2018年1月30日(火)
ここしばらく足踏み状態。以下の文章は仲松弥秀先生が今帰仁尋常小学校に赴任していた昭和8年に発表されたのは「今帰仁尋常高等小学校」の記念誌です。仲宗根の町の発展過程については、何度が活用させていただきました。非常に興味深い小論です(一部紹介)。今帰仁村玉城の寒水のフルマチと連続するものです。
一、往時の大井川地帯(明治20年以前)
現在町付近は畑地を成し、東北側少し隔って水田があるが、明治20年以前までは、一軒の家も一樹の蔭さえ見られない水田地帯をなしていた。然して灌漑水を字勢理客のユッチュト泉より山岳へと溝を引き、又寒水のところより大井川を堰止めする等して引水していたという。今にユッチュト泉よりの灌漑溝の一部は残存している。一体、大井川は近き過去に於いては水路を通らず直線的に山岳と大井川橋間を流れていたのではなかろうかと思はる。そこは山岳と前田両方面より運天へ通ずる道路の交点にある小丘が極く新しい砂礫より構成されている故に此の葉疑いを持つのであるが、此の流路は人為的にか自然的にかして現流路に変じたのではなかろうかと思われる。現在此の川は灌漑の恩恵を何等を与えていぬ。水車が二ヶ所にあったという。仲宗根の盆踊歌に
仲宗根の東水車立てゝ
潮ぬぬちあがりばとりて立ちゆさ
二、大井川町の前身
大井川町の発生は、道路変遷を主因子とする市場の移動に決定された。故に旧市場所在地を指して大井川町の前身といはれよう。順序として之から述べたい。
山手の方に当時、岸本、玉城、寒水の三村があった。今は三村を合して字玉城となっている。その中の寒水が大井川町の前身である。一名浜と言うを考えれば、往時は海岸だったかも知れぬ。前述の如く現大井川町地帯は水田をなしていた。従って道路は山岳より寒水を経て仲宗根に円弧を描いて通されている。又大井川河谷を利用して伊豆味、呉我山盆地方面より今帰仁へ達する道路あり、丁度その交差点に寒水が位置していた。斯く好位置にあった寒水へ、明治17、8年頃外間政得という人が初めて小店を構えたのが此の地方中心的地になった種子であるらしい。氏は那覇の人で最初屋我地へ移住してきたという。
次に岸本村の平良福五郎氏が運送業兼小店を構えた。氏は山原船で那覇へ薪、藍などを積出し日用品と取引したのである。然して当時は今の転馬舟着場のピサチ辺に山原船碇泊し、そこより上流大井川橋の少し上即ち寒水の手前に転馬舟が着き荷物の積み下ろしが出来たという。第三番目に玉城某氏が小店を開く、氏は那覇の人で名護を経て移住して来たという。
斯くの如くにして次第に此の地に商店が出来地的中心地に進展してきた。而していつ誰が初めたともなく全く自然的に道路の両側へ市場が発達したのである。これは実に市場の発生過程の好例として□に出来たものと思う。然して又何時とはなく此の市場は地元寒水村の管理の管理となったのである。斯くして小町と市場とは原因結果となっていよいよ町の形態を帯びて来たのである。明治二八年頃は其の最盛期にして、店十軒(二件は菓子屋)理髪店三軒、飲食店三軒、豚肉販売所の外に料理屋が四軒(中一軒は二階建)もあり、家屋は道に沿って今の橋の所まで並んでいたという。推して其の繁栄が知られる。ところが明治三十年頃山岳―仲宗根線が出来て以来は次第に衰落し、其の変わりに山岳が勃興して来たのである。其の後明治37、8年頃郵便局が運天より此の地へ移転されたけれど差したる影響なく、到頭山手線の郡道が仲宗根まで開通すると共に又市場が村営の形で移転され、生命の緒を切られ急激に衰頽して元の面影を止めず、只だ古市の別名によって僅にそれと知るのみとなり終した。如何に交通路が人生に深き影響を与えるかを知ることが出来る。
三、現今の大井川町の発生と過程
