2008年8月
沖縄の地域調査研究(目次ヘ)
・学芸員(博物館)実習 ・今帰仁村湧川のウプユミ(ワラビミチ) ・具志堅のシニーグ
・山原の御嶽(ウタキ) ・運天と上運天のタキヌウガン ・恩納ノロと辞令書
・恩納間切の創設は1673年 ・奄美加計呂麻島の神アサギ ・瀬底のグスク(ウタキ)
・与論島ゆき】(2008年7月26~27日)
2008年8月30日(土)
学芸員(博物館)実習の前半が終わる。広島組の最終日。展示作業の一部に取りかかる。今回の展示は文書が中心となるので、相当な工夫が必要。それと100年間の資料なのでどうしても展示スペースが足りない。そのことは、オイオイ考えることにして、さしあたり展示の一部でも。お疲れ様でした。
2008年8月29日(金)
実習生達は、私の手を離れて他の館での学習。さわりの部分の展示にかかる。100年の資料展になりそう。学生たちを他の館にあずけ、午後から息抜き。
(学芸員(博物館)実習のページ参照)
2008年8月28日(木)
学生たちはシーカヤック。大井川の河口(炬港付近)で。そこは炬港の呼び方が示すように歴史的な出来事があった場所でもある。かつては伝馬船やサバニが満潮に合わせてピサチやフルマチあたりまで遡っていった。水面すれすれに腰をおろし、そこから陸地を望む視点から、様々なことが考えさせられる。そこから言わんとする何かに気づいてくれるかどうか。特に学芸員として。
今帰仁村今泊では本日(旧暦7月盆明けの子の日)はシマウイミ(三日目)が行われた。旧盆明けの戌の日、亥の日、子の日に行われる祭祀を大折目(海神祭)と呼ばれている。三日目のシマウイミは簡略化されたのであろうか、集落内の二つの神ハサギでのウガンですましている。
『琉球国由来記』(1713年)では7月の祭祀を「大折目」で「海神祭」と呼んでいたようである。今泊で行われる旧7月の祭祀は大折目であり、また海神祭でもある。三日間に行われる祭祀は大折目、あるいは海神祭である。1998年に調査したとき、白衣装を着た神人は4人ほどいたが、今では今帰仁ノロ一人である。
夕方から古宇利島の豊年祭へ。豊年祭は年中祭祀と切り離せないものと位置づけている。古宇利島ではウンジャミグヮー、ウンジャミ、豊年祭と三日間連続して行われる。神人が演目の最初から最後まで見守る姿は祭祀の、豊年祭の本来の姿を写し出しているとみている。そのために、豊年祭の役割を祭祀との関わりでもっと明確に位置付けるべきだと考えている。
(学芸員(博物館)実習のページ参照)
2008年8月27日(水)
今帰仁村湧川のウプユミ(ワラビミチ)の祭祀をみる。「湧川の」というより「湧川及び勢理客ノロ管轄村のウフユミ・ワラビミチ」と呼んだ方がよさそうである。1時頃湧川へ。旧盆あけの亥の日に行われる「ウフユミ・ワラビミチ」に参加する。勢理客ノロは勢理客での祭祀を済ませた後、湧川のヒチャヌアサギ(奥間アサギ)にゆき、我部からの来訪者と一緒にウガンを行う。その前に湧川のシンザトヤーと関わる神人が新里ヤーでの弓を射る所作をしウガンを済ませた後、奥間アサギでウガンを行っている(詳細についての報告は別に)。勢理客ノロ管轄の字(アザ)は勢理客・上運天・運天である。湧川の奥間アサギと関わるのは別の理由がある。
神人が継承されず消える運命にある中で、勢理客ノロが誕生していることに驚いている。嬉しいことである。
【今帰仁村湧川】
①新里ヤー ②奥間神アサギ ③湧川ノルドゥンチ(他の神人と合流) ④ムラー
⑤ウイヌアサギ(湧川の神アサギ)でのウガンが終わると、勢理客ノロと我部から来た方々を
ウイヌアサギに歓待する。ウイヌアサギに向かう前に5回鼓を打つ(湧川の小学生2名、
上運天の中学生2名)。ウイヌアサギでの湧川と勢理客ノロと我部の方々とのウガンが終わると、
鼓を5回打ちならし、そこでのウガンは終わりをつげる。勢理客に向かう前に奥間アサギで5回鼓を
打って勢理客へ向かう(車で移動)。
【今帰仁村勢理客】
