【山北王怕尼芝】(7)
①洪武16年(1383)正月丁未(3日)
詔して琉球国中山王察度に鍍金銀印并びに織金文綺・帛・紗・羅凡そ七十二匹を賜う。山南王承察度も亦た
之の如し。亜蘭匏等は文綺・鈔・帛を賜うこと差有り。…時に琉球国、三王雄長を争いて相い攻撃す。使者帰
りて其の故を言う。是に於て亜蘭匏等を遣(や)りて還国せしむるに、并びに遣使した中山王察度に勅した曰く「王、
滄溟の中に居り、崇き山環(めぐ)れる海に国を為す。事大の礼行わざるとも亦た何をか患(うれ)えんや。
王能く天を体して民を育て、事大の礼を行う。朕即位してより十有六年、歳ごとに人を遣わして朝貢す。朕、王の
至誠を嘉し、尚佩監奉御路謙に命じて王の誠礼に報わしむ。何ぞ期せん、王復た遣使し来りて謝す。今内使監丞梁民をして前の奉御路謙と同(とも)に符を齎(もたら)して王に渡金銀印一を賜わしむ。近ごろ使者帰りて言わ
く、琉球の三王互いに争いて農を廃し民を傷つく、と。
朕甚だ焉(これ)を閔れむ。詩に曰く、天の威を畏(おそ)れ、時(ここ)に于て之を保たん、と。王其れ戦を罷め民
を息(やす)ましめよ。務めて爾の徳を脩むれば則ち国用永く安からん」。山南王承察度・山北王怕尼芝に論し
て曰く「上帝生を好めば、寰宇の内に生民衆(おお)し。天、生民の互相に残害するを恐れ、特に聡明なる者を生
じ之に主たらしむ。
邇者(ちかごろ)琉球国王察度、事大の誠を堅くし遣使し来りて報ず。而して山南王承察度も亦た人を遣わし使者
に随い入覲せしむ。其の至誠くを鑑(み)、深く用て嘉納す。近ごろ使者、海中より帰りて言わく、琉球の三王互い
に争い農業を廃棄し人命を傷残す、と。
朕之を聞き?憫に勝(た)えず。今遣使し二王に論して之を知らしむ。二王能く朕の意を体し、兵を息め民を養い
て以て国祚を綿(つら)ぬれば、則ち天必ず之を祐(たす)けん。然らずんば悔ゆるとも及ぶことを無からん」。
②洪武16年(1383)12月甲申(15日)
琉球国山北王怕尼芝、其の臣模結習を遣わし方物を貢す。衣一襲を賜う。
③洪武17年(1384)正月己亥(1日)
琉球国中山王察度・山南王承察度・山北王怕尼芝・暹羅斛国王参烈宝毘牙偲哩□録及び雲南・四川・湖広
の諸蛮夷の酋長、倶に遣使して表を進め方物を貢す。文綺・衣服を賜うこと差有り。
④洪武18年(1385)正月丁卯(5日)
琉球国の朝貢の使者に文綺・鈔錠を賜う。及び駱駝鍍金銀印二を以て山南王承察度・山北王・怕尼芝に
賜う。又中山王察度・山南王承察度に海舟各一を賜う。
⑤洪武21年(1388)正月戊子(13日)
琉球国山北王怕尼芝、其の臣を遣わして方物を貢す。
⑥洪武21年(1388)9月丁亥(16日)
琉球国中山王察度・山北王尼怕芝、其の臣甚結致を遣わし、表を上りて天寿聖節を賀し馬を貢す。来使に
鈔を賜うことを差有り。
⑦洪武23年(1390)正月庚寅(26日)
琉球国中山王察度、亜蘭匏等を遣使し表を上りて正旦を賀し馬二十六匹・硫黄四千斤・胡椒五百斤・蘇木
三百斤を進む。王子武寧、馬五匹、硫黄二千斤・胡椒二百斤・蘇木三百斤を貢す。
山北王怕尼芝、李仲等を遣使して馬一十匹・硫黄二千斤を貢す。而して中山王遣わす所の通事屋之結な
る者、附して胡椒三百斤・乳香十斤を致す。守門せる者験して之を得、以聞すらく、当に其の貨を没入すべ
し、と。詔して皆之に還す。仍お屋之結等六十人に錠各十錠を賜う。
【山北王珉】(1)
①洪武28年(1395)正月丙申(1日)
是の日、朝鮮国李旦・琉球国山北王珉・貴州宣慰使安的并びに金筑等処の土官、各々方物・馬匹を進む。
【山北王攀安知】(12)
①洪武29年(1396)正月己巳(10日)
琉球国山北王攀安知、其の臣善佳古耶を遣わし、中山王察度、其の臣の典簿程復等を遣わし、各々表を奉り馬及
び方物を貢す。詔して来使三十七人に錠を賜う。
②洪武29年(1396)十一月戊寅(24日)
琉球国山北王攀安知、其の臣善佳古耶等を遣わし、中山王世子武寧、其の臣蔡奇阿敖耶等を遣わし、馬三十七
匹及び硫黄等の物を貢す。并びに其の寨官の子麻奢理・誠志魯二人を遣わして太学に入れしむ。
是れより先、山南王其の姪三五郎□を遣わして太学に入れ、既に三年にして帰省す。是に至り、復た麻奢理等と
偕に来りて太学に入るを乞う。詔して之を許し、仍お衣巾・靴韈を賜う。
③洪武30年(1397)二月丙戌(3日)
琉球国中山王察度、其の臣友賛結致を遣わし、山南王叔汪英紫氏、渥周結致を遣わし、各々馬及び硫黄を貢す。
④洪武30年(1397)十二月癸巳(15日)
琉球国山北王攀安知、恰宜斯耶を遣使し、中山王察度、友賛結致を遣使し、各々表を上(たてまつ)りて馬及び
硫黄を貢す。
⑤洪武31年(1398)正月(8日)
琉球国山北王攀安知、その臣を遣わして表を進め馬を貢す。
⑥永楽元年(1403)三月丙戌(9日)
琉球国中山王の従子三吾良□等に宴を会同館に于て賜う。・・・琉球国山北王攀安知、善住古耶等を遣使し、表を
奉りて朝賀し方物を貢す。鈔及び襲衣・文綺を賜う。善佳古耶、攀安知の言を致し、冠帯・衣服を賜いて以て国俗
を変ずるを丐(こ)う。上、之を嘉し、礼部に命じて其の国王曁(およ)び倍臣に冠帯を賜う。
⑦永楽2年(1404)三月己未(18日)
琉球国山北王攀安知、亜都結制等を遣使して方物を貢す。銭・鈔、文綺、綵幣を賜う。
⑧永楽2年(1404)四月壬午(12日)
詔して汪応祖を封じて琉球国山南王と為す。応祖は故琉球山南王承察度の従弟なり。承察度は子無く、臨終に応
祖に命じて国事を摂らしむ。能く其の国人を撫し、歳々に職責を修む。是に至り隗谷結制等を遣使し来朝して方物
