寡黙庵 2017年5月       トップへ 
 
          (住所:沖縄県国頭郡今帰仁村謝名348番地)    
   
                       
 

               
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2017年5月24日(水)

 しばらくお休みです。

 早朝、麓からいつも見ている乙羽岳の展望台へ。竹垣が完了、今帰仁村謝名の大島(10数件)、太陽のあがる東方も確認。シマを離れた移民や出稼ぎの先人達の旅たちのときの思いに触れる。





2017年5月21日(

 納屋の取り壊し片付けまで終わりました。当分駐車場。竹垣でも。断続的に大雨がふり、途中まで。しばらく留守にするので、そのままです。屋内の整理も6月にはいてから。屋内の大半は女房の担当。終わっていますが、私の分はまだまだ。

 
            ▲を撤去              ▲竹垣を取り付け中、雨で半分

 


2017年5月20日(土)

 午後から大宜味村田嘉里へ。お招きもあるが、大宜味村史の民俗遺跡の聞き取りと田嘉里(親田村)ウタキであるガナハナウタキへの道筋(神道)の確認、それと田嘉里(屋嘉比)川と根謝銘(ウイ)グスクが機能していた時代の道筋、田嘉里(見里と親田)への道筋がスクミチと呼ばれ、公民館付近に番所跡だったという場所がある。そのようなことの調査。フィールドワークの調査の醍醐味を味わってきます。しばらく留守にするので、午前中、断髪をしてから。

 田嘉里は夕刻時からでしたが、早めに到着。まずは田嘉里川の下流から中流の屋嘉比川、さらに上流のトドロキウタキまで。屋嘉比川(橋)付近は城が機能していた時代の港ではないか。そこから城への道筋、グスクの頂上部の親田側の古墓、さらに親田村からガナファナ御嶽への道筋について。そこは、学校帰りの遊び場だときく。また親田の神人は、ウタキのイベまで行きウガン(祈り)をしていた。そこは見送りの場でもあったなど池原氏から伺う。

 「田嘉里山筆者会」の東京での報告会に招かれました。

  
   ▲屋嘉川橋付近            ▲田嘉里川の河口付近                  ▲ガナハナ御嶽

 
▲六合目あたりに左右に通り道があったようだ。 ▲公民館で東京での報告会(報告金城氏)


2017年5月18日(木)

 これから「北山の歴史―地域調査のおもしろさ―」での講義です。最近調査で発見したり、感動した史・資料の一部紹介します。どう、まとめていけるか、自分ながら楽しみだ! もう時間がありません、ではでは




 各地から来ている学生達なので大風呂敷を広げた話になりました。以前は15週でしたので地域を集中しての講義でしたので奄美の島々、久米島、宮古、渡名喜島、竹富町、与那国町などでした。自ずと大風呂敷を広げた中身となりました。このHPのどこかに公開(大学での講義の内容の一部を60回余)していますので探して参考にしてみてください。また、「沖縄の地域調査研究」や日々の調査記録などもこのHPを御覧くだされ。

  

2017年5月16日(火)

 梅雨にはいり、今日は一日中大雨。納屋の取り壊しが終わり、そこをどうしようかと、いろいろと考える。学生時代、院生時代の書物や資料は廃棄する。院生時代の数本の論文のみ取り上げてある。「寡黙庵」は復帰直前に父が建てた建物である。1975年復帰の年は、わたしは学生。パスポートで必要としていた頃である。車の免許は沖縄で取得(昭和44年)していたので、東京都で免許更新まで国際免許。復帰運動に参加していた頃は高校生時代。

 今回取り壊した納屋は、わたしが沖縄に帰った頃に建てたもの。二、三年そこから県内の大学へ通勤していました。平成元年までのものが納屋に積まれていました。そのすべてを廃棄。ちょうど復帰45年、当時のことと重ねながら・・・

 
  ▲さて、この空き地は何にしょうか?          ▲しばらく、思案するか。

 
    ▲室内の片付けがまだです。           ▲時々きて「寡黙」に過ごしています。

2017年5月15日(月)

