仲宗根政善先生資料目録
【資料目録1 001~065】【資料目録2 066~】
(作成:上地美和::当時阪大学大学院博士課程))
トップへ 仲宗根政善先生寄贈資料企画展
仲宗根政善先生の資料目録の作成に入る。まずは、ノートや原稿用紙原稿などの整理から。時系列や分類、活字化(筆耕)は、全体像が見えてからになります。まずは手にした資料を以下のようにメモやコメントをいれながら整理していきます。
資料作成にあたって、上地美和さん(歴史文化センター)に目録作成の中心を担ってもらい、石野、玉城菜路、仲原がバックアップし、その情報を歴史文化センター、関係者の共有の情報としてストックしていきます。
「目録」はHPでオープンにしますが、現物資料(ノートや原稿類)の閲覧は、現在のところできませんので、ご理解くださいませ。また判読できていない文字や氏名など□□にしたところが多々あります。判読できたところは随時埋めていきます。
(2013年4月11日1回目)
【001】『タイトル無し』
大学ノート、縦15cm、横10.5cm
(内 容)
・住所録
・今帰仁村の指導者とある母娘の生々しい戦争体験の聞き書き
・1972年5月14日の調査
・戦争体験を聞いたあとの感想)
復帰を迎えるというのに私の仕事をしなければならなかつた。豪雨によつて山の□はかすん でいた。あの山にも日本軍がひそみ、住民をおそれさせていた。同じ国民同士が殺し合うと いうさんげきを誰がさせたか。
その母子が再び思い出すまいとつとめてをられる。同じく戦争を体験したことに私にとつても同じであつた。しかし私はこうした事実をただ悲しみの彼方においやつてしまい、我々戦争体験者の□□するとともに失わせてしまうであうかという気がして私はやつと勇気を出して、出来だけ□□に悲しみに□□□よそにしその話をきき出した。しかしき□□んでふかくきく気にはどうしてもならない。
□□にたつてこの□殺の □□をしらべながら私は重苦しい。 □そして明日は復帰するという日である。
個人が如何に微力なものかをつくづくと感じた。
・音韻表記

【002】『随想』
黒色ハードカバーの表紙、縦18cm、横13cm
・何名かの人の短歌・俳句・詩の書き写し
「忠通へ」 一九六三年十一月二二日大城
「忠通君へ」一九六三年十二月十五日宮里
・姫百合の塔の写真のポストカード(EXPO:1975年)有り
【003】『タイトル無し』
茶色の手帳、縦18cm、横12cm
音韻表示、単語帳の様相
・宮良当壮先生を賛美する文章(宮良当壮先生は伊波普猷先生につぐ沖縄の生んだすぐれた方言学者である。・・・)
・朝日歌壇79 朝日新聞学芸部編 1200円 朝日ソノラマ
・戦争とは他の手段をもつて政治の延長である(クラゼウ ウィッツ)
・よいこである子のうちがわのもろさ
・『をもろさうし』の書き写し
・新聞記事の挟み込み:(全部新聞社名不明)
・“Fong, Inouye Laud Reports On E-W Center” ハワイ大学東西研究センターについて
・「沖縄戦5 首里攻防」 1987年7月17日
・「沖縄戦9 集団自決」 1987年7月24日
・「沖縄戦10 県民かく戦えり」1987年7月25日
・「沖縄戦11 全島玉砕」 1987年7月27日
・「沖縄戦12 1フィート運動」 1987年7月28日
【004】『『組合員手帳 昭和50年度』 沖縄県教職員組合
・緑色表紙、縦12cm、横7.5cm
・1月:音韻表示。「手ぬぐい、ハンカチ、棺桶にいれてやる」
・2月8日:達也迎えに来る。創価学会
・2月16日:与那嶺正則、芳恵結婚式
・5月26日:100カ日。山田有功
・6月1日:徳元孝助
・音韻表示あり
大田ハナ 長男長女次男(一雄、義雄、繁子、貞□)、大田文治の高校先生、姉金城トシ、妹久保田フミ
1945年□□、赤心之塔
糸満区長 久保田清三
徳元孝助(組合長真壁)
義姉 徳元ハツ子
山城 二人 子供 炊事係
徳元孝助さんは弟
その両親にトシさんは行かれたのである。御両親は健在か。御両親のおられた壕はまだあるかどうか。孝助さんはその時どこにをられたのか。大田一雄さんはごうでなくなつたのか。
その外に城□という炊事婦がをられたらしいが、山城の方ときくが、その遺族はまだおられるかどうか。その子供らはひめゆり壕
1.□□証明 2.□□証明 3.土地
・ゴーヤージュース、ウブシー、テンプラ
パン
夫人、住みこみをして生活した。
家庭では方言だけで話す。
山田有邦 南風原□光など訪ねて。正通、金城紀清、毎日来て親しみやすい
田園調布に近くいる 東恩納先生と近く 芳子
戦争の話
同窓生として母校を中心に一段と親密な心のつながりが出来てひきしまつた感がして、今度の同窓会の発展によかつたという。そうしてその中で最後の在校生の前途を心から祝し又同窓会の発展を心から祝福申し上げます
皆の力でここまでもり盛り
さやはたけみたけ
あけもどろたちは
八はしり十はしり
なりあがらちへ
すでみずかわかみす
ぬきあけれ
さしあけれ
あけもとろたては
【005】『ひめゆり塔』
大学ノート、縦21cm、横15cm
(言葉の羅列)
・美しい相思樹
・乙姫学園
・心の中の姫百合学園はいつまでも美しく
・純にその中にのみ我々は育つ、乙女の時代、エビチヤの袴に黒靴
・母校の最後
(文章)
母校に対する感傷
百合学園の経過
「芙蓉の花一輪、母校のかたみかな」
姫百合学園の跡を聖地に
宮古教育の問題
宮古17日(宮古調査ノート)

【006】『タイトル無し』
大学ノート、縦16cm、横10cm
分類:挟み込み:カード「うつくし」という言葉を、日本語の古語と琉球語の文例を記している。
玉城□助
謝名人口595人、戸数120
諸喜田平吉
音韻表示
1973.1.7 湧川 糸数昌徳(明治41.10.28)
那覇から□□して。
嘉数宗敬 村中で話の上手
音韻表示で文章を書いているのか?
