2007年2月の調査記録
もくじ(沖縄の地域研究)
2007年2月22日(木)
今帰仁城跡調査研究整備委員会があり、それとは別に館内の展示・運天港・番所跡・オランダ墓・遠見台などの説明で頭の中が回りぱなっし。そのため徳之島に戻すのに手間取っている始末。戻さないと。レジュメがつくれません!ハハハ
③徳之島の村名(地名)など
徳之島の村名をみると沖縄本島と共通する村名(地名)がいくつもある。その共通性は何だろうか?マギリ(間切)やグスク(城)やアジ(按司)やノロは琉球側から入り込んだ語彙なのか?一つひとつ紐解きする余裕がないが・・・
伊仙町に面縄がある。面縄にあるウンノーグスクに恩納城が充てられている。沖縄本島の恩納村の恩納と同義だろうか。恩納村の恩納はウンナーは「大きな広場」と解しているが、ウンノーは「大きなイノー」のことか。あるいはノーとナーは地域空間をあらわす義でウンノーもオンナも「大きな広場」なのだろうか。
【徳之島】 【沖縄本島】
・久志村(徳之島町) ←→久志村(久志間切・現在名護市・クシ)
・母間村(徳之島町・ブマ) ←→部間村(久志間切・現在名護市・ブマ)
・宮城村(徳之島町花徳・ミヤグスク) ←→宮城(ミヤグスク・ミヤギ)
・手々村(徳之島町手々・ティティ) ←→手々(今帰仁村湧川・テテ)
・兼久村(天城町・カネク) ←→兼久村(名護市・カネク)
・平土野(天城町・ヘトノ) ←→辺土名(国頭村・ヘントナ)?
・瀬滝村(天城町・セタキ) ←→瀬嵩(名護市:セタケ)
・与名間村(天城町・ユナマ) ←→与那嶺(今帰仁村・ユナミ)?
・面縄村(伊仙町・ウンノー・恩納) ←→恩納(恩納村・ウンナ)?
・糸木名村(伊仙町・イチキナ) ←→イチョシナ(今帰仁村兼次・平敷)
・大城跡(天城町松原・ウフグスク) ←→大城(ウフグスク)
・喜念(伊仙町・キネン) ←→知念(現在南城市・チネン)?
・グスク ←→グスク
・間切 ←→間切(マギリ)
・八重竿村(伊仙町・竿・ソー) ←→川竿・長竿(今帰仁村湧川・・・ソー)
・掟袋・里袋(・・・ブク) ←→田袋(ターブク)
・河地(カワチ) ←→幸地
・按司(アジ) ←→按司(アジ)
・玉城(タマグスク) ←→玉城(タマグスク・タモーシ)

▲面縄の集落(上縄面より) ▲上面縄への途中にある拝所

▲面縄高千穂神社 ▲上面縄から眺めた面縄の集落
2007年2月21日(水)
「徳の西銘間切の手々のろ職補任辞令書」がある。萬暦28年の発給で徳之島は首里王府の統治下にあったことを示す史料である。奄美にはこの辞令書だけでなく瀬戸内西間切、喜界島の志戸桶間切など20数点が確認されている。いずれも1609年以前の古琉球の時代に首里王府から発給された辞令書である(1529~1609年)。確認されている最後の辞令書は「名瀬間切の西の里主職補任辞令書」(萬暦37年2月11日)である。それは島津軍が攻め入った一ヶ月前の発給である。
辞令書はノロだけでなく、大屋子・目差・掟など、首里王府の任命の役人などが知れる。首里王府の16世紀の奄美は辞令(首里王府:ノロや役人の任命)を介して統治している。そしてまきり(間切)の行政区分がなされ、役人やノロに任命されると知行が給与される。役人は租税(貢:みかない)を集め首里王府に納める役目であったと見られる。
②徳の西銘間切の手々のろ職補任辞令書(1600年)
しよりの御ミ(事)
とくのにしめまきりの
てヽのろハ
もとののろのくわ
一人まなへのたるに
たまわり申し候
しよりよりまなへたるか方へまいる
萬暦二十八年正月廿四日

