寡黙庵 2017年7月の動き トップへ(もくじ)
(住所:沖縄県国頭郡今帰仁村謝名348番地)

・2月の動き ・3月の動きへ ・4月の動き ・5月の動き ・6月の動き ・7月の動き(今月)
やんばる学研究会へ
2017年7月31日(月)
【比地】
2017年7月30日(日)
午前中、寡黙庵の庭の草取り。午後から、大宜味村喜如嘉のウシデークの調査。
レンギョウが花をつける頃剪定をしている。まだ早いが秋の気配がする。ガジマルの剪定をしているとブワーとハチが飛び出してきた。刺されることなく無事退散。台風の接近かあるのか、胸あたりに巣作りをしている。草刈り機のエンジンがかからず手作業。片付けまでできず、残したまま大宜味村喜如嘉へ。

▲サルスベリにぶら下がったサルオガセモドキ ▲薄紫色の花をつけだしたタイワンレンギョ ▲蜂に遭遇
喜如嘉のウシデークとエイサー見学へ。ウシデークやエイサーなど無知なので所作や雰囲気を味わうのみ。

▲反時計回りにまわる。先頭の5名が太鼓をたたく。

▲ヒンバムイからかつての水田地帯を望む ▲喜如嘉のエイサー
2017年7月28日(金)
国頭村の赤丸崎へ。干潮時になると陸続きになる小島がある。拝所(ウタキのイベ)は岬にあるようだ(米軍の施設)。『琉球国由来記』(1713年)には「奥間村 ヒョウノ嶽 神名:赤丸ノ御イベ」とあり、奥間巫タカベ所となっている。大正15年分区して鏡地となる(地籍は?) かつては山原船の停泊地でもあったようだ。
この赤丸崎は、おもろさうしで、以下のように謡われている。
一 やかひもり おわる(屋嘉比の杜におわします)
おやのろは たかへて(親のろ崇べて)
あんまふて (吾を守って)
このと わたしよわれ(この渡を渡したまえ)
又 あかまるに おわる(赤丸におわします)
てくのきみ たかへ(テクノ君は崇べて)
先学者の大意をお借りすると、
屋嘉比杜にいらっしゃる親ノロや、赤丸岬にいらっしゃるテクノ君を祈ってします
ので、どうか吾を守って渡海をさせてください
昭和59年発行の「御嶽―御嶽信仰習俗調査(1)」でアカマルウガミが報告されている。イベに8基の
香炉があるようだ。一基の香炉に「道光□九年六月吉日 奉寄進 □□大屋 山城□□」とあるようだ。他の香炉に「奉寄進」と見られるようだが、判読が困難のようだ。
おもろでも謡われているように唐や大和旅の安全祈願をした場所であろう。香炉が八基もあるのは、国頭間切番所があり、国頭按司など唐旅や大和上りに随行して行った奉公人が寄進したのであろう。奥間には土帝君が祀られ、奥間ノロ管轄の比地に国頭按司の石灯籠や10基余の香炉があり、古くからの歴史を物語っているのであろう。
【国頭村比地】 【国頭村奥間】

▲ 浜あたりからの「あかまる崎」 ▲辺土名海岸から眺めた「あかまる崎」
2017年7月27日(木)
これから寡黙庵へ。庭の水かけへ。
・北山が滅亡(1426年)、その後1422年に尚忠を北山監守(王子)、具志頭王子と続くが(ここ
までが正史)離散した北山のメンバーの行方は?(野史)
・その一派が国頭(大宜味)へ、名護へ(野史) 国頭・大宜味の歴史へ(地元の伝承に残る)
・1665年北山監守一族が首里へ引揚げ(それに反対した定水和尚の古跡)
・1537年の大島征伐と根差部親方の国頭(大宜味)での動きなど、首里王府から左遷さ
れたり、隠居した人々と地域の歴史が描けそうである。
・北山の歴史の時代を監守の継承で試みたことがある(地域の歴史がよく見えてくる)。
(そんなことを考える一日であった)
・山原の神アサギ(神アサギを掲げるのはムラ・シマを思い浮かべながら歴史やムラ・シマを見ていくベースにしている)
2017年7月25日(火)
午後から国頭村浜、辺土名、宇良、伊地、与那まで。2005年頃の記録をみると、変わらず今にのこっているもの、変わっているもの。踏査してきたものの暑くて(工事中)
【辺土名】
▲辺土名ノロ殿内 ▲辺土名の上島の公民館
【宇良】
【伊地】
【与那】
▲与那ノロ殿内 ▲与那の新神アサギ
2017年7月23日(日)
以前に今帰仁村運天に大正11年に建立された碑について、碑の建立の様子が知りたいとの問い合わせ。
「ふるさと今帰仁の思い出」として「あるぜんちん国」に移民された諸喜田武吉(今帰仁村諸志出身)の文章
がある。
今から五十年前(1974年から)、少年期の思い出でもありますので年月日は正確ではないと思っていま
すが、悪しからず御叱正の程を願います。
大正七、八年(大正十二年か)小学生の時、兼次校から運天港まで約一里半の遠足がありました。喜嬉
として同級生が受持先生に引率され、二列縦隊で行ったものであります。
明治時代は今帰仁間切と称し現在の「字」が「村」と称えられていた。廃藩置県の時に今帰仁間切から
今帰仁村に、また村から字に改称されたことになっております(※間切が村に、村が字になるのは明治
41年)。運天港の海岸の岩の中にあるモモザラ墓(百按司墓)には人骨が無造作に山積されており、先
生に説明によると源為朝公の配下所謂源氏の落ち武者の遺骨といわれており、源為朝公上陸の地とし
て県下でも有名である。
大正初期(大正5年)に村役場は運天から仲宗根に移され、仲宗根の大井川町から運天まで自動車の
通れるような道路が出来、その開通式(大正12年)と為朝公上陸記念碑も建立(大正11年)されたので、
その除幕式を兼ね盛大な記念式典が挙行されました。当日の祝賀会においての源為朝公を忍ぶ歌を記
して、
一、鎮西八郎為朝公、東南の勇士止み難く第海原を船出して着し所は運天港
二、運天森の松風と、高く聳ゆる石踏は、為朝公が上陸の跡をば永久に語るらん
三、英雄逝て七百年、うるま島の裏波は、君が功を讃えるつつ調べも高く歌うなり
斯くして式典は恙なく済み余興としてハーリー競技に始まり、夜は古典舞踊や為朝公上陸記念祝賀会
にふさわしい余興がくりひろげられ有意義な催しであった。


