沖縄の地域調査研究

       寡黙庵:琉球の地域史調査研究)(管理人:仲原)   

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山原の神行事(シニグ・海神祭

今帰仁按司と阿応理屋恵 ・宮古島をゆく

琉球・沖縄の地図   【山北王のハ二ジ・パ二ジは羽地?】 島袋源一郎参照



2022年3月31日(木)

 3月最後のページアップ。明日から遊び場を「寡黙庵」に移る。今日はデータの移動と整理。




諸志関係資料(平成26年6月22日受)

 【備品箱】(1947年度之作)字諸志青年団

 ・今帰仁村諸志区青年団名簿 

 ・沖縄島田井等地区今帰仁村(領収書・歌詞など) 

 ・会計簿(1949度)諸志青年団

 ・作業出欠簿(1947度)諸志分団 

 ・会計簿(1947度)諸志青年団

 ・日誌(1947年度)諸志分団

 ・諸志青年文庫帳(1949年)諸志青年団

 ・諸志青年団夜警巡回名簿(1950年4月以降)

 ・諸志青年団作業出席簿(1950年4月以降)

 ・会計簿(1950年度及1951年度)諸志青年団

 ・会計簿(1952度)(字諸志・・・)

 ・会計簿(1952年度)諸志青年団

 ・借用証書綴(1952年度)諸志青年会

 ・会計簿(1953年度)諸志青年団

 ・備品帳(1954年度)諸志青年団

 ・常会出欠簿(1954度)諸志青年団

 ・議事録(1954度)諸志青年団

 ・作業出席簿(1954度)

 ・作業出欠簿(1954年度)諸志青年団

 ・会計簿(1954年度以降)諸志青年団

 ・作業係台帳(1955年度)諸志青年団

 ・出席簿(1956年度)諸志青年団

 ・出席簿(1956年度)

 ・常会出席簿(1956度)諸志青年会

 ・図書貸出簿(1961年9月以降)諸志公民館

 ・珠算帳(ノート)




2022年3月30日(水)

 2017年8月12日(土)の本部町伊豆味の調査

・1719年に移動した二つのムラ(天底村・嘉津宇村)

・移動した村があった場所は山あいの盆地である。

・移動地でウタキをつくり神アサギをつくり祭祀を行う

・伊豆味・嘉津宇・天底は天底ノロ管轄の祭祀の村

・伊豆味は二つの村が移動すると古島から内原付近へ移動

・伊豆味の祭祀は根神が取り仕切っていた。ノロは玉城のろ、大正の頃まで伊豆味まできて行っていた。
・伊豆味の拝む所
 ①伊豆味神社 ②サータマタの宮 ③陣城 ④上ヌウタキ ⑤村墓 ⑥デイゴのカー ⑦下のハー
  (古嘉津宇の拝所) 
 ⑧黒グムイ(古嘉津宇の水源地)

・伊豆味の水田は盆地
・戦前まで伊豆味の経済を潤していたのは山藍と建設用材、薪炭材
・我屋地・湧川の製塩の葉薪(ハーダムン)・荷馬車(湧川の津口や名護のマチヤーは伊豆味の
  車屋で繁盛)
・大正の頃、湧川にマチが発達したことがある。


 35近い班(小字24)、80余の又あり、それが近世期の寄留人が形成した散在集落である。そこには、大当原(古島→新島)に伊豆味村、大島(内原)に天底村、そして古嘉津宇に嘉津宇村の三つの村があり、祭祀は天底ノロ管轄であった(『琉球国由来記』1713年)。1719年に天底村と嘉津宇村の二つが移動、その地に伊豆味村(大当原)が残り、地割で土地の配当にありつけなかった寄留の人々は山あいに寄留。特に廃藩置県直後に首里・那覇からの寄留が山地で藍づくりが盛んになる。その藍壺が散見できる。

  二つの村の移動、伊豆味内での集落移動、寄留人の多い村、二年おきの豊年祭、組踊り、アヤーチ(操り獅子)など。大正頃まで移転した天底に居住していた天底ノロが伊豆味まできて祭祀を行っていた。ノロ管轄村の変更はなし。移動地でウタキ、神アサギをつくり祭祀は行う理由は?

  内原にあった伊豆味集落も古島から新島へ移動。そこからウタキや祭祀場のある大当原(大内原)に移動した伝承をもつ。祭祀場にはアサギマー、神アサギ、伊豆味神社(昭和4年:お宮)があり、学校の後方はウタキになっていて、そこのイベがある。伺うと今年は豊年祭はないとのこと。

  伊豆味は藍づくり発祥の伝承、明治30年頃になるとパインや果樹栽培が根付いていく。昭和2年頃沖縄県が台湾から導入。加工工場がなかったため、保存のきかない販売だったため飛躍的な発展にはならなかった。旧盆の供え物でアダンの実からパインに変わって供えられるがパイン収入が経済を潤すまでにはならなかった。

  1955(昭和30)年頃にパインブームがおきる。パイン工場が新設され、パインムラとなり、同時に柑橘類や柿、ナシ、ブドウ、栗などの栽培が行われるようになる。ミカン類は王府時代から上納として納められていたようである。「クヌブン木敷」の地名があるようでミカン木を植え管理する山があったようだ(未調査)。ほとんどの屋敷にミカンが植えられている。種類は、オートー、カーブチ(皮厚)、シクヮーサー、羽地ミカン、文丹など。

  ジングスク(陣城)までいく。岩山の下を大井川が流れる。かつては一帯にあった村人の風葬地(ガンサ:合葬)か。戦前は人骨が散在していたという。




2022年3月29日(火)

 資料の引っ越し中で、目についた「恩納間切取調書」の一部を紹介。祭祀の「神遊」は今の公休日(休息日)として扱っているのは「間切公事帳」から来たものである。「恩納間切取調書」の紹介しようとしたのであるが、恩納間切問答書にはない⑮遊戯部分。名護間切の事例の紹介となる。

 「恩納間切取調書」は鳥越憲三郎が昭和19年(1944)に沖縄県庁で調査確認したものを『沖縄庶民生活史』で紹介されている。恩納間切取調べは調査項目のほぼ全容を収録されているようである。

 「恩納間切取調恩納間切取調書」(旧慣調ニ付間切吏員ト問答書)を掲げる。「同取調書」の末尾部分に明治17年(1884)7月、西掟(伊藝安保)、南風掟(金城属光)、大掟(金城榮秀)、首里大屋子(新里全仕)、惣耕作当(當山光藏)、惣山当(當山房太)、仝(山城武夫)、地頭代(長濱善用)など、恩納間切の吏員の名前が記されており、それら吏員との問答をまとめたものであろう。

恩納間切取調書(旧慣調ニ付間切吏員ト問答書)には、以下の26項目について問答形式となっている。その中の⑮名護間切の戯戯の日数を紹介。

①租税未納の事
②寄留人の事
③所遣ノ事
④地所建物並に墓地売買譲与の事
⑤書入・質入・金銀貸借ノ事
⑥上納金穀或ハ共有金穀ヲ私用スル事
⑦砂糖取締ノ事
⑧戒罰ノ事
⑨吏員ノ事
⑩跡相続ノ事
⑪禮ノ部
⑫模合ノ部
⑬附届ノ部
⑭人身売買
⑮遊戯
⑯旅立
⑰官民有之山林ニ関スル栽培、伐採之事
⑱杣山取締向ノ儀ニ付科定
⑲各事農事勤惰賞罰並作物競争ノ事
⑳道路、橋梁ノ修繕、架設ノ事
㉑吏員旅費ノ事
㉒杣山取締向ノ儀ニ付科定
㉓各事農事勤惰賞罰並作物競争ノ事
㉔4道路、橋梁ノ修繕、架設ノ事
㉕吏員旅費ノ事
㉖海岸船舶漁業等取締方ノ事

⑮遊戯
 恩納間切の「遊戯」は北部とは大分異なるようである。それが中南部で一般的なのかもしれない。ここでは名護間切の事例をあげ、その違いをみていくことに。名護間切の「遊戯」をみると、その祭祀の時は農耕をやめ、神遊びをする。つまり、現在の休日にあたり、それは首里王府から出された公事帳や『琉球国由来記』(1713年)に登場し、首里王府が認めた公休日といえそうである。

 名護間切の場合、年間少なくても十二日はある。残念ながら恩納間切について「神遊び」はみられない。祭祀は行っているので、神遊びの記載はないが、神遊び(休息日)があったであろう。
 旧暦七月十六日、十七日の両日には女性だけのウシデークを行い、八月十日、十一日の両日は豊年踊りがあり、組躍や羽躍などが行われている。

 一、年中各地稼業を止め、遊戯をなす時、即ち綱引、豊年踊の類は何月にするや(名護間切の場合)。
 一、正月は元旦より三日間遊ぶ。その内は童子供、巷々へ集まりて遊申候。
 一、二月は遊はなし。麦の穂祭る事あり。
 一、三月は虫払いと云う日を撰び、一日人民休耕止、遊申候。
 一、四月はアブシ払と云い、日を撰二日遊申候。
 一、五月は稲穂祭りと云、日撰二日遊申候。
 一、六月は遊びはなし。稲の大祭りあり。
 一、七月は十六日、人民耕作を止め遊申候。尤も童子共は饒他鼓を用へ各家を廻って遊ぶる事あり。
 一、八月は十日より十一日迄、人民耕作を止め(二日)申候。且豊年願の為め毎年組躍する村も
       有之申候。
 一、九月はなし。
 一、十月はたんとり(種取り)と云日を撰て、二日人民耕作を止遊申候。
 一、十一月はなし。
 一、十二月はなし。

恩納村の村落

 あれこれこなしているうちに一日がせわしく終わった感じなり。下の二枚の辞令書は『補遺伝説 沖縄歴史』(島袋源一郎著:昭和7年)の口絵に納められているものである。◇?年28日(水)に恩納村立博物館で「恩納村の御嶽と集落」をテーマに話をする。この辞令書を手がかりに恩納間切(現在の村:ソン)の導入部分にあてようと。

  
      

     しよりの御ミ事                   首里の御ミ事
         きんまきりの                    金武間切の
         おんなのろハ                    おんなのろハ
          もろののろのくわ                 元のろ之子
        一人まかとうに                   一人まぜにに
        たまわり申候                     たまわり申候
      しよりよりまかとうか方へまいる           順治十五年七月廿八日
      萬暦十二年五月十日
        (1584年)                        (1658年)

 恩納間切の創設は1673年のことである。二枚の辞令書は、恩納間切が創設される以前のものである。その当時の「おんな」(恩納)は金武間切のうち。万歴(1584年)の辞令書は「きんまきり」や「おんなのろ」など間切やムラ名に、まだ漢字が充てられていない。もう一枚の順治(1658年)の辞令書では金武間切は漢字が充てられているが「おんなのろ」は、まだ平仮名表記である。もう少し時代が下ると漢字表記になるが、その過渡期の辞令書である。

 「おんな」の語義について質問がでそうなので紐解いておくことに。「おんな」に恩納の漢字が充てられるようになるのは、1658年より後である。1671年の辞令書は漢字になっているので、その間になにがあったのだろうか。いずれにしろ「おんな」に「恩納」の漢字を充てた。その「おんな」はどこからきた地名かである。

 「おんな」と表記されるが、ウンナと発音されたと思われる。時々「おんな(女)ではないか」とくるが、おんな(女)は方言音でヰナグなのでウンナとはかけ離れる。

 ウン+ナに分けると解けそうである。ナは識名や謝名などのナと同様、広場や庭など場所など広場を表すナ。ウンは御や大などを表す語。「大きな」や「りっぱな」などの意。するとウン+ナは大きな(りっぱな)空間、大き(りっぱな)な広場、大きな(りっぱな)庭と解することができる。現在の恩納村恩納に、そのような場所があるかというと、万座毛(マンザモウ)がある。万座毛は1700年代の尚敬王が北山巡視の際に立ち寄り「万人を座しめうる原」として名付けたものだという。ウンナは、そのような万人も座れるような大きな広場(庭)があることに由来していると見てよさそうである。

 ウンナ(恩納)は「大きな(りっぱな)広場(庭)がある」ことに由来し、そのことがムラ名となる。現在の恩納村恩納に万座毛があり、それがウンナ(恩納)というムラ名になったと考えている(そんこと、すでに紐解かれているかも)。


2022年3月28日(月)

 雨が止んだのでバナナの収穫。先月収穫したのが真黄色になり今日から食べています。木にはまだ三本の実がぶらさっがっています。ミニパパヤとトマトが実をつけはじめました。さて、何から手をつけようか・・・





2022年3月27日(

【今帰仁村古宇利島の御嶽(ウタキ)】2004724日記)より

 古宇利島は今帰仁村村にある離島である。この島に七森七嶽(ナナムイナナタキがある。『琉球国由来記』(1713年)に出てくる古宇利(郡)島の御嶽は次の三つである。

  ・中 嶽       神名:ナカモリノ御イベ    (現在のナカムイヌ御嶽)
  ・サウ嶽御イベ   (神名不伝)           (現在のソウヌ御嶽)
  ・カマニシ嶽御イベ (神名不伝)            (現在のハマンシヌ御嶽)

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 ※古宇利島に橋が架かる以前の画像(様変わりしています 注意!


 『琉球国由来記』に記載のないのがマーハグチヌ・プトゥキヌメーヌ・ハマンシヌ・マチヂヌの四御嶽である(郡巫の崇所の所に誤記があるのでそこは注意)。御嶽の議論をするとき、どの御嶽かを特定して論を展開する必要がありそう。

 島には七森七嶽(ナナムイナナタキ)がある。一島であると同時に一村である。そこに七つの御嶽がある。島の集落の発生と御嶽(ウタキ)との関係がどう位置づけられるのか。本島側の御嶽からするとマクやマキヨの小規模の集落と結びつけて考えられないか。さらに御嶽を担当する神人(神人をだす一門)との関わりでみていくとどうだろうか。かつてはタキヌウガン(旧4月と10月)のとき、島中の人たちが参加したという。

 古宇利島が複数の小集落の統合があり、さらに村の合併の痕跡がある。ただし、近世には一村になっている。村の統合の痕跡は神アサギが二つあったこと。現在の神アサギ(ウイヌアサギ)とヒチャバアサギ(下のアサギ)があること。ウンジャミのときウイヌアサギとヒチャバアサギで同様な所作を行っている。そしてソウヌウタキ付近にアサギマガイの地名があることなど、少なくとも二つの村レベルの集落の合併があったとみられる。

 古宇利島のウタキ(御嶽)と集落、集落を一つにした村(ムラ)との関わりで見ると、どうも島のいくつかの小さな集落(マクやマキヨ規模)から成り立っていた。それが、次第に村としてまとまっていく(あるいは、まとめられた)。その痕跡として七森七嶽のウタキを担当する神人があてがわれているのではないか。集落は村(ムラ)として一つにまとまったのであるが、別々の集団を一つの村にしたとき、それぞれの一門から神人をだし、ウタキを担当する神人として伝えているのかもしれない。その姿は国頭村比地のアサギ森(ウタキ)の中にある数カ所のイベに、各一門が集まる姿とよく似ている。古宇利の七森七嶽は島内に数個の集落の発生があり、それが一門のよりどころとして御嶽をつくり、祭祀に関わる神人の出自と御嶽が結びついている。古宇利島の七森七嶽は、そういった集落の展開と祭祀、さらに神人との関係をしる手掛かりとなりそうである。

 古宇利島の七つの御嶽は杜をなし、その中にイベに相当する岩場がある。岩場の半洞窟や洞窟を利用している。マーハグチは半洞窟部分に石を積み上げ内部に頭蓋骨や人骨がある。形としては墓である。かつては頭蓋骨を拭いたというので墓ではないのかもしれない。ナカムイヌ御嶽だけはコンクリートで祠をつくってある。

【古宇利島のタキヌウガン】 

御嶽(ウタキ)名と概要

2004年の御嶽の様子

ナカムイヌ御嶽

 古宇利の集落の中に位置し、中森御嶽の近くに神アサギやフンシヤー、そして南側に内神屋・ヌル屋・ヒジャ屋などの旧家がある。豊年祭や海神祭を行うアサギナーがある。年二回(旧4月と10月)のタキヌウガンだけでなく他のウガンでも拝まれる御嶽である。御嶽と神アサギの間はミャー(庭)となっていて豊年祭やウンジャミが行われる。御嶽の中にイビがあり、そこに祀られている骨は人骨の認識がある。プーチウガンやナカムイヌ御嶽は古宇利子(フンシヤー)の扱いである。下の画像はナカムイヌ御嶽の中にある祠。イベにあたる

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マチヂヌ御嶽

 古宇利集落の後方に位置し、年二回(旧4月と10月)のタキヌウガンの時に拝まれる。マチヂのイベ部分は琉球石灰岩がズレ落ち三角の半洞窟状になっている。その内部に石がころがり、手前に香炉(比較的新しい御影石?)が置かれている。『宮城真治資料』によるとヤトバヤの扱いとなっている。拝む方向としては、現集落を背にして拝む形である。一帯は中原遺跡となっていて、集落があった痕跡がある。ヤトウバヤ(恩納ヤー)の担当の御嶽。(画像古宇利掟提供)

 下の画像はマヂヂヌ御嶽のイベにあたる部分。大きな岩の窪みに石がいくつも置かれている。

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マ|ハグチヌ御嶽

 最近マーハグチまでの道が開けられた。神人達はタキヌウガンのとき、そこまで来ないで道路でお通しをする。大きな岩の下に石積みがあり、頭蓋骨をみることができる。現在は年二回(旧4月と10月)のタキヌウガンで拝まれるが、根神の一門で正月・四月・七月・十月の年四回拝んでいたよだ。花米や御五水(酒)を供え、白い布を酒でひたし二つの頭蓋骨を拭くこともやっていたという。担当は根神である(マーグスクヤー)。