交通道路と聚落とは相互に原因結果となって発生することは吾々の周囲に其の例が甚だ多い道路は多くの場合聚落を連鎖して通され、逆に聚落は道路に沿うて発生する。前述の如く明治時代の中心は寒水にして現在の町附近は水田にて蔽われていた。が水田は何時の間にか消え失せるに至った。それは道路開通と灌漑溝の放任に起因している。もとこの灌漑溝の放任に起因しえいる。もとこの灌漑溝は「力」(東方西方とかの区域別)に修理の責任を負せていたが土地整理の結果土地が個人所有に帰し、到頭之を自然に任せて破損しても省みないようになった。従って水は流れず、水田は次第に固乾して仕舞ったのである。大井川町発生時第一過程は道路の開通である。山岳より寒水村を経て仲宗根に至る道路は甚だ不便な円孤を描いていた。之により明治の土地整理の頃村道を山岳より直線に仲宗根へ開通させた。水田は固乾し畑地と化し、やがて之に沿うて帯状的に家が点在するようになった。次いで大正元年元年郵便局が前田に移され、次いで大正五年運天より役場が近くに移された。其の頃には現中心の前田に七,八軒の家が出来、小店も開かれた程で大した変化は見られなかった。
然し山岳は新道開通以来、寒水が市場を山手線の一線に命の緒を繋いでいたのに反して、屋我地島、運天方面よりのとの道路の交点に当る故、後背地大、次第に店が出来、又寒水よりの移店もあり等して前田がまだ水田地帯なるに化かはらず、既に経済上になってきたが、結局前田が恵まれていた。役場移転を同年に郡道名護大井川線の山手が開通し、続いて六年には台南社の製糖工場が前田に建設された。その為水田多く埋め立てられ、且仲宗根前通りがやや活気を呈してきた。現在の中心地である前田はやはり殆んど水田であって小店が一、二軒あったのみ、尚甘蔗屋砂糖の運運上レールが敷設された。レール道は小山の縁を切取り大井川橋より山岳を経て水田を北に横切って運天港で終わっていて人道を兼ねていた。
山岳へ迂回したのは山岳地元民が運天、古宇利方面よりの人を吸収せんが為めにした運動によるのと他にも人為的な大きな理由のためであったらしい。
大正七年に至り、寒水の市場が村営となって現処へ移された。これが為七、八〇しかなかった前田が、此処に飛約的大発展を来たし、水田は変じて商店陸続として立並び町と市場とは各相互に作用し発展し遂に現今の如き小繁華な地方的中心地になったのである。尚製糖工場は事業不振の結果十年頃中止の止むなきに及ぶ。一部仲宗根前通りが衰微したけれど全体として打撃を受けなかった様だ。レール道はそのまま人道となり且九年頃玉城某氏は経済的見地上より自己所有の田畑を横切り大井川橋より直接に道をつくり、山岳―運天線へ連結させた。之は後村道へ編入さされ山岳は随分打撃を蒙った。其の後今より五六年前屋我地の塩取所が羽地になって山岳は以来急激に衰頽して来ているようだ。然し市場附近は尚チョイチョウ埋立が見られる家が新築されるのを見る。
六、結語
今まで大井川町のことを説述して来たのであるが、人間は多く経済活動に左右されているのであって、経済線に文化は沿うと現代では言われている。而して経済活動は人と自然との交互作用の結果から生ずるものである。
以上、文化も又自然と人間との交互作用より産まれるものと言われよう。その好例は大井川町であって人と自然との交互作用の結集として道路が変遷し、経済活動が場所的に質的に変化し、部落の消長となって現れてきた。水田が田畑に変じ、寒水の盛衰といい、山岳の興隆衰頽といい前田の繁栄といい皆交通や市場に多分に支配されている。
之要するに大井川町は農村一中心の小都会であり、その発生発展は一に道路変遷に原因する市場の移転に決定されていると言える。
終わりに臨み資料を提供された郵便局長長田松四郎氏、前村長新垣源次郎及び其の他の諸氏へ感謝の意を表したい。
▲明治30年代から発達した仲宗根の町(前田原)(昭和30年頃)
2018年1月27日(土)
ちょっと集中して、今日、明日で約束を果たします。原稿が仕上がりオッケー。夢の中でした。これは病気だな・・・・。後ろで掃除機がうなっている。さて、寡黙庵に出かけるか。
2018年1月24日(水)
多忙中。「寡黙庵」の桜は満開中。10本近くの原稿を並行して執筆中。しばらく続きます。
2018年1月18日(木)