短い文章ですが、大正5年に役場が運天から仲宗根へ、運天隧道(トンネル)の開通、為朝公上陸之址碑など運天の歴史の一コマを彷彿させてくれます。
2017年7月22日(土)
15年前だと思いますが、あたり前に使っていた言葉についての質問が多く、その解説をすることに。1000語を目標にスタート。途中から大きくかわります。番号はつけていませんが、言葉説明より記録していくことが必要だと気づかされます。それと、今帰仁という地域から周辺の行政区、離島、奄美まで領域を広げることになります。その例が「北山文化圏」や「北山の歴史」との関わりで伊是名・伊平屋の神アサギ。そのような視点で書き記してきたものです。以下にかかげた20項目は今帰仁を中心にしたものです。スタートでした。10年余りの歳月がたっているので見直しも。歴史に限らず社会は生き物だと気づかされています。若かった頃の記録メモを振り返りながら、残りの時間を過ごしていくか。
(画像は略)
【間切】(まぎり)(0001)
間切は行政区分の名称。現在の今帰仁村は明治41年まで今帰仁間切と呼ばれていた。明治41年以後は今帰仁村と呼ばれ、現在に至る。現在の字(アザ)は村と呼ばれ、シマともいう。1665年まで今帰仁間切の領域は、現在の本部町を含む範囲であった。今帰仁グスクに居住していた今帰仁按司が首里の赤平村に引き揚げると今帰仁間切は二つに分割し伊野波(本部)間切を創設した。間切の長は地頭代とよばれてい域は、現在の本部町を含む範囲であった。今帰仁グスクに居住していた今帰仁按司が首里の赤平村に引き揚げると今帰仁間切は二つに分割し伊野波(本部)間切を創設した。間切の長は地頭代とよばれていた。古琉球の辞令書に「みやきせんまぎり」と登場する。現在の湧川地内は羽地間切の領域だったこともあるが、1738年に湧川村を新設し今帰仁間切地内となり、現在に至る。
【神アサギ】 (0002)
神アサギはムラ・シマを見ていくための重要なキーワードの一つである。『琉球国由来記』(1713年)には神アシャギと記されている。その神アサギは今帰仁村の西側では神ハサギと呼び、東側ではアサギと呼んでいる。神アサギのあるムラ、ないムラ、あるは三つあるムラがあり、ないムラは新しいムラ、二つあるところは二つのムラの合併、三つあるムラは三つのムラの合併を示す。明治36年に合併した村に今帰仁村と親泊村があり、頭の文字をとり今泊村と呼ぶ。諸喜田村と志慶真村で諸志、寒水村と玉城村、岸本村が合併するが玉城村を名乗る。今帰仁村で神アサギのない越地・渡喜仁・呉我山は大正から昭和(戦前)にかけて分字した字(区)である。
【すくみち】(宿道)(0003)
首里王府時代の番所と番所を結ぶ街道筋のこと。今帰仁番所(運天)と本部を結ぶ道筋、運天番所から勢理客を通り湧川に向かう「すくみち」があり、今では小地名として残っている。今帰仁間切の「すくみち」沿いに蔡温松と呼ばれる並木松があった。「今帰仁ぬ 沿道一筋 並松ぬ美らさ 花染芭蕉着と 女童美らさ」と今帰仁ナークニーで謡われる。大正時代になると車が往来するようになり、道幅が狭いので片側の並松が切られ一筋の並松となった。戦後まで大分残っていた大きな松は道路の拡張、あるいは松喰い虫の被害で多くが枯れ、仲原馬場やかつての「すくみち」沿いに並松の面影を残している。
【城ウイミ】 (0004)
城(グスク)は今帰仁グスクのこと。ウイミは折目で生産の休養日(遊び)。旧8月10日今帰仁グスクの神ハサギ跡で行われるウイミ(休曜日・遊び)のこと。今帰仁グスクの神ハサギ跡で行われる。今帰仁ノロ(代理ノロ)が簪と勾玉を入れた二つの箱をハサギ跡にある香炉の側に並べて置く。代理ノロのため簪を挿したり、勾玉を首にかけたりはしない。平成13年の城ウイミは今帰仁ノロと本部町新里からきた神人、区長、書記が参加した。グスクの神アサギ跡のみ。線香・お米・お神酒・お菓子が供えられる。
【フイヤー・メーフイヤー】(0005)
今帰仁間切の地頭代(今の村長)になった家にはフイヤーやメーフイヤーの屋号がつく。1750年頃から今帰仁間切の地頭代は古宇利親雲上と呼ばれる。位牌や銘書に「古宇利親雲上」とあれば、先祖に地頭代をした人物がいたということである。その家の屋号はフイヤーやメイフイヤーがつく。地頭代になると古宇利島があつかいムラとなる。古宇利島のことをフイジマ(海を越えた島)と呼び、地頭代の古宇利親雲上の屋号のフイヤーは、それに由来する。それ以前の地頭代は湧川大屋子である(『琉球国由来記』1713年)。
【印部石】(パルイシ)(0006)
印部石はパルイシやハルイシという。石に「・・・・原」と彫られていることに由来する。「・・・・原」の原名は現在の小字名につながってくる。1739年の『御支配方仰渡』(大里間切)によると、印部土手に立てられ印石とある。田畠の境界に混乱が生じたとき、この石でただした。今帰仁村に「フ はんた原、れ さき原、よ 加祢寸原、ソ 加祢寸原、よ さき原、□ いち原........」など21基(平成13年9月現在)が確認されている。古宇利島でも「ヲ いれ原、レ いれ原、於 いれ原、ほ あらさき原、に あがれ原」の5基がある。古宇利のいれ原とあらさき原は現在の小字にないが、あがれ原は現在の東原につながっている。(詳細は『なきじん研究7―今帰仁の地名―参照』)
【ムラ・シマ】(0007)
歴史文化センターはムラ・シマという言葉をよく使う。ムラ・シマは今風に言えば字(アザ)のことである。その字のことを大先輩達はムラやシマという。「あなたの親はどこのムラね」「あなたのシマはどこ?」など。今の字は明治41年まで村(ムラ)であった。そのことが後々までムラという呼び方として残ったのであろう。公民館はムラヤーと呼ぶ。ムラは行政的な呼び方であったのであるが、今帰仁村は19のムラ・シマがあり、ムラ・シマに人々が住み、そしてそれぞれの独自の歴史を持つ。その用語を使う場合、行政的な意味だけではなく歴史性・生業・人・豊年祭・地名などムラ・シマを構成する様々な要素を包含した意味で使っている。ムラ・シマの言葉の根底には、そこに生きる方々が歴史の主人公だとする考え方があり、歴史文化センターは、そのことを一貫して貫ぬいてきた。ムラ・シマは歴史文化センターの根幹に関わる言葉のひとつである。因みに今の村(ソン)は明治41年まで間切(マギリ)であった。(詳細は『なきじん研究 1』参照)
【クボウヌウタキ】(0008)
「こばうたけ」は今帰仁村の西側、今帰仁城跡の南側にある標高約189 mの山である。地元ではウガミ、あるいはクバンウタキと呼んでいる。そこは旧暦の5月15日と9月15日、今泊の神人や村人たちが御願をする。名の示す通り、クバに由来する御嶽名であるが、クバはあまり見当たらない。かつては、数多くあったという。
「おもろさうし」(第13巻189)で次のようにうたわれている。 一 くにの、なてしのか、
なてしのか、ふなやれ、
なこなこと、
なこやけて、はりやせ
又 くに、みちへりきよか
みちへりきよか、ふなやれ
又 かみや、おなりかみ、
ころは、いしゑけり
又 かつおう、たけ、とた物
こばうたけ、とたもの
『琉球国由来記』(1713年)には、「コバウノ嶽、今帰仁村、神名ワカツカサノ御イベ」とある。当時「謝名村にアフリノハナがあり、昔君真物が出現するとき、ここに黄色の冷傘が立つときは、コバウノ嶽に赤い冷傘が立つ。逆に、コバウノ嶽に黄色の冷傘が立つと赤い冷傘が立つ」との言い伝えがある。そこでの祈願の主旨は、百果報、子のスデモノ、島国の作物、唐・大和・宮古・八重山、島々の船の無事往還などをあげている。今でも、毎年旧の5月15日と9月15日にフプウガン(大御願)やムラーウガン(村御願)が行われている。御嶽の麓に三段になった祭場があり、ノロやトモノハーニィノロなどの神人が行き祭祀を行う。さらに中腹にイベがあるがノロとトモノハーニィがそこまで登っていたが、今は下の方で御願をすませている。村人や村外にいる方々の多くが、途中にあるサカンケーモーでお通しをし、御願をする。
【かなひやぶ】(カナイヤブ)(0009)
かなひやぶ、おもろさうしに出てくる地名の一つである。おもろさうしでは(第6巻の46)つぎのように謡われている。
一 もヽと、ふみあかりや、
みちあけて、
かなひやふ、てつて
又 きみの、ふみあかりや
又 きこゑ、みやき、せんに
又 こおの、世かるひに
又 けおのきやかるひに
今帰仁城跡内には「上の御嶽」と「下の御嶽」があり、「かなひやぶ」は「上の御嶽」にあたる。『中山世鑑』の「琉球開闢之事」のところで、天城に阿摩美久という神がおり、降りてみると島がなかったので天に上り、土石草木賜り下って島をつくった。一番目に国頭の辺戸の安須森、次に今鬼仁(今帰仁)のカナヒヤブと次々と御嶽をつくっていったという。(「聞得大君御規式の御次第」ではコバオの御嶽)
1713年の『琉球国由来記』に「城内上之嶽、神名テンツギカナヒヤブノ御イベ」とあり、さらに「此嶽、阿摩美久、作リ玉フトナリ」とある。また、書の旧跡のところで山北が滅されたとき、カナヒヤブという盤石があり、千代金丸という刀をぬいて十文字に切り刻んだ。北山滅亡の最後と関わりをもった御嶽のイベである。刀を抜いて十文字に切り刻んだ盤石は、本来城内の上の御嶽、つまりカナイヤブにあるべきであるが、副継の御嶽(下の御嶽)の奥に落城の血を浴びた受剣石があるという(『御案内』。
「かなひやぶ」(上の御嶽)は、支配者のグスク内の御嶽で、ムラ・シマの御嶽とは性格を異にする。その「かなひやふ」の御嶽に多くの参拝者が訪れる。『琉球国由来記』では今帰仁村の管轄。今泊の海神祭(ウンジャミ)のとき、神人や村人たちが城内のハサギ跡に集まり御願をする。
【ウタキ】(御嶽)(0010)
ウタキは単にムイと呼ぶ地域もある。ウタキはムラの一番神聖な場所で、ムラの祭祀と関わる。ウタキ内には大木や蒲葵(クバ)があり神木という。神はその神木を梯子にして降りてくるという。ウタキにはイビ、イベヌメーがあり、イビを中心にワラ縄がめぐらされた。縄は左縄で縄の内側は男性禁制の場となっている。内側に入ることができたのは女性のみだという。『琉球国由来記』(1713年)に登場する御嶽は以下の通りである。由来記には記録されてないが諸喜田(諸志)・崎山・平敷・謝名・仲宗根・天底・勢理客・湧川などにも御嶽がある。
・城内上之嶽、同下之嶽、コバウノ嶽(今帰仁村)
・兼次之嶽(兼次村)
・ムコリガワ嶽(与那嶺)
・中尾次之嶽、ギネンサ嶽(中尾次村)
・コモケナ嶽(玉城村)
・オホヰガワ嶽(岸本村)
・中森(本部間切の内、伊豆味・天底村)
・上運天之嶽、ウケタ嶽(上運天村)
・中嶽、サウ嶽、カマニシ嶽(郡村)
ウタキは村の祭祀との関わりでみると、ウタキに降臨してきた神をノロをはじめ神人に乗り移り、村人と出会わす役割をになっている。ウタキを中心とした祭祀は五穀豊穣・村の繁盛・航海安全など琉球王国(国家)と深く関わっている。
(詳細は別稿で)
【今帰仁】(ナキジン)(0011)
今帰仁はナキジンやナチヂンと呼ばれている。今帰仁村は、沖縄本島北部の本部半島に位置し、村内には「今帰仁」がつくのは今帰仁城跡と今帰仁村(現在、合併して字今泊)がある。県内で今帰仁の地名がつくのに那覇市松川に今帰仁原がある。今帰仁は方言でナチヂンと呼ばれ、オモロや古琉球の辞令書では「み(ミ)やきせん」と記される。『海東諸国紀』(琉球国之図)(1471
年)には「伊麻奇時利城」とあり、それは「み(ミ)やきせん」より、もう一つ古い形である。
今帰仁は、文献史料でみるかぎり、「伊麻奇時利→み(ミ)やきせん→今帰仁」といった表記の変遷をたどっている。「みやきせん」に今帰仁の漢字が充てられたのは、薩摩軍の琉球侵攻(1609年)以後の近世初期からである。「今帰仁」の語義について、伊波普猷は北方からの渡来者が本部半島に移り住み、その新来者(イマキ)に由来する(『あまみや考』)と解し、また島袋源七はナキジンの古い発音はナキズミで、そのナキズミは魚来住だという。つまり、魚が来て住む場所、あるいは魚が多く寄りつく場所(「今帰仁を中心とした地名の一考察」)と解している。両者とは別に、「今帰仁は古くマキジン又はイマキジリ・マキジリと呼ばれ、地勢上国上(頭)に対するマキ(村)下・マキ尻の義である」(『島尻・今帰仁考』泉奇山)といった見解があるものの、今帰仁の語義についてまだ定説をみるにいたっていない。今帰仁城跡のことを別名北山城と呼び、14世紀末から15世紀初頭にかけて君臨した王のことを山北(北山)王と呼ばれた。今帰仁城を拠点にした山北王が、山原(北部)一帯を支配領域として統治した時代があり、明国(中国)からは「山北」と表記されていた。そのことが、現在でも今帰仁城のことを北山城という呼び方がなされる所以である。
【運天番所】(ウンテンバジョ)(0012)
番所は駅とも記され、今でいう役場のこと。今帰仁村で番所のことをバンジュという。番所が役場と名称を変えたのは明治29年のこと。今帰仁間切の番所は運天港近くにあったが大正5年に仲宗根に移転し、現在に至っている。番所が運天にいつ設置されたのか、確かな史料は今のところ確認されていない。番所跡地は今では民家が建ち福木の並木が、かつての面影を僅かながら忍ばせている。
運天に番所があった史料は「薩摩藩調整図」(1756年)があり、それに番所が運天村あったことを明記している。それより以前の1646年の首里王府から各間切の番所までの道程を記した「正保三年琉球国絵図帳」に「名護間切境より今帰仁間切あめそこ村一里山までの二十町」とあり、運天番所の一端が記されている。
番所は首里王府を頂点とした機構の地方行政の拠点となり、各地の間切(今の村)では同村に番所が置かれたが、今帰仁間切は良港の運天村に置かれた。番所には地頭代をはじめ、総耕作当・総山当などの間切役人が詰めた。
