





















(未撮影)


2009年8月7日(金)メモ
【移動村が故地に遺していったもの】(1736年に移動した呉我村)
今帰仁村に呉我山がある。呉我山の地は現在名護市呉我の故地である。1736年に蔡温の山林政策で現在の今帰仁村呉我山から羽地間切の地に移動した(方切)。その地は複雑な動きをしている。1600年代の前半まで今帰仁間切、1690年頃その地と村は羽地間切へ。1736年に一帯にあった振慶名村、我部村、松田村、桃原村、呉我村を同じく羽地間切の内部と屋我地島へ移動。移動させた後地を今帰仁間切の地とした。そこに1738年湧川村を創設した。(村移動はまだしていない。村移動は1736年である)。
・『絵図郷村帳』(1644年) 今帰仁間切ごが村・ふれけな村・まつざ村・がぶ村
・『琉球国高究帳』(1648年) 今帰仁間切ごが村・ふれけな村・まつざ村・がぶ村
(1690年頃 間切の方切があり、ごが村域は羽地間切に組み込まれる)
・『琉球国由来記』(1713年) 羽地間切呉我村・振慶名村・我部村・(松田村と桃原村は出てこない)。
(この時期、村移動はまだしていない)
・1736年に羽地間切内にあった呉我村をはじめ、他の村を羽地間切地内へ移動させる。
移動させた地を再び今帰仁間切とした。
・1738年に新設された今帰仁間切湧川村、羽地間切我呉村のあった地は今帰仁間切天底村となる。
・大正9年に字呉我山(天底・玉城・湧川の小字の一部からなる)が創設される。
現在の今帰仁村呉我山は大正9年に新設される。その時、字天底から三謝原(シイナ)・古呉我原・古拝原、玉城から西アザナ原、湧川から中山原をして呉我山とした。呉我山の小字の古呉我原や古拝原名に移動する前の村の痕跡をとどめている。三謝原にあるシイナグスクを考えるには、1738年新設の湧川村ではなく、移動する前の近隣にあった呉我村(現在の呉我山)や振慶名村(現在の湧川の鎌城原、振慶名村の故地)との関係でみる必要がありそうだ。(我呉村が移動した後地に住んでいる呉我山の人々のほとんどが寄留人である)。
故地に遺されたのに地名がある。呉我の故地に「呉我山」「古拝原」「古呉我」などの地名が遺されている。呉我山から移動してきた呉我の人々は旧暦五月に故地の屋敷跡や拝所、アシヤギ、堤泉、神泉の跡地などを参拝している(『呉我誌』)。1736年に呉我村が移動した後の史料で「古呉我山」や「古我」など、故地を意識した地名となっている。
『琉球国由来記』(1713年)に出てくる呉河(我)村・振慶名村・我部村・松田村は、移動する前の故地における拝所である。それらの村は我部ノロの管轄で、村移動後も変わることなく継承されている。
現在の湧川地内に「ケ しゆや原」の印部石を確認している。
※呉我村は現在の呉我村から
振慶菜村は現在の湧川のガジマンドーから
我部村は湧川の下我部あらりから。
松田村は湧川?から
桃原?
2011年1月26日(水)過去メモ
「印部石」が寄贈される。今帰仁村湧川の前田原にあった印部石(原石)である。前田原には前田拝所があり、湧川の祭祀に旧暦二月の最後の亥の日に行う前田折目(前田御願)がある。前田にあるイビムイ(湧川のウタキ:タキサンともいう)の麓に三穂田(ミフダ:神田)がある。そこで稲の生育や豊作のウガンがあある。神人が神田に入り稲苗の初植えの祭祀が行われる。田植えの合図であるという。20年前田港さん(故人)から付近に「原石がある」と聞かされていた。前田原一帯は土地改良でなされた。そのこともあって土地改良中に何度か足を運んだが確認することができなかった。今回提供された印部石(原石)はあった場所からすると、間違いなさそうである。
「ケ しゆや原」である。塩屋原のことであろう。現在の小字(原)に「しゆや原」はない。前田原に「スガー」「シユガー」(塩川)があり、元文検地の頃、現在の前田原に「しゆや原」の原域があったと見られる。「しゆや原」は塩屋に因んだ原名と言えそうである。今帰仁間の元文検地は1743年頃だと見られる。印部石がたてられたのは、湧川村が新設されて間もない頃である。(湧川村が創設される以前、湧川村地内に振慶名・我部・松田・桃原などの村があった。それらの村を移動させて湧川村を新設)。湧川村に印部石を設置したのは村移動や村の新設と関係あるのだろうか?
「ケ しゆや原」の印部石の確認は今帰仁村内で24基目である。

▲湧川の前田原にあった印部石
一七四一年十二月大島に唐船が漂着した。その船は運天津(湊)に回送されてきた。運天港で修理して運天港を出港している。唐船には五三人の中国人が乗っていた。出身地は蘇州と福州で商人が乗っていた。長崎で貿易をし、日本の海産物や銅器・漆器などを乗せて帰る途中、洋上で暴風にあい大島の大和浜に漂着したのである。
大島に漂着した唐船は、唐人四七人と奄美大島人七人を乗せた本船と唐人六人と荷物を乗せた大和船の二手に分かれて、沖永良部島・与論島を経由して運天港に向かった。大和船は名護間切許田村に着く。本船は伊江屋島の具志川島の干瀬に乗り上げて破船してしまう。
名護間切の許田(湖辺底)に着いた唐人と荷物は名護間切に収容された。天気がよくなったので名護間切船二艘、恩納間切船一艘、数久田村に来ていた那覇の馬濫船一艘、計四艘で名護から運天港へ回送した。運天港に着くと、唐人と荷物は番所に引き渡され、大和横目と在番検見が綿密な船の改めをした。馬濫船は遅れて翌日に到着した。番人ならびに諸事取締り方に次のようなことが申し渡された。附、御当地通用之銭相尋候はば、鳩目銭相用候段可申答候
一 村中に而大和哥仕間敷事。
一 唐人滞在中、御高札掛申間敷事
一勤番家并村中、火用心別而別而可入念事
上のような達しが出された。また唐人を収容するための小屋がつくられた。
覚
一 番所屋敷内に長拾間づつ横弐間づつ、之小屋弐軒、長三間横弐間之台所壱軒、
雪隠所等相調候事。
附、小屋は奥弐間はいのまん床仕合、前三尺者土地に仕候。台所は床無に、かま
大小五つ相調居候。
一 小屋外囲之儀、高すすき・いのまん取交、内外見通り無之様に堅箇固相調候事。
一門左右、後表両角四ヵ所に勤番家相調候事。
唐人が運天村に収容している間、国頭間切の七カ間切に割り当て、運天村に四日づつ詰
めさせた。
伊平屋島から四七人が到着する間、唐人六人のために食糧が尽きると米や味噌など、入用な品々を提供して いる。
伊平屋島で唐船は破損してしまったので荷物は泊馬濫船二艘に乗り、通事・評定所筆者宰領などが伊平屋島船に乗り三艘立てで運天港へ向かった。破船した船は厳重に焼き捨てた。その間、大和船が運天港沖に停泊してはならず、天候によっては古宇利島の前に停泊するようにと指示がだされる。

▲島のほぼ中央部に異国船遠見番所」がある(橋建設中)