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トゥンガヌ御嶽

 道路から御嶽の中に入り進んで行くと岩がある。その下に線香を立てる石が置かれている。年二回のタキヌウガン(旧4月と10月)の時は道路で線香をたてお通しをする。ノロなど七名の神人が担当するという。

               

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ソ|ヌ御嶽

 古宇利島の東側に位置し、御嶽の近くの浜はソーヌ浜と呼ばれる。杜全体が御嶽になっていてイビがあるというが未確認。ウンナヤーは一帯から集落内に移動したという伝承がある。そのためかウンナヤー担当の御嶽だという。タキヌウガン(旧4月と10月)のときは、上の道路からお通しをしている。宮城真治資料ではノロなど七名の神人の担当になっている。ウンナヤーのここからの移動伝承は、御嶽と御嶽担当の神役との関係を示している可能性がある。

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プトゥキヌメ|ヌ御嶽

 島の一周線から御嶽に入ると半洞窟の岩屋がある。そこは御嶽のイビがあり線香をたてる。鍾乳洞の石が仏に似ていることに由来するのだろうか。タキヌウガン(旧4月と10月)のとき、神人達はイビまで行ってウガンをする。ノロ担当の御嶽のようである。付近に集落があったかどうかの確認はまだできていない。

 

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ハマンシヌ御嶽

 一帯の地名がハマンシ(浜の石)で、島の西側の浜は石が多いことに由来するようだ。別名ビジュルメーヌ御嶽ともいう。御嶽に入るとイビの奥に小さな洞窟があり、人形の形をしたビジュル(小石:石筍)がいくつもある。ここも年二回(旧4月と10月)のタキヌウガンの時に拝まれる。二、三人の神人が洞窟内で石を持って吉凶を占う。内神の担当のようである。

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2022年3月26日(
 
 10年前の久米島踏査の記録を振り返っている。その考え方を「大宜味村史」の民俗編で「大宜味村のマク(マキヨ)とムラ・シマ」に適応している。

 今日はこれから「寡黙庵」に史・資料の引っ越し。「原稿とデータ」は引継ぎ。このページはリモートのようなものでしたので、継続していきます。

2009年2月2日(月)調査記録

 久米島の西銘に「上江洲御嶽」(あらかきの杜)の標柱と出会う。標柱に「あらかき村のコシアテ(腰当)、あらかきのもり、あらかきのみや、あらかきのいなみね、などと謡われている。「あらかき」も「いなみね」も西銘村内にある地名(マク・マキヨ)のようである。マク・マキヨが慶長検地以後の村とななり、近世の村となったと見ている。遺物散布地をマク・マキヨと見ていけそうである。

 『琉球国由来記』(1713年)の西目村に、
   ・上江洲御嶽 神名:コシアテ森大ツカサ若ツカサガナシ
   ・富祖古御嶽 神名:ソノキヤジノ大ツカサ若ツカサガナシ
   ・シラシ御嶽  神名:ヨキノタケ大ツカサ若ツカサガナシ
   ・ヲルヽ御嶽  神名:セノク森ヲモヒ君ガナシ
   ・西目ノロ   火神名:ヲシワキノアカゴチヤガナシ
   ・西目ヲヒヤ 火神名:ヲモヤケノアカゴチヤガナシ
   ・西平ヲヒヤ 火神名:ヲモヤケノアカゴチヤガナシ
   ・新垣ヲヒヤ 火神名:ミヤカノ森アカゴチヤガナシ
とある。

 そこでの関心は、西目村に複数の御嶽があること。それと三人のヲヒヤの存在である。西銘だけでなく、久米島では俣枝ヲヒヤ(仲地村か)、兼城ヲヒヤ(兼城村)、山城ヲヒヤ(山城村)、久根城ヲヒヤ(山城村)がいる。火の神が祭られているので「ヲヒヤ」の住居あるいは住居跡の拝所とみられる。山原ではヲヒヤは見られないが、与論島や沖永良部島、伊是名・伊平屋島で見られる。ヲヒヤについて確認していないが、根人(ムラあるいは一門の男神人)と同様な役割を担っていたのだろうか。

 これまで山原のウタキと集落との関係で何度も触れてきたが、複数のウタキがあることは、行政村になる以前のいくつかのマキ・マキヨクラスの集落を行政村にした痕跡だとみている。久米島にも同様な、マキ・マキヨクラスの集落を行政村にしたが、それの以前の姿の痕跡ではないか。古琉球から近世の村へ移行するが、行政村になる以前の集落形態と近世の神人との関わりが見えてきそうである。もう少し、久米島の村を丁寧に見ていく必要がありそうだ。そこでも神名は神の存在というより、ウタキのイベの名称(地名)ととらえた方がよさそうである。

 
上江洲御嶽(あらかき杜)と記した標柱    ウタキの内部(イベは未確認)

 
             上江洲御嶽(あらかき杜)をクサテとした現在の集落


 古琉球の時代、首里王府が久米島・宮古・八重山・与那国を統治させ頃の島々の姿は、奄美の島々も類似しているのではないか。

2009
年2月4日(水)


【久米島具志川グスクと具志川村】(グスクと移動集落)

 現在の久米島具志川間切具志川村は、具志川グスクから離れた場所にある。古くは具志川村の集落は具志川グスクのすぐ近くにあったはずである。字仲村渠のクシメ原にある。字具志川は具志川グスクとの間に字仲村渠を挟んでいる。具志川村(集落部分)が、現在地に移動していく過程は、他のグスクでもグスクの機能と集落の移動の関係を見ていく手がかりを与えてくれそうである。

 昭和30年代の具志川グスク一帯の写真をみると、棚田がありグスクが機能していた時代の地形を保っている。それからすると、グスクの手前の斜面に集落があったのではないか。

 ・旧具志川部落(集落)は具志川グスクの南側の窪地(前兼久・後兼久)にあった。
 ・具志川グスクの麓の海岸(大和泊)
 ・『琉球国由来記』(1713年)に「具志川城内御イベ」は具志川村(城内に三つのイベ)(具志川ノロ)
      (仲村渠村はでてこないが仲村渠掟と仲村渠目指は出てくる。1700年代には
       具志川城は具志川村地内)
 ・仲村渠村は具志川城の東側の米須原に上村渠・仲村渠・前村渠の集落があった。それらが一つになって中村渠村となるか。
    (具志川村だけでなく、仲村渠村も具志川グスクと密接にかかわっていた集落ではないか)
 ・具志川グスクは元はウタキ
 ・グスクは青名崎に造りかける。
 ・按司の入った棺に「正徳元年丙寅」(1506年)とあり。 
 ・築城者は他からきた者
 ・城内に転がっている切石に「天正八年」(1580年?)とある。.
 ・今帰仁按司十世宣謨は乾隆22年(1757)に久米具志川間切総地頭職を賜る。
 ・1750年に具志川集落は「松の口」(現在の字具志川地内)に移動する。
   
 
  現在の久米島具志川グスクの様子       昭和30年代の具志川グスクの様子
 
 
 グスク内にある「天正九年」と掘られた石       修復されている外壁の様子

2009年2月3日(火)

 『琉球国由来記』(1713年)から「ヲヒヤ」や「ヒヤ」を拾ってみた。ヒヤが出てくるのは沖縄本島では少なく、伊是名・伊平屋島、久米島、さらには与論島や沖永良部島で多く登場する。ヒヤは役職や住居の跡(火神や殿)、村の当主、あるいは尊称として使われている。分布や与論島以北に根強く残っているのは、近世の行政村となる以前の、古琉球の集落形態の痕跡が反映しているのではないか。「おもろ」で当時の集落をマクやマキヨと謡われている。1700年代の『琉球国由来記』の頃にはヒヤ制度(?)が希薄になっていたのであろう。ここでヒヤ制度に視点をあてているのは、古琉球の首里王府と地方との関わり、地方を統治する制度としてヒヤ制度があったのではないか。

 山ノオヒヤは山を取り締まる役人、惣山当の次の役。

 「久米具志川間切例帳」にも、①嘉手刈のひや火神、②仲地村俣江田のひや火の神の前、③西銘のひや火の神の前、④兼城のひや火の神の前、⑤山里のひや火の神の前、⑥西平のひや火の神の前、⑦玉那覇のひや火神、⑧新垣のひや火の神の前と、具志川間切に七名の「ひや」が登場する。「火の神の前」とあるのでヒヤの住居もあるであろうが、ヒヤそのものはいなく、拝所として祀っているのであろう。ヒヤが役人として、あるいは一門の頭として王府と関わる役目をしていたのが、廃止となり祭祀場として遺されているのではないか。(詳細については別にまとめることに。寄り道する時間あがありませんネ)

【島 尻】
 ・當間之ヒヤ火神  知念間切久手堅村
 ・ヲヒヤクメイ(玉城間切:玉城村・奥武村・百名村・安次富村・中村渠村・垣花村・當山村・宮里村・志堅原村・糸数村・屋嘉部村・前川村・富名腰村・上間村でのウタに出てくる)

【中 頭】
 ・安謝之大ヒヤノ殿(浦添間切内間村)
 ・キチラセノ大ヒヤ(宜野湾間切宜野湾村)
 ・大里ノ大ヒヤ(  〃  ) 
 ・大川ノ大ヒヤ殿(宜野湾間切真志喜村)
 ・奥間ノ大ヒヤ殿(  〃  )
 ・石川ノ大ヒヤ殿(  〃  )
 ・小国ノ大ヒヤ殿(  〃  )
 ・中間大ヒヤ殿(宜野湾間切大山村)
 ・新里大ヒヤ殿(  〃  )
 ・上具志川大ヒヤ殿(  〃  )
 ・大山大ヒヤ殿(  〃  )

【伊江島
 ・ヲヒヤタ(伊江島)

【伊是名島・伊平屋島】
 ・セサンノヲヒヤ火神(伊是名島伊是名村)
 ・首見ノヲヒヤ火神(伊是名島諸見村)
 ・マウノヲヒヤ火神(伊是名島勢理客村)
 ・野保ノヲヒヤ火神(伊平屋島野甫村)
 ・我喜屋ノヲヒヤ火神(伊平屋島我喜屋村)
 ・田名ノヲヒヤ火神(伊平屋島田名村)
 ・玉城ヒヤ(伊是名島:俗にオヤ田) 
 ・泊大比屋(馬氏国頭親方正胤)
 ・村々ヲヒヤ家(伊是名島)
 ・具志川ヲヒヤ・ヤブノヒヤ(祈りに出てくる)
 ・アンジヲソヒヤ・テニギヤヲソヒ

【久米島】
 ・世ナフシオヒヤトフ者(久米島具志川間切)
 ・ヲヒヤニ向テ云(久米島具志川間切)
 ・ヘドノヲヒヤ三兄弟
 ・俣枝ヲヒヤ(久米島具志川間切仲地村)
 ・西目ヲヒヤ(久米島具志川間切西目村)
 ・西平ヲヒヤ(  〃  )
 ・新垣ヲヒヤ(  〃  )
 ・兼城ヲヒヤ(久米島具志川間切兼城村)
 ・山城ヲヒヤ(久米島具志川間切山城村)
 ・久根城ヲヒヤ(久米島具志川間切山城村)
 ・堂ノ比屋(久米島仲里間切宇江城村)
 ・ヘドノヒヤ、ヘドノヒヤ一族(久米島仲里間切宇根村)
 ・堂之大比屋
 ・健堅之大比屋(今帰仁間切、後の本部間切健堅村)

【沖永良部島】
  ・大親(ウフヤ)
  ・大親役(ウフヤ)
  ・大屋(オホヤ)
  ・屋屋子(大屋子なる官吏、俗に按司)
  ・百(ヒヤ)
  ・大城村川内のヒヤ
  ・西原村あがりヒヤ
  ・ 「百(ヒヤ)と申候は往古は百家部の頭取仕申候村役の役名にて候由」
  ・沖永良部島の各村に屋号としてウヒヤ・ヒヤ屋・川内の百などがある。
  ・シニグに百(ヒヤ)が登場する。 

【与論島】

  (工事中)


2022年3月25日(金)

 昨日からパソコンの調子がよくない。今日は大丈夫のようだ。先日行ってみると、仲尾の古島の拝所は新しくなっていた。(画像は(平成28年5月のものです)

【羽地・仲尾】(現名護市)

  名護市(旧羽地間切)の仲尾は『琉球国由来記』(1713年)の年中祭祀からみるに複雑である。羽地間切の祭祀は仲尾村(仲尾ノロ)を中心に行われている。1623年の辞令書で「大のろくもひ」とあり、また間切の同村(主邑:田井等・親川)で行われるのが普通であるが、仲尾ノロ火神・仲尾神アシアゲと池城神アシアゲで行われている。海神祭のとき、羽地間切の①中尾巫 ②真喜屋巫 ③屋我巫 ④我部巫女 ⑤トモノカネ巫 ⑥源河 ⑦伊差川巫 は仲尾神アシアゲと池城神アシアゲに集まり祭祀を行っている。そこには羽地間切の惣地頭が参加している。羽地按司の記述がみられない。

 主邑であった田井等村、そこから分離した親川村、古くは池城村がみられる。祭祀の世界からムラの形が見えてくるかもしれない。行政は分離したり、合併したりするが祭祀は一体化しない法則から整理する必要がありそう(整理中)。

・集落移動の村と御嶽(ウタキ)羽地間切仲尾村の事例

 仲尾は羽地間切仲尾村で現在名護市の一字である。ここでの「集落移動の村」とは、同村(ムラ)地内で集落部分が移動した村のことである。同村地内で集落が移動したときに、御嶽(ウタキ)はどうしたのかがテーマである。仲尾のウタキはヒチグスクと呼ばれ、同丘陵地の向って右側は親川グスクである。ヒチグスクと親川グスクの間に堀切があり、親川グスクへの神道として使われていた。

 仲尾は『琉球国高究帳』(1640年代)に「なかう村」、『琉球国由来記』(1713年)で「中尾村」、「琉球一件帳」(1750年頃)から「仲尾村」と記される。仲尾村の集落移動は「羽地間切肝要日記」にみることができる。道光15年(1835年)「村(集落)の敷地が狭いので勘手納と東兼久に引っ越して家を作った。両兼久の敷地の竿入れをしてみたら百姓持の土地なので村敷(屋敷)にしたいと願い出て認められた。この時期に勘手納に7家族、東兼久に4家族が引っ越してきた(頭数134人)」。故地は「仲尾古村遺跡」と命名され集落が移動した痕跡を見せる。そこには御嶽(ヒチグスク)や神アサギ、根神屋やノロドゥンチ跡やヌルカーなどが今でも遺っている。

 集落は移動したが御嶽は新しく設けることなく、元の場所(ヒチグスク)に置かれている。また旧家跡や神アサギは元の場所に置いて集落のみの移動である。距離として約700mばかりである。村内の集落のみの移動の場合、御嶽(ここではグスクと呼んでいる)はもとの場所に置き、神アサギや旧家の火神(ウペーフヤー・ニガミヤー・ヌルヤー)の祠(神屋)を置き、祭祀は故地で行っている。畑やかつての水田は故地に近い場所に広がっていた。土地改良で地形が大きく変わってしまい、ウタキや神アサギやノトドゥンチなどから、かつての集落跡を確認することができる。

  『琉球国由来記』(1713年)に「谷田之嶽 神名:ニヨフモリノ御イベ 中尾村」とあるが、中尾村ではなく谷田村の誤りと思われる。仲尾村の御嶽は由来記に記されていないと見るべきである。『琉球国由来記』の祭祀で注目すべきことは、惣地頭が中尾村の神アシアゲと池城神アシアゲに参加することである。仲尾ノロ管轄内の田井等村からに1700年代に親川村の創設があり、池城神アシアゲは親川村の神アサギ(親川グスク地内)となる。羽地間切の海神祭のとき、中(仲)尾・真喜屋・屋我・我部・トモノカネ・伊指(佐)川・源河の全ノロが仲尾村と池城神アシアゲでの祭祀に参加する。そのとき、惣地頭も両神アシアゲの祭祀に参加する。ここでも羽地間切の按司や親方クラスが祭祀に参加している。グスクの神アサギでの祭祀に仲尾ノロが重要な役目を果たしている。
                         
 今帰仁村平敷のウガン(御嶽)に立ち寄ってきた。『琉球国由来記』(1713年)にすべての御嶽を明記さているものではない。今帰仁村平敷の御嶽も記載されていない一つである。『琉球国由来記』に記載されていないが、重要な御嶽である。『琉球国由来記』に記載されていない御嶽に、御嶽の源初的な姿があるのかもしれない。                            

 ここでは、ウガン(御嶽)と集落との関係は、切り離すことのできない結びつきがあることに気づかされる。同時にそこで行われる祭祀がムラ人は勿論のこと、オエカ人(間切役人)の参加も欠かすことができない。そのことは祭祀が村を統治していく上で重要な役割を担っていたことがわかる。
 「山原の御嶽」を議論していくための土台を整理しておきたい。御嶽を国(琉球国)レベル、間切あるいはノロ管轄レベルの御嶽、村レベルの御嶽、グスクの御嶽など、いくつか区分してみていく必要がありそうだ。まずは今帰仁村間切内の御嶽から、村とグスクレベル御嶽について見ることができる。さらに18世紀初頭の人たちの御嶽とイベの観念が見えてきそうである。


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 http://yannaki.jp/image1/623ibe2.JPG http://yannaki.jp/image1/623ibe3.JPG http://yannaki.jp/image1/623ibe4.JPGんかお
ヒチグスク(ウタキ)への入口  ヒチグスクのイベへの里道      イベの祠             祠内のイベ

勘定納港と仲尾村(平成21912日)メモ
・故地はグスク時代の遺物が出土する。
15世紀の初頭、北山が中山の連合軍に滅ぼされたとき、中山や北山の一部が「かんてな港」に
 集結した。
・仲尾はヌホーやノホーやナカオと呼ばれる。別名「かんてな」ともいう。
・『絵図郷村帳』や『琉球国高究帳』で「なかう村」と記される。
・1622年の辞令書に「はねちまきり 大のろこもひ」とある。
・仲尾ノロは仲尾村・川上村・田井等村の祭祀を管轄する。海神祭の時は、羽地間切のノロ全員
 が仲尾村に揃う。
・『琉球国由来記』(1713年)で羽地間切の惣地頭は仲尾村の神アシアゲと池城神アシアゲ(田井等村、後に