大正5年に役場が運天から仲宗根に移転するきっかけは「沖縄毎日新聞」の大正2年の記事がきっかけになったかもしれない。今泊から二里、湧川から半里、交通が不便なだけでなく二十、三十戸の小さな寒村である。今泊の吏員は早朝に家を出ても到着は10時頃となり、4時間ばかりで仕事にならないという内容である。
【今帰仁ナークニー】(ミャークニー)(0013)
今帰仁は今帰仁村のこと。ナークニーはミャークニー、ミャンクンニーともいう。村内を歩いているとミャークニーと発音するのがほとんどである。今帰仁のことを古琉球(1609年以前)は「みゃきせん」と表記される。ミャークニーのミャはみゃきせんのミャにつながる。ミャーからナーに変化したとの意識が見られる。ミャークニーがナークニーへと音韻変化したものであろう。宮古音の字をあてることもある。首里に奉公した今帰仁出身者が宮古からきた人の唄(音)を聴いて今帰仁に持ち帰り広めたという。仲宗根政善先生は『今帰仁方言辞典』で「ミャーくニー、音曲の一種。哀調をおびた曲である。ナちヂンミャーくニー(曲名)」と説明している。ミャークーは宮古と同音。村内でもイリンシマ(西側の字)、中央部、アガリンシマ(東側の字)とでは違いがある。歌詞は生活と関わる恋、農作業、遊び、美童、湧泉(ハー)、城(グスク)などが詠まれている。
【勢理客】(せりきゃく・ジッチャク)(0014)
勢理客は浦添市、今帰仁村、伊是名村、それから沖永良部知名町にある地名。沖縄の勢理客はジッチャクと呼び。今帰仁村の勢理客の村名表記は『おもろ』で「せりかくののろの あけしのヽろの」と謡われている。『琉球国高究帳』(17世紀中頃)で「ぜつかく村」、『絵図郷村帳』で「せつかく村」、1713年の『琉球国由来記』に「勢理客村」とあり、その後の文献では「勢理客村」と記され、現在に至る。勢理客のろは『おもろ』で何度も謡われており、古くから世に知られたノロであったことがわかる。その勢理客(ジッチャク)の語義について宮城真治は『沖縄地名考』で「シリサク即ち後ろの谷」と解かれ、「谷間にある部落」であるという。今帰仁村に乙羽トンネルと呉我山トンネルの間の盆地(谷間)にある集落をマッチャクという呼んでいる。チャクは迫や小さな谷間のこと。ジッやマッについての意はなんだろうか?
【北山文化圏】(ほくざんぶんかけん)(0015)
この言葉は歴史文化センターが独自に使っている言葉である。沖縄の歴史の展開をどうみていくかに関わるテーマでもある。ここで簡単に説明すると11、12世紀ころグスクと呼ばれる施設が各地に出没してくる。各地のグスクがいくつかまとまりを形成していく。それが中堅クラスのグスク。山原(北山)でいうならば、根謝銘グスク(国頭地方)、羽地(親川)グスク(羽地地方)、名護グスク(名護地方)、金武グスク(金武地方)、そして今帰仁グスク(今帰仁地方、本部半島の大半)の五つのグループにまとまっていく(伊平屋・奄美を除いておく)。その五つのグループは、後に国頭・羽地・名護・金武・今帰仁の間切につながっていく(本部・大宜味・久志・恩納は近世に分割した新しい間切である)。
五つの地方(後の間切)は、さらに今帰仁グスクに統括され北山王を中心とした小国家を形成する。その時代が北山・中山・南山の三山鼎立時代と呼ばれている。北山には怕尼芝・ミン・攀安知の三王が君臨する(怕尼芝の前に何代か王がいた思われる)。攀安知が滅ぼされた1416年まで続いた。
北山文化が形成された時代は、割拠していた山原のグスクが中堅クラスのグスクにまとまり、さらに今帰仁グスクに集約された時代、さらに北山王が君臨した90年間の三山鼎立時代の範囲と想定している。その間(時代)に形成された文化的なもの。北山滅亡後、中山が取った北山への監守制度の設置などから、中山や南山と異なった文化を持っている地域という認識が根強くある。そのようなことから、今帰仁グスクにまとまっていった過程、そして北山王が与論や沖永良部に次男三男を派遣し、支配下に治めていった時代に形成された文化が、痕跡として沖縄本島から奄美(南側)に及ぶ。神アサギや祭祀形態や方言、集落区分の呼称など、一くくりにできる文化がある。それらは今帰仁グスクにまとまり、さらに北山王が支配下に治めた時代に形成された文化としてとらえている。その時代に形成された文化を「北山文化」と想定し、その範囲を奄美の南側までとし、その範囲と文化のことを「北山文化圏」(仮説)と考えている。
北山文化圏の中身の吟味は、これから積み上げられるでしょう。
【今帰仁阿応理屋恵】(ナキジンアオリヤエ)(0016)
今帰仁阿応理屋恵はオーレーやアットーメーなどと呼ばれいる。久米島の「きみはゑ」(チンベー)や伊平屋(伊是名)の伊平屋大あむなどと同格の今帰仁阿応理屋恵。聞得大君を頂点とする神女組織の高級女官三十三君の一人である。今帰仁阿応理屋恵の伝世品に勾玉・水晶玉・草履の一部(今帰仁村歴史文化センター所蔵)が残っている。
『おもろさうし』には「今帰仁あふりやゑ」とあり、「あふり」は冷傘だという。冷傘は君真物が出現するとき「今帰仁間切今帰仁村のコバウの御嶽や国頭間切辺戸村のアフリ嶽に傘がたつ」という。今帰仁阿応理屋恵は君真物の出現に関わる役目を担っていたのかもしれない。
1667年に三十三君の多くは廃止されたようで、伊平屋のおむがなしと久米島の君南風、そして今帰仁阿応理屋恵の三職が残ったという。今帰仁阿応理屋恵はスムーズに継承されてきたわではない。
第二尚氏系統の北山監守を勤めた監守の夫人や娘や一族ゆかりの女性がその職についた。北山監守を勤めた監守(今帰仁按司)一族の墓が運天港付近にある。大北墓、別名按司墓と呼んでいる。その墓に「アヲリヤイアンシ」と三名の名があり葬られている。大正末期に鎌倉芳太郎氏がウォーレウドゥンの遺品調査を行っているが『鎌倉芳太郎氏ノート』によると曲玉・玉草履・胸当などが あったことがわかる。
今帰仁阿応理屋恵は国頭地方の最高位の神女と言われているが、君真物出現だけでなく、他にどんな役割を果たしていたのか、北山監守と表裏一体をなした今帰仁阿応理屋恵につい研究を深めていく必要がある。
【大北墓】(ウーニシバカ)(0017)
大北墓は別名按司墓という。運天港付近にあり、左右対称の石積みの形式がいい。墓庭に大正13年に再建された碑がある。墓を建設したのは十世の宣謨(今帰仁王子)で、墓建立当時「元祖今帰仁王子者 尚真様第三之御子ニ而、依旧制国頭方監守被仰付、今帰仁間切江移居七代迄相続彼地江相勤罷在候故、運天村江構墓祖々致安葬置候間、絵図朱引之通為墓地永々所持仕候様被仰付可被下候、此旨御披露頼存候、以上 乾隆二十六年幸巳十二月 今帰仁王子 右朱引之内願之通御達被下候間永々可被致取持者也 己十二月十七日 三司官古波津親方」の碑が建立されたにちがいない。大北墓は第二尚氏系統の北山監守を勤めた按司とその一族が葬られている。1700年代に今帰仁グスクの麓(ウツリタマイ)にあった墓が崩落したので運天に拝領墓を造り移葬したという。明治45年4月に墓室の調査がなされている。中には宗仁公(韶威のこと)の嫡子(二世介昭)、四世克順(真満刈)、五世(記名ナシ、克祉?)、六世縄祖(松鶴金)、七世従憲(思五良)と、その一族が入っている。大北墓は今帰仁グスクで監守を勤めた今帰仁按司(総地頭職)とその一族を葬った墓で、今帰仁グスクと深く関わり、今帰仁グスクの歴史と一体として考えるべき墓である。
大北墓に葬られていない一世の韻威は首里の玉陵に、そして三世の和賢は津屋口墓(別名アカン墓)に葬られている。八世から後は末吉の墓に葬られている。
【今帰仁間切のノロ】(琉球国由来記)(1713年)(0018)
1713年頃の今帰仁間切(村)内に今帰仁巫(ノロ)・中城巫・岸本巫・玉城巫・勢理客巫(島センク巫)・郡(古宇利)巫がいた。1738年に湧川村が創設されるが、同時に湧川ノロを出したかは不明。明治15年頃の『沖縄島諸祭祝女類別表』には、湧川村にノロクモイ(巫のこと)がいたことが記されている。
天底巫は『琉球国由来記』の頃は、天底村そのものが本部間切の内。1719年に天底村は本部間切から今帰仁間切へ村移動し、ノロも今帰仁間切となる。ただし、村は今帰仁間切に移動したが天底ノロの管轄は天底村と嘉津宇村・伊豆味村(両村は本部間切内)である。ここでも行政村の移動があってもノロ管轄に変更はない。天底ノロは大正の頃まで伊豆味まで馬に乗って出かけ祭祀を行ったという。
地方のノロが継承される場合、首里王府から辞令書が交付される(近世?)と同時にノロ地が与えられた。ノロ地は明治36年に手放すことになるが、明治には県庁(郡長)から社録の給付をうけている。
【岸本ノロ】(キシモトノロ)(0019)
岸本ノロは岸本村と寒水村を管轄するノロである。岸本と寒水の両村は明治36年に玉城村に合併された。玉城村に岸本村と寒水村が包含されてしまうが、祭祀は旧時代のまま継承されていく。現在の字玉城には玉城神アサギ・岸本神アサギ、そして寒水神アサギがまだあり、三つの村の合併の面影を残している。
岸本ノロに関する以下の資料があるので紹介しましょう。
沖縄県指令第一四五号
国頭郡今帰仁村字玉城三百四十三番地
大城 清次郎
外 七名
大正二年十月十七日岸本ノ
加ネイ大城カマド死亡跡職
大城カマド採用ノ件認可ス
大正三年三月十八日
沖縄県知事高橋琢也 沖 縄
県 知
事 印
ノロ制度そのものは消失していくのであるが、ノロの継承や保証については大正時代になっても文書でなされていることがわかる事例である。
【玉城ノロ】(タマシロノロ)(0020)
玉城ノロはタモーシノロと呼び、玉城・謝名・平敷・仲宗根の四ケ村の祭祀を管轄するノロである。明治36年玉城村に岸本村と寒水村が合併されるが、村の内でノロが異なるので祭祀は別々に行われている。二つの村は岸本ノロの管轄である。「玉城村ノカネイ跡職願之儀ニ付理由書」(明治35年)がある。玉城ノロの継承についての願書である。玉城ノロクモイ職は、先々わが先祖に下命されたが、数百年前ことはわかりません。口伝や記録などもないので、中古の六代前から述べる。先祖の武太平良(六代目)の妹ウトが継承。平良筑親雲上(五代)の姉は玉城村松田方へ嫁いたマカへ継承。平良筑雲上(四代目)の妹カナへ継承。その後、本家内に継承すべき人物がなく五代の先祖平良筑親雲上姉マカの嫁ぎ先の松田方の外孫与那嶺村の内間方から養女なったナベに仮の継承をさせた。その後も血統内に継承する人物がなく、前職のナベの養妹、松田方の次女マツに継承させた。このマツの在職中にわが血統に相当の人物が出てきたので、その際交代してもとに帰すよう協議がなされた。その時、関係する(ノロ管轄村)玉城・謝名・平敷・仲宗根の四ケ村、並びに松田方へ申入れをし、返すことになった。明治27年5月から見習として本職同様に勤めた。ノロ継承の移動によりノロ殿内は玉城村内に設置されるのが慣例、従ってノロの住む家も必ずノロ殿内の敷地内にあるべきです。前職者の松田マツは自分の血統が継承すべきではないこと悟り住家を去って仲宗根村山城方へ引っ越した(明治31年)。その跡に新しく家を建て、跡職と定めたツルを住まわせたノロ殿内(神社)の管掌させた。前職の松田方では親類中より撰挙しようと考えているようで、そのため提出した採用願に署名(連署)していない。前件のことを御洞察してツルへ下されたく、ここで理由を開陳するものでる。平良一門ののみの連署がなされている(明治35年5月)。
玉城ノロの継承についての古文書である、中城ノロの継承についても同様な古文書が残っている。ノロの継承ははっきりしているようで、実はそう単純なものではない。古文書から玉城ノロの継承が複雑であったことがしれる。
2017年7月21日(金)
「北山の歴史と文化」をテーマでの講座。前日の「大宜味の歴史」と重ねながらの話。午前中、「今帰仁村玉城誌」の編纂委員の方々が進捗状況の確認で「寡黙庵」へ。9月には全体の原稿だしを約束。
2017年7月20日(木)
・長浜氏系図(『沖縄県国頭郡志』)
・大宜味村田港と東村川田の根謝銘屋と関わる史話『通俗琉球北山由来記』
そのたぐいの先祖由来記や系統図がいくつもあるが、特に大宜味と関わる二点から、まずは根謝銘(ウイ)グスクと関わる資料や出来事を時系列に並べてみる必要がありそう。それは大宜味側(国頭)の地域の時代区分(物差し)を作ってみる必要がありそう。以下の二点の内容に踏み込んでみると大宜味の時代区分の手がかりがつかめそうである。出来事や伝承の中身や資料を時系列に並べ、時代の名称と区分時期を想定してみる(案)。
・長浜氏系図(『沖縄県国頭郡志』)
・大宜味村田港と東村川田の根謝銘屋と関わる史話『通俗琉球北山由来記』
【大宜味の時代区分】(名称や区分時期は未)
・北山の領域の時代の国頭地方(大宜味を含む)
・根謝銘(ウイ)グスクが機能していた時代
・北山滅亡後(1416年~1469年)
川田の根謝銘屋と田港の根謝銘屋
・1471年の「海東諸国記」(琉球国之図) 国頭城
・各地の按司を首里へ集居(国頭按司が首里へ移居)
・国頭按司の配置(今帰仁グスクでは監守は大臣を派遣)
・山原関係の辞令書(1500年代の辞令)
・「くにかみあんし」が登場する金石文
・「のろくもい」の配置(任命)
・おもろさうし「やかひのろくもい」と遺品
・城のろくもいの遺品
・田港のろくもいの遺品
・根謝銘屋の遺品
・1609年の薩摩の琉球侵攻の頃の国頭(大宜味含む)
・絵図郷村帳の「国頭間切」(大宜味含む)(平南・津波は羽地間切)(17世紀)
・琉球国高究帳の「国頭間切」(大宜味含む)(平南・津波は羽地間切)(17世紀)
・1673年 国頭間切・羽地間切を分割し田港間切を創設し番所を屋古・田港村に置く。
・1692年 大宜味間切を創設し、田港間切は大宜味間切へ改称。大宜味村を設け番所を置く。
(直後、国頭間切と大宜味間切が別れると一部方切ががなされる)
・大宜味村から塩屋へ番所が移転する。