⑥勢理客の神アサギ内
勢理客の神アサギ内に鼓を打つ4名と湧川と運天の区長、そして勢理客ノロが招かれる。そこで玄米
(お神酒)をいただく。カーサーモチと飲み物をお土産にいただく。神アサギに招かる前に鼓を5回打ち、
神アサギでのウガンが終わると再び鼓を5回打ち上運天に向かう(車で移動)。(玄米ジュース)
【今帰仁村上運天】
⑦上運天のアサギミャー
上運天のアサギミャーに村人が座っている。勢理客から勢理客ノロと鼓打ちが到着するを上運天の
方々が迎える。アサギミャーに入る前に鼓を打つ。鼓打ちは中央部に招かれる。勢理客ノロは上運天の
区長と一緒にウガンをする。海向かってと神アサギで。上運天を離れる時に、また鼓を5回打つ(車で
移動)。玄米ジュースが出される。
【今帰仁村運天】
⑧運天のアサギミャー
運天に到着すると、アサギミャーに行く前に鼓を打ち、運天の村人に到着を知らせる。アサギミャーに
到着すると、そこで5回鼓をうつ。招かれた、招くの形態をとっている。勢理客ノロと湧川と上運天からき
た鼓打ち、そして区長はそれぞれの区へ戻る。
▲奥間神アサギ(奥間殿内火神)でのウガン ▲新里一門のウガン
▲湧川ノロドゥンチでのウガン ▲ノロドゥンチでの供え物
▲奥間アサギでのウガン(勢理客ノロと我部の方々) ▲火神の前の供え物
▲ムラガーでの供え物 ▲ムラガーでのウガン
▲湧川の神アサギに神人が参集 ▲神アサギ内でのウガン
▲奥間アサギ前に待機する鼓打ち(4人) ▲湧川神アサギ前で鼓を打つ
▲湧川の神アサギに招かれる勢理客ノロと我部の方々(代表)
▲湧川の神アサギをでる時に鼓を打つ ▲奥間アサギを出るときの鼓打ち(勢理客へ)
▲勢理客の神アサギ内でのウガン ▲勢理客を出るときに鼓を打つ
▲上運天でのウガン(勢理客ノロも同行) ▲鼓打ちは招待されている。回りに村人
▲終わって次への鼓打ち(運天へ) ▲実習生達も参加
▲運天に到着の鼓打ち ▲運天の村人がノロと鼓打ちを迎える
2008年8月26日(火)
(学芸員(博物館)実習参照)
2008年8月25日(月)
学芸員実習初日からフィルールドワークである。今年の実習は調査の連続となりそう。旧暦7月25日(8月25日)本部町具志堅のウシデーク(シニーグの一部)をみることができた。具志堅のシニーグは旧暦7月19日のウーフジ、旧7月21日のフプユミィ(大折目:大弓)、旧7月23日のシルガミ(トントト、トン)、そして旧7月25日のソウニチ(正日:総日)と続く。ウシデークは最終日のソウニチに行われる女性のみの舞いである(詳細については学芸員実習の方で報告)。
▲ウタキ(グスク)のイビに向かってのウガン(泡盛の寄贈あり)(イビ)
▲ウタキのイビに向かってのウガン ▲真部のウガミに向かってのウガン(遥拝)
▲下の広場でのウシデーク ▲旗頭を先頭に道ジュネー
▲神ハサーギミャーでのウシデーク(行進) ▲円陣を作っての舞い(ウシデーク)
2008年8月24日(日)
なかなか、パソコンの前にするわる時間がない。「御嶽(ウタキ)とグスクをみる視点」の報告が一段落したと思ったら、来週は学芸員実習、ウンジャミやワラビミチやウシデークなどの祭祀が続く。どこの調査に入ろうかと思案中。しばらく、行っていない湧川のワラビミチ(フプユミ)にでも参加しようか。それとも古宇利島か。いずれにしても、今回は学芸員実習を兼ねての参加。学芸員実習生達は今日から今帰仁入り。
2008年8月21日(木)
これまで調査してきた山原の御嶽(ウタキ)の整理をしている。御嶽(ウタキ)について、これまでいくつも研究や調査報告がなされている。調査の過程で、御嶽は集落との関わりで見ていく必要があると考えるようになる。集落が発生すると、御嶽をつくる習性をもつ民ではないか。御嶽をつくる習性をもった民は御嶽をどのように造っていくのか、あるいは位置付けているのか。そのような視点で見ていことにする。ここでの集落は行政村(ムラ)の概念とは区別して考えている。集落は行政村の中で住居がいくらがまとまった地域をさすことにしている。
