寡黙庵 2018年7月の記録        沖縄の地域調査研究(もくじ) 
                  (住所:沖縄県国頭郡今帰仁村字謝名)   
                            
 問い合わせ(メール)  
 
              

2017年4月 ・2017年5月 ・2017年6月  ・2017年7月2017年8月  
2017年9月  ・2017年10月 ・2017年11月 ・2017年12月  2018年1月 2018年2月へ
2018年3月)  2018年4月  2018年5月  2018年6月

やんばる学研究会(開催案内


ムラ・シマ講座へ(25期4回は9月、8月は休み)



2018年7月30日(月)

 2008年に調査した「今帰仁村今泊の海神祭(ウンジャミ)を整理。9月に各地海神祭があるので、調査する予定。今帰仁村今泊の海神祭を2008年当時の様子を思い浮かべてみることに。



2018年7月29日(

 今月は喜界島、奄美大島、加計呂麻島、徳之島、沖永良部島、与論島、沖縄本島の北部、本島周辺の島々、久米島、宮古島、多良間島、竹富町の島々(黒島、小浜島、竹富島、波照間島)、与那国島の記録を振り返ってみました。それは山原船、刳船、宮古船、楷船など、船と運搬される物資についてまとめる為です。8月が締め切り。ベトナムや喜界島まで足を延ばしました。奄美は「琉球と奄美」がテーマです。

 調査研究を各地を踏査し、それぞれの地に足を置き、歴史を軸にしながらムラ・シマを見ていくこと、それと過去の記録に目を通していきます。考えていくことの楽しさ?面白さ? それは一生、あるいはあの世に行ってもやめられないかもしれない。

 さて、さて今週は。


2018年7月28日(土)

 
【宮古船】
7月3日参照

 宮古船につて、宮古船は倭船の構造に類似し、外部の形はシナ船より日本船に近い。帆の中心に桅が通るように懸けた。

   ・前の屋船
   ・原立船(原立は村名)
   ・中立船(中立は村名)

   ・うるかみうに(砂川船)
   ・海船(楷船)

日本船とシナ船の違い
 ①日本船は狭小でシナ船は高大である。
 ②日本船は大木を使用して造り、板の接合に釘を使わず相思合縫する。
 ③罅隙ふさぐのに草皮を詰めて、麻筋や桐油などは使用しない。
 ④帆は桅の正中に懸け、シナのように一方に偏して懸けない。
 ⑤桅は可動性で風のない時、または逆風の時は桅を倒して櫓で進行する。シナ船の桅は船に定着。
 ⑥日本船は船底が平になっていて、凌波力がない、シナ船は尖鋭である。

宮古船は?
馬濫船は?


【粟国島】

 粟国島は離島なので本島との連絡は船であった。古い時代から船は生活物資の輸入や経済や文化と欠くべからずものであった。昔の船は五、六名乗りの伝馬船や山原船で貢祖物や生産物資の輸送、番所からの達(公文書)の発送がなされていた。常に航海は危険がともなっていた。
 
 帆船は風を頼りにしていた。航海は思う通りにはいかず、那覇に行くのに十日や二十日ぐらいかかるのは普通であった。一ヶ月も本島に滞在することも度々あったという(『粟国村誌』)。粟国島のことを思い出すために過去の調査記録を見ることに。当時、船についての関心での調査ではなかった。

 「北山と粟国島」、まだ死者を火葬にしない島、島のウタキと祭祀、烽火台、印部土手などがテーマであった。平成19年と21に訪れたままなので大分変わっているでしょう。http--yannaki.jp-agunijima.html

【粟国島の山原船の所有者】

・毛平の船       船主 与那嶺昇栄
・アヂ門の船      船主 宮里盛保
・ナカンヤの船 船主 伊佐栄三

【村内法にある船の規定】

 ・第20条 吏員共公用ニ付出覇ノ節ハ滞在四〇日ヲ過グ・・・・・・・
 ・第21条 地船格護方不行届シテ洩所出来或ハ・・・・・
 ・第22条 当島交通ノ船舶アルトキハ・・・・・・
 ・第23条 地船当津口碇泊アルトキハ・・・・・・・
 ・第24条 御用ニ付那覇或ハ渡名喜島へ飛船差立候節ハ・・・・・・・