上原、松もり?川上の方
蒲助、牛次郎
羽地
1973年1月8日 上間松男 音韻表示
*地名や人名に続いて、音韻表示が書かれている
【007】『視察報告書』
大学ノート、縦23.5cm、横19.5cm
5月21日から7月4日。
文部省、国立国会図書館、関東の国公立・私立大学の視察。大学の設備や、学長選挙・自治権など制度について調べている。大学運営に関する視察。吉田嗣延など主要人物訪問。
学生運動の動向や、「沖縄に対する認識の不足」の記述あり。
挟み込みと添付:
『日本学術会議法』昭和31年4月
『昭和29年度文理学部教官研究課題』埼玉大学文理学部
『昭和30年度予算配分案』静岡大学
『国際基督教大学』6ページの小冊子
『昭和31年度立教学院保健計画』
・『昭和30年度立大結核検診(後期)成績』・『身体検査台帳』
『埼玉大学学生保険組合細則』昭和31年5月31日理事会決定
・『埼玉大学学生保険組合規約』同封資料:『国語学会研究発表会発表要旨』
『支持する会運動の経過と総括』皇太子:沖縄上陸阻止・戦犯天皇糾弾闘争を支持する会、
1979年3月
新聞記事「『ヒロシマ』を語り継ぐオーストリアのまち 草の根連帯 地球のあちこちから」
犬養孝『万葉十二ヶ月』新潮文庫のブックカバーのみ
ルーズリーフ1枚 言語表記 1、2言
原稿用紙1枚(行方不明になったと思われる、作法室で照屋先輩から主事を引き継いだこと)
『那覇市役所納税通知所在住の封筒』平山平□君の公募への推薦状の下書き
『大川印刷のメモ用紙』7枚に記述あり。琉大の管理権を民政官が握っていることへの批判と学生の抗議について。
湧川清栄氏にハワイを案内してもらったこと、沖縄に高等教育機関を作る計画書を大田昌秀氏を通して、琉球大に届けられ保管されていること、湧川氏が沖縄への渡航許可が下りなかったことを、湧川氏の来沖の歓迎会で如何にも感慨深そうに述懐していたと、書いている。安里源秀先生との出会いについて。
『便箋』10枚 カタカナと漢字で書かれているが、急いで書かれたためか、文字が読み取れない。南風原病院壕での戦争体験を書いたものだと思われる。
「女性週□」井口記者。野口宮城ふじ子。28才のとき東京に出る。
キーワード(抜粋しようとしたが、途中からギブアップ):徳田先生、経理部長夫人亡くなられる。親泊千代子。仲原兵長、南風原病院壕。安子さん。宮城努長。金城素子。テルマ看護婦。蝕。銀バイ(蝿)。仲里。どちらにも誘惑されない。逃げられない。死体をまたいでいった。死体は腐れかかっていた。・・・。軍服で担架を作った。仲里光子、親泊ウートゥルバイ?、新垣仁正、二オー?。・・・。
◎「ソカイスルノハ非国民ダトイツテ」
知念淑子 玉城八重子
手書き地図あり
【008】『文芸日記』(1982) 方言単語3』
ベージュ色布製ハードカバー、縦21.5cm、横15cm
日付がある文章は、かつて書いた原稿を書き写していると思われる。途中から、筆圧や文字の形が変化している。この間、時間が空いたのか、高齢になられてからか、何らかの変化があったのか。非常に興味深い内容!
・砂糖製造時の牛を酷使することに関わる琉球語
・与那嶺方言の家族の概念と県立第一中学校入試問題
・受賞の御祝いのために、女師一高女の卒業生7名が家に訪ねて来たときの仲宗根美代
さんの話。今帰仁城方言には、命令語を使うのではなく、願望を表す言葉で婉曲に表現
する奥ゆかしさがある。
・鳩間島、森口轄「さよなら」はない。さよならにはつきはなしてしまうつめたさがある。
『子乞い』より。
・言語研究センターの久米島調査。
など。
・挟み込み:新聞記事『琉球方言研究の軌跡 琉大方言クラブ30周年記念講演』上村幸雄、
1987年12月12日。
・文字の変化以降、言葉の解釈か。
【009】『タイトル無し』
縦20cm、横26.5cmの紙3枚。
・与那嶺松助さんの第四代目琉球大学学長に選ばれたときの、今帰仁村による記念樹
の植樹祝の挨拶と思われる。
【010】『タイトル無し』
・原稿用紙2つ折、7枚、ホッチキス止め。縦21cm、横15cm。
・内容:伊波普猷先生と、先生のご遺骨について。
【011】『タイトル無し』
・NHK沖縄総局のレポート用紙1冊、そのうち記述は13枚。縦26cm、横19cm。
内容:伊波普猷について
本土にいる、「あゝ鎮魂歌いわまくら」の作詞作曲されたご夫婦へのお礼の手紙の下書
きだと思われる。
(作者を調べること!)
