20018年11月29日(木)
29日(今日)からしばらくお休みします。
出かける前の時間、明治31年の新聞記事から。「山原船の往来と積載した品々」原稿の一部。(締め切り過ぎています。圧縮して提出します)。「今帰仁村字玉城誌」は終了。肩の荷を下ろしましたので、3日までお休みです。温泉でもつかってくるか。
2003.11.22(土)メモより
今日は来館者がひっきりなしである(今帰仁城跡が世界遺産に登録された頃)。来館者が続くと、一つのことに集中することができないことが多い。頭の中でいろいろなことが駆け回っている。そういうときは、今頭の中を駆け回っていることとは、関係ない資料を見ている。今日もそうである。すっと決まったので、どこかで、すでに報告しているのかもしれない。立ち止まって、明治31年頃の今帰仁間切の「輸出品」と「輸入品」について具体的にみていくのもいい。当時の「新聞記事」から紹介してみよう。
普段ムラやシマなどを歴史の動きや祭祀などを通してみているが、生活している立場に立って歴史を見ていきたいと考えている。そうすると、今私たちが常識としていることが、その時代に戻して考えたとき、常識ではないことに気づかされる。
明治31年頃の今帰仁の様子を輸出品や輸入品から何が見えてくるのだろうか。また、当時のお金もそうである。例えば、白米の輸出品価格の5120円800厘は、五千百二十円八十銭である。数え方は品物によって斤・丸・本・升・間・枚・個などがある。
納税は物納であるが、金銭による経済も行われている。それと品々には一方通行的なものもあれば、往来する品物もある。
【今帰仁間切】(明治31年4月7日付琉球新報記事より)
今帰仁間切から出している最大のものは製藍である。藍で知られているのは本部間切の伊豆味あたりである。今帰仁間切の藍壷があるのは山手の方。呉我山や今泊などの山手である。薪や木炭なども出されている。白米や砂糖、豚、石灰の輸出が目立っている。
輸入品は焼酎が筆頭である。石油や瓦や昆布は産出しないから当然の輸入品。甘藷の生産が村民が口にするには量が足りなかったのだろうか。ぼつぼつ西洋紬も山原に移入されている。瓦の移入があるが、学校や村屋に使われたのだろうか。地方でも瓦葺きが許されるようになった時代でもある。
輸出・入の品目から明治の山原の様子が伺える。今帰仁から石灰の輸出があったことも興味深い。
■輸出の部 ■輸入の部
品 目 |
輸出品数量 |
輸出品価格 |
種 類 |
輸入品数量 |
輸入品価格 |
|
製 藍 |
317790斤 |
1,5889円500厘 |
焼 酎 |
28480升 |
5696円000厘 |
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薪 木 |
471755丸 |
2830円530〃 |
茶 |
5694斤 |
911円040〃 |
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木 炭 |
244055斤 |
3660円825〃 |
石 油 |
1130升 |
158円200〃 |
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砂 糖 |
168047斤 |
6721円880〃 |
白 米 |
15815升 |
1897円800〃 |
|
白 米 |
42670升 |
5120円800〃 |
大 豆 |
11340升 |
190円700〃 |
|
角 下 |
224本 |
67円200〃 |
甘 藷 |
9224斤 |
73円792〃 |
|
楷 木 |
26本 |
2円600〃 |
素 麺 |
7000斤 |
56円000〃 |
|
徳 利 |
1185本 |
59円250〃 |
杉 板 |
190間 |
133円000〃 |
|
小 麦 |
150升 |
12円000〃 |
瓦 |
34150枚 |
136円600〃 |
|
杉四分板 |
30間 |
15円000〃 |
甕 |
41本 |
10円250〃 |
|
丸 木 |
1140本 |
91円200〃 |
小 麦 |
600升 |
48円000〃 |
|
杉七分板 |
30間 |
39円000〃 |
樽 板 |
261丁 |
52円200〃 |
|
豚 |
2475斤 |
297円000〃 |
鍋 |
2個 |
1円400〃 |
|
棚 木 |
6本 |
10円800〃 |
味 噌 |
500斤 |
22円000〃 |
|
ケキ木 |
80本 |
1円600〃 |
雑品入 |
233ケ |
186円400〃 |
|
石 灰 |
3900升 |
3円900〃 |
戸 棚 |
4ケ |
8円000〃 |
|
合 計 |
3,4823円085〃 |
昆 布 |
300斤 |
12円000〃 |
||
徳 利 |
2本 |
100〃 |
||||
芋 粕 |
250升 |
750〃 |
||||
粟 |
650升 |
52円000〃 |
||||
樫 木 |
10本 |
1000〃 |
||||
イク木 |
50本 |
125円000〃 |
||||
椛 |
300升 |
60円000〃 |
||||
製 藍 |
2400斤 |
120円000〃 |
||||
西洋綛 |
20斤 |
6円000〃 |
||||
合 計 |
9845円232〃 |
..