2018年7月27日(金)

 2006年9月に本部町伊野波のシヌグ(ウシデーク)の調査をしている。シヌグについては、すでに報告したので略するが、画像の一枚に「奉寄進 咸豊九年己未九月吉日 本部按司内 渡久地仁屋」とある。本部町に同年号の香炉を三基確認している(伊野波・並里・辺名地・具志堅、但し人物名は異なる)。本部御殿へ奉公人していた渡久地仁屋(伊野波村出身)が本部按司に同行して薩摩、あるいは江戸登をして無事帰郷したの寄進したのではないか。咸豊九年前後の史料にあたってみるか。

 
▲シニグ(ウシデーク)の舞いの途中で登場   ▲アサギミャーで舞うウシデーク

 
      ▲銘のはいた香炉               ▲ムックジャ儀礼で扮装するハーブイや腰巻き

 「三司官伊江朝睦日記」(嘉慶18年:1813)に、以下のようにある。

  一、兼城筑登之親雲上相逢う、大和の咄共承候、立形石燈籠なども積み下候間、早々御方可申付由。

 今帰仁城跡にある大型の石燈籠(今帰仁王子)、国頭村比地の国頭按司の石燈籠、辺戸の石燈籠、奥の石燈籠がある。それと、各地の拝所にある仁屋(にや)の銘のはいった石香炉との関係?


2018年7月26日(木)

 この年は久米島に集中した年である。大宜味村の謝名城と田嘉里の聞取り調査に参加する。植物について具体的に教えてもらう。謝名城と田嘉里が海の生活とは離れている印象。田嘉里では屋嘉比川(田嘉里川)との結びつきが強い印象をもつ。

 ガンヤーをキーワード゙で大宜味のくくれないか。それはノロ管轄村と重なるか。干潮時の屋嘉比川の河口とクガリ山、屋嘉比川上流まで。

 
   ▲謝名城公民館での聞取り(大宜味村史)     ▲田嘉里集落センター(大宜味村史)

 
      ▲田嘉里川の河口                  ▲田嘉里の喜界島ノロの伝承をもつ「くがり山」

http--yannaki.jp-2010kiroku.html(久米島など)


2018年7月25日(水)

 現役の頃、様々なテーマで動いていた。一つひとつ取り上げていく。

http--yannaki.jp-2002nen9gatu.html(運天のタキヌウガン・中南部のグスクなど)


2018年7月24日(

 昨日足首が痛くビッコをしながら整形外科へ。レントゲンをあてての検査。骨折や骨にひびがはいていず、痛み止めの飲み薬ですむ。これからシマジ・マの踏査は、できなくなるか! 2007年に喜界島と奄美大島を踏査した記録を見つける。奄美大島の画像が見つからないと思ったら、デジカメのカードが一杯で写していなかったことがわかる。その失敗があり、容量の大きいカードにしバッテリーも予備を持つようにしている。その失敗で学習したつもりだが。足の痛みは喜界島でぬかるみに足をとられ、ひっくり返った時の後遺症か(その時、デジカメを一台ダメしている)。

http--yannaki.jp-2007nen5gatu.htmlの調査記録。


2018年7月23日(

 2011年7月5日に「宮古島のムラ・シマ」(地域文化論)で講義をしている。宮古島全域についての内容なので島々の紹介程度の内容。黒島は訪れていなかったので略(黒島は後に訪れる。黒島の「おんころ島」の映画の現場確認のため)。

