寡黙庵 2018年8月の記録        沖縄の地域調査研究(もくじ) 
                  (住所:沖縄県国頭郡今帰仁村字謝名)   
                            
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2017年4月 ・2017年5月 ・2017年6月  ・2017年7月2017年8月  
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やんばる学研究会(開催案内


ムラ・シマ講座へ(25期5回は本部町具志堅



2018年8月31日(金)

 明日は、備瀬のシニグのサグジャミの参与観察をする。備瀬の五日間の祈りや一連の流れに、シニグ(凌ぐ)の本質を突いている印象をもつ。備瀬のシニグが本質を突いた形だとして、他地域のシニグを見ると興味深い。備瀬のシニグを六日間の通してみることができれば、他の地域のシニグが一日、二日に集約されたか、省略されているか、他日に行っているかが、見えて来そうである。明日のサグンジャミが楽しみじゃ。サグンジャミは、ヤーサグイとウンジャミを一つにした言葉か。

2018年8月30日(木)

 
本部町備瀬の①ウフユミ(旧7月20日)、②サグンジャミ、③④ハンチー(男・女)、⑤シニグのウフユミ(旧7月20日)を見ることができた。そのすべての祭祀は見ていないので即断は避けるが、他の地域の海神祭やウプユミやシニグと呼ばれている祭祀を分割して行われているのではないか。そうなのかは⑤までの祭祀をみてから。それと『琉球国由来記』(1713年)編集のとき首里府は祭祀を減らしたのではないか。他の地域では祭祀を統合したが、備瀬や具志堅では統合せず行ってきたのではないか。備瀬では昭和8年の神社化したとき拝所の統合もあるが、祭祀の統合がなされることなく継承しているのではなか。

 備瀬については昭和8年に神社化し、神殿と拝殿(神アサギ)を連続した形式が本部町で見られる。今回関心を持ったのは神殿の二基の香炉である。その香炉は備瀬グスク:城御嶽から神社化したときに合祀した時(昭和8年)に移動したもとみられる。それはウタキの神を神殿の神にしたことを意味する。石の香炉(加治木石)の一基に「同治六年戌辰 九月吉日 具志堅仁屋」とある。もう一基は、再度確認。それは備瀬村の奉公人(具志堅仁屋)が薩摩か江戸上りに随行し、無事帰郷しウタキに寄進した香炉とみられる。

①ウフユミ(神アサギ・社殿内・アサギマーに御神酒・茅葺きの小屋・船儀礼は担当の神人の不幸のため略)

 午後案じ三時頃、備瀬公民舘に伺う。兼次区長から一連の祭祀の現状と一日目のウフユミについて。今日のウフユミは神人に不幸があり一部略しなければならないと。公民館には祭祀の品々が準備されている。また弓とチヂン(太鼓)が準備されている。(一部画像で紹介)
  
  

  
   ▲神人が神殿内でのウガン      ▲字の有志の方や参加者に声がかかる     ▲供え物の御神酒(ミチ)(紅芋)

  
 ▲神アサギの側に御神酒の樽     ▲茅葺き仮小屋に尾の生魚が吊される ▲区長さんが鼓を敲いて

2018年8月29日(水)

 『恩納村誌』に「山原の交通」がある。仲松弥秀は「山原船」が航行していた時代について詳細に触れている。そのこともあって恩納村の仲泊、瀬良垣、安富祖、名嘉眞、名護湾の湖辺底までゆく。

   物資の重なるものは砂糖、薪、木材、豚などであったが、それに加える仲泊付近の陶土があった。

  (以下工事中)

 
   ▲恩納村仲泊の海中の水路                  ▲山原三津口の一つ(湖辺底)


2018年8月28日(火)

 ムラ・シマ講座の下見で本部町具志堅まで。備瀬のウプユミの日程の確認。
 備瀬では書記さんからウプユミー、サグンジャミ(ヤーサグイ+ウンジャミのこと?)、ハンチ、シニグ、タムトゥノーイの日程について教えてもらう。

 具志堅では区長さんからウーニフジ、ウプユミ、トン・トト・トン、ヰナグヌユバイ、シニグの日程を教えてもらう。神ハサーギの葺替え、ウフガーのクイの取り替え、クランモーでの今帰仁城に向かっての遥拝などについて伺う。

 

 「今帰仁グスクが抱えた村」(本部町具志堅)


2018年8月27日(月)

 今帰仁村与那嶺の長浜における「山原船」の様子を『与那嶺誌』で故山内昌藤氏は以下のように述べている。
 昭和初期までは山原船の出入りも盛んであった。東側の岩に船を係留されていた。そこの深みを与那嶺の人々は今でもプナフキと言っている。船を浮かべる所という意味である。

 一、二日停泊して那覇から積んできた酒やソーメン、米や豆類の食糧品、衣類や雑貨や学用品等をおろして、与那嶺、仲尾次の農家から運んできた黒砂糖の樽を積んで出荷していった。

 那覇から積んできた雑貨店の物資は浜の東端にあたるウヮーヤチガマ(豚焼ガマ)と呼んでいる岩穴の自然の倉庫に置かれて、黒砂糖を積んできた帰りの荷車に積まれて雑貨店まで届けられた。

 砂糖樽も雑貨店の品物も二、三置かれることもあったが、盗まれることはなく、いたって平穏な時代であった。

 山原船は今泊沖のリーフの割れ目から入って、今泊のクビリ浜の東のナガナートゥと与那嶺長浜に入る二つの航路があって、リーフ内イノーの内海を航行したのであるが、珊瑚礁の発達や砂堆積で内海は浅くなって、また山原船のような風まかせで悠長な船から船から焼く玉エンジンのついたポンポン船に変わったこともあったが、なんといっても自動車を利用した陸上交通の発達山原船の数数は漸減していくようになって、昭和10年代初期頃には山原船の姿は見ることが出来なくなった。


2018年8月26日(

 蔡温の「独物語」に以下の記述がある。石原干瀬には港づくりが可能で、いかようにしてでも港づくりができるとある。もしや、今帰仁村親泊村(現今泊)河口にある岩を切り、平坦にした場所がある。満潮時になると浦漕船(伝馬船)が接岸できる場所である。それと今帰仁村与那嶺長浜の半洞窟になっている場所、そこは「山原船に積み込む上納を格納していた」と伝えられている場所である。下の二ヶ所は石原干瀬の地質。思い出すのは恩納村仲泊の沖に向かっての海中の水路。

 諸方の間切浦々の干瀬はいずれも石原になっていて、着船できる港がないので商売船で
 逆風に逢うような季節に入着できずに破損する船が沢山ある。右の石原を割り除いて間切
 毎に浦々の場所を考え合わし港を作って置いたら商売船は言うに及ばず其の他の諸船も
 天気が荒れ次第即刻港に走り入って決して難儀しないと考えられる。
    但し石原を取りのぞき港を作る法式がある。場所によって泥土や細砂がある所は
       どんなに働いても港づくりが不可能である。石原干瀬の所は法式の道具で如
       何様にも造開きができる事である。