行政村の中に複数の集落があるのが普通である。その単位は、マキヨやマキ規模の単位である。御嶽と集落との関係で見ていくと10余りに分類することができる。まずは、そこをおさえたところで、ウタキの持っている要素を拾い上げていく。すると、御嶽と集落との関係でみていくと一言で片づけられるものではないことに気づいてもらえればと考えている。御嶽やグスクの語義論も必要だが、グスクと御嶽を構成している要素を数多く拾い上げていくことで、その性格が見えてくる。そして御嶽やグスクを一言で「何である」というもののとらえ方ではなく、それぞれ集落との関係で答えがいくつも出てくることをよしとしたい。
①集落の発祥地と御嶽(ウタキ)
②移動集落の村と御嶽
③村移動と御嶽
④複数村の御嶽
⑤新設村と御嶽
⑥複数の御嶽を持つ村
⑦クニレベルの御嶽
⑧御嶽のイベを持つグスク
⑨合併村と御嶽
⑩分村した村の御嶽
▲運天と上運天のタキヌウガン(ウタキの中に洞窟、その中にイビがある)(運天のウタキ)
▲女性のみが入る上運天のウタキのイビ、ウタキの中にアサギやお宮などの拝所がある。
2008年8月19日(火)
先日行った謝花のウタキ(ウガン)は、どの分類に入るのか検討してみた。謝花は移動集落であること。謝花は古島から現在地に移動。古島はさらに山手のウーグスク(大城)から古島へ移動、さらに現在地の謝花へ移動している。古島は現在独立した行政区になっているが、戦後(昭和22年)のことである。古島と呼ばれるように、かつて集落があったことから名付けられた地名である。同じ行政区からの移動なので村移動ではなく集落移動としてとらえることができる。このように集落移動した謝花は、移動先でどのようにウタキ(ウガン)をつくったのか。
【移動集落とウタキ(ウガン)】
・故地(ウフグスク:古島)向けてイビを作ってある。
・神アサギからウタキへ道筋(神道)がある。
・杜への入り口(イビヌメー)前からイベまで階段が通されている。
・途中にウーグスクに向けて遥拝する場所がある。
・頂上部のイビは故地に向けてあり、イビヌメーから直線になっていないので、
故地に意識的に向けていることがわかる。
・移動先でウタキを作った事例である。
・祭祀のとき、神人はウーグスクの麓にあるイビまで行ってウガンを行う。
・移動前のウタキ(グスク)はそのまま残し、神人によって祭祀が行われている。
・故地のウタキはウーグスクと呼ばれている(ウタキをグスクと呼ぶ例)。
▲移動先のウタキのイビへの階段 ▲ウタキの頂上部にあるイビの祠
▲祠の中に石が置かれている ▲神アサギの側からウタキへの神道がある
2008年8月17日(日)
「ウタキ・グスクを見る視点」をテーマとして報告する。そのこともあって本部町具志堅と謝花のウタキ(グスク)を訪れてみた。これまでウタキと集落や村との関係で10の類型を提示してきた(「山原の御嶽(ウタキ)と集落」(『なきじん研究』15号所収)。本部町具志堅は10の類型には当てはまらないことに気づく。もうひとつ「合併村の御嶽と集落」としてとりあげる必要がありそうだ。
本部町具志堅は具志堅と上間と間部の三つの行政村が昭和17年に合併している。それまでは三つの神ハサーギが独立してあった。祭祀は具志堅ノロが三つの村の祭祀を行っていたようである。三つの村の神ハサーギ(上間ハサギ・真部ハサギ・上ハサギ)は昭和16年に一つに統合されているが、ウタキはどうなのだろうか。上間村のウタキについてははっきりしないので今のところ触れないことにする。