 上比屋山遺跡(旧城辺町砂川)には、海船(楷船)造船技術の伝来者砂川大殿を祀った「前の屋御嶽」があるという(倭寇史跡の研究:稲村賢敷著昭和32年)。「前の御嶽叉紙」に前の屋御船の図が記されている。海船(楷船)は、宮古と琉球(沖縄本島)との間を往来し貢物を運搬し、近海で漁猟する刳り舟とは異なる。海船(楷船)は、宮古船と呼ばれ近世になって原立船や中立船と呼ばれているようである。宮古での原立や中立は村落名のようである。船の構造につい稲村賢敷は、宮古船や黒島船は日本の造船技術を取り入れたのではないかと。

 上の山遺跡は発掘遺物の宮古島への移入(倭寇?)、近くにある砂川の遠見台の確認。「雍正旧記」の番所(村屋)の場所。

 
▲「前の屋御嶽の双紙」(光緒十三年写)(「倭寇史跡の研究」所収より


  

 
▲宮古張水港での造船の様子(メルビンハッキンス氏撮影)今帰仁村歴史文化センター所蔵(昭和30年頃)

2018年7月22日(

 2007年2月徳之島(天城町)で「琉球と徳之島」をテーマで講演をしたことがある。沖縄国際大学で「琉球と与論島・沖永良部島・徳之島三島」のタイトルで報告したことがある。喜界島、奄美大島、南側の瀬戸内町、加計呂麻島を踏査していると、特に古琉球の痕跡が根強く遺っていることに気づかされる。講演レジメを捜してみるか。

徳之島(徳之島・伊仙町・天城町)


2018年7月21日(土)

 喜界島、奄美大島、瀬戸内町、宇検村などの辞令書やノロ遺品などに目を通す。

20111031日(月)メモ

 10月27日から徳之島。徳之島町の資料館へ。そこには「手々ノロの辞令書」と漆の櫃が展示(徳之島町指定)されている。琉球のノロ関係資料を見るには、奄美のノロ辞令書も視野に入れる必要があるからである。それと手々ノロを出した手々までいく。手々ノロの遺品は徳之島の亀津の資料館(徳之島生涯学習センター内)が所蔵されている。

 手々村は徳之島の北端に位置し、辞令書が発給された頃(万暦28年:1600)「とくのにしめまきり」(徳之西銘間切)の内である。近世の手々村は岡前噯(現天城町内)で、手々が現在の天城町域、あるいは徳之島町内になったり、間切(方切)の変更があり、深見家文書の辞令書の外にノロに関わる近世資料からノロの祭祀や継承についてみていく必要がある。

 首里王府と徳之島手々村との交流(首里王府の奄美の統治)。1500年代首里王府は辞令書を発給し、奄美の島々(徳之島)をどう統治していたのか。薩摩の琉球侵攻以後、与論島以北が薩摩化されていくが、このノロ制度、ノロ家の遺品が今に伝えられ遺されている。琉球的な多くのものが消されていく過程で、このノロ制度が生かされてきたのは?(明治以降の琉球・沖縄におけるノロ制度の廃止に向けての流れと道は一つのような・・・) 

・徳之西銘間切の手々のろ職補任辞令書(万暦281600年)(徳之島)

 
 しよりの御ミ事
     とくのにしめまきりの
     てゝのろハ
       もとののろのくわ
   
一人まなへたるに
    たまわり申し候
  しよりよりまなへたるか方へまいる
  万暦二十八年正月廿四日

 
  「徳の西銘間切手々のろ職補任辞令書(1600年)(徳之島町立郷土資料舘)


    ▲火事で焼けた手々ノロ遺品(簪や布や文書など)

 
  掟大八の屋敷の説明板          掟大八の力石(徳之島町手々)

 
          ▲火事で焼けた簪(今帰仁村勢理客ノロの
)(手々ノロの簪と同様に焼けた色)

2018年7月20日(金)

