寡黙庵:琉球の地域史調査研究)(管理人:仲原)
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・山原の神行事(シニグ・海神祭
今帰仁按司と阿応理屋恵 ・宮古島をゆく
「琉球・沖縄の地図 【山北王のハ二ジ・パ二ジは羽地?】 島袋源一郎参照



諸志関係資料(平成26年6月22日受)
【備品箱】(1947年度之作)字諸志青年団
・今帰仁村諸志区青年団名簿
・沖縄島田井等地区今帰仁村(領収書・歌詞など)
・会計簿(1949度)諸志青年団
・作業出欠簿(1947度)諸志分団
・会計簿(1947度)諸志青年団
・日誌(1947年度)諸志分団
・諸志青年文庫帳(1949年)諸志青年団
・諸志青年団夜警巡回名簿(1950年4月以降)
・諸志青年団作業出席簿(1950年4月以降)
・会計簿(1950年度及1951年度)諸志青年団
・会計簿(1952度)(字諸志・・・)
・会計簿(1952年度)諸志青年団
・借用証書綴(1952年度)諸志青年会
・会計簿(1953年度)諸志青年団
・備品帳(1954年度)諸志青年団
・常会出欠簿(1954度)諸志青年団
・議事録(1954度)諸志青年団
・作業出席簿(1954度)
・作業出欠簿(1954年度)諸志青年団
・会計簿(1954年度以降)諸志青年団
・作業係台帳(1955年度)諸志青年団
・出席簿(1956年度)諸志青年団
・出席簿(1956年度)
・常会出席簿(1956度)諸志青年会
・図書貸出簿(1961年9月以降)諸志公民館
・珠算帳(ノート)



・1719年に移動した二つのムラ(天底村・嘉津宇村)
・移動した村があった場所は山あいの盆地である。
・移動地でウタキをつくり神アサギをつくり祭祀を行う
・伊豆味・嘉津宇・天底は天底ノロ管轄の祭祀の村
・伊豆味は二つの村が移動すると古島から内原付近へ移動
・伊豆味の祭祀は根神が取り仕切っていた。ノロは玉城のろ、大正の頃まで伊豆味まできて行っていた。
・伊豆味の拝む所
①伊豆味神社 ②サータマタの宮 ③陣城 ④上ヌウタキ ⑤村墓 ⑥デイゴのカー ⑦下のハー
(古嘉津宇の拝所)
⑧黒グムイ(古嘉津宇の水源地)
・伊豆味の水田は盆地
・戦前まで伊豆味の経済を潤していたのは山藍と建設用材、薪炭材
・我屋地・湧川の製塩の葉薪(ハーダムン)・荷馬車(湧川の津口や名護のマチヤーは伊豆味の
車屋で繁盛)
・大正の頃、湧川にマチが発達したことがある。