を貢す。且つ奏して山北王の例の如く冠帯・衣服を賜わんことを乞う。
上、吏部尚書蹇義に論して曰く「国は必ず統有り、衆を撫し、且つ旧王の属する所の意なり。宜しく言う所に従いて
以て遠人を安んずべし」。遂に遣使して詔を齎して之を封じ、并びに之に冠帯等の物を賜いて其の使いと倶(とも)
に還らしむ。
⑨永楽3年(1405)四月丙寅(1日)
琉球国山北王攀安知、赤佳結制等を遣使して馬及び方物を貢す。賜うに鈔錠・襲衣・綵幣表裏を以てす。
⑩永楽3年(1405)十二月戊子(26日)
琉球国中山王武寧、山南王汪応祖、山北王攀安知、西番馬児蔵等の簇、四川・貴州の諸士官、各々人を遣わし
て方物を貢し、明年の正旦を賀す。
⑪永楽13年(1415)四月丙戌(19日)
琉球国中山王思紹並びに山北王攀安知、人倶に遣使して馬及び方物を貢す。
⑫永楽13年(1415)六月辛未(6日)
琉球国中山王思紹・山北王攀安知の使臣辞す。悉く鈔幣を賜う。
▲今帰仁グスク(志慶真郭・主郭、後方の山はクボウヌウタキ)
②【第一監守時代】
「第一監守時代」です。三山の時代の攀安知王が中山の尚巴志の連合軍に亡ぼされた後の時代である。1422年に尚忠が今帰仁グスクの監守として派遣される。その人物は中山から派遣された人物です。監守として派遣されたのは、北山が謀反をおこす恐れがあり、北山を監守する必要があったからなのでしょう。監守や一族は今帰仁グスクの中で監守をつとめた。尚忠が首里の王になると弟の具志頭王子が監守を継ぐことになる。
・・・・その時代のものは? 三山統一後の琉球国の動きは大交易時代です。中国、朝鮮、日本、ベトナム、タイなどの
国々との関わりが見えます。歴史文化センターにも東南アジアの国々の品物が展示してあります。琉球国から何を持
っていったのでしょうか。
④【第二監守時代(後期)】
10時半から「第二監守時代(後期)」のグループがやってきた。前の時代とのつなぎは、1609年3月に薩摩の軍隊が今帰仁グスクに攻め入った直後から。今帰仁グスクには監守(按司)の一族が住んでいた時代(城下に移り住む)である。監守(今帰仁按司)は縄祖(六世)従憲(七世)である。二人は運天の大北墓に葬られている。
今帰仁グスクの後方と前方にあった今帰仁村(ムラ)と志慶真村(ムラ)の集落が麓に移る。移った痕跡として今帰仁ノロやトゥムヌハーニ、今帰仁アオリヤエの火の神の祠が今でも故地に残っている。この時代、今帰仁グスクへ上がるのにエーガー(親川)からミームングスク(見物城)を通るハンタ道が主要道路であった。
1665年七世従憲は首里の赤平村に引き揚げてゆく。そのため今帰仁グスク内に監守が住むことはなくなった。城内に住んで監守としての役目は終わりを告げた。監守とその一族が首里に引き揚げた翌年、これまでの今帰仁間切は伊野波(本部)間切と今帰仁間切の二つの間切へと分割される。そのとき、今帰仁間切は運天村に、伊野波(本部)間切は伊野波村に間切番所を置いた(伊野波村→渡久地村)。
この時代は監守が首里に引き上げ、二つの村(ムラ)の集落が麓に移動し、本部半島の大半を占めていた今帰仁間切が二つに分割した時代である。
①北山王時代(三山鼎立~1416年)
10年以上遠ざかっていた『明実録』の山北王の記事に目を通してみることに。歴代宝案編集参考資料5に『明実録』の琉球史料(一)として、原文篇、訳文篇、注釈篇が公にされている(財)沖縄県文化振興会公文書管理部史料編集室)ので、大変有り難いことである。感謝するものである。この訳文と注釈を通して、山北三王(怕尼芝・珉・攀安知)の時代を、一歩、二歩、踏み込んでいける。まずは、山北王の記事の全てを拾い上げることからはじめる。
『明実録』に見る北山
『明実録』に山北王が記されるのは洪武16年(1383)からである。洪武16年の頃、『明実録』に「山王雄長を争いて」とか「琉球の三王互いに争い」とあり、琉球国は三王(山北・中山・南山)が争っていた様子が伺える。三山鼎立時代といわれる所以はそこにあるのであろう。
『明実録』に登場する山北王は、怕尼芝、珉、攀安知の三王である。明国と冊封された時期、琉球国は三山が鼎立しており、すでに山北王怕尼芝の存在が確認される。それ以前から山北王は当然いたであろう。
山北王怕尼芝は洪武16年(1385)に「駱駝鍍金銀印」を賜っている。掴みところが駱駝(ラクダ)の形の鍍金(メッキ)をした銀の印を賜っている。「山北王之印」あるいは「琉球国山北王之印」とでも彫られていたのであろうか。「山北王之印」の印を賜わり、その印でもって政治を掌ることは何を意味しているのか。それは国(クニ)の体裁を整えようとしたのか、あるいは整えていた可能性がある。
それと、山北王怕尼芝は衣一襲(一揃いの衣装)・文綺(模様を織り出した絹)・衣服など布や衣装を賜っている。身にまとうものであるが、儀式に衣服をまとって出席するのであるから、そこから当時身分制度が確立していたと見られる。「鈔」は紙幣のようである。紙幣を賜ったことは何を意味しているのだろうか。後に銀が実質的な貨幣になったようである。
中山王や山南王は、明国に胡椒・蘇木・乳香など東南アジアの品々が散見できる。山北王の貢物に胡椒や蘇木などの品々一回も出てこない。また、中山王と南山王に海舟をそれぞれに賜っているが、山北にはあたえていない。すると、山北は東南アジアに出かけての中継貿易の役割はになっていなかった可能性がある。山北王の明国への貢物は、馬と硫黄と方物のみである。そこに三山の違い(力の差)が反映していそうである。勿論、交易の回数に於いても。
『明実録』では山北王に海舟を賜ったことは記されていないが、『球陽』の察度36年(1385)の条をみると、山南王山北王に海船を一隻賜っている。