▲徳の西銘間切の手々のろ職補任辞令書
(『辞令書等古文書調査報告書』沖縄県教育委員会)所収より
古琉球(16世紀)の奄美と琉球との関係を「辞令書」を通して見ることができる。手々集落内に琉球と関わった(グスクの築城)という掟大八が力ためしに用いたいう石が屋敷に置かれている。今回いくことができなかったが掟大八と家来の六つの墓があるという。それらを按司墓と呼んでいる。1611年与論島以北は薩摩の統治下になり、薩摩の制度が被さっていくが、それでもノロや間切や首里王府時代の伝承など近世まで根強く引きずっている。

▲屋敷内に置かれている掟大八の力石(天城町手々)
2007年2月20日(火)
17日17時頃、徳之島の亀徳新港につく。車を借り、喜念・目手久・目縄・検福・伊仙・阿三・鹿浦・阿権・犬田布・木之香・糸木名までゆく。そこで夕暮れとなる。二日目のため、天城から東海岸の花徳(けとく)へ横断し、バス停や道路標識で字(アザ)名を確認しながら南下し亀徳へ。徳之島の一部を訪ねてみたが、まだ見るテーマが決まらず。フェリーを下りるとき、琉大の考古学のメンバー会う。島をちょっと回って宿に戻ると琉大のメンバーも同じ宿で夕食を一緒にする。島を回った印象を少し報告。(一緒に回ってみたいの学生の声が聞こえたような!そうなると予定の半分もできません。墓調査の現場を見て欲しいとの希望もあったが時間があれば・・・と)
①島津軍の琉球進攻と徳之島(1609年)
1609年3月、島津軍勢の琉球進攻で南下していく途中徳之島の秋徳(亀徳)と亀津での出来事が『琉球渡日々記』に次のように記してある。
「廿日の卯の刻に、西のこみを出船にと、とくの島の秋徳と申す湊に申の刻計りに着き申し候。
船道廿五里にて候。廿一日に出船で、十里ほど乗り出したら、少し向い風気味になり、結局はと
れになったので、引き返し、亀沢(津か)というところに着いた。・・・・廿二日に、深い山を、おおぜ
いで山狩りをした。そのわけは亀沢の役人たちが山にかくれているのを狩出すためであった。
役人を狩り出し、特別に琉球入番衆主取を、致し方なく逮捕された。この人は三司官のうち、謝
納(名か)の婿である。黄鉢巻の位をもった人を捕らえたのである。」
秋徳は今の亀徳に改称されたようである。亀徳大橋の向こう側の橋詰がその場所である。亀徳を出たが向かい風で亀津に戻り、そこで山狩をしている。そのようなことを思い描きながらの上陸であった。
島津側の『琉球渡日々記』で徳之島での出来事は上の通りであるが、徳之島でどうとらえているか興味がある。琉球側の『喜安日記』では「三月十日、兵船大島へ着津して島の軍勢弱して敗軍すと飛脚到来す」と記しているのみ。
「亀津の役人が逃隠れたので山狩が行われている。この軍勢に対して秋徳の掟兄弟が棒を尖 らしたり、竹に包丁や山刀を括り付けて敵を打ち殺せと指示しているほか、粟粥をたぎらして坂
や道に流して火傷を負わせるよう命じている」

