沖縄の地域調査研究

寡黙庵:(管理人:仲原)   寡黙庵:今帰仁村歴史文化センター

 
nakatetu0213@outlook.jp
メール
                        もくじ:トップページ
          
                   
2021年11先月  
                          
2017年4月  ・2017年5月 2017年6月 2017年7月 2017年8月 2017年9月
2017年10月 2017年11月 2017年12月
2018年1月 2018年2月 ・2018年3月 2018年4月 2018年5月 2018年6月
2018年7月 2018年8月 2018年9月 2018年10月 2018年11月 2018年12月
2019年1月 2019年2月 2019年3月 2019年4月 2019年5月 2019年6月
2019年7月2019年8月 2019年9月 2019年10月 2019 年11月 2019年12月
2020年1月 2020年2月 2020年3月 2020年4月
2021年2月 2021年3月 2021年6月へ 2021年7月へ
・2019年ムラ・シマ講座

・勝連半島のムラ・シマ
・国頭間切の二枚の辞令書
・山原のシニグと猪狩と「流れ」の所作 
シニグと山原文化圏  ・徳之島と琉球  ・ノロ制度の終焉 ・奄美のノロ制度
安田のシニグ(2001年調査)  ・与論島へ

2021年11月30日(火)

 与論島にシゴーの中棚がある。城集落にシゴー、シゴーぬパンタ、シゴーぬ中棚、ハミゴーがある。グスクサークラとホーチサークラのシニグとハミゴーとシゴーの中棚とどう関わっているのか。今回の大きな目的は中棚の墓がどう関わっているか。「歌でシゴーの中棚」と謡われている。シゴーの高台やハミゴーの洞窟などに集まって三味線や太鼓、御馳走を持ち寄って歌は直会(なおらい)をしていたという。

  (工事中)


  


2021年11月29日(月

・2008年7月15日(火)過去メモ
  
 14日に今帰仁村今泊の津屋口墓、平敷のウタキ(御嶽)、名護市の振慶名(移動村)、我祖河、そして屋我地島の饒平名、我部(移動村)などのウタキを踏査する。いずれも別のテーマで足を運んでいるが、やはり講演や報告が近付いてくると、現場まで行かないと、自分自身が納得できないこと、それと説得力をもった報告ができないため、近づいてくると現場確認を含めて足を運んでいる。

津屋口墓】(今帰仁村今泊)
 
津屋口墓は今帰仁村今泊にあるが、北山監守(三世和賢)の墓である。運天の大北墓に入れず、親泊の津屋口原に墓をつくり葬っている。墓の庭に「墳墓記」(1678年)が建立されている。その墓を扱うのは今帰仁グスクに住んでいた北山監守(今帰仁按司)一族と麓に移った集落、それと監守一族が移りすんだ集落内の二つのウドゥン(御殿)跡との関係を知る手掛かりとなりそうである。

 まだ、十分確認しているわけではないが、系図座への家譜の提出の際、先祖の履歴を整理していると、先祖の墓が粗末にされていたり崩壊したりしており、家譜の編集と墓の修復と無縁ではなさそうでる.


 三世和賢は嘉靖36年(1557)に産まれ万暦19年(1591)に亡くなっているので、その頃に墓は造られたであろう。「墳墓記」(碑文)から、
  ・墓の修築
  ・監守の引き上げ(碑文では、康煕丙午(1666年)となっている)
  ・尚真王第四(三か)王子宗仁は尚韶威のこと
  ・高祖今帰仁按司宗真は三世和賢のこと
  ・殿閣近くに墓を築く
  ・津屋口に葬るのは便利であること
  ・三世和賢は万暦辛卯(1591)に亡くなる
 
 ・葬った墓の地は津屋口
  ・「墳墓記」の建立は康煕17年(1678年)
など、いくらか読み取ることができる(詳細については別に報告)。

 現在墓の前に香炉が一基置かれていて「奉納 大正元年壬子九月 本部村宗甫? 仲宗根門中 嘉数吉五郎 建立」と刻まれている。

 
  ▲碑の拓本      ▲三世和賢が葬られた津口墓       ▲「墳墓記」(1678年建立)

 
   
▲大正元年奉納の香炉   ▲墓口のない墓(アカン墓)

【平敷の御嶽(ウタキ)】006(今帰仁村)