      ▲今帰仁村今泊の河口にある人口的な船着き場か



  ▲今帰仁村与那嶺の山原船に積み込むため上納物を一時保管していた半洞窟


2018年8月25日(土)

 「山原の津(港)と山原船」で以下の文章を書いたことがある。「独物語」に湊をつくる法式があるという。船着き場や海の中の水路が開削したものか。首里城下の「茶湯崎」に港を造ったら首里は非常に便利になるようなことが書かれている。その環境に類似しているのがニークンガー(志慶真川)の河口である。そこに人工的に岩を削り平にした場所がある。(画像を撮りにいくか)

 冠船がやってきた時、「當国の豚では不足をきたし、与論島や沖永良部島、大島、徳之島、鬼世島等から豚を取り寄せ、やっと間に合わせていた」とあり、馬船(山原船)での運送があった事が知れる。

「今帰仁杣山法式」(1754年)の津口番の管轄区を見ると、国頭・大宜味・久志・金武の四間切の複数村の津口を管轄する津口番を配置した。前記四間切の津口番が管轄した村数は五四である。津口番を勤めたのは在番・検者・山筆者達で、主な役目は出入りする船の取り締まり―積荷の検査、手形の有無、乗組員数、氏名、航海の目的、抜け荷、密輸など―である。

 山原の津(港)は、必ずしも船が岸辺に接岸できるものではない。良港と言われている運天港も直接接岸できるようになったのは戦後のことである。山原船が運航していた時代の津(港)は、潮の干満や風の影響を大きく受けた。海が遠浅の場合、山原船は沖に碇泊させ、伝馬船(テンマーセン)の小船で荷を運び本船に積み込んだ。蔡温の『独物語』(1749年) は十八世紀の津(港)の様子を次のように述べている。

「諸間切浦々の干瀬共石原にて着船の港無之候に付て商売船逢逆風候時入着不罷成及破損候船多々有之候、右石原割除き間切毎に浦々の場所見合を以港作置候はゞ商売船は不及申其余の諸船の天気荒立次第則々港へ走入絶て難儀無之積に候」

那覇・泊には山原や諸離島を走り回る馬艦船、また浦漕船があった。馬艦船、山原船ともに構造上はシナ式のジャンク型であるが、外航船として利用されていた大型の船を馬艦船、沖縄本島北部(山原)を往来していた小型船を山原船と呼んで区別したようである(『近世薩摩関係史の研究』 三八〇頁参照、 喜舎場一隆著)。

 
 
   ▲座間味島の海洋館?の山原船(馬艦船)説明版

2018年8月24日(金)

 お盆で息子夫婦と孫二人が夕方からやってきた。二、三日すると娘夫婦が孫娘(二歳)を連れて里帰り。寡黙庵に線香あげに。暗くなると花火ではしゃいでいる。高い樫木に巻き付いた葛の引き下ろしや部屋の書籍や資料の移動の疲れでダウン。横になりながら、蔡温の「独物語」から津や船に関わる部分に目を通す。そろそろ執筆要項にあわせてまとめてみるか。

【独物語の口語訳】より

那覇・泊は馬艦船(マーランセン)(今の山原船)を準備してあるから是で山原並に諸離島を
走り廻って生計をたてゝなお同地所在の人々の便宜にもなっているわけである。だが、首里
は船乗りについて不案内で那覇泊とは様子が別である。右に述べた浦漕船(即ち伝馬船)
は首里人であっても櫓の押し方さえ稽古したら大丈夫乗る事が出来る筈である。その上各地
の浦々に湊を作って置くならば天候の悪しくなり次第どの浦へでも走り少しも心配がないと考
えられる。

  
▲お盆で先祖様がやってくるので片付け                     ▲孫たちは花火ではしゃいでいる

2018年8月23日(木)

 旧盆なり。寡黙に先祖とつきあいます。


2018年8月21日(火)

 多良間島は沖縄県地域史協議会の研修会で訪れている。その時、台風の接近で二日目の昼頃、急遽宮古島へ。船上できたのはいいが、大揺れで左右にゴロゴロ。、「八月お願」の見学が目的であった。20名余の参加だった記憶。島の宮古遠見所と八重山遠見所も目にしている。あの頃、デジカメが出ていず重いカメラを担いで、写真は紙焼の時代。

 以下、多良間村誌の「たらま島」(昭和48年発行)を参照。

 多良間島へ奥州南部の人たちの船が漂着した。十七反帆の船で乗組員七人を馬艦船で沖縄しまに送られた。また、道光24年(1844)に多良間島に漂着した異国船が漂着したとき、乗組員は伝馬で上陸したした記事がある。

 海上運搬をみると、多良間島と水納島はクリ舟で、多良間島と宮古島の間は、大正の中頃まで帆前船で航海し、その前は松木伝馬を使用。人頭税の貢物は山原船で運び、明治三六年人頭税が廃止されると、山原船は年に一、二回、夏風の吹くころ物資を運搬、明治四〇年頃まで続く。大正の中頃、発動汽船が航海するようになると帆前船はしだいに使われなくなった。


2018年8月19日(

 明治30年調査の渡嘉敷間切から那覇への輸出・入の品々を見てみる。その頃の品々は馬艦船(山原船)やクリ舟で運ばれていたのか。明治33年にはエンジン付と見られる「運輸丸」が就航している。その船が遅れたり、欠航したりすると「帆船」(馬艦船:山原船)が使われている。(明治18年頃には鰹漁の漁船が登場)

【明治31年の輸出品】
 芭蕉布、烏賊、永良部鰻、海人草、備後莚、藺莚、薪木、豚、山羊、鶏、シュク漬物、
 ソルゝ漬物、コルコン魚

【明治31年の輸入品】 
 白米、素麺、茶、昆布、木綿、糸、板類、柱、その他材木、石油、焼酎、刻煙草、食塩など


2018年8月18日(土)

 2006年9月に渡嘉敷島に渡っている。当時の島の様子がおぼろげである。9月は観光客が多く、阿波連は海水着姿で集落内を歩いている風景があり、カメラを向けるのに困ったことが思い出される。渡嘉敷島の二つの集落と資料館内の記部石(職員が留守で撮影ができなかった)、青年の家近くの烽火台跡(ヒータティヤー跡)まで足を運ぶことができた。足がなく積み残しをしてしまっていた。今月中には訪れるつもりでいるが、どうか。2006年に訪れた様子を残してあるので思い出すことに。今回は特に「山原船」と渡嘉敷島からの輸出・入の品々の確認と、前回撮影を逃した印部石と峰火台跡、そして戦争遺跡の再確認。
 

渡嘉敷島(2009年記録)


2013年講演レジメ 戦後の山原を考えるsenngonoyanbau.html を振りかえてみる。


2018年8月17日(金)

 明日(土)はシイナ城のレクチャー頼まれている。シイナ城のある地は、現在の呉我山である。その地には、天底村、呉我村の移動し、間切の境界の変更(方切)があった歴史を持つ。呉我山は杣山であり、明治30年ころ杣山が処分された地でもある。その多くが寄留士族が移住してきた場所でもある。大正6年に天底・玉城・湧川の一部の小字をとって字呉我山が創設される。シイナグスクは、今帰仁グスクが築かれた頃か、それ以前の伝承を持つ。さて、どんなストーリーになるか。

