新聞切り抜き(沖縄戦体験 369~382、同記事コピーがはいている)
【070】『統計』(1965年8月12日~ノート)(仲)
・ノートブック(表紙に「統計」(1965年8月12日→とある)
・竹富町で寄贈うけた竹富町勢要覧(1965年:21頁)が綴られている。
内 容:
【1965年8月12日~8月30日】(仲宗根政善ノート)として一部紹介したノートである。
1965年8月12日/13日/14日/15日/16日/17日~27日
・主に波照間島での調査日誌である。言語調査が主だったようであるが、地元の方々からの聞き取り、
あいさつなど。竹富島では海勢頭亨氏から島のことを伺っている。
・アヴェハンドさんと談笑。
・島の様子を生き生きと描写されている。
・みなみの波照間島を嵐去り 白波高く日はかげり行く(前に来島した時の歌)
・乱れ飛ぶ雲間に西日のしらじらと クバの葉さやぎ吹かむとす(鳩間島で)
・同市の動詞の活用、形容詞、屋号と助詞(は:ja)の結合音を聞く。動詞の活用の調査など。、
・アールピンガス(上る東考」をハワイタイムスに寄稿したいと。