図 ① 図 ②
田港と川田の根謝銘屋は、根謝銘(ウイ)グスクの麓の根謝銘(現在謝名城)から移動してきたことに由来する屋号の可能性あり。位牌や墓に登場する人物は図②の系統図とほぼ一致する。

▲田港の根謝銘屋(思徳金系統) ▲田港のろ系統(根謝銘屋)

▲東村川田にある思五郎金墓 ▲川田の根謝銘屋
2003.2.13(木)メモ平成15年2月のメモ
2月の10日を過ぎたら若者の来館が目立ちます。テストが終わり一段落といったところか。昨年9月に学芸員実習をしたT子さんがやってきて紅葉饅頭をお土産に。広島からはいつも紅葉饅頭。もみじ饅頭じゃないといけないようになっているようだ。まだ、沖縄かな?今日は天気がいまいち。館の窓口で旅している姿をみていると海外?に出かけたくなります。もう少し暖かくなったら離島にでも!
2月9日(日)沖縄タイムスで「北山城主」末えいの証し 装飾具勾玉を公表の記事がでた。問い合わせが歴文にもあったので紹介します。北山城主末裔については久志村(現在東村)の川田だけでなく大宜味村田港、名護市の屋部などにもあります。
大正8年に発行された『沖縄県国頭郡志』に次のように紹介されている。
口碑伝説に依れば同家(東村川田の根謝銘屋)の始祖はヒギドキ
(ヒゲドケ)と綽名せられ仲今帰仁城主の子孫にして本部村(町)満
名上の殿内の次男なるが、ある事変に際し、一時名護城に移り、こ
より大宜味根謝銘城に避難し後、国頭間切浜村赤丸の崎の窟及び
伊地村後方の窟に隠遁し更に山中を横切りて川田の山中イエーラ
窟に遷居せり。今その近傍、内福地原に千五百坪ばかりの畑ありて
当時の開墾に係ると伝う。然るに此処は昼なお薄暗き森林にて山の
精強く住みよからずとて道を海岸に開き、而して現屋敷の後方台地
に移転せりという。
川田は八十戸数中十数戸を除きたる外皆同家の裔孫にして根謝銘
屋及びその分家なる西の屋(イリヌヤ)、西の根神屋、東の殿(東の比
嘉)、新門(ミージョー)、金細工や、大川端(元ニーブや)の七煙より
分かれたり・・・・・・以前根謝銘屋には絹地の衣類、古刀及び黄金
かぶの簪等の遺物を保存せしが火災の為め消失して、今は類似の
品を以て之に代へたり。・・・・」
とある。今帰仁城主の末裔の伝承は古くからあり、また旧暦の元旦に行われるタマガワラユエーも行われてきたものである。大正8年以前に絹地の衣類や古刀や黄金の簪などが火災で焼失して、類似の品に代えてある。現在残っている勾玉(水晶玉では?何個か勾玉もあるのか?新聞の写真でははっきりしない)は、『沖縄県国頭郡志』で述べられているように消失し、大正8年頃のものは類似の品だということ。その品物が戦争をくぐりぬけ現在に伝わっているのかもしれない。北山の時代からのものとするには、慎重を期する必要があろう。(話の内容は攀安知が滅び(1416年)、その後離散していった内容である)
もちろん、今帰仁城主の末裔としての伝承を今に伝えていることや一族が大事にしてきた遺品や祭祀も貴重なものである。外にも、そのような伝承や遺品を遺している旧家があり確認してみたいと思う (Y新聞から、記事の勾玉は今帰仁城主(北山王)の末裔のもの?の問い合わせあり)。
2017年7月19日(水)
大宜味村を週三日ばかり通っている。夏はそうではないが、冬場は北風(ニシカゼ)が強烈に吹き荒れることが度々ある。集落が奥まったところにあることに納得させられる。茅葺きの家や穴屋(アナヤー)は冬場の風や吹き上げてくる波には持たないであろうと思い巡らせながら通っている。そこに住む人々がどう書き留めているのか。明治の笹森儀助や上杉県令の山原踏査の記録をみているが、地元の人の体験をみることに。今日の通勤は、以下の文章を思いかべながらの通勤。さて、出かけるか。
・交通通信(『根路銘誌』より)
山原ぬ旅や哀りどや至極
見る方やねらん海と山と
名護や山原ぬいちはてがやゆら
なまで名護船のあてやねらん
交通が不便困難で山原は遠隔僻遠の地であった。 古老から聞いた明治の那覇旅の実状は、那覇旅に出る時着替えや往復の食糧等重い荷物を担いで村を出た。義仁崎は緑岩石が切り立った断涯の下は大石が敷かれ波が洗っていた。海が荒れると波の打ち寄せる合い間を駈足で渡るか親川トンギシの上を登って安根に下りた。塩屋港は渡し船があった。
津波城は山道を登り平南に下り、平南川の川下を着物を端折って渡り、村境は又山に登り海岸に出、これから源河まで道無く浜を歩いた。那覇まで二日の日程で途中間切宿村宿に帰る時の食糧を預けて歩き続けた。明治二十九年迄は道らしい道はなかったと言う。道がなく山道を登り下りしたり、浜を歩いたり、橋がなく着物を抱いて川を渡ったり大変な苦労であった。では道路はどのように建設整備されたか列記しましょう。
・道路の整備状況
大正四年から郡内各村組合費で道路の整備が計画され実施された。大正六年那覇名護間乗合自動車が走った。大正八年仲の前からかんり門田を通って前新門の前へ更に墓地を通って大宜味岬へ郡道が開通し、大川に木の橋がかけられた。大正九年には大国トンネルが完成し大正十年辺土名まで郡道が開通した。名護にある大宜味宿廃置さる。大正十年から自転車が走った。昭和三年から塩屋、辺土名間リヤカー(三輪者)が運行しお客を運んだ。昭和八年県道に編入になりかんり門田の木橋は鉄筋コンクリート建になった。これより先、昭和四年源河渡野喜屋間の郡道完成し渡野喜屋まで乗合自動車(バス)が通うようになった。昭和八年大保廻り辺土名まで郡道完成昭和十年より乗合自動車が通るようになった。
戦後昭和二十二年民政府経営の公営バス開通。昭和二十五年公営バス廃止、沖縄、協同の二バス会社発足す。昭和三十七年(一九六二年)海岸線に沿って国道一号線が完成。昭和三十八年六月五日塩屋大橋落成(長さ三〇七米、幅八米)。昭和四十七年(一九七二年)日本復帰国道一号線は国道五十八号線と名称が変った。現在(1975年頃)
海辺へ拡張五十八号線改修工事が行われている。
2017年7月18日(火)
大宜味村内の字(アザ)を二つのテーマで踏査する。その一つを紹介。大宜味村内の屋号にハンジャヤー(鍛冶屋:カンジャヤー)が見られる。ハンジャヤーでは木炭を使う。その木炭をつくる窯跡がある。墨をつくるのにハンジャーヤーで使う炭と一般的に使う炭のつくり方は異なっているようだ。鍛冶屋跡は、今でものこり拝所になっている。鍛冶屋をしていた家に鍛冶を描いた図像が飾られている。鍛冶屋についての詳細は後で述べることに。もう一つは大宜味の歴史の柱となるもの。根謝銘(謝名城)→田港→平良(東村)→川田へ。
十一月七日
フーキ祝
・鞴祭
・生産(農業)に対する感謝と火の用心の御願。鍛治屋だけでなく農家も祝った
炭焼きについて長文である。今では聞き取りできないことなので、炭焼きの全文を掲載することに。その文章が頭にあったので、鍛冶屋跡地と炭焼き窯跡へ。
【炭焼き(タンヤキ)】 (喜如嘉)
喜如嘉での木炭焼きは現在七十三才(昭和40年頃)になる仲村(屋号)のおじいさんが大正の初期、前田房吉という炭焼き専門家より習い覚えてやりはじめたものだとう。それまでは、板敷屋(イザジキヤー)(屋号)のおじいさんがハンザーヤー(かじや)で用いられる松炭(マツズミ)や一般の家庭の冬地炉(ジール)で燃やすウスズミをつくっていた。松炭の作り方は松の多くある山にて地面に穴を掘り、その中に枯れ葉(アクタという)や枯れ枝(ウズラという)を入れ、その上に松の丸太を組んで積み上げてゆく。
その上を柴(青竹やススキ)で被い、さらに土をぬり固めて密ぺいする。
穴の入口より火を入れて蒸し焼の状態にする。粘土が焼け落ちると又むり固める。ウスーズミも同様に焼き方は似ており、只雑木を炭の原木とするのみである。松炭やウスーズミは木炭のように完全に炭化されてなく、生木の色が薄く残った程度に焼かれたものである。かじやは強い火力を必要とするので、必ず松の原木で炭を作らねばならなかったし一般の家庭では冬の暖をとるのに、地炉でウスーズミを焼やしたり、マキを焼やしたりするのである。沖縄本島南部の都区地区に於ける、現在の木炭のごときものの需要により、喜如嘉でも炭焼きを業とするものが出てきたのである。戦前は仲村(屋号)と木の下(屋号)の二人の者が行なっていた。
戦後も中断されたことはあるが、現在でもまだ行なわれている。現在は暖房器具の普及により尻すぼみ状態となっている。
仲村のおじいさんは喜如嘉の山に炭焼き窯を十二ケ所持っていて、原木の都合上交互に窯を利用していた。全部の窯を焼くと二〇〇俵前後の木炭が焼き出されたという。ひとつの窯からは三〇斤(サジチャ)の木炭であれば、一回焼くのに二〇俵前後とれたという。百俵の木炭を焼くのにはたいてい一ヶ月間位かかり、三、四回窯を焼かねばならなかった。という。炭焼きを初めたころの俵(ターラ)はコブー(小さな俵)が正味三〇斤でオオブー(大きな俵)が正味五〇斤であったという。木炭に利用される原木には木の材質により上、中、下と区分けされ、テーチや樫の木は上質とされ、原木を焼くと二十五%程は木炭となるが、アサグルは二〇%以下しかとれぬので悪い木であるとされている。それ以外の木々はほぼ中位である。
たいてい原木百斤からは一俵分の木炭が焼き出されるという。炭焼きの仕事で時間と労力を必要とするのは、原木の伐採及その運搬と炭を山から担いでおろすときである。原木の運搬と伐採は窯の持主自身が一人でする場合もあったが、炭焼きがひんぱんに行なわれた時などは一人では間に合わせる事ができず、労賃を支払って人を頼んでやっていた。労賃としては一日当り、当時のお金で五〇銭位で雇ったり、一窯分の原木を五、六円で請け負わせたりする。青年の丈夫な男は原木を百斤も担いで窯まで選んでいたという。焼き上った木炭を運ぶのはもっぱら女性の仕事で図のように、俵につめて運ぶ。運ぶときには俵を載せる為の棒を組み合わせた運搬具を用いて背負い、背後より帯を通して俵全体を持ら上げるがごとくに額で支える。運賃は距離によって異るが、一里位の道のりは一俵につき十五銭であった。たいていの女性は一回につき二、三俵運び、一日に二回程度の回数往復していたという。
木炭の焼ける度合は風向きによっても異なり、窯の入口の方から風が吹いてくると普通よりは一日早く焼けるが、反対に煙突の上方から風が吹きおろしてくると一日遅れるという。又窯の大きさによっても焼ける時間が異り、小さな窯ほど早く焼け、大きな窯の場合には一週間以上焼き続けねばならない。原木の丸太は五、六尺に切りそろえ、窯の奥の方より順序よく立てて並べてゆく。大きな窯には六尺余りもある長い原木も入れて焼くことができる。窯に原木を入れるときには窯の奥の火のめぐりが悪いところには細いのを入れ、火のめぐりの良い入口には、大きなものから入れて焼く。窯の入口の原木の燃える火のことを前口火(メーグチビー)といい、その燃える火力で奥の細木は焼けるものである。窯の中に立ててある原木の上のすき間には一尺余りの短い原木を入れる。さらに枯れ葉や枯れ枝をかぶせて、それに火を点火して、他の原木に燃え移させる。点火は窯の上の点火口から行ない、点火が済み火が窯中に行き渡るとその穴を閉じる。
それとともに地面に接した窯の入口には石を積み上げ閉じて、さらに粘土を塗り、空気穴だけを残しておく。地面に接している原木は火のめぐりが悪い為炭化せず、その部分は各家庭が冬の地炉で燃やす燃料として使用される。その炭のことをタンガシラ(炭ガラの意)といっている。木炭の焼け具合を知るには、粘土で塗り固めてある窯の焼け具合を見て知る事ができるそうである。
▲根路銘の上原にある炭焼き窯跡 ▲塩屋の鍛冶屋跡の祠
2017年7月17日(月)
日よけの軒づくりをしながら、日射病にならないように休み休み庭の草木とにらめっこ。寡黙に。二日もかかった軒づくり。あまりの日射しの強さと暑さをさけ、休憩の時間が多い。(ナガサキアゲハ、ベニモンアゲハかも) やはり、山原の土くささと風土や文化が漂うのがいいのだが。

