寡黙庵 2017年9月の動き トップへ(もくじ)
(住所:沖縄県国頭郡今帰仁村謝名)
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2017年9月30日(土)
二週間ばかり更新ができず、このブログは休憩。10月の講演に向けての下しらべ。タイトルが「山原(やんばる)にある社寺と民間の建造物」。寺や神社が造られた背景、民間建設は番所や役場や学校、特に山原の神アサギ。それらをキーワードして報告するため金武寺・久志権現・名護市屋部寺・伊江島の照太寺(権現)・伊是名島神アサギ・銘刈家。山原の村(ムラ・シマ)を神アサギを通してみるムラの形。祭祀空間・税の仮置き場、神アサギが『琉球国由来記』(1713年)から300年も山原では継承されているのか。
神アサギと御嶽が神社化されていく。神アサギをみていると、ムラの法則姓が見いだされる。また明治以前に新設されたムラに何故神アサギを創設し祭祀を行う必要があったのか。グスクにある神アサギは祭祀空間。集落の中心部にある神アサギ、旧家の屋敷内にある神アサギ。村が合併した村の神アサギ、明治36年の村の合併は、土地整理の結果。
10月はそのテーマで踏査とまとめをすることに。
▲金武寺 ▲久志の観音寺(名護市久志) ▲凌雲院(屋部寺)(名護市屋部)
▲瀬底の土帝君 ▲照太寺禅寺の権現(伊江島) ▲伊江島真謝の茅葺き家
2017年9月16日(土)
以下の記事は今帰仁間切玉城村・寒水村・岸本村が移動した様子を示すものである。その村移動を記念して碑を建立してある。
本年、今帰仁郡寒水岸本玉城等三村村籍を改め遷すことを准す。(1863年尚泰王条:『球陽』読み下し編)
今帰仁郡寒水・岸本・玉城等の三村は多年困疲し、経に疲を挽き興に就くの術を求めて、百般指揮すると雖も、而も其の効を見ず。居民に至りても、亦繁昌せず。該三村の百姓等、議して謂へらく、其の富庶を致さざる者は、殆んど是れ村籍を建つる所の地理の不雅に有りと。乃ち地理師を延請して、風水を観看せしむるに、即ち云う、寒水村を看るに、その右辺に石砂流去する有りて、屏範の美を失う。其の前面の左右に山峰の高く聳ゆる有りて、概に蛸風を受け、復、流水を受く。而して前面に山有るは、此れ皆地理雅ならず。
岸本村を看るに、其の後頭に山有り、其の前面左右も亦石砂流去する有りて、村範の美を失う。亦其の四面は地高くして、構ふ所の人家、山前に近逼し、多く陰気を受く。而して土地窄小。此れ皆地理雅を失う。玉城村を看るに、其の四面、近くに村籍を鎮めるの屏無く、其の後頭の山峰は恰も反弓の形に似たり。其の家屋の構えは皆丘陵に在り。而して其の村の両傍に泥水の派流する有り。此れ皆地理の雅を失うこと有り。
今建つる所の三籍は、地理の美に就くの術を施す能はず。若し改めて村籍を遷さざれば、則も日後困疲益〃増し、人口益々衰へん。宜しく応に寒水村を将て、本村村前面の驛路を改墾し、岸本・玉城両村百姓受くる所の地に移建し、岸本・玉城両村を将て、改めて保加麻原の地に遷すべし。
三村、地理の雅を得て家富み人庶るに庶(ちかから)ん等語と。夫れ此の如く村籍を改遷すれば、則ち但だ地理の美を得るのみならず、一は田畝の便有り、一は用水の饒あり。該師云う所の如く、村籍するを准すを懇ひ且つ該地を租借すれば、則ち妨碍するの処有あらん。因りて私に地籍を交換するの議を定め、便に乞う、此の如く施行を准せ等の由、該三村の百姓等の詮呈し、田地奉行・両総司・地理師・下知役・検者・酋長等、即結を加具して朝廷に凛明す。是れに由りて其の請う所を准す。
2017年9月14日(木)
兼次の字誌に向けて二回目のゆんたく会を行う。今回は屋号を中心にしたゆんたく。100軒近い屋号の確認と追加。同時公民館の倉庫から写真やアルバムを開く。歴史文化センターにスキャンをお願いする。それと兼次バンタとナハガーラ周辺の絵図(昭和8年頃)の提供。次回は地名についてのゆんたくをすることに。
