奄美大島の加計呂麻島の神アサギ


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2003.2.23()メモ

 少し気分転換に奄美大島の加計呂麻島を机上で散歩してみましょうかね。加計呂麻島は奄美大島の南側に位置し、瀬戸内町に属している。机上とは言ったのであるが、沖縄県博物館協議会が瀬戸内町で開催されたとき(平成10年10月5日から8日)加計呂麻島を訪ねている。

 平成10年10月5日、みんなより一日早めに奄美に入り、瀬戸内町の油井の八月祭を見た記憶がある。大雨の中、瀬戸内町郷土館の学芸員をしている町氏が空港まで迎えにきてくれたことが思い出される。数名のメンバーがその祭りをみるために1日早めにくるだろうと思っていたら私一人だった。大雨の中、曇った窓ガラスをふきながら(クーラーの壊れた車だった?)工事中の道を二時間余りかかった。ほんとに今でも感謝していますよ。町さん。その時のノートがあるはずだが・・・。時の写真アルバムはありました。

 ノートは見つかりませんがアルバムから記憶jをたどってみます。平成10年10月5日「油井の豊年祭」を見学している。他の博物館のメンバーは翌日に瀬戸内に入るとのこと。一人参加となった。来賓席に招かれて恐縮してしまった。やはり仕事柄座って見学とはいかず撮影と記録とりに動いています。

 八月踊りにはひょうきんな仕草があり、面をかぶっての踊りであった。到着前に綱引きや大和相撲は終わっていた。綱引き・土俵入り・前相撲・稲刈り・稲すり・米つき・力めし・観音翁の土俵見回り・ガットドン(赤ふんどし)・玉露加那(タマツユカナ)が行われた。その日は大雨で演目のいくつかは体育館の中で行われた。あいさつを求められコメントを述べたが覚えていません。

 加計呂麻島に渡ったのは7日である。諸鈍・呑之浦・須子茂・木慈などのムラをまわった。一つ一つのムラについては、ノートを発見してから整理するとして、神アサギはなかなか興味深くみることができた。沖縄でいうウタキがオボツ山や神山となり、ノロ屋敷などもあり山原の集落形態に近い印象を持つことができた。

 神アサギの建物は山原の建物と赴きが異なる部分がある。屋根が高く現在のは床が敷かれている(大宜味村の根謝銘グスクの神アサギに近い)。古い茅葺屋根の神アシャゲは沖縄の古い神アサギとよく似ている。傍にはアサギナーに相当する広場があり加計呂麻では土俵が設けられたところがあった。加計呂麻島には神アシャゲとは別にトネヤと呼ばれている建物がある。気になる施設である。

 薩摩の琉球侵攻後、与論島以北は薩摩の領地に組み込まれ、砂糖の生産から米作に切り替えさせられている。祭りそのものが大和的だなという印象が強く残っている。「油井の豊年祭」をみながら、しきりに琉球と薩摩の歴史や文化の「くさび論」を頭で展開していたように思う。一度では集落の地理的空間がほとんどつかんでいない。
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  ▲武名の神アシャゲ(『かけろまの民俗』)    ▲瀬戸内町で(平成10年10月)


  ▲これは加計呂麻島の神アサギ。大宜味村の謝名城の神アサギの作りに似ている。

 当時にはすでに神アサギや古琉球の辞令書や祭祀用具(勾玉・衣装など)について下調べをすすめていた。『かけろまの民俗』や「奄美大島の村落構造と祭祀組織―加計呂麻島須子茂のノロ制度―」(ヨーゼフ・クライナー)などで。

 それらの報告で加計呂麻島にも神アサギ(アシャゲ)があることは知っていたし、須古茂の古琉球の辞令書や衣装や勾玉なども是非見たいと思っていた。沖縄本島北部の神アサギと、どんな関わりがあるのか、また集落における沖縄での「ウタキ―神アサギ―集落」の軸線は、加計呂麻の集落ではどうなっているのか。目で確かめたかった。

 シニグなどの祭祀を含めて「北山文化圏」が奄美の南側の加計呂麻島あたりにまで及んでいるのではないかと仮説の線引きをしたことがある。ノロ制度については1429年に三山(北山・中山・南山)が統一された後の統一国としての影響の被さりであるが、それがまた薩摩の琉球侵攻後どのような変遷をたどっていったのか。薩摩に組み込まれながら、400年という歳月が間もなくjやってくるのであるが古琉球的なものが今にどれほど伝えているのか。