具志堅のウタキはグスクと呼んでいる。ウタキをグスクと呼ぶ例である。またお宮ともいう。お宮と呼ぶのは昭和17年に拝殿と神殿を建立した後のことかと思われる。グスク(ウタキ)は具志堅村のウタキ(グスク)である。もう一つグスクとは別にウガーミ(ウタキ)という杜がある。フプガー(大川)の後方の杜で、そのウガーミ(ウタキ)は真部村のウタキである。村が合併してもウタキの合併はなされていない。拝殿の中にウガーミに向けての遥拝の香炉が置かれ、具志堅のウタキのイビ(神殿)に向ってのウガンが終わると真部のウガーミに向かってのウガンがなされる。合併村のウタキ(グスク)がどうなっているのか、その視点も必要になってくる。二つのウタキそのものの要件は、これまで見てきたウタキとそう変わるものではない。行政村が合併してもウタキまで一つにまとめることはしていない。
拝殿と呼ばれる祠に銘のある香炉があり、年号が彫られている。詳細については再度確認してまとめるが咸豊九年九月吉日の香炉に「本部按司内」が読み取れる。
▲具志堅のグスク(ウタキ)登り口 ▲ウタキのイビ(神殿)
▲拝殿内の「奉寄進」のある香炉(左から咸豊9年、明治14年、同治□年)
2008年8月14日(木)
恩納村誌編纂委員会に出席する。詳細は事務局に任せるとして、関わる部分(歴史)についての編集にかかわることに。今のところ、系統だてての資料収集やまとめは時間的に無理なので、手当たりしだい思いつき次第に進めることに。しばらく、その積み上げをしていく。大方の目次は事務局から出されているので、それを念頭に入れながら。資料の収集や整理がある程度進んだ段階で「細目」を再検討する。編纂委員会が終わると、まだ明るいので昨日紹介した恩納ノロ家を訪ねてみた。お盆(中日)なのでノロ家もウンケー(お迎え)をしている。
それと恩納の古島周辺と恩納グスク。そして恩納間切が創設されると間切番所は恩納村(ムラ)に置かれたので、番所跡地をみてきた。これから恩納村の歴史に登場する場所の一つひとつに足を運びながら編集を進めていく。もちろん、このページでは紹介できない部分が大半である。限られた時間での発刊計画なので、事務局を鍛えながらの作業になりそうである。編纂に向けての作業の手順と調査やまとめ方のモデルを提示することにする。それができるようになれば、手放すことに。
【恩納ノロと辞令書】
【恩納間切創設と同村と番所】
【両惣地頭と恩納村の祭祀】
【恩納グスク→古島→現集落:恩納の集落移動】
【恩納の古島と・・・川】
2008年8月13日(水)
本日はウンケー(お迎え)の日です。夕刻に先祖をお迎えします!
『恩納村誌』の再編集作業がスタートするようです。明日は編集委員会。全体に関わるのか、どの分野に関わるのか未定だが、参加する前にいくらか予備知識を仕入れることに。恩納村(間切)を描くための詳細な目次(項目)たてと恩納村(間切)関係の史・資料の確認と拾い出しが必要。そこまでする余裕がないので思いつくままいくつか。
恩納間切の創設は1673年である。それ以前の村(現在の字:アザ)は金武間切と読谷山間切の村であった。金武間切は山原(北山)の地であるが、読谷山間切は中山の内であった。つまり1673年の恩納間切の創設は北山と中山域の村々を統合したことになる。それが今にどう継承されているのか。歴史に限らず、祭祀や芸能についても、北山と中山の村々を統合した間切(村:ソン)だという認識をもっての調査分析が必要であろう。1673年以前は、読谷山間切時代の村々、金武間切時代の村々・・・。首里王府の間切分割の線引きの理念が見えてこないか。
現在の恩納村の谷茶から南側の読谷山間切の村々であるが、山田グスクの存在は大きいのではないか。というのは山田グスクのある山田は古読谷山村であった。つまり読谷山間切の同村で、その頃行政の中心となった村である。『絵図郷村帳』と『琉球国高究帳』では「読谷山間切古読谷山村」とあり、恩納間切創設(1673年)後の『琉球国由来記』(1713年)でも「恩納間切古読谷山村」である。ただし、ノロは山田巫(ノロ)である。山田の集落は大正の頃まで山田グスクの麓にあったという。
山田に統合されたという久良波は、1609年の薩摩の琉球侵攻の時、王府の使者は首里から陸路で久良波まできて、そこから舟で恩納に向かった。翌日今帰仁間切の親泊へ和睦の交渉のためゆく(『喜安日記』)。沖縄の歴史を変えた薩摩の琉球侵攻と関わる場所でもある。