「恩納間切取調書」は鳥越憲三郎が昭和19年(1944)に沖縄県庁で調査確認したものを『沖縄庶民生活史』で紹介されている。恩納間切取調べは調査項目のほぼ全容を収録されているようである。
「恩納間切取調恩納間切取調書」(旧慣調ニ付間切吏員ト問答書)を掲げる。「同取調書」の末尾部分に明治17年(1884)7月、西掟(伊藝安保)、南風掟(金城属光)、大掟(金城榮秀)、首里大屋子(新里全仕)、惣耕作当(當山光藏)、惣山当(當山房太)、仝(山城武夫)、地頭代(長濱善用)など、恩納間切の吏員の名前が記されており、それら吏員との問答をまとめたものであろう。
恩納間切取調書(旧慣調ニ付間切吏員ト問答書)には、以下の26項目について問答形式となっている。その中の⑮名護間切の戯戯の日数を紹介。
①租税未納の事
②寄留人の事
③所遣ノ事
④地所建物並に墓地売買譲与の事
⑤書入・質入・金銀貸借ノ事
⑥上納金穀或ハ共有金穀ヲ私用スル事
⑦砂糖取締ノ事
⑧戒罰ノ事
⑨吏員ノ事
⑩跡相続ノ事
⑪禮ノ部
⑫模合ノ部
⑬附届ノ部
⑭人身売買
⑮遊戯
⑯旅立
⑰官民有之山林ニ関スル栽培、伐採之事
⑱杣山取締向ノ儀ニ付科定
⑲各事農事勤惰賞罰並作物競争ノ事
⑳道路、橋梁ノ修繕、架設ノ事
㉑吏員旅費ノ事
㉒杣山取締向ノ儀ニ付科定
㉓各事農事勤惰賞罰並作物競争ノ事
㉔4道路、橋梁ノ修繕、架設ノ事
㉕吏員旅費ノ事
㉖海岸船舶漁業等取締方ノ事
⑮遊戯
恩納間切の「遊戯」は北部とは大分異なるようである。それが中南部で一般的なのかもしれない。ここでは名護間切の事例をあげ、その違いをみていくことに。名護間切の「遊戯」をみると、その祭祀の時は農耕をやめ、神遊びをする。つまり、現在の休日にあたり、それは首里王府から出された公事帳や『琉球国由来記』(1713年)に登場し、首里王府が認めた公休日といえそうである。
名護間切の場合、年間少なくても十二日はある。残念ながら恩納間切について「神遊び」はみられない。祭祀は行っているので、神遊びの記載はないが、神遊び(休息日)があったであろう。
旧暦七月十六日、十七日の両日には女性だけのウシデークを行い、八月十日、十一日の両日は豊年踊りがあり、組躍や羽躍などが行われている。
一、年中各地稼業を止め、遊戯をなす時、即ち綱引、豊年踊の類は何月にするや(名護間切の場合)。
一、正月は元旦より三日間遊ぶ。その内は童子供、巷々へ集まりて遊申候。
一、二月は遊はなし。麦の穂祭る事あり。
一、三月は虫払いと云う日を撰び、一日人民休耕止、遊申候。
一、四月はアブシ払と云い、日を撰二日遊申候。
一、五月は稲穂祭りと云、日撰二日遊申候。
一、六月は遊びはなし。稲の大祭りあり。
一、七月は十六日、人民耕作を止め遊申候。尤も童子共は饒他鼓を用へ各家を廻って遊ぶる事あり。
一、八月は十日より十一日迄、人民耕作を止め(二日)申候。且豊年願の為め毎年組躍する村も
有之申候。
一、九月はなし。
一、十月はたんとり(種取り)と云日を撰て、二日人民耕作を止遊申候。
一、十一月はなし。
一、十二月はなし。
恩納村の村落
あれこれこなしているうちに一日がせわしく終わった感じなり。下の二枚の辞令書は『補遺伝説 沖縄歴史』(島袋源一郎著:昭和7年)の口絵に納められているものである。◇?年28日(水)に恩納村立博物館で「恩納村の御嶽と集落」をテーマに話をする。この辞令書を手がかりに恩納間切(現在の村:ソン)の導入部分にあてようと。
しよりの御ミ事 首里の御ミ事
きんまきりの 金武間切の
おんなのろハ おんなのろハ
もろののろのくわ 元のろ之子
一人まかとうに 一人まぜにに
たまわり申候 たまわり申候
しよりよりまかとうか方へまいる 順治十五年七月廿八日
萬暦十二年五月十日
(1584年) (1658年)
恩納間切の創設は1673年のことである。二枚の辞令書は、恩納間切が創設される以前のものである。その当時の「おんな」(恩納)は金武間切のうち。万歴(1584年)の辞令書は「きんまきり」や「おんなのろ」など間切やムラ名に、まだ漢字が充てられていない。もう一枚の順治(1658年)の辞令書では金武間切は漢字が充てられているが「おんなのろ」は、まだ平仮名表記である。もう少し時代が下ると漢字表記になるが、その過渡期の辞令書である。
「おんな」の語義について質問がでそうなので紐解いておくことに。「おんな」に恩納の漢字が充てられるようになるのは、1658年より後である。1671年の辞令書は漢字になっているので、その間になにがあったのだろうか。いずれにしろ「おんな」に「恩納」の漢字を充てた。その「おんな」はどこからきた地名かである。
「おんな」と表記されるが、ウンナと発音されたと思われる。時々「おんな(女)ではないか」とくるが、おんな(女)は方言音でヰナグなのでウンナとはかけ離れる。
ウン+ナに分けると解けそうである。ナは識名や謝名などのナと同様、広場や庭など場所など広場を表すナ。ウンは御や大などを表す語。「大きな」や「りっぱな」などの意。するとウン+ナは大きな(りっぱな)空間、大き(りっぱな)な広場、大きな(りっぱな)庭と解することができる。現在の恩納村恩納に、そのような場所があるかというと、万座毛(マンザモウ)がある。万座毛は1700年代の尚敬王が北山巡視の際に立ち寄り「万人を座しめうる原」として名付けたものだという。ウンナは、そのような万人も座れるような大きな広場(庭)があることに由来していると見てよさそうである。
ウンナ(恩納)は「大きな(りっぱな)広場(庭)がある」ことに由来し、そのことがムラ名となる。現在の恩納村恩納に万座毛があり、それがウンナ(恩納)というムラ名になったと考えている(そんこと、すでに紐解かれているかも)。