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(26期7回12月8日(土))は今帰仁村兼次です)http--yannaki.jp-kanesi.html

     


20018年11月29日(木)

 29日(今日)からしばらくお休みします。

 出かける前の時間、明治31年の新聞記事から。「山原船の往来と積載した品々」原稿の一部。(締め切り過ぎています。圧縮して提出します)。「今帰仁村字玉城誌」は終了。肩の荷を下ろしましたので、3日までお休みです。温泉でもつかってくるか。

2003.11.22
(土)メモより

 
今日は来館者がひっきりなしである(今帰仁城跡が世界遺産に登録された頃)。来館者が続くと、一つのことに集中することができないことが多い。頭の中でいろいろなことが駆け回っている。そういうときは、今頭の中を駆け回っていることとは、関係ない資料を見ている。今日もそうである。すっと決まったので、どこかで、すでに報告しているのかもしれない。立ち止まって、明治31年頃の今帰仁間切の「輸出品」と「輸入品」について具体的にみていくのもいい。当時の「新聞記事」から紹介してみよう。

 普段ムラやシマなどを歴史の動きや祭祀などを通してみているが、生活している立場に立って歴史を見ていきたいと考えている。そうすると、今私たちが常識としていることが、その時代に戻して考えたとき、常識ではないことに気づかされる。

 明治31年頃の今帰仁の様子を輸出品や輸入品から何が見えてくるのだろうか。また、当時のお金もそうである。例えば、白米の輸出品価格の5120800厘は、五千百二十円八十銭である。数え方は品物によって斤・丸・本・升・間・枚・個などがある。

納税は物納であるが、金銭による経済も行われている。それと品々には一方通行的なものもあれば、往来する品物もある。

【今帰仁間切】(明治31年4月7日付琉球新報記事より)

 今帰仁間切から出している最大のものは製藍である。藍で知られているのは本部間切の伊豆味あたりである。今帰仁間切の藍壷があるのは山手の方。呉我山や今泊などの山手である。薪や木炭なども出されている。白米や砂糖、豚、石灰の輸出が目立っている。

 輸入品は焼酎が筆頭である。石油や瓦や昆布は産出しないから当然の輸入品。甘藷の生産が村民が口にするには量が足りなかったのだろうか。ぼつぼつ西洋紬も山原に移入されている。瓦の移入があるが、学校や村屋に使われたのだろうか。地方でも瓦葺きが許されるようになった時代でもある。

 輸出・入の品目から明治の山原の様子が伺える。今帰仁から石灰の輸出があったことも興味深い。
    
 ■
輸出の部                 輸入の部  

品  目

輸出品数量

輸出品価格

種 類

輸入品数量

輸入品価格

製 藍

317790

1,5889500

焼  酎

28480

5696000

薪 木

471755

2830530

5694

911040

木 炭

244055

3660825

石  油

1130

158200

砂 糖

168047

6721880

白  米

15815

1897800

白 米

42670

5120800

大  豆

11340

190700

角 下

224

67200

甘  藷

9224

73792

楷 木

26

2600

素  麺

7000

56000

徳 利

1185

59250

杉  板

190

133000

小 麦

150

12000

34150

136600

杉四分板

30

15000

41

10250

丸 木

1140

91200

小  麦

600

48000

杉七分板

30

39000

樽  板

261

52200

2475

297000

2

1400

棚 木

6

10800

味  噌

500

22000

ケキ木

80

1600

雑品入

233

186400

石 灰 

3900

3900

戸  棚

4

8000

合 計

3,4823085

昆  布

300

12000

徳  利

2

100

芋  粕

250

750

650

52000

樫  木

10

1000

イク木

50

125000

300

60000

製  藍

2400

120000

西洋綛

20

6000

合 計

9845232

..   



20018年11月28日(水)

 2003年.4月22日首里の弁カ嶽を訪れている。烽の連絡の最終地である。最近沖縄本島の最北端の辺戸の「遠見所」(遠見台)の確認弁が嶽にある按司クラスの石灯籠が何基もあるので.。昨日は恩納村史編さん室から、資・史料の提供をいただく(はかどります、感謝)。恩納村内の「江・港」の確認。風景が急速に変わっています。過去の画像を使うか。

〔弁カ嶽をゆく〕

 首里鳥堀町にある弁カ嶽までゆく。目的は火立毛の痕跡が確認できないかである。弁カ嶽は首里城の東方約1kmに位置し、頂上部分が標高165.7mである。頂上部に香炉がいくつか置かれ、今でも拝みにくる人たちがひっきりなしのようだ。首里や那覇のマチ、首里城などを眼下に眺めることができる。また東に太平洋、西に東シナ海が広がる。

 眺めからすれば、弁カ嶽は遠見台のもってこいの場所である。首里城・那覇港・慶良間島、東側に太平洋、南側に久高島などが見渡せる。御嶽には数多くの香炉と「奉寄進」と刻銘された香炉もあり、航海安全の祈願がなされたに違いない。それだけなく、大嶽は久高島への遥拝、小嶽は知念村の斉場御嶽(セーファウタキ)への遥拝場所としての役割を果たしているという。

 首里の都の風水と関わる冕嶽(弁カ嶽のこと)・虎瀬・崎山嶽の一つの御嶽でもある。弁カ嶽には大嶽と小嶽があり、両御嶽の祭祀とも首里大あむしられが掌っている(『琉球国由来記』1713年)。

 弁カ嶽への関心は1644年に烽火の制が敷かれ、各地に遠見台が設置される。連絡網は弁カ嶽(首里王府)に知らせるネットワークである。例えば、沖縄本島の西海岸は伊是名古宇利島大嶺原(具志堅)伊江島(瀬底島)座喜味弁カ嶽へと繋いで知らせる。その最終場所が弁カ嶽の火立毛であった。どんな場所なのか・・・・「奉寄進 玉川王子・・・」の香炉があり・・・・。

 ・1519(正徳14)年に大嶽の前に石垣と石造りの門を建立する。
 ・1543(嘉靖22)年に弁カ嶽に松を植え、参道を石畳道に改修する。
         拝殿を創建する(1543年か)。
 ・1644(順治元(1644)年から正月・5月・9月に国王が詣でるようになる。
 1778(乾隆43)年に種子島の船頭が鳥居を建立する。
 ・1800(嘉慶5)年に冊封副使の李鼎元が弁カ嶽で遊ぶ。
 ・1853年ペリー一行が内陸探検のとき弁カ嶽あたりを訪れているようだ。
 ・1944(昭和19)年に日本軍が弁カ嶽に陣地を構築するために石を使う。
 ・1945(昭和20)年攻防戦で国宝に指定されていた石門が破壊される。
 ・1954(昭和29)年にハワイの一心会と鳥堀町の奉仕でコンクリート造りの門をつくる。
 ・弁カ嶽は形から航海の目印となる。
 ・弁カ嶽の北東約100mに位置する場所に火立毛があった。

 確認できなかったが「火立毛」(『金石文歴史資料調査報告書Ⅴ―』沖縄県教育委員会)の碑があるようだ(下の拓本)。(国頭村辺戸の遠見所の碑の採拓してみたいものだ)

.
弁カ嶽の門〈現在はコンクリート)  戦前の弁カ嶽(『琉球建築大観』より)

..
頂上部から首里・那覇のマチを眺める    弁カ嶽の頂上部の様子

. 
  門の左手に石の香炉がいくつも...   頂上部への細い坂道  ▲「火立毛」の碑(拓本)

20018年11月26日(月)

 出勤前に過去のメモを。

2011年8月26日(金)のメモ

 本部町嘉津宇に「刺繍」をほどこされた服がある。『沖縄県国頭郡志』(大正8年)で紹介されている。その後、『服飾の研究』などで紹介されている。『沖縄県国頭郡志』の以下の文面を手掛かりに検討してみることにする。
 その前に、これまで『沖縄県国頭郡志』(大正8年)で紹介されている遺物や旧家などがどうなっているか、その確認をしておく必要があることから、その調査を進めてきた。嘉津宇の服や布片などの確認もその一つである。その現物の着物を見学する機会があった。服や模様や刺繍などについて全くの素人なので触れることはできない。