百按司墓(ムムヂャナバカ)
はじめに
百按司墓は、今帰仁村字運天の運天原に位置し、崖の中腹にある。ムムチャラバカ・ムムヂャナバカ、あるいは単にムムヂャナと呼ばれている。琉球の古語を収録した「混効験集」(1711年)に、「もヽぢゃら、諸の按司を云事」とあり、百按司墓の「ムムヂャナ」は、「モモヂャラ」から音韻変化してきたものということができる。この墓は、墓の名称からすると、諸按司、あるいはその一族を葬った墓ということになる。
すでに、村教育委員会・文化財保存調査委員会は、百按司墓を文化財指定への方向で調査を進めており、そのこともあって今回は、百按司墓の現況と文献を中心にみていくことにする。
百按司墓の現況
百按司墓へは、運天の村内(大北墓付近)から登っていくか、あるいは為朝上陸碑の入口から、東よりに下って行ったところにある。崖中腹の自然の洞窟を利用した数基の墓があり、それらが百按司墓である。東側から三基までが、石垣で囲まれており、第四・五墓所(東側から第一・二・三……墓所とする)は、ベニヤでふさいである。シーモン博士の百按司墓の写生で、第四墓所は「板カ門」になっている。運天では、板カ門のなった墓を今でもみることができる。最近、板カ門の墓は、石やブロックで閉じられつつある。五基の墓所のはかに、第一・四墓所の上部に墓室が設けられているが、ここでは、石囲いのある三基の墓所について現状を報告するにとどめたい。
(イ)第一墓所
数基の墓所のうちで、規模で最も大きく、高さ約1.8mの石垣を半円状に積み、漆喰で塗り固めており白っぽく見える。上部を開いた半円状の石垣正面には、二つの覗き穴が設けられている。石垣は、後世になってから積まれたものとみられるが、明治15年に国に提出された「白骨埋瘞之儀」の「見積書」に、石垣の修復について記されていることからわかる。覗き穴部分は、明治15年当時入り口として開いていたもので、修復工事伴って閉じたものとみられる。
石囲いの内部には、自然の洞穴を利用し、そこにジャフン(ヘツカニガキ)を柱や屋根板に使い、切妻造りの墓室を組み立ててあったとみられる。現在この原形は失われているが、屋根に使われた3.mの反りの入った棟木と七枚の板、それに柱や壁に使われた材木が残っている。
そこに、人骨の入った朱色の漆塗りの木棺が残っている。この木棺の屋根部分は失っている。東恩納寛惇著「琉球の歴史」で紹介されているものと、同じ型のものとみられる。木棺の内側に、朱色の漆がウロコ状に剥げかかり辛じて残っている。早急な保存対策が必要である。同墓所に、ほかに二基の木棺の一部分が残っている。その一基は、屋根部分はないが、脚(十本)のついた胴の部分が残っている。胴部側面は、緑色を帯びている。ももう一基は、胴部分二面とそれに脚が二本ついた状態にあり、赤みを帯びている。どの木棺も胴釘が使われている。この墓の形態は、ジャフンを用いて家型の墓室をつくり、その中に木棺を収めたものとみられる。昭和47年に運び込まれた甕が安置されており、百按司墓本来の形態を失わしめている。
(ロ) 第二墓所