攀安知の時代になると「冠帯」や「衣服」などを賜っている。また「国俗を変ずる」とあり、中国風にすることを自ら願っている。そこらは、『球陽』の記事は『明実録』をベースにしているようなので中国と琉球の両方から見る必要がある。
親川(羽地)グスクから勘手納港へ向う途中の道路にハブが轢き殺されていた。昨日今日の暖かさだとハブはエサを捕まえるのに活発に移動するでしょう。ハブに打たれないように気をつけましょう。これからの調査には。
親川(羽地)グスクは勘手納港と深い関わりを持つ。中山の尚巴志の連合軍が1416年に今帰仁(北山)グスクを攻め入ったときに勘手納(寒汀那)港に集結したという(『球陽』『中山世譜』)。山原の今帰仁を除いた国頭・羽地・名護の各按司は中山軍に組した(金武按司は中山に組しなかった記載がない)。
近世になる定物蔵がつくられ羽地間切を主とした近隣の間切の上納物が集積され運ばれた。勘手納港は琉球の四津口の一つで、薩摩への仕上世(シノボセ)米の集積港でもあった。
現在仲尾次側に漁港としての港があるが、かつての港は羽地内海に面した内海で船を接岸するような桟橋があったわけではない。浅瀬のある海岸が港(津)であった。
『向氏家譜』(具志川家)2006.07.16(メモ)
『向氏家譜』(具志川家)に以下の文面がある。その文面は第二尚氏の監守初代尚韶威のところにある。弘治年間(1488~1505年)に今帰仁王子(尚韶威は尚真王の第三子)が北山監守の命を受けて、北山に赴いたときに尚真王から脇指二振、鎧一本、黄金保伊波武御盃一個、御盃臺一個、金織緞紳一條、唄雙紙(おもろさうし)一冊などを賜っている。康煕己丑(1709年)に首里城が回禄(火事)にあい唄雙紙を一部消失してしまった。尚韶威が賜った唄雙紙が、阿応理屋恵按司の職は廃止されていたが、行禮は毎節行われていた(唄雙紙も継承されていたようだ)ため、一部消失してしまった王府の唄雙紙を具志川家の唄雙紙で補完したという内容である。
今帰仁グスクの大庭(ウーミャー)で行われていた奉納演舞は、唄雙紙(おもろさうし)と関わるものであったのであろうか。わたしも二回ほど見たことがあるが、唄雙紙と関わるものであったかは聞いていない。しかし、この写真(昭和60年頃)を目にするたびに、唄雙紙に関わる『向氏家譜』(具志川家)の記事が気になる。
弘治年間奉 命赴山北時蒙 尚真王特賜御脇指二振(一銘備州長光 一銘相州秋廣)御鎧通
一本(銘行平)黄金保伊波武御盃一個御盃壹一個金織緞紳一條(即今傅為家寶其餘因兵火而
失之)且□賜唄雙紙一冊毎節行禮盖 山北節節有神出現其禮最重故尚韶威監守以来世率家族
以行此禮文又 王都遺唄勢頭三四人與彼土唄勢頭倶行禮式此時有阿応理屋恵按司世寄君按
司宇志掛按司呉我阿武加那志等女官掌此禮式崇禎年間逢兵警後此禮倶廃但阿応理屋恵按司
之職至今尚存毎節行禮(康煕己丑 王城回禄失唄雙紙時所以伝ん雙紙呈覧而□公補之用
▲今帰仁グスクの大庭(ウーミヤー)で行われていた奉納演舞
沖縄本島北部を山原(やんばる)と呼ばれている。山原と呼ばれるようになるのは近世になってからである。その地域は山北(山北)と記される。山北(山北)・中山・山南(南山)が鼎立していた時代を三山鼎立の時代と呼んでいる。山北の領域が山原である。
山北の時代は11、12世紀から15世紀初頭にかけてである。その山北の時代は、各地のグスク(城の字をあてグスクやグシクと呼ぶ)に按司が居住し、小規模のグスクが山原では五つにまとまり、さらに五つが今帰仁グスクに統一される。『明実録』に山北王が登場する頃には今帰仁グスク(北山城址・今帰仁城)に山北(北山)王が居住し、山原全域(奄美域の一部含む)を統括しクニとしての体裁を持った時代である。
山北というクニはどのような支配形態を持っていたのか。後に五つの行政区(間切)へまとまっていく。その過程とその時代に築かれた文化、支配形態については『明実録』を通してみることにする。1416年山北は尚巴志に滅ぼされるが、1422年に山北(今帰仁グスク)に監守を置いた。そのことが南山と大きく異なる。そこから山北は中南部とは異なる文化を持っていたのではないか。その手がかりとなったのが、山北監守と今帰仁阿応理屋恵の今帰仁グスクへの派遣である。
1.山原の五つのグスクと今帰仁グスク
まず、現在想定している山原の歴史の流れを素描してみる。沖縄本島北部に後に五つの間切へとつながる根謝銘(ウイ)グスク(現在の大宜味村謝名城)、親川グスク(別名羽地グスク、旧羽地村で現在名護市)、金武グスク(金武町)、今帰仁グスク(今帰仁村)がある。その他に40近い小規模のグスクがある。グスクと呼ばれていないが、御嶽(ウタキ)というのが、村(ムラ、今の字)クラスにある。御嶽(ウタキ)は集落(マキ・マキヨ)の発生と密接にかかわる信仰の対象となる重要な聖地である。グスクはある規模の権力を持った有力者と関わる場所だと考えている。
十一、二世紀頃から各地の御嶽(ウタキ)を腰当(クサティ)とした集落の発達と、それらベースにした支配者のグスクが地域をまとめていく(支配)していく流れが被さっている。そして山原の各地の小規模のグスクが五つの中規模のグスクへとまとまっていく。そのまとまりが前にあげた一つのグスクである。さらに、五つのグスクを統括したのが今帰仁グスクである。山原の五つのグスクに住む按司達は、それぞれのグスクに居住しつつも今帰仁グスク拠点に君臨した山北王が山北というクニをつくりあげた、そのような姿が想定できる。
2.山北王怕尼芝は羽地按司あるいはハニアジ?