 今帰仁村平敷にある拝所のある杜はタキ(ウタキのこと)と呼ばれる。ウタキは平敷の現在の集落の北側に位置し、杜の中に散在してあった拝所を杜の中に集めている。杜周辺からグスク土器や青磁器などの遺物が散在している。かつての集落はウタキの南側に展開していた様子がうかがえる。ウタキの中にイビがある。そのイビに四基の古い石の香炉が置かれている。その内の二基に「奉寄進」と刻まれている。その一つに「道光二拾五年乙已上国之時 奉寄進 平敷村 嶋袋仁屋」と刻まれている。道光25年の上国した人物に今帰仁里主親雲上がある。同行していった一人ではなかったか。


2021年11月28日(

 名護市の東海岸から東村川田へ、そこから大宜味村田港のノロ殿内まで。
 まずは久志間切番所が置かれた瀬嵩(康煕36:1687年)、公民館と裏手の福木の大木、瀬嵩 に久志間切番所が置かれた直後(1687年)に植えられた福木なら約330年ということになるか。根神家が作り替えられている。

 嘉陽グスクには上ることができず、過去の画像で。東村有銘へ。神アサギと隣の拝所が改築されている。ノロ火神のに鏡と瓶子の底部分?の一部が出てきたという(画像)。東村「森と水の博物館」で見せてもらう。

 それと東村川田に「ヲ之印 よろんはま原」、ユンヌと呼ばれる印部石があることを与論島で紹介。「中北山」が滅んだ時に離散した人物のものとされる墓がありその確認。「中北山」が滅ぼされると、ハ二ジが北山王となり、次男(ハ二ジの弟)を沖永良部島へ、三男(ハ二ジの弟)を与論島へ遣わせたという。(ハ二ジの次男、三男とする見解がある)

 名護市史の原稿執筆のため、東海岸の大川→瀬嵩→嘉陽→汀間→安部→嘉陽→東村有銘・川田へ。

 久志地区のムラ・シマ(10年前と大分変わっています)

【移動集落とグスクとウタキ】―旧久志村嘉陽―2010(平成22)2月9日(火)メモ

 名護市(旧久志村)嘉陽は沖縄本島の東海岸に位置します。集落の北東側にある杜がウイグスク(ウタキ)です。丘陵地のウイグスクから集落は移動した伝承を持っています。ウイグスクから集落は移動したが旧暦9月20日のハツカミンナディには、そこに村人が集まりウガンをします。ウイグスクは木の伐採が禁じられ左縄が張り巡らされ御嶽(ウタキ)の認識があります。

 『琉球国由来記』(1713年)の頃、嘉陽村に嘉陽城嶽(神名:アカウヅカサノ御イベ)と浜板敷嶽(神名:ソノイタジキノ御イベ)の二つの御嶽があります。嘉陽城嶽の記載はグスクが御嶽を同一視しているのかもしれません。『沖縄島諸祭神祝女類別表』(明治15年頃)にも嘉陽村には城御嶽と浜御嶽の二カ所があり、現在のウイグスク(ウタキ)とパマイタラシキに相当します。

 グスク(ウタキ)から集落が移動するが、そのままグスク(ウタキ)を遺し、祭祀を行っている例です。そして神アサギが杜(グスク・ウタキ)内にあったが、台風で崩壊し再建されていません。杜(グスク)内に神アサギがあることは名護グスク・親川グスク・根謝銘グスク・今帰仁グスクと同様な位置づけができそうです。集落移動前の形に戻すと、杜(グスク・ウタキ)そのもの中に集落があり、神アサギがあり、そしてイビがあるということでしょうか。

 グスクやウタキは祭祀と切り離すことができないということ。祭祀が「神遊び」と言われているように、ムラの人々の神行事に名付けた休日と位置づけることができます。そしてノロをはじめとした神人は、ムラのための祭祀を執り行っています、つまり公務員としての位置づけができます。集落が移動しても、あるいは合併してもノロ管轄や神人の制度が消えることがなかった。それは琉球国の制度のもとで祭祀は国のシステムを担い、神人が神行事を公務として担っている位置づけが必要です。 時々、祭祀は公務である。あるいはノロをはじめ神人は公務員だという言い方をします。

 それは、例えば明治政府は明治13年調査に聞得大君加那志や首里大阿むしられ、真壁大阿むしられ、儀輔大阿むしられ、阿応理恵按司など祭祀を司るノロの「神職禄高役俸調」を行なっています。また各間切などの「のろくもい役奉」調査があります。首里王府から発給された「辞令書」などがあるからです。