東側から二番目の墓所で、高さ1.6m程の石垣を積み、2.8mと1.8mの二面でL字型に囲ってある。内部には、くされかかったジャフンの柱や板が十本程残っている。木棺の骨組みに使われた約六〇㎝の材木がある。墓所の中で、墓内部の崩壊が最も進んでいる。そこにも、昭和47年に運び込まれた五基の甕が並べられている。
(ハ)第三墓所
東側から三番目の墓所で、正面2.9m奥行き1.9m、高さ1.5~2.1mの石垣を、上からみると凵型に積んである。石垣内部には、ジャフンを用いて家型の墓室をつくり、屋根は中央部分に反りの入った2.7mの棟木、それに六枚の板で切妻造りになっている。
家型の墓室と石垣との間には、竹綱(チニブ)がたてられており、ここが外形上百按司墓本来の形を残しているものとみられる。墓室内には、木棺の一部と見られる材木が残っている。昭和47年に入れられた五基の甕が置かれている。
文献に見る百按司墓
百按司墓のことを記した文献に「中山世譜」(1697年)がある。それと同じ内容を記したのが「球陽」(1745年)である。尚忠王の条に、「尚徳王、驕傲奢侈ニシテ宗ヲ覆ヘシ祀ヲ絶ツ。是レニ由リテ貴族ノ徒皆世ヲ遁レテ隠ル。即チ今帰仁間切下運天村ノ所謂百按司墓ハ其ノ貴族ノ墓ナリ。墓内枯骨甚ダ多シ。又木龕数固有リテ以テ屍骨ヲ蔵ス。修飾尤モ美、皆巴字金紋ヲ銘ス。而シテ一個ノ稍新シキ者ノ壁ニ字有リテ云フ、弘治十三年九月某日」とある。
除葆光の「中山伝信録」(1721年)の山北省今帰仁運天のところに「山北王の墓アリ、土人呼テ百按司墓トス」とある。「中山世譜」や「山中伝信録」が編纂された当時に、百按司墓の名称で呼ばれている。前者では、尚徳王が驕傲奢侈であったことで王位を失い、遁世して行った一族を葬った墓だとしている。木龕数個、巴字金絞、弘治十三年九月某日が確認されており、それに基づいて「其の遺族、尚真代に至りて老尽せしならん」と考察を加えていることは注目すべきことである。このように、尚徳王の遺族を葬った墓であるとすると見方がすでにあった。
明治になると、「沖縄巡回日誌」(明治14年)に記されているように、樊安知が滅ぼされた(北山の滅亡)時の、戦死者達の遺骨である。あるいは、島津侵入(1609年)の時の戦死者達の遺骨であるとする言い伝えがあったことが知れる。歴史的事件と結びつけられた二つの言い伝えは、百按司墓やその回りの古墳に葬られている数多くの人骨と結びつけたもので、根拠の乏しい見解である。
尚徳王の一族の墓であるかについては、明治時代から議論されている。「沖縄県巡回日誌」(明治14年)では、「両説未ダ何レカ是ナルヲ知ラズ」と結論を出していない。翌15年の「沖縄県下今帰仁間切白骨埋□ノ件」で、「世譜球陽等ニ記スル所ハ謬妄ニシテロ碑却テ正鵠ヲ得ルヤニ被存候」と考案し、結論として「山北王家の墳墓ナルハ明瞭」としている。
百按司墓を文献でみてくると、尚徳王の一族を葬った墓であるとする見解に分かれている。