(2013年4月10日入力)(上地)
【012】『タイトル無し』
内容:「宮良先生のお人柄」(『宮良當壮全集第7巻』付録『月報4』に掲載)の下書き
推敲を重ねておられる。
【013】『タイトル無し』
原稿用紙15枚、縦21cm、横30cm。破れあり。
内 容:『琉球文学表現論』(1977年11月30日発行、639頁)に対する書評。
抜書き:
「琉球文学序説。従来の文学研究は、主としておもろを中心とした部分的研究で、すぐれた成果もあったが、琉球文学全体を対象とした研究は見られなかった。著者は、沖縄本島・奄美大島・宮古・八重山の各地に残る諸形態を研究の対象として、これを分類して、誦詠・古謡・おもろ・琉球歌謡・組踊・狂言・人形芝居・雑としている。そうして各形態について例を挙げて解説している。」
「著者は、先学の学紺を批判的に見、それを継承発展させる原動力にしたいとの態度をとっている。その態度はよい。一観点として、相手の説を筆鋒鋭く批判しながら、独自の見解を克明に述べている。
しかし、なかにはきびしく追求するのあまり、品位をそこなうような箇所は感心しない。
全体が反論集のような形になってしまったきらいがある。もっと、独自の新しい問題を提起してそれに対する論考の形であってほしい。」
コメント:沖縄文学全体を対象とした初の論文で、先行研究を批判的に研究し、
継続的に研究していることを評価しているが、厳しいすぎる批判が、
品位を損ない、反論集のようになってしまっていると評している。
仲宗根先生の、文学に対して、真摯な態度で公正な評価をしている
ところを、見習いたい。

【014】『思い出』
原稿用紙8枚、縦21cm、横30cm。
仲宗根先生の子供時代に、祖母たちが夜なべをしながらしていた、伊波普猷の講演を聴いたという世間話を、聞いたこと。福岡高等学校時代に、学校で日本史のなかで始めて琉球史の講義を聴いたこと、『孤島苦の琉球史』を見つけ、初めて伊波の著書に出会ったことを、感動的に書いている。伊波普猷の生涯と思想から、琉球の歴史と万葉の言葉を考察している。
コメント:この文章を読む私にも、ドキドキ感が伝わってきて、仲宗根先生の研究のおもろ研究の
萌芽に触れられた様に思える。

【015】『タイトル無し』
・角川書店の原稿用紙12枚(そのうち7枚に記述)とルーズリーフ(B5)1枚、
縦30cm、横21cm。
内容:おもろ研究の始まり・発展の経緯と、未来への発展への願いを、
ひるぎ社が1本にまとめて出版してくれることへの謝辞。
【016】『タイトル無し』
角川書店の原稿用紙7枚、縦30cm、横21cm。
内容:タイムス賞受賞への謝辞。
コメント:琉球方言の研究が受賞の対象となったことに対する恐縮な態度と、琉球方言研究を生涯の目的と
してこられたことへの、謙虚な姿勢を見習いたい。
【017】『タイトル無し』
原稿用紙6枚、縦22cm、横31cm。
内容:『平凡持久 山城宗雄先生の生涯』(山城宗雄伝編集委員会、1969年)の
「序文」の下書き。
コメント:「標準語教育において先生ほど成績をあげた教育者はいなかった。
方言と標準語に対する理論においては、先生の考え方と私の考え
方がぴったり符合したかは疑問であるが、教育実践家として、か
くほどに標準語教育を徹底して行い、成績をあげた教育家はいな
かった」と評している。立場の違いを婉曲的ににおわせつつも、
その違いを超えた共通点である「よりよい言葉」を教えようした
ことに対して、最大の評価をしている。仲宗根先生は山城先生か
らもらう年賀状を楽しみにしており、年賀状の「真面目なきれい
な文字に自然と頭がたれた」と述べている。日頃、適当に言葉を
使い、文字を丁寧に書いていない自分目の前に、山城宗雄先生や
仲宗根政善先生がいるようで、私は穴に入りたいぐらい恥ずかし
くなった。山城宗雄先生は、兼次小学校で標準語励行を実践した
先生と聞いており、私はあまり良い印象を持っていなかったが、
仲宗根先生の文章を通して、山城先生の人となりに触れることが
できてよかった。人の一面だけを見てはよくないと、改めて思っ
た。山城先生が運動場のチリを拾うのは、児童へのとがめではな
く、自分の心を清めているという、行動が素晴らしいと思った。
下書き原稿と、発表原稿には内容大きな違いがある。…
【018】『タイトル無し』
角川書店原稿用紙72枚(うち38枚に記述)、縦30cm、横21cm。
角川書店サイズ違い原稿用紙1枚、縦26cm、横18cm。
内容:沖縄戦
(以下工事中)
【019】『タイトルなし』(沖縄戦戦被学徒戦後会の報告)
白紙 1~12頁 1957年7月27日 仲宗根政善 縦19㎝ 横26.5㎝
「沖縄戦戦被学徒援護会の今日(1957年)までの報告」原稿
沖縄戦戦□学徒援護会の今日までなして来ました仕事のあらましを御報告申し上げ、尚今日どのような仕事が残されているかを説明申し上げ、生存者の皆様御遺族の皆様の御知恵をかり、御援助を仰いで行き度いと存じます。