怕尼芝・珉・攀安知の三人の山北王の出現を『明実録』や『中山世鑑』や『中山世譜』にみることができる。山北王が今帰仁グスクを含め五つのグスクの上に君臨した時代は、翼廊と基壇のある正殿の建物など今帰仁グスクの本格的な築城と重なる時代である。今帰仁グスクから大量にこの時期の中国製の陶磁器が出土している。沖縄本島では山北・中山・南山の三山が鼎立した時代で、南山ではまだいくつかのグスクが相争っている姿が『明実録』に見え隠れする。
山北は怕尼芝・珉・攀安知の山王と続くが、怕尼芝はハニジやパニジと発音されることから、それは羽地グスクから出現した羽地按司ではないかともいう。ハニジとハンアンヂはハニ按司とハン按司ではないか。ミンは珉按司の按司部分が脱落しているとも考えられる。ハンアンヂはハニジ同様ハニ按司とも読み取れる。そのように見ると、山北王は今帰仁の地から生まれた按司ではなく他の地からきて今帰仁グスクを築いたとも考えられる。怕尼芝・珉・攀安知以前の山北の王統は、これまで歴史で扱っている資料では皆目不明というしかない。それ以前の山北の王統は『野史』」と言われている資料の検証しながら扱うしかない。
攀安知の時代(1405~1416年)、中山の巴志と山原の国頭・羽根地・名護などの連合軍で攀安知(今帰仁)を滅ぼした。攀安知が滅ぼされた時、国頭・羽地・名護などの山原の按司は中山に寝返った様子などから、山北は必ずしも安泰であったわけではない。攀安知王の滅亡(1416、よっては1422年)で山北王を頂点としたクニとしての体裁は崩れてしまった。
山北滅亡後、中山から派遣された按司が山北を統治する監守が置かれた。1422年巴志の弟の尚忠が山北に派遣される。1429年に南山も巴志に滅ぼされ琉球は統一国家となる。1439年に尚忠が国王になると、山北監守は尚忠の弟の具志頭王子に引き継がれる。
1469年に第一尚氏は滅び、第二尚氏王統になると、山北監守はしばらく大臣が交替で監守を勤めていたようである。1500年頃になると尚真王の三番目の尚韶威を山北に派遣し、七代まで山北監守を務める。
山北が滅ぼされた後、監守を派遣した理由、それが第二尚氏になっても監守を派遣しなければならなかった理由が、南山あるいは中山とは異なる文化を持っていた地域という観念が読み取れる。それがどういうものなのか。
3.古琉球の間切から近世の行政区分へ歴史の大きな流れで、山原の五つのグスクの領域は、1500年代になると国頭、羽地、名護、今帰仁、金武の五つの間切となる。それは首里王府を中心とした行政区分である。1500年代の古琉球の「辞令書」に具体的に反映している。「みやきせんまきり」(今帰仁間切)や「くにかみまきり」(国頭間切)、「きんまきり」(金武間切)がそれである。その時期にはグスクに居住していた按司達は、もう首里に集められていた時期である。
近世になると今帰仁間切を分割して伊野波(後に本部)間切(1666年)、国頭間切と羽地間切の一部を分割して田港(大宜味)間切(1673年)、名護間切と金武間切を分割して久志間切(1673年)、恩納間切と読谷山間切を分割して恩納間切(1673年)が創設される。近世に分割された間切区分は近年まで継承せれてきた。
このように見てくると、現在の行政区分は山原の小規模のグスクが五つのグスク(根謝銘・親川・今帰仁・名護・金武)と、その領域にまとまっていく過程と間切区分が重なってくる。今帰仁グスクに統括されると、山北王が山原全域、さらには奄美地域(少なくとも沖永良部島・与論島)を支配、その時期に築かれたものが文化(その圏域を山北文化圏という)として継承されているに違いない。
4.山北王時代の支配形態
今帰仁グスクの支配形態を、特に『明実録』や『中山世譜』や『球陽』を通してみていくことにする。まず『明実録』に山北王が登場するのは1383年12月の記事が最初である。交易の回数などについては次回に述べるが、ここでは交易品や貢物から山北(北山)の支配形態について触れてことにする。
イ、印・衣冠で地位強化
琉球国側からの貢物として馬と硫黄、そして方物がある。一方中国から賜った品々は衣類・文綺・紗錠などである。
まず、最初に注目したいのは駱駝鍍金銀印である。駱駝の形をした鍍金(メッキ)を施された銀印である。それには「山北王之印」と彫られていたとみられる。中国皇帝から印を賜ったということは、山北はクニとしての体裁を整え、自らの地位を確固たるものにしていこうとする意図によるものであり、小規模にしてもクニとしての成り立っていたことを示すものであろう。山北王を頂点としてクニの存在を示すものである。山北王が「山北王之印」と彫られた印の押された文書を作成し、達(たっし)を伝達する体制が整えられていたか、あるいは整えつつあったことがしれる。文書をもっての仕組みがあったことを意味する。
駱駝鍍金の銀印は山北王だけでなく中山王、山南王も賜っている。そのことは沖縄本島で三山が鼎立しながら三王がクニとしての体裁をなしていた。今帰仁城跡の発掘で山北王の駱駝鍍金銀印の出土が期待されるのは、『明実録』の記事の信ぴょう性だけでなく、山北王を頂点としたクニがあり、中国から賜った銀印で山北(山原)地域を統治して形態の裏付けともなるからである。
次に衣冠や衣服類であるが、『球陽』武寧8(1403)年の条に「山北王、衣冠を賜らんことを乞う。山北王攀安知、善佳姑那を派遣し、表文を奉して方物を貢ぎ、冠帯・衣服を賜り、以って国俗を変えることを乞う」とあり、中国国王に文書を出して国俗を変えることを願い出て許されている。国俗を変えるとはクニの制度を変えることであり、また衣冠を請い願うことは、身分を明確にし、位階制度を整えることである。中国の皇帝から賜った衣類をまとい儀式に参加することで、王としての身分が確立され顕示したとみられる。
このような状況から、山北王を頂点としたクニの制度が比較的整っていたとみてよさそうである。ただし、山北王が山原の他のグスクの按司、世の主などをどう支配していたのかについては、さらに研究を深めていく必要がある。
ロ.硫黄の経路は?