 首里王府から献上された山原の旧家が持っている(いた)情報を掲げてみる(他の資料については別稿でまとめることにする)。基本的に衣類や布地は首里王府からの献上物である。ただ、伝承では北山の滅亡との関係で捉えられているのが目につく。他の地域に残る古い衣装類はどうだろうか。

・国頭村奥間座安家(アガリー)
  尚円王より拝領の伝承:黄冠・水色の絹衣・黄色絹帯地及黄金カブの簪

・国頭村辺戸の佐久真家  
  70年前(大正8年から)まで王の衣冠宝物保存

・本部村(町)並里(満名)上の殿内
  按司位牌三個、古櫃の中に古刀三振、衣類二枚(一つは絹地、一枚は更紗)、繻子の古帯一筋、羽二重の襦袢一枚を
  秘蔵(中昔北山城主滅亡の際王族が隠遁せるのか)

・花の真牛(本部町伊野波)
 真牛、乙樽同様その年代や素性は定かにあるず。王妃となる才媛なり。城内では花の真牛が絢爛なる七つ重ねの礼服をする。

・久志村(現名護市)川田(根謝銘屋)
  同家には絹地の衣類、古刀、黄金のかぶの簪

・大宜味村田港(根謝銘屋)
  田港の根差目屋(本家)に絹衣数種、黄金カブの簪一個(秘蔵)。

・大宜味間切根差部親方
  ・・・其の衣類は根謝銘大城某の宅に保存せり。
  
・国頭村字安田(屋号:川口)
  仲今帰仁城主の一族の伝承あり。黄金の男差簪、古い短刀一振。古文書(辞令書)

・名護間切名護村長寿大城
  尚敬王34年次良大城101歳に黄冠を賜い、絲綿一把綿布二端を賞与される。

・金武村(現在町)金武宜野座及び安次富家
  両氏は歴史上の人物阿波連親方の後胤なりしの伝承。宝石絹服等を秘蔵。

・今帰仁阿応理屋恵按司家(阿応理恵御殿)(所蔵目録)
  ・冠玉たれ一通 ・同玉の緒一連 ・王の胸当一連 ・王の御草履一組 ・玉かわら ・同玉かわら一大形 ・二十二小型 
  水晶の玉百十六。

【本部町嘉津宇仲村渠家:ユレー家】

 同家にも前記並里家の如く上座に按司位牌二個を祀り霊前床上に古櫃一個ありて左の遺物を納めたり。
 一、絹の琉服一着(水色の七子地に花模様の古代刺繍あり)
 一、八巻用サージ二筋(金襴にして梅花模様あり長各一尋)

 一、布片二種(水色絹地及黄色絹地に孔雀、鳳凰等の巧妙なる古代刺繍あり)
 同家の口碑に依れば阿応理恵按司の礼服なりしという。又北山滅亡の際貴族此家に隠遁して世を避けたりとも伝う。然るに右遺物の保存せらるる外何等の記録なく従って其の人物の当家との関係及び墳墓等全く不明にして五里霧中に葬らるるのみ。

 
          ▲本部町嘉津宇公民館で(衣装のお披露目)

20018年11月24日(土)

 頭の中が抜けの殻状態。しばらく休息。

 2008年4月の記録から、来週から関西から鳥取県・岡山県あたりまで。それと按司達の薩摩、江戸上りなどと灯籠などのことの記憶を呼び起こすため2008年4月の記録調査を復活。

http--yannaki.jp-2008nen4.html


2018年11月22日(木)

 以下の「百按司墓(ムムジャナバカ)」は昭和59年(広報なきじん)に書き下ろしたものである。墓が歴史史料になり得るのではないかとの視点で書き記したものである。それと北山の歴史の流れてとらえようとしたものである。

百按司墓(ムムヂャナバカ)

はじめに

 百按司墓は、今帰仁村字運天の運天原に位置し、崖の中腹にある。ムムチャラバカ・ムムヂャナバカ、あるいは単にムムヂャナと呼ばれている。琉球の古語を収録した「混効験集(こんこうけんしゅう)」(1711年)に、「もヽぢゃら、諸の按司を云事」とあり、百按司墓の「ムムヂャナ」は、「モモヂャラ」から音韻変化してきたものということができる。この墓は、墓の名称からすると、諸按司、あるいはその一族を葬った墓ということになる。

 すでに、村教育委員会・文化財保存調査委員会は、百按司墓を文化財指定への方向で調査を進めており、そのこともあって今回は、百按司墓の現況と文献を中心にみていくことにする。 

百按司墓の現況

百按司墓へは、運天の村内(大北(うーにし)墓付近)から登っていくか、あるいは為朝上陸碑の入口から、東よりに下って行ったところにある。崖中腹の自然の洞窟を利用した数基の墓があり、それらが百按司墓である。東側から三基までが、石垣で囲まれており、第四・五墓所(東側から第一・二・三……墓所とする)は、ベニヤでふさいである。シーモン博士の百按司墓の写生で、第四墓所は「板カ門」になっている。運天では、板カ門のなった墓を今でもみることができる。最近、板カ門の墓は、石やブロックで閉じられつつある。五基の墓所のはかに、第一・四墓所の上部に墓室が設けられているが、ここでは、石囲いのある三基の墓所について現状を報告するにとどめたい。

(イ)第一墓所

 数基の墓所のうちで、規模で最も大きく、高さ約1.8mの石垣を半円状に積み、漆喰で塗り固めており白っぽく見える。上部を開いた半円状の石垣正面には、二つの覗き穴が設けられている。石垣は、後世になってから積まれたものとみられるが、明治15年に国に提出された「白骨埋瘞(マイユイ)之儀」の「見積書」に、石垣の修復について記されていることからわかる。覗き穴部分は、明治15年当時入り口として開いていたもので、修復工事伴って閉じたものとみられる。

 石囲いの内部には、自然の洞穴を利用し、そこにジャフン(ヘツカニガキ)を柱や屋根板に使い、切妻造りの墓室を組み立ててあったとみられる。現在この原形は失われているが、屋根に使われた3.mの反りの入った棟木と七枚の板、それに柱や壁に使われた材木が残っている。

 そこに、人骨の入った朱色の漆塗りの木棺が残っている。この木棺の屋根部分は失っている。東恩納寛惇著「琉球の歴史」で紹介されているものと、同じ型のものとみられる。木棺の内側に、朱色の漆がウロコ状に剥げかかり辛じて残っている。早急な保存対策が必要である。同墓所に、ほかに二基の木棺の一部分が残っている。その一基は、屋根部分はないが、脚(十本)のついた胴の部分が残っている。胴部側面は、緑色を帯びている。ももう一基は、胴部分二面とそれに脚が二本ついた状態にあり、赤みを帯びている。どの木棺も胴釘が使われている。この墓の形態は、ジャフンを用いて家型の墓室をつくり、その中に木棺を収めたものとみられる。昭和47年に運び込まれた甕が安置されており、百按司墓本来の形態を失わしめている。 

(ロ) 第二墓所

 東側から二番目の墓所で、高さ1.6m程の石垣を積み、2.8mと1.8mの二面でL字型に囲ってある。内部には、くされかかったジャフンの柱や板が十本程残っている。木棺の骨組みに使われた約六〇㎝の材木がある。墓所の中で、墓内部の崩壊が最も進んでいる。そこにも、昭和47年に運び込まれた五基の甕が並べられている。

(ハ)第三墓所

 東側から三番目の墓所で、正面2.9m奥行き1.9m、高さ1.5~2.1mの石垣を、上からみると凵型に積んである。石垣内部には、ジャフンを用いて家型の墓室をつくり、屋根は中央部分に反りの入った2.7mの棟木、それに六枚の板で切妻造りになっている。

 家型の墓室と石垣との間には、竹綱(チニブ)がたてられており、ここが外形上百按司墓本来の形を残しているものとみられる。墓室内には、木棺の一部と見られる材木が残っている。昭和47年に入れられた五基の甕が置かれている。 