百按司墓が、どのような歴史的背景を持つのか、また、どのような人たちが葬られているのか。どのように決するかは、今後の調査研究を持ちたい。が、その手掛かりは、やはり「木棺・木棺にあった巴字金紋・弘治十三年九月・えさしきやのあし」にあるとみている。
今後の課題
三墓所の現況と文献にあらわれた百按司墓についてみてきたその百按司墓が、歴史的にどのように位置づけられるか興味深いものがあり、今後の研究課題でもある。
百按司墓のことを直接記した文献は「中山世譜」(1697年)や「球陽」(1745年)の尚忠王の条であった。その内容は、尚徳王の一族を葬った墓であるとする。尚徳王の条にはその一族「王妃・母乳・世子を擁着して以って乱難を避け、皆真玉城に隠る。軍兵追ひて之れを弑し、遂に之れを玉城巌下に葬る」などとあり、その一族が運天の地に葬られたとする記述はみあたらない。「世譜」や「球陽」の編者は、何故尚徳王(在位1440年~44年)の条「山北監守の制を定む」の後に、その記事をいれたのか。編者が北山の第一監守(1422~69年)を仰せ付けられた一族のものではないことを強調するための配慮があったのではないかとも考えられるが、検討を要する。
百按司墓の木棺のひとつに「弘治十三年九月」とあったとは、「世譜」・「球陽」・「国頭郡志」(島袋源一郎)・「琉球の歴史」(東恩納寛惇)で確認されている。その年号に視点をあててみると、1500年(尚真王二十四年)である。北山では、第一監守時代や尚徳王没から31年後にあたる。その年号のあった木棺は、稍々新しいものであったというから、古いのは、1500年以前のものとみられ、北山第一監守時代や尚徳王の没年に近づいてはくる。しかし、今のところ年代を決定するに足りる十分な史料が出ていない。
木棺にあった「巴紋」が、使われ出した時代、また「えさしきやのあし」の村落名表記がなされていた時代を究めていくことで、百按司墓の年代決定も十分可能とみられ、その視点からのアプローチもなさなければならない。
次に、墓の形態からみると、百按司墓の本来の形態は、自然の洞窟にジャフンを用いて家形の墓室をつくり、そのなかに木棺を安置するものである。陳侃の「使琉球録(1534年)」に「王及び陪臣の家の若きは、則ち骸匣をもって山穴中に蔵し、仍ほ木板を以って小牖戸を偽り、歳時の祭掃には則ち啓鑰して之を視る。蓋し木朽ちて骨暴露するを恐るるなり」とある。これは王やその一族の骸匣(骨を入れる箱)を山の穴にしまい、木で小さな窓から出入口をつくったのか、はっきりしないが、百按司墓の本来の形態を彷彿させるものがある。一六〇六年の夏子陽の「使琉球録」に「今に至るまで改めず」とあり、当時にも、そのような形態の墓があったころがわかる。1534年、あるいは1606年に冊封使によって確認されていることは、百按司墓を歴史的位置づけをするうえで重要である。
このようにみてくると、百按司墓は、十六世紀初期に位置づけることも可能であり、その墓の持つ意義は大きく、百按司墓本来の形態の保存、辛うじて残っている漆塗りの木棺の保存対策は急を要し、本格的な調査研究がなされるべきである(その後、村指定文化財に指定される)。
※万暦5年(1577年)に修復ありか?