200987日(金)
メモ

【移動村が故地に遺していったもの】(1736年に移動した呉我村)

 今帰仁村に呉我山がある。呉我山の地は現在名護市呉我の故地である。1736年に蔡温の山林政策で現在の今帰仁村呉我山から羽地間切の地に移動した。その地は複雑な動きをしている。1600年代の前半まで今帰仁間切、1690年頃その地と村は羽地間切へ。1736年に一帯にあった振慶名村、我部村、松田村、桃原村、呉我村を同じく羽地間切の内部と屋我地島へ移動。移動させた後地を今帰仁間切の地とした。そこに1738年湧川村を創設した。(村移動はまだしていない。村移動は1736年である)。

 ・『絵図郷村帳』(1644年)  今帰仁間切ごが村・ふれけな村・まつざ村・がぶ村
 ・『琉球国高究帳』(1648年) 今帰仁間切ごが村・ふれけな村・まつざ村・がぶ村
    1690年頃 間切の方切があり、ごが村域は羽地間切に組み込まれる)
 ・『琉球国由来記』(1713年) 羽地間切呉我村・振慶名村・我部村・(松田村と桃原村は出てこない)
     (この時期、村移動はまだしていない)
 ・1736年に羽地間切内にあった呉我村をはじめ、他の村を羽地間切地内へ移動させる。
  移動させた地を再び今帰仁間切とした。
 ・1738年に新設された今帰仁間切湧川村、羽地間切我呉村のあった地は今帰仁間切天底村となる。
 ・大正9年に字呉我山(天底・玉城・湧川の小字の一部からなる)が創設される。

 現在の今帰仁村呉我山は大正9年に新設される。その時、字天底から三謝原(シイナ)・古呉我原・古拝原、玉城から西アザナ原、湧川から中山原をして呉我山とした。呉我山の小字の古呉我原や古拝原名に移動する前の村の痕跡をとどめている。三謝原にあるシイナグスクを考えるには、1738年新設の湧川村ではなく、移動する前の近隣にあった呉我村(現在の呉我山)や振慶名村(現在の湧川の鎌城原、振慶名村の故地)との関係でみる必要がありそうだ。(我呉村が移動した後地に住んでいる呉我山の人々のほとんどが寄留人である)

 故地に遺されたのに地名がある。呉我の故地に「呉我山」「古拝原」「古呉我」などの地名が遺されている。呉我山から移動してきた呉我の人々は旧暦五月に故地の屋敷跡や拝所、アシヤギ、堤泉、神泉の跡地などを参拝している(『呉我誌』)。1736年に呉我村が移動した後の史料で「古呉我山」や「古我」など、故地を意識した地名となっている。

 『琉球国由来記』(1713年)に出てくる呉河(我)村・振慶名村・我部村・松田村は、移動する前の故地における拝所である。それらの村は我部ノロの管轄で、村移動後も変わることなく継承されている。


2009年8月の調査記録
 
 企画展のパネルを数多く造る。展示やパネルの画像選びだし、史料展示をしながら歴史をはじめ数多くのことを書き綴ってきた。記憶を鮮明にするため振り返ってみる。

2018年8月16日(木)

 謝名城と田嘉里の植物名と生活の聞取り調査に参加する。大宜味村の言語の共通部や他の地域との音韻の違いが何に起因しているのか。大宜味村内での言語差は? 一言ではくくれるキーワーはなさそうである。

 ・大宜味村は1673年以前は国頭間切であったこと。
 ・1609年以後に村が成立。地割(土地制度)が村を形づくる。
 ・合併村
 ・ノロ管轄の村
 ・村墓
 ・寄留人の移動
 ・明治の学校、学区の変遷
 ・明治の学校教育
 ・番所の移動(田港→大宜味→塩屋→大宜味(役場)
 ・複数の村(字)での共同墓
 ・生活改善
 ・海と関わりの多い村(字)々
 ・山との関わりを持つ村(字)々
 ・分離独立した字
 ・人の歴史的移動(北山から離散していった一族のいるムラ)
 ・ムラ内で行われる祭祀(神アサギの存否

 (工事中)


2018年8月15日(水)

 以前納税についてメモしたことがある。間もなくやってくる旧盆、明治から新暦にかわっていくが、沖縄では旧暦も使われている。租税の納期が以下のように作物によって異なってくる。沖縄の祭祀は農耕暦で行われていると、強調してきた。

2009年722日(水)メモ

 「国税ノ賦課徴収方法」(土地に賦課する租税)についての項目が目にはいた。明治期、それ以前の税制について知る必要がある。税を具体的にどう納めていたのか、また誰がどう徴収していたのか。租税を滞納した場合はどう処理したのか。その責任は?など、知らないことばかり。作物の収穫時期は中南部と北部では一月ばかりのズレがある。ここに掲げてある収穫や納期は旧暦である。

  ・一個人を以て納税者とはなさない
  ・百姓地の分配は村内の協議を以て行う。
  ・土地に対しての賦課する租税は村を以て納税者とする。
  ・各個人の負担は村内で定め、村内で定める。
  ・村内に滞納者がいるときは、結局村でその責任をとる
  ・その為、村は租税負担力の多少に比例して土地を分配する。
  ・滞納者に分配した土地は取り上げる権利を有する。
  ・富者は多くの分配を受けるため、ますます富者となる。
  ・土地の分配を受けることの少ない者は益々貧する結果となる。
  ・村を以て納税義務者とする制度は百姓地の分配の制度(地割)と関係する。
  ・地割制度は勤勉の念を阻害するものである。

【地租納期】(国頭)
   ・麦、菜種子・・・・731
   ・米、粟、黍・・・・・1130
   ・棕櫚縄、塩(年税)、夫役銭・・・1228
   ・大豆、小豆、白萹豆・・・・・・翌年131
   ・砂糖(現品納)・・・・・・翌年331

【米雑穀収穫期節】(国頭)
   米(7月) 砂糖(4月) 麦(5月) 粟(7月) 黍(7月) 下大豆(9月)
   大豆(6月) 小豆(7月) 白萹豆(7月) 菜種子(4月)

 租税は組頭が取りまとめ、掟に納める。掟は地頭代に納める。地頭代は一間切の税額を取りまとめ金庫へ納付。現品にかかるものは村屋に集め、掟・耕作当などが付き添って県庁(明治)、首里王府の取納座?へ
納めたのか。


2018年8月14日(火)

 今帰仁村字玉城誌の主な出来事をまとめてみた。その中に入れ忘れたことがあり、最終校正に追加することに。玉城は玉城・岸本・寒水の三村が明治36年に合併した村(字)である。合併以前のことであるが、合併しても合併以前のことを今でも踏襲していることがある。「沖縄島諸祭神祝女類別表」田代安定撰録:明治15年頃調査記録か)は、祭祀場やノロ家の祭具図解などを確認する上で貴重な資料である。