『明実録』や『中山世譜』や『球陽』による琉球側からの貢物に硫黄と馬と方物である。その中の硫黄であるが、山原に硫黄を産出する場所はない。当時から硫黄の採掘地は硫黄鳥島である。旧那覇港付近に硫黄城(イオウグスク)があり、名の示す通り硫黄の集積場所である。
薩摩が琉球に侵攻した1609年以降、硫黄鳥島は薩摩に入れず(与論以北を薩摩へ)いびつな形で琉球と薩摩の境界線が引かれた。それは硫黄が琉球国から中国への重要な貢物の一つあり、その産地の硫黄鳥島は重要な島であった。そのため、いびつな線引きは琉球と中国との貿易が多大な利益を得ていた薩摩の計らいによるものである。現在でも硫黄鳥島は久米島町(合併以前は久米島具志川村)である。
硫黄は山北王からの貢物の重要な一品である。硫黄を産出しない山北は、硫黄鳥島からどのような経路で硫黄を手にし、中国への貢物にしていたのだろうか。山原の、特に運天港や今帰仁グスクの麓の親泊に硫黄と関わる遺跡や地名など、その確認ができない。もし、山原に硫黄と関わる遺跡の確認ができれば、山北は独立した形で明国と交易していたことになる。その遺跡が確認できない段階で、硫黄の山北への移送をどうとらえればいいのか。
『明実録』から、山北の明国への朝貢は、硫黄鳥島から那覇港の硫黄城へ、山北もそこで積み込み明国へ貢いだ可能性が高い。というのは、山北王の明国との交易が十八回あるが、その内独自に行ったのは五回である。他はどうも中山と一緒のようである。中国側の記録の仕方に起因する面もあるが、硫黄の蓄積場の硫黄グスクや久米系、それと官生を送っているなら、山北という強力な独立した形での交易やクニの体制があったと見えるのだが、その痕跡は薄い。
ハ.山原のグスクの陶磁器などの物流経路は?
山原の五つのグスクからは中国製の陶磁器などが出土する。今帰仁グスクの山北王は『明実録』に登場し、直接中国と貿易があったことが知れる。ところが他のグスクについての交易記録は皆無である。グスクはいずれも港を抱えているので、直接貿易していた可能性はある。しかし今帰仁グスクのような大量の出土ではない。すると、山原の各グスクへの陶磁器類の入り込みは、今帰仁グスク経由が主だと考えられる。
附記 山北監守の制を定む。
尚巴志王、山北の城地嶮岨なるを恃みてまた変乱すること有るを恐れ、特に次男尚忠に命じて山北を監守せしめ、今帰仁王子と称す。後、尚忠践祚し、仍旧制に遵ひて子弟を封ず。是れに由りて今帰仁世々監守し、著して定規と為す(尚徳王、驕傲奢侈にして宗を覆へし祀を絶つ。
是れに由りて貴族の徒皆世を遁れて隠る。即ち今帰仁間切下運天村の所謂百按司墓(其の貴族の基なり。墓内枯骨甚だ多し。又木龕数個有りて以て屍骨を蔵す。修飾尤も美、皆巴字金紋を銘す。而して一個の稍新しき者の壁に字有りて云ふ、弘治十三年九月某日と。此れを以て之れを考ふれば、則ち其の貴族、尚真王代に至りて老尽せしならん。此れ其の証なり。然れども人没し世遠くして墓圯れ骨露はる。今、人之れを問へば則ち運天村の人曰く、裔孫已に絶へ掃祭する者有ること無しと)。
2005.04.07(木)メモ
今帰仁グスクの麓の親泊(現在今泊)までゆく。それは山原のグスクと津(港)を結びつけて考える必要があるからである。山原のグスクから出土する中国や東南アジアなどの陶磁器類がどのような経路でグスクに搬入されたのか。その疑問を解かなければならないからである。山原の規模の大きいグスクと麓の港と結びつけられるが、その実態も考えてみる必要がありそうである。今日は今帰仁グスクと結びつく親泊をゆく。麓のナガナートゥや津屋口あたりから今帰仁グスクが見える位置にある。
時代は下るが1609年3月27日の薩摩軍の琉球侵攻のとき、親泊沖で和睦の交渉を行なおうとしたが失敗に終わる。薩摩軍は1500名あるいは3000名とも言われている。親泊から今帰仁グスクまで約1.5km。薩摩軍が一列に並ぶと海岸から今帰仁グスクまでつながってしまう。その実態にも触れる必要がありそう。
・今帰仁グスクは麓に親泊がある。
・名護グスクは名護湾(東江辺りか)(湖辺底)
・親川(羽地)グスクは勘手納港(名護市仲尾~仲尾次)
・根謝銘(ウイ)グスクは屋嘉比港(田嘉里川の上流部か)
【今帰仁グスクと親泊】
今帰仁グスクの麓に親泊がある。現在今泊となっているが、今帰仁と親泊が統合して今泊となっている。その親泊は今帰仁グスクが機能していた頃の港(津)だったに違いない。泊はトゥマイのことで舟が碇泊することであろう。親はウェーやエーなどと発音され、「りっぱな」な「大きな」の意がありそう。すると親泊は「りっぱな碇泊地」あるいは「大きな碇泊地」だったと見られる。
それが村名(ムラメイ)として親泊と名付けられたのではないか。親泊集落の東側にチェーグチ(津屋口)の地名があるが、津口(港)に由来している。そこには今帰仁グスクで監守を勤めて第三世和賢が葬られている津屋口墓がある。
現在の今泊集落の西側にシバンティーナの浜近くのナートゥ(港)、そして東側にナガナートゥ(長い港)があり、そこも港として使われたのであろう。今帰仁グスクから出土する中国製の陶磁器類がどのような経路で搬入されたのか。この親泊という港と結びつけて考える必要はある。しかし大型の船の出入りは狭いリーフの切れ目のクチから不可能にちかい。ならば、どのような経路で搬入されたのか。考えて見る必要がありそう。あるいは、今の常識を超える搬入の経路や方法があったのか。考えさせられることが多い。
これらの港地名の着く場所が港として機能したことは間違いなかろう。ただし、小さな舟が発着した程度の津だったのではないか。海上はリーフが広がり、一部にクチが開いているにるにすぎない。その小さなクチから進貢船や冊封船などのような大型の船の出入りは不可能である。大型の船は運天港や那覇港など他の港に停泊し、そこから小舟で荷物の運搬をし、その発着場としての役割を果たしていたと見られる。