1673年に恩納間切が創設されるが、恩納村(ムラ)に間切番所が置かれたのか。そして恩納村の名称のオンナの語義は?恩納間切は向弘毅(大里王子朝亮:按司地頭)と毛国瑞(佐渡山親方安治:総地頭)に与えられた。その後の代々の両惣地頭と恩納間切、脇地頭と村(ムラ)との関わりを『家譜』や『中山世譜』の記事を丁寧に拾っていく作業がある。それと拝所にある「奉寄進」の年号のある香炉の確認調査。
恩納間切の同村となった恩納村に番所村が置かれた。それだけでなく、両惣地頭は恩納村の神アシアゲや城内之殿、カネクノ殿での祭祀と関わる。恩納間切と読谷山間切の両惣地頭とも読谷山村(山田)の祭祀には関わらないことに注意。
近世の恩納間切と関わる資(史)料を『琉球国由来記』(1713年)や『琉球国旧記』(1731年)や『球陽』、『近世地方経済史料』、「恩納間切内法」などから漂着船や疲弊による検者や下知役などの派遣。ウッチンや陶土などの産出、そして山原船での運搬、山藍などの栽培などの記事を拾い出す作業。興味深いテーマが数多くある。『恩納村誌』が発刊(昭和55年)されているので、最大限に利用し深めていくことも必要。
間切(村:ソン)全体の歴史と、一つひとつの村(字:アザ)の歴史も必要である。ここで古琉球の時代のムラの姿が見えてくるかも。期待しているのだが。近世の辞令書で年号に干支が付されるのがある。干支のある辞令書の古いのは「順治十六年」、ないのが「順治九年」とされ、その間に干支が入るようになったとある(『辞令書等古文書調査報告書』昭和53年度発刊)。恩納ノロ叙任辞令書(1658年)の年号「順治十五年」に干支がはいていないので、順治16年(1659)年から入れるようになったとみてよさそうである。何故かについてはまだわかっていないようだ。
下の二枚の辞令書は、『補遺伝説 沖縄歴史』(島袋源一郎著)所収である。二枚とも現存していないが恩納間切創設(1673年)以前のものである。
▲金武間切恩納のろ職補任辞令書(1584年) ▲金武間切恩納ノロ職補任辞令書(1658年)
しよりの御ミ事 首里乃御ミ事
きんまきりの 金武間切の
おんなのろハ おんなのろハ
もとののろのくわ もとののろの子
一人まかとうに 一人ませ子に??
たまわり申候 たまわり申候
しよりよりまかとうか方へまいる 順治十五年七月廿八日
萬暦十二年五月十二日
因みに恩納ノロのノロ地は以下の通りである(『恩納村誌』)。恩納ノロは恩納間切内のノロの最上位にあるとの認識がある。ノロ地は現在の恩納と南恩納にある(南恩納は戦後恩納から分字)。
・赤間原(畑 1200坪) ・屋嘉下口(田 700坪) ・先原(畑 1200坪) ・ウチノウラ(田 400坪)
・伊場(田 750坪) ・当袋(田 600坪) ・その他(面積?)
2008年8月12日(火)
明治29年発行の『沖縄風俗図会』というのがある。明治あるいはそれ以前の時代を考える場合、当時の様子や習俗など、知っておく必要がありそうである。数多くあるが、二、三紹介することにする。
[家居]
・・・農民の住宅は粗末短材の堀立柱をして四壁の代用に蘇鉄の枯葉と細竹を以て挟み合せ内部は竹スノコに筵敷にて凡そ五円程もあれば一家屋を建築し得べしと云う。農民の中間々富有の者あれども元来農民は瓦屋築造を厳禁しあるが故に家に大小広狭の差はあれ皆粗造の茅屋たるに過ぎず。
[関羽の画像]
沖縄島の北方に奥村といへるあり。この辺は毎戸必ず関羽の画像を床の間に掲げる習慣の由りて来る所を問えば支那乾隆年間の冊封使藩主及び重臣に論して支那の如く関羽廟を那覇に立て又毎戸に其画像を安置することを勧誘すべしと命ぜられ爾来斯の如しというふ。
[農民]