玉城村
  ・字ノロ火神ノ神所壱ヶ所 ・内神火ノ神所壱ヶ所 ・嶌ノ大屋子火神 ・神アシャゲ壱ヶ所
   ・百々喜嶽壱ヶ所

岸本村
  ・字ノロクモイ火神壱ヶ所 ・神アシャギ ・嶌ノ大屋子火神所壱ヶ所
 
寒水村
  ・字根神火ノ神所壱ヶ所 ・神アシャゲ壱ヶ所 ・ウホンニヤ嶽壱ヶ所  

  
▲岸本の島の大屋子の火の火神の祠    ▲岸本ノロヤー跡          ▲ノロヤー内部の氏子「奉寄進」

2018年8月13日(月)

 「大宜味村史」の言語調査(於:南風原町)。


 久高島を訪れたのは2002年1月である。もう訪れることはないと思うが、当時の様子を思い出してみる。何点かの疑問を持ちながらの渡島であったが、その疑問はまだ疑問として持ったままである。伊是名・伊平屋が首里王府の天領地として位置づけているが、久高島(知念間切)は果たしてどうだろうか。

久高島と山原の三津口

 古宇利島と運天港を結ぶ航路は戦後間もない頃である。それまでは、古宇利島との往来は山原船や小舟で運天のクンジャー浜であった。運天港とは戦後になってからである。

 
▲昭和30年頃の古宇利港の様子(公文書提供)    ▲昭和30年代の運天港(郵便ハガキ)


2018年8月12日(

 「琉球国の統治と祭祀」は「日本の中の異文化―琉球孤の文化研究をめぐって―」(2005年7月24日)でのフォーラム(於:沖縄大学)での講演のデジメです。全文はこちらへ。琉球国の統治と祭祀

                            

琉球国の統治と祭祀
―山原の祭祀から―

            仲 原 弘 哲(今帰仁村歴史文化センター)

     はじめに
1.国の統治と祭祀
2.祭祀と関わる役人
3.休息日としての祭祀の位置づけ
4.神人の祈りと年中祭祀
5.山原のウタキ(御嶽)と集落と村(ムラ)
6.山原のウタキ(御嶽)の様相と呼称
7.山原のウタキ(御嶽)の分類
8.複数のウタキ(御嶽)を持つ村(ムラ)と神人
   まとめにかえて―村移動とノロ管轄―


2018年8月11日(土)

 ときどき、過去に目を通した記事に再度目を通してみることに。二、三か疑問をもちながら。

2013年2月28日(木)メモから

  『球陽』(読み下し編:角川書店)の尚真48条(1524年)に、以下の記事がある。
  諸按司、首里に聚居す。
 窃かに按ずるに、旧制は、毎郡按司一員を設置し、按司は各一城を建て、常に其の城に居りて教化を承敷し、郡民を?治す。猶中華に諸候有るが若し。或いは見朝の期に当れば、則ち啓行して京に赴き、或いは公事の時有れば、則ち暫く首里に駐し、公務全く竣(オワ)りて既に各城に帰り、仍郡民を治む。此の時、権りに兵戦を重ぬれば、群郡雄を争ひ干戈未だ息まざらん。直尚真王、制を改め度を定め、諸按司を首里に聚居して遥かに其の地を領せしめ、代りて座敷官一員を遣はし、其の郡の事を督理せしむ、(俗に按司掟と呼ぶ)。而して按司の功勲有る者は、錦浮織冠を恩賜し、高く王子位に陞す。

 この条文は16世紀初頭の状況を的確に示しているのではないか。

  ・これまでは郡に按司を一人置く
  ・按司は各一城に建て
  ・按司は一城にいて教化をし、郡民を治める。
  ・見朝の時期になると啓行して京(首里城)に赴き駐留する
  ・公務が終ると各城に帰り、郡民を治める
  ・郡雄を争い武器を持ち休息に至っていない
  ・尚真王は制度を改め、諸按司を首里に聚居させ、領地を治めさせる
  ・按司に代わって座敷官(按司掟)を派遣し、その郡(間切)を監督させた
  ・按司の功勲のある者は、錦浮織冠を賜わり王子の位まで陞る

 尚真王の時代より以前は、各郡(間切)に按司を一人置き、按司はグスクを建て、そのグスクに住み教化をし、郡(間切)民を治めた。時期になると首里王府へ赴き駐留し公務を勤める。終るとグスクに帰り郡(間切)民を治めた。

 ところが、郡(間切)は雄を争い、武器をもち安泰に至っていない。それで、尚真王は制度を改め、各地の按司を首里に集居させ、領地を治めさせた。領地には按司に代わって按司掟を派遣し、間切を監督させた。按司が功績をあげると、位をたまわり、王子の位までのぼることができる。

 今帰仁グスク(間切)を合わせみると、北山の滅亡後第一尚氏王統から今帰仁グスクには監守(尚忠と具頭王子)の派遣がある。他のグスクでも按司を置いてある。首里からの按司の派遣かどうか? 尚真王の制度の改革で諸按司を首里に集めるが、今帰仁グスクの按司(監守)は、首里に移り住むことなく、そのまま今帰仁グスクに監守として居住する(1665年首里に引揚げ)。そのとき、今帰仁間切を分割し、伊野波(本部)間切りを創設。

 尚真王の中央集権国家の制度で例外をなしたのが今帰仁グスク(間切・按司)であった。首里に移り住むことなく、今帰仁グスクに住む(1665年首里に引揚げ)。そのことが北山の歴史、あるいは三山統一以前、その後の歴史や文化に興味深い痕跡を残していると言えそうである。


2018年8月10日(金)

 造船や杣山について感心を持っているいるのであるが、具体的に諸木がどんなものか、全く知識を持っていない。一つひとつ取り挙げてみるか。まずは、「御法度の諸木」から。間切検者・山奉行筆者・山奉行などは、それらの材木について呼称や区別や御用木、角材の寸法など、諸木の知識をもっている。それらの諸木を盗伐したりすると罰則(杣山取り絞まりの制裁)まであるので、その知識を必要としている。山原の山林は、法律によって規制されていたことで守られてきた。沖縄本島だけでなく、宮古・八重山・久米島にも適用されていた。

・樫木(羅漢松)(チャーギ) ・檜(ヒノキ) ・● ・杉(広葉杉)(ツアー) ・もみ ・楠(樟) ・さぼん
・よす(柞) ・かし木 ・いぢよ(いぢよ丸太) ・いく丸きち、並三寸九分マテノ角木 ・梓(紫檀)
・揚梅皮(ヤマモモの皮) ・からけの皮(肉桂皮) ・三年内の真竹 ・秋木 ・山黒木(黒檀) ・桑
・櫨(はぜ) ・まもく ・せんだん



2018年8月9日(木)

 「今帰仁村玉城誌」の三校目を入稿。大きな山場を越す。20編を並べてみないと整理できず。隣の部屋まで占領。整理がおわり入稿すると爽快な一時。

 体を動かしたくなり、太陽が沈む頃から、草刈りにいそしむ。汗一杯かき、みそぎをした気分。

  
   ▲20編余並べてみないと頭に入らず          ▲隣の部屋まで占領しての整理

 
  ▲牧草は三ヶ月でよくのびる               ▲刈り取った後は気分爽快


2018年8月8日(水)