▲竹垣に野蒲萄が巻き付いている ▲野蒲萄が実をつける ▲草花に二羽の蝶が舞っている

▲来年はオウゴマダラが舞っているかも(ホウライカガミ根づく)。 ▲二、三日ごとにパッションフルーツ拾い

▲裏口の軒はほぼ完成! ▲駐車場にも緑が・・・ ▲ガラス窓の入日よけは成功!
2017年7月15日(土)
昨日は「大宜味村の史料紹介」、これから「大宜味の歴史」を組み立ていく手がかりとなる大胆な提案をする。それらの史料が何かの議論もあるが、その頃の大宜味の様子を描いてみる。例えば「印部石」(原石)を挙げてみたが、現在の小字とどうつながっているのか。
「ユ あさか原」があるが、そのころは平南村があり、現在の津波と合併している。「む かうち原」(喜如嘉)があるが、現在の小字にはないが、小地名に残っているなど、「ゑ こすく原」があるが、城村(現在の謝名城)の地にあった。根謝銘(ウイ)グスクは城原にあり、印部石に「こすく原」が二基確認されており、グスクに因んだ原名とみられる。根謝銘グスクとされるが城グスクとみられる。確認されている印部石の原が現在の小字にないのは「かうち原」のみであるが、近世文書(根路銘村の仕明帳:嘉慶六年)にある「はさ満原・川之西原・川之南見原」の原名が現在の小字に見られない小字が散見する。元文検地以降、原の組み替えや統合がなされていることがうかがえる。
そんなことは忘れて、三連休で頭を休め、これから寡黙に過ごします。


2017年7月13日(木)
これまで大宜味村での史料調査と関わってきた。それらの史料の紹介をする(一部)。史料編纂室では、村史の編纂を行っているが、その間、人や史料との出会いがある。ここに紹介する多くは1673年に大宜味間切が創設された後の史料である。そこにも国頭間切時代の痕跡をのこしているのがありそう。
それらのキ-ワードを特定していくには、まずは大宜味村の時代区分を試みる必要がありそう。それができると大宜味の姿が描けそう。明日の会議で紹介する史料は、大宜味村史編纂室が作成、撮影したのを提供いただいたものである。二枚の大宜味間切謝名城村全図と田嘉里村全図を出したのは、根謝銘(ウイ)グスクと関わる六つの村だからである。道筋やグスクが機能していた頃の港は。あるいは国頭按司や一族が住んでいた1500年代(各地の按司が首里へ移居)までの時代。
1471年「琉球国之図」の国頭城についての検討、屋嘉比のろ家の遺品はおもろさうしに謡われた「やかびのろ」(おやのろ)についての検討。などなど。ごくろうさん。感謝。




2017年7月11日(火)
大宜味村史編纂室の史料調査(屋嘉比のろ殿内:大城家)の史料の中に「巳年?大宜味間切屋嘉比村切支丹宗門改帳」がある。同様な「本琉球内大宜味間切城村人数改帳」(天保二年)が大宜味村史(資料編)で紹介されている。二つの宗門改帳の性格が異なるようである。
前者の屋嘉比村の切支丹宗門改帳は同村の生子の届け出のみである。ところが、隣の城村のは歳32の者、歳19の者、死人などの届けがなされている。それは宗門改の様相を呈している。前者の屋嘉比村のみの人々、後者は城ノロ管轄の村も含んでいる。いくつか興味深いことが見えてくる。(そのことは・・・工事中)
【異国風に見えるキリシタン帳】(『琉球百話』島袋源一郎著 初版昭和16年)所収
命題ばかり見たら如何にも異国情緒的なキリスト降誕祝でもあるからのやうな感じのする年中行事である。之は藩政時代
からの古いしきたりで、只単にキリシタン又はキリシタンチョウとも称へ、今では殆ど其の跡を絶ってしまったが、因習という
ものは根強いもので島尻本島の喜屋武、豊見城や、国頭郡久志村字久志・�仝瀬嵩・大宜味田嘉里其の他の僻地の一部に
は今でも残っている。
此の行事は前年の旧暦十一月以後に出生した男女の子供を字事務所に伴いゆき、酒肴を整えて字の親方を招いてふるまい
をなし、而して生児の前途を祝福する祝いで、今日では赤児は伴わない。之は一種の「戸籍改め」なので、往時の戸口調査即
ち今日の国勢調査に当たるもので、前年の調査以後に出生した赤児を村事務所へつれて行って初めて戸籍に記帳させるとい
った意味のものである。然らばどうして之にキリシタン帳などという名が付いていたか?は、もう大抵何人も想像がつくであろう。
(続く 追加あり)