山頭より海浜に至るまで開墾し耕耘栽培遺漏あることなし。十数年前官制令を設けて毎戸に三四頭の羊豚を畜はしめ、其の糞汁を畜へ田圃の培養とす。其の敷を欠く者は贖銭を出さしむ。数十年前までは人民田圃を耕すに羊豚の糞汁を施すことを知らざるのみならず人糞などすべて海中へ棄るを常となせり。然に我が管吏の彼等に説て糞汁の耕作に欠くべからざるを教えてより彼等等もへーと感じながらも始めはきたなく思いて少しづつ施せしに案外に作物の出来宜しきより・・・・ 農民は一般に湯浴する事を知らず。毎月二、三回川に趣き海に至りて水浴するのみ故に臭気粉々鼻を衝き近づくべからず。
2008年8月9日(土)
「北山王統」についての問合せ。避けてきたテーマの一つ。避けて通れないテーマである。まだ、切り口が見つからないのであるが・・・。
まずは『中山世鑑』と『中山世譜』の「歴代国王世統総?図」にある「山北王今帰仁―怕尼芝―珉―攀安知」は、まずはずすことはできないであろう。山北王今帰仁の以前の時代、どのような王統図が描けるのか。そして攀安知王の滅亡後、その一族がどう離散していったのか。それがどうなっているのか。それを解き明かすことが、このテーマなのかもしれない。それを解き明かせるだけの資料が皆無の中、解き明かすことは不可能に近い。その切り口が見つからず。『中山世鑑』と『中山世譜』を編纂した首里王府は北山の王統の最後の部分を「山北王今帰仁―怕尼芝―珉―攀安知」を示してある。ここで視点を変えて、首里王府(中山)が山北の王統をどのように見ていたのかを手掛かりにしてみることにする。しばらく、頭を突っ込んでみるが、難題なり。
2008年8月8日(金)
沖縄本島北部(山原)に分布し残っている神アサギと、沖縄本島の中南部に数多くみられる「殿」(トゥン)と、祭祀場としての役割は同じとするが、そこに参加するメンバーは異なるように思われる。神アサギはムラ・シマの人々(一門に関係なく)が参加できる施設、もう一方の殿(トゥン)はムラ・シマを構成している一門一門の祭祀場としての施設ではないか。
神アサギは複数の一族(一門・門中から出す神人)が関わるムラ・シマ(公)の祭祀場。
殿(トゥン)はムラ・シマの一門一門が参集する施設。
そのような違いから神アサギは集落内の中に置かれ、アサギミャー(広場)をもち、多くのムラ・シマがそこで村踊(ムラウドゥイ:豊年祭)の会場となっている。殿(トゥン)はムラ・シマ内の一門一門の旧家の屋敷内にあり、ムラ・シマ全体ではなく一門一門の祭祀場として置かれている。その違いがあるのではないか。
『南嶋雑話』(名越左源太)に「神木屋」(かみきや)として説明がなされている。山原の神アサギと類似している。そこに神木屋は邨々(むらむら)に一軒づつあり、第一に村中の神事を行うために作られている。また村の役人や村中の人々を集めて演達(村踊り?)を行う場所のようである。その頃琉球的な祭祀は禁止されていたので、村中の集合の場(村踊り?)のひとつになっていたのではないかと。
それからすると、山原の神アサギとミャーがセットになった祭祀場であり、アサギの側にあるアサギミャーは村踊りの会場で人々の観覧席でもある。その視点で見ると、山原の神アサギは『南嶋雑話』の「神木屋」と同様に公の施設としての機能をはたしている。沖縄本島の『琉球国由来記』(1713年)の殿(トゥン)の機能はムラ・シマ内における一門一門の祭祀の場であるとの視点でみる必要がありそう。『南嶋雑話』(名越左源太)の「神木屋」の説明を以下に記す。
神木屋と云、邨々に一軒宛あり、大小村に依て異なり。此神木屋は第一村中神事する時の為なれど、
村役共邨中人別集めて演達等の時、爰に群集す。・・・・
【奄美加計呂麻島の神アサギ】
▲加計呂麻島の実久 ▲加計呂麻島の瀬相
【山原の神アサギ】
▲国頭村辺戸の神アサギ
▲根謝銘の神アサギ(大宜味村謝名城)
▲今帰仁村崎山の神ハサギ ▲国頭村安田の神アサギ
2008年8月7日(木)
夏休みになったこともあってか、懐かしんでか、学芸員実習をしたメンバーの二陣目がやってきます。先日、一人見えたようだが留守でした。もみじまんじゅうありがとうございます。写真も置いてありました。覚えています。ここで、お礼まで。