文献に見る百按司墓

 百按司墓のことを記した文献に「中山世譜」(1697年)がある。それと同じ内容を記したのが「球陽」(1745年)である。尚忠王の条に、「尚徳王、驕傲奢侈ニシテ宗ヲ覆ヘシ祀ヲ絶ツ。是レニ由リテ貴族ノ徒皆世ヲ遁レテ隠ル。即チ今帰仁間切下運天村ノ所謂百按司墓ハ其ノ貴族ノ墓ナリ。墓内枯骨甚ダ多シ。又木龕数固有リテ以テ屍骨ヲ蔵ス。修飾尤モ美、皆巴字金紋ヲ銘ス。而シテ一個ノ稍新シキ者ノ壁ニ字有リテ云フ、弘治十三年九月某日」とある。

 除葆光の「中山伝信録」(1721年)の山北省今帰仁運天のところに「山北王の墓アリ、土人呼テ百按司墓トス」とある。「中山世譜」や「山中伝信録」が編纂された当時に、百按司墓の名称で呼ばれている。前者では、尚徳王が驕傲奢侈であったことで王位を失い、遁世して行った一族を葬った墓だとしている。木龕数個、巴字金絞、弘治十三年九月某日が確認されており、それに基づいて「其の遺族、尚真代に至りて老尽せしならん」と考察を加えていることは注目すべきことである。このように、尚徳王の遺族を葬った墓であるとすると見方がすでにあった。

 明治になると、「沖縄巡回日誌」(明治14年)に記されているように、樊安知が滅ぼされた(北山の滅亡)時の、戦死者達の遺骨である。あるいは、島津侵入(1609年)の時の戦死者達の遺骨であるとする言い伝えがあったことが知れる。歴史的事件と結びつけられた二つの言い伝えは、百按司墓やその回りの古墳に葬られている数多くの人骨と結びつけたもので、根拠の乏しい見解である。

 尚徳王の一族の墓であるかについては、明治時代から議論されている。「沖縄県巡回日誌」(明治14年)では、「両説未ダ何レカ是ナルヲ知ラズ」と結論を出していない。翌15年の「沖縄県下今帰仁間切白骨埋□ノ件」で、「世譜球陽等ニ記スル所ハ謬妄ニシテロ碑却テ正鵠ヲ得ルヤニ被存候」と考案し、結論として「山北王家の墳墓ナルハ明瞭」としている。

 百按司墓を文献でみてくると、尚徳王の一族を葬った墓であるとする見解に分かれている。

 百按司墓が、どのような歴史的背景を持つのか、また、どのような人たちが葬られているのか。どのように決するかは、今後の調査研究を持ちたい。が、その手掛かりは、やはり「木棺・木棺にあった巴字金紋・弘治十三年九月・えさしきやのあし」にあるとみている。 

今後の課題

 三墓所の現況と文献にあらわれた百按司墓についてみてきたその百按司墓が、歴史的にどのように位置づけられるか興味深いものがあり、今後の研究課題でもある。

 百按司墓のことを直接記した文献は「中山世譜」(1697年)や「球陽」(1745年)の尚忠王の条であった。その内容は、尚徳王の一族を葬った墓であるとする。尚徳王の条にはその一族「王妃・母乳・世子を擁着して以って乱難を避け、皆真玉城に隠る。軍兵追ひて之れを弑し、遂に之れを玉城巌下に葬る」などとあり、その一族が運天の地に葬られたとする記述はみあたらない。「世譜」や「球陽」の編者は、何故尚徳王(在位1440年~44年)の条「山北監守の制を定む」の後に、その記事をいれたのか。編者が北山の第一監守(1422~69年)を仰せ付けられた一族のものではないことを強調するための配慮があったのではないかとも考えられるが、検討を要する。

 百按司墓の木棺のひとつに「弘治十三年九月」とあったとは、「世譜」・「球陽」・「国頭郡志」(島袋源一郎)・「琉球の歴史」(東恩納寛惇)で確認されている。その年号に視点をあててみると、1500年(尚真王二十四年)である。北山では、第一監守時代や尚徳王没から31年後にあたる。その年号のあった木棺は、稍々新しいものであったというから、古いのは、1500年以前のものとみられ、北山第一監守時代や尚徳王の没年に近づいてはくる。しかし、今のところ年代を決定するに足りる十分な史料が出ていない。

 木棺にあった「巴紋」が、使われ出した時代、また「えさしきやのあし」の村落名表記がなされていた時代を究めていくことで、百按司墓の年代決定も十分可能とみられ、その視点からのアプローチもなさなければならない。

 次に、墓の形態からみると、百按司墓の本来の形態は、自然の洞窟にジャフンを用いて家形の墓室をつくり、そのなかに木棺を安置するものである。陳侃の「使琉球録(1534年)」に「王及び陪臣の家の若きは、則ち骸匣をもって山穴中に蔵し、仍ほ木板を以って小牖戸を偽り、歳時の祭掃には則ち啓鑰して之を視る。蓋し木朽ちて骨暴露するを恐るるなり」とある。これは王やその一族の骸匣(骨を入れる箱)を山の穴にしまい、木で小さな窓から出入口をつくったのか、はっきりしないが、百按司墓の本来の形態を彷彿させるものがある。一六〇六年の夏子陽の「使琉球録」に「今に至るまで改めず」とあり、当時にも、そのような形態の墓があったころがわかる。1534年、あるいは1606年に冊封使によって確認されていることは、百按司墓を歴史的位置づけをするうえで重要である。

  このようにみてくると、百按司墓は、十六世紀初期に位置づけることも可能であり、その墓の持つ意義は大きく、百按司墓本来の形態の保存、辛うじて残っている漆塗りの木棺の保存対策は急を要し、本格的な調査研究がなされるべきである(その後、村指定文化財に指定される)。

※万暦5年(1577年)に修復ありか?
 スケッチは昭和2年山関博士を案内のとき、スケッチの一部(島袋源一郎)とある。スケッチの
 原本は東恩納文庫からのコピー。
 ・百按司墓や大北墓などのある運天港、「北山の歴史」を描く上で重要な拠点である。



2018年11月21日(水)

 14世紀末から15世紀にかけて『明実録』に山北王、山北王珉、山北王攀安知王が登場する。その史料から三山北王の時代を素描してみる。
  ・琉球国山北三王(山北王怕尼芝・山北王珉・山北王・山北王攀安知)
  ・山北王時代の支配領域
  ・明国との交易品
  ・山北王の滅亡
  ・怕尼芝王(長男)は山北王、次男は沖永良部島へ、三男は与論島へ?)

【山北王怕尼芝】(7)
(工事中、「明実録」が手元になく山北王怕尼芝部分は仮)

①洪武16年(1383)1月 
 詔して琉球国中山王察度に鍍金銀印并びに織金文綺・帛・紗・羅凡そ七十二匹を賜う。

②洪武16年12月
 山南王承察度も亦た之の如し。亜蘭匏等は文綺・鈔・帛を賜うこと差有り。

③洪武17年1月
 時に琉球国、三王雄長を争いて相い攻撃す。使者帰りて其の故を言う。是に於て亜蘭匏等を遣(や)りて還国せしむるに、并びに遣使した中山王察度に勅した曰く「王、滄溟の中に居り、崇き山環(めぐ)れる海に国を為す。事大の礼行わざるとも亦た何をか患(うれ)えんや。

④洪武18年1月
 王能く天を体して民を育て、事大の礼を行う。朕即位してより十有六年、歳ごとに人を遣わして朝貢す。朕、王の至誠を嘉し、尚佩監奉御路謙に命じて王の誠礼に報わしむ。何ぞ期せん、王復た遣使し来りて謝す。今内使監丞梁民をして前の奉御路謙と同(とも)に符を齎(もたら)して王に渡金銀印一を賜わしむ。近ごろ使者帰りて言わく、琉球の三王互いに争いて農を廃し民を傷つく、と。

⑤洪武21年1月
 朕甚だ焉(これ)を閔れむ。詩に曰く、天の威を畏(おそ)れ、時(ここ)に于て之を保たん、と。王其れ戦を罷め民を息(やす)ましめよ。務めて爾の徳を脩むれば則ち国用永く安からん」。山南王承察度・山北王怕尼芝に論して曰く「上帝生を好めば、寰宇の内に生民衆(おお)し。天、生民の互相に残害するを恐れ、特に聡明なる者を生じ之に主たらしむ。