スケッチは昭和2年山関博士を案内のとき、スケッチの一部(島袋源一郎)とある。スケッチの
原本は東恩納文庫からのコピー。
・百按司墓や大北墓などのある運天港、「北山の歴史」を描く上で重要な拠点である。
今帰仁城内の火神の祠と監守来歴碑記について「北山の歴史」と関わるものである。
今帰仁城跡内に上の御獄、下の御獄、カラウカー、そして「火神の祠」などの拝所がある。「火神の祠」な城内の本丸と呼ばれる主郭にあり、『琉球国由来記』(1713年)「今帰仁里主所火神」とあるのが、この火神と見られる。また1743年の「今帰仁旧城図」には、単に「火神」と記されている。火神の祠は、ウドゥングァーやシルウチヌウドゥングヮー(城内の御殿小)(『鎌倉芳太郎ノート』大正末)と呼ばれている。
城内の火神は、『琉球国由来記』(1713年)に「今帰仁里主所火神」とある。また「今帰仁旧城図」で「火神」と記される祠の前方には、祠に関わる「山北今帰仁城監守来歴碑」や石灯籠が建立されており、以上のことから第二尚氏系統の今帰仁按司(第二監守)関係の火神を祭ってあることがわかる。シマ(字今泊)の神人がウンジャミ(海神祭)のとき、カラウカー・火神の祠・アザナ・上の御獄(テンチジ)・下の御獄(ソイツギ)の順で御願をするが火神もその一つになっている。
写真(昭和32~35年)は、火神の祠を正面からみた状況である。赤瓦屋根が一部壊れ、内部に陽光がさし込み、正面の木の扉が崩壊している。祠の壁はツタが生え、漆喰で塗り固められ、剥離した部分から、あい方積みで積まれた石積みの様子が伺える。
下の写真(昭和35年)の祠の前の碑は今帰仁按司十世宣謨(王子)が1749年に建立した「山北今帰仁城監守来歴碑記」と石灯籠である。石灯籠には「奉奇進石灯炉」や「今帰仁王子朝忠」の銘が刻まれている。
今帰仁城跡の前方(ハタイ原)に今帰仁ノロ火神、阿応理屋恵按司火神、トモノハーニノロ火神、古宇利(フイ)殿内火神などの祠がある。それぞれの火神の祠のある場所は、神役を勤めた神人の居住した屋敷跡で、移り住んでも旧地に火神を残し御願をする習慣が読み取れる。
城内の火神も同様に考えると、1665年北山監守の七世従憲は首里に引き揚げたが火神はそのまま城地に残したもので、それが十八世紀初頭の『琉球国由来記』に「今帰仁按司里主所火神」さらに十世宣謨の時の「今帰仁旧城図」で「火神」と記されているのであろう。
火神の祠と山北監守来歴碑記、それに石灯籠は昭和62年に現在地に移設されるが、これら二枚の写真は昭和30年代前半の、移築整備以前の様子をとどめ、当時の状況が知れる。
大宜味村田港 2018年6月15日(日)(講話の骨子)
北山系統の一族(一門)とムラ
北山が滅ぶ(1416年)と人々が各地に離散したみられる。北山の全てのムラや人々が離散していったわけではなかろう。北山系統の一族が離散していった痕跡が伝承にのこっている。離散していった経過や人物がどれほど史実を伝えているか不明である。一族の伝承が、一つのストーリーとして、史実かどうかとは別に根強く継承されている。一方で、そのストーリーが史実かどうかを問うているところもある。
これまで、村全体が移動、あるいは離散したりと見ている節がある。ところが、ムラのある一門が移動してきたり、離散したりしている姿が見受けられる。そのことを明確にするため、山原の各地のムラの一門の動向を大ざっぱだが見極める必要がある。各村の各一門にどのような伝承を持っているか。その作業を進めてみる。そこから、いくつか結論を導き出してみることに。どのような法則性が見い出せるか、興味深い結果がでてきそうだ。さて・・・