続いて24日から今年の学芸員実習が始まります。多忙で、学生達が宿泊する家も、しばらく見ていません。今年の実習生はおいてきぼり。これから宿泊する家の様子でもみてきますかね。電気ガスなど大丈夫か。掃除しないといけないでしょうね。明日から宿泊するメンバーもいるもんで。
おお~、マンゴーの差し入れあり。ますます、頑張らんといけませんね。ありがとうございます。
【瀬底のグスク(ウタキ)】
瀬底島に瀬底と石嘉波の二つの行政村(ムラ)がある。1736年に石嘉波村が本島側から瀬底島へ移動させらる。それ以前は瀬底村のみであった。石嘉波村については移動村としてとらえる必要があり、ここでは瀬底村の御嶽についてのみ述べることにする。
現在瀬底島に「七御嶽」と呼ばれる拝所がある。その中に、これまで見てきた御嶽とは性格を異にしているのがある。七御嶽とされる①②④である。④の土帝君は中国からの移入であるが、土帝君を安置するのに拝殿や神殿の形式をとっている。戦前に各地の御嶽や散在していた拝所を合祀する形で拝殿・神殿の形にしたのに類似している。土帝君の後方の森は御嶽だった可能性がある。もともと上間門中の御嶽に土帝君を置き、大正時代から村(ムラ)も関わるようになり御嶽の一つと数えるようになったのかもしれない。
①と②については説明しかねる。かつて根所があった場所、ヌンドゥンチ(ヌルルンチ)のある杜全体を御嶽とみた場合は、御嶽の内部に旧家があったとみることもできるのであるが、もう少し検討が必要。戦前、ヌンドゥンチはお宮と呼ばれていた。(先島では根所や偉人の生誕地をワー(オン)にしていく例が見られる)
①根所 ②ヌンドゥンチ ③東ぬ御嶽 ④土帝君 ⑤アンチヌ御嶽 ⑥西ぬ御嶽
⑦前ぬ御嶽
明治17年頃の『沖縄島諸祭神祝女類別表』に瀬底村の神拝所は七ヵ所あげられている。
①神アサギ ②アンチ御嶽 ③土帝君 ④ノロ殿内火神 ⑤イリノ御嶽 ⑥前ヌ御嶽
⑦内ノ御嶽
集落(マキ・マキヨ)と発生と御嶽の関わりを、これまでの事例からすると瀬底島は数個の出自を同じくする集団があったとみられる。①の根所と神アサギは隣接してあるので、同じとみているようである。すると、明治17年頃から七ヵ所は「七御嶽」とみていたのかもしれない。
東の御嶽は内ノ御嶽であり、内グスクとも呼ばれる。ウタキがグスクと呼ばれる例である。この中の内グスクは以下の伝承をもっている(『大底門中元祖由来記』)。史実かどうかは別史料を必要とするが、その観念で大底門中は瀬底の神人の出自や祭祀などを継承し村(ムラ)の祭祀を行ってきている。その伝承をもつこともあり運天の百按司墓も門中拝みの一つとしている。その伝承は瀬底の集落や祭祀に大きな影響lを及ぼしている。また、グスク(ウタキ)のイビの後方に草分けとする人物の墓がある。
大底門中は即ち私達の祖先は、尚巴志王統系の北山監守今帰仁按司で、数代山北城に駐在して
山北諸郡を統治していたが、文明元年(1469)に尚巴志王の孫の尚徳王滅亡の時、山北監守今帰
仁按司も廃官となり、城を出て子孫の内一人は瀬底島に渡り、初めて居宅を構え、一村を創建した
ものである。是れ即ち瀬底島の草分けになっている。
※山原に屋敷内に神アサギを設置してある村(ムラ)がある。国頭村の奥間、宇嘉がある(伊是名・伊平屋は旧家の屋敷の一角に配置されている)。
▲ウチグスク(ウタキ)への道 ▲グスク内の鳥居とイベの祠(近年建設)
▲グスクの裏手に草分けの人物の墓 ▲第一監守の流れをくむというウフジュク
2008年8月5日(火)