⑥洪武21年9月
 邇者(ちかごろ)琉球国王察度、事大の誠を堅くし遣使し来りて報ず。而して山南王承察度も亦た人を遣わし使者に随い入覲せしむ。其の至誠くを鑑(み)、深く用て嘉納す。近ごろ使者、海中より帰りて言わく、琉球の三王互いに争い農業を廃棄し人命を傷残す、と。

⑦洪武27年
 朕之を聞き?憫に勝(た)えず。今遣使し二王に論して之を知らしむ。二王能く朕の意を体し、兵を息め民を養いて以て国祚を綿(つら)ぬれば、則ち天必ず之を祐(たす)けん。然らずんば悔ゆるとも及ぶことを無からん。


山北王珉】(1)

①洪武28年(1395)正月丙申(1日)
 是の日、朝鮮国李旦・琉球国山北王珉・貴州宣慰使安的并びに金筑等処の土官、各々方物・馬匹を進む。


【山北王攀安知】(12)

①洪武29年(1396)正月己巳(10日)
 琉球国山北王攀安知、其の臣善佳古耶を遣わし、中山王察度、其の臣の典簿程復等を遣わし、各々表を奉り馬及び方物を貢す。詔して来使三十七人に錠を賜う。

②洪武29年(1396)十一月戊寅(24日)
  琉球国山北王攀安知、其の臣善佳古耶等を遣わし、中山王世子武寧、其の臣蔡奇阿敖耶等を遣わし、馬三十七匹及び硫黄等の物を貢す。并びに其の寨官の子麻奢理・誠志魯二人を遣わして太学に入れしむ。是れより先、山南王其の姪三五郎□を遣わして太学に入れ、既に三年にして帰省す。是に至り、復た麻奢理等と偕に来りて太学に入るを乞う。詔して之を許し、仍お衣巾・靴韈を賜う。

③洪武30年(1397)二月丙戌(3日)
 琉球国中山王察度、其の臣友賛結致を遣わし、山南王叔汪英紫氏、渥周結致を遣わし、各々馬及び硫黄を貢す。

④洪武30年(1397)十二月癸巳(15日)
  琉球国山北王攀安知、恰宜斯耶を遣使し、中山王察度、友賛結致を遣使し、各々表を上(たてまつ)りて馬及び硫黄を貢す。

⑤洪武31年(1398)正月(8日)
  琉球国山北王攀安知、その臣を遣わして表を進め馬を貢す。

⑥永楽元年(1403)三月丙戌(9日)
  琉球国中山王の従子三吾良□等に宴を会同館に于て賜う。
琉球国山北王攀安知、善住古耶等を遣使し、表を奉りて朝賀し方物を貢す。鈔及び襲衣・文綺を賜う。善佳古耶、攀安知の言を致し、冠帯・衣服を賜いて以て国俗を変ずるを丐(こ)う。上、之を嘉し、礼部に命じて其の国王曁(およ)び臣に冠帯を賜う。

⑦永楽2年(1404)三月己未(18日)
  琉球国山北王攀安知、亜都結制等を遣使して方物を貢す。銭・鈔、文綺、綵幣を賜う。

⑧永楽2年(1404)四月壬午(12日)
 詔して汪応祖を封じて琉球国山南王と為す。応祖は故琉球山南王承察度の従弟なり。承察度は子無く、臨終に応祖に命じて国事を摂らしむ。能く其の国人を撫し、歳々に職責を修む。是に至り隗谷結制等を遣使し来朝して方物を貢す。且つ奏して山北王の例の如く冠帯・衣服を賜わんことを乞う。
 上、吏部尚書蹇義に論して曰く「国は必ず統有り、衆を撫し、且つ旧王の属する所の意なり。宜しく言う所に従いて以て遠人を安んずべし」。遂に遣使して詔を齎して之を封じ、并びに之に冠帯等の物を賜いて其の使いと倶(とも)に還らしむ。

⑨永楽3年(1405)四月丙寅(1日)
 琉球国山北王攀安知、赤佳結制等を遣使して馬及び方物を貢す。賜うに鈔錠・襲衣・綵幣表裏を以てす。

⑩永楽3年(1405)十二月戊子(26日)
 琉球国中山王武寧、山南王汪応祖、山北王攀安知、西番馬児蔵等の簇、四川・貴州の諸士官、各々人を遣わして方物を貢し、明年の正旦を賀す。

⑪永楽13年(1415)四月丙戌(19日)
 琉球国中山王思紹並びに山北王攀安知、人倶に遣使して馬及び方物を貢す。

⑫永楽13年(1415)六月辛未(6日)
  琉球国中山王思紹・山北王攀安知の使臣辞す。悉く鈔幣を賜う。


2018年11月20日(火)

 昭和60年頃、何気なく沖縄研究に手を染めはじめています。『じゃな誌』の執筆をお願いされています。並行して『角川沖縄地名辞典』の羽地地域(現名護市)と今帰仁村の文化財の項目をまとめています。夏休みや春休みになると、名護市史(市民会館内)に入り浸っていました。名護市史の「わがマチ・わがムラ」(羽地から久志地域)の歴史部分の執筆をしていたことがあります。その時、宮城真治資料を手にすることがありました。その時、下の本部町具志堅の上間家の辞令書(宮城真治の手書き)を拝見。その辞令書を紐解いたことがあります。それが古琉球の時代のムラの形(ムラとハラ)について、近世以後のムラとハラ域と古琉球とは異なるのではないか、ということで嘉靖42年7月(1563)の辞令書の間切(まきり)とムラ(村)、そして原(ハル)域との関係をずっとテーマしてきたことがあります。辞令書の調査結果を想定(図)にしたことがあります。古琉球の時代のことに触れるには、どうしてもまきり(間切)、ムラ(村)、そしてハル(原)域、そして租税について意識する必要がありそう。

2003.7.31(金)(メモ)(「じゃな誌」に掲載、昭和60年発行)(上間家の文書と赤墓については別稿で)

【上間家にあった古琉球の辞令書】(写)

 この辞令書は戦前具志堅の上間家にあったものを宮城真治がノートに写しとったものである(ノートは名護市史所蔵)。「具志堅上間家の古文書」とある。名護市史の崎原さんに捜してもらい、ファックスで送ってもらった資料である。

 この辞令書は嘉靖42年7月(1563)発給で、古琉球の時代のものである。首里王府から「あかるいのおきて」(東掟)に発給された辞令書である。現在の具志堅が今帰仁間切内(1665年以前)のムラであった時代である。

 現在の具志堅の小字(原名)と辞令書に出てくる原名を比較してみた。三つの原名は想定できそうだ。但、近世でも原域の組み換えがなされているの、確定はなかなか困難である。小地名まで合わせみると、いくつか合致する。

     ・たけのみはる→嵩原?
     ・まへたはる→前田原(現在ナシ)
     ・とみちやはる→富謝原 
     ・きのけなはら
     ・あら(な?)はなはる→穴花原
     ・たこせなはる
     ・あふうちはる
     ・ふなさとはる
     ・まふはる→真部原
     ・あまみせはら

 貢租に関わる「ミかない」いくつもあり、季節ごとに「ミかない」(租税)収めていたのかもしれない。
     ・なつほこりミかない
     ・せちミかない
     ・なつわかミかない
     ・おれつむミかない
     ・正月ミかない
     ・きみかみのおやのミかない
     ・けふりのミかない

 のろ(ノロ)・さとぬし(里主)・おきて(掟)のみかないは免除され「あかるいのおきて」(東掟)一人に給わった内容である。
 古琉球にノロ・里主・掟・東掟の役職があったことが、この「辞令書」から読取ることができる。

【辞令書の全文】(一部不明あり)

  志よりの御ミ事
   みやきせんまきりの
   くしけんのせさかち
   この内にひやうすく みかないのくち 御ゆるしめされ
   五 おミかないのところ
   二 かりやたに 十三まし
   たけのみはる 又まへたはるともに
  又 二百三十ぬきち はたけ七おほそ
    とみちやはる 又きのけなはら 又あらはなはる
  又 たこせなはる 又あふうちはる 又ふなさとはる
  又 まふはるともニ
    この分のミかない与
    四かためおけの なつほこりミかない
  又 くひきゆら ミしやもち
  又 四かためおけの なつわかミかない
  又 一かためおけの なつわミかない
  又 一かためおけの おれつむミかない
  又 一かためおけ 又なから正月ミかない
  又 一lくひき みしやもち
  又 五かためおけの きみかみのおやのミかない
  又 一くひ みしやもち
  又 一かためおけの けふりミかない共
    この分のみかないは
    上申・・・・・・
    ふみそい申しち
    もとは中おしちの内より
  一 ミやうすくたに ニまし
    まへたはる一
    この分のおやみかない
  又 のろさとぬし
    おきてかないともニ
   御ゆるしめされ候
  一人あかるいのおきてに給う
 志よりよりあかるいのおきての方へまいる
   嘉靖四十二年七月十七日