【明治の商行為】

 沖縄の商業商行為は、寄留商人の多くは鹿児島商人で、沖縄人は露店や町屋の持ち主や行商人であった(『国頭村史』)。地方に町屋(マチヤグヮーともいう。国頭間切では那覇や与那原から運送してきた生活必需品、国頭間切など山原で切り出された木材や薪や竹などを交換する形の形の商であった。国頭間切の各村には二軒から五、六の町屋があり、町屋の主は山原船の持ち主でもあった。商品の売買と運送の両面から利益をえた。山原船は村の共有船が主であった。

 ここで一部しか紹介できないが、山原船が航行していた時代、以下の品々を運送していたと見られる。間切船は貢租の運送が主であった。

明治31年の山原の港からの輸出・入の品々(港によって品目や数量に違いがある)

本部間切の輸出品(明治31年)

 【輸出品】(山原から)
 ・製藍 ・薪 ・木炭 ・豚 ・砂糖 ・牛皮 ・砂糖樽 ・煙草 ・石炭 ・判徳利 ・移箱 ・移樽
 ・材木 ・七寸板 ・古楷気 ・雑品入

 【輸入品】(那覇・泊から)
  ・焼酎 ・白米 ・大豆 ・茶 ・味噌 ・麦 ・石油 ・素麺 ・唐綛(糸蒔きか) ・芋粕 ・畳類
  ・瓦 ・戸棚 ・七分板 ・水甕 ・利徳利 ・焼物鉢 ・樽皮 ・雑品入 

今帰仁間切の輸出・入品

大宜味間切の輸出・入品

 
※桐板(トゥンビャン)は唐からの輸入品目にみられる。

詳細は『なきじん研究―山原の港―』9号所収(今帰仁村歴史文化センター発刊)


2018年8月7日(火)

 琉球型の船舶(馬濫船・山原船)に古くから税が徴収されていたのか。「首里那覇久米泊村の内の船舶に限り徴収したるものなるか」とあり明治以前の船税ははっきりしていないようである。本島国頭地方各地を山原と総称、与論島・沖永良部島・徳之島・奄美大島(喜界島含む)を「道の島」とし、そこを往来するのが大和型船、琉球型船である。酒類の調査は山原地方・各離島・鳥島・両先島と区分しているが、船の呼称は山原船と呼ばれている。先島からの租税を運ぶ船は楷船(海船)と出てくる。

 腒(カワラ):船底の長さ  カンダン:船の中差の渡し
  
 ・十二反帆船 腒長(カワラ)長十二尋(21.9m) カンタン長三尋四尺(6.6m)
 ・七反帆船   腒長九尋 カンダン長三寸一尺 (約6.9m×約5.8m)
 ・六反帆船   腒長八尋 カンダン長 二寸四尺 (約14m×約7.2m)
 ・五反帆船   腒長七尋 カンダン長 二尋二尺五寸
 ・四反帆船   腒長五尋三尺 カンダン長 二尋五寸
 ・三反帆船   腒長五尋 カンダン長二尋
 
   (工事中)

 
▲?反帆船、薪などを積んで中南部へ          ▲山原船(松崎氏画)


▲割薪(ワイダムン)を山原船で運ぶ(クロイド氏撮影)

2018年8月6日(月)

 今週はで原稿は片付けてみるか。チャーギにまきついたパションフルーツ。その手この手を使って引き落とそうするが、まだまだ(枝を切り落とす道具でやってみるが、そう簡単ではない)。脚立で途中まであがるが、あぶない! 乙羽岳の雲、空気は少し秋の気配。室内はバラバラ。夜空は星が満天。

  
  ▲まだ落とせない絡まったツタ        ▲秋めいた空           ▲まだ落ち着かない寡黙庵 


2018年8月4日(土)

 「山原船と津(港)」をテーマで新聞(文化欄)や『なきじん研究』などで報告してきました。今回与えられたテーマは「山原船による交易」(主な交易品・航路・寄港地)なので、そこに集約していきます。そのテーマを頂いて、沖縄本島を中心に周辺の島々、先島、そして与論島、沖永良部島、奄美大島、喜界島、さらにはベトナムまで行くことができました。過去の調査記録や企画展の展示も資料を引き出してまとめることに。

山原の津と山原船(過去調査メモの一部)

山原の津(港)と山原船(新聞掲載記事:文化欄から(上)(中)(下)

 沖縄本島の北部は山原(現在の恩納村・金武町以北)と呼ばれている。その山原の名をかぶせた「山原船」が近世末から明治、大正、昭和にかけて海上輸送の主役を演じた。その山原船が往来し荷物の積み降ろしのため碇泊した場所は津や津口、ナートゥ(港)・トゥマイ(泊)などと呼ばれる。そこは津(港)としての役割を果たした。『琉球国旧記』(1731年)によると山原の「港江」の数は百余りを数える。ここでの「江」は入江、つまり船溜りのことであろう。山原の港と江を合せた数は、ほぼ山原の村数に相当する。それは海や河を持つほとんどの村に津(港)や入江(船溜り)があったことを物語っている。

 「今帰仁杣山法式」(1754年)の津口番の管轄区を見ると、国頭・大宜味・久志・金武の四間切の複数村の津口を管轄する津口番を配置した。前記四間切の津口番が管轄した村数は五四である。津口番を勤めたのは在番・検者・山筆者達で、主な役目は出入りする船の取り締まり―積荷の検査、手形の有無、乗組員数、氏名、航海の目的、抜け荷、密輸など―である。

 山原の津(港)は、必ずしも船が岸辺に接岸できるものではない。良港と言われている運天港も直接接岸できるようになったのは戦後のことである。山原船が運航していた時代の津(港)は、潮の干満や風の影響を大きく受けた。海が遠浅の場合、山原船は沖に碇泊させ、伝馬船(テンマーセン)の小船で荷を運び本船に積み込んだ。蔡温の『独物語』(1749年) は18世紀の津(港)の様子を次のように述べている。

 「諸間切浦々の干瀬共石原にて着船の港無之候に付て商売船逢逆風候時入着不罷成及破損候船多々有之候、右石原割除き間切毎に浦々の場所見合を以港作置候はゞ商売船は不及申其余の諸船の天気荒立次第則々港へ走入絶て難儀無之積に候」

 那覇・泊には山原や諸離島を走り回る馬艦船、また浦漕船があった。馬艦船、山原船ともに構造上はシナ式のジャンク型であるが、外航船として利用されていた大型の船を馬艦船、沖縄本島北部(山原)を往来していた小型船を山原船と呼んで区別したようである(『近世薩摩関係史の研究』 380頁参照、 喜舎場一隆著)。両船を区別した次のような琉歌がある。

船のつやうん(船が着いたよ)

  つやうんなたくと(着いたと、鉦(が)鳴っていたので)

  まらん船だらんで(馬艦船かと思って)

  出ぢちて見れば(出て見れば)