▲兼次字誌に向けて ▲戦後すぐの「兼次区事務所」 ▲兼次校前の通り(昭和30年)
▲兼次バンタからの絵図 ▲兼次の北側のナハガーラ周辺の絵図
2017年9月10日(日)
ウンガミの日、古宇利島のウンジャミのウガンバーリ(競走)の後大宜味村内のウンガミの跡へ。渡野喜屋(白浜)、塩屋(相撲が行われている)、根路銘のウンガミ、饒波は盆踊り、喜如嘉の根神ヤー、謝名城のウンガミの跡、田嘉里(屋嘉比)までいく。
渡野喜屋(白浜)、公民館内にウンガミの酒や米など
・喜如嘉の根神ヤー
・謝名城のノロドゥンチと内部、ウドゥンニーズとトゥンチニーズ(石の上で神送りをする場所)
・屋嘉比神アサギで五ヶ所へ遙拝
神アサギ内から五ヶ所に向かってウガンがなされている。
・根路銘のウンガミ
夕方国道58号添いの海岸でハーリ競漕が行われていた。パトカーが出動して交通整理が行われていた。
2017年9月9日(土)
旧盆明けの最初の亥の日(今年は9月9日)は古宇利島や大宜味村の塩屋や根路銘や謝名城や田嘉里で海神祭(ウンジャミやウンガミ)が行われる。古宇利島の海神祭は久しぶりである。午前10時から行ったという。以前は高校野球があったので試合開始前に始まったことがある。午前11時頃から始まるのであろうと。完全に遅刻である。誰ひとりと姿が見せない。売店で飲み物を買いながら、「今日の海神祭はやらないの?」と尋ねると「これからやるはずよ」と。時間つぶしに、海神祭のコースを回る。
神アサギ→フンシヤー(古宇利子)→神道→(神道沿いのヒジャヤー、ウチガミヤー、ヌルヤー)→オミヤ(ヒチャバアサギ)→岬(シラサ)→古宇利子家(フンシヤー)のコースを踏査。
(今回は神人達の動きを思い浮かべながら) 神人は三、四人だったと聴く。
ウガンバーリまでの間、懐かしい方々から声がかかる。
午後からのウガンバーリ。
ウガンバーリをみて、大宜味村のウガン行われた余韻を・・・・・
白浜→田港・屋古→塩屋→根路銘→喜如嘉→謝名城→田嘉里(屋嘉比)まで
2017年9月8日(金)
お盆休みにしていたが、多忙でブログに向かう時間なし、というより書き記す成果なしということか。
2017年9月5日(火)
ノロ家(ノロ殿内)は、その家が世襲する場合が一般的である(同家の娘、嫁)。根神についての調査記録がある。それによると、その村の門中(一門)から輩出している。屋号から根神をだす一門(門中)から知れる。今では根神を輩出する一門や門中はわかるが、継承されているのはわずかである。ノロ地を賜っていたように、根神に就任するといくらかの畝・段・歩の根神地を賜る村がある。
(畝などの面積がどの規模なのかの実感がわきません。調べてみよう)
国頭村や大宜味村や羽地村、今帰仁村の根神ヤーや大宜味村のナーカやクラニーなどに旧家の名残がうかがえる。
▲今帰仁村謝名の神アサギ周辺に根神殿内や世神殿内の火神の祠がある。
山原の「根神地調」(大正15年調査)(『琉球共産村落の研究』田村 浩著 昭和2年発行)
【国頭郡のみ】
(市町村) 字 名 根神を示す門名 根神の屋号 根神地の有無及び反別
・東村 有銘 新屋門中 新山 無
慶佐次 大殿内門中 大殿内 無
平良 大屋門中 大屋 無
川田 根座銘屋門中 根座ニヤ 無
宮城 伊元門中 伊元小
無
・大宜味村
田港 仲門一門 仲門 二畝七歩
饒波 根神屋一門 根神屋 無
塩屋 クチャ引一門 クチヤ屋 一畝二九歩
謝名城 大城一門 大城屋 二畝二〇歩
渡野喜屋 蔵根一門 蔵根 無
根路銘 下桃原一門 下桃原 無
・国頭村
浜 金城 仲―カ 二〇歩
浜 金城 上門 二〇歩
比地 司馬 安佐慶 無
比地 根屋 ハンタ 無
奥間 新地門中 新地 田一畝二四歩
桃原 山城 前 無
辺士名 玉城 四番 田三畝一六歩
宇良 島袋 八 無