分離した親川グスクのある親川村か)の祭祀と関わる。
・1785(乾隆50)年に種子島の船頭が勘手納港から米を積んで出帆した(仕上世米か)。
・1816年バジル・ホールの一行が仲尾村や親川村や仲尾次村付近を訪れている。
・1835年に仲尾村の集落は故地(半田原)から兼久に移る。
・故地の半田原にヌルガー・ヌルドウンチ跡・根神ドゥンチ跡・神アサギ・ペーフドゥンチ跡・ニガミ

 ガーなどが残る。一帯は仲尾古島遺跡となっている。
・兼久地へ集落が移動するが、回りの丘陵地は集落の抱護となっている。
・仲尾の田畑は故地あたりに広がっている。
・仲尾の故地の近くに親川(羽地)グスクがあり、堀切を挟んで仲尾のヒチグスク(ウタキ)がある。
・近くに親川村があり、羽地番所があった。仲尾村の勘定納港は羽地間切の穀物(租税)の
 集積港として機能する。
・明治13年の仲尾村の世帯数59、人口(314人:男164、女150)である。
・明治14年上杉県令日誌に「官庫瓦ヲ以テ葺ケリ」とある。
・仲尾は小字(7つ)拝原・新高原・半田原・仲真原・阿根謝原・門天原・仲尾原からなる。
・明治41年羽地間切は羽地村(ソン)となり仲尾村(ムラ)は字仲尾となる。
・大正8年8月に仲尾トンネルが開通する。
・昭和41年12月に仲尾トンネルが改修される。
・昭和45年に名護市(合併)の字となる。

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        仲尾の現在の集落             仲尾トンネル

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   故地にある仲尾ノロドゥンチ跡      故地にあるウペーフドゥンチ跡 

【集落移動の村と御嶽(ウタキ)】―羽地間切仲尾村の事例―

 仲尾は羽地間切仲尾村で現在名護市の一字である。ここでの「集落移動の村」とは、同村(ムラ)地内で集落部分が移動した村のことである。同村地内で集落が移動したときに、御嶽(ウタキ)はどうしたのかがテーマである。仲尾のウタキはヒチグスクと呼ばれ、同丘陵地の向って右側は親川グスクである。ヒチグスクと親川グスクの間に堀切があり、親川グスクへの神道として使われていた。

  仲尾は『琉球国高究帳』(1640年代)に「なかう村」、『琉球国由来記』(1713年)で「中尾村」、「琉球一件帳」(1750年頃)から「仲尾村」と記される。仲尾村の集落移動は「羽地間切肝要日記」にみることができる。道光15年(1835年)「村(集落)の敷地が狭いので勘手納と東兼久に引っ越して家を作った。両兼久の敷地の竿入れをしてみたら百姓持の土地なので村敷(屋敷)にしたいと願い出て認めれた。この時期に勘手納に7家族、東兼久に4家族が引っ越してきた(頭数134人)」。故地は「仲尾古村遺跡」と命名され集落が移動した痕跡を見せる。そこには御嶽(ヒチグスク)や神アサギ、根神屋やノロドゥンチ跡やカーなどが今でも遺っている。

  集落は移動したが御嶽(ヒチグスク)は新しく設けることなく、また旧家跡や神アサギは元の場所に置いて集落のみの移動である。距離として約700mばかりである。村内の集落のみの移動の場合、御嶽(ここではグスクと呼んでいる)はもとの場所に置き、神アサギや旧家の火神(ウペーフヤー・ニガミヤー・ヌルヤー)の祠(神屋)を置き、祭祀は故地で行っている。畑やかつての水田は故地に近い場所に広がっていた。土地改良で地形が大きく変わってしまい、ウタキや神アサギなどに、かつての集落跡を確認することしかできない。
 『琉球国由来記』(1713年)に「谷田之嶽 神名:ニヨフモリノ御イベ 中尾村」とあるが、中尾村ではなく谷田村の誤りと思われる。仲尾村の御嶽は由来記に記されていないと見るべきである。『琉球国由来記』の祭祀で注目すべきことは、惣地頭が中尾村の神アシアゲと池城神アシアゲに参加することである。仲尾ノロ管轄内の田井等村からに1700年代に親川村の創設があり、池城神アシアゲは親川村の神アサギ(親川グスク地内)となる。羽地間切の海神祭のとき、中(仲)尾・真喜屋・屋我・我部・トモノカネ・伊指(佐)川・源河の全ノロが仲尾村と池城神アシアゲでの祭祀に参加する。そのとき、惣地頭も両神アシアゲの祭祀に参加する。ここでも羽地間切の按司や親方クラスが祭祀に参加している。グスクの神アサギでの祭祀に仲尾ノロが重要な役目を果たしている。そのことを示すように天啓二年(1622年)の辞令書があり、仲尾ノロは「大のろくもひ」と呼ばれている(『かんてな誌』43頁所収。仲尾ノロに関する明治の史料があるが省略)。

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羽地間切仲尾村のヒチグスク(現名護市)                 道光15年ここ勘手納に集落を移動
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  集落のあった半田原に神アサギがある     故地にある仲尾ヌルドゥンチ跡

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 首里乃御ミ事
 はねしまきりの
 大のろくもひ
 一人 もとののろのうまか
     ひやかなに
 たまわり申し候
 天啓二年十月一日

▲羽切仲尾ノロ辞令書(1622年)(仲尾誌より)


2022年3月24日(木)

 ちょっと、気分転換!

2005.02.15(火)過去のメモ

 国頭村佐手までゆく。国頭村の西海岸の国道58号線沿いの字(アザ)は南から浜・半地・奥間・辺土名・宇良・伊地・与那・謝敷・佐手・辺野喜・宇嘉・宜名真・辺戸と続く。他に国道から外れた海岸にある鏡地・桃原、山手に比地がある。特に宇良から宇嘉の間の字の位置と様子が即座に浮かんでこない。それは私の調査不足でもある。国頭村の行政村(むら)となる前の姿と見られるマク・マキヨでも確認してみるか!

 そのこともあって国頭村佐手を訪ねてみた。まず頭に入れたのは佐手小学校(現在廃校)。小学校のあるムラと。旧道沿いにある神アサギ、その後方(北側)に旧家の屋号メーがある。海岸にヤーンクシと呼ばれる小島(砂洲で陸続き)がある。そこに与那ノロの墓がある。

 神アサギの側から細い路を山手に上っていくと広場にでる。二つの祠があり、北側のがサチヌウィ(佐手の上)と御嶽のイビ?の祠がある。『沖縄島諸祭神祝女類別表』(明治17年頃)に国頭の佐手村を見ると「神アシアゲと上ノ嶽」がある。一つの祠は上ノ嶽のイビの祠と見られる。サチヌウィは北に向き、義本王に関わる祠だという。内部の土部分が盛り上がり人骨が葬られていると聞いている。かつては、一帯の斜面に集落があったともいう。斜面に福木がいくつもあり、あたかも家々が散在していた痕跡が窺える。

 斜面にできた獣道をさらに歩いてみると、山手まで段々となっていて畑にして利用していた痕跡がある。佐手小学校後方のヤーンクシあたりに、舟溜りの場所ではないかと思われる空間がある。

 後で調べたのであるが佐手は山仕事が盛んで、船を所有していた者がおり、奄美大島や那覇、さらに遠くの宮古島まで交易していたという(『国頭の村落』)。佐手の集落の南側に佐手尋常小学校発祥地の碑と墓地がある。墓地に龕屋(ガンヤー)があり、壊れかけた龕がまだある(保存したいもんだ)。今帰仁村での火葬は昭和36年頃である。国頭村で火葬が行なわれるようになったのは、もっと後なのであろうか。火葬にふされるのに抵抗があり、後まで龕が使われたのかもしれない。
 
 何故、佐手に与那ノロの墓があるのか。まだ答えが出ていない。


 
▲佐手の神アサギ          ▲サチのウイから学校を望む

 

 
      
龕屋(ガンヤー)がある


2022年3月23日(水)

 「のろ制度の終焉」のテーマで講演で報告したデジメの一部です。(明治12年以降)

【社寺禄処分の経緯】

  ・明治12年4月琉球藩が廃止され沖縄県となる。
  ・社寺の外に琉球には御嶽の拝所が各村にある。
  ・ノロクモイと女官(300名近い)がいる。
  ・ノロクモイは王府から役俸が給与されている。
  ・琉球独自の宗教形態をなしている。
  ・御嶽信仰は人々の精神的拠り所となっている。
  ・御嶽の拝所は直接地元の人々の対象となっている。
  ・ノロをはじめ神人は祭祀の指導者となっている。
  ・ノロは王府から役地としてノロクモイ地を給与されている。
  ・ノロクモイ地からの収益が神人の役俸となっている。
  ・廃藩置県により旧制度の禄制(知行・家録)の廃止
  ・明治12年10月6日有禄者処分方に関し、士族へこれまでの家禄高□米を更に
   賜給されたい旨の伺いをする(内務卿伊藤博文、大蔵卿大隈重信へ鍋島県
   令から)。
  ・明治13年になっても指令がないため、明治13年5月、先の士族禄高に加え
   て社寺録も加えて開申。
  ・明治13年8月3日内・蔵両卿から指令
      (国と県とのやりとりがあるが略)
  ・明治13年8月25日の上伸に対して、ノロ以下の役俸は旧藩の現収高により
   給与すべき旨の指令(内・蔵卿から:明治14年9月12日)
    ・・・純然たる社寺禄なるものに非す因ては聞得大君始社寺及ノロクモイ
    以下の・・・明治13年分より更に石代渡に換へ同年分より・・・向ふ五カ年
    間据置六ケ年目以降五ヶ年間はその元額に半減にして逓減給与に・・・・
     一、各ノロクモイ以下の役俸は即今之現収高に依拠して石代給与するものとす
     一、恩納ノロクモイ始十三人之分現収高既に減殺せし今日に在れては
       更に廃給のものとして制外に附すべきこと
  ・社寺禄は明治18年から逓減し、爾後五ヶ年で減す制を採用する。
  ・明治16年岩村通俊処分官の赴任により、すべてを旧慣に戻す方針に変わる。
  ・士族の禄高に対して五ヶ年金禄据え置き、その後国債証書の交付により
   一時処分の法は中止となり、金禄のまま据え置くことになる。
  ・社寺禄の逓減処分法に対しても、旧慣に戻し、社寺禄となる。
  ・奈良原繁知事になると、その方針を変更し政府の原案であった国債証券
   による一時処分が建議される。
  ・「旧慣地方制度」(明治26年)
    ノロクモイ交代の節は願書番毎方へ回送の事
   ノロクモイ地(沖縄旧慣地割) 県史21 155
   有税・旧藩租税法の通り・売買の禁止・耕作地(自作叶掛・自作j浮掛、
   百姓地に同じ)・耕作の種類(米の外20種、米麦、粟など)地割の慣例なし
 ・金融の抵当禁止など)
    是は郷村の吏員及神官等の役地にして置県以後該吏員神官等は別に
    定める処の役俸を以て支給せらると同時に該役の関係を離れ其の耕作人
    の作地となりしこと旧地頭の如し
  ・明治39年7月3日奈良原知事から大蔵大臣坂谷芳郎、内務大臣原敬に
    提出される「沖縄県金禄処分法案」
  ・明治36年「沖縄土地整理法」
    第二条 村の百姓地、地頭地、オエカ地、ノロクモイ地、上納田、キナワ畑
    にして其の村に於いて地割せる土地は地割により其の配当を受くべき者の
    所有とす。但し其の配当を受くべき者多数の協議に依り、此の法律施行
    の日より一ヶ年以内に地割替えを為すことを得第九条 ノロクモチ地にして
    村持ちとならざるものはノロクモイとして、占有を得たる者は又は其の権利
    を承継したる者の所有とすその中に「沖縄県社寺禄処分法案」)
  ・明治43年に「沖縄県諸禄処分法」が発令される。

ノロクモイと社寺禄【明治38年2月7日】新聞記事

社寺禄を有するノロクモイ凡二百十名にして其の総禄高凡一千二三百円の
高に上れど一名の禄高は最高一期分にて四十余円(年八十余円)を始として
十四五円叉は五円内外にして其の最小額なるものになればタツタ弐銭九厘
(年五銭八厘)のものあり此の如く他の金禄に比し少額なれば気に止める
者少ければにや諸禄下渡あることを知らさる為めにや毎年期日迄に受取り
に来るもの甚だ稀なるの常にして甚さへあり現に今回の如きも十一名を除
く外一百九十九名は未だ生存証書を提出せず其の金額千円余も滞れりという。


【ノロクモイ地の処分方法】(明治31年)の方針
 (1)村に於いて有するノロクモイ地
  (イ)旧藩来有するもの
   (A)地割せるもの
   (B)浮掛せるもの
   (C)売買交換質入せるもの
     右百姓地の例に依り処分す
  (ロ)藩置県後村に於いて有するもの
   (A)君南風(のろの首位に居るもの)ノロクモイは置県の後、上納物高き
     より村に返し村に於いて地割せるもの(久米島)右百姓地同様処分す
  (B)置県後ノロに於いてノロクモイ地耕作し、能はざるより村へ返し、村は   
    ロの食料に相当の地所を永久に与え其の貢租公費を村に於いて負担せるもの
    右ノロに与えたる地はノロ所有となし地は百姓地同様の例に係る
  (2)旧藩来ノロの有するもの
   (イ)ノロの世襲のもの右ノロの所有とす
   (ロ)ノロの後任者はノロ家一族の中よりユタの占に依り定めたるもの
       右ノロ一族の共有とす
    (ハ)ノロが出嫁するときはノロ地の収益の一部は自己に収入し、他は
    本家に収入し、ノロ職は依然之を襲ひ死亡のときは本家へ復帰せるもの(佐敷間切)
    (ニ)ノロ地を売買質入叶掛せるもの
       右は百姓地同様の例に依り処分す
  (3)阿応理恵按司の有する阿応理恵地はノロ地同様処分す(今帰仁間切)
   ※土地処分法が徹底していず、また周知されていなかったためノロ地の
     継承に様々な問題を起こしている。

 ▲玉ガーラ(今帰仁ノロ家蔵)       ▲沖永良部島畦布の森家蔵


【県社・村社建設理由書】(明治43年)、
        (工事中)

【神社建立とノロクモイ】(『琉球宗教史の研究』より)
 ・明治末に神社と寺院の改革はなされる。御嶽拝所、関連する女神官の禄制
  の改革はなされる。
 ・御嶽拝所は直接地元と信仰として直接結びついたものであった。
 ・御嶽拝所が低級なものとして廃止することはきなかった。神社にするには
  御嶽拝所の本質的な究明が必要。
 ・御嶽拝所が神社と同一の性質のものであるかどうか、当時疑問とされている。
 ・御嶽拝所を村落の神社とするには数量が余りにも多い。
 ・御嶽拝所の形態があまりにも原始的で神社として整備するには困難であった。
 ・女神官の処分も不可能で禄制改革までは行われた。
 ・往々正式の神社にまで引きなおし、彼女達(のろくもい)も正規の資格を持つ
  神職に更迭していく方針。
 ・諸禄処分によるノロ・大阿母等の国債証券は、拝所の維持管理資金とし、
  神社引き直す際の備えとした。
 ・国債証券と端数の現金の預入通帳は区町村長が保管、利子のみノロに祭祀
  及び維持保存費として手渡す。
 ・明治末に御嶽拝所並びに女神官の処分の方向を明示する。
 ・ノロの相続はこれまで通り、旧慣により知事の認可を得て継承。
    (以下に例)

       
ノロクモイ承継願
                島尻郡兼城村字照屋壱番地
                  照屋ノロクモイ前役金城カメ三女
                     承継人 金城ヨシ 明治拾参年八月五日
     右ハ母金城カメ死亡ニ依リ照屋ノロクモイニ承継為致度候条何卒御認可相成度此段奉願候也
      大正二年二月十三日
                      右戸主
                       願出人   金城 亀 印
                島尻郡兼城村字照屋百四番地
                       親戚  金城 次郎 印
                仝郡兼城村字照屋五拾五番地
                       親戚  金城 徳慶 印
                仝郡兼城村長
                       大城 虎造 印
                仝郡兼城村字照屋区長
                       金城 牛  印
      沖縄県知事日比重明 殿

     (工事中)



2022年3月22日(火

 今帰仁村謝名の「寡黙庵」へ。天気が良いので①シカ― ②ダムからの水路 ③インヌクヮガーラなど。
 ①シカ―はムラ人や門中のハーウガミ(旧暦四月五日)をする拝所である。干ばつになると天秤棒で水を担いでウプシマの自宅(今の寡黙庵)まで運んだ記憶がある。途中、肩の痛みに耐えられず水入れを蹴っ飛ばしたこともあった。途中に田があり、前田原の小字名に水田の跡が記録されている。

 かつてあった竹林(古い写真)は姿を消している。そこからの竹棒でアヤーチ(操り獅子)(県指定文化財:五年マール)を踊らす操り棒として利用していた。②ダムからの水路はコンクリートで整備されている。水は流れている。 ③インヌクヮガーラも整備され、かつての洗濯場は失っている。

 内心、テレビの向こうの戦争が降りかかるのではないか。無意識に畑地に食料になるものを植えているような。

   
  




名護市真喜屋に立ち寄る。

名護市真喜屋】(旧羽地村)


2022年3月21日(

 下の画像(昭和45年頃)は「寡黙庵」(今帰仁村謝名)の側です。そこで小・中の時代過ごしました。ウタキがあり、神アサギがあり、旧家の拝所がいくつもありました。よく研究者や学生達の調査や祭祀が行われていました。今帰仁村中部域では海神祭(ウンジャミ)の呼び方ではなく、ウプユミと呼んでいます。イヤイヤながら見ていましたね。あの頃は大島(ウプシマ)と呼ばれ、仲松先生は古琉球のシマの形が遺っていると解説してくれました。
 