「琉球国高究帳」は近世初期の各村の石高を田は畠別に書かれ、間切・島ごとに集計され間切の
村数も記される。宮古・八重山地方は欠く。成立は未詳だが、十七世紀中頃とされる。間切の新設
や移動など必須の資料である。東京大学史料編纂収蔵。「沖縄県史料」前近代 1所収。
今帰仁間切の部分について歴史的なことをコメントすることに。今帰仁間切が本部まで含まれ
ている時代である。伊野波(直後本部間切)間切が分立したのは1666年である。分立した後の今帰仁間切の村数は二十三ヶ村である。
この「琉球国高究帳」以前、以後の史料との比較で間切(方切)・村の分立・統合・田を持たない村など、ムラの形が見えてくる。田を持たない村、隣接した村で出している村、後に二つの村分を一つの村分としている村など、石高(田・畠)を目安にした村と見られる。(今帰仁村に親泊村、運天村に上運天と下運天をふくめてある)(興味深いことが見えてくる。(工事中)
【今帰仁間切】
① 今帰仁村
②よなみね村
③しゆきち村
④へしき村
⑤崎山村
⑥中城村
⑦中そね村
⑧謝名村
⑨きし本村
⑩玉城村
⑪あめそこ村
⑫ごが村→→羽地間切へ(1736年村移動)
⑬ふれけな村→→羽地間切へ(1736年村移動)
⑭かぶ村→→羽地間切へ(1736年村移動)
⑮まつざ村→→羽地間切へ(1736年村移動)
⑯運天村
⑰沖之郡島
【伊野(本部)間切】
①崎本部村
②へなち村
③瀬底島
④によは村
⑤具志川村
⑥浦崎村
⑦ひし村
⑧具志堅村
⑨あめそこ村→→今帰仁間切へ(1719年)
【『琉球国高究帳』にみる今帰仁間切】 『沖縄県史料』前近代1
今帰仁間切
一高頭六拾五石五斗五升七合五勺三才 崎本部村
内 田方三拾石八斗三升九勺三才
畠方三拾三石七斗六升弐合四勺弐才
一高頭百壱石九斗八升弐合八勺弐才 へなち村
内 田方弐拾弐石六斗三升八合三勺四才
畠方七拾八石六升壱勺四才
一 畠方高百八拾石九升七合三勺弐才 瀬底島(田なし)
一高頭弐百拾七石四斗九合五勺七才 によは村
内 田方百六拾壱石五斗八升四合四勺三才
内五斗九升九合四勺弐才永代荒地
畠方百三拾五石八斗弐升五合壱勺四才
一高頭百八弐石五斗六升壱合八勺八才 具志川村
内 田方四拾八石八斗四升三勺四才
畠方百三拾三石七斗弐升壱合五勺四才
一高頭六百四拾六石九斗七升壱合四才 浦崎村
内 田方六拾七石壱斗五升三合弐勺六才
畠方五百七拾九石八斗壱升八合一勺七才
一 畠方高六拾七石三斗五升壱合九勺六才 ひし村(田なし)
一高頭三百九拾弐石三斗五升九合七勺弐才 具志堅村
内 田方四拾九石七斗斗八升八合六勺九才
畠方三百四拾弐石五斗七升壱合三才
一高頭四百四拾四石九斗八升八合二勺八才 今帰仁村
内 田方百五拾八石七升四合八勺九才
畠方弐百八拾六石九斗壱升三合三勺九才
一高頭弐百弐拾八石八斗五升八合三才 よなみね村 しゆきち村
内 田方九拾壱石三斗四勺
畠方百三拾七石五斗五升七合六勺三才
一高頭百七拾六石七斗九升六合弐勺壱才 へしき村
内 田方四拾石壱斗六升弐合三勺
畠方百三拾六斗三升三合九勺一才
一高頭五百拾五石四合壱勺八才 崎山村 中城村
内 田方六拾九石九斗壱升九合七勺四才
畠方四百四拾五石八升四合四勺四寸
一高頭三百七拾壱石七斗弐升四合三勺 中そね村
内 田方百弐拾弐石六斗一升七合弐勺七才
畠方弐百四拾九石壱斗七合三才
一高頭弐百九拾九石七斗四升壱合七勺七才 謝名村
内 田方六拾石八升五合九勺四才
畠方弐百三拾八石八斗五升五合八勺三才
一高頭弐百六拾四石四斗六合七勺 きし本村
内 田方百拾三石弐斗四升五合六才
畠方百五拾壱石一斗六升一合六勺四才
一高頭弐百弐拾石六斗九升六合五勺四才 玉城村
内 田方百壱石六斗弐四合七勺三才
畠方百拾九石七升壱合八勺壱才
一高頭百七拾六石五斗六升五合六勺一才 ぜつかく村
内 田方九拾九石六斗四升六合九勺六才
畠方七拾六石九斗壱升八合六勺五才
一高頭弐拾壱石九斗三升六合弐才 あめそこ村
内 田方拾三石三斗壱升三勺六才
畠方八石六斗弐升五合六勺六才
一高頭弐拾六石弐斗九升九合弐勺九才 ごが村
内 田方九石七斗九升五合弐勺三才
畠方拾六石五斗四合六才
一高頭拾石六斗壱升九合九勺九才 ふれけな村
内 田方八石七斗弐升三合八勺四才
畠方壱石八斗九升六合一勺五才
一高頭百五拾四石八斗壱升七合三勺四才 かぶ村 まつざ村
内 田方百八拾四石七升三合四夕九才
畠方四拾六名七斗六升五合八夕五才
一高頭百八拾四石七升三合四勺九才 運天村
内 田方六拾九石六斗壱升九合七勺六才
畠方百拾四石四斗五升三合七勺三才
一畠方高八拾五石八斗三合四勺五才 沖之郡島(田なし)
今帰仁間切弐拾三ヶ村
合高五千三拾五石三斗三升八合九勺九才
内 田方千四百四拾七石八斗壱升三合九勺一才
内五斗九升九合四勺弐才永代荒地
畠方千五百八拾七石五斗弐升五合八才


今帰仁間切部分のみ。後の本部間切、羽地間切部分除いた図)
・うむてん つけて(おもろ) ・うんはてんにあり(運は天にあり) ・上うんてん 下うんてん(絵図郷村帳)(ウインシマ・ヒチャンシマ) ・ 「絵図郷村帳」の朱書の押札に「上り絵図上、上下之運天村無之、運天村と一村 相見得申候 御記録奉行」とある。奉行所は運天村の内にあった(番所のある下運天か)。
・1713年の『琉球国由来記』に「ウケタ嶽」、元文検地の記部石に「ユ うけた原」がある。
(現在の小字に「ウケタ原」(浮田)はないが、現浮田港に地名としてある)
・1741年大島に漂着したとき、唐船を運天港へ回した時、蔡温は浮田港(上運天)から指示をだしている。
・1846年にフランス艦船が三隻が運天港に停泊したことがある。その時、二名の船員が 亡くなり、上運天の対岸の屋我地島に墓をつくり葬った。
上運天の中心は安里集落、ウヘェのすそ野からアサトガー、フテンマガーの泉がある。番所のある運天港への道筋がある。天底からのナカミチ、仲宗根と勢理客からの宿道があり、ギマラ附近で合流。ギマラに番所を風刺した琉歌の碑がある。(運天の番所 通いほしゃ あいしが きまの大道の ぎまの くささ)間切番所に勤めたいが、ギマがはえている宿道、番所への道筋はギマのような臭さよ) 上運天のウタキは集落の原初的な形態をみせている。ウタキの内部や周辺にウタキのイベ、神アサギ、旧家の跡があり、お宮(昭和15年)に合祀されたようであるが、合祀以前の拝所ものこしている。





伊是名島の「火立所」は『元禄国絵図』で「異国船遠見番所」、『薩摩藩調製図』で「火立所」とである。伊是名島の
「火立所」は『元禄国絵図』で●記号で記されている。伊是名島から国頭間切の辺戸村で受け、辺戸村から今帰仁
間切の古宇利島、さらに大嶺原、伊江島の火番所で受け、瀬底島、読谷山間切火番所、弁が嶽で受け継ぐ連絡網
である。
アーガ山の嶺に「火立所」とは別に諸見・伊是名・仲田の雨乞いを行う場所がある。
【伊平屋村雨乞の状況】(明治44.4.22)
三月九日、伊是名、諸見、勢理客及び仲田の四ヶ字、アーガ森に登り雨乞の式を挙行す。其の方各字一戸一名
宛の総揃いにて、アーガ森一帯の四ヶ所に陣取り、盛に火を燃やし太鼓を打ちつつ北より東、東より南、南より西に
順を遂ふて四方拝み、十一月以来降雨なきを恨み且つ訴へて降雨を乞う様、…
【アーガ山】(明治44.11.3)
支那への進貢船帰帆の折、往々吹き流されて当地に漂着したる事ありて、夏至の節に入り進貢船帰帆の時節とな
れば、アーガという山の頂上に灯を燃やし目標にしたりとぞ。今も其の跡残れり。其の年進貢船当地に漂流し、順風
を待ちて那覇に向け出帆せしも、俄かに風位転じて意を果たさざることを数度に及びしを、一人の物識り曰く、風伯の
嵩る無理ならぬ事なり。