今回の「ムラ・シマ講座」は本部町瀬底島である。瀬底島は1666年まで今帰仁間切の村の一つであった。1666年に今帰仁間切を分割し、今帰仁間切と伊野波(本部)間切となる。瀬底島は本部間切の村(島)の一つとなる。島を持つ間切は、地頭代に島名をさずけるが本部間切は瀬底島の対岸の健堅村が地頭代名、健堅親雲上を名乗る。今帰仁間切では1750年頃から古宇利親雲上を名乗り、屋号はフイヤー(古宇利屋)やメーフイヤー(前古宇利屋)である。本部間切では健堅屋(キンキンヤー)である。ただし、瀬底島の上間家はアガーリと呼ばれる。上間家は瀬底ウェーキで、上間家の二世から五世まで地頭代を出し、健堅親雲上を名乗っている。第二世の健堅親雲上(1705~1779年)のとき、山内親方を供して中国に三回渡ったという。中国旅のお土産で土帝君(トゥーティンク)を瀬底島に置いたという。
瀬底島に関心を持っている理由の一つに、瀬底のウチグスクと関わる一族(大城門中)のことである。その一族は『大底門中元祖由来記』(島袋源一郎)に、
「大底門中、即ち私達の祖先は、尚巴志王系統の北山監守今帰仁按司で、数代山北城に駐在して
山北諸郡を統治していたが、文明元年(1469)尚巴王の孫に当たる中山王尚徳滅亡の時、山北監守
今帰仁按司も廃官となりたる為、城を出て子孫の内一人は瀬底島に渡り、初めて居宅を内城に構え、
而して一村を創建したものである。是れ即ち瀬底島の草分けになっている」
と。大底(ウフジュク)門中は根人(男神人)であるウフシヌヘーを出している。大底(大城家)はウチグスクの北側に住居があったようで、三回目に現在地に落ち着いたという。今でも旧宅地を拝んでいる。
瀬底の御嶽(グスク)に草分けの人物の墓を造り、あるいは神アサギを屋敷の一角に置いたり、いくつか中南部の形態を取り込んでいると思われる節がある。第一監守の一人が瀬底島に移り住み、シマのリーダーとしてまとめていったのであればなるほどと納得がいく。北山が滅ぶ、あるいは第一監守から第二監守に変わった時、トップに近いメンバーは逃げ延び逃れていく。しかし、ほとんどの者は、そのまま住み続けていく。トップが変わってもシマに住む人々は、ほとんどが居残る。王統が変わり、あるいは滅亡し離散していくのは、トップのメンバーであってシマの人々のほとんどがそのまま居残る。それが一般的だと考えている。ムラが滅び全ての人々が離散していったとの、錯覚あるいは誤解しているかもしれない。
そのような誤解や錯覚を解き明かしてくれるのが瀬底島の大底(ウフジュク)一門の第一監守崩壊したとき、逃れて瀬底島に住み草分けとなったという根強い伝承である。そのことを伝承として持っていることが御嶽の要件や神アサギや祭祀などに影響を及ぼしているようにみえる。
▲ウフジュクにある根所火神の祠 ▲ウフジュクの屋敷ある神アサギ
▲ウチグスク(東の御嶽) ▲中南部に見られる草分け人物の墓
2008年8月2日(土)
7月下旬、いくつか調査をしたが紹介することができなかった。時間をみてまとめるが、まずは、そのタイトルと画像をさきに(忘れないためのメモ)。
【ユーニゲー】(古宇利島)(7月26日:旧暦6月24日)
【与論島ゆき】(7月26~27日)
【三番制度】
【墓調査】(7月31日:玉城)
2008年8月1日(金)
やっと一段落と思いきや、今月も次から次とやってくる業務。それはいいことなのでしょう。夏バテする余裕もなし。今朝、一本の原稿脱稿(北山監守と今帰仁阿応理屋恵)。一晩で40頁原稿を20頁へ。さらに12頁へとパサパサ切り落とし。睡眠時間1時間足らず。脱稿、気持ちイイ朝である。
沖縄県地域史協議会の研修会に参加。北中城村において。休息かねての研修会。運営委員と職員が参加。午前中は北中城村の大城と荻道のカー巡り。荻堂ではなかったか??!!資料にちゃんと表記の変遷の説明がありました。理由は不明のようだが、おぎたう→荻堂→荻道となっているようだ。
昨日4グループの学習。私の方が、どこまでやったのか覚えきれません。それと他の業務を片づけながらのやりとりなので。中身は生徒の頭の中に。画像のみいれておきましょう。
▲第二監守時代(前期)グループ(6年) ▲北山騒動グループ(4年)
▲与那嶺の豊年祭グループ(5年) ▲諸志の屋号グループ(5年)