▲「巳年大宜味間切屋嘉比村切支丹人数改帳」(大宜味村史編纂室)
2017年7月9日(日)
大宜味村謝名城に根差部親方にまつわる話がある。明治36年に根謝銘村と城村、一名代村が合併して謝名城となる。その話は根謝銘村に伝わる話で、『遺老説伝』(『球陽外巻』)に収録さている話である。根差部親方が根謝銘村に都落ちした話は歴史上の出来事、人物か!そこには衣服や脇差などの遺品が遺っている。伝承や民俗遺跡の分布図を作成中。
根差部親方は、謝名城の按司墓に葬られているという。根神屋の近くに根差部親方の祠があり、図像(平良泉幸氏画)や衣装がはいた箱が置かれている。(以前脇差しと櫛を拝見したことがある)。旧六月には神衣装が虫干しされるという。脇差しや櫛などの遺品は按司墓に? 按司墓は国頭按司の時代、出来事も国頭按司の時代。下の文面からすると根差部親方の墓は別にあるようだ(確認のこと)。

▲根差部親方の祠の内部 ▲根差部親方を祀ってある祠 ▲按司墓は国頭按司が葬られた墓?
【根差部親方の忠誠】
尚清王の代(1537年)大島頭役の一人与湾大親(馬氏与那原などの祖先)が友僚のため讒訴された。大島は遠海の地であり交通も不便であるから、その実否を正すに由なく国王は時の方司官、根差部親方に命じてこれを討たしめた。(1609年慶長の役前までは大島は琉球の属島)
根差部は王命を奉じ直ちに往って、これを討伐し勝利を凱旋した。大島の人民等は「根差部がやたらに良民を惨殺したために、島民怨嗟の声が高い」と王府へ訴えた。王は大いに怒って「罪ある者はこれを訊し、罪なき島民をこれをなし撫順するのが自分の方針でありのに、お前はどうして自分の命に従わず、ほしいまゝに百姓を殺したか」といって遂に根差部の官位を剥いだ。
根差部は命を受けて少しも恨む色なく、只衣冠を着けることだけはお許しを蒙り、国頭間切へ隠退すべく浦添城の前を通過する時、首里城へ出仕する一役人と会った。役人は根差部の冠が後の方へ向けているのを見、怪しんでその訳を聞くと、根差部がいうには、「私は罪に服して遠方へ隠退していく途中である。然るに自分は士籍から身を起こし法司官まで昇り俸禄を頂戴して父母妻子を養育することが出来た此の洪恩誠に報い尽すことは出来ぬ。よって自分の戴いている冠を王城に向けて主恩を拝謝する志を忘れないためである」と。
役人その言を聞いて大いに感動し、直ちに首里城に行って王様にこの事を申上げた。王、その忠誠に感じ根差部の罪を許して国頭間切首里大屋子兼座安親方に任じたという。その墓は大宜味国頭の境にあって子孫の人々が礼拝している。(遺老説伝:『沖縄善行美談』島袋源一郎著所収)
寡黙庵は朝夕散水。パッションフルーツやパパイヤの収穫あり。

2017年7月8日(土)
これまでノロ関係についての調査を続けている。中間報告はなんどかおこなってきた。そこらあたりで一まとめにしておきたい。のろ関係調査メモ
ムラ・シマ講座はデジカメを忘れ、後に報告します。
2017年7月6日(木)
夕方、本部町浜元集落内に立ち寄る。講座のレジメの内容確認のため。それと場所名や地名などの確認、頭の切替えのため。

2017年7月5日(水)
仕事場を離れ、根謝銘(ウイ)グスクを踏査へ。グスクをグスクの築城、三山(北山)の時代、北山滅亡後の根謝銘(ウイ)グスク、各地の按司が首里に集居させられた後の根謝銘(ウイ)グスクと国頭按司、1673年に国頭間切は田港間切(18世紀初期、大宜味間切と改称)と分割。そのような歴史の変遷を想定しながら、各時代を描くキーワードを見つけ出すことができればと思いつつ。(工事中)
・根謝銘(ウイ)グスク踏査。グスクを構成している要素から。
・グスクが機能していた時代の屋嘉比川(田嘉里川)
・根謝銘(ウイ)グスクのウタキ(イベ)と関わる村々(屋嘉比ノロ管轄村、城ノロ管轄ムラ)
・グスクが機能していた頃の港は屋嘉比村あたりか(地名に名残りが)
・按司墓→伝承による大宜味按司の墓。(1673年以前は国頭按司)
・惣地頭火神→間切分割以前であれば国頭按司、後であれば大宜味按司
(1673年の間切分割で領有する按司が変わる)
(屋嘉比・親田・美里の村がしばらく国頭間切の内)(『琉球国由記』(1713年頃)
・グスクの遠景。
・根謝銘集落側から/田嘉里川下流から/喜如嘉集落から/田嘉里(親田)から
/屋嘉比から/上空から
・グスクからの眺望
・喜如嘉の集落、かつての水田地帯
・グスクから今帰仁グスク方面
・田港(山手)方面(1673年田港間切、番所を田港においた理由)
・根謝銘集落
・城集落
・グスクへの道筋(城ノロ殿内(側の香炉)→(ウドゥン跡地)→親田への下り道(根湧泉)
→印部石→ウドゥン・トゥンチニーズ→坂道→ナハマー(仲庭)→石段→ビジュル→道筋
→石段→神アサギ→ウドゥイマー
・中御嶽(イビ)→惣地頭火神の祠→夫婦ガー→按司墓(首里?今帰仁ぐすく?)
※1673年以前は国頭按司の領地
・ウイグスク泉(ハー)→グスクの上のテラス(頂上部)→掘切
・大城御嶽(イベ)→古墓跡(今回は未調査)→田嘉里公民館(側通り)
・アザナ(アザナからの眺望)、田嘉里川河口
・ガナハナ御嶽(親田村と根謝銘村の御嶽)
・根神屋
・村墓
・サバ焼遺跡
・国頭間切の安田の辞令(1587年)の頃は大宜味も国頭間切の内。
・屋嘉比ノロが謡われ「おもろ」の頃は国頭間切
三山が統一された後、また第二尚氏王統になってからの辞令書であるが、ここに掲げ国の地域支配について考えてみたいと思う。難解な文面なのですぐにとはいかないがゆっくり考えてみる。とりあえず、二つの辞令書を前文掲載しておこう。『沖縄県国頭郡志』(大正8年)に掲載されたものを『辞令書等古文書調査報告書』(沖縄県教育委員会)(昭和53年度)に形を整えて掲げられている(「沖縄諸島逸在辞令書」)、当時の大宜味域をみる手がかりとなりそう。つまり1673年以前は、国頭按司は首里に移り住んでいるが、国頭間切(大宜味を含む)の動きが見えてきそう。1673年以降は大宜味按司の動きから。
〔国頭間切の安田里主所安堵辞令書〕(1587年)
しよりの御み事
くにかみまきりの
あたのさとぬし〔ところ〕
この内に四十八つか〔た〕は
みかないのくち
御ゆるしめされ候
一人あたの大や〔こ〕に
たまわり申〔候〕
しよりよりあたの大や〔こ〕か方へまいる
万暦十五年二月十二日
〔国頭間切の安田よんたものさ掟知行安堵辞令書〕(1587年)
しよりの御み事
くにかみまきりの
あたのしろいまち
この内に十四つか〔た〕は
みかないのくち
御ゆるしめされ候
〔脱けた部分あり〕
このふんのおやみかない〔ハ〕
〔脱けた部分あり〕
のろさとぬしおきてかないとも〔ニ〕
御ゆるしめされ候
此ちもどは三かりやたにて候へども
万暦十四年に二かりやたなり申〔候〕
□□□にいろいろのみかないの三分一は
おゆるしめされ候
一人よんたもさおきてに
たまわり申〔候〕
しよりよりよんたもさおきての方へまいる
万暦十五年二月十二日

▲グスク内の地頭火神は国頭按司の火神か ▲按司墓の整備は1700年代以後、伝承の大宜味按司の墓?