金装宝剣(千代金丸)と北山の時代
シンポジウム (於:今帰仁村コミュニティーセンター)
仲原 弘哲(今帰仁村歴史文化センター館長)
はじめに
1.三王(北山・中山・南山)と明国との交易
2.北山王(怕尼芝・珉・攀安知)と明国との交易
3.三山王時代の琉球国と朝鮮・東南アジアの国々
4.貿易品の方物と刀剣類
5.琉球側の「千代金丸」関係資料
6.尚巴志の動きと北山
7.刀剣をもつ旧家の遺品
おわりに
【山北王攀安知】(12回)(1396~1415年)の明国との交易(滅亡時の山北王)
①洪武29年(1396)正月己巳(10日)
琉球国山北王攀安知、其の臣善佳古耶を遣わし、中山王察度、其の臣の典簿程復等を遣わし、各々表を奉り馬及び方物を貢す。詔して来使三十七人に鈔二百四十七錠を賜う。
②洪武29年(1396)十一月戊寅(24日)
琉球国山北王攀安知、其の臣善佳古耶等を遣わし、中山王世子武寧、其の臣蔡奇阿敖耶等を遣わし、馬三十七匹及び硫黄等の物を貢す。并びに其の寨官の子麻奢理・誠志魯二人を遣わして太学に入れしむ。
是れより先、山南王其の姪三五郎□を遣わして太学に入れ、既に三年にして帰省す。是に至り、復た麻奢理等と偕に来りて太学に入るを乞う。詔して之を許し、仍お衣巾・靴韈を賜う。
③洪武30年(1397)二月丙戌(3日)
琉球国中山王察度、其の臣友賛結致を遣わし、山南王叔汪英紫氏、渥周結致を遣わし、各々馬及び硫黄を貢す。
④洪武30年(1397)十二月癸巳(15日)
琉球国山北王攀安知、恰宜斯耶を遣使し、中山王察度、友賛結致を遣使し、各々表を上(たてまつ)りて馬及び硫黄を貢す。
⑤洪武31年(1398)正月(8日)
琉球国山北王攀安知、その臣を遣わして表を進め馬を貢す。
⑥永楽元年(1403)三月丙戌(9日)
琉球国中山王の従子三吾良□等に宴を会同館に于て賜う。・・・・・
琉球国山北王攀安知、善住古耶等を遣使し、表を奉りて朝賀し方物を貢す。鈔及び襲衣・文綺を賜う。善佳古耶、攀安知の言を致し、冠帯・衣服を賜いて以て国俗を変ずるを丐(こ)う。上、之を嘉し、礼部に命じて其の国王曁(およ)び臣に冠帯を賜う。
⑦永楽2年(1404)三月己未(18日)
琉球国山北王攀安知、亜都結制等を遣使して方物を貢す。銭・鈔、文綺、綵幣を賜う。
⑧永楽2年(1404)四月壬午(12日)
詔して汪応祖を封じて琉球国山南王と為す。応祖は故琉球山南王承察度の従弟なり。承察度は子無く、臨終に応祖に命じて国事を摂らしむ。能く其の国人を撫し、歳々に職責を修む。是に至り隗谷結制等を遣使し来朝して方物を貢す。且つ奏して山北王の例の如く冠帯・衣服を賜わんことを乞う。
上、吏部尚書蹇義に論して曰く「国は必ず統有り、衆を撫し、且つ旧王の属する所の意なり。宜しく言う所に従いて以て遠人を安んずべし」。遂に遣使して詔を齎して之を封じ、并びに之に冠帯等の物を賜いて其の使いと倶(とも)に還らしむ。
⑨永楽3年(1405)四月丙寅(1日)
琉球国山北王攀安知、赤佳結制等を遣使して馬及び方物を貢す。賜うに鈔錠・襲衣・綵幣表裏を以てす。
⑩永楽3年(1405)十二月戊子(26日)
琉球国中山王武寧、山南王汪応祖、山北王攀安知、西番馬児蔵等の簇、四川・貴州の諸士官、各々人を遣わして方物を貢し、明年の正旦を賀す。
⑪永楽13年(1415)四月丙戌(19日)
琉球国中山王思紹並びに山北王攀安知、人倶に遣使して馬及び方物を貢す。
⑫永楽13年(1415)六月辛未(6日)
琉球国中山王思紹・山北王攀安知の使臣辞す。悉く鈔幣を賜う。
4.「明実録」(三山王時代の琉球国と東南アジアの国々)
山北王・中山王・南山王の時代、明実録の記事に三王の名が記されない記事がある。三山を三山を琉球一国とみている可能性がある。そのことについては、ここで扱わないが、東南アジアへの方物の中に刀剣が重要な品であったことが窺われる。尚巴志の時代、中山・北山・南山も大和から入ってきた刀剣類をもって東南アジアへの礼物として輸出したとみられる。中継貿易の拠点としたと見られる。
・占城(チャンバ)・真臘(カンボジア) ・暹羅(アユタヤ) ・三仏齋(パレンバン)
・瓜哇(ジャワ)・渤泥(ボルネオ) ・高麗
【朝鮮との交通記録】
・1392年 察度、朝鮮へ二度使者を派遣する。
・1394年 察度、朝鮮へ使者派遣する。
・1398年 山南王温沙道、朝鮮へ亡命。10月客死。
・1400年 察度、朝鮮へ使者派遣、世子武寧も方物を献上する。
・1409年 山南王、朝鮮へ阿乃佳結制を派遣する。
・1410年 山南王、朝鮮へ模都結制を派遣する。
・1415年 将軍足利義持、尚思紹(りゅうきゅう国よのぬし)の文書を送る。
・1416年 北山王攀安知、中山に滅ぼされる。
・1420年 中山王佳期巴那をシャムに派遣。
【旧港との交通記録】(パレンバン・チューラ・ジャンビ)(マレー半島)
旧港との交通は1426年尚巴志に文書に登場する。磁器を搭載し胡椒を買い入れる。礼物として素段、大青盤、小青盤など。舊港との交通か以下のように8回見られる。宣徳3年(1428)に袞刀二柄、腰刀二柄。宣徳5年10月5日?の腰刀二把がある。舊港への礼物の中に刀があったことがわかる。つまり琉球側からの貢物である。
・宣徳三年(1428) 9月24日実達魯などを舊港に遣わす。
・ 同 10月5日 同上
・宣徳5年(1430)10月18日 歩馬結制等を遣わし舊港に書を送る。
・宣徳6年(1431)2月3日 舊港より来信。
・正統3年(1438)10月4日 阿普尼是等を舊港に使す。
・ 同 10月26日 同上
・正統5年(1440)9月 同上
・正統5年 10月4日 同上
【マラッカとの交通記録】(室町中期足利義政頃~50年間)(尚徳・尚円・尚真の時代)
マラッカとの交通は1463年~1480年まで間15回みられる。天順7年(1463)に腰刀五把、天順8年(1464)に腰刀五把、成化元年に腰刀五把、成化2年(1466)に腰刀五把、成化3年(1467)に腰刀五把。その年まで腰刀が五把礼物に記録されている。その次の成化4年(1468)年から以後、成化16年までの礼物に刀の記載がみられない。
【爪哇との交通記録】(ジャワ)
永楽2年(1430)10月18日附で尚巴志が南者結制等を爪哇に遣わしたのが文書に見える最初のようである。この年は尚巴志が山南を滅ぼし三山統一し、尚巴志は南者結制を爪哇に使わした文書があるようだ。同じ年の同日に三佛齋にも使節を派遣している。4回の使節派遣が見られる。
・永享2年(宣徳5:1430)10月18日 南者結制等を爪哇に派遣する。
・永享12年(正統5:1440)10月16日楊布等を爪哇に遣わす。
・嘉吉元年(正統6:1441)4月19日阿普斯古等を爪哇に遣わす。風にあって翌年福健より帰る。
7月6日達福期等を爪哇に派遣、10月1日風にあって同月3日再び行く。
・嘉吉2年(正統7年、1442)10月5日楊布等を爪哇に遣わす。
宣徳5年(1430)に腰刀五把、正統5年(1440)に腰刀十把、正統6年(1441)腰刀拾把、正統7年(1442)腰刀拾把がみられる。










具志川グスクは久米島町仲村渠(具志川間切仲村渠村)にある。具志川間切具志川村ではなく、同間切仲村渠村の場所にある
ことから、歴史をひも解いてみないと。多くのグスクがその村名や地名と同一である例が多くみられる。そうでないのは何故だろう
かとの疑問。その答えを引き出す方法の一つに歴史をひも解いていく方法がある。
久米具志川グスクが近世の具志川村の場所ではなく、仲村渠村である。にそこから、具志川グスクの歴史をひも解く面白さが
ある。具志川グスクは動かすことができないので、グスク近くにあった集落が移動していったとの仮説が立てられる。
古くは具志川村の集落は具志川グスクのすぐ近くにあったはずである。仲村渠村のクシメ原にあるのは何故だろうか。具志川
グスクが造られてた頃、仲村渠村があり、その地にグスクを築いたのであれば仲村渠グスクと名づけられたはずである。少し、文
献資料の整理をしてみる。
『絵図郷村帳』(1646年)と『琉球国高究帳』(17世紀中頃)、それと1713年の『琉球国由来記』でも仲村渠村は登場してこない。
仲村渠村の創設は乾隆11年(1746)だという。そこから見えてくる結論は、具志川グスクは築かれた頃から、具志川村(ムラ)地
内であったこと。1746年に創設された仲村渠村は具志川村を分割した。分割し仲村渠村とした場所に具志川グスクが位置し、そ
れが今まで続いているとみていい(そのような例に羽地間切の羽地番所が親川番所と呼ばれるのと同じ)。
具志川グスクが具志川村にあったことを示しているのが、『琉球国由来記』(1713年)の「具志川城内御イベ 具志川村」であ
る。つまり、具志川グスク内のイベは具志川村にあったことを示している。まだ、仲村渠村が創設される前のことである。そこから
具志川村を分割し、仲村渠村を創設し、仲村渠村域に具志川グスクが位置することになったことを示している。
仲村渠は具志川村(行政村)の一部ではなかったか。具志川グスクの周辺に前兼久と後兼久があったと言われ、その地名
が今でも伝えられている。具志川村の中に前兼久・後兼久・仲村渠・上村(上村渠か。仲村渠村の古村?)など複数のマキ、
マキヨ規模の集落があり、それが具志川村となり、さらに分割して仲村渠村の創設となったとみてよさそうである。

・具志川村嘉手刈小字西新田にあり、チナハグシクと呼ぶ。
・グスクの背後崖下を白瀬川が流れる。
・野面積みの石垣が廻らされている。
・郭があり、基段がある。
・正面の石垣は直線に伸びる。
・14~15世紀の伊敷索城の城主伊敷索按司は島外から来た人物だという。長男は中城按司として宇江城城(以前の中城城)へ、次男は具志川城へ、三男は登那覇城に配置する。久米島全島を納める。尚真王が派遣した中山軍に中城と具志川の按司は滅ぼされる。伊敷索按司は病死したという(久米具志川旧記)。
・伊敷索城の港は兼城湾と大みなとの良港を抱える。
・「おもろさうし」に「いしけなわ」と謡われる。
・『琉球国由来記』(1713年)に「仲里間切儀間村 いしきなは御嶽」
とある。
・神名:久米ノ世ノ主御イベ
・アフライサスカサ御イベ
・トヨムスノキミ御イベ
・旧暦5・6月のウマチーには儀間ノロ及び神人達が城外
の祭祀場でウガンを行う。
※伊敷索城は嘉手刈にあり、儀間は隣にある(儀間と嘉手刈
は隣接。しらとう村は儀間の一部。儀間は玉城家(アガリ)
を中心とした村、しらとう村は白道家を根所とするマキヨ)。
※嘉手刈に伊敷索城がある。嘉手刈の集落は浜にある。