  山原だう(山原船であった)

 琉球における船の名称の規定は明確でなく、「山原船」の呼び方は近世以降で明治から大正・昭和(戦前)、そして戦後昭和三十年代まで使われている。『那覇市史』(資料編第一巻二)所収の「船改之覚」(雍正十三、一七三五年)「那覇・久米・泊村商売船心得」(乾隆16、1751年)、「唐漂着船心得」(乾隆27、1762年)、「難破船入津の時の心得」(乾隆35、1770年)、「御領国の船唐漂着の儀ニ付締方」(乾隆50、1785年)、「大和船道の島船漂着の節諸在番公事」(道光25、1845年)、 「商売の心掛けにて唐漂着を禁ず」(道光十二、一八三二年)、「地船訟」(咸豊5、1855年)などに出てくる船名は、先島船・久米島船・泊船・御物積船・馬艦船・唐船・道の島船・大和船・地船などである。山原船の呼称は見受けられない。

 山原船が海上輸送の全ての役目を勤めたわけではない。間切役人が事務文書を届けたり、緊急連絡用に使ったのは「地船」のサバニ(飛舟)だろうし、上納など穀物や織物や黒糖などの輸送は「地船」の馬艦船(山原船)であろう。

 1700年代になると琉球の人口が増加し、敷地や建物、墓などの規模や材料に規制が加えられるようになる。それでも建築用の木材や生活必需品である薪の需要が増大し、山原と泊や那覇、与那原との取り引きは盛んになった。山原の津(港)との往来が増える中で、「山原船」という呼称が登場したと思われる。

                   (中)

 1400年代北山・中山・南山の三山を中山が統一、さらに1500年代になると首里王府を中心とした中央集権国家が誕生し、各地の間切と首里王府との支配関係が確立した。それは首里から各地への文物の流れと、各地方の村々から首里への貢納(上納)や一般物資の流れを生み出した。物資と村々を結びつけたのは陸路もあるが、運送の主流は船である。そして船は、潮の干満等旧暦のリズムで運航される。山原船が往来した頃の山原の村々の祭祀や稲作や甘藷などの栽培も旧暦でのサイクルである。

現恩納村は沖縄本島の西海岸に位置し、美(比)留・久良波・仲泊の港がある。恩納間切は山原では町方の一番近くにある。恩納の港から運ばれる品物は、砂糖・藍・木材・薪炭・山原竹・竹茅などで泊港や那覇港に運ばれていた。那覇・泊の町方から酒や日常品、壷屋の焼き物などであった。そのような品々の他に恩納間切の陶土に注目する必要がある。仲泊や前兼久の港から、山手で掘りだされた陶土は村船に積んで泊港へ運ばれた。伝馬船に積み換えて安里川を遡航し壷屋のカラーバンタで陸揚げした。壷屋の焼物は全琉に流通している。壷屋の焼き物の陶土は恩納産がどれだけ含まれているか興味が持たれる。

 現在の名護市許田の湖辺底港と羽地間切(現名護市)の勘手納港は仕上世米の積み出し港である。湖辺底港は名護・恩納・金武間切、勘手納港は米どころの羽地間切と久志間切の一部の村の積み出し港としての役割を担った。名護港は明治になると名護と那覇を結ぶ汽船の航路があり、船客の乗り降りや品物の積み降ろしで賑った時期があった。しかし首里・那覇・泊の町方からすれば「名護や山原の行き果てがゆわらまで名護船のあてのないらぬ」と謡われ、名護でさえ遠いへき地であった。東海岸の瀬嵩は大浦湾に面し、薪や木炭が収入源となり、与那原から山原船で買いつけにやってきた。

 現在の本部町は渡久地港と瀬底二仲(シークタナカ)の二港が登場する。その他に伊野波港、新里原津口、浦崎泊がある。伊野波港は北山の時代、港であったと伝えられる。近世まで伊野波は入江になっていて、船の積み荷を干したニフスの丘や海岸に因んだ浜川の地名に港の名残がある。『正保国絵図』「によは入江 一此によは入江左右干瀬之間壱町五十間深さ五尋 一何風ニ而も船繋り不自由」とあり、近世には港としては不便であった。

 本部間切新里(具志堅の一部)の津口は明治から山原船の碇泊地で、海岸線は干瀬(リーフ)となっていてクチから船が出入りした。そこを利用した山原船は伊平屋島や伊是名島と取引きをした。運搬してきた品物は牛や豚・米・薪などであった。浦崎泊は河口にあり、戦前は地元の志良堂船や渡久地船の拠点となり、特に恩納村名嘉真と安富祖を往来し、竹茅や山原竹を運んだ。明治には伊江島と本部間の連絡地となっていた(『本部町史』通史編上)。浦崎の泊原にマーラングムイがあり暴風の時、馬艦船(山原船)が避難したところだという。
 
 大宜味の番所(役場)は塩屋湾岸にあった時期がある。船持ちは各村の前に船を着けて積荷を降ろした。大宜味には地船という村船があり、薪や木材、樟脳、藍などを那覇・泊に運んでいた。大宜味間切には明治十七年の「津口手形」(積荷検査証)があり、それには船の大きさ・船主・乗組員・積荷の品目などが明記される。明治三一年の大宜味の輸出品は薪・砂糖樽板・砂糖樽底蓋板・木炭・製藍などである。また輸入品は、焼酎・石油・大豆・白米・素麺・茶などがある。輸出品を見ると大宜味は林業が中心で、それらの品物は山原船で運ばれていた。名護から大宜味に行くには徒歩や籠、サバニがあったが不便な地域であった。根路銘の船溜りに数隻の帆船が碇泊し、大正になると動力船が物資を運ぶようになるが、陸路は依然として不便であった。

                   (下)

 国頭村は村(ムラ)と村との陸路が険しく、昭和十年代まで海上交通が主であった。一七三一年の『琉球国旧記』の「港江」を見ると、国頭間切には港は一つの記載もないが江(入江)は二九ある。村を流れる河口(入江)が港の機能を果たした。浜港は国頭間切番所(役場)があった所で、浜村は行政の中心地であった(後に番所は奥間、辺土名へと移る)。鏡地港も山原船の出入りがあり、木材が運びだされた。屋嘉比港は根謝銘グスクが機能していた時代、国頭按司の貿易港と伝えられオモロでも謡われている。国頭からの輸出される産物は建築用材や薪、炭材や砂糖桶などである。

 東村あたりは、山原船による林産物の運搬でムラの経済が成り立っていた。高江は三方山に囲まれ林業を生業にし、宮城から高江まで道路が開通していなかったため、輸送はほとんど山原船にたよった。宮城は昭和三〇年代まで林業で生活を支え、生活用品は山原船に頼っていた。川田の人々は山に何度も入り薪用材を切り出し、馬やイカダ、あるいは人力で担いで運び出した。平良ではムラの人たちが運んできた薪を売店が買い取り、山原船で与那原港に運ばれた。与那原港からは生活物資が運ばれてきた。慶佐次は戦前から山仕事が盛んで、燃料用の薪で現金収入を得ていた。ムラの人たちは山原船の入港に合わせて山仕事の共同作業の日程が決められた。山原船が運んだ物資は共同売店が買い取り、さらにムラの人たちに販売されていた。共同売店は「山稼ぎ」の換金や山原船との仲介役であった。