古琉球の辞令書と奄美

 近世以前の古琉球の時代、奄美に首里王府から発給された辞令書がある。辞令書に出てくる「まきり」(間切)名を『辞令書等古文書調査報告書』(昭和53年:沖縄県教育委員会)からあげてみる。20数点の辞令書が確認されている(散逸含)。喜界島と奄美大島、徳之島に残っている。徳之島に一点、沖永良部島と与論島には確認されていない。どの島も「まきり」(間切)制が敷かれていたようである。与論島と徳之島でも辞令書が発見される可能性は十分にある。古琉球の辞令書で、まきり(間切)は登場するが行政区分のむら(村)とは登場しない。後のむら(村)なるしとおけ(志戸桶)、かさ里(笠利)、きせ(喜瀬)、たいくま(大熊)、やまと(大和)、なおん(名音)、なから(名柄)、あてん(阿田)、あさと(朝戸)、けうち(屋喜内)、すこむ(須古茂)、こ志(古志)、へれん(部連)、うすく、いんほし、あきにや(阿木名)、さきはる(先原)、さわ、などが辞令書にでてくる。

 古琉球の辞令書と島々の「まきり」(間切)との関係は、三山統一後の琉球と奄美の島々との統治の関係を示すものである。近世の島々の間切は、薩摩の統治下に置かれたが1609年以前の間切の名称や区分を踏襲していると見てよさそうである。「にしまきり」と「ひかまきり」は他の島にも同名(ひかぎり・にしまきり)の間切名があるので首里王府は「せとうち」(瀬戸内)や「とくの」(徳之島)とつけて区別している。
 
 「喜界島に使いされた(任命?)された神女(押笠)が喜界から大島の笠利を中瀬戸、徳之島、沖永良部島、与論島を船で沖縄島に帰った」様子が伺える。辞令書にはなからのろ(名柄のろ)、たいくまののろ(大熊のろ)、こしののろ(古志のろ)、てヽのろ(手々のろ)にも、後の村名をかぶせている。

  ・かさりまきり(笠利間切)(嘉靖8年:1529年)
  ・せんとうちひかまきり(瀬戸内東間切)(嘉靖?)
  ・せとうちにしまきり(瀬戸内西間切)(嘉靖27年:1548年)
  ・きヽやのしとおけまきり(喜界の志戸桶間切)(嘉靖33年:1554年)
  ・やけうちまきり(屋喜内間切)(嘉靖33年:1554年)
  ・やけうちまきり(屋喜内間切)(嘉靖35年:1556年)
  ・〔かさりまきり〕(笠利間切(隆慶2年:1568年)
  ・せとうちひかまきり(瀬戸内東間切)(隆慶2年:1568年)
  ・ききやのひかまきり(喜界の東間切)(隆慶2年:1568年)
  ・せとうちひかまきり(瀬戸内東間切)(隆慶5年:1571年)
  ・やけうちまきり(屋喜内間切)(隆慶6年:1572年)
  ・やけうちまきり(屋喜内間切)(隆慶6年:1572年)
  ・せとうちにしまきり(瀬戸内西間切)(萬暦2年:1574年)
  ・せとうちにしまきり(瀬戸内西間切)(萬暦2年:1574年)
  ・せとうちにしまきり(瀬戸内西間切)(萬暦2年:1574年)
     (受給者不明)(年欠)
  ・やけうちまきり(屋喜内間切)(萬暦7年:1579年)
  ・なせまきり(名瀬間切)(萬暦7年:1579年)
  ・やけうちまきり(屋喜内間切)(萬暦11年:1583年)
  ・なせまきり(名瀬間切)(萬暦15年:1587年)
  ・せとうちひかまきり(瀬戸内東間切)(萬暦16年:1588年)
  ・せとうちにしまきり(瀬戸内西間切)(萬暦23年:1595年)
  ・とくのにしめまきり(徳の西目間切)(萬暦28年:1600年)
  ・せとうちにしまきり(瀬戸内西間切)(萬暦30年:1602年)(こし(古志)のろ)
  ・なせまきり(名瀬間切)(萬暦35年:1607年)
  ・なせまきり(名瀬間切)(萬暦37年:1609年)