源為朝渡来の伝説(『北山史話』新城徳祐著 1957発行)
源為朝は、為義の八男で、鎮西八郎と称し、十六才の時に九州総追補使になって其の大半を平定したが、後白河天皇の保元元年(1156)父為義に従って保元の乱に出戦し、兄義朝と戦って敗れ、遂に伊豆の大島に流された。
為朝は、監禁同様な伊豆の生活が楽しからず、それから八年の後(永万元年)南方発展の野望を抱き、奄美大島を経て、島伝いに沖縄へ向かった。その途中防風にあい、船は木の葉のようにもてあそばれ、船人は色を失ってなす術を知らず、将に船がくつがえろうとした為朝は、船人を叱して曰く、「いづくんぞ恐るゝに足らんや、運はたヾ天にあり」と、船人力を合わせて、防風を乗り切り、島を見つけて上陸した。よってこゝを運天と名づけるようになった。
為朝上陸の時、勢理客ノロがうたったオモロ
せりかくのろの あけしののろの
あまぐれおろちへ よろいぬらちへ
うんてんつけて こみなととつけて
かつおたけさがる
あまぐれおろちへ よろいぬらちへ
やまとのいくさ やしろのいくさ
その意味は
勢理客ノロが、賢明なるノロが、祈りを捧げて雨雲を呼び下して、武士のよろいを濡らした。武士は運天の港に着いたが、ノロは嘉津宇岳にかヽっている雨雲を呼び下して彼等のよろいをぬらした。彼等は大和の軍勢、山城の軍勢である(古琉球)。
為朝の一行は、暫らく運天港の上の森林中の洞窟に住んでいたと云われ、その洞窟の中に為朝が出入りする時に常に手でつかまえて上り下りをしたと云う石があって、それに為朝の指の跡が残っている。
大正十一年五月、国頭郡教育部会の発起で為朝の上陸を記念するため、沖縄史跡保存会によって、運天森の松林の中に、「鎮西八郎為朝公上陸之碑」」が建立された。
為朝公を偲ぶ歌(時の郡長田村 浩)
一、鎮西八郎為朝公 図南の有志やみがたく
大海原に船出して、着きしはここぞ運天港
二、運天森の松風に、高くそびゆる石ぶみは
為朝公が上陸の、跡をば永久に語るなり
三、森の彼方の岩むろは、為朝公が仮の宿
結びし夢を尋ぬれば、ありし昔ぞ偲ばるる
四、英雄逝いて七百年、うるまが島の浦波は
君がいさを讃えつつ、調も高くうたうなり
為朝はその後、沖縄中を遊歴した。島民はその武勇絶倫なるを知って大いに敬服したと云う。島尻の大里に行き、大里按司(南山)の妹を娶り、翌仁安元年(1166)、一子尊敦を生んだ。大里は今の高嶺城(南山城)で為朝が姫君と始めて会ったと云う遺跡がある。ここをワドキナー(和解)と云っている。南山城下、田ん圃の中の木麻黄林がそれである。
胡馬は北風にいななき越鳥は南枝に巣食うとか豪傑為朝も故郷を慕うの情にかられ妻子も共に浦添城下、牧港から船に乗って出たが、暫くすると、俄かに一矢かきくもり、風波が荒れて進む事が出来なかったので、仕方なく船を港に返し、後日順風に帆を上げて再び港を出たが、又々大波が逆巻き、帆柱は吹き折られ、梶も打砕かれた。ここに於て船入進み出て云うには、
「女が乗っていると云って海神が崇っているのである。願わくば妃を帰して百人の命を救って下さい」と、為朝も止むを得ず、必ず迎えにくる事を約して妃を帰した。夫人は別離の涙に袖をしぼりつつ形身の品を、持たしてやり、其の後三年間、夫為朝の帰りをまちわびたが、遂に迎えに来てはくれなかった。それで待っても来ないので、この地を、マチナト(待港)と云ったと伝えられている。今は牧港と云う。
為朝はこのようにして一家の私情う絶って、沖縄を去ったのは、矢張り父祖の業を恢復したい野望があったからである。それでひとまず、その機を伺うために八丈島に渡ったのであるが、惜しむべし、嘉応二年(1172)討手のため、三二才を一期として八丈が」島の夕凪と共に消えたのである。
運天の番所 いくさ船浮きて
いくさどや大和 しわやうちな

▲為朝渡琉伝承の運天港 ▲「源為朝公上陸之趾」碑(大正11年建立) ▲向かって左側が嘉津宇岳




蔡温の林政八書の中に森林を遠望して林相の見分け方を「杣山方式帳」で図説されている。
・図1の梢が整った筆尖状は幼齢林
・図2の龍球状で樹形が整った林相は成長林
・図3鱗状は盛りきまわった林分、図4のように魚鱗が抜けたように見えるのは伐採した跡
・図5の樹枝が見えるのは良木が残ってるが大径木は伐採された林分
・図6のように枯枝・曲枝が多い林相は荒廃林へ移行する林分
・図7は樹木と枝葉とススキ等が生えている所は森林ではなく藪山である






【今帰仁間切の中城のろ職補任辞令書】(1605年)
しょりの御ミ事
ミやきせんまきりの
中くすくのろハ
もとののろのくわ
一人まうしに
たまわり申候
しよりよりまうしか方へまいる
萬暦三十三年九月十八日