▲大橋の橋詰めあたりが亀徳 ▲なごみの岬からみた亀徳・亀津方面
▲右手の丘手前あたりが亀津
2007年2月16日(金)
明日から「徳之島」までゆく予定。徳之島には徳之島町、天城町、伊仙町の三つの町がある。それぞれの町には十数の字(ムラ)がある。近世のムラは50近い数である。それを実質一日で踏査することになる。そのため、今日は徳之島情報を頭に叩き込む。
3月の下旬、与論島、沖永良部島、徳之島を含め、古琉球の琉球国(沖縄)との関わりで話をすることに。徳之島行きは講義のレジュメづくりも兼ねているような。徳之島に古琉球の痕跡をどう遺しているか。それらを目で肌で確かめるためでもある。どんな結論を導き出せるのか。結果はどうであれ、徳之島ゆきは楽しみである。
もう一つは、やはり1609年の島津軍の琉球進攻である。3月25日26日は今帰仁間切の運天(古宇利島)。27日は今帰仁グスクに攻め入る。そこでの出来事は、今帰仁グスクのその後の歴史に重要な影響を及ぼしている。琉球進攻は沖縄(琉球)の歴史を大きく変えていった事件であった。
3月20日に徳之島の秋徳につく。出港したが風がなく22日亀津に着く。そこで山狩りをしている。奄美大島で討伐、亀津で山狩り、今帰仁グスクは無人、首里で射撃戦が行われている。島津軍の琉球進攻は、日本の中世の合戦規模のものでは全くない。その様相は何を意味しているのか。17世紀初期の琉球の人口規模を知りたいのは、琉球側の戦力がどれ程のものだったのかにつながってくる。蔡温が述べているように20万人だとすると、17世紀初頭は15万人ほどか
(17世紀初頭イモの導入があり、食料が安定し人口は増え、蔡温の頃には20万人まで増えていったか)。今から二年後には島津軍の琉球進攻から400年となる。それに合わせて県は何か行うのであろうか。
そのようなことを思い描きながら徳之島を回ってみることに! 集落やグスクや沖縄に見られる地名の地も見てみたいものだが、正味一日しかない・・・。それと天気はどうか。
2007年2月23日(金)
火曜日まで休息します(東京ゆき)。
徳之島に漂着した船の記事をひろってみた。徳之島で唐船や異国船などの漂着船をどう処理したか。その中で大琉球に送り届けたり、送還している。島津の琉球進攻後の徳之島と琉球との関係が見えてくる。与論島以北を薩摩に割譲しながら琉球との関わりを堅持し続けている。そのスタンスが漂着船の処理だけでなく、琉球的な習俗や統治を近世まで残しているのではないか。
④徳之島に漂着した船と処理
・亀津村(徳之島町)
弘化5年亀津村沖に異国船が一艘現れ、橋船で七人が上陸、津口番所に来た後本船に戻り、
大島方面に向かった(「徳之島前録帳」)。
・秋徳村(亀徳)(徳之島町)
明和5年(1768)尾母村下の浦に漂着した唐船の破損した船尾を秋徳湊で修理し乗組員を帰
帆させる。
文化6年(1809)三月井之川湊沖に漂着した唐船一艘を牽引し秋徳湊に回し4月琉球に送り届
ける。
・和瀬村(徳之島町)
享保18年(1733)和瀬村下に唐船一艘が漂着、船は破損していたので捨て流し、乗組員15人
を陸に揚げ琉球に赴く予定。
・尾母村(徳之島町)
明和5年(1768)尾母村したの宇良御口浦に唐船が一艘が漂着し、船尾が破損しているので
秋徳湊で修理し、乗組員26人は帰帆した。
安政4年御口浦に薩摩山川の船が着船するが途中大風波によって難船、帆柱を切り捨て漂着
したという。
・井之川湊(徳之島町)
文化6年井之川港沖に唐船が一艘漂着する。
・母間村(徳之島町)
安永2年(1773)村の沖合いに唐船一艘が漂着したが、乗組員58人は水・薪を積んで帰帆し
た。
・山村(徳之島町)
宝栄6年(1709)頃、金間湊(山湊)に南京船が一艘漂着、また享保6年(1721)にも金間浜に唐
船が一艘漂着。
嘉永2年(1849)に朝鮮人7人が乗り込んだ船が漂着、山村に11日ほど召し置き、そこから秋
徳に移し、さらに本琉球に送還している。

▲徳之島町の東海岸
・手々村(徳之島町)
元文4年(1739)手々村地崎の干瀬に朝鮮人25人乗りの船が乗り上げ破損したため、西目
間切の与人達が本琉球に送還する。
・阿布木名村(天城町)
弘化5年(1848)八月の大風の中、阿布木名村の干瀬に琉球に向かう観宝丸二十三反帆船
が破船する。
・平土野湊(天城町)
京和3年(1803)西目間切の湾屋湊を通過したオランダ船が平土野浦に向かい乗組員(84人)
の広東人と徳之島の通事与人の兼久村の瀏献が対応、本琉球に向かう。
・湾屋湊(天城町)
享保20年(1735)「澄屋泊り」(湾屋湾?)に朝鮮人男18人、女8人、赤子2人が乗り組んだ船が
漂着する。
明和3年(1766)面縄間切の浅間村の浦に唐船(23人)が漂着、湾屋湊から本琉球に送り届ける。
享和3年(1803)オランダ船が湾屋湊を通過し土野浦に向かう。
・岡前村(天城町)
弘化4年(1847)沖に異国船(アメリカ船か)が一艘、上陸して鉄砲で鳥などを撃って遊んだ
あと本船に戻り西の方に向かう。
▲平土野港(天城町) ▲伊仙町喜念あたりからみた朝焼け