 昨日、今日と「寡黙庵」に・・・(工事中)

   
   ▲庭先のビワ       ▲寡黙庵の庭先                ▲時々草取りをする花畑

  
   ▲庭先のビワ             ▲寡黙庵のバナナ     ▲貸してある畑めぐり

          ▲昭和40年頃の大島(ウプシマ)

2022年3月20日(

 本島の北部に伊是名島と伊平屋島がある。地理的には沖縄本島の北部に位置し、昭和14年までは両島で伊平屋村(ソン)であった。同年伊平屋村と伊是名村に分かれ現在に至る。明治29年郡区制が敷かれたとき伊平屋村は島尻郡区に組み込まれた。山原(国頭郡)に位置しながら、島尻郡である。そのことが伊是名・伊平屋は山原ではないのかの声がある。

 1469年金丸(尚円王)が第二尚氏を擁立すると、生誕地である伊是名に尚円王は叔父の真三良(銘苅殿内)、叔母の真世仁金を伊平屋阿母加那志として派遣した。伊平屋(伊是名)阿母加那志(御殿家)の娘2人に「二カヤ田の阿母」(北・南風の二家)の神職を継がせた。首里王府は四殿内を介して首里化し、中央文化を注ぎ込んでいる。伊是名島に住む人々は「沖縄の歴史」の要(かなめ)となった尚王氏へ傾倒していく。伊平屋(伊是名含む)は王府の直轄地と言えそうだ。
 
 1490年代、山原(北山)に第二尚氏王統の監守(今帰仁按司)と今帰仁阿応理屋恵按司(神職)を派遣し、今帰仁グスクに常駐させた。1665年今帰仁按司家の七世従憲の時、首里への引き揚げが許された。それは山原を首里化できなかったと考えている。伊是名の四殿内は、首里に引き揚げることなく継承され、近世に伊是名玉御殿(墓)をつくり、清明祭や亀甲墓が導入され、首里化が積極的に図られている。


 言語を見ると「伊是名島の方言は基層部では北部方言に通じるが、中南部方言の影響を強く受けている」(「図説琉球方言辞典」中本正智)といい、人々の言葉は首里方言へとなびいている。神アサギの建物の構造や伊是名グスクの拝所(ナー)でのウンジャミやシヌグ沖縄などに山原的な要素が根強く見え、それに首里王府の祭祀や習俗が被さっている。島の歴史をひもとくと伊是名・伊平屋は山原?の疑問は解けそうである。


 伊是名島は、例年4月最初の週の日曜日に「公儀清明祭」が行われる。今年は参加できないが島のことを思い出してみる。大学の講義で使ったデジメである(一部)。








2022年3月19日(

・平良新助翁】(2008.02.28)メモ

 今帰仁村出身の平良新助翁のテレビ番組取材がはいる。平良新助翁は明治9年生まれ。中学時代謝花昇や当山久三と関わり、民権運動に奔走した人物である。明治34年にハワイ移民となり、同37年にサンフランシスコへ渡米する。さらにインペリアル・クロレー市。昭和15年にロサンゼルスへ移りホテルを経営する。昭和17年に戦争のためヒラの収用所に三年間抑留される。

 昭和28年に帰郷し昭和4594歳で他界される。記憶にあるのは昭和30年代の頃である。黒島直太氏からの聞き取り、平良新助資料と生誕地と戦後住んでいた屋敷跡がある。80歳になって壮大な構想をもって乙羽山まで登っている。そういう機会でないと資料を開くことがない

(今日は、平良新助氏の移民に伴う奥さんのパチ(針突)のエピソードでも紹介するか。


http://rekibun.jp/gazou0802/080227si1.jpg
 http://rekibun.jp/gazou0802/080227si2.jpg
   ▲平良新助資料(手紙類)            ▲平良新助資料

・中北山の時代

 2001年7月「史話に見る人と歴史と文化」で報告したことがある。「仲北山由来記」(古文書)の紹介をかねて。その史話は沖永良部島と関わっているので、詳細に検討しているところである。

中北山時代(中昔北山ともいう)

   西暦1100年頃から1300年頃まで。

「中北山」の時代の興亡の様子をあげてみる。「世譜」及「球陽」に依れば玉城王の代、明の延祐年間国分れて三となり、今帰仁按司は山北王と稱して山北諸郡を從へたとあり、洪武16年(1384))明の太祖使を遣はして三王兵戦を息めよと諭さしめたので中山王祭度・山南王承察度・山北王怕尼芝各々詔を奉じて兵を止め使を以て恩を謝した。依て太祖三王に衣幣を賜う。山北の入貢は之より始まる。云々

怕尼芝は元中九年(1392)に薨じ珉之に代り、應永三年(1396)珉亦没して子攀安知立ち、應永二十三年に至り尚巴志の指揮する連合軍に包囲せられ遂に滅亡した、四代九十余年と稱する。「中山世譜」に云う、

山北王今帰仁在位年數不詳、怕尼芝在位年数不詳、珉在位五年、攀安知在位二十一年、元の延祐年間に起り明の永樂十四年に尽く、凡そ四主九十余年を經たり。

山北王の明国入貢は弘和三年(1383)中山察度王の時怕尼芝の遣はしたのが、史上に現れた始であるが怕尼芝に亡ぼされた。今帰仁按司の子孫と称する家に支那織の衣類などが數種傳わっているのから考へ又「中山世譜」に怕尼芝の前に山北王今帰仁とあるのから察すれば北山王国も怕尼芝王以前より支那交通をなし、今帰仁の世の主が其の子弟を羽地・名護・国頭等に配置して全地方を統一し事実上の北山王となっていたのであろう。

偖て「野史」に依って怕尼芝以前の今帰仁按司を探るに、昔天孫氏の子弟今帰仁に封ぜられてあったが、利勇反逆の際に亡び、次に義本王の弟が今帰仁按司となり数代の後嗣子なき爲め姻戚なる英祖王の次男を養子となしたという。

予、「野史」に基きて調査するに瞬天系統以前に就きては全く之を確めることが出来ないけれど、英祖系統に就きては其の記事と大同小異の伝説が各地の旧家にあり且種々の遺物も保存されているのから見れば、必らずしも無稽の説とは思はれず。

此の英祖王の子で今帰仁按司になった系統を俗に仲北山と呼んでいる。今「中山世譜」の記事と総合すれば矢張りそれ以前に北山王と稱する今帰仁按司が数代あったことは明白である。

仲北山は二三代の後其臣本部大主(大腹とは違う)の謀反に遭って一旦落城離散し、子孫が隠忍していてやっと城地を取返したが(「北山由来記」1383には此の若按司を丘春としてある)不運未だに尽きず、一、二代の後再び一族なる伯尼芝のために打滅ぼされてしまた。

伯尼芝(長男)が中北山を滅ぼし、北山王となり、次男の真松千代が沖永良部島、三男の与論世の主(王舅)が与論島を統治していく流れである。


2022年3月18日(金)

 島袋源一郎氏(敬称略)について問い合わせあり。それで「源一郎ファイル(発表論文・著作目録」を開く。特に「沖縄教育―島袋源一郎氏追悼集」(昭和17年)に目を通す。

 島袋源一郎参照

2021年6月1日(火)記録

 島袋源一郎は『南島論叢』(昭和十二年初版発行)(伊波普猷還暦記念論文集編纂委員会編)に「琉球列島に於ける民家の構造と其の配置」を寄稿されている。島袋源七氏も「今帰仁を中心とした地名の一考察」も寄稿されている。それから今帰仁の地名について参考にしたことがある。

 島袋源一郎の、この論文の以下の部分に目にとまった。

 「昭和九年五月渋沢男爵の後援により東北より九州に至る各官立大学の地質、動物学、宗教、農学、人類学其の他各科の権威者を以て組織せらるヽ教授の方々が薩南十島村を調査して帰らるヽ御一行と名瀬より同船し、鹿児島図書館の階上に於いて、十島村視察報告講演会が催されたので之は実に絶好のチャンスだと思い聴講に出かけたのである。・・・・(略)・・・此に於いて従来の大島調査の宿望は更に増大して十島村即ちトカラ群島迄延長しなければならぬという必要を痛感するに至った。

 幸い昭和十年六月東京より帰県の際鹿児島衛生課勤務の友人前沖縄県学校衛生技師呉泉氏の慫慂に依り六月十四日夜半鹿児島に於いて十島丸という百五十五噸の小型優秀船に同乗していよいよ前年来の懸案たる十島村調査に乗出すことになった。抑も十島村とは薩南に羅列する竹島・黒島・硫黄島・口之島・中之島・臥蛇島・平島・宝島・悪石島(あくせき)・諏訪瀬島の所謂十島を以て一村を形成せるもので、文字通り交通不便なるは勿論、昭和五年四月に初めて小学校令が実施せらたという一事を以て万事は推測すべきである。・・・以下略・・・」

 島袋源一郎のこの論文で、私の脳裏にあった疑問のいくつか溶ける。比嘉春潮氏に島袋源一郎が東京にやってきた(三、四回)、鹿児島、中国に行ったとか、聞かされていた。ほんと?の疑問が解消した。

 歴史で宝島のこと、トカラ海峡を境に琉球国統治。トカラ列島の島々と琉球との関わりについて念頭にありながら、踏査したことがなく、もうないだろう。島袋源一郎が竹島に足を踏み入れたことが、十島村に足を踏み入れたい気持ちになる。昭和九年の官立大学の研究者の組織の十島調査報告が渋沢男爵(渋沢栄一男爵)援助だったいうことも。

 トカラ列島の島々へ訪れることはないが、やはり胸がさわぎますね。このHPが回復できたようだ。十島村は十近い島々で十島村。霧島火山帯の上に小島のようだ。薩摩や江戸上り(立ち)などの船が近海を往来したのであろうと島々と琉球との関わりの痕跡を見つけ出したいものだ。考古では縄文時代の九州本土から、あるいは南の琉球からの土器が入り込んでいるようで、南北からの人の流れがあったようだ。宝島や口之島に近世の異国船遠見番所が置かれていたようだ。すると、与論島の異国船遠見番所の様子がわかりそう。

 明治には笹森義助一行が十島を巡回しているようで、それを意識して『南島探検』を読んでみたくなる。「沖縄県及島嶼町村制施行」(明治41年)により、七島と三島で大島郡十島村が発足し役場は中之島に置かれたようだ。昭和九年の薩南視察報告書もあるであろう。横当島には糸満の漁師が漁業操業し、その時に使った貯水槽があるようだ。

 ボゼ(神という神人)、テラ(協同墓地)無形文化財)
②十島の大字 宝島 人口一三一人
③口之島 人口一二九人 一九五二年に復帰。一九四六年二月二日に日本と分離。」


2022年3月17日(木)

 兼次の字誌の編集会議。今日は出席者が少ない。話題が親子ラジオ(有線)、精米所、子供の遊び、稲作など話題が広がる。愛楽園の職員の息子であったの小学校は饒平名の小学校。島袋源一郎先生の奥さんは何故クリスチャンだったのかの話。話題満載。録音テープを持参せずまとめることができるか?本部町具志堅の上間家と赤墓のこと。新里のキーバカ。怖かったこと。電気がつくようになったのはいつ?

 編集会議の前に「寡黙庵」で一服してから。気になった新聞記事と庭のさくらんぼとポロンポロンをパチリ。

 字の常会で「字誌」発行の承認があったと報告あり。

 おみやげにきゅうり、ラッキョウ、ビール、夕食の弁当。(ありがとうございます)



  

2022年3月16日(水)

 屋我地島から今帰仁村の上運天まで。

上運天の概況(がいきょう)

・ウンシマウガンジュは遺跡になっていたグスク系土器、磨石、叩き石、須恵器、青磁器などが
 確認されている。
・上運天はもともと運天と一つの村であった。
・運天の村が二つになったためウインシマ(上の島)とヒチャンシマ(下の島)と呼ばれる。
・ウタキの内部に神アサギ・ウタキのイベ・神殿などがある。
・ウタキの内部に集落があった痕跡が見られる。集落はウタキの周辺から下の方に移動している。
・オモロで「うむてん つけて こみなと つけて」とあるが、「こみなと」は浮田港ではないか?
・1741年(乾隆6)に大島に漂着した唐船を運天津に回したことがある。唐人を運天に囲っている間
 大和船は古宇利島に停泊するよう指示がなされる。
・その時、具志頭親方(蔡温)も訪れている。その時の宿は上運天村である。
・大和役人の藤山藤兵衛、与力宮之原四郎右衛門などは上運天村で指揮をとっている。
・上運天には年二回のタキヌウガンがある(4月と8月)。その時のウタキのイベは運天のティラガマ
 である。
・4月15日はアブシバレーとタキヌウガンが同時に行われる。
・6月25日にはシチュマとサーザーウェーがある。
・7月の後の亥の日はウフユミ(ワラビミチ)が行われる。勢理客ノロがやってくる。
・ウフェーの森があり、上運天と下運天の人たちが十五夜の行事を行っていた。
・上運天は毎年豊年踊が行われる。その会場は運天地番のウフェーで行う。何故?
・上運天の獅子は神アサギの中に置かれている。
・上運天の古い集落はアナガーバーリーとアサトゥである。
・1917年(大正6)に仲宗根に台南社の製糖工場ができ、浮田港に桟橋をつくり、仲宗根までレール
 を敷きトロッコで運搬がなされた。
・戦争中は日本軍の高速輸送及び特殊潜航艇魚雷基地であった。そのため爆撃を受けた。
・1934年(昭和9)に国会議事堂の門柱につかわれたトラバーチン(石材)が積み出された。
・1955年(昭和30)貿易補助港の指定をうける。
・1959年(昭和34)北部製糖工場の建設に伴って岩壁の建設がなされる。
・1987年(昭和62)伊是名島へのフェリーは運天港(浮田港)から発着する。
・1990年(平成2)伊平屋島と運天(浮田)港間のフェリーが運航する。

上運天の位置図


【現在行われている上運天の祭祀】

 
    ・1月1日    チータチウガン(一日御願)
    ・2月15日   ウマチー
    ・4月15日   アブシバレーとタキヌウガン(運天のティラも拝む)
    ・5月15日   ウマチー
    ・6月25日   シチュマー・サーザーウェー
    ・7月後の亥日 ウフユミ(勢理客ノロがやってくる:四カ字合同)
    ・8月15日   ジュウゴヤー(十五夜)
    ・8月17日   タキヌウガン(運天のティラも拝む)

.
  
▲今帰仁村上運天の神アサギ       ▲ウキタ(浮田)御嶽のイビ

.
  
▲上運天の御嶽の中のイビ(貝あり)   ▲ムラヤーの跡(火の神の祠) 

唐人の漂着と運天港
(2009
年5月25日)過去メモ

 1741年12月大島(大和浜)に唐船が漂着した。その船は運天津(湊)に回送されてきた。運天港で修理して運天港を出港している。唐船には53人の中国人が乗っていた。出身地は蘇州と福州で商人が乗っていた。長崎で貿易をし、日本の海産物や銅器・漆器などを乗せて帰る途中、洋上で暴風にあい大島の大和浜に漂着したのである。

 大島に漂着した唐船は、唐人47人と奄美大島人7人を乗せた本船と唐人6人と荷物を乗せた大和船の二手に分かれて、沖永良部島・与論島を経由して運天港に向かった。大和船は名護間切許田村に着く。本船は伊江屋島の具志川島の干瀬に乗り上げて破船してしまう。

 名護間切の許田(湖辺底)に着いた唐人と荷物は名護間切に収容された。天気がよくなったので名護間切船二艘、恩納間切船一艘、数久田村に来ていた那覇の馬濫船一艘、計四艘で名護から運天港へ回送した。運天港に着くと、唐人と荷物は番所に引き渡され、大和横目と在番検見が綿密な船の改めをした。馬濫船は遅れて翌日に到着した。番人ならびに諸事取締り方に次のようなことが申し渡された。
         覚
  一 唐人囲所近く地下人不立寄様、堅く可申渡事。
  一 同所近辺より女性通仕間敷事。
  一大和年号又は大和人名・斗舛・京銭(寛永通宝)、唐人江見せ申し間敷事。
    附、御当地通用之銭相尋候はば、鳩目銭相用候段可申答候
  一 村中に而大和哥仕間敷事。
  一 唐人滞在中、御高札掛申間敷事。
  一 勤番家并村中、火用心別而別而可入念事。

 上のような達しが出された。また唐人を収容するための小屋がつくられた。

        覚
 一 番所屋敷内に長拾間づつ横弐間づつ、之小屋弐軒、長三間横弐間之台所壱軒、
   雪隠所等相調候事。
   附、小屋は奥弐間はいのまん床仕合、前三尺者土地に仕候。台所は床無に、
   かま大小五つ相調居候。
 一 小屋外囲之儀、高すすき・いのまん取交、内外見通り無之様に堅箇固相調候事。
 一 門左右、後表両角四ヵ所に勤番家相調候事。

 唐人が運天村に収容している間、国頭間切の七カ間切に割り当て、運天村に四日づつ詰めさせた。伊部屋島から47人が到着する間、唐人6人のために食糧が尽きると米や味噌など、入用な品々を提供している。

  伊平屋島で唐船は破損してしまったので荷物は泊馬濫船二艘に乗り、通事・評定所筆者宰領などが伊平屋島船に乗り三艘立てで運天港へ向かった。破船した船は厳重に焼き捨てた。その間、大和船が運天港沖に停泊してはならず、天候によっては古宇利島の前に停泊するようにと指示がだされる。大和横目と在番役人は唐人と荷物を綿密に検査をしている。大和役人の藤山藤兵衛や与力の宮之原四郎右衛門、足軽の池田勘助などの名がみえる。大和役人は運天ではなく、隣の上運天村に待機して指示をしているようである。その時、蔡温も運天を訪れている。