▲ウドゥンニーズとトゥンチニーは国頭御殿、殿内の火神の祠か ▲今帰仁グスク方面を望むことができる
大宜味御殿は根路銘にある。
2017年7月4日(火)
今日はこれから寡黙庵へ、台風の余波で落下したパッションフルーツを拾いに。午後から恩納村史編集委員会へ。山原の歴史、特に北山の時代の国頭地方の拠点となった国頭城(根謝銘城・ウイグスク)ついて、集中してみる
(
2010年の講義レジメの「北山の歴史」:ついでに「久米島」)を参照。
昨日出勤
(出勤と記すには恥ずかしいですが)途中、昼食を買うコンビニで声をかけられる。質問されたり、質問したりの方。根謝銘(ウイ)グスクや隣接する田嘉里と謝名城について教えを請うことに。
国指定になった大宜味村の旧役場の中で寡黙にコーヒーを飲んでいると根路銘の方が「村史」のことで訪れてきた。職員とのやりとりの合間に、私の方から何点か質問。体験された方の足が地についた回答にはいつも頭がさがる。
最近、ある弁護士の方から、明治末期の農村の人々の生活について、他に三、四点の質問があり、戦後生まれの私が具体的に答えるのに窮していた。以下の項目に目を通しているところであった。一部紹介することに。根路銘のT氏の生活体験や先人達の記録をダブらせながら。『大宜味村史(民俗編)』に収録される具体例の一部である。
(燈火)
イ、旧藩時代はジュフアタで薪を燃して室を明るくした。必要によって種油、松のトゥブシ
(松やにが固って火をともすに使う)を燃す。
口、明治十七年石油ランプが入った。始めはブリキ製の丸心の裸ランプであった。石油
のことをシチタン、又はシータンと言った。やがてガラス板をはめた角ランプが来た。
大正の中頃からホヤランプが現れた。
ハ、夜道を歩く時は、竹やススキの束、松明を燃やしたり、燃えた薪を振って先を明るくし
たり、角ランプが出てからは角ランプを持って提ちんのある家は提ちんをもって歩いた。
(食生活 )
①戦前の芋食から米パン牛乳になり。
②折目節目にしか食べられなかった豚肉、魚、卵が毎日食べられる。
③脂肪も豚油から動植物バターなんでもある。
④野菜果物も世界中のものが食べられる。
⑤昔、塩漬乾食が缶詰冷凍としていつまでも保存できる。
⑥川、井戸から汲んだ水は蛇口を聞ければジャッと出る。
⑦薪や木炭は、石油、
瓦斯ガス)電気と変る。
⑧団扇が扇風機、クーラーに変る。
⑨火鉢は電気炬燵その他に変る。
⑩昔のフクチチ台所は食堂流し台と変る。
(住について)
・家造りの移り変わり
・1737年(元文2年)の家屋制限
イ、平民は瓦葺禁止、石垣も禁止
口、間切村役人は貫屋茅葺許可 母屋(四間に三間)台所(三間に二間)
ハ、地人(位のない人)の家は穴屋(掘立小屋)
二、禁止木の使用禁止(カシ、イク、樟、イヌマキ、松等)
・家敷の制限
イ、平民は百坪以内、普通六、七〇坪
口、配分法は村で配分標準(一戸の坪敷)を決め、坪敷に過不足ある時は地割地から
増減して平衝を保つ。
ハ、屋敷は石垣禁止 生垣をつくる。生垣は福木、いすの木、ゲッキツ、フチマ木、苦竹等
最後に「その他限りがない。 この食生活の戦前戦後の違いを戦後生れの子供達には想像もつかないことだと思う。いつか民話になってしまうのだろうか」と締めの「ことば」としてある。
2017年7月3日(月)
運天港を訪れる。平成22年(2010)メモから運天の歴史の一面を・・・。さて、
平成22年7月28日メモから
1816年に運天港(村)訪れたバジル・ホールの『朝鮮・琉球航海記』(197~198頁)(岩波文庫)を手掛かりに、運天(港)や周辺の様子を浮き上がらすことができないか。下にその様子を記した文章を掲げ、200年近くたった今、どのようになっているのか、いくつか拾ってみる作業をしてみた。19世紀初頭、運天(港)周辺の外国人がみた様子を画像でたどってみた。1816年の運天の風景が、今の運天にどれだけ見つけることができるか。
【バジル・ホールがみた運天(港)】【1816年10月11日】
「この村は、これまで琉球で見たどの村よりも整然としていた。道路は整ってきれいに掃き清められ、どの家も、壁や戸口の前の目隠しの仕切りは、キビの茎を編んだこざっぱりとしたものであった。
垣のなかには芭蕉や、その他の木々がびっしりと繁茂して、建物を日の光から完全にさえぎっていた。
浜に面したところには数軒の大きな家があって、多くの人々が坐って書き物をしていたが、われわれが入っていくと、茶と菓子でもてなしてくれた上、これ以後、自由に村へ出入りすることさえ認めてくれたのである。
この人々は、ライラ号が港に入るつもりがあるのかどうか、もし入港するなら、何日くらい滞在するのかを知りたがった。われわれはそれに対して、入港するつもりはない、と答えたのだが、だからといって喜びもしなければ残念がるわけでもなかった。
村の正面に平行して30フィート(9m)の幅をもつすばらしい並木道があった。両側からさし出た木々の枝は重なりあって、歩行者をうまく日射しから守っている。そこに木のベンチが置かれ、木のそばには石の腰掛けをしつらえた場所もいくつかある。全長約四分の一マイル(400m)ほどのこの空間は、おそらく公共の遊歩場なのだろう。
半円形をなす丘陵は、村を抱きかかえるとともに、その境界を示しているようであった。丘陵の大部分がけわしいが、とくに丘が港に落ち込む北端の岬では、80フィート(24m)のオーバーハングとなっている。崖の上部は、基部にくらべてきわだって広い。地面から急斜面を8~10フィート(2、3m)上がった位置に、堅い岩をうがって水平に回廊が切り開かれ、壁にむかっていくつもの小さい四角い穴が深く掘り込んであった。ここに死者の骨を入れた壷を収めるのである。
この断崖のふちからは木や蔓草が垂れ下り、下から生えている木々の梢とからみあって日除けを形づくり、回廊に深い陰影をなげかけている。しんと静まりかえった荘重な雰囲気である。
だが一見したところ、ここは墓地本来の目的である墓碑や碑銘などの役割を示すものが何もないのは意外である。たまたま樹木や灌木の茂みの間に一本の道のようなものがあるのに気がついたわれわれは、その先に何があるのかつきとめようと、藪の間をぬって続いている小道をたどりはじめた。木や草は旺盛な生命力を示し、この日経験したさまざまの興味ある出来事によってわれわれの気分もまた高揚していたのだった。だがわれわれは突然、予想もしなかった死者たちの場所の神聖かつ陰惨な光景に行きあたってしまったのである。一行の陽気な気分は一瞬のうちにふきとんでしまった。
この村は運天Oontingという名前である。那覇の首長たちが口にし、われわれがWinchingあるいはOonchingと記録したのと同じ土地であろう。
われわれが発見したこのすばらしい港は、海軍大臣メルヴィル子爵を記念して、メルヴィル港と名付けられることになった。
※「公共の遊歩場」は運天番所の前の馬場後と見られる。「咸豊七年丁丑『御首尾扣帳』(今帰仁間切番所所蔵と
宮城真治民俗調査ノートにある)に、「三月三日、五月四日は番所の前、アブシバラヒは仲原馬場、八月十一日
親泊馬場に馬揃仕、役々中相揃、酒二合、七寸重壱次自参、見物仕申候」とあり、三月三日と五月四日に番所の
前で馬を揃えて重箱を持参して見物している。その様子から運天番所前に馬場があったことがしれる。
「咸豊七年丁丑」は1857年である。
「死者たちの場所」は、明治21年頃に修復する前の百按司墓のことであろう。

▲明治末の運天港の様子(『望郷沖縄』所収より)

▲昭和35年頃の運天港 ▲崖中腹にある墓

▲「いくつもの四角い穴」はこれか? ▲「公共の遊歩場」は番所前の馬場のこと?
2017年7月1日(土)
明日は、今帰仁村内の津屋口墓(アカン墓)、赤墓(諸志)、池城墓、運天の百按司墓、大北墓の案内がある。バスを利用するので下見をする。それと、それぞれの墓について。さらに「運天の歴史」について。運天は北山の歴史をひもといていく三本柱の一本である(北山の歴史・運天の歴史・ムラ・シマの歴史)。以下のことを呼び起こすための踏査である。
津屋口墓(2004.5.1メモ)
麓の今泊集落の東側にある津屋口墓まで行ってみた。この墓は今帰仁按司三世和賢(宗真)が葬られている。墓の前の石の香炉に「大正元年壬子」、中央部に「奉」、左側に「本部村字浦崎 仲宗根門中 嘉数□五郎 寄進」とある。明治45年4月(7月30日大正元年)島袋源一郎は今帰仁村運天にある大北墓の修理の際、大北墓の内部を調査している。津屋口墓の香炉の寄進は大正元年とあり、それからすると大正元年の香炉の寄進は大北墓の修理に伴い、同族の一人である三世和賢の墓も修復もしくは香炉の寄進をしたにちがいない。
墓の庭(ミャー)に「墳墓記」と刻まれた碑が立っている。碑の建立は「大清康煕十七年戊午仲秋二十二日」(1678年)である。碑文にある「万暦辛卯」(1591年)は宗真(今帰仁按司三世和賢)の没年である。その時に墓を作ったけれど歳月が経って風雨で壊れたので87年後の1678年に修築し「墳墓記」を建立したのであろう。「墳墓記」の文面の解読は今のところ困難なり。

赤 墓(2006年10月30日)メモ
「赤墓」についての問合せが続いている。この墓が何故赤墓なのか?という質問。結論が出ているわけではないが、一つは墓の外面が赤い漆喰で塗られていたことに由来する(ほとんど漆喰は剥げ落ちている。よく見ると、赤っぽい漆喰が残っている。近くの墓を見ると赤っぽい漆喰が塗られた墓がいくつかみられる)。もう二つ目の理由は、上間大親親子は尚円王や尚真王と親族関係にある人物であること。高貴な人物なので首里城で使われている赤色を重んじて上間大親の墓を赤墓と名づけたのかもしれない。三つ目に墓室に朱色の石棺があったからだと聞いているが未確認。墓室に朱色の石棺があるのであれば、それも理由の一つになるのだが・・・。
この墓に葬られている人物は、銘があるので乾隆55(1790)年からである。それ以前の人物(上間大親)が葬られている可能性はあるが、上間大親親子が尚真王を助けたのは1500年頃である。赤墓には290年後の人物達が葬られているのである。
それとは別に、尚真王を助けた褒美として惣地頭職を授け首里に住まいを移させようとするが上間大親はそれを断り、上間地頭を賜り上間村に住むことにした。その伝承を持っている上間家である(『球陽』にも登場する)。赤墓は上間家が管理し赤墓の庭にコンクリートの碑を建立している(昭和5年)。
赤墓は光緒元(明治7)年に開けた記録が残っている。当時から「赤墓」の名で呼ばれている。墓室の記録に赤い石棺があったかどうか触れていないのは残念である。二枚の板があるが痛んで字面が判読しにくかったようで見分の通り書き抜いて置くとあり、判読した「・・正 七 五撰 西平親 浩 今帰仁親 付奉行 」などの文字が記されている。(全文を読みおこしてみると、赤墓についてもう少わかるかもしれない)。

池城墓(イチグスク墓)
百按司墓
①今帰仁村運天の百按司墓(2004.6.19メモ)
今日は百按司墓についてのまとめる。これまで何回か書いてきたが、今回はこれまで使ってきた資料を含めて、書き改めることにする。近年注目集めているのは漆塗りの木棺としては古いということがある。歴史はもちろんのこと、葬制や漆工芸や金細工などの視点からも関心が深い。
とり急ぎ、百按司墓や関連する資料から読み取れる1500年頃、あるいは前後する時代について描いてみる(詳細については別稿で紹介する予定)。百按司墓にあった木館は保存処置がなされ歴史文化センターに展示・保存されている(画像下)。
②今帰仁村運天の百按司墓(2004.6.20)(メモ)
昨日に続いて百按司墓のまとめをする。東恩納寛惇は『南島風土記』(393~4頁:昭和24年発行)で百按司墓について参考にすべき興味深いことを述べている。
運天港に面する丘陵の中腹崖下に石墻を廻らし、その中に白骨累々堆をなし、
俗にこれを「ももぢゃな」と呼び、百按司墓に作ってある。「ぢゃな」は「ちゃら」と
も呼び、按司と同義、「もろもろのあんじ」を「ももちゃら」と称する事は稱する事は
「おもろ」に用例が多い。「ももぢゃな」は「ももちゃら」の轉である。
この墓の由来に関しては或は慶長薩摩入の時の彼我戦没者の遺骨とも謂はれ
てゐるが、球陽の傳へるところに依ると、尚徳の遺臣等を葬ったものとされ、墓内に
木龕数個あって皆「巴字金紋」を銘し、その内一個稍新しきものに、「弘治十三年九
月某日」と記されてゐると見えている。
この木棺は明治三十八年に中故島袋源一郎氏が採集し首里博物館に陳列した
が木製唐櫃様四脚又は六脚、屋根は破風造、その壁の破片に巴字金紋の痕も明
瞭に見え、又壁側に「弘治十三年九月、えさしきやのあし」の銘文も読まれる。「え
さしきや」は羽地村伊差川の事で、おもろに「ゑざしか」とあるのがそれである。
その他に墓の様式や合葬や木棺の形式などについても述べている。東恩納寛惇は「百按司墓」については島袋源一郎の『沖縄県国頭郡志』を参照したり、島袋と交友があり、戦前の首里城の博物館に収集した木棺や巴紋の拓本などの資料を提供する関係にある。
島袋源一郎も百按司墓に関わる資料の提供者でもあるので、『沖縄県国頭郡志』(大正8年発行)も掲載しておく。
下運天の背後は地勢急峻にして崖壁之を囲繞せり。百按司墓は即ち其山腹の雑木
蒼鬱たる中にあり。岩窟に石垣を廻らし容易に見得べからず。垣を攀ぢて中を窺ううに
木龕及鎧櫃の如き朽篋数個ありて白骨累々として堆積せり。而して壁側に「弘治十三
年九月某日」及び「えさしきやのあし(伊佐川の按司ならん)」の墨痕を認め得べし。
百按司墓の語義について「ももは百即ちもろもろの意、ぢゃなはぢゃらの転訛にして古語按司の義なり」と解説している。さらに『混効験集』に「ももぢゃらは諸按司といふこと。女の時はをなぢゃらと申す」と見えたりと。