 数項目の原稿書きにはいる。大宜味村の屋号の分析(役職など)、散在するビンジュル(ビンジュルは何かではなくどう拝まれレいるのか)、根謝銘(ウイ)グスク周辺のムラと拝所と地名)などの整理。「問答書にみる明治民俗」、「間切内法」にみる近世の生活」などなど。手におえません。ハハハハ


2017年5月14日(

 一日中、寡黙庵で過ごす。頭の中を空っぽにするため、屋敷の周りの黒木の剪定。剪定は10年余の伸ばしぱなっしかな? それでは「寡黙」にすごそうにも、気になって庭の花木の手入れ。先日黒木の枝を切り落とそうとすると、目白の巣があり、巣立つ寸前であったので待った。今朝のぞくと、巣立った後。それで枝落としをすることに。でも近いところでヒナの餌をねだっている鳴声。

 お年は作物の実りの年かもしれない。回りのシーカーサー、パッションフルーツ、ピタンカ、それとスイカまでも。空っぽにした頭で明日からさわやかにスタート!




2017年5月13日(土)

 「今帰仁村崎山踏査」である。先日、崎山のジニンサウタキのイベの調査と古墓の確認。準備が不十分だな。本日のムラ・シマ講座は雨のため室内のみでの講座。フィールドは来月。

  
                             ▲按司墓と番墓        ▲ウフドゥール墓(大掘貫墓)

 

 建物の取り壊しは雨のため、本日はここまで。
 


2017年5月11日(木)

 1日中、廃棄物の片付け(4トントラック数回分)。金、土日で屋根の瓦を下ろし、建物の解体。帰り空には16日の月。アルバムや書籍類、本箱やタンスなどが消えていきます。記憶まで廃棄されそう。残り分の廃棄と建物の解体は業者さんにお任せ。(金・土は立ち会えないので)

  

 


2017年5月10日(水)

 大宜味村の根謝銘(ウイ)グスクについての関連史・資料の集約に入る。資・史料の整理することに。まず名称であるが、根謝銘グスクやウイグスクなどと呼ばれるがその名称は、グスク城ではないか。グスク内に住んでいた按司一族はグスク村の栄え上がりの一族なのか。伝承でいう中北山の落ち武者一族か。グスク内のウタキや拝所は、周辺の村との関係(1673年以降、以前は?)。

 大宜味間切は1673年に国頭間切と羽地間切からの村からなる。古琉球や1673年以前は、国頭間切の領地であったことを、念頭に入れて考える必要がある。大宜味(田港)間切が分割以前の番所の位置、間切分割がなされる以前は、国頭地方(大宜味間切)を含む歴史として読み取っていく必要がある。

 伝承とみられる根謝銘(ウイ)グスクの歴史や「おもろ」や国頭間切安田の古琉球の辞令書、1471年の海東
諸国の琉球国之図の「国頭城」など見直していく必要に迫られる。それと国頭村比地、辺戸にある按司や惣地頭クラスが寄進された石灯籠、1500年代に制度かされたノロ制度、屋嘉比のろが親のろであることなど。興味深い多くのテーマがある。それらのテーマに立ち向かっていくには、その地が好きでなければならない、好きになっていかねばならない。これからその地の詳細な踏査にはいていくが、手応えは充分にある。歴史上中央からさげすまれた地であるが、そこに横たわっている中央とは異なった独自の歴史・文化があることを掘り起こしていくことに。

 その作業を本格的にスタート! 大宜味村、国頭村の方々の知恵と地をお借りします(これで多くの史料の提供や調査の協力をいただいてきました。ノロ関係資料、印部石、神アサギや祭祀関係の調査、ムラ・シマ調査、村墓(共同墓)、宿道(スクミチ)、火立所などなど。感謝です)。


2017年5月9日(火)

 午後から納屋の資料の廃棄。院生時代の専門書や論文や関係資料や雑誌類、コピー資料、写真、現像器具などはすべて廃棄。それらは業者さんが譲り受けてくれました。束ねた出版物は「お金お金」とよろこんで引き受けてくれました。束ねたものは、「金になるなる」と早速、車に積み込んでいきました。「紙類はトラックで明日運びます」とのこと。内部(タンスや本箱など)を片付けたら取り壊しにかかるとの相談。建物の撤去まで業者まかせ(立ち会えないので)。「跡地にちょっとした建物でも建てようか」と内心。「何歳まで生きるつもり?」の一言で小さな夢は崩壊。ハハハ