上杉県令一行は、まだ運天に滞在中である。早く本部間切へ送り出して次のことをやりたいのであるが、そうはいかない。積み残した今帰仁間切番所(警察分署)での問を掲げ、その答から今帰仁間切の様子が伺える。答えは掲げていないが、どんな答えなのだろうか。自分なりの答えを出してみるのものも面白いので答は省略してある。
【上杉県令日誌】(明治14年11月28日午後)
一行は百按司墓を視察した後、再び分署(番所)に戻る。番所で宿泊するのであるが、そこで県令が訪問の意を伝え、さらに今帰仁間切役人と問答をしている。その問答の一つ一つから当時の今帰仁間切の動きや間切番所の仕事の内容や様子が伺える。
主な質問は、作物のでき、砂糖の生産高、台風の災害、財政について、人身売買、間切の村々の米の貯え、薪の売り出し、飢饉のときの分配の仕方、漁業、病人が出たとき、学校をつくる計画、どこにつくるのか、学校をつくる金、入学者は何名、村数、共進会への出品、博覧会に出京したもの、在京中当間切の為にと思ったことなどである。問答が終わると、上運天村平民仲村平八母ウタ93才、同村平民金城新緒母カマタ90才の者へ、目録の賞が与えられた。
夜宴のとき、上杉県令公は地頭代を呼んで、学校新築の間切は、島尻の東風平を除くと今帰仁間切一ケ所である。その奮発尽力の程に感心したとのお褒めの詞あり、それで酒杯を振舞った。
運天の歴史を語るキーワードは、
・ムラウチ集落
・源為朝上陸跡碑
・テラガマ・トンネル
・番所・警察分署(役人の辞令書など)
・大北墓
・百按司墓
・大和墓
・オランダ墓
・神アサギ
・地頭火の神
・大きなコバテイシ
・仕上世(シノボセ)米
・四津口
・運天港が果たした役割
などなど。
上杉県令もやっと運天番所から本部間切へと腰をあげました。明治14年のことですから、今みたいに自動車があったわけではないのでノンビリと行きましょう(ホントは私が道草しているのだが)。気温は華氏の69度である。今帰仁番所・首里警察分署(運天)から上運天村・勢理客村・仲宗根村・謝名村・平敷村へ、東から西の渡久地番所(本部間切)へと向っている。途中、松並木や芋畑、藍畑、藍壺、水田、芭蕉畑、馬場などを眺めたり、側を通りながらの道中である。稲の苗が青々とした様子なども目にしている。藍壺に藍を漬して藍をつくっている場面、ノロなどが祭祀を行う空屋(仲宗根の神アサギだろうか?)などにも気を止めている。
馬将は仲原馬場を指しているだろうし、道の傍らに90歳余の老人などが出迎えると上杉県令はわざわざ輿(車)を停めて賞与(褒美)を差し上げている。明治14年頃の今帰仁間切の宿道(スクミチ)沿いや村の様子が彷彿する。この日誌の記事を追いかけていると、120年前の時と場所へどれだけ深くはまり込んでいけるか、その感性が問われているような気してならない。往時の姿がどれほど確認でき、あるいは面影を見つけることができるであろうか。これから村人の記憶を拾っていく作業が待っている。
明治14年11月29日)
朝の気温69度、午前8時40分に今帰仁番所、首里警察分署を出発する。
↓ 路を左に折れて小坂を登っていく。
↓ 巡査二名が護送する。村吏二人が纈袖(シボリソデ)して、
↓ 束竹を肩にして先駆けしていく。
↓ 両側の松並木続き断えず
↓ 大道は高低があり、曲折しながら過ぎていく。
右側の渓間に上運天村がある。
↓ 朝の煙が靄々(モヤモヤ)として棚引いている。
↓ 道端に一婦人あり、合掌して拝(イジギ)する。
行くこと数丁、勢理客村に入ろうとする。
↓ 仲村豊次郎の母カマト90歳がきて、合掌して拝謁(ハイエツ)する。
↓ 桃花色の外出着を新製して穿(ハ)き、児孫を傍らに侍す。
令公輿を停められる。
↓ 目録の賞与あり、スデガホウと言って拝謝する。既に
↓ 途(ミチ)につく。
↓ この辺りは薯圃と藍畑あり。
行くこと数丁。
↓ 広漠の水田と薯圃あり。
↓ 秧針(オウシン)(稲の苗)が青々として秀発している。
↓ 両側に藍壺六、七あり、藍葉を漬して染料を醸(カモ)す。
小さい流れを渡って仲宗根村に入る。
↓ 村の南に沿っていき、村を離れる処で路を回って上りまた下る。
↓ 二箇の空屋あり、ノロクモイの祭典(祭祀)を行う所という。
謝名村を過ぎる。
↓ 蕉(芭蕉)園多し。
行くこと数丁、馬将(馬場)あり。
↓ 圃(畑)の中に岩石が突起している。
既にして平敷村を過ぎる。
(続く)
。大宜味村の安根(アンネ)のバス停に車を止め、今帰仁からの道筋を振り返ってみた。安根から名護方面を見て、まず左手に大宜味村の山、旧羽地、そして名護の山が幾重にと重なって見える。名護の市街地から伊差川に至る部分は低く平らとなっている。そこから右手に本部半島が伸びる。しばらく台地状の地形となっている。嵐山一帯である。嵐山の丘陵地の後方に嘉津宇岳と八重岳が一段と高くみえる。再び低い丘陵地があり、その右手に本部半島の満名川を挟んで本部町の今帰仁よりの山々と今帰仁村のパサンチヂやタキンチヂ・乙羽山の山並みへとつづく。さらに右側にいくとクボウの御嶽と馬鞍山(マンクラヤマ)の山並みが識別できる。クボウの御嶽の手前に今帰仁グスク、そして歴史文化センターがある。さらに右手に目をやると運天、手前の屋我地島の島がある。そして運古海峡(古宇利大橋の架設中)、古宇利島へと続く(写真の方が一目瞭然だが)。
さて、長くなったがその風景は国頭や大宜味の人達にとって今帰仁グスクがどう写るのか。国頭地方の人々の内面やその言葉にある時代を映していやしないだろうか。時々、そんなことを考えながら北のムラへ足を運ぶ。「沖縄の歴史」の三山鼎立時代の話をするのだが、具体的に今帰仁グスクを拠点にした12~15世紀の北山(山北)王が国頭や羽地、名護、金武地方をどのように支配し統治していたのか。まだ、その姿が見えてこないのである。もし、国頭や羽地地方のムラやグスクが今帰仁グスクの北山王に物を献上したり、貢租を納めていたのか。あるいは今帰仁グスクへの勤めがあったのか。そういうことがあったとしたら国頭地方の役人(?)や人々は、今帰仁グスクへの勤めを果たしての帰路、大宜味の安根あたりから今帰仁グスクをあたりを振り向きながら、役目を果たして満足感を味わっていたのか、それとも重い貢租や暴君などに怒りや涙していたのか。
普段、今帰仁グスクのすぐ側で業務していると、三山鼎立時代の今帰仁以外の人々の動きや今帰仁グスクをみる視点がどういうものであったのか気になるところである。そういうこともあって、大宜味や国頭地方へと調査の足を向けているのである。
2002.1.6(日)過去メモ
今帰仁村今泊にあるクボウヌウタキの後方にあるプトゥキヌイッピャとシニグンニ、さらに今帰仁グスクまで行ってみた。古宇利掟さまのご案内。プトゥキヌイッピャは洞窟になっていてウル(珊瑚)が置かれていた。子宝が授かるという拝所である。今でも旧5月29日と9月29日に御願が行われている。シニグンニ(今帰仁グスク前方のハタイ原にある)は、かつて今泊で行われていたシニグの行われる祭祀場ではなかったかと思われる。七月のウプユミの時、シニグンニから太鼓をならし棒を振りかざしながら家々を回ってお祓いをしていたという。古宇利掟さまのわけのわからないドスのきいた言葉(何弁でしょうかね)でいろいろ質問されたのですが.....。
桜は正月の寒さでつぼみが大分膨らみがでてきたかと思ったら暖かくなったのでどうかな。例年より、みごろは早くなりそう。昨日今日と今帰仁グスクを訪れるお客さんが目立ちます。花見シーズンが到来です。咲き終わってからは遅いですよ。つぼみの時が旬......?グスクの桜もいいですが、歴史文化センターの展示をご覧になって出て行かれる方は、旬は過ぎてもいつも今帰仁ウカミ(超美人)にみえます。館長が口癖のようにいつも言っていますから........ほんと。
【上杉県令日誌】(12月16日より)
明治14年11月28日(午後1時40分)上杉県令の一行は屋我地島(済井出か運天原あたり)から舟で運天港にある今帰仁番所と首里警察分署の前の海岸に到着するが、番所と分署に立ち寄らず集落を抜けて坂道をいく。一つの洞窟があり、そこに鍛冶屋が設けられている。フイゴを据え、カナドコも置いてあるが人の気配がない。
道は曲折盤回して登る。山の中腹に奥深い洞があり、白骨の髑髏があり、洞の中に堆積している。あるいは腐朽している。鎧櫃の中にあるのもある。地元の人は「百按司墓」と言っている。今では弔いや祭もされず、精魂はどこあるのだろうか。この髑髏は今より(明治14年)468年前に中山王の尚思紹が兵を起こし、北山王攀安知を滅ぼした時、北山の士が戦死した屍とも、あるは今から(明治14年)273年前、薩摩の島津義久、樺山久高を大将として琉球を攻めたときの戦死者の髑髏とも伝えられている。
はっきりとした文献がまだないので両説のいずれが是なのかはっきりしない。近年本(県)庁では百按司の遺屍を埋める議論があるようだ。
百按司墓から今帰仁分署に至る。門は南西に向いカジマルの木が陰をなし、四、五百年前のもの。傍らにはりっぱな福木がしげり、港の入口には日本型の船が二艘碇泊している。
【その後の様子】
今では首里警察分署があった場所がどこか確認できていないが、番所内に置かれたようである。この首里警察分署は明治13年6月22日に羽地分署を運天の番所に移し今帰仁分署とし森寿蔵が分署長心得となった。所管は羽地・名護・今帰仁・本部・久志・大宜味・伊江・伊平屋・鳥島の広範囲に及ぶ。鳥島は明治14年10月に那覇署の管轄となる。明治15年1月に今帰仁分署は名護大兼久移し名護分署となる(『今帰仁村史』)。
今帰仁番所は運天港の近くの福木の大木が数本ある場所である。運天に今帰仁番所が置かれたのはいつかはっきりしない。伊野波(本部)間切が分割した時には運天に番所があったとみていい(それ以前から運天にあった可能性もある)。番所が警察分署と同じ建物であれば、明治14年には門が南西に向かいガジマルの木が陰をなしたいた様子が記されている。また現在ある福木がりっぱに繁り、当時の様子が浮かんでくる。
集落の中を通り、現在のトンネル近くに出たのであろう。その近くに鍛冶屋をした跡と見られる洞窟が今でも残っている。その洞窟は物入れに使われている。所々に焼けた跡や鍛冶屋があった雰囲気が今でも漂っている。鍛冶屋跡から登る道は現在遊歩道として整備されているが、草ぼうぼうである。大正13年に建てられた源為朝公上陸之跡碑にたどり着く。
さらに行って百按司墓を訪れている。半洞窟に白骨の髑髏がたくさんあり、鎧櫃に人骨が堆積している様子が記してある。人骨の多さから北山が滅ぼされた時の戦死者の屍であるとか、薩摩軍が琉球を攻めた時のものであろうとか議論があるが、まだどっちとも言いがたいとしている。
本(県)庁で百按司の遺屍を埋める義ありと聞くとあるが、それは明治15年8月に「白骨埋エイ之儀ニ付伺」を太政大臣宛に伺っているが、それは県庁費の中から流用支弁するべしと判断が下されている。明治21年頃に百按司墓は第一墓所から三墓所まで石垣が積まれ現在に至っている。
運天港周辺の集落はムラウチと呼ばれている。古宇利島への発着場所にはコバテイシの大木があり、またムラウチには大川や神アサギや地頭火神の祠などがある。また、東がわの森の麓に今帰仁(北山)監守を勤めた今帰仁按司とその一族を葬った大北墓、それと大和人の墓塔二基もある。
2002.1.5(土)過去メモ
長崎県は二度目である。4年前だと記憶しているが定かではない。その時は長崎市内から平戸市(平戸市切支丹資料館・オランダ商館跡など)まで足を延ばした。今回はハウステンボスと長崎市内が中心。(一部紹介)
ハウステンボスや長崎の出島を散策していると、司馬遼太郎の「街道をゆく」(オランダ紀行や肥前の諸々街道)の視点がかぶさってくる。「日本が鎖国していた間、清国(中国)とオランダの商船が長崎での通商が許されていた。日本国じゅうが暗箱の中に入って、針で突いたような穴が、長崎だけあいていた。そこから入るかすかな外光が、世界だった。」(「オランダ紀行」) その後に展開するオランダをみていく歴史の視点には、何度も身震いしたことが昨今のように思い出される。
暗箱に射し込んだ光が、まさにオランダだったわけである。200年近い歳月射し込んだ光が明治の文明化へ展開し、また琉球で西洋人をオランダーと呼んでいることにつながっている。
もう一つ「国土」についてである。「オランダ人のやり方は、単に自然を破壊し征服することによって国土を築いたわけではなかった。干拓地や堤防を見ても、日本のそれらのようにコンクリートで固め尽くすという情景は見られない。大地の上にはふんだんに緑があふれ、牛や馬が群居して草を食んでいる。この光景を目にするだけで、オランダという国が自然と敵対せずに、むしろ自然とうまく折り合い、自然を大切にしながら発達してきたということがわかる」(NHKスペッシャル「オランダ紀行」)。干拓という国土づくりのオランダをみると、歴史は未来を展望する指針となる学問だと実感させられる。現在、沖縄県でも各地で埋め立てをしている(あるいは計画がある)が、百年あるいは二百年後の国土がどうなっているのか、どのような国土をつくっていくのか。その認識が欠落しているのではないか。国土が投機の対象になっているかどうかの違いがあったにしろである。自然との折り合いについてもしかりである。