今次沖縄戦に於て若い青年学徒が郷土防衛に身を挺し千数百名の戦死者を出し、十三年忌を迎え今日ここに会同慰霊祭を催し、誠に胸のしめつけられるような思いがするのであります。
(以下略)

【020】「熱血漢だった吉田さん」(仲宗根政善:琉球大学名誉教授)
原稿用紙(大濱信泉伝記原稿用紙 10×20 7枚)
吉田との最初の縁は、彼が沖縄に密航してきた時だった。彼は石川市の安里延の家に泊まった。敗残兵のようで、兵隊の服装をしていた。半襟で戦後の服装をのままだった。私は故・東恩納寛惇と故・伊波普猷に吉田のことを手紙に書いたが、伊波からしか返事が来なかった。(この手紙は浦添図書館に寄贈しようと思っている)。
(以下、略)

【021】『タイトルなし』 (1969年11月日米共同声明を基礎に沖縄施政の変換)
日本放送協会原稿用紙(横書き) 25.7cm×18.2cm 25枚
書きだし部分を紹介
16年にわたって米施政下におかれて、なおまた沖縄の運命は県民に背を向けた形で大きくかえられて行く。
主体性にかけていったん結果が出てから相手のせいにするのだ。
[人間への信頼感]
私は女学校の生徒をつれて沖縄最南端の喜屋武海岸にまでおいつめられたのである。そこで自決をした多くの住民たちは、どうせ残虐な鬼畜米兵の手にかかって死ぬよりは、自分の手で自分のいのちををたった方がよいということであった。私のつれている生徒たちも鬼畜米兵の手にかかるよりは手榴弾で自決した方がよいということであった。敵兵がせまった時は、私は彼らの□ける銃口にむかって行った。彼らは銃口をおろした。私は手榴弾をにぎっている生徒たちにせんをぬくのではないぞと強く制しながらそうして発砲することをやめたのである。私はあのことを思い出し、人間というものはお互いに信じあうべきものであるということを深く感じたのである。人間と人間と信じ合うことをしなければならないということを言う。
・佐藤首相が返還交渉に羽田を立つときから・・・
・沖縄人は今度の戦争を体験して、人間同志はもっと信頼し合うべきものであるという
ことをしみじみ感じている。
・今私ども沖縄人は沖縄人の心から叫びを訴えつづけている。
(以下略)

【023】『□文。』(□は条という字か?)『追悼の辞』
少し厚手の紙7枚(うち5枚はミシンで縫われている)、縦20.5㎝、横27cm
内容:
2枚は、波平の壕で亡くなった孝ちゃんの慰霊の為の文章。
5枚は、『追悼の辞』
ともに、1958年6月22日付。
【024】『タイトル無し』
白紙11枚、縦20㎝、横26.5㎝、縦書き。
内容:
出だしは「『江山水陸の風光数を盡くして今象潟に方本をせむ』言に調子のよい句ですね。芭蕉は憧れの象潟が近づくにつれ氣がせいてたまらないのであります」で始まる。
【025】『タイトル無し』
白紙4枚、縦18㎝、横26㎝、縦書き。
内容:
手紙の下書き。出だしは「拝復 お手紙まことになつかしく売れしむ拝見しました。山本さんから先日お電話があり、三月には来島なさるとのこと。その時に金城芳子さんのことも詳しく承り何とか記録にとどめておきたいと考えているところでした。」で始まる。
【026】『タイトル無し』
白紙1枚、縦20㎝、横26.5㎝、縦書き。
内容:
出だしは「沖縄戦で沖縄の土に埋もれた二十四余□の平和のさけびが黒潮にのつて北に流れ、土佐の潮さいとなり、今フラクテづの一人一人の声になつてなりひびくいているのである。」で始まる。
【027】『タイトル無し』
日本放送協会のレポート用紙5枚、縦18㎝、横26㎝、縦書き。
内容:
手紙。出だしは「来下さるようにとは皆の希望でした。運動場を駿馬のようにかけておられた御元気はお姿が皆みたいのです。枕崎の木原さんが上京された時の話もうかがいました。」で始まる。
【028】『タイトル無し』
白紙1枚、縦25.5㎝、横18㎝、縦書き。
内容:
手紙。前半部分は「拝復 久しぶりのおたより、なつかしく有難く拝見 恵子さんからもおたよりいただきました。テレビ見て下さつたとのこと、私が言いたかつたのは沖縄に歴史におしつぶされてる(グルモント)を協調したかったのですが、それはカツトされてありました。」とある。
【029】『タイトル無し』
日本放送協会のレポート用紙3枚、縦25.5㎝、横18㎝、横書き。
内容:
NHK総合放送文化研究所放送文化財ライブラリーから仲宗根先生に当てた手紙。
琉球大学法文学部長新城俊彦氏宛の手紙1枚、契約書(B4用紙4枚、2つ折り)の添附あり。那覇市首里および久高島の方言収録についての取り決め。
【030】『山田の統覚論 ヴントの「統覚」との関係』
B5サイズのルーズリーフ1枚、横書き。
内 容:
タイトルを含め、記述は5行のみ。何かの文章から、迷子になった1枚か?。全内容は「predicateヴントの影響を受けた独逸の言語学者の影響 時枝はフッセルの現象学の影響 統覚と著述がかなめ」。
【031】『タイトル無し』