伊地 宮城 新屋 無
与那 道越 新門 無
謝敷 宮城 上□原 八畝十一歩
佐手 新里 前 無
辺野喜 シバ シバ 田一畝一〇歩
宇嘉 大屋 大屋 一段歩
辺戸 佐久真 佐久真 一段歩
奥 松下 松下 無
楚洲 新城 仲間 田四畝四歩
安田 比嘉 楚伊 四段六畝一九歩
安田 比嘉 杉屋 四段二歩
安波 新屋 新屋 田 一畝一〇歩
・羽地村(現名護市)
源河 宮城門中 ヤガマテー 無
仲尾次 クニガー門中 大親役屋 一畝二〇歩
仲尾次 ヒヤガイ門中 呉我屋 無
川上 平良門中 マビ 無
田井等 ミズイ門中 ミズイ 無
親川 クビリ門中 徳田 無
仲尾 玉城門中 佐海田 三畝歩
振慶名 前川門中 前川屋 無
我部祖河 仲ノ門中 セリ河 無
呉我 玉城門中 根神屋 無
我部 松田門中 ミザシ屋 無
屋我 クガニヤ門中 ナカンダカリ 無
・恩納村
瀬良垣 当山門中 根神屋 無
谷茶 山城門中 根神屋 無
富着 富着門中 根神屋 無
前兼久 川ノ根一門 東川屋 無
仲泊 下庫理一門 下庫理 無
2017年9月3日(日)
出たー、タイワンハブ!
旧盆のウンケー(お迎え)の日、寡黙庵からの帰り(夜10時過ぎ)、タイワンハブと出会う(今年二度目)。過去には、車に用心棒(ハブ退治用棒)を車にいれてあるのだがは入れていず)。横断中のタイワンハブ。車でバキュ。生きたハブを目前にすると、デジカメ、フラッシュに戸惑い、手が震えています。近くでもタイワンハブが出没。ハブと出会う機会がなくなったような。両種のハブに気をつけよう。ご用心、ご用心。
2017年9月2日(土)
今日から盆休み(一週間)とすることに。「寡黙庵」の元祖となる「新田親雲上」の位牌がある。以前の位牌には以下の「萬日記」に記されている何名かが安置されてる。父の時代、「新田親雲上」を元祖とする位牌に仕立て変えて(他の名前は萬日記に記されている。近年「かまた仲原」(謝名村)らしき人物の「口上覚」を拝見(琉球大学図書館)所蔵)することがあった。「口上覚」は画面でしか見ていないので不確か。先祖の位牌や位牌や母の調査メモで確かめてみるか。
先祖が葬られている墓は、テー港(今帰仁村越地)に⑦まで。それより後代は今帰仁村謝名の謝名俣原に墓をつくる。昭和60年謝名東大棚原に移転(現墓)。仲原家は⑦までは越地の墓、それより後代は現在の墓に葬られている。
戦前・戦中・戦後を生き抜き抜いた人物参照
2014年5月19日メモより
資料を整理していたら我が家の「萬日記」が出て来た。「同治九年庚午」(1870年)仕立。平成元年頃墓の調査をしようと、墓主仲原武一(故:十一代目))と準備をすすめたことがある。台風の来襲で取りやめとなった。その後、墓室内の調査をすることはなかった。(昭和30年代に一度調査したようで、その調査メモが残っている:私の母照子メモ、銘書の判読が難しかったようだ)
「萬日記」を仕立てた「かまた仲原」は新田筑親雲上から新田筑親雲上から七代目の人物である。仲原家は一般的な百姓で、社会的にどのような役割を果たしたは皆目不明である。ただ屋号はウンテゥンヤー(運天屋)で、船持ちで運天にも家を持ち、それで謝名の家にウンテンヤーとついたと聞いている。また、仲原姓は仲原馬場が同村(現在越地)にあり、そこからもらったとの言い伝えあり。
謝名の旧家の一軒で神人(男神人と女神人)を出していた。そのこともあって字(アザ)の神行事で拝まれる。

(トビラ)
一 同治九年庚午十月十二日仕立
萬日記
かまた仲原
(以下焼香された人物名)
焼香相済候
一 乾隆拾五年巳午七月五日死去(1750年)
新田筑親雲上①
右同
一 同五拾壱年巳九月十五日死去(1786年)
仲原にや②
右同
一 嘉慶拾七年壬申四月廿三日死去(1812年)
仲原にや
妻
右同
一 道光拾弐年辰九月廿四日死去(1831年)
次良仲原③
右同