琉球からのノロ辞令

 「徳の西銘間切の手々のろ職補任辞令書」がある。萬暦28年の発給で徳之島は首里王府の統治下にあったことを示す史料である。奄美にはこの辞令書だけでなく瀬戸内西間切、喜界島の志戸桶間切など20数点が確認されている。いずれも1609年以前の古琉球の時代に首里王府から発給された辞令書である(1529~1609年)。確認されている最後の辞令書は「名瀬間切の西の里主職補任辞令書」(萬暦37年2月11日)である。それは島津軍が攻め入った一ヶ月前の発給である。

 辞令書はノロだけでなく、大屋子・目差・掟など、首里王府の任命の役人などが知れる。首里王府の16世紀の奄美は辞令(首里王府:ノロや役人の任命)を介して統治している。そしてまきり(間切)の行政区分がなされ、役人やノロに任命されると知行が給与される。役人は租税(貢:みかない)を集め首里王府に納める役目であったと見られる。

 古琉球(16世紀)の奄美と琉球との関係を「辞令書」を通して見ることができる。手々集落内に琉球と関わった(グスクの築城)という掟大八が力ためしに用いたという石が屋敷に置かれている。今回いくことができなかったが掟大八と家来の六つの墓があるという。それらを按司墓と呼んでいる。1611年与論島以北は薩摩の統治下になり、薩摩の制度が被さっていくが、それでもノロや間切や首里王府時代の伝承など近世まで根強く引きずっている。

・徳の西銘間切の手々のろ職補任辞令書(1600年)
  しよりの御ミ(事)
    とくのにしめまきりの
    てヽのろハ
       もとののろのくわ 
    一人まなへのたるに
    たまわり申し候
  しよりよりまなへたるか方へまいる
  萬暦二十八年正月廿四日

 
▲徳の西銘間切の手々のろ職補任辞令書
(万暦28:1600年) ▲屋喜内間切の名柄のろ職補任辞令書(萬暦11年:1583)
(『辞令書等古文書調査報告書』沖縄県教育委員会)所収より  (『辞令書等古文書調査報告書』沖縄県教育委員会)所収より

  
▲屋喜内間切の名音掟職補任辞令書(嘉靖33年) ▲屋喜内間切の先原目差職補任辞令書(隆慶6年) (宇検村吉久家)

・徳之西銘間切の手々のろ職補任辞令書(万暦28:1600年)(徳之島)

 
 しよりの御ミ事
     とくのにしめまきりの
     
てゝのろハ
       もとののろのくわ
   
一人まなへたるに
    たまわり申し候
  しよりよりまなへたるか方へまいる
  万暦二十八年正月廿四日



奄美大島の現瀬戸内町と現宇検村あたりの琉球の影(未完)

2018年7月19日(木)

 2008年に「今帰仁村の文化財」指定の文書や地図やノロ遺品などを整理したことがある。10年になるので記憶の彼方。ボツボツ歴史の方に足を向けることに。それらの史料は断片的には使ってきたが、歴史の流れにはめ込んでみることに。2008年に整理した風景を思い出してみる。

http--yannaki.jp-2008nen2gatu.html


2018年7月17日(火)

 以前、国頭村比地の調査をしたことがある。その時、「中之宮」の石灯籠と香炉について触れたことがあるが、途中で終えている。再度、確認してみるか。

【国頭村比地の石灯籠と国頭王子政秀】

 1849年福寧府に漂着した国頭船には五人が乗り組んでいた。そこで救□を受け、、また船の修理をしてもらった後、福州を経て同年接貢船とともに帰国した。この国頭船が比地船であったことは、比地の中の宮とびんの嶽にある石灯籠及び石香炉によって知ることができる。・・・正面に国頭王子正秀の銘が刻まれ、横面に道光29年己酉と刻まれていた(現在摩耗し判読困難)。また中の宮の香炉の一基に道光29年9月吉日に神山仁屋と山川仁屋が「奉寄進」している。その香炉は小玉森の拝所にある「神山仁屋」とある香炉と同じ年代にちがいない。