▲運天のムラウチ集落


2022年3月15日(火)


 スムチナウタキは今帰仁村玉城(アザナ原)にある。この祭祀は小学生の高学年の頃から何度か参加している。タキヌウガンと呼び、四カ字の人々が参加する。玉城のろ管轄の祭祀である。四カ字は玉城・謝名・平敷・仲宗根である。四か字の人々は、ウタキのイビの下のほうにウカマと呼ばれる広場があり、そこに集まり待機する。四カの字の人々が集まると、各字の神人がウカマの香炉の前に並んで、ウタキのイビ向かって祈りをささげる。それが済むと神人がウタキの頂上部(イビ)に向かって時計回りで登っていく。以下の記録は2018年の旧暦4月15日の記録である。

2018
530日(水)調査


 以前スムチナウタキは「複数村(ムラ)のウタキとしたことがある。「奉納寄進」や年号の刻まれた石の香炉を集めてみると「立神」(旅立や無事帰郷)との関わりのあるウタキであることがよくわかる。クボウのウタキの「首里天加那志美御前、百御ガホウノ御為、御子御スデモノノ御為、又島国之、作物ノ為、唐・大和・宮古・八重山、島々浦浦ノ、船々往還、百ガホウノアルヤニ、御守メシヨワレ。デヽ御崇仕也。」のウタキであることが主である。祈りの百果報、五穀豊穣、航海安全などを祈るウタキである。

・複数村(ムラ)のウタキ(御嶽)―今帰仁村玉城のスムチナ御嶽―

 スムチナ御嶽(ウタキ)は今帰仁村(間切)中央部の玉城村(現在の字玉城)に位置する御嶽である。『琉球国由来記』(1713年)には「コモキナ嶽:神名コシアテモリノ御イベ 玉城巫崇所」とあり、玉城巫は玉城・謝名・平敷・仲宗根の四か村の祭祀を管轄する。このウタキの特徴は玉城・謝名・平敷・仲宗根にそれぞれウタキを持っているが、各村の御嶽とは別に四カ村のウタキとしてスムチナ御嶽が設けられている。集落の発生と関わる御嶽がある中で、スムチナ御嶽は集落の起源と直接関わるものではなくノロ管轄の制度化に伴って設立された御嶽と捉えることができそうである。

    ・玉  城・・・・ウタキ有り(タマグシク)
    ・謝  名・・・・ウタキ有り(お宮・グシク)
    ・平  敷・・・・ウタキ有り(ウガン)
    ・仲宗根・・・・ウタキ有り(お宮・グシク)

 スムチナ御嶽は標高143mの杜で玉城ノロ管轄の四つの村を見下ろせる場所にある。逆を言えば四つの村から見える位置に御嶽を設けている。旧暦4月15日のタキヌウガンの時は、四カ字の人たちがスムチナ御嶽の中腹のウカマ(広場)に集まり待機する。四カ字の神人達は、さらに頂上部のイベまで行って祈りを捧げる。

 イベに三基の石の香炉が置かれている。「奉寄進」と道光、同治の年号があるが判読ができない状態に風化している。平成元年の調査で「道光二拾年」(1840)と「同治九年」(1870)、「奉寄進」「大城にや」「松本にや」の銘を読み取っている。同治九年向氏今帰仁王子朝敷(今帰仁間切惣地頭職)が薩州に派遣されている。大城にやと松本にやはその時随行していったのか。それとも今帰仁王子の航海安全を祈願して香炉を寄進したのか。スムチナ御嶽での祈願の一つに航海安全があることが窺える。また雨乞いや五穀豊穣や村の繁盛などが祈願される。間切役人の「口上覚」に立神(タチウガン)が今帰仁グスクで行われている記事が散見される。このスムチナウタキでも行われたと見られる。それが、スムチナウタキをはじめ、謝名ウタキ、平敷のウタキ、勢理客のウタキなどにあるイベの香炉。

 

▲ウカマに集まった村の人たち      ▲ウカマでイビに向って祈りをする神人


 
     ▲スムチナ御嶽のイビ             ▲イビの前にある三基の香炉


 
     ▲イビへの道に左縄が張られる         ▲後方の山の少し盛り上がった部分がウタキのイベ

   
▲勢理客のイビの前の香炉      ▲謝名のウタキのイビの香炉    ▲平敷のウタキのイビの香炉


2018529日(火) 調査

 今帰仁村玉城のスムチナ御嶽で行われるタキヌウガンの調査。四ヶ村(字)が参加しての祭祀。玉城ノロ管轄の祭祀である。スムチナ御嶽には四ヶ字の人々が集まり、そこでのウタンが終わるとそれぞれの字でのウガンがある。今回は仲宗根に参加予定。玉城になるかも。

【今帰仁村玉城のスムチナウタキでのタキヌウガン】

 旧暦415日に行われるタキヌウガン。玉城・謝名・平敷・仲宗根の四ヶ字(アザ)合同の祭祀である。(玉城は寒水村と岸本村が合併した村(ムラ)でタキヌウガンに参加するのは玉城のみ)

 コモケナ(スムチナ)嶽そこでの祭祀や唱えについては、なんら記されていない。しかし、四ヶ村合同の祭祀となると重要な祭祀であったと見られる。今帰仁グスク近くにある「コバウノ嶽」がある。そこでの祭祀は国(クニ)レベルの祭祀だと言い続けている。北山監守と今帰仁アオリヤエ一族が首里に引揚げる(1666年)までは今帰仁アオリヤエの崇所であったとみている。『琉球国由来記』(1713年)の頃はクボウノ嶽は今帰仁ノロが肩代わりしておこなっていた。

 
謝名村に、アフリノハナト、云う所アリ。昔、君真物出現之時、此所ニ、黄冷傘立つ時ハ、コバウノ嶽ニ、赤冷傘立、
 又コボウノ嶽ニ、黄冷傘立時ハ、此所ニ、赤冷傘立と、申伝也。
 
 
また、コボウノ嶽での唱えは、以下の通りである。
  
首里天加那志美御前、百御ガホウノ御為、御子御スデモノノ御為、又島国之、作物ノ為、唐・大和・宮古・八重山、
   島々浦浦ノ、船々往還、百ガホウノアルヤニ、御守メシヨワレ。デヽ御崇仕也。

 スムチナ御嶽もクボウヌ御嶽と同様タキヌウガンの名称でウランサン伝説があり、国(クニ)レベルの祭祀ではなかったか。
  
  ▲スムチナ御嶽のイベ     ▲スムチナ御嶽のウカマでイベに向かって拝む(四ヶ字の方々)

 スムチナ御嶽でのウガンがすむと、玉城は神アサギへ、仲宗根はヒージャーガー、集落内のアガリギッチョへ、謝名はサンケモーへ、平敷は神アサギへ。そこでタキノウガンが無事終わりましたのでウガンで祭祀は閉じる。その後、村人達がオミキを酌み交わし、玉城は神アサギ内でご馳走を前に直会。

 
▲ヒージャーガーでのウガン      ▲アガリギッチョでのウガン
 
  
▲玉城の神アサギで             ▲玉城の神アサギ内で直会

 
▲謝名はサンケーモーでスムチナウタキに向かって返礼


2022年3月14日(月)

 名護市伊差川の宮(のろ・根神・◇が合祀)、銅山跡(ハ二ガー)、銅山事務所跡、羽地グスク跡、勘定納港、屋我地島、我部、饒平名の馬場跡、今帰仁村上運天(ウキタウタキ)、上運天神アサギ、お宮へ。(午前中で踏査一部紹介)

①伊佐川宮
 伊佐川宮の宮内にいび、のろ、根神などの火神があり、別々の場所にあった拝所が一カ所に合祀されている。ちょうどお宮の庭の草取りをしている方とお話することができた。お宮の立て直しの話がでているが、向きが違うと。首里に向いていないと意見があるとのこと。今は伊佐川の古島に向いていますよ。南を主張している方は寄留の方々ではないですか。その方は国頭村安波の方だという。宮城栄先生の話に及ぶと親戚だとのこと。

   
   ▲伊佐川宮      ▲「いび火神」     ▲「のろ火神」    ▲「根神火神」

②伊佐川の銅山跡 山北王のハ二ジ・パ二ジ参照

羽地の登場は、羽地大川とされる1735年以前から登場する。「おもろさうし」で「まはねち」「まはねぢ」と謡われている。古琉球から近世の過渡期の二枚の辞令書で「はねしまきり」(羽地間切)とあり、『琉球国絵図郷村帳』(1648年)と『琉球国高究帳』(1648年)で「はねし」に「羽地」と漢字が充てられている。羽地の語義は「はねち」「はねぢ」あるいは「はねじ」に求められるべきであろう。

 「はねぢ」「はねち」「はにし」の方音は、ハニヂ、ハニジ、パニヂ、ハニシとみてよさそうである。ヂやジは地の漢字が充てられ土地や場所である。問題はハニである。ハニは金である。名護市伊差川を流れる金川(カニガー:ハニガー)がある。そこは明治から昭和の初期に銅を発掘した場所である。その山一帯から流れる川がハニガー(金川)である。明治以降に発掘されていた記録があるが、いつ頃から発掘されたのかは不明である。

 おもろさうしで「まはねぢ」「まはねち」と謡われるその「はねぢ」地名がどこから来ているか。大川ではなく、ハニチ(金地:銅を産する地)に求めるべきであろう。そこから流れ出るハニガー(金川)は羽地間切の中心となる田井等村(主村)へ向かって流れている。今は「我部祖河川」になっている。 

  
▲金川銅山跡之碑        ▲銅鉱口              ▲銅屑が散在

  
▲金川銅山の事務所跡       ▲伊差川のスク道跡    ▲金川(我部祖河川)

④羽地(親川)グスク跡
 詳細は山北王のハ二ジ・パ二ジ参照参照

 羽地グスクからみた金川(銅山)。羽地地域(後の羽地間切:現在名護市)を統括したと見られる羽地(親川)グスク。親川グスクとも呼ばれるが、このグスクのある地域は、18世紀中頃に分立した親川村である。親川グスクの名称は、親川村の創設した地が親川である。そのため親川グスクと呼ばれる。因みに羽地間切番所も親川番所は近世中頃以降のこと。田井等村から分割した村である。

 親川グスクの名称は、親川村にあることに由来するのか。そうであれば近世中頃からの呼び方になる。もともと一帯が親川と呼ばれていて、それに因んで親川村や親川グスクと名づけられたのかもしれない。『琉球国由来記』(1713年)をみると、「池城里主所(火)神」や「池城神アシアゲ」とあるので、親川グスクの名称は、親川村が創設された後に名づけられた可能性が強い。羽地地域(後に羽地間切)全体を統括したグスクとみるならば羽地グスクと呼んだ方が的を得ているかもしれない。羽地グスクに石積が非常に少ないのは、番所に使われたのではないかという。 

 
▲羽地(親川)グスクの遠景  ▲羽地番所ガー(井戸)

2022年3月13日(

 ちょっと、村内の歴史散歩でもするか。昨日の作業で筋肉痛のため。

.・もう一つの運天港(浮田港)(今帰仁村上運天)
 今帰仁村に運天港は二つある。歴史的にいう運天港は字運天の港を指している場合が多い。もう一つの運天港は地元では浮田港という。浮田港は上運天にあり、伊是名島(昭和63年)と伊平屋島(平成2年)をつなぐフェリーの発着港となっている。近世は伊平屋(伊是名)島と本島をつなぐ航路は字運天の運天港であった(詳細については運天港で触れる)。

 この浮田港は運天港と表裏一体の役割を担っている。1742年大島に漂着した唐船が修理のために運天港に向う途中伊平屋島の具志川島の干瀬に座礁し破損する。伊平屋島から馬濫船二艘で唐人47人と荷物を運天へ回航。大島に漂着した6人は名護間切の湖辺底へ。

  ※上運天に「ユ うけた原」の印部石(原石)があり、上運天も元文検地の
    測量がなされている。元文検地の指揮をとったとみられる祭温は上運天
    村を訪れている。



 唐人は運天に囲われてしまうのであるが、大和人方・大和横目・問役などは上運天村で宿をとり、首里王府役人に指示を出している。この唐人漂着の首里王府の対応が浮田港(上運天村)を通してみえてくる。蔡温もこの事件処理でやってきて宿は上運天村にとっている。唐船・仕立船・大和船・馬濫船・楷船・はき船・挽舟・宝島船・伝間(馬)船・飛船などの船名が出てくる。

 「1742年の「漂着唐人滞在中日記」の出来事は、運天港と浮田港が果たしていた役割が知れる。また、いろいろな呼称の船が登場してくる。津(港)や船を通した近世の琉球国の姿の一端を描くことができそうである。
(画像の撮影は平成15年)

 
 ▲今は伊是名・伊平屋へのフェリーの発着港    ▲後方の杜はウキタ御嶽


2022年3月12日(

 鎌倉芳太郎氏がナキジングスクを訪れた時の記録である。このような記録を示すと議論が沸き起こる。私にとってはシメシメである。「鎌倉芳太郎ノート」(大正12年に来沖)など平成二年頃から先人たちの記録を紹介したきた。その度に問い合わせがあった。

 さて、天気よし、これから「寡黙庵」と草畑の雑草の片づけと体力づくり、さらに頭の体操。一石五鳥か。

今帰仁城踏査
(「鎌倉芳太郎ノート」より)

① 親井 (we:ga)北山ノ北「テラ」(山)ノ下ニアリ(昔寺アリタリシカ)、清水ニシテコノ附近ノ稲田ノ
  水ハスベテコレヲ用フ、志慶真川ノ水北山城ノ下ヲ透シテココニ出ズ、

 旧八九月頃国中ノ人々皆ココニテ「ウビナデ」ヲス、コノ近辺丿人ハ五月五日一門中集リテ
 「オビナデ」ヲス、香炉ヲ安置セリ、テンチヂ、アマチヂヨリ西北方下ニ当ル

② 「ハンタミチ」ノ石道ヲ登リ行ケバ「ミムングスク」(mimun‐ gusuku)ニ達ス北山城ノ北端ヲナス所、
 物見ヤグラ也

③ 「ミモノグスク」ノ南方三十間許ノ所ニ「トモノカネヌンドンチ」アリ、「供ノカネ」ガ毎月朔望ニ祈
 願ス、コノ神人ノ管轄ナリ、火神ヲ祀ル、瓦殿一アリ、丑方ラ拝ム

④ 「トモノカネヌンドンチ」ヨリ三十間位南方ニ、「(ウィ)ヌヌンドンチ」アリ、「ノロクモイ」ノ祭祀ナリ、
 瓦殿アリ、火神ヲ祭ル、丑寅ニ向ヒテ拝ム、庭前ニ香炉ヲ安置ス、「ウタンカー」(utanka:)ト云フ、城内霊 所ヲ遥拝スル所ナリ、南方ヲ拝ム 

⑤ 「ウイヌノロ殿内」ノ西方五十間位ノ所ニ「オーレーウドン」アリ、丑ノ方ニ向ヒ拝ム、コレヨリ西北三十間 許ノ火神ヲ祀ル、霊石三個及香炉数個アリ、瓦殿ノ前庭ハ石垣ニテ囲ヒ、所ニ「シリグンニ」ト呼ブ山アリ 、殿ノ後方六七間ノ所ニ

a「オトーシオガミ所」アリ
  (イ)伊平屋へノ「オトーシ」
  (ロ)国頭辺戸へノ「オトーシ」ト云フ
    又石垣囲ノ向而右前ニハ

b「タチハンジュムイ」(tathihanjumi)へノ「オトーシオガン所」アリ、香炉ヲ安置ス、巳ノ方ヲ拝ム

⑥ 「クイドンチ」(kuidunchi)(古宇利殿内)「オーレーウドン」ノ東南五十間位ノ所ニアリ、丑方ヲ拝ム、火神、 瓦殿ナリ、古宇利人旧八月頃来リ参拝ス(諸人ハココヲ拝マズ)

今帰仁城正門

(南北ニ通ズ、北ヨリ南ニ入ル、巾五尺許) 

■城内ノ霊所

① 「アマチヂ」(amachiji)―受剣石伝説アリ、霊石アリキトゾ、城中央ヨリ稍北ニアルカ、北方ニ向ヒ香炉数個安置セリ(ソノ奥ニ進メバ、後方ハ「ウーシーミ(ン)」(u:shin)ノ平地ヲ望ム)

② 「アマチヂ」ノ東方二十間許ノ所ニ「テンチヂ」アリ、卯寅ニ向ヒ拝ム、「辺戸岬」ヲ的トナスカ、香炉数個、後方ニ霊石アリ、夏至ノ日出点ノ測定ヲ祈願セシ所ニアラザルカ、卯方ニ「コーリ島」ヲ望ム、恰モ神島ノ如シ、羽地方面ハ見エザレド字真喜屋ノ「ウイヌウタキ」方面ハ冬至ニ於ケル太陽ノ出点ノ信仰ニ基クニアラザルカ、東方ハ直チニ断崖(ハンタ)トナリ下方ニ「ミスシカーアラ」(志慶真川)ヲ望ム、対方ニ「アラヤ」(araya)ノ断崖(ハンタ)匹敵ス

③ 「テンチヂ」ノ南方十間位ノ所ニ瓦殿アリ、「シルウチヌウドングヮー」(shiruuchinuudungwa)ト呼ブ、火神アリ、霊石十二個三行四列ヲナス、碑文一アリ、石燈炉二基アリ、神域入口ノ石段上ニ平石アリ、コノ下ハ隠穴ナリキトゾ、今モ尚洞穴アリト云フ、

④ 「テンチヂ」ノ南ニ三十間位ノ所ニ「カラウカー」(水ナシ)アリ、香炉二ツアリ、昔魚ヲ飼ヒタル池ナリキトカ、西南ナル「クバウヌウタキ」ニ向ヒテ拝ム、「クバウノウタキ」ヨリ霊水ヲ受クルノ意カ(コレヨリ東南三十四間ニシジマ門《ジョウ》アリ)

⑤ 「アマチヂ」ノ東方五間位ノ所ニ「グスクアシアギ」ノ跡アリ、三十坪バカリノ空地ナリ、三間位方四隅及間ニ石ヲ積メリ、ココニ「アシアギ」ノ足ガ作ラル、「アシヤギ」ハ西南ニ面シテ建ラレ神人共ハ諸人ヨリ東北面ニ拝マレル 

■ウンジャミ道

オーレーオドンノ前方ヨリシリグンニ西北ニ向ヒユクヌカタノ間ノ低所ニ下リ並松山ニ出デコレヨリ今泊西北方ノ海岸ニ向フ



2022年3月11日(金)

山北王のハ二ジ・パ二ジは羽地?