各地の一族(一門)は、伝承とする系統図がある。それぞれの系統図は複雑に絡み合っている。その複雑さと、一族(一門)のルーツを辿ろうとする心理が、今に継承されつづけているように見える。それらの系統図から山原に所在し、関わる一族(一門)を取り出してみる。
・天孫氏の系統
・湧川村(ムラ)(今帰仁村(ソン))の根屋(新里屋)
・北山大按司の系統
・湧川村(今帰仁村)の根屋(新里屋)
・親川村(羽地村・現名護市)?根所
・大宜味村(大宜味村)の根屋
・渡久地村(本部町)の根屋
・屋部村(現名護市)の根屋
・今帰仁按司の系統
・古北山の系統
・東江村(現名護市)の徳門
・一名代村(大宜味村)の根所
・北山王の系統
・湧川村(今帰仁村)の根所(新里屋)
・健堅大親の系統
・健堅村(本部町)の根屋
・具志堅村(本部町)の花城
・親泊村(今帰仁村)の根所
・天太子大神加那志・龍宮女大神加那志の子、北山大神加那子を祀る。
参考文献
●【根謝銘城(上城)の系統】(『大宜味村史』所収)
大宜味村謝名城に根謝銘グスク(上城)がある。大昔、中山英祖王の後胤の大宜味按司の居城とされる。
●【老女田港乙樽】(親孝行女の伝承)
乙樽の生家は屋号根謝銘屋と称し、仲北山城主の後胤にして根謝銘城より田港村に村立した思徳金の子孫であるという。また同家には近代描いた乙樽の肖像画を祀ってある。乙樽というのはこの地方では一般に用いない名前である。それからすると家格の程を察知する事ができる。乙樽の墓は田港の南方にある。
●【久志川田屋号根謝銘屋(当主奥元氏)】(『沖縄県国頭郡志』)(現在:東村川田)
同家の始祖はヒギドキ(ヒゲドケ)と綽名せられ仲今帰仁城主の子孫にして、本部村満名上の殿内の次男なるが、ある事変に祭し一時名護城に移り(その妻は世富慶村カニクダ屋の女なりしという)、これより大宜味根謝銘に避難し後、国頭間切浜村赤丸の崎の窟及び伊地村後方の窟に隠遁し、更に山中を横切りて川田の山中イェーラ窟に遷居せり。今その近傍、内福地原に1500坪ばかりの畑ありて、当時の開墾に係ると伝う。然るに此処は昼なお薄暗き森林にて山の精強く住みよからずとて、道を海岸に開き、而して現屋敷の後方台地に移転せりという。
川田は八戸中十数戸を除く外、皆同家の胤孫にして①根謝銘屋及びその分家なる②西の屋内(イリヌヤ)、③西の根屋、④東の殿内(東の比嘉)、⑤新門(ミージョー)、⑥鍛細工屋、⑦大川端(元ニーブ屋)の七煙より分れたり・・・。
以前根謝銘屋には絹地の衣類、古刀及び黄金カブの簪などの遺品があった。火災があって今あるのは類似の品。首里長浜氏の記録にあり。
▲北山系統の伝承をもつ根謝銘屋(川田) ▲根謝銘屋の側にある勝之宮
【川田にある仲北山御次男思金の墓】
東村川田の福地川右岸(下福地原)に「仲北山 御次男思金」と記された墓がある。墓の前にサキシマウオウの大木(東村指定:天然記念物)がある。上系図に「次男
思金」の人物は登場してこない。「思徳金」のことか。あるいは記述の誤りか確認の必要あり。いずれにしろ、川田の根謝銘屋の一門の持つ北山系統とする伝承は根強く継承されている。その墓のある場所はウンダチと呼ばれ、ピギドゥキ(ピキヌカン:引の神)を祀った墓のようである。川田の根謝銘屋一門が始祖の墓としてシーミーの時に拝んでいる。
▲「仲北山御次男思金」の墓 ▲東村指定のサキシマスオウの板根
・東村川田に北山盛衰にまつわる伝承あり。
・『沖縄県国頭郡志』(大正8年)に「「旧家由緒」に口碑伝説、「長浜氏の記録」あり。