今帰仁村兼次の字誌の勉強会。特に戦前の耕地整理前の絵図(昭和10年頃)を使って、オルバシ(古橋)、クンチリ、タンチリ、タンチリガー、ヒータンチリ、中クムイ、ポプイムイ、ポプイモウ、ナトゥ通り、スクザナトゥ、ナハンスなどの小地名を通してシマの方々から話題を引き出していく。それらの小地名は土地整理でほとんどの地形が壊れ、島の先輩方の記憶として遺っているのみ。
耕地整理で直線になったナハガー。そこに兼次以外の人々の土地があり、特に本部の人々の土地がある。それは何故なのかの質問。一帯は湿地帯で特に田の出来の悪い土地で、仕明地で開拓地。その村以外の人達が耕作できた土地であった。明治36年の土地整理で、その土地を耕しいる人に土地の所有権を与えた。その為に村以外の人達が土地を所有することになる。そのため、今でも本部田(本部の人の田)として呼ばれてる。「米をかついで本部まで運んだよ」との体験談。
今では消えてしまった土地の名称やソーキダユーの話題をいくつも語ってくださった。その外に古島からの集落移動や若水汲みのウイヌハーの話、ウンサヤーのビジュル、兼次遺る二基の印部石(パル石)など。兼次は古くは兼城であったこと。同様地名に中城、玉城と書いてナコーシ、タモーシと呼んでいる。兼次も兼城と書いていたがハニシやカニシと呼ぶようになる。などなど
2018年1月16日(火)
乙羽岳まで登る。仲宗根の風景が必要でパチリ。塩屋湾の口の宮城島、宮城島の人々が対岸の津波(海染原)と渡野喜屋(白浜の佐場)に土地を持っている。それに関心を向けているのは明治36年の土地整理と関わるのではないか、その前の地割との関係を考えているからである。宮城は寄留士族の人々である。地割制度で寄留の人々に土地配分がなされなかったという。自給自足の時代なので塩田での塩づくりだけでは生活がなりたたない。当然、狭い島だけでは田畑をすることは無理であるから対岸に土地を求めていることが予想できる。
それと、宮城島の戦前の絵はがきから宮城島の集落前に山原船が停泊している。その山原船が塩屋湾からどんな荷物を運搬していたのか。塩もあるが。
▲乙羽岳から望んだ仲宗根のマチ ▲塩屋側から望んだ宮城島(戦前の絵はがき)
津波の二基の神アサギ。明治の前に津波村と平南村の統合。神アサギを一ヶ所にしたとき、両村で神アサギを建設している。しかし、拝む神は一つにすることができていない。それと同津波である宮城島の方々も神アサギ建設に寄付をしているのか。(寄付者名簿と文書で確認することに)。神アサギは祭祀空間と上納の一時集積場だと位置づけている。祭祀のすべてを神アサギを拝んでいるのではないこと。その具体例を示すことに。
▲津波の二つの神アサギ ▲豊年祭の時の寄付者名簿
2018年1月14日(日)
久しぶりに歴史文化センターへ。資料を目にしながら、一点一点に思い出があり、思い出される。新しい風が吹いています。それは良いことです。今も進めていることは、歴史文化センターでの調査研究の延長上にあることに気づかされる。作業や資料の整理をしながら学ぶことが多くあり、積み残してきていることに気づかされています。ノロ家の遺品の展示、山原船と津、字誌などについて力をかすことに。寡黙に過ごしているのであるが、お願いされた仕事や研究などに関しては、よく言われた「仲原節」は健在である。最近、「沖縄研究は必要ないのでは?」の声が聞こえてくる。それに気づかない世代が大半を占めているような。それは「戦前の昭和と平成の時代」が重なって見える。沖縄の歴史がどう揺らごうが、根底にながれるアイデンティティーに気づかされる。
さて、そんなことを考えている時間がないのだ。さて「寡黙」に抱えている原稿の執筆にかかることに。以下の過去メモを思い出しながら。
2010年3月20日(土)過去メモ
山原の港について「船税及焼酎税書類」(『沖縄県史 21 旧慣調査資料』から紹介することにする。
山原の港(津)
�炬港の様子(明治26,27年頃)(画像は近年)
炬港(テーミナト)は運天港に接近し、仝間切内謝名、仲宗根、崎山、平敷、寒水、岸本の六ヶ村に亘る。本港も旧藩(明治5〜12年)の頃右六ヶ村の税品を収納したる所なれば、那覇との往復常に絶へず、然れども港内水浅くして大船を入るヽ能はざれば、道の島往復等の船舶此所に寄港するが如きことあらず。