 宜野座村の漢那の船は糸満や泡瀬や那覇、惣慶の船は泡瀬・糸満・那覇などで取引先がきまっていた。船主の多くが平安座島で宜野座を出発すると平安座で一泊し、風向きがいいと翌日には与那原や那覇に着いたという。航海は月に二回程度であった。宜野座から運び出される産物は薪炭や竹木であった。『宜野座村誌』によると帆の大きさは七反帆船から十反帆船まであり、八、九反帆船が多く、七反帆船で二七トン、薪は8000束積むことができたという。
 
 金武は金武湾に面しているが、昭和6年に石川と屋嘉の間で荷馬車が通ると海上交通が衰退し陸上交通へと移っていった。伊芸あたりから荷馬車で薪や炭などを中・南部のマチに運び日用雑貨を仕入れてきた。明治四一年に金武・久志と与那原との間で薪の値段の折り合いがつかず対立したことがある。

 与那原港は那覇港に次いで山原船の出入りが多く、与那原のマチは活気づいていた。材木商や薪炭商などの店が軒を並べ、陸路では乗合馬車や人力車、荷車などが那覇と与那原間を往来した。大正三年には軽便鉄道が走った。山原からの輸入品は薪や木材、竹茅・製藍など。輸出品は焼酎・茶・素麺・昆布・塩・味噌・石油などである。


 山原の東海岸の村々の津(港)と与那原を、西海岸の村々は泊・那覇港とを山原船が結びつけていた。それだけでなく奄美や与論、沖之永良部島との航路もあった。

 山原の津(港)の中で運天港は特異な存在である。源為朝公の渡来伝説をはじめ、『海東諸国紀』(琉球国之図)に「雲見泊 要津」とあり、オモロで「うむてん つけて」と謡われる。薩摩の琉球侵攻、北山監守を勤めた今帰仁按司の一族を葬った百按司墓や大北墓、間切番所、近世末のバジル・ホール、フランス艦船、ペリー提督一行など異国船の来航、奄美に漂着した唐人の収容など、運天港での出来事は「琉球の歴史」を次々と髣髴させる。

 山原において村数ほどの津や江があるのは「陸の孤島」と呼ばれるムラもあるほど陸路が不便で、海上輸送に頼らざるを得なかったためである。人々はそのムラで生まれ育ち、骨を埋めていくのが一般的であった。首里・那覇に行けたのは限られた人達であった。明治になり、さらに大正になると郡道が整備され、車の出現で輸送は海上から陸上へと移り、人々の動きや流れも大きく変わってくる。

 ※企画展「山原の津(港)と山原船」は、山原の津々浦々を山原船をキーワードに歴史を
   読み取っていく必要性を実感させれる。(当時の学芸員実習生と一緒に展示、パネル造り)

   
          ▲企画展 山原の津(港)と山原船の様子(今帰仁村歴史文化センター)


2018年8月3日(金)
 
 大宜味村田嘉里の山口家の祠に図像がある。図像は喜界島のノロと山口家の先祖の一人が喜界島のノロを喜界島から屋嘉比村へ連れ帰ったという。来てみたら男には妻がいて喜界島のノロはだまされたと悔しがったという。 

 昔、屋嘉比村の山口家の祖先は、船を所有して、奄美諸島交易をしていました。ある年山口家の祖先の1人の男が喜界島へ渡って、美しい喜界祝女にひと目ぼれしました。男はその美しい祝女を口説いて、屋嘉比村へ一緒につれて帰りました。しばらく屋嘉比に住んでいたが、屋嘉比村は飢饉にあい、食べ物がなくなり喜界島から来たノロは裏手の山に籠もって貧しい生活をしたそうです。

 喜界島の故郷に恋い焦がれて死んだという。そのノロが籠もって住んだ森を「くがり山」と呼ぶようになったといいう。喜界島のノロには子供がいたという。子供もそこで亡くなったという。

 旧暦七月のウンガミまつりの翌日、屋嘉比では臼太鼓が行われている。山口家前広場で奉納される臼太鼓の一つにくがり山の伝承にまつわる歌がある。

    くぬじ ちゅし ん 
    ちゅし

 (この山で泣いても、だれも聞く人はいない。泣くのを聞くのは、山びこだけであるという)

 先月、喜界島を踏査してみた。喜界島には数名のノロがおり、屋嘉比に来たノロはどの村のノロなのか確かめることはできなかったが、喜界島のノロと琉球と関わる伝承は宜野座村や伊平屋島にもある。旧盆明けの亥の日にウンガミがあり、その翌日ウシデークがある。その伝承を念頭にいれて見るか。屋嘉比のクシンヌマク(恋しい)はこの伝承に由来するか。

 
  ▲この伝説を描いた図とみられる    ▲旅人の見送りをしたという城久のトゥムヌトゥ公園

・喜界島

今帰仁村今泊の海神祭(ウーニフジ・グスクウイミ・シマウイミ)(2008年の記録)
・本部町具志堅の上間家と赤墓


2018年8月2日(木)

 山原(やんばる)、あるいは奄美(喜界島・奄美大島・徳之島・沖永良部島・与論島)を踏査していると、ムラ・シマ、それとグスク(城)の形へと踏み込んでしまう。近世以前の古琉球の時代を近世のムラ(村)の形で
見ているのではないか。その反省もあって与論島から喜界島まで、そこに「古琉球の姿」の形が遺っているのではないか、それを拾うための踏査である。薩摩の痕跡を置いて、琉球の痕跡を拾ってみる。まずは古琉球の姿をみ、それが400年余も生き続けていることを視野にいれて歴史や文化を見ていくことが重要ではないか。

 そこでマク(マキヨ)とグスクが、近世の村(ムラ)へとつながる古琉球のムラの形ではないか。以下は『大宜味村史』の執筆編集で「わーけーシマの宝物」(所収)で「まとめ」たものである。

http--yannaki.jp-hokuzaounojidai.html北山王の時代(参照)

大宜味のマク(1673年までは国頭間切) 

大宜味村には各字にマク(マキ)名がある。「わーけーシマの宝物」(新大宜味村史)でまとめられている。かつての村(ムラ)内にマク名が見られる。それは近世以前のムラの形の遺跡、現在の字(アザ)や明治41年以前の村(ムラ:行政村)、以前(古琉球)のムラの形を示しているのではないか。古琉球の時代は「まきり」(間切)の境界線はあるが、ムラの境界線はゆるやかである。近世の村の境界線は元文検地で明確にされたとみられる。マクはどのように形成されたものであろうか。大宜味村の事例でみていく。マクの呼称は「・・・マク」である。マクを構成する要素は、さまざまである。「同一の血縁団体、あるいはその部落名」とされる。・同一族(血族)の人々だけが居住している場合、数ヶ所の門中(血族)でなしている例、血族の人々の集落などがある。マクと呼ばれる集団ができると、ウタキをつくり、そこには湧泉(カー)があり、いくつもの祭祀場をつくる。そのような習性をもった集団とみてよさそうである。

大宜味村や国頭村で現在でも意識されるマクは、『沖縄の古代部落マキョの研究』で唱えられるマキョやマキュウ、国頭村や大宜味村でいうマクである。古代部落(近世以前の部落)のことである。歴史を描いていく場合、近世の村(ムラ)と古代部落の形を背景にしていく必要がありそうである。マクの意味が何かの議論でストップしている。国頭村、大宜味村の各字に分布してマクは、マク→近世の村(ムラ・シマ)→字(アザ)への変遷をたどっている。マクの時代と行政村(ムラ)へ移行したときの祭祀は変化しにく要素であった。すると土地制度(山原では地割)か?