原稿用紙87枚、縦30㎝、横21㎝、横書き。最後1枚は、用紙の下側数段が切り取られいる(この部分はメモ?)。
内容:
琉球大学退官時の講演原稿か。
出だしは「昭和6年、私が東大2年の頃だと記憶している。柳田国男先生を中心とした、南島談話会という研究会があつた。その第二回目の会合が、明治神宮の近くで、催された。その会合で、はじめて柳田先生に、親しくお目にかかつた。研究会には、伊波普猷先生、比嘉春潮先生、島袋源七先生や、金城朝永兄など、南島研究に興味を持つ多くの研究者が集まつておられた」で始まる。
原稿の最後の頁に、往復はがきの仲宗根先生あての往信はがきが添附されている。発信者は山之口貘詩碑建立期成会で、はがきには山之口貘の詩「座布団」が印刷されてあり、詩の下側に、仲宗根先生が書かれた文字があり、貘さんの詩の続きを、先生なりに書き足したのだろうか、非常に興味深い。原稿の最後の方に、貘さんの「座布団」という詩と琉球大学を退職されるに当って書かれている内容に、私自身「じーん」としたので書き写したいと思う。
どうぞおしきなさいとすすめられて、楽に坐ったさびしさよ
この一節が、胸にじんとくる。そんなさびしさが、退官後に来るのではないかとも予感されますが。
私はこう考えています。
土の上には床がある。
床の上には畳がある。畳の上にあるのが座布団だ。その上にぼろ布をしこう。その上にもまたぼろ布をしこう。その上の上へと一枚一枚ぼろをしきつづけていけば、土の世界とははなれずにさびしい思いはしないのだ。
【032】『タイトル無し』
罫線が赤色の用紙1枚、縦18㎝、横25.5㎝、両面に縦書き。
内容:
書き出しは「我々は琉球文学研究によつていかなる新しいものが発掘されているか知れないという大きな夢を抱いている。」で始まる。
【033】『タイトル無し』
原稿用紙2枚、縦21㎝、横29.6㎝、縦書き。
内 容:
書き出しは「現在池宮はもつとも油ののつたころであり、自己の本領が湧き水のように噴出する時季にある。」で始まる。
欄外に赤字で、「siraretaru」と書かれている。
【034】『タイトル無し』
B5サイズのルーズリーフ1枚、横書き。
内容:
書き出しは「意味の方の区切りと一致するものでつて、右のような最短い行きの段落は、皆意味を持つているのである」で始まる。
【035】『婦人連合会懸賞論文の批評』
原稿用紙2つ折り、7枚、縦21.5㎝、横15.5㎝、縦書き。
内容:
書き出しは「タイムス社の社長上地一史さん、新報社の社長池宮城秀意さんと竹野会長仲宗根副会長と仲宗根五名で審査に当ったのでありますが、君は比較的暇だから行って審査報告をして来いと言われましたので、私から簡単に審査の報告を申上げます」で始まる。
【036】『比嘉春潮先生をいたむ』
白紙4枚、縦18㎝、横25.5㎝、縦書き。角川書店の原稿用紙20枚、縦30㎝、横21㎝、縦書き。
内 容:
比嘉春潮先生への追悼文。
【037】
ルーズリーフ1枚、縦25㎝、横19㎝、横書き。
全内容:
かみてた
8-34 おもり、ねやかりや、ゑかうにかうに、ゑかうに、かみ、てたす、しら、しやらめ 又 しむの、世ん、ぬしの
1-2
【038】『タイトル無し』
B5ルーズリーフ1枚、原稿用紙(2つ折、縦21㎝、横15㎝)が、1枚ものが4つ、2枚ものが4つ、4枚ものが1つ、6枚ものが1つ、未記入原稿用紙が2枚、それぞれの塊あるいは、個別に散在している。
内 容:
B5ルーズリーフ書かれているのは、目次だと思われる。その原稿群か?
目次
一、戦時下の国語教育
二、戦後の空白時代
三、教科書編集所の設立
四、言語の問題
五、教科書入荷と教育の本土復帰
タイトルのある原稿用紙
「一生に一度の第戦果」(6枚)
「ハンナ少佐」(4枚)
「嘉味田宋栄氏を悼む」(2枚の原稿用紙の裏には、「嘉味田氏が国語高等学校の文学教材の編集に従事した」とあり、この文章群に含んでよいと考えた)
添附資料:文教部編『沖縄歴史』のコピー(35枚)
大城立裕『まぼろしの祖国』(講談社、昭和53年発行)のプロローグ、7~17頁のコピー(「本永守靖先生へ」と鉛筆で書かれている)
稲垣国三郎「琉球随想」のコピー(『おきなわ 第二巻第四号』通巻第十一号、26年発行、9~21頁)
稲垣国三郎「祖国愛」のコピー(4~5頁)
小学生向け国語の教科書のコピーか?(39枚)
【039】「タイトル無し」
大川印刷のメモ用紙1枚、縦18㎝、横13㎝、両面に縦書き。
内 容:
琉球大学の大学管理員が、「いわゆる素人支配」であったと、制度の批判をしている。スピードのある筆跡。このメモが、文章の途中から始まっているので、どこかに続きがあるのかも知れない。
【040】「タイトル無し」
白紙カード1枚、縦13㎝、横18㎝。
住所録、5名分。
【041】
白紙カード1枚、縦7.5㎝、横13㎝。
罫線入カード1枚、縦7.5㎝、横12.5㎝。
内 容:
・白紙カードには、音韻表記「sikuumiN」とある。