 びんの嶽の石香炉の一つに道光29年9月吉日に国頭王子正秀が寄進している(『国頭村史』)。

 石香炉や大きな石灯籠は首里に住む按司クラスと関係がある。その典型的な石灯籠は今帰仁グスク内のもので、これまでの石燈籠の年号の古いのは今帰仁グスク内のものである(乾隆14年:1749)。





2005年7月の動きアップ


2018年7月16日(

 「喜界島と琉球」と関わる出来事の整理。


2018年7月15日(

 さて、連休。先日喜界島でぬかるみで足をすべらし、デジカメを壊し、足をうち、痛みがとれず。「寡黙庵」でのんびり過ごすか。


2018年7月14日(土)

 久しぶりの古宇利島のムラ・シマ講座。ムラ・シマ講座参照 七森七嶽(ナナムイ・ナナタキ)を中心にしたタキヌウガンであるが、その中のソウヌウタキのイベのみ確認していなかった。ソウヌウタキの森は知っていたが、遥拝がなされていた。島の玉城氏がウタキのイベを教えてくれるとのことで、案内いただいていた。その画像がでてきたので紹介。かき分けかきわけ崖の下にあるイベへ。




2018年7月10日(

 月曜日、南風原町で大宜味村史(言語編)の調査に参加する。主に語彙の発音、音韻、アクセントの確認でした。喜如嘉・塩屋・屋古が中心であるが、これまでの調査データで言語地図を20枚ほど作成したことがある(1988年)。大宜味村の集落区分の呼称は「・・・・バール」であった。本部半島から旧羽地間切は根強く「・・・バーリ」、大宜味間切域が「・・・バール」、そして国頭間切・名護間切域が複数呼称、恩納間切の南側が「・・・ダカリ」である。その時、集落を区分する呼称はバーリ→バール→ハルへの変化(・・・の方、ダカリはタカル(集る)、P音に関して言えばP→F→Hの変化とみてきた。国頭村や名護間切域が混在した呼称は他地域から移動があるのではないかと考えていた(歴史の変遷)。

 字別の言語地図を作成していると、大宜味村内での変化がみられ興味深い。国頭村まで広げて見ることで、集落呼称でみえるように、大宜味村ではバーリからバールへ、P音からフィへと変化。その変遷の過程に大宜味村の音韻の変化があるのではないかと。言語地図から大宜味村の言語の広がりがいくつか見えてくる。下の図(右図)からもおおざっぱに上方、下方の意識が言葉に見えてくる。
   ・北山の興亡で国頭地方へ流れた一族
   ・中山に滅ぼされ、中山に組した一族
   ・大宜味含めて国頭按司の領域
   ・1673年に国頭・大宜味と分かれる。
   ・羽地間切から大宜味間切へ(津波)
   ・屋嘉比・親田・美里が国頭間切から大宜味間切へ。
   ・番所が田港→大宜味→塩屋→(大宜味へ)
   ・国頭間切と羽地間切とでは租税を納める日のずれ
   ・屋嘉比ノロ管轄の村、城ノロ管轄のムラ、田港ノロ管轄のムラ
   ・租税を集めていた組長の屋号(ナーカ・マスドゥイ・クラニー・ウイジョウなど)
   ・明治以前、以後の寄留 
   ・どこから来た一族なのか
   ・校区(明治以降の学校教育)
   ・山仕事、海仕事(道具の名称の違い)
などなど。音韻やアクセントの違いや変化については、わからないが、上のようなことが起因しているのではないか。一言で言えるものではないが、これから一つ一つ考えてみることに。   




 



2018年7月8日(

 喜界島・奄美大島に気を向けている間に足もとにあれこれ積もっている。一つ二つ片付けみるか。
「玉城字誌」のグラビアの編集でもしてみるか。





2018年7月7日(土)