出島計画。それは1846年6月フランス艦船サビーヌ号、クレオパトール号、ビクトリューズ号が運天港に入港したことに始まる。三隻の艦船は約一ヶ月運天港に滞在し首里王府と交易の交渉をするが、目的を達することなく長崎に向かって去っていった。翌1847年薩摩の在番奉行が今帰仁間切にきて屋我地島と古宇利島の地形や水深などの実施検分を行っている。その目的は運天港を貿易港にして古宇利島と屋我地島を出島する準備であったという。滞在している間に二人のフランス人の乗組員がなくなっている。その二人を葬った墓がオランダ墓と呼んでいる。
ここで長崎の「出島」について述べないが、運天港・オランダ墓、そして古宇利島と屋我地島の出島計画。それらのキーワードを通して歴史を紐解くと同時に将来に向けてどう取り組んでいく必要があるのか。長崎・オランダ、そして琉球という枠で考えさせられる旅であった。(詳細については『なきじん研究11』の運天港部分で報告.
さて、12月30日から元旦にかけて長崎・福岡を訪れた。家族全員揃っての旅は久しぶりである。ここでは歴文に関わる部分について、福岡・長崎の順で一部報告することにする。福岡では「蒙古(元寇)襲来の痕跡」、そして長崎訪問は琉球側にオランダ墓(1846年)と呼ばれている仏人の墓があり、その当時屋我地島と古宇利島を出島にする計画があった(実現しなかったが)。琉球にあるウタンダー(墓)や出島計画を「長崎の出島」を通して見ていきたい。
■博多(福岡県)を訪ねる
1987年12月(15年前)に福岡県(特に北九州)を訪ねている。その時、10軒余の博物館などの施設を訪ねている。それは「福岡県内の博物館・資料館視察から」(上・下)として報告している(広報なきじん147、148号)。その前書きで「今回の視察の主な目的は、これまで積み重ねてきた(仮)歴史資料館設立準備委員会の調査研究を踏まえ、さらに県外の博物館や資料館を視察することで、広い視野から今帰仁村の今帰仁らしい特徴ある歴史資料館の建設に向けて反映」させたい。さらに「活動する・活動している資料館」を目指している(歴史資料館は現在の歴史文化センターのことである)。15年前の福岡ゆきは、資料館(現在の歴史文化センター)づくりのためであった。歴文センターは開館して足掛け8年目をむかえるが、どうだろうか。
■蒙古(元寇)襲来の痕跡
今回の福岡県を訪れた目的の一つに蒙古襲来(元寇)の痕跡を確認しておきたかった。文永の役(1274年)と弘安の役(1281年)の痕跡である。というのは、時代は違うが1609年に「琉球国」が薩摩軍の侵攻にあった時の琉球国側の対応があまりにも貧弱すぎる。国力や武力などの大差があったにしろ、琉球国の国情を知る手がかりになりはしないだろうか。そんな思いで福岡市博多区の東公園の一角にある「元寇史料館」を訪ねた。明治37年に「元寇記念館」として遺品が陳列されたようである。昭和61年に新たに「元寇史料館」(現在)として開館している。開館後の史料館の元寇の調査研究が進んで いるのであろうか。そうであればありがたい。
薩摩軍の琉球侵攻との比較研究をしていくために長崎県の「鷹島町立歴史民俗資料館」まで足をのばしたかったが、その願いは、今回果たせなかった。弘安の役(1281年)の主戦場が鷹島で、近年周辺の海底から見つかった元軍の遺品の数々が展示されているという。元軍が遺していった石の砲弾や石臼、元船の大きなイカリなどなど。それらの展示物から元の兵力の規模、当時の日本の兵力、そして時代は下るが琉球の兵力の規模。その違いが体感できたにちがいない。薩摩軍の兵力、そして琉球国の兵力や国情などを視野に入れながら「薩摩軍の琉球侵攻」をみ、さらに今帰仁間切における薩摩軍の「今きじんの焼きうち」など、もう少し踏み込んで考える手がかりしていきたい。(続)
2002.1.5(土)
長崎県は二度目である。4年前だと記憶しているが定かではない。その時は長崎市内から平戸市(平戸市切支丹資料館・オランダ商館跡など)まで足を延ばした。今回はハウステンボスと長崎市内が中心。(一部紹介)
ハウステンボスや長崎の出島を散策していると、司馬遼太郎の「街道をゆく」(オランダ紀行や肥前の諸々街道)の視点がかぶさってくる。「日本が鎖国していた間、清国(中国)とオランダの商船が長崎での通商が許されていた。日本国じゅうが暗箱の中に入って、針で突いたような穴が、長崎だけあいていた。そこから入るかすかな外光が、世界だった。」(「オランダ紀行」) その後に展開するオランダをみていく歴史の視点には、何度も身震いしたことが昨今のように思い出される。
暗箱に射し込んだ光が、まさにオランダだったわけである。200年近い歳月射し込んだ光が明治の文明化へ展開し、また琉球で西洋人をオランダーと呼んでいることにつながっている。
もう一つ「国土」についてである。「オランダ人のやり方は、単に自然を破壊し征服することによって国土を築いたわけではなかった。干拓地や堤防を見ても、日本のそれらのようにコンクリートで固め尽くすという情景は見られない。大地の上にはふんだんに緑があふれ、牛や馬が群居して草を食んでいる。この光景を目にするだけで、オランダという国が自然と敵対せずに、むしろ自然とうまく折り合い、自然を大切にしながら発達してきたということがわかる」(NHKスペッシャル「オランダ紀行」)。干拓という国土づくりのオランダをみると、歴史は未来を展望する指針となる学問だと実感させられる。現在、沖縄県でも各地で埋め立てをしている(あるいは計画がある)が、百年あるいは二百年後の国土がどうなっているのか、どのような国土をつくっていくのか。その認識が欠落しているのではないか。国土が投機の対象になっているかどうかの違いがあったにしろである。自然との折り合いについてもしかりである。
出島計画。それは1846年6月フランス艦船サビーヌ号、クレオパトール号、ビクトリューズ号が運天港に入港したことに始まる。三隻の艦船は約一ヶ月運天港に滞在し首里王府と交易の交渉をするが、目的を達することなく長崎に向かって去っていった。翌1847年薩摩の在番奉行が今帰仁間切にきて屋我地島と古宇利島の地形や水深などの実施検分を行っている。その目的は運天港を貿易港にして古宇利島と屋我地島を出島する準備であったという。滞在している間に二人のフランス人の乗組員がなくなっている。その二人を葬った墓がオランダ墓と呼んでいる。
ここで長崎の「出島」について述べないが、運天港・オランダ墓、そして古宇利島と屋我地島の出島計画。それらのキーワードを通して歴史を紐解くと同時に将来に向けてどう取り組んでいく必要があるのか。長崎・オランダ、そして琉球という枠で考えさせられる。(詳細については『なきじん研究11』の運天港部分で報告)
北山監守(今帰仁按司)と今帰仁グスク
1.はじめに
北山監守(今帰仁按司)と今帰仁阿応理屋恵は16世紀初頭から17世紀前半までの「北山の歴史」を動かした人物達である。それらの人物が遺していった、あるいは遺した墓や遺品などから、歴史の一端を綴ってみることにする。ここでの北山監守は尚韶威(一世)から従憲(七世)までの今帰仁按司である。今帰仁阿応理屋恵については、具体的な代や氏名については不明な部分が多いが『具志川家家譜』や残されたオーレーウドゥン跡や阿応理屋恵の遺品、第二監守の時代の辞令書、集落移動との関わりでみていくことができる。第一監守時代(1416~1469年)の監守に尚忠と具志頭王子の時代があるが、ここでは第二監守時代の北山監守の歴史をとどることにする。
今帰仁グスクに監守が住んでいた時代は、1500年頃から1665年の一世の尚韶威から七世の従憲までである。一世の尚韶威は尚真王の三子で首里から派遣されているので首里産れで、亡くなると玉陵(西の室)に葬られている。七世の従憲は今帰仁産れで、首里に引き上げ、首里で亡くなるが今帰仁の運天の大北墓に葬られている。大北墓は1733年に今帰仁グスクの麓のウチリタマイ(玉御墓)から運天に移葬したようなので、七世は当初はウツリタマイに葬られていたことになる。
それから一世から七世まで、北山監守を勤めた一族がどのような痕跡を残していったのであろうか。その痕跡から歴史をひも解いていくことを目的とする。
もう一方、北山監守の一族とみていい今帰仁阿応理屋恵、三十三君の一人なので首里王府の重要な祭祀をつかさどった神人である。今帰仁阿応理屋恵の動きから、集落移動や阿応理屋恵の祭祀と今帰仁ノロの祭祀が重なっている部分とそうでない部分も読み取ることができどうである。
2.北山監守(今帰仁按司)
北山監守とは今帰仁グスクで監守を勤めた按司のことで、第二監守時代の尚韶威から七世の従憲までの按司をさしている。北山監守を勤めた按司達がどのような痕跡を残しているのか。それらの資料を確認してみる。
一世の尚韶威は尚真王の第三子である。韶威については『具志川家家譜』に記され、今帰仁王子と称し、真武体金(童名)、朝典(名乗)、宗仁(号)で、母の名や生れは伝わっていない。韶威は嘉靖年間(1522~66年)に亡くなり西の玉御殿に葬られている。玉陵の碑に「みやきせんあんしまもたいかね」(今帰仁按司真武体金)とあり、玉陵に葬られている石棺がある。
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二世の今帰仁按司(王子)介昭は隆慶年間(1567~72年)に亡くなっている。『具志川家家譜』に思二郎金(童名)、朝殊(名乗)、宗義(号)である。嘉靖年間に尚韶威を継いで今帰仁間切惣地頭職になっている。四男の和禮が今帰る仁間切平敷村平敷親雲上の娘思加那を娶り、介紹の娘が宇志掛按司(童名:松比樽)の神職となり孟氏名今帰仁親方宗春の妻となる。今帰仁に残した痕跡は、大北墓の「宗仁公嫡子、御一人若○○カリヒタル金」は二世と見られるが「思二郎金」をそう判読したのかもしれない。住居は今帰仁グスク内である。
三世は和賢である。『具志川家家譜』に眞武躰(童名)、朝敦(名乗)、宗眞(号)とある。嘉靖36年(1577)に産まれ万暦19年(1591)に亡くなっている。三世は運天の大北墓ではなく今泊の津江口墓に葬られている。その理由は津屋口墓の「墳墓記」の碑文に読み取ることができそうである。
当初から津屋口墓に葬られている。津屋口墓は今帰仁村今泊にあるが、北山監守(三世和賢)の墓である。運天の大北墓に入れず、親泊の津屋口原に墓をつくり葬っている。墓の庭に「墳墓記」(1678年)が建立されている。その墓を扱うのは今帰仁グスクに住んでいた北山監守(今帰仁按司)一族と麓に移った集落、それと監守一族が移りすんだ集落内の二つのウドゥン(御殿)跡との関係を知る手掛かりとなりそうである。
まだ、十分把握しているわけではないが、系図座への家譜の提出の際、先祖の履歴を整理していると、先祖の墓が粗末にされていたり崩壊したりしており、家譜の編集と墓の修復と無縁ではなさそうである。
三世和賢は万暦19年(1591)に亡くなっているので、その頃に墓は造られたであろう。「墳墓記」(碑文)から、以下のようなことが読み取れる。
・墓は修築された
・監守の引上げ(碑文では康煕丙午(1666年)
・尚真王第四(三か)王子宗仁は尚韶威のこと
・高祖今帰仁按司宗真は三世和賢のこと
・殿閣近くに墓を築く
・津屋口に葬るのは便利である
・三世和賢は万暦辛卯年(1591)に亡くなる
・葬った墓の地は津屋口である
・「墳墓記」の建立は康煕17年(1678)である
などである。
現在墓の前に香炉が一基置かれていて「奉納 大正元年壬子九月 本部村宗甫? 仲宗根門中 嘉数吉五郎 建立」と刻まれている。
▲碑の拓本 ▲三世和賢が葬られた津口墓 ▲「墳墓記」(1678年建立)
四世は今帰仁按司克順である。『具志川家家譜』によると眞満刈(童名)、朝効●(名乗)、宗心(号)である。父は和賢で母は眞牛金である。万暦8年(1580)に産れ同24年(1596)に十七歳で亡くなっている。万暦19年(1591)に父和賢を継いで今帰仁間切惣地頭職を継いでいる。在任は数年である。若くしてなくなったため子供もはいなかった。
四世克順の時の「今帰仁間切玉城の大屋子宛辞令書」(1592年)がある。
しよりの御ミ事
みやきせんまきりの
よなみねのさとぬしところ
一六かりやたに四十九ま
しよきたばる又もくろちかたばるともに
一百四十ぬきちはたけ七おほそ
やたうばる 又ひらのねばる 又はなばる
又さきばる 又なかさこばる 又おえばるともに
又よなみねの四十五ぬき
かないの大おきてともに
一人たまくすくの大屋こに
たまわり申候
しよりよりたまくすくの大やこの方へまゐる
万暦二十年十月三日
辞令書の発給の時期は四世克順の頃である。今帰仁間切の玉城の大屋子に宛てたものである。今帰仁按司や今帰仁御殿などの言葉は出てこない。大屋子という役人は、朱里王府から直接辞令を発給されていて、北山監守を経由するものではなかった。