 
     古琉球のまきり(間切)ムラ(村)ハル(原)域の想定図

2018年11月19日(月) 

 今帰仁城内の火神の祠と監守来歴碑記について「北山の歴史」と関わるものである。 

今帰仁城跡内に上の御獄、下の御獄、カラウカー、そして「火神の祠」などの拝所がある。「火神の祠」な城内の本丸と呼ばれる主郭にあり、『琉球国由来記』(1713年)「今帰仁里主所火神」とあるのが、この火神と見られる。また1743年の「今帰仁旧城図」には、単に「火神」と記されている。火神の祠は、ウドゥングァーやシルウチヌウドゥングヮー(城内の御殿小)(『鎌倉芳太郎ノート』大正末)と呼ばれている。

 城内の火神は、『琉球国由来記』(1713年)に「今帰仁里主所火神」とある。また「今帰仁旧城図」で「火神」と記される祠の前方には、祠に関わる「山北今帰仁城監守来歴碑」や石灯籠が建立されており、以上のことから第二尚氏系統の今帰仁按司(第二監守)関係の火神を祭ってあることがわかる。シマ(字今泊)の神人がウンジャミ(海神祭)のとき、カラウカー・火神の祠・アザナ・上の御獄(テンチジ)・下の御獄(ソイツギ)の順で御願をするが火神もその一つになっている。

 写真(昭和32~35年)は、火神の祠を正面からみた状況である。赤瓦屋根が一部壊れ、内部に陽光がさし込み、正面の木の扉が崩壊している。祠の壁はツタが生え、漆喰で塗り固められ、剥離した部分から、あい方積みで積まれた石積みの様子が伺える。

 下の写真(昭和35年)の祠の前の碑は今帰仁按司十世宣謨(王子)が1749年に建立した「山北今帰仁城監守来歴碑記」と石灯籠である。石灯籠には「奉奇進石灯炉」や「今帰仁王子朝忠」の銘が刻まれている。

  今帰仁城跡の前方(ハタイ原)に今帰仁ノロ火神、阿応理屋恵按司火神、トモノハーニノロ火神、古宇利(フイ)殿内火神などの祠がある。それぞれの火神の祠のある場所は、神役を勤めた神人の居住した屋敷跡で、移り住んでも旧地に火神を残し御願をする習慣が読み取れる。

 城内の火神も同様に考えると、1665年北山監守の七世従憲は首里に引き揚げたが火神はそのまま城地に残したもので、それが十八世紀初頭の『琉球国由来記』に「今帰仁按司里主所火神」さらに十世宣謨の時の「今帰仁旧城図」で「火神」と記されているのであろう。

 火神の祠と山北監守来歴碑記、それに石灯籠は昭和62年に現在地に移設されるが、これら二枚の写真は昭和30年代前半の、移築整備以前の様子をとどめ、当時の状況が知れる。

 
        ▲移築前の火神の祠と監守来歴碑記(1987年)

2018年11月18日() 

 『伝説補遺沖縄の歴史』(島袋源一郎著)(昭和7年)がある。尚思紹王統の項目で「北山の興亡と其の後胤」は「北山の歴史」を深く広がりとして見ていく必要がありそう。「補遺伝説」や「野史」と使われているためか、研究から遠ざけられているようにみられる。しかし、正史と目される『中山世譜』と同様な流れで書かれている。時々、野史の正史を描いてみたらというのは、そのことである。




2018年11月17日(土)

  (工事中)

2001.9.18(火)メモ

 今回の目的は1975年に撮影された「神人」の16ミリ映画の映写会とそのフィルムの伝達式に出席(京都・大阪)するためであった。大阪に住んでおられる沖縄の方々が25年前(2001年から)の映画をどうみるのか、そして25年の歳月の一人ひとりのどのように生きてきたのか。そのことを確かめること。そのフィルムを保存し、活用していくことの責任が肩にのしかかってくる(詳細については「沖縄タイムス9月16日朝刊参照)。

 もう一つ目的があった。それは琵琶湖畔の西湖をいくことにあった。京都で学芸員をしている玉城さんが、一帯の情報をつぶさに調べてくださった。さらに『古代近江の朝鮮』の本を下さり助かりました。感謝。お勧めの石塔までいくことはできませんでしたが、湖西線を西大津・坂本・雄琴・小野・和邇・蓬莱などの駅名を追いかけながら様々な想いを巡らすことができた。司馬遼太郎の「街道をゆく」のスタートの地であることは知っていたが、国家が成立する以前と以後のことを近江のこの地に重ねあわせながら琉球のことを考えていた。琵琶湖の湖畔に立ち、渡来者のこと、職能集団のことなどについて考えていた。それにしてもいい旅でした。


2018年11月16日(金)

 「山北今帰仁城監守来歴碑記」(県指定の文化財)歴史文化センター内

 昨年12月「山北今帰仁城監守来歴碑記」が県指定の文化財となった。今帰仁城跡の主郭(本丸)の火神の祠の前に立っている石碑。現在立っているのはレプリカで、原物は歴史文化センターのエントランスホールに展示してある。碑はニービヌフニ(微粒砂岩)で高さ約117㎝、幅約41㎝、厚さ9㎝である。石碑は乾隆14年(1749)に建立され、建てたのは今帰仁王子(十世宣謨)ある。火神の祠の前に石灯籠があり、その一基に石碑の建立者である「今帰仁王子」の名が刻まれている。「北山の歴史」を書くベースになったのは、その碑文と『具志川家の家譜』である。それと関連して「百按司墓」「大北墓」「津屋口墓」「今帰仁阿応理屋恵」などであった。

 当時の歴史の流れを示している。
  球陽(琉球)は四分五裂し、三山が鼎立していた情勢
  佐敷按司の巴志が兵をおこし統一
  北山は中山から遠く離れ教化し難い
  変乱を起こす恐れあり
  巴志の次男の尚忠を派遣し監守制度を敷く
  尚徳王のとき国政が乱れ、転覆
  尚円が王になると大臣を輪番で派遣し監守させる
  尚真王は第三子(尚紹威)し監守となる
  康煕四年(1665)七世従世の時、住まいを首里に移居(首里で典礼を行う)
  乾隆七年(1742)に城地を郡民に授け典礼(儀式)をさせることに
  宣謨は過去のことを明らかにし、山北は鎮守統治してきたのは我々の子孫である
  そのことを石碑に刻み永く伝える 

 碑文の内容を記すと以下の通りである。

  「琉球は四分五裂し、ついに三山が鼎立する情勢となる。佐敷按司
  の巴志が兵を起こし統一する。北山は中山から遠く離れ教化し難く、
  また地形が険阻である。そのため変乱を起こす恐れがあり、次子の
  尚忠を派遣して監守させ、永くその制度を置いた。尚徳王に至って
  国政が乱れ禍を招き転覆する。
尚円が王に推挙されると、しばらく大臣を輪番で派遣して監守させる。弘治年間に
尚真王は第三子の尚韶威を派遣して監守となる。彼が吾(十世宣謨・今帰仁王子)の元
  祖である。代々今帰仁城を鎮め典法を守ってきた。康煕4年(1665)
  七世従憲の時、住宅を首里に移し今帰仁城の旧跡や典礼などを掌っ
  た。乾隆7年(1742)に城地を郡民に授け、典礼を行わせようとした。
  ところが、宣謨は往時のことを禀明し、元祖以来山北を鎮守し統治す
  る者は吾が子々孫々しかない。宣謨はそのような来歴を記し、石に
  刻み永く伝える」
 皇清乾十四年己巳秋八月穀旦十世孫宣謨今帰仁王子朝忠謹立