 


2017年5月8日(月)

 崎山については、先日調査をしたムラ墓、フドゥールなどの墓や拝所や集落を構成している門中のお宮への合祀などについてはパワーポイントで(準備中)。

崎山と仲尾次と上間の三村参照

       山原の神アサギ―神アサギとムラ・シマ―
              今帰仁村歴史文化センタームラ・シマ講座 配布資料(仲原) 

山原のムラ・シマの踏査ほぼ完了。取りこぼしの補足調査と「まとめ」にはいります。これまで各地のムラ・シマ踏査をしてきました。特に『琉球国由来記』(1713年)に出てくる山原の村(ムラ)に神アシヤギ(アサギ)が出てきます。その神アサギは、廃藩置県・大正・昭和(戦前)と大和化、あるいは取り込まれていく中、戦後の社会の変化、復帰後、さらには平成の時代に至る約300年も継承され続けています。それは何を意味しているのか。

変貌しつづけているムラ・シマを研究対象としているものの一人として欠かすことのできないキーワードです。変化していく過程で神アサギとムラの祭祀は変わらず今に継承されています。もちろん、神アサギの建物が茅葺屋根から瓦屋根、コンクリートへ、祭祀を行う神人が少なくなり、あるいはいなくなったムラ(字・区)で区長、書記さん、神人でない方々が参加し行っています。ムラ・シマの祭祀は、公の行事であったことを示しています。

ここでは『琉球国由来記』(1713年)に登場する今帰仁間切(現在の今帰仁村)の村(ムラ・字)について紹介します。今帰仁村、親泊村、志慶真村、兼次村、諸喜田村、与那嶺村、中城(仲尾次)村、崎山村、平敷村、謝名村、仲宗根村、玉城村、岸本村、寒水村、天底村、勢理客村、上運天村、運天村、郡(古宇利)村の18か村があります。『琉球国由来記』に登場する村は、全て神アサギをもち、現存しています。『硫球国由来記』から300年余の間、継承しつづけています。

そこで神アサギと村の関係から興味深いことがいくつも見えてきます。まず一つは『琉球国由来記』にあった村には神アサギがあります。それが現在まで継承されています。明治36年に今帰仁村と親泊村が合併、村名は今泊となりますが、神アサギは一つにすることなく二つのまま。諸喜田村と志慶真村の合併で諸志となりますが、昭和25年に神アサギを一つにした時期がありますが、再び二つの神アサギとしてあります。玉城・岸本・寒水の三ヶ村も明治36年に合併し字名は玉城となりますが、神アサギは玉城神アサギ、岸本神アサギ、寒水神アサギと今でもあります。

そこから見えてくるのは、行政は一つになっても祭祀は一体化しない。他の市町村の事例に本部町の瀬底と石嘉波、崎本部の本部と崎浜、具志堅の具志堅と真部と上間、名護市の我部(我部と松田)、大宜味村の津波(津波と平南)などがあります。

『琉球国由来記』以後に創設(1738年)された村に湧川村があります、そこにも神アサギが創設し、祭祀を行っています。また、移動した村も移動先で、御嶽(ウタキ)や神アサギを建て祭祀を行っています。それは何を意味しているのでしょうか。新しく創設された村が何故神アサギを設置する必要があったのか。祭祀が「神遊び」とあるように、一般の百姓にとっての休息日(首里王府が認めた公休日)であり、祭祀を行わなければ休息日がないということになります。

それは土地制度(地割:納税)との関わりで、祭祀が機能していたと言えそうです。そのために明治以前に新設された村では祭祀を行い、祭祀場としての神アサギ、上納(穀物)の集積場としてしての神アサギを必要としたとみられます。