今帰仁に残る四世の痕跡は大北墓の「宗仁公四世今帰仁按司ママカル金」のみである。家譜にある四世の童名の「眞満刈」とあるが墓調査では「ママカル金」と読んでいる。確認が必要である。
五世は今帰仁按司克祉である。『具志川家家譜』による眞市金(童名)、朝容(名乗)、宗清(号)である。万暦10(1582)に産れ同37年(1609)に二八歳で亡くなっている。克順の弟で、兄の克順が十七歳で亡くなったので、その後を万暦24年(1596)に今帰仁間切総地頭職を継いでいる。次男の縄武は中宗根親雲上の娘で阿応理屋恵(今帰仁)である。
五世克祉今帰仁按司童名真市金、名乗朝容、号宗清である。万暦10年(1609)3月28日に二八歳でなくなる(薩摩軍の今帰仁入りの時)。その長男縄祖の位牌が阿応理屋恵(オーレーウドゥン)にあるので、克祉の位牌の可能性もある。それまた、縄祖の次男同様克祉の次男縄武も中宗根親雲上の女(娘)の童名真比樽(阿応理屋恵按司)を娶っている。
他の位牌が置かれる事例を合わせみながらみていく必要がありそうだ。ここでは触れないが、大北墓の五世、六世、それと四名のアオリヤエとの関係も言及できそう。
「今帰仁間切辺名地の目差職叙任辞令書」(1604年)がある。五世和賢の時代である。和賢が今帰仁グスクに居住していた頃である。
しよりの御ミ事
みやきせんまぎりの
へなちのめさしハ
ミやきせんのあんじの御まへ
一人うしのへばんのあくかへのさちに
たまわり申候
しよりよりうしのへはんのあくかへのさちの方へまいる
(首里王府から、今帰仁間切の辺名地の目指を、今帰仁按司の部下である丑の日番の赤頭のサチに
賜るよう申し上げる。首里(王府)から丑の日番の赤頭のサチに差し上げる)
今帰仁間切は「ミやきせんまきり」と言われ、「へなち」は辺名地であるが、まだ村が使われていないことに注意すべきである。村は近世以降の行政単位だということがわかる。「みやきせんあんしの御まへ」(今帰仁按司の御前)ということは今帰仁グスクに住む按司の御前ということになる。「うしのへはんのあくかへ」(丑の日番の赤頭へ)であるが、今帰仁グスクへ勤める三番制度(三交替制)があり赤頭の役職があったことが伺える。
大北墓の銘に五世が見られないが、「今帰仁按司御一人御名相不知」があり、五世の可能性がある。ただし、薩摩の琉球侵攻で今帰仁グスクが攻められた時の監守なので尚寧王が玉陵に入らなかった例もあるので、大北墓に葬られていない可能性もある。大北墓はグスクの麓のウツリタマイ(按司墓)から十世宣謨の時、運天に移葬しているので、そのことも念頭に入れておく必要がある。
六世は今帰仁按司縄祖である。『具志川家家譜』によると鶴松金(童名)、朝経(名乗)、瑞峯(号)である。万暦29年(1601)に産れ順治15年(1658)に五八歳で亡くなる。父克祉の後の惣地頭職を継いだのは1609年で八歳の時である。縄祖の次男従宣は孟氏伊野波(本部間切伊野波村居住)の娘を娶り阿応理屋恵按司(童名思武眞金)である。
「今帰仁間切謝花掟職叙任辞令書」(1612年)がある。
しよりの御ミ事
ミやきせんまきりの
ちやはなのおきての
ミのへはんの□□
くたされ候
万暦四十年十二月□日
(首里からの詔 今帰仁間切の謝花の掟である巳の番の誰それに差し上げなさい)
この辞令書が発行された1612年は、薩摩軍の今帰仁城侵攻から三年後のことである。北山監守(六世の今帰仁按司)はまだグスク内に住んでいたのであろう。五世克祉の時代にあった三番制度が、まだ引き継がれている。謝花の掟が三番制度の巳の当番でグスクに出仕していた様子が伺える。
六世縄祖(惣地頭職1609~53年)の時の辞令書がもう一点ある。七世と惣地頭職を引き継いだのは順治13年の2月である。辞令書は同年正月20日なので六世縄祖の時の「今帰仁間切与那嶺の大屋子職叙任辞令書」(1643年)の辞令書である。
六世縄祖今帰仁按司の童名は鶴松金、名乗は朝經、号は瑞峯である。万暦29年(1601)に生まれ順治15年(1658)6月29日に亡くなる。五八歳である。縄祖の父は克祉(五世:薩摩の琉球侵攻のとき死亡)、母は向氏の真鍋樽、室(妻)は向氏宇志掛按司。(勛庸や妥地、俸禄などがあるが略)婚嫁のところで次男従宣は孟氏伊野波(本部間切伊野波村居住)の女阿応理屋恵按司(童名思武太金)を娶っている。
首里の御ミこと
今帰仁間切の
よなみねの大屋こ
一人今帰仁おどんの
ももなみの大屋こに
たまわり申[候か]
崇禎十六年十月三日
ここで注目するのは「今帰仁おどん」である。それからすると今帰仁グスクから城下に移り住み、そこが今帰仁御殿と見られる。いつ城下に移ったのかの年代は不明であるが、ここでいう「今帰仁おどん」(今帰仁御殿)は、今でいうオーレーウドゥンと見られる。
今泊の集落内に二つの御殿跡がある。一つは按司(監守)の御殿、もう一つは今帰仁阿応理屋恵の御殿である。今のオーレーウドゥン跡地が按司(監守)の殿内(今帰仁村地内)で、馬場の東側の角のウドゥン敷地跡(親泊村地内)が今帰仁阿応理屋恵の殿内と想定している。移動した後の阿応理屋恵按司火神は『琉球国由来記』(1713年)によると親泊村地内にある。それと「今帰仁里主所火神」が按司家の火神で今帰仁村地内にある。そこには六世縄祖の位牌がある。現在のオーレーウドゥン(阿応理屋恵御殿)は、もともと按司御殿で、後に親泊馬場の東側角のウドゥン跡がオーレウドゥンで、阿応理屋恵が按司御殿内に嫁いだので、そこに統合されたのではないか。
七世は今帰仁按司従憲である。『具志川家家譜』に思五良(童名)、朝幸(名乗)、北源(号)とある。天啓7年(1627)に産れ康煕26年(1687)に六一歳で亡くなる。七世のとき、北山監守(今帰仁按司)は康煕4年(1665)に首里赤平村に移り住むことが許された。その年は1665年である。その翌年(1666)に今帰仁間切を二つ分割し、今帰仁間切と伊野波間切(翌年本部間切と改称)。今帰仁間切惣地頭職になったのは順治11年(1653)である。その時の俸禄は五六石、間切分割の時か不明だが知行減少の時四十石となる。
従憲は康煕26年(1687)に首里で亡くなるが、故郷の運天の大北墓に葬られている。ただし、従憲がなくなった頃の墓は運天の大北墓ではなく今帰仁グスク麓にあったウツリタマヒ(玉御墓)である。十世宣謨の時、雍正11年(1733)に運天の大北墓に移葬したようである。大北墓に「宗仁公七世今帰仁按司」とある。
山北王怕尼芝が進貢を開始した洪武16年(1383)から攀安知王の最後の進貢永楽13年1415)までの32年間までの三山の交易の回数を『明実録』によると、中山が52回、山南が26回、そして山北は17回である(小葉田淳『中世南島通交貿易史の研究』)。山北17回のうち怕尼芝王が5回、珉王が1回、攀安知王が11回である。北山だけで渡航した進貢は五回である。山北の多くは中山と同じ年に渡航している。進貢が同時期なのは明国の国情によるのであろうが、山北は十二月から四月にかけてである。当時の状況を『明史』に「北山は最も弱く、これ故朝貢もまた最も稀」だと記してある。北京に遷都したのは永楽19年(1390)なので、それまでの目的地は南京である。
冊封関係を持つ山北王は怕尼芝・珉・攀安知と続くが、怕尼芝についての出自と珉との関係は全くわからない。『中山世譜』と『球陽』(洪武二九年条)に「山北王珉薨じ、其の子攀安知嗣辰し、封を朝に受け、以て遣使入貢に便す」とあり、珉と攀安知とは親子関係にある。
もちろん山北王は、他の二山同様中国皇帝による王の地位を認めてもらう冊封と貢物を献上し忠誠を示し、それに対して冠帯や衣服、紗・文綺・襲衣などを賜ることを最大の目的としている。それと同時に、各地のグスクから出土している中国製の陶磁器類を輸入する貿易関係の確立でもあった。今帰仁グスクの麓にトーシンダー(唐船田)やトーシングムイ(唐船小堀)などの地名がり、明国と交易した名残なのだろうか。
冊封体制の確立は、明国との主従関係もあるが、山北内部での支配関係を明確にするものである。山北王の冊封は山北のクニ的儀礼であり、貢物の硫黄や馬や方物を準備するのに各地の按司(世の主)を統括する必要がある。山北王は冊封や朝貢の名で国頭・羽地・名護・金武などの按司を支配関係に置き、山原全域を統治していく役割を果たしたとみてよさそうである。
具体的な貢物に馬と硫黄鳥島で採掘した硫黄がある。その他に方物がある。その中身について具体的に記されていないが夏布(芭蕉布?)もその一つである。貢物とは別に貿易品の調達もあり、その取引で移入されたのが各グスクから出土する陶磁器類であろう。
今帰仁グスクの基壇と翼廊のある正殿の建物で、山北王が明国から賜った冠服をまとい衣冠制度による身分を示す衣服をまとった各地のグスクの按司達が儀式に参列している風景は、まさにクニの体裁が整い、身分制度による支配形態が髣髴する。
怕尼芝から開始した冊封も、永楽13年(1416)攀安知王で終わりを告げた。『明実録』で三名の王の出現があり、三名の中では冊封の回数が多いのが攀安知王である。しかし中山や南山と比較すると少ない。そのことが国頭・羽地・名護などの按司が中山に組みした理由の一つであろう。北山王を中心としてクニの形をなしているものの、内部では内紛の兆しがあった。
さて、山原の五つのグスク関係について『明実録』で全く触れられていないし、それと琉球側の『中山世譜』や『球陽』などの文献でもそうである。そのため、グスクの立地や発掘あるいは表採されたグスク系土器や中国製の陶磁器などの遺物や堀切、現在見えるグスク内の祭祀と関わる御嶽やカー、神アサギなどを手がかりにみていく方法しかない。
伝承の域をでることはないが、例えば根謝銘グスクは北山系の人々が根謝銘グスクを頼りに逃げ延びていった。親川グスクは、羽地地域を統括した按司の居城であったが、築城途中でやめて今帰仁グスクへ移った。名護グスクは中北山の時代、今帰仁世の主の次男が派遣され築城。名護按司を名乗るようになり、代々名護按司の居城だと伝えられる。
北山滅亡後に山原各地のグスクが機能を失ったわけではない。今帰仁グスクは首里から派遣された今帰仁按司が代々監守をつとめ一六六五年まで続く。ところが尚真王が各地の按司を首里に集居させたため按司地頭や火神を残すのみとなった。その名残が『琉球国由来記』(1713年)のグスクでの祭祀に按司や惣地頭が首里から来て祭祀へ参加する姿である。
山原の各グスク間の関わりは、文献史料をはじめ発掘された遺構や遺物などの成果を持っても、いい伝えら伝承の域をでていない。グスクとグスクとの関係についての研究を深めていく必要がある。
『明実録』に山北王が記されるのは洪武16年(1383)からである。洪武16年の頃、『明実録』に「山王雄長を争いて」とか「琉球の三王互いに争い」とあり、琉球国は三王(山北・中山・南山)が争っていた様子が伺える。三山鼎立時代といわれる所以はそこにあるのであろう。
『明実録』に登場する山北王は、怕尼芝、珉、攀安知の三王である。明国と冊封された時期、琉球国は三山が鼎立しており、すでに山北王怕尼芝の存在が確認される。それ以前から山北王は当然いたであろう。
山北王怕尼芝は洪武16年(1385)に「駱駝鍍金銀印」を賜っている。掴みところが駱駝(ラクダ)の形の鍍金(メッキ)をした銀の印を賜っている。「山北王之印」あるいは「琉球国山北王之印」とでも彫られていたのであろうか。「山北王之印」の印を賜わり、その印でもって政治を掌ることは何を意味しているのか。それは国(クニ)の体裁を整えようとしたのか、あるいは整えていた可能性がある。
それと、山北王怕尼芝は衣一襲(一揃いの衣装)・文綺(模様を織り出した絹)・衣服など布や衣装を賜っている。身にまとうものであるが、儀式に衣服をまとって出席するのであるから、そこから当時身分制度が確立していたと見られる。「鈔」は紙幣のようである。紙幣を賜ったことは何を意味しているのだろうか。後に銀が実質的な貨幣になったようである。
中山王や山南王は、明国に胡椒・蘇木・乳香など東南アジアの品々が散見できる。山北王の貢物に胡椒や蘇木などの品々一回も出てこない。また、中山王と南山王に海舟をそれぞれに賜っているが、山北にはあたえていない。すると、山北は東南アジアに出かけての中継貿易の役割は担っていなかった可能性がある。山北王の明国への貢物は、馬と硫黄と方物のみである。そこに三山の違い(力の差)が反映していそうである。勿論、交易の回数においても。
『明実録』では山北王に海舟を賜ったことは記されていないが、『球陽』の察度36年(1385)の条をみると、山南王山北王に海船を一隻賜っている。
攀安知の時代になると「冠帯」や「衣服」などを賜っている。また「国俗を変ずる」とあり、中国風にすることを自ら願っている。そこらは、『球陽』の記事は『明実録』をベースにしているようなので中国と琉球の両方から見る必要がある。
(『明実録』の記事を読み込んでいると、北山王の時代が少しではあるが見え隠れしてくる)