▲志慶真川の下流域(ミヂパイ) ▲津屋口付近
▲東側から見たナガナートゥ(長い港) ▲西側から見たナガナートゥ
1665年今帰仁監守とその一族(今帰仁アオリヤエなど)が首里赤平村へ引揚げる直前の時代である。首里に引揚げるまではクボウヌウタキでのタキヌウガンは今帰仁アオリヤエが要となって行っていたとみられる。ところが1713年の「琉球国由来記」(1713年)は今帰仁ノロの崇所となっている。今帰仁アオリヤエから今帰仁ノロが肩代りしていたと見られる。10年前から民俗の枠を越えたところで祭祀をみていたことに気づかされる。
【オーレーウドゥンの二つの位牌(ガーナー)】(2008.02.13)
今帰仁阿応理屋恵(オーレーウドゥン)に二つの古い位牌(ガーナー)がある。その一つは六世縄祖の位牌である(表に「帰一瑞峯須祥大禅定門」、裏に「順治十五年戊戌六月二十九日去」と線彫されている)。何故、今帰仁阿応理屋恵(オーレーウドゥン)にその位牌あるのか。そして銘のないもう一つのガーナー位牌は次男の従宣(阿応理屋恵按司(童名思武太金)の夫)のものか。あるいは、五世克祉の次男縄武も阿応理屋恵按司(童名思乙金)を妻にしているので縄武の位牌の可能性もある。
そこに長男の縄祖の位牌がある例からすると五世克祉の位牌があってもおかしくはない。次男の縄武も阿応理屋恵按司を娶っている。もっとあった古いタイプのガーナー位牌が二つのみ残ったのかもしれない。『向氏家譜(具志川家)』(那覇市史家譜資料(三)首里系)の記録を手掛かりに読みとることができればと考えている。
【今帰仁按司六世縄祖の位牌と阿応理屋恵(オーレー)】(2008.02.13)
六世縄祖今帰仁按司の童名は松金、名乗は朝經、号は瑞峯である。万暦29年(1601)に生まれ順治15年(1658)6月29日に亡くなる。58歳であった。縄祖の父は克祉(五世:薩摩の琉球侵攻のとき死亡)、母は向氏の真鍋樽、室(妻)は向氏宇志掛按司。(勛庸や妥地、俸禄などがあるが略) 婚嫁のところで次男従宣は孟氏伊野波(本部間切伊野波村居住)の女阿応理屋恵按司(童名思武太金)を娶っている。
五世克祉今帰仁按司童名真市金、名乗朝容、号宗清である。万暦10年(1609)3月28日に28歳でなくなる(薩摩軍の今帰仁入りの時)。その長男縄祖の位牌が阿応理屋恵(オーレー)にあるので、克祉の位牌の可能性もある。それまた、縄祖の次男同様克祉の次男縄武も中宗根親雲上の女(娘)の童名真比樽(阿応理屋恵按司)を娶っている。
他の位牌が置かれる事例を合わせみる必要がある。ここでは触れないが、大北墓の五世、六世、それと四名のアオリヤエ(オーレー)との関係も言及できそうである。
▲六世縄祖(瑞峯)の位牌 ▲死去日が線彫されている
▲古いタイプのガーナー位牌(無銘)
2019年5月17日(金)
今帰仁村のクボウヌウタキを目の前にしながら「寡黙」に仕事をしている。北山(今帰仁)に関わる資料の総ざらいをしている最中である。手足をもぎ取られた最中での編集・執筆作業である。このクボウヌウタキも北山(今帰仁)の歴史の一輪を動かした祭祀の重要な場所である。時々、今帰仁阿応理野恵(ナkジンアオリヤエ)を登場させているが、アオリヤエが執り行っていたクニ(王府)クラスの祭祀であったこと。これまで書き綴ってきたことをクボウヌウタキを眺めながら整理してみるか。(過去記録を四点振り返ってみます)
【今帰仁アオリヤエの遺品の一部】
http--yannaki.info-kubanuutaki.html(過去記録)
http--yannaki.jp-utakitokami.html(過去記録)
http--yannaki jp-kansyu html(過去記録)
http--yannaki.jp-imadomarihaisyo.htm(過去記録)l
2019年5月16日(木)
梅雨に入りました。「寡黙庵」への通り道はカンナが満開中。庭先のイチゴが数粒色づいています。雨で濡れた花木は、目薬がわりになります。さて、調査物の報告も手をつけてみるか。
2019年5月15日(水)
海外に行く機会がなくなってきた。丁度8年前のタイ国の記録でも振り返ってみるか。20数年間活用してきた資料類群と格闘はじめている(歴史文化センター蔵)。資料の見なおしや原点に立ち戻っての作業を進めている。12月まで資料の検討に集中することになりそう。そのこともあってか、タイの過去の画像でもみながら気分転換。
2011年5月26日(木)記録より
数年前、マレーシアまで行く。今回はタイ(バンコクと周辺、それとアユタヤ)まで。琉球国の大交易時代。タイ王朝のクメール(アンコール)王朝→スコータイ王朝→ラーンナータイ国→アユタヤー王朝→バンコク(チャクリー)王朝とタイ王国の歴史の流れを頭に叩き込みながら。
【バンコクと近郊】
▲チャオプラヤー川から眺めたワット・アルン
▲木の根に挟まった仏像の顔 ▲破壊?が目立つ遺跡群
▲ダムヌン・サドアク(水上マーケット) ▲水上を走る小舟(サンパン)
【アユタヤと日本人村跡】
【古琉球の遺宝】2008年7月2日(水)(新聞記事より)
昭和10年頃の新聞記事かと思います。数年前にいただいた記事。読みにくいので紹介しましょう(判読できない文字は□で)。勾玉や水晶玉などへの、当時の評価がしれて興味深いです。また、今では失ってしまったものがあり、戦前どのような遺品があったのかしれ調査の手掛かりとなる。
古琉球の遺宝
県外流失を免がれ 郷土参考館へ所蔵
県教育会郷土参考館では日本夏帽沖縄支部松原熊五郎氏秘蔵の永良部阿応理屋恵の曲玉を今回三百円で譲り受け、永く郷土参考資料とすることになった。本品は元小禄御殿の伝宝にかかり同家大宗尚維衡(尚真大王長男)より四世に当る大具志頭王子朝盛の室永良部阿応理屋恵職の佩用したものとみられている。これに関し教育会主事島袋源一郎氏は語る。