一 同拾参年巳四月四日死去(1832年)
次良仲原
妻
午十月十一日拾三年回忌吊相済候
一 道光拾三年巳三月三日死去(1831年)
仲原筑登之④
同年右月
一 同拾年卯八月
三月廿四日死去
まつ仲原⑤
一 同弐拾七年戌申正月四日死去
やま仲原⑥
一 同拾三年申戌五月廿一日死去 酉ノ人
かまた仲原⑦
一 同治拾三年申戌十一月廿四日死去 午ノ人
かまた仲原
妻
一 明治廿年丁亥九月十五日死去
仲原筑親雲上女子
一 明治三十七年申辰旧十二月廿五日死亡
仲原加那 辰ノ人⑧
一 大正四年卯年旧二月八日死亡
酉仲原加那 妻マツ
一 大正六年巳五月拾四日死亡
仲原武太女子巳人マツ(⑨)
一 昭和二十年□月□日死去(戦時中死去、場所日にち不明)
仲原加那長男
仲原次郎 明治二年生(⑩)
(以下整理中)
2017年9月1日(金)
9月スタート。何から手をつけようか。
2011年6月18 日(土)メモ
祭祀の日は「神遊び」といい、現在の公休日に相当するものであると説く。そのことがピンと来ないようである。それで具体的な事例を示すことにする。各間切によって異なっている。名護間切と本部間切を紹介する。今帰仁村中城のろ管轄の祭祀、五月ウマチー(稲穂祭)は、まさに「神遊」である。その習慣はまだ息づき継承されていることに気づかされる。
歴史を読み取っていく物差しの一つである。明治以降、あるいは戦後の新しい社会制度も積極的に受け入れていく面と、これまでの習俗(社会規範)を維持して行こうとする面をもった沖縄のムラ・シマ社会である。下に示しているように間切で捉え方の違いが見られる。
【名護間切】
・正月は元旦より三日間遊ぶ。その内は童子共、巷々へ集りて遊申候。(3日)
・二月は遊はなし。麦の穂祭る事あり(二月ウマチー)。
・三月は虫払いというて日を撰、一日人民耕作止、遊申候(一日)。
・四月はアブシ払いと云、日を撰二日耕作を止め遊申候(二日)。
・五月は稲穂祭りと云い、日を撰二日耕作を止め遊申候(二日)
・六月は遊びはなし。稲の大祭りあり。
・七月は十六日、人民耕作を止め遊申候。尤も童子共は饒鼓を用ひ各家庭を廻って遊ぶ事あり。
・八月は十日より十一日迄、人民耕作を止め遊申候。且豊年願いの為毎年組踊する村も有之申候。
・九月はなし。
・十月はたんとり(種取)と云う。日を撰て、二日人民耕作を止め遊申候(二日)。
・十一月はなし。
・十二月はなし。
【本部間切】
・正月は元日より四日間遊ぶ。その内は童子共巷々に集まりて遊申候。
・二月は麦の穂祭と云うものあり。その時は日を撰て、のろくもいは祭りをし、
人民は二日間業を止めて各家にて遊ぶ。
・三月は、ウンジャメ祭(海神祭)と云うものあり、その時は遊ぶはなし。日を撰て、
ノロクモイは火の神所に参詣して祭申候。
・四月は虫払いと云うて、日を撰て人民耕作を止め、牛馬を引き浜辺に出づる。その時
ノロクモイ勤め済る間は、人民より牛馬
に至る迄無食す。その勤めを済て後、各家に帰る。
・五月は大御願と云うて、ノロクモイ並びに人民烈りて火神所に参詣す。且稲の穂祭と云う
ものあり。その時日を撰て二日間遊ぶ。
・六月は三月に同じ。
・七月は十六日、七月念仏と云う遊びあり。その時童子共、三味線を引きて人民の家々も廻り
て遊び申し候。且大折目と云うものも
あり。その日は凡そ十八、九日頃より廿四、五日頃に限る。その時人民業を止むる村もあり、
止めざる村もあり。尤ノロクモイは火の神所へ参詣して祭申候。
・八月は十一日ヨウカビと云う遊びあり。その時童子共、巷々又は毛へ集って遊び申候。
且また、豊年願の為め三・五・七年一回組踊する事もあり。
・九月には遊びはなし。然れども大御願として、ノロクモイ並びに人民召し烈り。火の神所に
参詣す。
・十月は遊びはなし。
・十一月は遊びはなし。
・十二月は遊びはなし。
▲五月ウマチーで農作業や仕事を休み参加(神遊び:休息日)