 「嘉陽のろこもい」の作得表高は
         米 壱石四斗五升五合五勺六才
         現収高 米五斗五升八合三勺四才
            外 米九斗壱升七合弐勺弐才 減 
とあります。「辞令書」があったかどうかは不明。 

 以下の画像は2010年2月撮影したもの。 

      



▲嘉陽の集落付近から眺めた嘉陽城嶽(ウイグスク) ▲ウイグスクへの階段道

 

▲ウイグスクの中腹あたりの道              ▲頂上部のテラス入口の鳥居

  
▲火の神を祭った祠   ▲神殿内の香炉と火神  ▲頂上部にある神殿や建立記念碑


 

※和鏡(柄鏡)一つに「藤原重茂」とある。江戸時代か。


2021年11月27日(

 過去の記録を掘り起こしてみると、その時々、私にとっていろいろな発見をしている。身に沁みついたものの見方や思考であることに気づかされている。以下のように無意識のうちの参与観察記録もある。中国や台湾、韓国などもあるが、報告したことがないような。

2001.9.26(水)過去メモ

 今日は旧暦8月10日、城ウイミ(ウフウイミともいう)が今帰仁城跡の神ハサギ跡で行われました。今帰仁ノロ、新里から見えた神人、区長、書記さんなどが参加しています。歴史文化センターからうし丸さん、広島からきた富田さん、そして館長(仲原)が参加。今帰仁グスク内の神ハサギ跡にある石の香炉の前に勾玉と簪を納めた黒い木箱が二つ。神人は香炉・勾玉と簪に向かって御願をしています。(本来、ノロは勾玉を首からかけ、簪を挿したのであろうが、代理ノロのため持参して置くだけ)。

 本日の祭祀の場は城内の神ハサギ跡のみです。1960年代まで字のブーで茅でハギ屋がつくられたようです。花米・御合水(神酒)・お重・線香が供えられています。「ムラの繁盛、子孫繁栄、世果報」を祈願しているといいます。11日は島ウイミ、ヨーカビーです。


2001.9.18(火)過去メモ

 14日学芸員実習が終わり、焼き鳥屋で職員ともどもお茶で乾杯。焼き鳥(つくね・鳥革・ササミ・キムチなどもりたくさん)が印象深く残った実習だったかもしれないね。しかし、焼き鳥の美味しかったことを忘れさすような出来事が起きた。15日午前9時頃今帰仁を立つことになっていたのが、急きょ午前6時出発となったのである。広島の二人は、午前6時出発とあって隣近所のおばあさん達にお礼の挨拶もなしでの退去となった。館長が明日事情とお礼を言っておきますから。食い逃げではないと.....。5人の実習生が立ち去り静かになった館(歴史文化センター)、静かさの実感を味わうことなく館長(当時)は大阪へ出張。

 今回の関西行きの目的は1975年に撮影された「神人」(今帰仁村今泊)の16ミリ映画の映写会とそのフィルムの伝達式(受け取り)に出席するためであった。大阪に住んでおられる沖縄の方々が25年前の映画をどうみるのか、そして25年の歳月の一人ひとりのどのように生きてきたのか。そのことを確かめること。そのフィルムを保存し、活用していくことの責任が肩にのしかかってくる(詳細については「沖縄タイムス2001年9月16日朝刊参照)。

 他にもう一つ目的があった。それは琵琶湖畔の西湖をいくことにあった。京都で学芸員をしている玉城さんが、一帯の情報をつぶさに調べてくださった。さらに『古代近江の朝鮮』の本を下さった。助かりました。感謝。

 お勧めの石塔までいくことはできませんでしたが、湖西線を西大津・坂本・雄琴・小野・和邇・蓬莱などの駅名を追いかけながら様々な想いを巡らすことができた。

 司馬遼太郎の「街道をゆく」のスタートの地であることは知っていたが、国家が成立する以前と以後のことを近江のこの地に重ねあわせながら琉球のことを考えていた。琵琶湖の湖畔に立ち、渡来者のこと、職能集団のことなどについて考えていた。琉球への渡来者(琉球語を言語を持った)、時代はもっと新しいく13、4世紀の中国からの久米村の人々)のこと。先島に漂着した朝鮮人が見た当時の様子)。それにしてもいい旅でした。