此曲玉は永良部阿応理屋恵職の佩用したものらしいもので同人は穆氏具志川親雲上昌娟の女で
童名思戸金と称し天啓三年に亡くなった人で永良部阿応理屋恵なる神職は小録御殿の家譜及び女官御双紙にも同人以外には見当たらないから慶長十四年島津氏琉球入の結果大島諸島は薩摩へさかれたので其後廃官になったものと思われる。しかし同家では尚維衡が王城を出られた時に持って出られたのだと伝えている中で、この曲玉は前年□大に送うて調査の結果何れも曲玉の石の原産は南支地方であろうとのことで、曲玉は三個で水晶玉(白水晶と紫水晶)百一個が一聯になってをり、又と得がたき宝物であるが松原氏は数個所より高価をもって所望せらるるにもかかはらず、その県外流出を遺憾とし県教育会へ原価で提供されたもので、その心事は頗る立派なものだ(写真は得難き曲玉)。
濱田博士絶讃
本県最高の宝玉
明日より郷土博物館に陳列
首里城内沖縄郷土博物館では来る二十日挙行される本県唯一の秋祭り沖縄神社祭を好機に明十
五日より十一月十四日まで一ヶ月の予定で今帰仁村今泊向姓糸洲氏阿応理屋恵按司(□涼傘をさす神職)所蔵の勾玉一聯(大形一、小形二十一、水晶玉一聯百十六個)の他左記数点を特別陳列することになっている。
一、玉の□草履一組、冠玉、玉の旨当等一式
二、今帰仁村今泊。今帰仁のろくもい所蔵、勾玉一連、黄金の簪一個。
三、名護屋部のろくもい所蔵、勾玉一連、黄金のかみさし一個
四、永良部阿応理屋恵按司佩用勾玉一連(勾玉大形二個、水晶白□個)
五、地方のろくもい勾玉一連、今帰仁村今泊阿応理屋恵按司所蔵、勾玉は今から四百五十年
以前尚真王時代のもので京都帝大濱田常□博士が同種勾玉として全国に類例なく本県最高の宝玉であると絶讃した逸品である。
【今帰仁阿応理屋恵の祭祀の復元】
今帰仁阿応理屋恵の継承についていくつか研究があるが、その継承もまだ不明の部分が多い。ましてや今帰仁阿応理屋恵の祭祀については皆目わからない。残念なことに今帰仁阿応理屋恵が廃止されていた時期に編集された『琉球国由来記』(1713年)に阿応理屋恵の祭祀の記録がほとんどない。
辛うじてあるのが『琉球国由来記』(1713年)における阿応理屋恵按司火神(親泊村)の記録である。
阿応理屋恵按司火神 親泊村
麦稲四祭之時、仙香、肴一器、蕃署神酒一完(百姓)
大折目・柴指・芋ナイ折目之時、仙香、花米五合完、五水二合完、肴一器(百姓)供之。
同巫・居神、馳走也
とあるが、同巫は今帰仁阿応理屋恵の可能性もあるが、流れから見ると同巫は今帰仁巫の可能性である。他の今帰仁グスク内での祭祀は今帰仁巫の祭祀となっている。
今帰仁グスク内の今帰仁里主所火神、グスクの近くにあるコバウノ御嶽は今帰仁阿応理屋恵の祭祀ではなかったかと考えている。今帰仁阿応理屋恵の祭祀は消えてしまっているので久米島の君南風の祭祀からいくらか復元が可能ではないか。そんな期待を持っている。まだ、見通しはまったくナシ
『辞令書等古文書調査報告書』(沖縄県教育委員会)や『久米のきみはゑ五〇〇年』(久米島自然文化センター)で「久米島の君南風」の二枚の辞令書が紹介されている(鎌倉芳太郎ノート)。今帰仁阿応理屋恵にも辞令(印判)の発給がなされているが、その現物や辞令の写しなどは確認されていない。久米島の君南風と同様な内容に違いない。
「琉球国高究帳」は近世初期の各村の石高を田は畠別に書かれ、間切・島ごとに集計され間切の
村数も記される。宮古・八重山地方は欠く。成立は未詳だが、十七世紀中頃とされる。間切の新設
や移動など必須の資料である。東京大学史料編纂収蔵。「沖縄県史料」前近代一所収。
今帰仁間切の部分について歴史的なことをコメントすることに。今帰仁間切が本部まで含まれ
ている時代である。伊野波(直後本部間切)間切が分立したのは1666年である。村数二十三ヶ村
である。
この「琉球国高究帳」以前、以後の史料との比較で間切(方切)・村の分立・統合・田を持たない村など、ムラの形が見えてくる。田を持たない村、隣接した村で出している村、後に二つの村分を一つの村としている村など、石高を目安にした村が見られる。(今帰仁村に親泊村、運天村に上運天と下運天をふくめてある)(興味深いことが見えてくる。詳細は本論で)
【『琉球国高究帳』にみる今帰仁間切】 『沖縄県史料』前近代1
今帰仁間切
一高頭六拾五石五斗五升七合五勺三才 崎本部村
内 田方三拾石八斗三升九勺三才
畠方三拾三石七斗六升弐合四勺弐才
一高頭百壱石九斗八升弐合八勺弐才 へなち村
内 田方弐拾弐石六斗三升八合三勺四才
畠方七拾八石六升壱勺四才
一畠方高百八拾石九升七合三勺弐才 瀬底島
一高頭弐百拾七石四斗九合五勺七才 によは村
内 田方百六拾壱石五斗八升四合四勺三才
内五斗九升九合四勺弐才永代荒地
畠方百三拾五石八斗弐升五合壱勺四才
一高頭百八弐石五斗六升壱合八勺八才 具志川村
内 田方四拾八石八斗四升三勺四才
畠方百三拾三石七斗弐升壱合五勺四才
一高頭六百四拾六石九斗七升壱合四才 浦崎村
内 田方六拾七石壱斗五升三合弐勺六才
畠方五百七拾九石八斗壱升八合一勺七才
一畠方高六拾七石三斗五升壱合九勺六才 ひし村
一高頭三百九拾弐石三斗五升九合七勺弐才 具志堅村
内 田方四拾九石七斗斗八升八合六勺九才
畠方三百四拾弐石五斗七升壱合三才
一高頭四百四拾四石九斗八升八合二勺八才 今帰仁村
内 田方百五拾八石七升四合八勺九才
畠方弐百八拾六石九斗壱升三合三勺九才
一高頭弐百弐拾八石八斗五升八合三才 よなみね村 しゆきち村
内 田方九拾壱石三斗四勺
畠方百三拾七石五斗五升七合六勺三才
一高頭百七拾六石七斗九升六合弐勺壱才 へしき村
内 田方四拾石壱斗六升弐合三勺
畠方百三拾六斗三升三合九勺一才
一高頭五百拾五石四合壱勺八才 崎山村 中城村