 この碑文から、沖縄の歴史の流れや監守設置の理由や監守引き揚げ、また今帰仁グスクの管理の移管や祭祀の状況を知ることができる。今帰仁グスクの歴史の一端を知ることができる貴重な史料である。当時の歴史観を伺うことができる。十世宣謨の当時の判断が今帰仁グスクの管理や所有権が今に影響を及ぼしている。

  
                     
▲移築された火神の祠と監守来歴碑記

2018年11月15日(木)

 運天港から見上げる運天森に「源為朝公上陸之趾碑」がある。大正11年に建立されている。建立予告が小さな記事が新聞にでている。『北山史話』(新城祐著)を丁寧に読み通している。

 その中に「大正拾壱年五月、国頭郡教育部会の発起で為朝の上陸を記念するため、沖縄史跡保存会によって、運天森の松林の中に、「鎮西八郎源朝上陸の趾の碑」が建立された」とある。

 また、為朝公を忍ぶ唄が記されている。その唄は当時の生徒達が唄っていたと聴かされていた。その唄の作者が「当時の国頭郡長 田村浩」だとある。田村 浩の『琉球共産村落之研究』(昭和二年発刊)(その初版本は鳥越憲三郎先生宅を伺った時にいただいた本。確か千里が丘(大阪府)(平成2年)

 一、鎮西八郎為朝公、東南の勇士やみがたく
   大海原に船出して、着きしはここ運天港
 二、運天森の松風に、高くそびゆる石ぶみは
   為朝公が上陸の跡を永久に語るなり
 三、森の彼方の岩むろは、為朝公が仮の宿
   結びし夢を尋ねれば、ありし昔ぞ偲ばるる
 四、英雄逝いて七百年、うるまが島の浦波は
   君がいさをを讃えつつ調べも高くうたうなり

http--yannaki.jp-20177gatu.html 2017年7月23日メモ

 今から五十年前(1974年から)、少年期の思い出でもありますので年月日は正確ではないと思っていま
すが、悪しからず御叱正の程を願います。
  大正七、八年(大正十二年か)小学生の時、兼次校から運天港まで約一里半の遠足がありました。喜嬉
  として同級生が受持先生に引率され、二列縦隊で行ったものであります。
  明治時代は今帰仁間切と称し現在の「字」が「村」と称えられていた。廃藩置県の時に今帰仁間切から
  今帰仁村に、また村から字に改称されたことになっております(※間切が村に、村が字になるのは明治
  41年)。運天港の海岸の岩の中にあるモモザラ墓(百按司墓)には人骨が無造作に山積されており、先
  生に説明によると源為朝公の配下所謂源氏の落ち武者の遺骨といわれており、源為朝公上陸の地とし
  て県下でも有名である。
  大正初期(大正5年)に村役場は運天から仲宗根に移され、仲宗根の大井川町から運天まで自動車の
  通れるような道路が出来、その開通式(大正12年)と為朝公上陸記念碑も建立(大正11年)されたので、
 その除幕式を兼ね盛大な記念式典が挙行されました。当日の祝賀会においての源為朝公を忍ぶ歌を記
 して、
   一、鎮西八郎為朝公、東南の勇士止み難く第海原を船出して着し所は運天港
   二、運天森の松風と、高く聳ゆる石踏は、為朝公が上陸の跡をば永久に語るらん
   三、英雄逝て七百年、うるま島の裏波は、君が功を讃えるつつ調べも高く歌うなり
 斯くして式典は恙なく済み余興としてハーリー競技に始まり、夜は古典舞踊や為朝公上陸記念祝賀会
にふさわしい余興がくりひろげられ有意義な催しであった。



『琉球共産村落之研究』(田村 浩著)は、ムラ・シマを見ていくとき、欠かせない資料である。そのこともあって度々資料にしている。


http--yannaki.jp-kamiasagi01.html(名護グスク麓のムラ:東江・城・大兼久)

l2018年11月14日(水)

 『大宜味村史』(言語編)の言語地図のコメントを執筆中。各字の方々の語り方や表情を思い浮かべながら書く必要がありそう。今日は、大宜味村饒波と根路銘の方々の話し方や気質などに注目してみた。合間をぬって饒波から山手に上り、根路銘に下りてみた。詳細については専門員の先生方にまかせて、ムラ・シマの個性について言語地図に生かすことができそう。

  


  



2018年11月13日(火)

 
今帰仁村兼次の「諸決議録」(1957年1月以降)に目を通す。一年間通して字兼次の決議録に目を通してみると、どのような出来事や動きがあったのか。それを押さえておくことで、ムラでの足が地についた聞取りができそうである。

・1956年12月29日 朝常会
   評議員選出の件
    売店主任、前当務各団長外十名とする。新評議員
  ・1957年度 区取締役員
  ・粉霧器を買うことを決定

・1957年1月5日 朝常会に於いて
 ・暴風災害農協資金について
   借入者、災害に招く困って居られる方へ貸付する
 ・パイン園区払下げについて
   パイン栽培土地の□の方々に優先す
   希望者名(略)
 ・学校負担金は区費割当して
   各戸月三円とす
 ・農事奨励会 一月十一日にする組合総会傍々
   遅刻叉は欠席者は配当金より各自五〇円の罰則とす
 ・区費予算額六〇、四二〇円とす
   内負担額は五〇、二二四円とす

・1957年1月11日 朝常会
  第一期作水稲前代の件
    村の指示に準じて播種を示す 然し雨が降らなかった場合は順延する様にする
    薬品は区会計より出し日取りは当務に委任する
    当務は早日にこれを実践する

 (以下つづく)
 




2018年11月12日(月)

 「戦後60年の軌跡」として企画展示を開催したことがある。その時、資料目録まで作成したことがある。それらの資料を使って「村制110年の歩み」(戦前資料含めて)として講話をおこなった。当時の様子を画像に遺してあるので、次へのスタートができそう。「兼次誌」がスタート。まだ公民館資料の箱を開けるのはこれから。兼次のことを現場と資料と原物を結びつけるために、次回のムラ・シマ講座は兼次としました。どれだけ記憶を呼び戻すことができるか。楽しみだ!

 

 


2018年11月10日(土)

 今日はムラ・シマ講座。出発前にレジメの確認を。


       ▲平敷のウタキで                          ▲平敷ガーへ




                             ▲かつてのタキヌウガンの道筋

2018年11月7日(水)

 以下の「北山系統の一族とムラ」は大宜味村田港の字誌のための講話の骨子です。「北山の歴史」の裾野まで見ていくための試論です。山原の主な五つのグスクまで広げてみます。そこまで掘り進めてみる必要がありそう。見通しはまだですが、手応えは充分あり。まずはやってみます(ムダかも。楽しいものだ(苦笑).

大宜味村田港           2018年6月15日(日)(講話の骨子) 

北山系統の一族(一門)とムラ 

 北山が滅ぶ(1416年)と人々が各地に離散したみられる。北山の全てのムラや人々が離散していったわけではなかろう。北山系統の一族が離散していった痕跡が伝承にのこっている。離散していった経過や人物がどれほど史実を伝えているか不明である。一族の伝承が、一つのストーリーとして、史実かどうかとは別に根強く継承されている。一方で、そのストーリーが史実かどうかを問うているところもある。

 これまで、村全体が移動、あるいは離散したりと見ている節がある。ところが、ムラのある一門が移動してきたり、離散したりしている姿が見受けられる。そのことを明確にするため、山原の各地のムラの一門の動向を大ざっぱだが見極める必要がある。各村の各一門にどのような伝承を持っているか。その作業を進めてみる。そこから、いくつか結論を導き出してみることに。どのような法則性が見い出せるか、興味深い結果がでてきそうだ。さて・・・

 各地の一族(一門)は、伝承とする系統図がある。それぞれの系統図は複雑に絡み合っている。その複雑さと、一族(一門)のルーツを辿ろうとする心理が、今に継承されつづけているように見える。それらの系統図から山原に所在し、関わる一族(一門)を取り出してみる。