・炬港は謝名・仲宗根・崎山・平敷・寒水・岸本の6ヶ村に亘っていた。
(寒水村と岸本村は明治36年に玉城村に統合される)
・琉球藩の頃(明治5〜12年)六ヶ村の税の収納場所であった。
・那覇との山原船?の往来が絶えることがなかった。
・港内は浅く大きな船が入ることはなかった。
・道の島往復する船が炬港に寄港することはなかった。
▲近年の上空から見た炬港(河口) ▲炬港の様子
中宗根湊下、炬港と云う。
由来は、孟氏大里親方宗森、進貢使をなし、中華に至り、帰国の時、颶風に逢い、夜な夜な津岸を迷っている時、神火の
炬火が燃えるのを見て、この湊に着いたため炬港というなり。
2010年3月19日(金)過去メモ
午後から今帰仁村玉城の旧公民内にあった資料の搬出をする。玉城区は字誌の編集をスタートしており、また旧公民館を近々に取り壊す予定。これまで数件の公民館の取り壊しに立ち会ってきた。その度に戦後資料を収集することができた。今回も玉城公民舘資料を確認することができた。字誌に反映させることができそうである(詳細の目録は改めて報告する)。
50年前に画かれた小学生の絵が印象的である。名前があるので、それぞれの50年の人生をたどることができそうだ。公民館に50年前の絵を張り出してみましょうか(40年前の写真は数枚提供した)。
【仮目録】
・公文書綴り(5冊)
・戦後の戸籍簿(1冊)
・家族しらべ
・徴収簿(各班)
・諸賦出席簿(1956年)
・貯金台帳(1955年)
・公民館日誌(1955年以降)
・賞状(原山勝負)(1949年)
・賞状(原山勝負)(1950年)
・賞状(排球大会)
・賞状(盆踊りコンクール)(1955年)
・学児成績簿(今帰仁初等学校及大井中等部)(1949年度現在)頭部
・その他
▲今帰仁村玉城の旧公民館 ▲旧公民館の内部
▲整理をする戦後資料 ▲表彰状や賞状(戦後)
2018年1月13日(土)
18日(木)に今帰仁村字兼次の字誌の二回目の会議があります。画像を通して話題に花をさかせましょう。とり急ぎ。画像の整理から。写真提供を呼びかけています。「玉城の字誌」の原稿整理に集中する。
2018年1月12日(金)
仲宗根(プンジャー)のマチ(仲宗根)(平成3年8月メモ)
今帰仁村の中央部に位置する仲宗根のマチ。村役場や郵便局、それに銀行・文具店・お菓子屋・電気店・レストラン・スーパーなどがあり、マチの様相をみせている。大井川の下流にある仲宗根のマチは、今帰仁村で唯一マチと言えるマチである。
仲宗根のマチの発達は、明治17、8年頃にさかのぼり、大井川の少し上流部にある寒水(パーマ、現在の玉城に含まれる)に始まり、そこは、今でもプルマチと言われている。明治28年頃が寒水(パーマ)のマチの一番栄えた時期で、店十軒、飲食店三軒、豚肉販売所四軒、料理屋四軒あったという。
明治30年頃、山岳(サンタキ)から仲宗根へのミーミチ(新道)が開通したことでマチの発展は寒水から仲宗根の前田原へ移っていった。仲宗根の前田原は、明治20年以前まで水田地帯で一軒の家もなかったという。
上の写真は、大井川橋付近のサイレンモーから撮影された昭和31年の仲宗根のマチの風景である。小高いサイレンモーは切りくずされ、今では住宅地となっている。手前の鉄橋を直進する道は名護への道路で、左手に向かうのは運天港への道である。
橋から名護への道路は、明治30年頃にできたミーミチである。その道路が開通すると、道路沿いに点々と店が並ぶようになった。また、この道の開通が、寒水から前田原へマチが移動していく大きな要因になった。新道が開通するまでは、大井川のもう少し上流の寒水(パーマ)ヘつながるルートが主要道路(スクミチ)として機能していた。仲宗根のマチについて写真の説明は「ここには旅館が二件、料理屋四軒、食堂三軒に村営市場もあり、小売商がズラリと並び、風呂屋まであるところからみると単なる村落ではない。戦争の始まるころまでは伊平屋、伊是名や上本部から日用雑貨の仕入商人たちでごったがえしていた」(『新郷土地図』沖縄タイムス発行)と描写している。