内 田方六拾九石九斗壱升九合七勺四才
畠方四百四拾五石八升四合四勺四寸
一高頭三百七拾壱石七斗弐升四合三勺 中そね村
内 田方百弐拾弐石六斗一升七合弐勺七才
畠方弐百四拾九石壱斗七合三才
一高頭弐百九拾九石七斗四升壱合七勺七才 謝名村
内 田方六拾石八升五合九勺四才
畠方弐百三拾八石八斗五升五合八勺三才
一高頭弐百六拾四石四斗六合七勺 きし本村
内 田方百拾三石弐斗四升五合六才
畠方百五拾壱石一斗六升一合六勺四才
一高頭弐百弐拾石六斗九升六合五勺四才 玉城村
内 田方百壱石六斗弐四合七勺三才
畠方百拾九石七升壱合八勺壱才
一高頭百七拾六石五斗六升五合六勺一才 ぜつかく村
内 田方九拾九石六斗四升六合九勺六才
畠方七拾六石九斗壱升八合六勺五才
一高頭弐拾壱石九斗三升六合弐才 あめそこ村
内 田方拾三石三斗壱升三勺六才
畠方八石六斗弐升五合六勺六才
一高頭弐拾六石弐斗九升九合弐勺九才 ごが村
内 田方九石七斗九升五合弐勺三才
畠方拾六石五斗四合六才
一高頭拾石六斗壱升九合九勺九才 ふれけな村
内 田方八石七斗弐升三合八勺四才
畠方壱石八斗九升六合一勺五才
一高頭百五拾四石八斗壱升七合三勺四才 かぶ村 まつざ村
内 田方百八拾四石七升三合四夕九才
畠方四拾六名七斗六升五合八夕五才
一高頭百八拾四石七升三合四勺九才 運天村
内 田方六拾九石六斗壱升九合七勺六才
畠方百拾四石四斗五升三合七勺三才
一畠方高八拾五石八斗三合四勺五才 沖之郡島
今帰仁間切弐拾三ヶ村
合高五千三拾五石三斗三升八合九勺九才
内 田方千四百四拾七石八斗壱升三合九勺一才
内五斗九升九合四勺弐才永代荒地
畠方千五百八拾七石五斗弐升五合八才
今帰仁間切の地割 2017年3月11日(土)メモより
明治17年の「問答書」から今帰仁間切の地割と人身売買の実態はどうだったのか「問答書」から、いくらかでも把握しておく必要あり(『琉球共産村落之研究』所収より 田村浩著:295頁)。
【今帰仁地方旧慣地割ニ関スル問答書】(明治17年)より
・問 百姓地は各家に於いて古来所有の儘(地所の割換ありと雖も坪数の増減なきを言う)之を
保有するか又は村内戸口の増減に従い之が分配を為すことあるや、その方法手続き如何。
・答 毎戸古来所有の儘之を保有せず。戸口の増減に従い之を分配す。その方法は村中吟味の
上毎戸人員の多少農事の
勤怠と資産の厚薄を見合はせ持地数を定め之を分配す。
・問 然らば戸口の増減に従い之が分配をなすや
・答 否地所割換の年に之を分配す
・問 農事の勤怠資産の厚薄を見合はあせ配分するとき、例へば一家三人の人口に二地を
与へ一家五人の人口に一地を与える事あらん。然る時は其の分配方に差別あるが如し。
右様の事に付苦情を生ずる事なきや。
・答 然り一家三人の人口にて二地を取り又五人の人口にて一地を取る事あり。然ると雖も右は
人民中協議の上取り計らうことなれば苦情等の起りし事なし。
・問 百姓地を割換するは何年に一回なるや。臨時割換することあるや。その法如何。
・答 一定の年限なし。凡そ六年乃至十年目に割換す。又時の都合に由りては臨時割換する
事もあり。其の方法は村中吟味し実地立合見分の上之を取は計ふ。
・問 右割換年限は田畑共同じきや。
・答 然り田畑共前条の通り。
・問 百姓地地頭地を相対譲与或いは質入する等の事あるや。その取扱い振如何。
・答 内分にて質入れする等の事あり。その取扱振は相対口上の示談に止まる。
・問 右内分ニテ質入せる後俄ニ地所の割換あるときは質取主は金の損亡するか、又は質入
人にて前借金は之を償うか。
・答 右等の場合に於いては、今度配分せられし地所を、又更に金主へ引渡すに付損亡なし
尤も今度配分せられたる特地数前者より少なきときは金主の損亡なり。
・問 惣地頭地村地頭地及び仕明地等取扱並びに小作セシムル手続き如何。
・答 右は総べて百姓地同様取扱分配方並びに割換法とも其の特続百姓地に異なることなし。
但し人民仕明地請地は其の地主之を耕し或いは小作せしむるものあり。貢租は直ちに地主
より取り立つ。
明治36年の土地整理で地割制度は終りつげる。下の図は土地整理直前の地割の最後の様子を示すものである。「今帰仁間切平敷村字前田原」の土地保有者について報告したことがある。土地保有者がバラバラである。それは地割の実態を示すものである。平敷村は貧富割タイプである。(古宇利はダブリあり。確認のこと)
①貧富割(12村)
今帰仁・親泊・志慶真・兼次・諸喜田・與那嶺・崎山・平敷・勢理客・天底・湧川・古宇利
②貧富および耕耘力割(5ヶ村)
仲尾次・謝名・仲宗根・運天・古宇利?
③貧富および人頭割(3ヶ村)
玉城・岸本・寒水
④人頭割・年齢に関せず(1ヶ村)
上運天
大宜味間切の地割の例
(『饒波誌』より)
地割の方法は間切によって異なっていたが、大宜味間切の場合は、満三年つまり四年目ごとに割り替えるのを原則としていた。地割の仕方は村毎に幾分かの違いがあったが、一般的には次の通りであった。
まず、割り当てを受ける農家の負担能力(稼働者数、老若男女の構成、貧富)を勘案した上、それぞれの農家夫持(ブームチ)何人と評価する。次の割り当てる土地の地質・条件(地味・水利・場所・距離)を評価し、上中下の等級に分け、各戸の夫持に応じて、三人持地、五人持地等と査定して一筆毎に区割した。総筆数は、村の総戸数と一致していたが、各戸の一人当りの割り当て坪数はまちまちであった。
地割は、まず最初に各村の配当地の区域分けを行うことから始める。大宜味・大兼久・饒波の三か字は、それぞれの村の総ズリー(総会)を開いて、全員納得の上、村分けを行った。次に各村では、各バール(斑)毎に幾つかの地組みを対象に大割し、それから戸数に小割した。大宜味・大兼久の農家が饒波川沿いに土地を持っているのは、このためである。
最後の地割を行った時に大宜味・大兼久の土地が存在することになった。