・始祖の墓として根謝銘屋一門が清明祭(シーミー)の時に拝む。
●【大宜味村田港】
・屋号根謝銘屋(首里長浜系氏の記録)仲今帰仁城主の子孫だという。
新屋松本は仲今帰仁城主の子孫なる思徳金は今帰仁城監守の滅亡に祭し、その四子を引き連れ大宜味根謝銘城の叔母の許に隠れ後塩屋湾奥にありて閑静なる田港に村立する。
その長男を兼松金という。次男真三郎金は東りの松本の祖、三男思亀寿金は仲門松本の祖にして、四男真蒲戸金は叔父思五良金の養子となり川田村根謝銘屋を継ぐ。
本家田港の根差目屋には絹衣数種黄金カブ簪一個を秘蔵せり。
▲ノロ殿内の籠 ▲田港御嶽の神
【田港村は田港間切創設時の同村である】
1673年に国頭間切と羽地間切を分割して創設された間切である。間切創設当初は田港間切、1713年の頃には大宜味間切となっている。間切名の改称がいつなのか、明確な史料の確認はまだだが、17世紀末と見られる。その頃(康煕34年:1695)に国頭間切と久志間切との境界線の変更(方切)が行われている。その時、田港間切の田港村にあった番所を大宜味村に移動し、間切名を大宜味間切と改称した可能性がある。番所があった田港村のウタキに20余の香炉が置かれているのは番所があったことを示しているのかもしれない。香炉が置かれた(奉寄進)年代は1800年代以降。大宜味村のウタキに10数基の香炉が置かれているのも番所が置かれていたことに起因しているのであろう。ただ、塩屋にも番所が置かれていたので、同様の数の香炉がウタキにあるかもしれない(未確認)。
大宜味間切の番所は田港村→大宜味村→塩屋→大宜味(大兼久:昭和5年分離:現在)
【タキガー(滝川)】(寺屋敷)(「沖縄県国頭郡志」「大宜味村史」)
滝川のほとりに寺屋敷と称する所あり。260年前定水和尚が居た所の跡だと伝えられている。定水和尚は(土地の人はダチ坊主と呼ぶ)首里新城家の祖先で王府に仕えて重職にあった人で寛文5年(1665年)国王尚質王重臣を集めて尚真王以来派遣していた北山監守を撤廃せん事を諮る。時定水は北山の地が僻遠にしてまだ教化が普及しないから撤廃は早いとなし意見の不一致となる。王嚇と怒り曰く「汝何の故を以てか尚早しとなす。予不徳にして感化未だ国頭に及ばざるの謂んるか。と詰責され定水答ふる能はず、官職を辞し仏門に入り剃髪して定水と号し閑静なる塩屋湾の東隅に退隠して悠々余生を送る。
後定水は剛直なる民本主義の政治家で彼の在職の際八重山に於ける人頭税の荷酷なる事を説き、其の廃止論を唱え、又親々が往昔その領地を異にして食封を受けている者あるを本法とし、其の一を王府へ返納させしむべきことを提議する等の剛直無欲の人だった。彼は日本思想家で数回北京に赴き、彼地にて和歌を詠めるもの多しと、
新城家口碑に
定水はその後法用ありて上首せしことあり。時に国王自ら前非を悔い、度々仕官せんことを勧め給いしが固く辞して受けず直ちに大宜味に帰りば家族流涕止まざりきという。
定水は死後首里の弁が岳の下にある拝領の墓に葬られ、其の祭祀料として百ガネーの土地を賜はり、此の地は今位牌を安置してある蓮華院(万松院)の有する所となっている。また塩屋小字の大川に塩屋山川なる旧家があるが此の敷地は同家の先祖がダチ坊に親しく仕えそのよしみで現在の敷地を定めて呉れたとの伝説がある。
▲田港の滝川(タキガー) ▲田港のウタキの祠(20近い香炉)
【琉球国由来記】(1713年)での祭祀
・底森 神名:イベナヌシ 田湊村
・ヨリアゲ嶽 神名:オブツ大ツカサ 塩屋村
・田湊巫火神 屋古前田村 (按司からの提供物あり)