 「仲北山」時代を滅ぼしたハ二ジ(北山王)の素性、その弟(次男)を沖永良部島へ、三男を与論島へ。

【北山と関わる金石文(2008.01.22)メモ 

 今帰仁(北山)と関わる金石文を『金石文―歴史資料調査報告書Ⅴ』(沖縄県教育委員会:昭和60年)からいくつか拾ってみた。今帰仁だけでなく、北山や山北府や人物なども碑文から拾ってみた。中山から北山という地をどう見ていたのか、それと三山統一後も琉球国王も出てくるが目立って中山(王)が使われている。三山統一後も中山を踏襲していった背景が見えてきそうである。

   「万歳嶺記」(1497年)と「官松嶺記」(1497年)が建立されている場所が、何故ミヤキジナハなのかがテーマである。吟味したことがないので、東恩納寛惇の『南島風土記』の説明を借用すると「ナチヂナーといい、今帰仁屋に作る」というとある。屋は居住地と解されているので今帰仁人が住んでいた場所が地名になったことになる。そのナチヂナーは今帰仁から行った人たちの居住地だったのか。碑が建立された頃(1497年)には地名としてあったのであろう。

   玉御殿の碑文(弘治14年:1501)に「ミやきせんあんしまもたいかね」とあり、今帰仁按司真武體金、第二監守一世の今帰仁王子(尚韶威)で、亡くなると碑文にあるように玉陵に葬られるべき人物であった。今帰仁グスクに派遣された尚韶威が亡くなると玉陵に葬られる観念はどこからきたのか。北山監守一族が首里に引き上げた時の七世従憲は首里で亡くなり葬られたのは生まれ育った今帰仁間切運天村の大北墓である。

   以下の碑文をひも解いていくと中山からみた北山をどう見ていたのか読み取れそうである。本覚山碑(1624年)の今帰仁思徳(いまきしん思徳)や内間御殿の御殿守を勤めてきた中山家の墓誌(1792年)に出てくる「今帰仁ちい」なる人物は今帰仁とどう関わるのか。そのようなことをひも解いていくことも必要かもしれない。

  ・万歳嶺記(上ミヤキジナハノ碑文)(1497年)(首里山川)
  ・官松嶺記(下ミヤキジナハノ碑文)(1497年)(首里大中)
  ・玉御殿の碑文(首里金城町玉陵、弘治14:1501年)
  ・本覚山碑文(首里山川町金武家墓、天啓4:1624年)
  ・池城墓碑(今帰仁村平敷、康煕9:1670年)
  ・首里魚池碑文(康煕17:1678年)
  ・墳墓記(今帰仁村今泊、康煕17:1678年)
  ・改決羽地大川碑記(乾隆9:1744年、道光10:1830 年)
  ・山北今帰仁城監守来歴碑記(今帰仁グスク:乾隆14:1749年)
  ・三府龍脈碑記(名護市:乾隆15:1750年)
  ・中山家墓誌(西原町小那覇:乾隆57:1792年)
  ・オランダ墓墓碑(1846年)(屋我地島) 
 ・大北墓の碑(大正に再建)(運天)
 ・源為朝公上陸之址碑(運天)
 ・大和人墓(二基の墓塔)(運天)

  (下の碑文は『金石文―歴史資料調査報告書Ⅴ』(沖縄県教育委員会:昭和60年)より)
 
 ▲上ミヤキジナハノ碑文 ▲下ミヤキジナハノ碑文

「山北今帰仁城監守来歴碑記」(県指定の文化財)

 昨年(2002年)12月「山北今帰仁城監守来歴碑記」が県指定の文化財となった。今帰仁城跡の主郭(本丸)の火神の祠の前に立っている石碑。現在立っているのはレプリカで、原物は歴史文化センターのエントランスホールに展示してある。碑はニービヌフニ(微粒砂岩)で高さ約117㎝、幅約41㎝、厚さ9㎝である。石碑は乾隆14年(1749)に建立され、建てたのは今帰仁王子(十世宣謨)ある。火神の祠の前に燈篭があり、その一基に石碑の建立者である「今帰仁王子」の名が刻まれている。

 碑文の内容の概略を記すと以下の通りである。
  「琉球は四分五裂し、ついに三山が鼎立する情勢となる。佐敷按司の巴志が兵を起こし
  統一する。北山は中山から遠く離れ教化し難く、また地形が険阻である。そのため
  変乱を起こす恐れがあり、次子の尚忠を派遣して監守させ、永くその制度を置いた。
  尚徳王に至って国政が乱れ禍を招き転覆する。尚円が王に推挙されると、しばらく
  大臣を輪番で派遣して監守させる。弘治年間に尚真王は第三子の尚韶威を派遣して
  監守となる。彼が吾(十世宣謨・今帰仁王子)の元祖である。代々今帰仁城を鎮め
  典法を守ってきた。康煕四年(1665)七世従憲の時、住宅を首里に移し今帰仁城の
  旧跡や典礼などを掌った。乾隆七年(1742)に城地を郡民に授け、典礼を行わせよ
  うとした。ところが、宣謨は往時のことを禀明し、元祖以来山北を鎮守し統治する
  者は吾が子々孫々しかない。宣謨はそのような来歴を記し、石に刻み永く伝える」

 この碑文から、沖縄(北山)の歴史の流れや監守設置の理由や監守引き揚げ、また今帰仁グスクの管理の移管や祭祀の状況を知ることができる。今帰仁グスクの歴史の一端を知ることができる貴重な史料である。また、当時の歴史観を伺うことができる。十世宣謨の当時の判断が今帰仁グスクの管理や所有権が今に影響を及ぼしている。


2022年3月10日(木)

 1609年以前の史料で奄美の島々の名称をみていくことで、奄美の島々の様子をしるためである。奄美の島々が首里王府が統治していた時代の様子を伝承として見ていく視点もあるが、歴史の視点で描けないか。1500年代の宮古・八重山の入貢(討伐)と喜界島・大島・徳之島の入貢(討伐)のから島々の内部の様子が描けないか。「おもろ」の編集は1500年代から薩摩軍の琉球侵攻後であるが、それも古琉球の時代の史料・資料に反映しているのではないか。

 工事中

「おもろさうし」
  『琉球由来記』伊是名城のウタに「…村」以前の「…まきよ・くだ」と登場。国頭村・大宜   味村・東村に、近世の「…村」以前の「まきよ・くだ」が今に遺っている。

  まきよ数 くたの数  部落の数  村の数

「おもろ」に見る奄美の島名

 「おもろさうし」で、与論島は「かゑふた」、沖永良部島は」せりよさ」、
       徳之島は「徳」、大島は「大みや」、喜界島は「ききや」とある。

『海東諸国紀』の「琉球国之図」(1471年)で、
    輿論島(輿論:琉球に属すなし)、恵羅武島(永良部:琉球属す)、
    度九島(徳島:琉球属す)、大島(奄美大島:琉球属す)、
    鬼界島(喜界島:琉球属す)薩摩侵攻以前ことなので「琉球に属す」


 ・奄美へののろの配置(のろ家の遺品)
 ・家文書に遺る琉球の時代の役職名

首里王府から辞令書(残念ながら沖永部島と与論島で辞令書は未確認)

  ①「かさりまきり」(大やこ)(1529年)
  ②「せとうちひかまきり」(しより大やこ)(◇◇年)
  ③「せとうちにしまきり」(大やこ)(1548年)
  ④「きゝやしとおけまきり」(大やこ)(1554年)
  ⑤「やけうちまきり」(おきて)(1554年)
  ⑥「やけうちまきり」(おきて)(1568年)
  ⑦「かさりまきり」(しより大やこ)(1568年)
  ⑧「ききやのひかまきり」(のろ)(1569年)
  ⑨「せとうちまきり ひかまきり」(大やこ)(1571年)
  ⑩「せとうちひかまきり」(めさし・おきて)(1571年)
  ⑪「せとうちひかまきり」(めさし・おきて)(1571年)
  ⑫「せとうちひかまきり」(めさし・おきて)(1571年)
  ⑬「やけうちまきり」(大やこ・めさし)(1574年)
  ⑭「やけうちまきり」(めさし)?(1572年)
  ⑮ 「せとうち にしまきり」(◇◇?)
  ⑯
  ⑰
  ⑱
  ⑲ 
  ⑳

  ㉖「きゝやあらきまきり」(てくつく・大やこ・めさし)(1606年)
  ㉗「なせまきり」(おきて・てこく))(1609年)
  ㉘「なせまきり」(さとぬし・おきて)(1609年)

1609年の薩摩の琉球侵攻の時の島々の対応


2022年3月9日(水)

 過去に「今帰仁の歴史的風景」をテーマに講演をしたことがある。村内のムラや神アサギ、ノロ家を尋ねている。そこで出会った方々は、その多くが他界してしまっている。その頃は調査者としての立場であった。そこには微妙な距離をおいての調査。ムラ人の内面には立ち入らない調査であった。カメラに映し出された風景や物にこちらから言葉にしてきた。ムラを尋ねるとき、まずは神アサギから。神アサギに語らすのである。神アサギからそのムラの歴史を語らすのである。・・・





 「琉球・沖縄の地図」をテーマで今帰仁村が所有している図を紹介したことがある。ちょと、地図について手助けをするために、かつて県立博物館での講演したデジメを取り出してみた。日にちを間違えて目を通すことができず準備不足。

今帰仁間切村(ムラ)全図と今帰仁村(ソン)村字全図




2022年3月8日(火)

 平成19年(2007年)に奄美大島を訪れている。奄美の古琉球の辞令書を追いかけていた頃である。南の瀬戸内町、加計呂麻島も何度か訪れている。飛行機を15分遅らせたことがあり、それ以後奄美大島は訪れていない。(理由は瀬戸内町のホテルが満車でホテルの指示で海岸沿い駐車、翌日みると駐車違反。帰ってから支払いしてもいいと思い空港へ。支払わないと搭乗できないとのこと。近くの駐在所へ。手続きをすますと出発時刻が過ぎている)それで黄金の免許はパー。それに懲りて奄美大島へは訪れていない。紹介もしてこなかった。その間に行政区がかわりましたが、当時のままです。そこでも歴史は生きていることを実感。

 平成19年奄美大島を訪れている。予想以上の広さで一部の紹介。そのころ「奄美に遺る古琉球の辞令書」が発給された地を踏査していた頃である。その後、瀬戸内町や加計呂麻島は神アサギを追いかけ訪れている。今また、与論論島以北の奄美大島に琉球的なものを追いかけている。(辞令書・神アサギ・シニグ・グスク・墓など)

【奄美をゆく】
(平成19年10月23日~25日)(画像は略)

笠利をゆく】①(23日)

 
奄美大島笠利町は、現在以下の大字(18?)からなる。和野・万屋・宇宿・須野・平・辺留・里・笠利・佐仁・屋仁・川上・喜瀬・用安・外金久・手花部・中金久・節田である。

 奄美大島の北側笠利町にある奄美空港に12時40分に到着する。車を借りると空港のレストランで昼食。日が暮れるまでのコースを思案する。瀬戸内町まで行くには時間が足りないので、空港から北側のムラ(集落)を回ることにした。少なくとも古琉球に首里王府から発給された辞令書に登場する間切(まぎり)とムラを訪ねてみることにした。笠利間切とそのムラと関わる辞令書は以下のものである。

  ①笠利間切の宇宿大屋子職補任辞令書(嘉靖8年12月29日:1529年)
     しよ里の御ミ事
        かさりまきり
        うすくの大やこハ
           もとのしよ里の大やこかくわ
        一人ちやくもいに
        たまわり申[候]
       [しよりよりちやくもいの方へまいる]
     嘉靖八年十二月廿九日

  ②笠利間切の笠利首里大屋子職補任辞令書(隆慶2年8月24日:1568年)
     しよ里び御ミ事
       [かさりまきりの]
       かさ里のしより大やこハ
      一人きせ大やこに
       たまわり[候]
     しよ里よりきせの大やこの方へ
                  まいる
    隆慶二年八月廿四日  

 とは言っても、当時の間切やムラ(集落:部落)が頭に入っているわけではない。余裕がないので、とりあえず空港に近いムラから歩いてみることにした。和野や万屋からスタートしたはずであるが、集落区分もはっきりしていなこともあって、またなにがあるのかの確認も手がかりも掴んでいない。イヤハヤ、参りました。そんなスタート。

[笠利町万屋]

 和野(ワニ)と万屋(マンヤ)はワケがわからず通過。城間(シロマ)は大字万屋の一部を形成する集落のようである。城間のトフルの案内板が目についた。トウル墓を見ようと集落の中にはいると、途中目についたのが高倉と石積みの屋敷であった。石積みの屋敷の側から、入っていくとトフル墓に突き当たる。城間の集落名もそうであるがトフルの呼称や内部のサンゴ石灰岩の厨子甕、琉球の焼き物の厨子甕などに琉球?を感じとっていた。沖縄の洗骨した人骨を葬った墓(納骨堂)の印象である。

 今回訪ねたのは1号と2号トフル墓であった。他にも10近くあるようだ。二つのトフル墓は丘を切り取り、その面を掘り込んだ墓である。かつて墓口は塞いであったのであろう。現在、開いた状態になっていた。
.
  ▲万屋(城間)にある高倉   ▲城間集落にあるサンゴ石積みの屋敷
..
  ▲城間第1トフル墓の正面    ▲第1トウフル墓の内部の様子

.
  ▲城間第2トウフル墓の外見    ▲第2トウフル墓の内部の様子

[笠利町宇宿・土盛]

 宇宿には宇宿貝塚や喜子川遺跡、マツノト遺跡がある。宇宿は辞令書(1529年①)に出てくる「うすく」(宇宿)である。笠利間切の宇宿大屋子は元の首里大屋子の子ちゃくむいに賜った内容である。1529年というと、琉球国では尚真王が各地のグスクの按司を首里に集め住まわせた、中央集権国家をなして間もない頃である。首里王府から辞令書が発給され統治した時代である。

 かさりまきり(笠利間切)のうすく大やこ(宇宿大屋子)に首里王府から辞令書が発給された関係は首里王府を頂点とし、国家が末端まで支配していた姿が見えてくる。ここでは宇宿大屋子という役職の叙任であるが万暦になると租税に関する内容の辞令書が発給されている。首里王府の印が押されるの「印判」とも呼ばれている。宇宿の大屋子は首里城まで渡海して賜ったのであろうか。辞令書を賜るため、海を渡ってきたのであれば、それは首里王府の地方支配が強固なものだったことを伺わしめる。

 宇宿の地に立ってみたのであるが、ムラの成り立ちが把握できずのまま思いはせるのみである。万屋にしろ、ここ宇宿も砂地(兼久地)に集落が形成されている。1500年代にはグスク(集落)が山手から砂地に下りてきているのであろう。その辺りは、沖縄の集落の展開(移動など)とは異なるのかもしれない。まだ二、三のムラを見たにすぎないのでよくわからない。砂地上に発達した集落であるが、比較的水が豊富でないか。稲作はどうだっただろうか。喜子川遺跡の近くにあるマツノト遺跡は5世紀から9世紀にかけての遺跡だという。
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   ▲海岸よりからみた宇宿の集落      ▲宇宿にある喜子川遺跡

 宇宿に土盛?の集落がある。そこに骨董屋さんがあり、仕事上ちょっと足を止めることになった。資料的に価値ある骨董品があるかどうかは、よくわからないが、この地にそういう品々を収集している方がいらっしゃることに興味をもった。しかし、声をかけても家主さんは骨董品収集で出かけていたのだろうか。話が伺えず残念。因みに「栄商店」の看板がかかっていた。
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  ▲道沿いに骨董屋を見つける         ▲骨董屋の中

【笠利町須野】

 須野集落の入り口に厳島神社がある。そこから集落を眺めることができる。川筋がいくつかあり水の豊富な集落の印象をもつ。それと茅葺の高倉があり、稲作が盛んに行われていたにちがいない。
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  ▲何本か川筋のある須野集落     ▲集落にある茅葺の高倉

【笠利町笠利】

 笠利のは入口あたりに「大島奉行所」の説明板がある。薩摩の琉球支配以前は、この地に大親職の殿地が置かれていたという。1623年(慶長18)に琉球攻めに功績のあった法元仁衣文衛門が初代奉行に付いた。この場所は1635年まで奉行所(仮屋)として大島統治の拠点となったようだ。仮屋は大熊村・赤木名などを転々とし、1672年に再び笠利の地に置かれた(1639年に奉行は代官と改称。以降大島代官)。伊津部村にも置かれる。奉行所跡地周辺にはサンゴ石の屋敷囲いが結構残されている。首里王府から派遣?された大親の時代の痕跡を奉行所跡地から見つけるには・・・。
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  ▲大島奉行所跡の説明版    ▲奉行所跡のサンゴの石積(右手)
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 ▲奉行所跡の側にある屋敷跡   ▲奉行所跡の側にあるサンゴの石積


2022年3月7日(月

 本部町謝花(現古島)のウフグシクムイ(ウタキ)に登っている。頂上部に垂直の洞窟がある。

2007年8月23日(木)

 本部町古島(元は謝花村)のウフグシクムイ(ウタキ)に登る。学芸員実習生の三澤・金城・玉城、古島の仲里なぎさ、職員の恵が参加する。頂上部から集落とウタキとの関わりを見た。ウタキを集落との関係を見ると、まずは移動集落である。謝花の集落はウフグシクムイの麓の古島原から現在地に移動。そのため故地は古島原(古島)と呼ばれる。現在の字古島は戦後分区し、現在古島に居住している方々の多くは他地域からの寄留である。

 古島区あたりに住んで ウフグシクムイはグスクと呼ばれるがウタキであり、ウタキをグスクと呼ぶ事例である。『琉球国由来記』(1713年)の「ミタテ森城」は謝花の現在地にあるウタキではなく、このミタテ森城を指しているとみてよさそうである。ミタテ森はヒタテ森?