・天孫氏の系統
  ・湧川村(ムラ)(今帰仁村(ソン))の根屋(新里屋)
・北山大按司の系統
  ・湧川村(今帰仁村)の根屋(新里屋)
  ・親川村(羽地村・現名護市)?根所
  ・大宜味村(大宜味村)の根屋
  ・渡久地村(本部町)の根屋
  ・屋部村(現名護市)の根屋

・今帰仁按司の系統
  
・古北山の系統
  ・東江村(現名護市)の徳門
  ・一名代村(大宜味村)の根所
・北山王の系統

  ・湧川村(今帰仁村)の根所(新里屋)
  ・健堅大親の系統
  ・健堅村(本部町)の根屋
  ・具志堅村(本部町)の花城
  ・親泊村(今帰仁村)の根所
  ・天太子大神加那志・龍宮女大神加那志の子、北山大神加那子を祀る。
         
参考文献


【根謝銘城(上城)の系統】(『大宜味村史』所収)

 大宜味村謝名城に根謝銘グスク(上城)がある。大昔、中山英祖王の後胤の大宜味按司の居城とされる。



【老女田港乙樽】(親孝行女の伝承)

 乙樽の生家は屋号根謝銘屋と称し、仲北山城主の後胤にして根謝銘城より田港村に村立した思徳金の子孫であるという。また同家には近代描いた乙樽の肖像画を祀ってある。乙樽というのはこの地方では一般に用いない名前である。それからすると家格の程を察知する事ができる。乙樽の墓は田港の南方にある。


●【久志川田屋号根謝銘屋(当主奥元氏)】(『沖縄県国頭郡志』)(現在:東村川田)

 同家の始祖はヒギドキ(ヒゲドケ)と綽名せられ仲今帰仁城主の子孫にして、本部村満名上の殿内の次男なるが、ある事変に祭し一時名護城に移り(その妻は世富慶村カニクダ屋の女なりしという)、これより大宜味根謝銘に避難し後、国頭間切浜村赤丸の崎の窟及び伊地村後方の窟に隠遁し、更に山中を横切りて川田の山中イェーラ窟に遷居せり。今その近傍、内福地原に1500坪ばかりの畑ありて、当時の開墾に係ると伝う。然るに此処は昼なお薄暗き森林にて山の精強く住みよからずとて、道を海岸に開き、而して現屋敷の後方台地に移転せりという。

 川田は八戸中十数戸を除く外、皆同家の胤孫にして①根謝銘屋及びその分家なる②西の屋内(イリヌヤ)、③西の根屋、④東の殿内(東の比嘉)、⑤新門(ミージョー)、⑥鍛細工屋、⑦大川端(元ニーブ屋)の七煙より分れたり・・・。
 以前根謝銘屋には絹地の衣類、古刀及び黄金カブの簪などの遺品があった。火災があって今あるのは類似の品。首里長浜氏の記録にあり。

   
  ▲北山系統の伝承をもつ根謝銘屋(川田)      ▲根謝銘屋の側にある勝之宮


【川田にある仲北山御次男思金の墓】

 東村川田の福地川右岸(下福地原)に「仲北山 御次男思金」と記された墓がある。墓の前にサキシマウオウの大木(東村指定:天然記念物)がある。上系図に「次男 思金」の人物は登場してこない。「思徳金」のことか。あるいは記述の誤りか確認の必要あり。いずれにしろ、川田の根謝銘屋の一門の持つ北山系統とする伝承は根強く継承されている。その墓のある場所はウンダチと呼ばれ、ピギドゥキ(ピキヌカン:引の神)を祀った墓のようである。川田の根謝銘屋一門が始祖の墓としてシーミーの時に拝んでいる。

 
▲「仲北山御次男思金」の墓       ▲東村指定のサキシマスオウの板根

・東村川田に北山盛衰にまつわる伝承あり。

・『沖縄県国頭郡志』(大正8年)に「「旧家由緒」に口碑伝説、「長浜氏の記録」あり。
・始祖の墓として根謝銘屋一門が清明祭(シーミー)の時に拝む。


●【大宜味村田港】

・屋号根謝銘屋(首里長浜系氏の記録)仲今帰仁城主の子孫だという。
 新屋松本は仲今帰仁城主の子孫なる思徳金は今帰仁城監守の滅亡に祭し、その四子を引き連れ大宜味根謝銘城の叔母の許に隠れ後塩屋湾奥にありて閑静なる田港に村立する。

 その長男を兼松金という。次男真三郎金は東りの松本の祖、三男思亀寿金は仲門松本の祖にして、四男真蒲戸金は叔父思五良金の養子となり川田村根謝銘屋を継ぐ。

 本家田港の根差目屋には絹衣数種黄金カブ簪一個を秘蔵せり。


  
   ▲ノロ殿内の籠          ▲田港御嶽の神 

【田港村は田港間切創設時の同村である】

 1673年に国頭間切と羽地間切を分割して創設された間切である。間切創設当初は田港間切、1713年の頃には大宜味間切となっている。間切名の改称がいつなのか、明確な史料の確認はまだだが、17世紀末と見られる。その頃(康煕34年:1695)に国頭間切と久志間切との境界線の変更(方切)が行われている。その時、田港間切の田港村にあった番所を大宜味村に移動し、間切名を大宜味間切と改称した可能性がある。番所があった田港村のウタキに20余の香炉が置かれているのは番所があったことを示しているのかもしれない。香炉が置かれた(奉寄進)年代は1800年代以降。大宜味村のウタキに10数基の香炉が置かれているのも番所が置かれていたことに起因しているのであろう。ただ、塩屋にも番所が置かれていたので、同様の数の香炉がウタキにあるかもしれない(未確認)。
 大宜味間切の番所は田港村大宜味村塩屋大宜味(大兼久:昭和5年分離:現在)

キガー(滝川)】(寺屋敷)(「沖縄県国頭郡志」「大宜味村史」)

 滝川のほとりに寺屋敷と称する所あり。260年前定水和尚が居た所の跡だと伝えられている。定水和尚は(土地の人はダチ坊主と呼ぶ)首里新城家の祖先で王府に仕えて重職にあった人で寛文5年(1665年)国王尚質王重臣を集めて尚真王以来派遣していた北山監守を撤廃せん事を諮る。時定水は北山の地が僻遠にしてまだ教化が普及しないから撤廃は早いとなし意見の不一致となる。王嚇と怒り曰く「汝何の故を以てか尚早しとなす。予不徳にして感化未だ国頭に及ばざるの謂んるか。と詰責され定水答ふる能はず、官職を辞し仏門に入り剃髪して定水と号し閑静なる塩屋湾の東隅に退隠して悠々余生を送る。

 後定水は剛直なる民本主義の政治家で彼の在職の際八重山に於ける人頭税の荷酷なる事を説き、其の廃止論を唱え、又親々が往昔その領地を異にして食封を受けている者あるを本法とし、其の一を王府へ返納させしむべきことを提議する等の剛直無欲の人だった。彼は日本思想家で数回北京に赴き、彼地にて和歌を詠めるもの多しと、
 新城家口碑に

  定水はその後法用ありて上首せしことあり。時に国王自ら前非を悔い、度々仕官せんことを勧め給いしが固く辞して受けず直ちに大宜味に帰りば家族流涕止まざりきという。

 定水は死後首里の弁が岳の下にある拝領の墓に葬られ、其の祭祀料として百ガネーの土地を賜はり、此の地は今位牌を安置してある蓮華院(万松院)の有する所となっている。また塩屋小字の大川に塩屋山川なる旧家があるが此の敷地は同家の先祖がダチ坊に親しく仕えそのよしみで現在の敷地を定めて呉れたとの伝説がある。

 
  ▲田港の滝川(タキガー)  ▲田港のウタキの祠(20近い香炉)


【琉球国由来記】1713年)での祭祀

 ・底森 神名:イベナヌシ 田湊村
 ・ヨリアゲ嶽 神名:オブツ大ツカサ 塩屋村
 ・田湊巫火神 屋古前田村 (按司からの提供物あり)
 ・屋古・前田村での祭祀
   ・百人御物参/稲二祭/束取折目/柴指/ミヤ種子/芋ナイ折目/三日崇
            稲穂祭/稲穂大祭/束取折目/海神折目/柴指/芋折目
 ・城村・喜如嘉村(按司・惣地頭からの提供物あり)

【沖縄島諸祭神祝女類別表】明治17年頃)