・罫線入カードには、音韻表記「husikumiN」と「おしこむ」、とある。
(20130424入力)
【042】「タイトル無し」
原稿用紙1枚、縦21㎝、横30㎝、縦書き、直筆。
内 容:
右肩に「2」とナンバリングされていて、迷子の原稿。書き始めは「現在納骨堂の建つている真下に、生徒、壕の右手に軍医や婦長、左手にこの壕の主であつた民間人がいて、私は□任看護婦、衛生兵と一緒に□□の建つている真下にいた。欄外に、書き足しに、「具志八重子さんだけはいつも親切にして下さつて」と書き足しあり。
【043】「伊波普猷先生顕彰会 記録」
大学ノート、縦25.5㎝、横18㎝。
内 容:
伊波普猷先生のお墓を建てるための経緯が書かれている。ノートの最初には発端が書かれている。
東恩納寛惇先生から伊波猷先生の墓を建設してはとの話があり、親泊政博さん、宮里栄輝さんと一緒に浦添城趾を下検聞、赤嶺仁宏村長に会い協力を求める。・・・・
1959年3月12日結核予防協会で準備会を開く。
発起人名簿、伊波冬子さん、比嘉春潮先生、服部四郎先生、仲原善忠先生などの書簡、伊波普猷に関する新聞記事、「1959年5月伊波普猷先生顕彰趣意書」、「島袋源一郎先生顕彰碑設立趣意書」等が、ノートにきれいに貼り付けられている。
【044】「タイトル無し」
B5ルーズリーフに、二つ折り原稿7枚が貼り付けられている。縦書き、直筆。
内 容:
外間守善「校本おもろそうし」出版に関する、仲間うちの祝賀会の挨拶。
【045】「タイトル無し」
原稿用紙71枚、縦21㎝、横29.5㎝、縦書き、直筆(3枚はコピー)。「ファイルボックス1」
内容:
1枚目に目次の様なものあり
(1)渡嘉敷良子、戦争への反省
(2)谷川に戦塵を洗い流す
(3)石川へ移動、妻子のあとを探す。
石川の状況、学童の煙草
恩納への途中の米軍塵捨場
(4)東恩納教科書編修所
(5)バス検閲官ハンナ大尉・教育将校
首里城の鏡(博物館)
教科書編修の方針
(1)日本的教材
(2)軍国主義的教材
(3)潮国家主義的教材 厳禁
国語・読み方1-8.文学高等学校
沖縄を主体とする教材
45年
48年6月11日 2□万冊
1年-4年 郷土を中心の観察」
5年-6年 琉球歴史
7年- 琉球歴史を中心とした東洋史
8年- 琉球政界 上沼八郎
「真玉橋朝英先生」や「世界への眼」などタイトルが付けれ、数枚がホッチキス止めされているところもある。
挟み込み:
昭和56年北山郷友会運動会の案内のはがき
沖縄タイムス文化事業局出版編集部からのはがき
東京の比嘉栄子さんからのお手紙。
コメント:【038】と重複文章あり
【046】「タイトル無し」
琉球銀行のメモ帳(記述は6枚)。縦13㎝、横8.5㎝、縦書き、直筆。「ファイルボックス1」
内容:
書き出しは「我が母校は□年の四月のはじめに、爆撃によつて焼きなく□□□」で始まる。
コメント:スピードのある筆跡。
【047】「摩訶盤若波羅蜜多心経」
角川書店の原稿用紙16枚。縦30㎝、横21㎝、縦書き、直筆。「ファイルボックス2」
内容:
「般若心経」の写経と、部分的に書き込み。
【048】「タイトル無し」
角川書店の原稿用紙3枚。縦30㎝、横21㎝、縦書き、直筆。「ファイルボックス2」
内 容:
書き出しは「ことばは人間を離れてはならない。今帰仁の方言は今帰仁の村民があつて今帰仁のことばがあるのであります。したがつて今帰仁の方言には今帰仁の人々の生活・社会・文化歴史とはなれては存在しない。」で始まる。
【049】「タイトル無し」
角川書店の原稿用紙4枚。縦30㎝、横21㎝、縦書き、直筆。「ファイルボックス2」
内 容:
書き出しが「私どもは対馬丸の悲劇をアニメイションにして、沖縄戦が如何非人道的であり残酷なものであつたか、戦争が人間としてあるべからざるものであることを、戦争を知らない世代にも広くしらせようと計画したのであります。」で始まる。
【050】「タイトル無し」
角川書店の原稿用紙2枚。縦30㎝、横21㎝、縦書き、直筆。「ファイルボックス2」
内 容:
手紙の下書き。「毎年かかさず広島の名産を贈りとどけいただき恐縮しております」とあり。
【051】「タイトル無し」
角川書店の原稿用紙65枚。縦30㎝、横21㎝、縦書き、直筆。「ファイルボックス3」
内 容:
沖縄戦に関する原稿。書き出しが「四月三日、久しぶりの雨がやつと上つた。どうやら今日は晴れそうだが、昨晩の天気予報では曇りときどき雨と報じていた」で始まる。同じ頁に「13名が自決をあきらめて投稿して生き残つた」とあり。
挟み込み:
豊川善一「現代をどう生きるか〔15〕重く暗い沈黙を破る 屈辱と嫌悪のなかから〔下〕」(『沖縄タイムス』1969年)
052】「タイトル無し」
B5ルーズリーフ2枚(1枚は記入なし)。
角川書店の原稿用紙15枚、縦30㎝、横21㎝、縦書き、直筆。「ファイルボックス4」
内 容:
学士院賞恩賜賞受賞の挨拶文か?