 先日、奄美大島の瀬戸内町まで行ったのであるが、加計呂麻島まで渡ることができなかった。記憶をよみがえらせるためにアップ。神アサギやノロ祭祀を見ていく上で欠かせない島である。(7月3日の瀬戸内町郷土舘のノロ関係の遺品の展示参照のこと)

加計呂麻島(東方へ)

加計呂麻島(西方へ)


2018年7月6日(金)

 台風の影響で雨が続いているので草が伸び放題。その中にバナナが実っている。食べられる? 回りで蝶がまっている。パッションフルーツは富山の娘の方へ送る。バナナの一本は未熟のまま、もう一本は雨続きのせいかはち切れている。熟するかどうか。先月、農学校の生徒からいただき植えた苗に緑濃いゴーヤーが一本。苦くて美味しそう。野ぶどうも色づいている。雨の一日、庭の植物と戯れる(ハプニングが続く年寄りにはいい薬)。

   

2018年7月4日(水)

 雨の中、国頭村の案内。大宜味村役場から喜如嘉を通り謝名城国頭間切の浜番所跡、その後奥間番所跡(現奥間小学校)までが宿道(すくみちコース(国頭役場は略)。その後は比地の小玉森、、与那トンネルの旧橋と旧トンネル、辺野喜にある宇嘉と辺野喜の村墓(共同墓)、宜名真の通称「戻り道」、辺戸の未知の海岸道路、与那の高坂、奥尋常小学校跡(宜名真・辺戸・奥の学校への道筋)、奥側で道路に使われたコンクリートの道路跡の確認。

 
  ▲浜の番所跡火神の祠       ▲国頭間切番所があった浜への渡り場(田嘉里川)

  


2018年7月3日(

 台風通過の後片付けに追われる。「寡黙庵」の片付けは今日の予定。喜界島と奄美大島での収穫が多かった。喜界島の「まとめ」が不十分のまま次に進めなければならず。

 喜界島から奄美大島へ。空港で車を借りると名瀬市を通過し、名瀬市住用町(国道58号)を南下し瀬戸内町へ。様子をみて加計呂麻島までの予定にしていたが、瀬戸内町郷土館まで。舘でノロ関係の展示の撮影の快諾をいただき、また加計呂麻島で新しく丸櫃と衣装が発見できたとのこと。アシャゲの保存についての情報交換をする。

  (ちょうど奄美で、世界文化遺産「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」に
   ついて報道でしる。沖縄から奄美にかけて残るノロ制度と関係遺品が琉球のある
   いは沖縄の歴史・文化でもっと浮き上がってこないのか)

【瀬戸内郷土舘のノロ関係遺品】(展示)

  
                           ▲玉チブルや丸櫃      ▲最近確認された丸櫃(請阿室)

  
     ▲鳳凰の描かれた扇             ▲鳳凰が彫られた簪      ▲玉ガーラや首飾り(玉製品)

2018年7月1日(

 喜界島・奄美大島、台風接近で脱出といった感(航空便は予定通り。加計呂麻島渡りはあきらめ)。瀬戸内町の資料館まで。町氏と情報交換。まずは、喜界島・奄美大島を脱出の報告。

 喜界島は宿がとれず、宿さがしをしながら赤連→池治→中間→(中熊?)→坂嶺→伊砂→伊実久→小野津→(工事中でどう回ったか不明)→城久へ。赤連にもどり歴史民俗資料館へ。ノロ関係の遺品の展示を撮影させてもらう。まだ明るいので百之台地へ。標高200mの台地である。台地上から東海岸沿いの花良良、蒲生、阿伝、嘉鈍などを望む。

 百之台にグスク時代の集落が発達していたのではないかとの予測。台地に「七十七曲り(九十九曲り)」の説明版を拝見。喜界高校が坂嶺にあった頃、東海岸の通学路になっていたという。この七曲りは湾や赤連のマチへや台地上の農耕地への交通手段になっていたようだ。台地の斜面はあちこち土砂崩れ跡があり、私の脚力での登り降りは無理(現在通行止め)。