 十七世紀の『絵図郷村帳』や『琉球国高究帳』などに登場する村の形と、それ以前のムラの形の違いを描くことができればとの作業である。『琉球国由来記』(1713年)の村の内部にはウタキや祭祀、ノロ管轄など、古琉球のムラを形づけていた要素が引き継がれている。近世の村との違いを解き明かすことが必要である。時々、「祭祀は歴史の変化しにくい部分を担っている」との主張のねらいは、そこにある。(果たして説明はつくか?)

 近世の村の形を作り出したのは、慶長15年の検地であろう。検地の時、土地の持人の名を記したとある。その時の検地で原名をつけている。また村位を定め田畑からの上納の取り高を定めている。それと税の品目なども定め、人々を税の品目や土地にしばりつける制度を敷いている。それが近世の村を形づけている。それ以前と以後では村やムラの形は大きく変わる。その後、二回の増高が行われ、さらに蔡温の元文検地で間切境界、村境、原境界などの検地が行われ、村の境界、原の境界など調査され、近世の村(ムラ)の形が整ったとみられる。それは税のとりたて配分(地割)へとつながる。

【大宜味のマク】

 【屋嘉比・親田・、見里】
  ・クイシンヌマク(屋嘉比)
  ・アラクイヌマク(親田)
  ・ユフッパヌマク(見里)
  ・ウチクイシンヌマク(野国・野国ナー)
  ・フーシンヌマク(潮原)
  ・ハニマンヌマク(福地)

 【根謝銘・城・一名代】
  ・クガニマク(城)
  ・ユナハマク(根謝銘)
  ・ユダヌマク(一名代)

 【喜如嘉】
  ・クガニマク

 【饒波】
  ・ユアギマク

 【大兼久:大宜味】
  ・ユアギマク

 【大宜味】
  ・ユアギマク

 【根路銘村】
  ・ハニ(金)マク

 【上原:根路銘村】
  ・ハニ(金)マク

 【塩屋】
  ・ユアゲムイ

 【屋古・前田】 
  ・シララムイ
  ・シララダキ(シジャラムイ・シジャラダキ)

 【田港】
  ・スクムイ・スクダキ

 【押川、塩屋から分離】
  ・スクムイ、スクダキ

 【大保、田港村から分離】
  ・サンマク

 【白浜:渡野喜屋】
  ・ユラヌウラマク

 【宮城・津波の一部】
  ・アラムイ

 【津波】
  ・アラハブヌマク  

     
            ▲大宜味村に遺るマク (遺物分布地と多くが重なる) 

【国頭地方のマク(マキヨ)

 ・浜 ユアゲマク ・比地 マツガネマク 
 ・奥間 カネマンマク
 ・辺土名 イチフクノマク 
 ・宇良 スウトクマク 
 ・与那 チャンチャンノユアゲモリノマク 
 ・謝敷 チイルサカルマク
 ・佐手 コウボウマク 
 ・辺野喜 チャンチャンノクイジマク 
 ・宇嘉 ニシムイニダケノマク 
 ・辺戸 アシモト(アシモリ)ノマク
 ・奥 ヌアグニウウブシルウジョウノ前マク 
 ・楚洲 オウジマク 
 ・安田 アダカモリマク 
 ・安波 オウジマク


2018年8月1日(水)

 17年前、以下のような記録を残してある。私自身、高齢になったことを実感。いっぱい実をつけてくれたパッションフルーツであるが、実が小さく植え替えです。先月の台風で吹き飛ばしてもらおうと、切ったのであるが、台風はそれてしまい、チャーギ(イヌマキ)に絡まったまま。5mほどの棒に鎌をくくって切り落としてみたが、まだまだ・・・・・。長時間、上を向いての作業。血圧があがってしまいそう。今日は、そこまで!

 
     ▲チャーギに絡まって実をつけてくれたパッションフルーツ          ▲強風で多くが落下

2001年10月25日メモ

 10時半頃、「仲原くん、元気か。君がいるから助かるよ」と声を発しながら仲松弥秀先生(93歳)やってきました。この前から何度か電話がありました。「木曜日は確実にいます」と約束してありました。私がいなくてもクボウの御獄は先生の方が御存知のはずなのに???? 私がいるかどうか、何度も確認したのは撮影があったのです。撮影することがわかるときっと逃げると、先生は考えていたのでしょう。なんと、本格的なカメラマンとスタッフを何名も引き連れての来館でした。(確か、「沖縄紀聞」のテレビ放映があったような)

 クボウの御獄まで先生を車に乗せ、ときどき公用車の車体をこすりながら悪道を登っていきました。「先生を担いでいこう」というと、「君ではダメ。あの娘(子)ならいいよ」と冗談。93歳にして、相変わらず元気です。「クボウの御獄は大事なところだから、君説明しなさい」、そんな調子で説明役を務めさせられました。先生とは考え方が違うのにいいのかな??? 後で先生に怒られそう。「君はいいこというが、弟子にはしない」と言われそう。「今の話は、オレは聞かなくてもいいから、若者に伝えなさい。ありがたいな」と。「もう、これないがいい日だ」と感慨深そうに、かつて訪れた頃のことを思い出すように「神人はここ、男の人はそこ、ここからイベの方に登るんだ」と記憶をたどっていました。

 今帰仁グスク内の上の御獄(カナイヤブ・テンチヂアマチヂ)と下の御獄(ソイツギのオイベ)の二つの御獄の撮影まで。上の御獄は辺戸方面のその彼方のニライカナイ。下の御獄は伊是名・伊平屋方面を向いているとの仲松説。ウンウンと聞いてあげるのみ。仲松説に悩まされぱなっしのわたしですが、先生から民俗学の多くを学びました。

 短く切った杖はカッコウが悪いとグスク内の店のおばさんから、新しい杖を無理やり寄付された先生。そこでも「子供が授かる場所があるはずだ。そこは何というのか」「はい、プトゥキヌイッピャです」「石を持ってくるはずだが、何というか」「はい、ウルです。サンゴです」「そうか、いいこと聞いた」と、調査をされているのです。頂いた長い杖をついて石段を下りました。分かれぎわ「君がいて、ほんとに助かった。頑張れ」の言葉を頂きました。こちらこそ、ありがとうございます。これから辺戸の安須森まで行かれるとのこと。無理せずに。元気で.....