下の写真は、仲宗根のマチの中央部にあった今帰仁郵便局と今帰仁沖縄映館(映画館)のあった所である。「今帰仁沖映館」とある部分は映写室で、看板の後方に切符売り場があった。その後方にかすかに見える三角屋根の建物は、中の方で二階になっていて、木の腰掛けが配置されていた。何度か映画を見にいった記憶がある。前方には、舞台があり芝居が行われることもあった。今帰仁村の郵便局は、明治16年に運天番所の隣に設置され、まず同37年に運天から寒水へ移設された。さらに大正5年に仲宗根のマチに移され建設された。そして、昭和25年に瓦屋根の木造づくりの郵便局が建設され、それが下の写真の今帰仁郵便局である。昭和37年に仲宗根 131番地へ(『今帰仁村史』)、さらに平成2年2月に現在地の仲宗根96番地の5に新設された。
昭和31年の二枚の仲宗根の写真を手がかりにマチの変遷をみた。明治30年代からマチの形態をとりながら発達・変化してきた仲宗根のマチは、今でも大きく変わりつつある。
平成になって仲宗根から我呉山(中山)、さらに名護市へのトンネル(県道72号)が開通し車の往来の流れが変わり、玉城あたりに民家やアパートが急増している。
今帰仁村字玉城にプルマチ(古町)の地名が遺っている。プルマチは寒水村にあった場所である。隣接する仲宗根の町の前身である。玉城の字誌の編集・執筆しているのであるが、字誌から外せない部分である。町の移転や町の展開が興味深くとらえられている。那覇からの寄留人、あきないの様子。車の数少なかった頃の運搬、品々など。玉城は故仲松弥秀先生が教員のとき(昭和8年頃)の下宿先である。「仲宗根の町の地理的研究」(今帰仁小学校記念誌所収)
(工事中)
二、大井川町の前身
大井川町の発生は、道路変遷を主因子とする市場の移動に決定された。故に旧市場所在地を指して大井川町の前身といはれよう。順序として之から述べたい。
山手の方に当時、岸本、玉城、寒水の三村があった。今は三村を合して字玉城となっている。その中の寒水が大井川町の前身である。一名浜と言うを考えれば、往時は海岸だったかも知れぬ。前述の如く現大井川町地帯は水田をなしていた。従って道路は山岳より寒水を経て仲宗根に円弧pを描いて通されている。又大井川河谷を利用して伊豆味、呉我山盆地方面より今帰仁へ達する道路あり、丁度その交差点に寒水が位置していた。斯く好位置にあった寒水へ、明治一七、八年頃外間政得という人が初めて小店を構えたのが此の地方中心的地になった種子であるらしい。氏は那覇の人で最初屋我地へ移住してきたという。
次に岸本村の平良福五郎氏が運送業兼小店を構えた。氏は山原船で那覇へ薪、藍などを積出し日用品と取引したのである。然して当時は今の転馬舟着場のピサチ辺に山原船碇泊し、そこより上流大井川橋の少し上即ち寒水の手前に転馬舟が着き荷物の積み下ろしが出来たという。第三番目に玉城某氏が小店を開く、氏は那覇の人で名護を経て移住して来たという。
斯くの如くにして次第に此の地に商店が出来地的中心地に進展してきた。而していつ誰が初めたともなく全く自然的に道路の両側へ市場が発達したのである。これは実に市場の発生過程の好例として□に出来たものと思う。然して又何時とはなく此の市場は地元寒水村の管理の管理となったのである。斯くして小町と市場とは原因結果となっていよいよ町の形態を帯びて来たのである。明治二八年頃は其の最盛期にして、店十軒(二件は菓子屋)理髪店三軒、飲食店三軒、豚肉販売所の外に料理屋が四軒(中一軒は二階建)もあり、家屋は道に沿って今の橋の所まで並んでいたという。推して其の繁栄が知られる。ところが明治三十年頃山岳―仲宗根線が出来て以来は次第に衰落し、其の変わりに山岳が勃興して来たのである。其の後明治三七、八年頃郵便局が運天より此の地へ移転されたけれど差したる影響なく、到頭
山手線の郡道が仲宗根まで開通すると共に又市場が村営の形で移転され、生命の緒を切られ急激に衰頽して元の面影を止めず、只だ古市の別名によって僅にそれと知るのみとなり終した。如何に交通路が人生に深き影響を与えるかを知ることが出来る。