 田港村 本ノロ一人 若ノロ一人(塩屋)
     田港村神アシヤゲ/屋古前田村神アシヤゲ/塩屋村神アシヤゲ/根路銘村神アシヤゲ

 
 
      田港の神アサギ             屋古の神アサギ              


2018年11月6日(火)

 11年年前に「北山(山原)の歴史と文化」で報告したレジメが出てきた。36の項目を並べてある。北山の歴史と関わる史料を追加整理してみることに。現在も奄美の島々に遺る琉球と北山と関わる出来事も歴史も視野に入れてみることに。どのような歴史が描けるのか。祭祀もクニを統治する手段としていたことや監守制度、北山にあずけられていた「おもろ」なども視野に入れてみる。

















2018年11月4日(

 「おおぎみ展」が開催されていたのでのぞいてみました。漆器と焼き物に関心がありました。大宜味村の屋嘉比ノロ家と城ノロ殿内の漆の丸櫃などを拝見したことと、今帰仁村の百按司墓の木棺の漆塗りを見ているので、その関心から。それとノロ家の丸櫃の調査に調査をしたことのある前田國男氏の作品に魅了されてでした。頭の切替えができました。

 
    ▲「おおぎみ展」の展示会場                   ▲前田圀男氏の漆器作品

2018年11月3日(土)

 午前中雨

【地方役人と御殿奉公】

 謝名の近世文書から首里と関わる記事を拾ってみる。首里奉公をした人たちと操り獅子(アヤーチ)を導入した直接史料は、まだ確認できないがその手掛かりとなるかもしれないので、その作業を進めてみる。首里奉公した間切役人の奉公先との関係をしることができる。首里奉公した間切役人は、後々まで奉公先と密接な関係があることがしれる。そのような関係で、操り獅子(アヤーチ)の謝名村へ導入された可能性がある。ここで掲げていないが、謝名村=平田村の平田村や平田掟が、『琉球国由来記』(1713年)より後の文書に度々登場してくる。そのことも気になる一つである。

[
謝名村:平田家文書(フイチヤー:古宇利掟屋)]

 ・兼次親雲上御事第四代世ノ長男、幼少ヨリ両惣地頭ノ御奉公勤勉之為、幼少ノ頃ヨリ両惣地頭ノ御奉公
  勤勉之為メ、掟・捌庫理・兼次夫頭役仰付次ニ惣山当ト・・・(道光20年死去)
 ・二男武太ハ両惣地頭ノ御奉公全ク勤勉致候ニ付、平田掟役勤ミ志慶真村夫地頭役被仰付、志慶真大屋子
  ト云フ。(光緒5年死去)
 ・長男屋真事、幼少ヨリ今帰仁御殿御奉公全ク勤勉ノ為、二十四五歳ニ古宇利掟役被付、・・・(咸豊11年死去)

[謝名村:玉本家(ナビタマヤー)文書

 ・嘉慶244御殿大按司様上国ニ付金城にや御旅御供被仰付同715日那覇川出帆与那
  国嶋漂着翌辰年6月帰帆仕申候事(上国できなかったが当時の奉公の様子がしれる)

[
勢理客村:大城仁屋の諸事日記]

 ・嘉慶20年亥2御殿御供被仰付寅年迄4ヵ年御仰詰相勤置申候事

 ・嘉慶23年寅正月故岸本按司加那志様生年御祝儀之時、躍人数被仰付首尾能相勤置申候
 ・嘉慶24年卯五月御嫡子今帰仁里之子親雲上屋加被仰付丑四月まで11ヶ年相勤置申候事

 ・道光11年卯1124御嫡子今帰仁里主親雲上御婚礼之時御雇被仰付罷登首尾能相勤置申候事
 ・道光19年疱瘡之時宮里殿内江御雇被仰付10月よ里12月迄昼夜相勤置申候事
 ・咸豊20年子3故湧川按司様御元服之時肝煎人被仰付罷候首尾能相勤置申候事

 ・咸豊23年卯3故湧川按司様御婚礼之時肝煎人被仰付□□首尾能相勤置申候事

[大和芸能の移入]

 伊江島では「組踊忠臣蔵」や「シティナ節」など沖縄と大和と融合した芸能がみられる。それは首里の伊江御殿や川平殿内で働く伊江島出身の奉公人が、薩摩や江戸上りにお供した際、大和の芸能を学び島の村踊りに取り入れたものとみられる。
 大和や首里の芸能が地方のムラやシマへの移入の流れを示す事例とみられる。今帰仁村湧川の路次楽も江戸上りに随行していった一族が湧川に寄留し村踊りの演目に加えている。組踊や棒術もそうであろう。そのようなことからすると、名護市川上、今帰仁村謝名、本部町伊豆味への操り獅子(アヤーチ)の移入を考える手掛かりとなりそうである。そのこともあって、操り獅子が大和からのものであれば、今帰仁間切と関わる奉公人(後に今帰仁間切の役人となる)の御殿や按司などの薩摩行きや江戸上りなどの随行者がその役割を果たしたのではないかと考えられる。

 操り獅子の移入について大和を中心に見ているが、中国や台湾からの移入はどうだろうか。

http--yannaki.jp-2007nen9ga.html

2018年11月2日(金)

 
過去の記録データが見つかったので復活してみました。各地の踏査をしています。一月で100枚の画像を取り込んでいるので、我ながらびっくり(復活するのに半日かかっています(苦笑)

2011nen7gatu.html
2007nen8gatu.html


2018年11月1日(木)

 下の写真は1956年12月25日の幼稚園の記念写真である。そこで注目しているのは、画像の慰霊塔である。玉城の慰霊塔の建立は昭和23年である。この慰霊塔は仲原馬場の忠魂碑に今帰仁村全体の慰霊塔が建立された。その時、玉城の慰霊塔から村の慰霊塔に合祀。その慰霊塔は現在なし。玉城は日本兵の沖縄住民虐殺のあった地である。仲宗根政善先生もその事件について調査され、調査記録が残されています。

 間もなく発刊される『玉城字誌』に収録されます。そのことについて九死に一生を得た玉城長盛氏が新聞記事(57.7.28)に投稿されています。その事件について故KN氏のNHKの取材で証言がありました。まだ関係者が存命なのでと。その後、故KN氏から原稿をいただきました。その原稿は字誌に掲載。故仲宗根政善先生の寄贈いただいたノートに調査記録があります。「今帰仁村史」(1975年)に発刊される以前の調査記録かと。その事件の経緯がわかってきました。

 もう一件、玉城では旧暦の1月14日(グソーの正月)に慰霊祭を行っていたこと(慰霊塔は村慰霊塔に移管、慰霊祭は合同で、玉城の慰霊塔は撤去)。

 1958年1月16日に慰霊祭が行われています。その時の「弔辞」がありますので紹介します。

 茲に1958年度の慰霊祭を挙行するにあたり謹んで慰霊の辞を申し挙げます。新春の若葉萌えるうららかな今日の日に御遺族の方々を初め区民多数参列の許に御焼香を致すことは只感無量凡て涙で曇って参ります。

 世界平和の為ならばと国家総動員。国民皆兵の標語の許に郷土を後に親兄弟妻子を捨て勇躍従徒につかれ第一戦に活躍されしも吾が軍の無謀なる作戦は皆様の尊い生命を犠牲にし帰らざる人となられ最早十三年有余の歳月が流れてしまいました。

 其の間御遺族初め区民一同も皆様方の無事の御帰を今日か明日かと、如何程待ち侘びたことでしょう。あの心情もむなしく今は唯草葉の陰の人となり愛する夫を失い柱と頼む父兄弟。命を命とも讃え難いいとしき、我が子を失い其の上戦争の被害を心身一掃に負はされながらも御遺族の奮闘は人類至上未曽有の悲惨なる戦渦を取り除き今は戦前の姿に立ちなおって参りました。

     (略)

願わくば吾が玉城の鎮守のとなられ何時までもいつまでも、此の高台より見守りくださいます様御祈り申し挙げて心から御冥福をお祈りし弔辞と致します

        一九五八年旧一月十六日
 
           玉城区長 座間味栄穏 


▲玉城幼稚園記念1956年12月25日(後方に慰霊塔:現在なし)