 

 
       ▲城久公民館                 ▲歳暮されている城久公民館周辺

  
              ▲喜界町歴史民俗資料館のノロ関係展示遺品

 
昭和4年発行の「鬼界雑記」で紹介された阿田のろ職補任辞令書(1569年)がある。喜界島のノロと関わる地の一つである阿田村。

【鬼界の東間切の阿田のろ職補任辞令書】(1569年)

  しよりの御ミ事           首里之御ミ事
   ききやのひかまきりの       喜界の東間切の
   あてんのろは             阿田のろは
      
もとののろのおとゝ             元ののろの妹
   一人ゑくかたるに          一人ゑくか樽に
   たまわり申候            給わり申候
  しよりよりゑくかたるか      首里よりゑくか樽
           方へまいる          方へまいる
  隆慶三年正月五日         隆慶三年正月五日(1569年)

 この辞令書は「喜界島の早町村の阿伝の勇という旧のろくもいの家でもこれを一枚秘蔵している」(伊波普猷全集第五巻)と。太平洋戦争で焼失してしまったという(『喜界町誌』)。阿伝のノロ家は、早町村にあったのか、それとも阿伝村の勇家(現:山野家)なのか。阿伝ノロ家が早町村にあるなら、古琉球の時代の喜界島におけるノロは、複数の村を管轄していたことがわかる。

 
      ▲阿田地区の公民館                   ▲阿田集落内の石垣

 ふっと思い出して、佐手久集落へ。そこに七城跡があるという。七城跡の西側の先端部は隆起珊瑚礁の小高森で、保食神社の裏山は神聖な場所で城久(ぐすく)と呼ばれるという。「保食神社」を手がかりに集落の後方に回ってみた。このグスクが山田城や勝連城の伝承に登場する喜界島の人々ではないかという。ここには米須公の墓があるとか、佐久久ノロの話などがあり、琉球との関わりを示す例か。

  
▲佐手久地区公民館(後方の森が保食神社)      ▲神社登り口左側に石棺あり

 佐手久集落の北東部に志戸桶がある。志戸桶村を指していると見られる辞令書が確認されている。「喜界の志戸桶間切の大城屋子職補任辞令書」(嘉靖三十七年八月廿九日)がある。「辞令書等古文書調査報告書」沖縄県教育委員会:昭和58年度)所収。

 しよりの御ミ事              首里の御詔 
   きヽやのそとおけまきりの       喜界の志戸桶間切の
   大ぐすくの大やこハ           大城の大屋子は
   ちやくにとみかひきの         百富のひきの
   一人さわのおきてに          さわの掟
   給わり申し候              給わり申し候
 しよりさわのおきての方へまいる   首里のよりさわの掟の方へ参る
 嘉靖三十三年八月廿九日       嘉靖三十三年(1554)八月廿日

 ここでの「大城」は役職ではなく「大きなグスク」は七城をさしているのではないか。集落内に「ミヤ跡」があり、「此の一画を「ミヤ」と呼んでいるが、其の由来は古く、主に琉球王朝時代から薩藩時代にかけて、村の祭祀を司る野呂達が村人の繁栄や五穀豊穣を祈願して年貢歳歳神事を執り行った所だと伝えられている。
 現在、僅かながら昔日の名残りをとどめている此の「ミヤ」跡は、末永く保存すべきだと考え、碑を建立した次第である。」と。

 二日間、喜界島の村々を踏査していると、琉球的な痕跡を引き出してみる必要がありそう。琉球側の正史に記されない出来事が、それぞれの地域に引き継がれているのではないか。そんな印象。

 
      ▲志戸桶地区公民舘          ▲喜界の志戸桶間切の大城の大屋子補職辞令書(1554年)


 
  ▲志戸桶集落の中心部にある「ミヤ」跡        ▲集落の中心部の交差点