それだけではなく、「間切公事帳」に「月並公事」の項目があり、麦穂祭(二月)、アブシバレー(四月)、稲穂祭(五月)、稲大祭(六月)、柴差・麦初種子・みやだね(八月)、粟豆初種子の日取り(十月)、新早植の日取り(十一月) などの祭祀の日撰びは王府が行っています。作物の植え付け時期や収穫時期、アブシバレー(ムシバレー)のように作物の管理など、それらの達(たっし)は祭祀の名のもとに、その多くが貢租(納税)に関わっています。明治以前に創設された村に神アサギを設置し、祭祀を行う必要があったのはそのためです。

今帰仁村に神アサギを持たない字(アザ)があります。越地が昭和12年、呉我山が大正9年、渡喜仁が昭和15年にそれぞれ分字しているからです。明治36年以降、税は穀物ではなく金銭での納税ですので、一時期穀物を保管する施設は必要なくなります。しかし長年継承してきた祭祀は、明治36年以後に分字した村(字)でも継承されてきています。地割が廃止され休息日としての祭祀は必要としなくなります。しかし、神行事は分字する前の字と関わっていました。例えば、越地は謝名と仲宗根の一部からなり、豊年祭や神行事などになると、それぞれ出身地のムラ(字)と関わります。そこでも村(字)と祭祀との関係がみえます。新設の字ができても、祭祀はもとの字で行っていた。その様子は今帰仁ではほとんど、消えかかっています。消えるのは祭祀が農耕暦であったのが明治以降新暦に変わったことにあります。それでも祭祀は旧暦で行っています。

『琉球国由来記』(1713年)の村と神アサギ、それと祭祀、もう一つ地割とムラの関わりを通してみると近世のムラの様子が年中祭祀、山原で神アサギにその痕跡を遺しています。そのように見てくると、民俗で扱われる祭祀が歴史の変わらない(変わりにくい)部分を今に伝えていると言えそうです。

グスク内や集落から離れた高地にある神アサギは祭祀空間としての役割を果たしているが、集落内にある神アサギは、祭祀を行う施設と税(穀物)を一時集積場としての機能を果たしています。 

 
     ▲今帰仁村崎山の神ハサーギ              ▲今帰仁村玉城の神アサギ

 
 ▲玉城ノロ管轄の大折目(スムチナウタキ:ウカマ)   ▲玉城のウタキのイベでのウガン 

村 名

(現在の字)

『琉球国由来記』

(1713年)神アシアゲ

『琉球国旧記』

(1731年)神軒

明治17年

平成29年

ハサーギ・アサギ

今帰仁村

 

 

今泊●●

今帰仁村

(城内神アサギ)※

 

親泊村

 

兼次村

 

志慶真村

 

諸喜田村

 

与那嶺村

 

仲尾次(中城)村

 

崎山村

 

平敷村

 

謝名村

 

仲宗根村

 

玉城村

 

岸本村

 

玉城●●●

寒水村

 

勢理客村

 

上運天村

 

運天村

 

郡(古宇利)村

 

湧川村

 

(越地)

(昭和12年分字)

 

×

×

(呉我山)

(大正9年分字)

 

×

×

(渡喜仁)

(昭和16年分字)

 

×

×

※今帰仁城跡内に神アサギの跡が残されている。 

   ※『沖縄県地域史協議会 会誌』掲載(20146月)を一部書き改めたものです。


2017年5月15日(月)

 連休中は納屋の雑資料の廃棄におわれました。まだまだ、片付かず午後から。明日には納屋の取り壊しの日程を業者との取り決め。今週からの業務や字誌の原稿渡し、講座、講演などなどの準備があるが、手につかず、動きがとれずしまい。健忘症と老体に言い聞かせ乗り切るか。

 午前中は、業務の打ち合わせ、午後から納屋のゴミの処分と片付けへ。


2017年5月6日(土)

 連休中日あたり、甥・姪の子どもたちが「寡黙庵」で宿泊。そろそろ片付け落ち着かないと。


2017年5月5日(金)

 「ムラ・シマ講座」を手伝うことに、すっかり手順を忘れていいます。過去のムラ・シマ講座をさがし、リズムをつかみ準備にかかります。過去の記録をみると、学問の分野でのスタイルはとっていないこと。歴史・祭祀・地理・言語など、今手におえる分野を駆使して描いている様子がよくわかります。いずれにしろ、・・・・「寡黙庵」の納屋の取り壊しの準備にでもいくか。


      ▲崎山のお宮           ▲先日、崎山の皆さんと踏査したジニンサウタキのイベ

2017年5月3日(水)

 二人の孫をつれて、海洋博、二、三の神アサギをみて竹垣の手伝いをしてくれた「寡黙庵」まで。近日、神アサギと御嶽(ウタキ)についての話をする。頭の整理をしながら(4月29日メモ)。

  
  ▲海洋文化館      ▲水族館→オキちゃん劇場     ▲最後はソフトクリームをゲット(満足!)