 ウフグシクムイの拝所は頂上部へのルートとは別にある。ゴルフ場の敷地から入っていくと、途中段々畑があった痕跡が見られる。また所々に平坦地があり、段差のところに石積みが見られる。ウフグシクムイ全体がウタキで、その三合目あたりにイビにあたる部分は祠にしてある。

 ウタキと集落との関係から、謝花村が移動集落であり、移動地に神アサギを設け、新しく遥拝のウタキを造っている。ウフグシクムイは集落とウタキ、ウタキとグスクの関係、そして村内での集落移動でありながら、新しくウタキ(遥拝所)をつくっている。ウタキや集落移動、そして戦後分区した地区に謝花の故地の古島(原)名をつけている。ウフグシクムイや拝所や地名などから謝花村の複雑な歴史を読み取っていくことができる。(画像略)

    ▲ウフグシクムイの遠景                ▲向かって左側の頂上部

 
    ▲頂上部はちょっとした平坦地            ▲頂上部近くに二つの洞窟

   ▲別ルートにある拝所           ▲別ルートの三合目あたりにある謝花の拝所(イベ)


2022年3月6日(

 
土、日はコロナを避けて花畑と「寡黙庵」の草刈り。頭の中は奄美のこと。天城町の松原銅山が気になって。2003年の徳之島行きは退院後のリハビリのつもりで松原銅山と大和城までハ~ハ~息をはずませながら登る。それと線刻文字。


[ちょっとしたメモ書きなり]

 奄美の祭祀が気になっていたので少しばかり資料をかじってみた。特にノロが関わる祭祀。1609年薩摩の琉球侵攻後、1614年に与論島以北を政治的に琉球から切り離される。切り離されながら特に祭祀の面で根強く引きづっているのがみられる。
 1609年あるいは1614年まで琉球王国の領域として辞令書の発給を受けていた。奄美には三十三君の一人「大阿母(大あんさりー)」が置かれていたが、因みに北山(山原)域は今帰仁阿応理屋恵(オーレー)が管轄していた形跡がある。

 与論島や沖永良部島のシニグは沖縄本島北部の辺戸や安田などはシニグとウンジャミが隔年ごとに行われている。その面で共通性が見出せる。祭祀の中身でも共通性が見い出すことができそうだ。シニグやウンジャミ、そしてノロ制度は古琉球から引き継がれていることは紛れもない事実である。それがどこまで遡っていけるか。三山統一後のことか(辞令書は1500年代以後である)。それとも三山の時代の痕跡と見ることができるのかどうか。そのあたりは言語や他の祭祀、あるいは神アサギの分布、グスク、歴史など被せて考える必要がありそうだ。そのあたりは、集中して資料整理をしなければならない(近々まとめる予定)。まだまだ、見通しはたっていませんのじゃ。来月行われれるシンポジウム「山原とは?」に関わってくるテーマである。

[与論島一円を大阿母が支配)
 ノロと関わる祭祀の中の旧暦7月に行われるシニュグがある。与論ではウンジャン(海神祭)と隔年で行っている。
 
[沖永良部一円を大阿母が支配]
 沖永良部にはシニグ堂の地名やシニグ祭などがあり、シニグ祭は隔年行われるようだ。

 徳之島

 
2003年徳之島を訪れている。天城町で「徳之島と琉球」で講演をしている。

1.島津軍の琉球侵攻と徳之島(1609年)

 1609年の薩摩軍の琉球進攻は琉球と与論以北の奄美の島々の歴史を区切る大きな出来事である。薩摩軍の琉球進攻後、与論以北は薩摩の領地として割譲し現在に至る。それを境に琉球的なものがどう残ったのか。そして薩摩の統治で消されたもの、統治されながらも根強く残ってきたものにどういうのがあるのか。それを究めていくには、この薩摩軍の琉球進攻は避けて通れるものではなかろう。

1609年3月、島津軍勢の琉球侵攻で南下していく途中徳之島の秋徳(亀徳)と亀津での出来事が『琉球渡日々記』に次のように記してある。
  「廿日の卯の刻に、西のこみを出船にと、とくの島の秋徳と申す湊に申の刻計りに着き申し候。
  船道廿五里にて候。廿一日に出船で、十里ほど乗り出したら、少し向い風気味になり、結局はと
  れになったので、引き返し、亀沢(津か)というところに着いた。・・・・廿二日に、深い山を、おお
  ぜいで山狩りをした。そのわけは亀沢の役人たちが山にかくれているのを狩出すためであった。
  役人を狩り出し、特別に琉球入番衆主取を、致し方なく逮捕された。この人は三司官のうち、謝
  納(名か)の婿である。黄鉢巻の位をもった人を捕らえたのである。」

 秋徳は今の亀徳に改称されたようである。亀徳大橋の向こう側の橋詰がその場所である。亀徳を出たが向かい風で亀津に戻り、そこで山狩をしている。そのようなことを思い描きながらの上陸であった。

 島津側の『琉球渡日々記』で徳之島での出来事は上の通りであるが、徳之島でどうとらえているか興味がある。琉球側の『喜安日記』では「三月十日、兵船大島へ着津して島の軍勢弱して敗軍すと飛脚到来す」と記してあるのみである。
  「亀津の役人が逃隠れたので山狩が行われている。この軍勢に対して秋徳の掟兄弟が棒を尖
   らしたり、竹に包丁や山刀を括り付けて敵を打ち殺せと指示しているほか、粟粥をたぎらし
  て坂や道に流して火傷を負わせるよう命じている」

4.古琉球の辞令書と三島の「まきり」(間切)

 近世以前の古琉球の時代、首里王府から発給された辞令書がある。辞令書に出てくる「まきり」(間切)名を『辞令書等古文書調査報告書』(昭和53年:沖縄県教育委員会)からあげてみる。20数点の辞令書が確認されている(散逸含)。喜界島と奄美大島に残っている。徳之島に一点、残念ながら沖永良部島と与論島には確認されていない。どの島も「まきり」(間切)制が敷かれていたようである。与論島と徳之島でも辞令書が出てくる可能性は十分にある。奄美島や喜界島で確認されているので与論島の役人やノロに発給されたであろう。もし与論島の役人やノロに発給された古琉球の辞令書が発見されたなら、与論島と琉球国との関わりがもう少し具体的に見えそうである。

 古琉球の辞令書と島々の「まきり」(間切)との関係は、三山統一後の琉球と奄美の島々との統治の関係を示すものである。近世の島々の間切は、薩摩の統治下に置かれたが1609年以前の間切の名称や区分を踏襲していると見てよさそうである。「にしまきり」と「ひかまきり」は他の島にも同名の間切があるので首里王府は「せとうち」(瀬戸内)や「とくの」(徳之島)をつけて間違わないようにしている。

  ・かさりまきり(笠利間切)(嘉靖8年:1529年)
  ・せんとうちひかまきり(瀬戸内東間切)(嘉靖?)
  ・せとうちにしまきり(瀬戸内西間切)(嘉靖27年:1548年)
  ・きヽやのしとおけまきり(喜界の志戸桶間切)(嘉靖33年:1554年)
  ・やけうちまきり(屋喜内間切)(嘉靖33年:1554年)
  ・やけうちまきり(屋喜内間切)(嘉靖35年:1556年)
  ・〔かさりまきり〕(笠利間切(隆慶2年:1568年)
  ・せとうちひかまきり(瀬戸内東間切)(隆慶2年:1568年)
  ・ききやのひかまきり(喜界の東間切)(隆慶2年:1568年)
  ・せとうちひかまきり(瀬戸内東間切)(隆慶5年:1571年)
  ・やけうちまきり(屋喜内間切)(隆慶6年:1572年)
  ・やけうちまきり(屋喜内間切)(隆慶6年:1572年)
  ・せとうちにしまきり(瀬戸内西間切)(萬暦2年:1574年)
  ・せとうちにしまきり(瀬戸内西間切)(萬暦2年:1574年)
  ・せとうちにしまきり(瀬戸内西間切)(萬暦2年:1574年)
     (受給者不明)(年欠)
  ・やけうちまきり(屋喜内間切)(萬暦7年:1579年)
  ・なせまきり(名瀬間切)(萬暦7年:1579年)
  ・やけうちまきり(屋喜内間切)(萬暦11年:1583年)
  ・なせまきり(名瀬間切)(萬暦15年:1587年)
  ・せとうちひかまきり(瀬戸内東間切)(萬暦16年:1588年)
  ・せとうちにしまきり(瀬戸内西間切)(萬暦23年:1595年)
  ・とくのにしめまきり(徳の西目間切)(萬暦28年:1600年)
  ・せとうちにしまきり(瀬戸内西間切)(萬暦30年:1602年)
  ・なせまきり(名瀬間切)(萬暦35年:1607年)
  ・なせまきり(名瀬間切)(萬暦37年:1609年)

 ・与論島(近世後期に大水間切と東間切があったという。
   【正保琉球国絵図】に間切名出てこない。
    ①大水間切 ②東間切
 ・沖永良部島(安政4年:1857に方制、明治41:1908年に町村制)
   【正保琉球国絵図】
    ①大城間切 ②きびる間切 ③徳時間切
     大城間切/喜美留間切/久志検間切
  安政4年に方制が敷かれ、和泊方・東方・西方となる。
 ・徳之島
   【正保琉球国絵図】
    ①東間切 ②西目間切 ③面縄間切
 ・奄美大島
   【正保琉球国絵図】
     ①笠利間切 ②名瀬間切 ③焼内間切 ④西間切 ⑤東間切 
     ⑥住用間切 ⑦古見間切
 ・喜界島
    【正保琉球国絵図】
     ①志戸桶間切 ②東間切 ③西目間切 ④わん間切 ⑤荒木間切 

5.琉球(首里)からのノロ辞令書

 「徳の西銘間切の手々のろ職補任辞令書」がある。萬暦28年の発給で徳之島は首里王府の統治下にあったことを示す史料である。奄美にはこの辞令書だけでなく瀬戸内西間切、喜界島の志戸桶間切など20数点が確認されている。いずれも1609年以前の古琉球の時代に首里王府から発給された辞令書である(1529~1609年)。確認されている最後の辞令書は「名瀬間切の西の里主職補任辞令書」(萬暦37年2月11日)である。それは島津軍が攻め入った一ヶ月前の発給である。

 辞令書はノロだけでなく、大屋子・目差・掟など、首里王府の任命の役人などが知れる。首里王府の16世紀の奄美は辞令(首里王府:ノロや役人の任命)を介して統治している。そしてまきり(間切)の行政区分がなされ、役人やノロに任命されると知行が給与される。役人は租税(貢:みかない)を集め首里王府に納める役目であったと見られる。

 古琉球(16世紀)の奄美と琉球との関係を「辞令書」を通して見ることができる。手々集落内に琉球と関わった(グスクの築城)という掟大八が力ためしに用いたという石が屋敷に置かれている。今回いくことができなかったが掟大八と家来の六つの墓があるという。それらを按司墓と呼んでいる。1611年与論島以北は薩摩の統治下になり、薩摩の制度が被さっていくが、それでもノロや間切や首里王府時代の伝承など近世まで根強く引きずっている。

・徳の西銘間切の手々のろ職補任辞令書(1600年)
  しよりの御ミ(事)
    とくのにしめまきりの
    てヽのろハ
       もとののろのくわ 
    一人まなへのたるに
    たまわり申し候
  しよりよりまなへたるか方へまいる
  萬暦二十八年正月廿四日

  


2022年3月5日(

 沖縄県内各地の沖縄の神社を追いかけていた頃。

 阿嘉島へ渡る(日付なし)。それは粟国島で戦後復活した祭祀がある。その祭祀を復活したのか。復活に時間を必要としたようである。復活するかどうか、躊躇があったように見受けられる。それが何故なのか。今では神人(女性)が中心となっている祭祀は、男性も役割があった。その様子が粟国島の祭祀によく残っているような気がする。そのことと連動させて座間味村の阿嘉島へ渡ってみた。それと明治18年の知事事務引継の「一村一社建立」のとき、座間味村で神職候補者をだした例があるのでその確認も。

 阿嘉島へ渡るの理由の一つは、明治末から昭和にかけての宗教改革の流れを座間味島と阿嘉島で見てみたいとの思いがあってのこと。
 
 粟国島で、戦後祭祀を復活するのに躊躇している部分がある。それは、どうも明治43年の「社録処分」、そして昭和初期の各地の神社の建立、さらに昭和18年の「沖縄県知事事務引継」が大きく影響していると見ている。つまり、国策として部落の御嶽や拝所を廃止しようとする動き、部落レベルで根強く継承されてきた沖縄の祭祀。神社建立とノロクモイ廃止に向けての動きは、現在根強く継承されている祭祀の流れが読み取れる。

 今帰仁村上運天のお宮、本部町伊野波のお宮、国頭村辺土名ヌルドゥンチなどにある「敬神」の変額は、「一村一社建立」によるものに違いない。それとは別に、昭和初期に神殿と拝殿を建立した時期がある。その動きについて確認の必要。昭和初期に建設された神殿と拝殿。昭和18年の「一村一社建立」による建立があるようだ。 
 
・昭和18年 全県的に「一村一社建立」を目的とした「神社建立調査会」によるウタキ・
  ウンガンジュ調査あり。
・県当局は沖縄県神社創立計画書を作成、ウタキを神社に移行することにする。

・昭和18年知事事務引継書類に「一村一社建立ニ関スル事項」として以下のように記してある。
   県下ニ於ケル神社ハ官幣小社波上宮、沖縄県護国神社、県社沖縄神社、郷社世持神社
   ノ外無格社ニ琉球八社(略)ノ十三社ニシテ、尚外ニ固有ノ神祇ヲ祀ル御嶽、拝所アルモ、前記
   ノ如ク正規ノ神社少キ為、時局下敬神崇祖ノ実ヲ挙ゲ国民精神ノ昂揚ヲ図ル要切ナルモ之ガ
   普及徹底ニ障碍トナル点少カラズ、就テハ神社ナキ五十町村ニ対シテ五年計画ヲ以テ一村少ク
   トモ一社ヲ建立セシメ県民斉シク祭祀ヲ厳修シ、敬神ノ本義ヲ完フシ・・・・神国郷土ノ基礎ヲ築
   カシメントスルモノナリ(『県史料近代Ⅰ』(552頁)。

 『座間味村史』(上)によると、「こうした方針に基づいて各町村の古来からの民間信仰の対象である御嶽が、1944年(昭和19)3月を期して神社に移行させられることになったのである。それによって、県内に900あまり存在する御嶽が村社60社、未社(部落)150社を目標に統合されることになり、そしてそれまで神事を司ってきたノロらは当分傭人として用い、次いで正規の神職に切り換えることになった。ただその前に神職候補者を町村長に推薦させ、那覇の世持神社か護国神社で講習を受けさせ、神職として新たに養成することになった。」(326~327頁)

 追記:昭和18年今帰仁村でも北山神社建設に向けて申請書が残っている。

座間味村阿嘉島

2022年3月4日(金)

 今月で歴史文化センターをさることに。研修室を独占してきた。書棚の上に仲宗根政善先生の写真を掲げてある。いろいろな事でお世話になった。仲宗根政善先生の蔵書をたくさん活用させていただいた。今は講堂の隅に隠れているが、時々引っ張りだしている。

  (工事中)






2022年3月3日(木)

 10年前の記録である。「昨日、宮古島旧記」を見ると喜界島の伝承に類似する記事を目にする。古琉球の時代、先島(宮古・八重山)と奄美(与論・沖永良部・徳之島・大島・喜界島)のそれぞれの島内の状況が類似しているのではないか。1609年以後、宮古・八重山・久米島は島内で争いが伝えられる。同様な動きがみられるが、薩摩支配下になると、琉球的なものの廃止、薩摩化していく。急速に薩摩化していく前の姿を見ていきたい。薩摩下していく中で遺っているのがノロ制度、形として残っているのが古琉球の辞令書。それと「おもろ」に謡われる地名やのろや按司たち。のろの祭祀道具の遺品。(その後、辞令書が確認されているようである)

喜界島をゆく
 2005年4月30日~5月2日)   

 2005年4月30日の午後4時半頃、喜界島に入る。天気は曇、時々小雨である。那覇空港から奄美空港経由での喜界島入りである。奄美空港から喜界島へは、乗り継ぎのため三時間ばかり待ち時間がある。奄美の(笠利町:現大島市)を回ろうかと、一瞬よぎったのだが、今回は喜界島に集中することに決める。少し時間があるので、空港近くの奄美パークと田中一村美術館で奄美の感覚をつかむことにした。

 喜界島空港に降りると、早速車を借りる。空港近くは市街地を形成しているので、またそこに宿泊するので5月2日の朝の調査が可能である。それで反時計周りに喜界島を回ることにした。湾のマチを抜け、中里へ。中里・荒木・手久津久・上嘉鉄・先山・蒲原・花良治・蒲生・阿伝とゆく。阿伝で日が暮れる。嘉鈍から先は5月1日(二日目)に回ることにした。戻ることのできない性格なので、二日目にゆく嘉鈍より先の村々は、素通りしながら宿のとってある湾まで。宿に着いたのは午後7時過ぎである。島の一周道路沿いに集落がある。喜界島の集落の成り立ちの特徴なのかもしれない。それと一周線沿いの集落のいくつかは、台地あるいは台地の麓からの移動集落ではないかと予想している。が、まずは集落にある公民館と港(今では漁港)を確認することから。公民館は防災連絡用のマイクを見つければいい。