【053】「なかべきよら御城」
原稿用紙27枚(二つ折り)、縦21㎝、横15㎝、紐綴じ。「ファイルボックス5」
【054】「タイトル無し」
原稿用紙29.5枚(二つ折り)、縦21㎝、横15㎝。「ファイルボックス5」
内 容:
書き出しは、「『うりずむ』は今でも年□はよく用いる。冬が去ろうとして別れ寒さ(ワカリビーサ)がやつて来る。その頃吹きすさぶ北風を「ウリジンニシ」といい、やがて大地から芽ぐむ若草を「ウリジングサ」という」で始まる。
【055】「タイトル無し」
角川書店の原稿用紙6枚、縦30㎝、横21㎝、縦書き、直筆。「ファイルボックス6」
内 容:
書き出しが「私は七三歳の古稀を迎えたという実感は全然ないし、まだ六十歳ぐらいの気持ちでおるし事実、また他の者も若いですなーと言ってくれている。気分もわかいと自分でも思っている」で始まっている。
【056】「タイトル無し」
角川書店の原稿用紙31枚、縦30㎝、横21㎝、縦書き、直筆。「ファイルボックス6」
内 容:
書き出しが「宮城良泰平様にはまた一度もお目にかかつたことはないが、八重山方言の素性を出されてからは、いつもすぐそばにおられて親しく温き話しかけて下さるような気がしている」で始まっている。
【057】「タイトル無し」
角川書店の原稿用紙21枚、縦30㎝、横21㎝、縦書き、直筆。「ファイルボックス6」
内容:
書き出しが「野田校長先生を始め、職員生徒皆様のみ霊の前に、謹んで哀悼のことばを申し上げます。 沖縄戦が終って三十五回目の慰霊祭をとり行いますが、そんんあ長い月日がたつとはどうしても感じられません」で始まっている。
【058】「タイトル無し」
角川書店の原稿用紙8枚、縦30㎝、横21㎝、縦書き、直筆。「ファイルボックス7」
内 容:
書き出しが「□業□を扱つておろうが二等兵である。それは市をごろついていた暴力団の子分には二等兵としてははるかにおとる」で始まっている。ハンナ大佐の博物館のことが書かれている。
【059】「沖縄師範学校男子 学徒の血の足跡をたどる」
角川書店の原稿用紙2枚、縦30㎝、横21㎝、縦書き、直筆。「ファイルボックス7」
内 容:
「女子工業学校3月27 石部隊野戦病院」などのメモ
【060】「タイトル無し」
角川書店の原稿用紙3枚、縦30㎝、横21㎝、縦書き、直筆。「ファイルボックス7」
内 容:
手紙の下書き。途中「いつもピイユイのアパートのことが眼に浮び、先生から温く■て■をいたご温情を・・・」とあり。
【061】「タイトル無し」
角川書店の原稿用紙4枚、縦30㎝、横21㎝、縦書き、直筆。「ファイルボックス7」
内容:途中から始まっているのかも知れないが、書き出しが「しかしながら、このようにアオイソラヒロイウミとうち出して、われわれのこれからの教育への方向というか、ぼう然自失していた生徒を何とか立ちあがらせようとの強い念願をこめてアオイソラヒロイウミと書くには書いた」で始まっている。
コメント:沖縄の教科書が生徒・児童の発達過程に適していないこと、改善していきたい
ことを述べておられる。
【062】「タイトル無し」
角川書店の原稿用紙6枚、縦30㎝、横21㎝、縦書き、直筆。「ファイルボックス7」
内 容:
おそらく、中野好夫さんと、法政大学の沖縄文化研究所について。
【063】「タイトル無し」
角川書店の原稿用紙4枚、縦30㎝、横21㎝、縦書き、直筆。「ファイルボックス7」
内 容:
書き出しは「屋良先生がもう一度知事になつて貰わなければ一体、沖縄の将来はどうなるんだという気持ちを同窓生は勿論多くの県民が持つていたと思います。しかし同窓会の皆様もこれ以上ご苦労をかけてはならないと皆が思つたのではないでしようか」で始まっている。
【064】「タイトル無し」
角川書店の原稿用紙6枚、縦30㎝、横21㎝、縦書き、直筆。「ファイルボックス7」
内 容:「天底校と照屋忠英先生」の原稿。『鎮魂譜 照屋忠英先生回想録』114-117頁。
【065】「タイトル無し」
角川書店の原稿用紙2枚、縦30㎝、横21㎝、縦書き、直筆。「ファイルボックス7」
内 容:
比嘉政夫氏の研究に対する研究奨励賞受賞の評価。
【066】久志村汀間のお祭の記録(松田国昭:仲宗根先生への手紙)
松田国昭氏から仲宗根政善先生への手紙です。先生は『沖縄県国頭郡志』(1956年版)の後ろにのり付けしてあります。下記の記録は旧暦6月26日の祭祀である。
拝啓
朝夕初秋の感じが深まって参りました。
相変わらずお忙しくお過ごしの事と思います。
祭日の折は、久しくお待ち申して居りましたのに、生憎御都合が悪く大変残念でした。
今年もお祭りは例年通り、順調に行われました。私も十数年振りで故郷のお祭りを新しい眼で見る事が出来ました。
早速、模様をお知らせ致す積りでありましたが、いろいろの都合でおそくなって申訳ありません。今月の末頃は出校する予定ですが、先生も一応御待ちかねの事と思いますので、大体の模様をお知らせ致す事にします。
私の部落では、その祭日の事をハーミノホウガイ(hami-nu-hogai)と呼んで居ります。ハーミは海亀の意味で、ホーガイは捕狩の意ではなかろうかと思われます。
先ず、愈々、祭日の日は朝から村の神アサギや祈(ノロ)の殿内(トンチ)が綺麗に掃き清められます。祭典は大方夏の陽がすっかり落ちかけた有暮れ時から始められ、太鼓の合図と共に祈(ヌル)、根神(ニガミ)、若祈(ワカノロ)、其の他の神人(カミンチュ)が祈(ノロ)、殿内(トンチ)に集まり各自、火神に線香をたき、祭典の時の服に着替えます。