1.北山王時代以前
・北山(山原)域のグスク
・源為朝公の渡来と運天
・北山の興亡(中北山)
・「おもろ」に見るみやきせん(今帰仁)
2.北山王時代(三王~1416年)
・『明実録』に見る山北(北山)(怕尼芝・珉・攀安知)
(北山の明国との交易)
・与論島・沖永良部島へ次男、三男を派遣。
・北山王の居城(今帰仁グスク)
3.第一監守時代(1417~1469年)
・監守を務めた尚忠と具志頭王子
・北山王と百按司墓
・監守を輪番で置く
4.第二監守時代(前期:1470~1609年)
・要津運天港と郡島(『海東諸国紀』)
・監守を務めた今帰仁按司(尚紹威・・・・)
・北山の祭祀を掌った今帰仁阿応理屋恵
・古琉球の辞令書からみた今帰仁間切
・監守(今帰仁按司)グスク内で
・「ミやきせんまぎり」の辞令書
・薩摩軍の琉球進攻と今帰仁グスク
5.第二監守時代(後期:1610~1665年)
・監守を務めた今帰仁按司(縄祖・従憲)
・北山監守が果たした役割
・山原の間切と同(主)村と番所
・山原の宿道(スクミチ)
・唐船の漂着と運天港
・フランス艦船の来航と運天港
6.間切時代(前期:1666~明治12年)
・今帰仁間切の分割と伊野波(本部)間切の創設
・1665年北山監守(今帰仁按司)七世従憲のとき首里赤平村へ引揚。
・今帰仁間切番所を運天に置く。本部間切番所を渡久地村に置く。
・久志間切・恩納間切・大宜味間切の創設
・首里に住む今帰仁按司(洪徳・鳳彩・宣謨・弘猷・鴻基・維藩)
・運天番所に務める間切役人
・元文検地と印部石(原石)
・山北今帰仁城監守来歴碑記にみる歴史観
・十世宣謨が遺したもの
・大北墓(按司墓)の運天への移転
・クニレベルのウタキ(クボウヌウタキ・アスムイ) ・
【七代官制】
①首里代官……真和志・南風原・西原の三間切を掌る
②東代官………大里・佐敷・知念・玉城の間切を掌る
③島尻代官……具志頭・東風平・摩文仁・喜屋武・真壁・高嶺・豊見城の間切を掌る
④浦添代官……浦添・中城・北谷の三間切を掌る
⑤越来代官……越来・読谷山・具志川・勝連の間切を掌る
⑥今帰仁代官…金武・名護・羽地・今帰仁・国頭の間切を掌る
⑦久米代官……久米・慶良間・粟国・渡名喜など島を掌る
七代官制の起源について定かでないが、四代官制(1660年)になる前の制度である。『南島風土記』(東恩納寛惇)は「代官と言う名目は、鎌倉時代に守護代の事であるから、これに倣ったものであろう。」という。17世紀中ごろ創設された間切がないのは当然である。首里代官の下にある真和志・南風原・西原の三間切に同村がないのは、首里王府直轄地とされると同時に、間切規模の領域をまとめたグスクがあったにしろ、西原と南風原の両間切は首里王府からの位置で名付けられた間切名となっている。
【四代官制】(順治17~雍正7年:1660~1729年)
①島尻代官……真和志・南風原・大里・知念・玉城・東風平・具志頭・真壁・兼城・喜屋武
・高嶺・小禄・豊見城・摩文仁・佐敷など十五間切を管轄する
②中頭代官……西原・浦添・宜野湾・中城・北谷・読谷山・越来・美里・具志川・勝連・
与那城など十一間切を管轄する
③国頭代官……恩納・名護・本部・今帰仁・羽地・大宜味・国頭・金武・久志・伊江・
伊平屋など十四間切を管轄する
④久米代官…久米・慶良間・粟国・渡名喜など四島を管轄する
四代官制にしたのは『琉球国旧記』(1731年)にあり、万治三年(1660)であるが、1731年以前に新設された間切名も記されている。『南島風土記』(東恩納寛惇)は「七代官制を改めて四代官制とし、首里三平等・国頭方・中頭方・中頭方・島尻方の管区名も亦この時に設定されたもののようである」と記してある。
・今帰仁阿応理屋恵の廃止と復活
・『琉球国由来記』に見る村とウタキと神アサギ
・間切公事帳の今帰仁間切
7.間切時代(後期:明治13~明治41年)
・廃藩置県後の今帰仁間切
・郡区制度(明治26年)
・地頭代→間切長(明治30年)
・明治5年琉球藩となる
・廃藩置県(明治12年)
8.村町政時代(戦前:明治42~昭和20年)
・間切→村(ソン) 村(ムラ)→字(アザ)
・番所(役場)の移転(運天→仲宗根)
・間切長→村長
9.市町村政時代(戦後:昭和21~現在)
10.各字(村)の近世の変遷
今帰仁の歴史年表