 琉球と喜界島との関わりは、どのようなことから見ていけばいいのか。確固たるキーワードを持っての喜界島行きではない。島の村々の集落に足を置いてみることで見えてくるのはなんだろうか。そんな単純な渡島であった。島の数ヵ村の集落を見ていくうちに、喜界島と琉球との関わりを見るには漂着船の記事ではないか。というのは、今では整備された漁港であるが、それでも岩瀬が多いところである。そのような岩瀬の多い所への舟の出入りはなかなか困難である。よほどの事情がないと入れないのである。よほどの事情というのが、琉球から薩摩へ向かう船。あるいは逆の薩摩から琉球へ向かう途中、嵐にあい、喜界島に漂着したことが予測できる(特に近世)。

 それから西郷隆盛や名越左源太などのような道之島への流人である。島に与えた流人(特に薩摩からの流人)の影響も大きかったであろう。近世であるが琉球からの喜界島への流人の例もみられる。もちろん大きな影響を与えたのは薩摩からの役人達である。そんなことを思いふけながら、二時間ばかりの数ヶ所の集落めぐりである(一日目)。


【喜界島の野呂(ノロ)】

 『大島 喜界 両島史料雑纂』に「喜界島史料―藩庁よりの布令論達掟規定約等」(明治41年中旬調査:読み下し文と訳文)がある。その中に「野呂久目」について何条かある。その条文は安永7年(1778)のようである。1611年に与論以北は薩摩の支配下に組み込まれ、薩摩化させられていったが、この野呂は古琉球から近世に渡って根強く残ってきたものである。この段階でも、いろいろ禁止されるが、その後までひきづり、ノロ関係の遺品が遺されている。

  一 野呂久目春秋の祭一度づつ花束一升づつ、その外の神事はさしとめ候
     ただし村々みき造り候義さしとめ候
   一 野呂久目、湾間切入付而は所物入用これある由候間、以来さしとめ候
   一 右湾方の野呂以下代合の節、ふくろ物と名付け、米相拂い来り由候得ども、向候得ども、
     向後差とめ候
   一 野呂久目神がかりの節、前晩より右湾えさしこし来る由候得ども、向後さしとめ候

※ノロの弾圧
  喜界島のノロも大島群島同様、安政7年の禁止令があり、弾圧された。ノロもフドンガナシ
  も隠れて、明治に至る。
  赤連の「新山家系図は明治になって不明。

【喜界島の主な出来事】

 ・1441年 大島は琉球に従う
 ・1429年 琉球国は三山が統一される。
 ・1450年 尚徳、喜界島を攻略する。琉球王国の支配下に置かれる。
 ・1466年 尚徳、互弘肇に命じ、泊地頭職を任じ、(泊村)及び大島諸島を管轄させる。 
       その頃、米須里主之子を喜界島大屋子として派遣する?
 ・1472年『海東諸国紀』の「琉球国
       之図」に「鬼界島属琉球 去上松二百九十八里去大島三十里」とある。
 ・『中山世譜』に「琉球三十六島」のうちとして「奇界」とある。
 ・『球陽』に「鬼界」とある。
 ・「琉球時代」以前は大宰府の管轄にあったとの認識がある。
 ・12世紀保元の乱で敗れた源為朝が伊豆大島を経て喜界島北部の小野津に漂着した伝承がある。
 ・12世紀平資盛らが豊後国から船を出して屋久島、喜界島、奄美大島へ逃げて行った伝承がある。
 ・七城・・・島の最北端にあり、平資盛が13世紀初めに築城したという。あるいは15世紀後半に琉球の
      尚徳王が築いたともいう。
 ・1266年に琉球王国に朝貢したという?
 ・1450年朝鮮人が臥蛇島(トカララ列島)に漂着し、二人は薩摩へ、二人は琉球へ。
 ・1456年琉球に漂着した朝鮮人の見聞。池蘇と岐浦はききゃ?
 ・「おもろさうし」に「ききゃ」(喜界島)と謡われる。
 ・琉球国王尚泰久のとき(1454~61年)諸島を統治した後、「鬼界ガ島」に派兵(『琉球神神記』)。
 ・喜界島が琉球国に朝貢がないので兵を派遣して攻める(『中山世鑑』)。
 ・1466年尚徳王自ら大将として2000名の兵で喜界島を攻撃する(『中山世鑑』)(『中山世譜』)。
 ・1537年 奥渡より上の捌が初めて任命される。
 ・1554年「きヽきのしとおけまきりの大くすく」(辞令書)
      (間切・大城大屋子の役職)
 ・1569年「きヽやのひかまきりのあてんのろ」(辞令書)(間切・ノロ)
    (ノロに関する伝世島:バシャ衣・ハブラ玉)
 
・1611年 大島・喜界島・徳之島・沖永良部島・与論島が薩摩藩の直轄とされる。
 ・1613年島津氏は奄美五島(与論・沖永良部・徳之島・奄美大島・喜界島)を直轄領とする。
 ・「正保琉球国絵図」に喜界島の石高6932石余、志戸桶間切・東間切・西目間切・わん間切・荒木間切の
    五間切)
 ・「大御支配次第帳」によると「荒木間切・伊砂間切・東間切・志戸桶間切・西間切・湾間切の六間切)
    (間切のもとに村々がある)

 ・1837年琉球国王の即位につき清国から冊封使がくると喜界島からも米11石を納めている。
     (豚・鶏・玉子・塩魚・きのこ・海苔・あおさ・白菜など)

http://yannaki.jp/kakogazou/501s01.jpg
          【喜界島の集落】

 喜界島には源為朝は伊豆大島に流され、1165年に琉球に渡ろうとしたが喜界島の沖合いに流され、船上から島に向かって放った矢がささった所から水が湧きでた場所が「雁股の泉」だという源氏に関わる伝承。そして平家の武将が射場跡だという矢通場がある。また長嶺村には平家森、志戸桶の沖名泊に平家の上陸地などがあり、平家・源氏に関わる伝承を根強く伝えている。それと琉球と関わる伝承も。

 喜界島には「嶺」のつく村名に川嶺・坂嶺・長嶺がある。今帰仁村で大嶺原の小字がある。呼び方としてはプンニである。プンニは大きな骨(嶺)のことである。喜界島の嶺のつく村名は字の通り「嶺」からきた村名であろう。、

 喜界島の歴史を見ていく場合、間切(まきり)である。喜界島には五つの間切があり、間切の村がどうなっているのか。

  ①湾間切・・・・・・・湾・赤連・中里・羽里・山田・城久・川嶺
  ②荒木間切・・・・・荒木・手久津久・上嘉鉄・蒲原・花良治
  ③西目間切・・・・・西目・大朝戸・坂嶺・中熊・先内・中間・伊砂・島中・滝川
  ④東間切・・・・・・・早町・白水・嘉鈍・阿伝・塩道・長嶺
  ⑤志戸桶間切・・・志戸桶・佐手久・小野津・伊実久


2022年3月2日(水)

 現役時代、金装宝剣(千代金丸)の複製に関わったことがある。その時のシンポジウムの講演原稿のデジメである。北山が滅んだ1416年頃の北山、三山統一後の時代に目を向けることに。その頃の北山の時代が特に与論島と沖永良部島にどのような影響を与えたのか、さらに三山統一後から1609年までの時代がどうだったのか。この時代を交易・古琉球の辞令・ノロ制度・「おもろ」、それから171年の(『海東諸国紀』「琉球国之図」から見ていこうする試みである。沖永良部島と北山・琉球(和泊町誌原稿)

 千代金丸の複製を発注前に岡山県の備前を二度おとずれた。刀剣のつくりの過程を体験するため。北山監守(第二)に派遣された時、尚真王の三男の尚詔威に備前の刀と草紙(おもろ双紙第一巻か)などを持たせている。刀剣とおもろを1500年代に近づけてみるために。その後、東京国立博物館で複製していただいたとき、千代金丸(複製)の砥師の匠の世界をビデオで拝見することができた。

 そのことを思い出しているのは、おもろに謡われている沖永良部島と「世乃主由緒」に登場する人物やムラ名、それと宝刀の「美留菜津久美」などを、近づけることができるのではないかと夢想している。




千代金丸の拵(こしらえ)

 ・特異な頭椎形(かぶつちがた)をなす。

 ・金製柄頭に大振りな菊花文

 ・「大世」の二文字を太く毛彫りされる

 ・「大世」は尚泰久(1454~61年在位)の神号「大世王」と見られる。

 ・拵えは千代金丸が尚家に渡った半世紀後に拵えられたか

 ・柄を金欄で包み鶯茶糸を巻くのは日本の手法。

 ・鞘(さや)全体に金板を張り、柄頭と竹節形鐶を装着し金線を巻く造作は類をみない。

 ・金薄板を打ち出した牡丹図の目貫を含め琉球製作の可能性がある。

 ・金無垢の鯉口(こいぐち)や鐺(こじり)は細かな魚々子地(ななこじ)に八重菊文を高肉彫りした
  日本製。

 ・鍔・大切羽は赤銅(金を含有する銅合金)製で菊花文を金象嵌し、一見日本製に見えるが、
 治金丸の拵の鍔・大切羽を踏襲している。時代は下がる時期に琉球で製作された可能性がある。


【当時の刀の名称】

・腰刀 金包鞘 2 金結束鞘 2 黒漆鞘 60

・長刀 金結束 2 金帯鞘 60

・袞刀 2


「明実録」(三山王時代の琉球国と東南アジアの国々)

山北王・中山王・南山王の時代、明実録の記事に三王の名が記されない記事がある。三山を三山を琉球一国とみている可能性がある。そのことについては、ここで扱わないが、東南アジアへの方物の中に刀剣が重要な品であったことが窺われる。尚巴志の時代、中山・北山・南山も大和から入ってきた刀剣類をもって東南アジアへの礼物として輸出したとみられる。中継貿易の拠点としたと見られる。

 ・占城(チャンバ)・真臘(カンボジア) ・暹羅(アユタヤ)
 ・三仏齋(パレンバン) 
 ・瓜哇(ジャワ)・渤泥(ボルネオ) 
 ・高麗

【朝鮮との交通記録】

・1392年 察度、朝鮮へ二度使者を派遣する。
・1394年 察度、朝鮮へ使者派遣する。
・1398年 山南王温沙道、朝鮮へ亡命。十月客死。
・1400年 察度、朝鮮へ使者派遣、世子武寧も方物を献上する。
・1409年 山南王、朝鮮へ阿乃佳結制を派遣する。
・1410年 山南王、朝鮮へ模都結制を派遣する。
・1415年 将軍足利義持、尚思紹(りゅうきゅう国よのぬし)の文書を送る。
・1416年 北山王攀安知、中山に滅ぼされる。
・1420年 中山王佳期巴那をシャムに派遣。 

【旧港との交通記録】(パレンバン・チューラ・ジャンビ)(マレー半島)

 旧港との交通は1426年尚巴志に文書に登場する。磁器を搭載し胡椒を買い入れる。礼物として素段、大青盤、小青盤など。舊港との交通か以下のように八回見られる。宣徳三年(1428)に袞刀二柄、腰刀二柄。宣徳五年十月五日?の腰刀二把がある。舊港への礼物の中に刀があったことがわかる。つまり琉球側からの貢物である。

 ・宣徳三年(1428) 九月二四日実達魯などを舊港に遣わす。
 ・  同      十月五日 同上
 ・宣徳五年(1430)十月十八日 歩馬結制等を遣わし舊港に書を送る。
 ・宣徳六年(1431)二月三日  舊港より来信。
 ・正統三年(1438)十月四日 阿普尼是等を舊港に使す。
 ・ 同      十月二六日 同上
 ・正統五年(1440)九月    同上
 ・正統五年(1440)十月四日  同上  

【マラッカとの交通記録】(室町中期足利義政頃~50年間)(尚徳・尚円・尚真の時代)

 マラッカとの交通は1463年~1480年まで間十五回みられる。天順七年(1463)に腰刀五把、天順八年(1464)に腰刀五把、成化元年に腰刀五把、成化二年(1466)に腰刀五把、成化三年(1467)に腰刀五把。その年まで腰刀が五把礼物に記録されている。その次の成化四年(1468)年から以後、成化十六年までの礼物に刀の記載がみられない。 

【爪哇との交通記録】(ジャワ)

 永楽二年(1430)十月十八日附で尚巴志が南者結制等を爪哇に遣わしたのが文書に見える最初のようである。この年は尚巴志が山南を滅ぼし三山統一し、尚巴志は南者結制を爪哇に使わした文書があるようだ。同じ年の同日に三佛齋にも使節を派遣している。四回の使節派遣が見られる。

  ・永享二年(宣徳五:1430)十月十八日 南者結制等を爪哇に派遣する。
 ・永享十二年(正統五:1440)十月十六日楊布等を爪哇に遣わす。
 ・嘉吉元年(正統六:1441)四月十九日阿普斯古等を爪哇に遣わす。
  風にあって翌年福健より帰る。
  七月六日達福期等を爪哇に派遣、十月一日風にあって同月三日再び行く。
 ・嘉吉二年(正統七年、1442)十月五日楊布等を爪哇に遣わす。

 宣徳五年(1430)に腰刀五把、正統五年(1440)に腰刀十把、正統六年(1441)腰刀拾把、正統七年(1442)腰刀拾把がみられる。

【狒太泥との交通】 

【暹羅との交通】 

四.貿易品の方物(刀剣類)

 「大明会」記載の貢物
 馬・盔(カイ・かぶと)・鎧・剣(つるぎ)・腰刀・鎗(やり)・塗金装金綵屏風・・・・・瑪瑙・水晶数珠・硫黄・蘇木・牛皮など二十種類。琉球貢物の大部分は南洋諸国のお土産であるが、刀・金銀酒海・金銀粉厘・擢子扇などは日本品である。

 ・洪熙元年(1425)閏七月中山王尚巴志より献上された方物
 ・金包鞘刀 二把
   一把 帯鞘長二尺一寸五分
   一把 帯鞘長二尺刀把露木一寸
 ・金結束鞘 二把
   一把 帯鞘長一尺九寸五分
   一把 帯鞘長一尺七寸五分
 ・金結束長刀 二把
   一把 帯鞘長四尺七寸五分
   一把 黒漆鞘一連長 三尺七寸五分
 ・金帯銅結束鞘刀 二把
   一把 帯鞘長三尺一寸
   一把 帯鞘長二尺九寸五分
 ・漆鞘袞刀 四把内長長短不齋
   長刀 三把内長短不齋
 ・黒漆鞘腰刀 六十把各長短不等 

※進貢の方物の中に、刀剣や屏風の類は不可欠の品物のようである。日本刀を珍重していた。
明時代は北方民族になやされていたため日本刀を珍重していた。室町時代の貿易は刀剣類が重要な品物であった。 

※天文八年(1539)大内義弘が将軍義晴に命じた進貢したときの目録
  第一号船積載太刀数一二九五四把、第二号船五八七五把、第三号船五三二三把、三隻の合計二四一五二把、その他に自身用に七十把、総計二四八六二把の大量である。 

 御商物目録によると、太刀八五〇丁代八五〇貫文、一口一貫文(今の十万円)になる計算。武具だけで二四八六二貫文が七四五八六貫文の三倍となる。輸出過剰で一時下落したし、一貫八〇〇貫文、それでも8割の拾利益があった。琉球の方物に刀剣類が多数見られるのはそのことがあってのことである。(近世まで続く) 貿易品の外に琉球国内でも使用されたのが、旧家に残る刀剣とみられる。尚家に所蔵された刀剣類も束糸の巻き方が室町時代に属するとするのもそうである(関保之助氏の鑑定)。

 首里山川町の天山の古墳から木瓜形の大切羽一枚確認、鎌倉末期に属する(山上八郎氏鑑定)。
 室町期頃において多数の武器類が琉球に渡り、明貿易品として利用、自家用にも使われた。 

【嘉靖十四年大明へ謝恩の使者あり】(1537年)
  金靶鞘腰刀二把(きんのつかのさやのわきざし)
  銀靶鞘腰刀二把(ぎんのつかのさやのわきざし)
  紅漆螺鈿鞘鍍金銅結束袠刀 二十把
  紅漆鞘鍍金銅結束腰刀 二十把
  紅漆螺鈿鍍金結束腰刀 二十把
  紅漆鞘鍍金銅結束腰刀 四十把
  黒漆鞘銅結束腰刀 八十把 

【嘉靖十八年慶賀】(1539年)
  金靶鞘腰刀 二把
  銀靶鞘腰刀 二把
  鍍金銅結束紅漆靶鞘袠刀 十六把
  鍍金銅結束紅漆鞘沙魚皮把腰刀 十把
   金結束黒漆鞘沙魚皮把腰刀 二把
  鍍金銅結束漆把鞘袠刀 十二把
  鍍金銅結束漆鞘魚皮靶腰刀 十把



2022年3月1日(火)

 3月は東海岸の金武町から。金武町は①金武 ②並里 ③中川 ④伊芸 ⑤屋嘉の五字。金武のウガン(へ―シンバ)とナーカムイの香炉、伊芸のガジュマルの大木、その側に神アサギ、屋嘉の東西のウタキ(イベ)が思い出される。過去に金武町と銀座村の神アサギを踏査したとがある。

 東海岸のムラに組踊が目立って行われていることが気になり、それは金武按司(王子)が江戸上り(江戸立)の随行に同行した人物が多くいたのではないか。金武のへーシンバとナーカムイの香炉と関係しているのではないか。金武按司(王子)や随行していった奉公人が無事帰郷できたことへの「奉寄進」の香炉ではないか。残念ながら香炉の銘が確認できず、あきらめたことがある。

 金武町・宜野座村の神アサギを踏査したことがある。