服装は写真で御覧の通り、祈(ノロ)、根神、若祈の三人が頭に紫色のウチクイを結び、白絹の衣を着け、其の他の神々(ワキジキ・サグン神)や神人は頭に白いウチクイ白絹の衣という格好です。
故老の話ではずっと以前には珠玉を纒ったり、五色の杖を持って装いを凝らした様です。
祭典の始めは神アサギに於いて祈、根神、若祈(以上三人が主役j)の外ワキジキ、サグン神、其の他。神人(以上皆女性 計十二名)の外に、数人の根人(男)が参加して行われます。
根人は男の人で各々ウチワ神太鼓神、ニイブ神等の名で呼ばれています。(而してそれは神ではなくして係の意味ではないかと思はれます。
最初の祭典は太鼓の音に合わせて祈の音頭に合わせて祝詞の様なものを一同で唱和して行われます。歌の意味は勿論私たちには全然解りませんが、韻の同じ事から対句をなしている様な気がしました。
歌は祈、根神、若祈の三人の音頭で始められ、残りの神人の反唱が繰返されます。歌の調子が大変遅いので、途中jからはっと思い出して出来るだけ記録致しました。歌が進むにつれて次第に一種の霊感があたりを包んでしまいます。そして終わりになりますと、テンポが急調子に変り、神々しい気分の中に歌と太鼓の音のかもし出す一種のにぎやかな感じが湧上って来ます。
最後はますますテンポを早め踊りを伴う事もある様です。それはまず豊饒を祈る山の神への祈りらしいです。
祭典には村の区長さんを始め、多くの人々が列席し、酒肴と御酒が配られ、お祈りの間、皆頭を深く垂れ、無言の侭周囲の霊感をひときわ深めます。
(歌や注書があるが略)



▲汀間の神アサギ ▲ノロ殿内の前 ▲右から根神、ノロ、若ノロ
写真は松田国昭氏撮影
【067】
名護市長選挙で稲嶺氏が前回の票数より大幅な増で勝利しました。その足で「永遠の0」の映画をみました。映画をみながら、仲宗根先生の以下の文章の場面、そして喜納政業氏の戦争体験、その後の二方の動きが重なってきます。戦争は勿論のこと、基地を置くことで、置いたことで一人ひとりの人生をおおきく左右します。
『幸地新蔵先生の思い出』(昭和54年)所収
「帰郷の道をひらてくれた両先輩、伊波普猷・幸地新蔵」
昭和七年頃は、不景気のどんぞこであった。上野公園のベンチは、すべてルンペンが占領し、寝そべっていた。上野駅構内にもあふれて、不忍の池から東大へ通ずる路地で、角帽をかぶっていた私は、「インテリゲンチャー!馬鹿野郎!」と、大手をひろげて前に立ちはだかり、どなられたことがあった。うっかり一人歩きも出来ないぶっそうな世の中であった。
昭和七年三月、東大を卒業して、角帽をぬいだとたんに、われわれも街頭のルンペンの群れにぶちこまれたのである。朝日新聞に、高い広告料を払って、家庭教師の口を求めたが、一枚のハガキも来ず、下宿の窓から空を眺めて、青息吐息をはいていた。
伊江朝助男爵のお宅へ、就職のお願いに行った時、京都大学を出た一中の同期生、我那覇朝啓君も来合わせていたが、飼犬の猛犬に吠えられてすごすご二人で帰ったことがあった。
(工事中)
北国の冬枯れの野のように硝煙弾雨で、焼けただれて、鬼気のせまる島尻の戦野を、わが子の最後をさがし求めて歩いている母親の姿を思い浮かべると、涙がにじむ。
私は、ひめゆりの塔の壕で、娘をなくしたご両親をともなって、壕を案内したことがあった。その母親は、壕の中におりて行くといって帰ろうとしなかった。ひめゆり塔の中で乙女らの声が聞こえるといううわさが伝ったとき、壕におりて行って一晩中じっと耳をすましていたという母親のいたことも聞かされた。
沖縄戦で二十余万人の人間が死んだ。その母親たちは、皆、息子や娘の最後をさがし求めて来たにちがいない。それにかかわらず、多くはその望みは水泡に帰した。三十四年(昭和54年)たった今日でも、娘の死を信ぜず、どこかに生きていていつか帰って来るにちがいないと待っている九十才になる母親のいることを私は死っている。母親の愛情をそそぐ子を、決して死の彼方へおいやりたくない。いつまでも抱きしめていたいというのが、親の真情であり、子の遺骨を求めさがすのは、その骨を抱きしめたいというのではなかろう。いつまでも生みのまま子を抱きしめていたいのである。母の子に対する永遠の思慕である。
私は歌子夫人を偲ぶごとに、母性愛の深さを感じせられ、常識でははかりしることの出来ない親子のきずなを思い知らされる。
新蔵先生がなくなられたとき、那覇でおくれて知った。お宅にかけつけた時は、もう野べ送りもすませ、親類縁者ばかりが悲しみにつつまれて家に残っていた。庭に火をたいて、家の裏座の方から死霊を追い払う最後の行事をとり行っていた。
新蔵先生のみ霊の前にぬかづき手を合した。哲郎君のみ霊も仏壇に祀られていた。先生のご冥福を祈り、深いご恩顧に謝した。私は郷里に呼び寄せて下さったのは先生であった。沖縄戦にあい予期もしなかった苦労をしたとはいえ、郷土で働きつづけえたことはこの上ないしあわせであった。
高潔な人格をそなえ、気品高く、人を包容する雅量ある大器でいらした。恩情あふれ、人を愛し、万人から敬慕された偉大な先輩であった。教育・産業・政界はもとより、社会全般に尽された偉大な先輩であった。教育・産業・政界はもとより、社会全般に尽くされた偉大なご功績は、いつまでも輝くことと信じる。