 本部町具志堅の神アサギ立ち寄る。

 
   ▲本部町具志堅の神ハサーギ         ▲今帰仁村崎山の神ハサギ

【上間家にあった辞令書】(写)(2003年メモ)

 この辞令書は戦前具志堅の上間家にあったものを宮城真治がノートに写しとったものである(ノートは名護市史所蔵)。「具志堅上間家の古文書」とある。名護市史の崎原さんに捜してもらい、ファックスで送ってもらった資料である。感謝。

 この辞令書は嘉靖42年7月(1563)発給で、古琉球の時代のものである。首里王府から「あかるいのおきて」(東掟)に発給された辞令書である。現在の具志堅が今帰仁間切内(1665年以前)のムラであった時代である。

 現在の具志堅の小字(原名)と辞令書に出てくる原名を比較してみた。三つの原名は想定できそうだ。但、近世でも原域の組み換えがなされているの、確定はなかなか困難である。小地名まで合わせみると、いくつか合致するでしょう。古琉球のムラ・シマの形をみる手がかりとしたものである。

     ・たけのみはる→嵩原?
     ・まへたはる→前田原(現在ナシ)
     ・とみちやはる→富謝原 
     ・きのけなはら
     ・あら(な?)はなはる→穴花原
     ・たこせなはる
     ・あふうちはる
     ・ふなさとはる
     ・まふはる→真部原
     ・あまみせはら

 貢租に関わる「ミかない」いくつもあり、季節ごとに「ミかない」(租税)収めていたのかもしれない。
     ・なつほこりミかない
     ・せちミかない
     ・なつわかミかない
     ・おれつむミかない
     ・正月ミかない
     ・きみかみのおやのミかない
     ・けふりのミかない

 のろ(ノロ)・さとぬし(里主)・おきて(掟)のみかないは免除され「あかるいのおきて」(東掟)一人に給わった内容である。
 古琉球にノロ・里主・掟・東掟の役職があったことが、この「辞令書」から読取ることができる。

【辞令書の全文】(一部不明あり)
  志よりの御ミ事
   みやきせんまきりの
   くしけんのせさかち
   この内にひやうすく みかないのくち 御ゆるしめされ
   五 おミかないのところ
   二 かりやたに 十三まし
   たけのみはる 又まへたはるともに
  又 二百三十ぬきち はたけ七おほそ
    とみちやはる 又きのけなはら 又あらはなはる
  又 たこせなはる 又あふうちはる 又ふなさとはる
  又 まふはるともニ
    この分のミかない与
    四かためおけの なつほこりミかない
  又 くひきゆら ミしやもち
  又 四かためおけの なつわかミかない
  又 一かためおけの なつわミかない
  又 一かためおけの おれつむミかない
  又 一かためおけ 又なから正月ミかない
  又 一lくひき みしやもち
  又 五かためおけの きみかみのおやのミかない
  又 一くひ みしやもち
  又 一かためおけの けふりミかない共
    この分のみかないは
    上申・・・・・・
    ふみそい申しち
    もとは中おしちの内より
  一 ミやうすくたに ニまし
    まへたはる一
    この分のおやみかない
  又 のろさとぬし
    おきてかないともニ
   御ゆるしめされ候
  一人あかるいのおきてに給う
 志よりよりあかるいのおきての方へまいる
   嘉靖四十二年七月十七日