・屋古・前田村での祭祀
・百人御物参/稲二祭/束取折目/柴指/ミヤ種子/芋ナイ折目/三日崇
稲穂祭/稲穂大祭/束取折目/海神折目/柴指/芋折目
・城村・喜如嘉村(按司・惣地頭からの提供物あり)
【沖縄島諸祭神祝女類別表】(明治17年頃)
田港村 本ノロ一人 若ノロ一人(塩屋)
田港村神アシヤゲ/屋古前田村神アシヤゲ/塩屋村神アシヤゲ/根路銘村神アシヤゲ
▲田港の神アサギ
▲屋古の神アサギ
【地方役人と御殿奉公】
謝名の近世文書から首里と関わる記事を拾ってみる。首里奉公をした人たちと操り獅子(アヤーチ)を導入した直接史料は、まだ確認できないがその手掛かりとなるかもしれないので、その作業を進めてみる。首里奉公した間切役人の奉公先との関係をしることができる。首里奉公した間切役人は、後々まで奉公先と密接な関係があることがしれる。そのような関係で、操り獅子(アヤーチ)の謝名村へ導入された可能性がある。ここで掲げていないが、謝名村=平田村の平田村や平田掟が、『琉球国由来記』(1713年)より後の文書に度々登場してくる。そのことも気になる一つである。
[謝名村:平田家文書(フイチヤー:古宇利掟屋)]
・兼次親雲上御事第四代世ノ長男、幼少ヨリ両惣地頭ノ御奉公勤勉之為、幼少ノ頃ヨリ両惣地頭ノ御奉公
勤勉之為メ、掟・捌庫理・兼次夫頭役仰付次ニ惣山当ト・・・(道光20年死去)
・二男武太ハ両惣地頭ノ御奉公全ク勤勉致候ニ付、平田掟役勤ミ志慶真村夫地頭役被仰付、志慶真大屋子
ト云フ。(光緒5年死去)
・長男屋真事、幼少ヨリ今帰仁御殿御奉公全ク勤勉ノ為、二十四五歳ニ古宇利掟役被付、・・・(咸豊11年死去)
[謝名村:玉本家(ナビタマヤー)文書
・嘉慶24年4月御殿大按司様上国ニ付金城にや御旅御供被仰付同7月15日那覇川出帆与那
国嶋漂着翌辰年6月帰帆仕申候事(上国できなかったが当時の奉公の様子がしれる)
[勢理客村:大城仁屋の諸事日記]
・嘉慶20年亥2月御殿御供被仰付寅年迄4ヵ年御仰詰相勤置申候事
・嘉慶23年寅正月故岸本按司加那志様生年御祝儀之時、躍人数被仰付首尾能相勤置申候
・嘉慶24年卯五月御嫡子今帰仁里之子親雲上屋加被仰付丑四月まで11ヶ年相勤置申候事
・道光11年卯11月24日御嫡子今帰仁里主親雲上御婚礼之時御雇被仰付罷登首尾能相勤置申候事
・道光19年疱瘡之時宮里殿内江御雇被仰付10月よ里12月迄昼夜相勤置申候事
・咸豊20年子3月故湧川按司様御元服之時肝煎人被仰付罷候首尾能相勤置申候事
・咸豊23年卯3月故湧川按司様御婚礼之時肝煎人被仰付□□首尾能相勤置申候事
[大和芸能の移入]
伊江島では「組踊忠臣蔵」や「シティナ節」など沖縄と大和と融合した芸能がみられる。それは首里の伊江御殿や川平殿内で働く伊江島出身の奉公人が、薩摩や江戸上りにお供した際、大和の芸能を学び島の村踊りに取り入れたものとみられる。
大和や首里の芸能が地方のムラやシマへの移入の流れを示す事例とみられる。今帰仁村湧川の路次楽も江戸上りに随行していった一族が湧川に寄留し村踊りの演目に加えている。組踊や棒術もそうであろう。そのようなことからすると、名護市川上、今帰仁村謝名、本部町伊豆味への操り獅子(アヤーチ)の移入を考える手掛かりとなりそうである。そのこともあって、操り獅子が大和からのものであれば、今帰仁間切と関わる奉公人(後に今帰仁間切の役人となる)の御殿や按司などの薩摩行きや江戸上りなどの随行者がその役割を果たしたのではないかと考えられる。
操り獅子の移入について大和を中心に見ているが、中国や台湾からの移入はどうだろうか。