▲戦前首里博物館に展示されていた木棺 ▲木棺にあった巴紋(拓本あり)
(『南島風土記』の口絵所収:東恩納寛惇)
③今帰仁村運天の百按司墓(2004.6.21)
百按司墓について述べる根拠としているのは、『中山世譜』の尚忠の条の「附紀」の記事である。『中山世譜』の編集は1697年から1701年にかけて編集されている。下の記事は『中山世鑑』(1650年編集)にないのでにないので『中山世譜』編集の時に追録されたのであろう。すると、1700年頃を前提として内容を見ていく必要がある。言い換えると1700年当時、知りえた百按司墓の情報をもって述べていると見ていい。『中山世譜』のこの「附紀」は1700年頃の百按司墓の調査記録とみることができる。(一つひとつの内容については、時間がないので追加する予定)
尚忠王。英明仁厚。深有作為。
永楽二十年壬寅。尚巴志王。恐山北恃固。而復有変。特命尚忠。監守山北。称
今帰仁王子。
後 尚忠踐祚。仍遵旧制。封子弟于今帰仁。世世監守。著為定規。
尚徳王失徳。覆宗絶祀。由是。監守貴族之徒。皆遁世而穏。即今。今帰仁間切。
下運天村。所謂百按司墓者。其貴族之墓也。
墓内枯骨甚多。又有骨龕数個。以木為之。修飾尤美。皆銘巴字金紋。而一個。稍
新者之壁。有字云。弘治十三年九月某日。以此考之。則其貴族。至于尚真王代。而
老盡焉。此其證也。
然人没世遠。墓?骨露。問之。則運天村人曰。裔孫巳絶。無有掃祭者。
④運天の百按司墓
百按司墓についての記事が『球陽』(巻之二)の尚忠王の条に「附紀」として『中山世譜』と同様なことが掲げてある。『球陽』の編纂は1743年~1745年にかけてである。『球陽』の百按司墓は『中山世譜』の記事を持ってきたのであるが、一部誤解を招くような書き方をしている。『中山世譜』で「監守貴族」とあるのが、『球陽』では「監守」を省き「貴族」としてある。そのため『球陽』の記事を手掛かりにして解している研究者は「尚徳王の貴族の墓」。『中山世譜』をベースに解すると「監守の貴族」、つまり第一(北山)「監守の貴族」ということになる。
二つの文献からすると、『中山世譜』では百按司墓に葬られているのは「監守貴族」と見ると、監守は山北(今帰仁)監守(今帰仁グスクで勤める)をさすので「第一監守の一族の墓」である。『球陽』の監守を省いた「貴族」とすると、文脈から尚徳王(首里城内)が滅ぼされ、第一尚氏尚徳王の一族(貴族)が隠遁し葬られた墓ということになる。
もちろん尚忠系統の監守も第一尚氏系統であるが、尚徳王の首里城で勤めた一族と、今帰仁グスクで監守を勤めた一族の墓とみるかで、百按司墓の木棺をはじめ墓の位置づけに大きな違いがでてくる。二つの文献の解釈においては『中山世譜』の記事をベースにして「山北監守の貴族の墓」だと解すべきだと考えている。(後で紹介するが別の内容の資料もある)。『球陽』の記事を掲げておく。
尚巴志王、山北城地ノ儉岨ヲ恃ンデ、復変乱アルヲ恐ル。特ニ次男尚忠ニ命シテ、
山北ヲ監守セシメ、今帰仁王子ト称ス。後、尚忠践祀ス。仍ホ旧制ニ遵ヒテ、子弟ヲ
封ス。是レニ由リ、今帰仁世々監守し、著シテ定規トナス。
尚徳王、驕傲奢侈ニシテ宗ヲ覆へし、祀ヲ絶ツ。是レニ由リ貴族ノ徒ミナ世ヲ遁レテ隠
ル。即チ今帰仁間切、下運天村ノ所謂百按司墓ハ、ソノ貴族ノ墓ナリ。墓内ニ枯骨甚ダ
多シ。又木龕数個アリ。以テ屍骨ヲ蔵ム。修飾尤モ美ナリ。皆巴ノ字ノ金紋ヲ銘ス。而シ
テ一個稍新ラシキ者ノ壁ニ字アツテ云フ。弘治十三年九月某日ト。此レヲ以テ之ヲ考フ
ニ、即チソノ貴族ハ、尚真王ノ代ニ至ツテ老尽セリ。此レ其ノ証ナラン。然レドモ人没シ世
遠クシテ、墓□シ骨露ハル。イマ人之レヲ問ヘハ、則チ運天村ノ人曰ク、裔孫已ニ絶ツ
テ、墓ヲ掃スル者アルコトナシト。
運天の歴史と大北墓(ウーニシバカ:按司墓))
運天港は沖縄県今帰仁村(なきじんそん)にある港です。12世紀初頭源為朝公が「運は天にあり」と漂着したことから名付けられたと伝承のある港です。為朝公がしばらく住んでいたという洞窟(テラガマ)があります。その森は運天と上運天の御嶽(ウタキ)となっていて、洞窟の中にイベがあります。また、「おもろ」で「うむてんつけて」と謡われています。
『海東諸国紀』(1471年)の「琉球国之図」で「要津 雲見」と記され、当時から広く知れわたっていたようです。1609年には薩摩軍の琉球侵攻の時の沖縄本島への足掛かりとなった場所です。運天港の出口に古宇利島があり、近世中頃(1730年以降)から今帰仁間切の地頭代のお抱えの島となります。古宇利島は運天港と対になる役割を果たしています。今帰仁間切が1666年に今帰仁間切を分割し、伊野波(本部)間切を創設した後、今帰仁間切の番所(明治30年頃から役場)が置かれます。
今帰仁グスクと関わった按司の墓と見られる百按司墓(ムムジャナハカ)や第二監守時代に今帰仁グスクで監守(今帰仁按司)や今帰仁アオリヤエ(三十三君の一人:女官)などが葬られた大北墓(ウーニシバカ)などがあります。大和人墓も二基あります。
近世末には1816年のバジル・ホール、1846年にフランスの艦船、ペリー艦隊の探検隊などが訪れています。また、1742年に奄美大島に漂着した唐(中国)船の乗組員を収容し、船の修理をした港です。そのような歴史的な出来事の痕跡を遺している港です。

【歴史を秘めた運天港】
運天港は沖縄本島北部の今帰仁村にある港である。運天港は古くから知られ、『海東諸国紀』(1471年)の「琉球国之図」に「雲見泊 要津」と記されている。「おもろさうし」で「うむてんつけて こみなと つけて」と謡われている。さらに古くは12世紀頃、源為朝公が嵐にあい「運は天にあり」と漂着したのが「運天」の名称になったという。その話は運天で終わることなく、為朝公は南に下り、南山の大里按司の妹を娶り、その子が瞬天王となり、浦添城の王(英祖王)になったという。為朝は妻子を連れて大和に帰ろうとするが、出て行こうとするたびに波風が立ち、とうとう一人で帰っていった。妻子が待ち焦がれた場所がマチナト(待港、今の牧港)だという。運天に為朝公が一時住んだというテラガマがあり、また「源為朝公上陸之跡碑」(大正11年)が建立されている。
北山・中山・南山の三山が鼎立していた時代の北山の居城は今帰仁グスクである。最大規模を誇る今帰仁グスクの北山王は明国と貢易をしている。その時の港は運天港だと見れる。今帰仁グスクの麓は親泊があるが、進貢船規模の大型船の出入りできるクチがない。大型船は運天港に着き、そこから小舟で親泊まで荷物を運搬したのであろう
運天港は1609年の薩摩藩(島津軍)の琉球侵攻の時、こほり(古宇利島)と運天港は船元になった場所である。70,80隻の船が古宇利島から運天港あたりに帆を下ろし休息をした。一部は羽地内海の奥まで散策したようである。一部は今帰仁グスクを攻め入り焼き討ちにしている。薩摩軍は、南下し首里城に攻め入り琉球国は征伐された。時の王は尚寧である。薩摩軍に捕虜として薩摩へ連れて行かれる途中、再び運天港を経由して薩摩へ向かった。
その後、運天港は薩摩へ運ぶ米(仕上世米)を積み出す港の一つとなる。仕上世(しのぼせ)米を積み出す四津口(那覇・湖辺底・勘定納・運天)の一つが運天港である。
運天には百按司墓があり、第一監守時代あるいはそれより古い時代の墓と見られる。今帰仁グスクで監守を勤めた今帰仁按司一族の墓が1722年頃、今帰仁グスクの麓のウツリタマイにあった按司墓を運天港に移葬している。1742年に大島から琉球の運天港に回送された唐船があった。修理する間、運天で40人余の唐人を収容した。その時、三司官を勤めていた蔡温も訪れ指揮を執っている。また、運天には大和人墓が二基あり、一基は屋久島の宮の浦の船乗りだったと見られる。もう一基は安政五年の年号があり、それも大和人の墓である。運天港が薩摩と琉球をつなぐ港として機能していたことがわかる。
1816年にはバジル・ホールが運天港を訪れている。当時の運天の様子を描いている。また1846年にはフランスの艦船が三隻運天港に一カ月程碇泊し、琉球国と条約を結ぼうとした。その間に二人の水夫が亡くなり、対岸にオランダ墓をつくり葬ってある。ペリーの一行も運天港を訪れている。その時、島津斉彬は運天に出島をつくりフランスと貿易をする構想があった。中国の冊封使が琉球にやってくると、大和船は運天港に着け、薩摩役人は浦添間切の城間村へ隠れ、琉球国が薩摩に支配されていないとカモフラージュする役割を果たしている。
運天港には今帰仁間切の番所が置かれ、行政の中心となった場所である。番所(役場)は大正5年まで運天にあったのを仲宗根に移動した。今帰仁の行政の中心は運天から仲宗根へと移った。また、かつての運天港は運天新港(浮田港)や古宇利大橋の開通でフェリーの発着場としての機能は失ってしまった。しかし、今帰仁廻り(神拝)で訪れる人々の姿が見られた。そこには琉球(沖縄)の秘められた歴史があり、肌で感じ取ることができる港である。