 本部町具志堅の歴史と文化参照

 1673年に国頭間切と羽地間切を分割し田港間切(後に大宜味間切と改称)が創設される。『琉球国由記』(1713年)年当時、大宜味間切内の城・嶽・森・城嶽の呼称、方切(間切境界の変更)があってもノロの管轄する村の変更はない。また、明治36年の土地整理で合併した村があるが、合併以前の祭祀や祭祀場を踏襲している。祭祀そのものの簡略化や祭祀場が記憶から消えつつある。1713年に記録されたウタキやグスク、神アサギ、祭祀などの確認。300年も消えることなく今に伝えているのは歴史の変貌しない部分を祭祀や祭祀場が継承しているのではないか。そのことを念頭にいれながら、踏査をつづけてる。大宜味村のガナハナ御嶽(根謝銘、現謝名城)と、親田村(現田嘉里)のガナハナ御嶽は同一のウタキではないかとの予想を立ててのガナハナ御嶽入りである。

 ガナハナ御嶽を確認したく何度も挑戦してきた。先日も登り道かと予想して登るが、間違っていて途中で断念。村史編纂室のメンバーに日々、ガナハナ御嶽のことが頭をよぎっていると話すとお昼時間、地図を持って前田さんの所へ。「昨日、区長さんたちが草刈りしたようだよ」と。また、案内してくださるということで。前田さんを先頭に、編纂室の河津、区長さんの奥さん。四名での御嶽登り。頂上部分からの「おもろ」で謡われる奥間の赤丸崎、田嘉里川の河口、屋嘉比集落、根謝銘(ウイ)グスク、足下に根謝銘集落などが木々の間から望める。大宜味間切に、近世の火立所がないが、根謝銘(ウイ)グスクとの関わりで見ると遠見所に適した場所である。旅たちで見送りをした場所でもあったという。

 左縄を巡らされたイベに2基の香炉あり。左縄は年二回張っていたという。それはガナハナ御嶽は複数の村の御嶽ということができ、『琉球国由来記』(1713年)でいう麓の親田村と根謝銘村、両村のウタキと見ていい。祭祀や祭祀場が歴史を変わらない(変わりにくい)部分を継承しつづけている。

 ・小城嶽(神名 大ツカサナヌシ) 城村
 ・ガナハナ嶽(神名 シチャラノワカツカサ御イベ) 根謝銘村
 ・キトカサネ森(神名 七嶽ノイベナヌシ) 喜如嘉村
 ・オミカサノ嶽(神名 アカウトリヅカサ) 大宜味村
 ・底森(神名 イベナヌシ) 田湊村
 ・ヨリアゲ嶽(神名 ウブツ大ツカサ)塩屋村
 ・テクフ嶽(神名 スヅモリノ御イベ) 津波村
 ・津波城嶽(神名 イソヅカサ) 津波村
 ・石城嶽(神名 石モリノ御イベ) 津波村
 ・アザカ森(神名 コガネワカツカサ) 平南村
 ・コガネ森(神名 ツカサ) 平良村(後に久志間切へ)
 ・スン森(神名 タケヅカサ) 平良村(後に久志間切へ)
 ・ガナノハナ嶽(神名 チチャラノワカツカサ) 親田村(後に大宜味間切へ)(屋嘉比ノロ)
 ・トドロキノ嶽(神名 イベナノツカサ) 屋嘉比村(後に大宜味間切へ)(屋嘉比ノロ)
 ・中城之嶽(神名 大ツカサ) 見里村(後に大宜味間切へ)(屋嘉比ノロ)
 ・ヨリアゲ森(神名 カナミヤトヤノ御イベ) 浜村(国頭間切のまま)(屋嘉比ノロ)
 
※「ウタキとイベ」は明確に区別して議論すべきだと主張するようになったのは山原地方の
   ウタキ調査がきっかけであった。その森がウタキかどうかは、その森が人為的な拝所で
   あるかどうかにあることに気づかされる。祭祀であるか、香炉が置かれていれば、それは
   ウタキである。ウタキの内部で左縄が巻かれたりに香炉が置かれる場所はイベ。

 
   
 ▲『琉球国由記』(1713年)の根謝銘村と親田村の「ガナハナ嶽」の遠望、頂上部のウタキのイベはテラス状


2017年5月2日(火

 5月にはいりました。相変わらず頭は動き回っています。寡黙に生きようと庵を構えたのですが、そうは生きませんね。これから「寡黙庵」へ。