2021年11月26日(金)

 名護市汀間と与論島で「うふあがりじま」が話題になった。「それは大東島のことではないですか?」と答えておいた。2002年10月に南大東島を訪れている。(文章はそのまま) もう訪れることのない島。19年前のことを思い出してみる。

 2020年2月イタリア、スペインを訪れている(二週間)。メモは遺していず、画像のみ。帰国直後、新型コロナが発生。その後、どこも行けず、おさまったので沖永良部島、与論島へ。今度は、軽石の襲来。


▲ドハからローマへの機内で


南大東島行き 2002.10.23(水)メモ

  2002年10月24日から26日まで南大東島です。

 今晩は「渡喜仁」の字誌の検討会がある。1945年から67年までの議事録に目を通してみる。明日から南大東島へ。その準備もあり。今日は体力をセーブしないと・・・。午前中は大丈夫そうだ。

 昨日は頭痛と吐き気でダウン状態。どうにか持ちそうだ。これから、もう一つ頭をめぐらさなければならない字誌がある。2時間ばかりの講座なのだ。前回は資料を準備して出張したのにお流れにしたようだ。一服できると思っていたのに。

 明日の南大東島行き大丈夫だろうか。数名の回数券チケット何故か私の方に送られてきているじゃないか。信用あってのことだろうと思うのだが。来月、マットウバかどうか人間ドッグで頭の検査をすること知らないのだね。また、一番遠いのだ空港まで。地域史の皆さん。朝5時に自宅を出ないと行けないな。言いたいこと書きましたので忘れないでしょう。早く片付け、徹夜なしにしましょうかね。

 南大東島。はじめての島。あれみっけ。それみっけの島だろうか。八丈島?と沖縄のチャンポン文化だろうか。どん顔をした人たちが住んでいるのだろうか。大東島を見ることで足元の歴史文化を見ていくキーワードを見つけることができるだろうか。楽しみじゃ。先日行った黒島が沖縄のアイルランドと言葉を発したが、大東島はどうだろうか。

 確か明治25年は那覇港を出港した大有丸は天候が悪く運天港に停泊して大東島に出港した記事があった。玉置時代と言われる八丈島出身の人物の登場がある。島の歴史はなかなか興味深いものがある。どんな歴史を歩んできたのかは、明日からの研修で学ぶこと多いであろう。島の人たちの顔、どんな表情を見せてくれるのか。いい旅したいもんだ。

ウフアガリジマ(大東島) 2002.10.27(日)

 昨日南大東島から帰ってきた。ウフアガリジマと呼ばれるように沖縄本島の東に浮かぶ大きな島という意味のようだ。今はダイトウジマと読んでいる。ウフアガリジマと呼ばれるように沖縄本島から東の太平洋上に大きな島があるという認識が読み取れる。通りすがりや漂着した人たちが立ち寄った形跡はあるようだが、沖縄貝塚時代(縄文・弥生期)やグスク時代、そして近世に至って人々が長期に渡って居住した痕跡は確認されていないようだ。

 南大東島の北港から北方に北大東島を見ることができる。案内してくれた教育委員会の宮城さんは「あの島に姉が嫁いでいるのですよ・・・。目の前にみえますがね。ボートで渡れるのですが、先が見えず波が天井から落ちてくる感じですよ」と。島には自然の入江がなく、南の亀池港や西港などの港は人工的に陸側に入江を切り込んでつくってある。漁から入江の港に帰ってきたボートは、すぐクレーンで陸に吊り上げている姿を見た。島の周辺の海岸や港を一周していると、荒波や切り立った海岸が人を寄せ付けてこなかった歴史の一面が伺える。

大陸的な穏やかな島? 2002.10.28(月)

    午後から南海日日新聞の取材(富川記者)。

..
   ▲海岸はいつも荒波だそうだ!      ▲直接外洋と接した港。接岸できません


 切り立った断崖と押し寄せる荒波が人を寄せつけない環境であるが、島の内陸部は盆地状で幕(ハグ)と呼ばれる二重・三重にめぐらされた防潮風林が続き、そしていくつかの池があり大陸的な穏やかな島に一転する。


          
 ▲内陸部にある池の一つ大池
..
 ▲ほとんどが大規模なサトウキビ畑    ▲落ち着きをみせる石積みの建物


2021年11月25日(木)

 南米は訪れたことがない。一生で一度もいくことはない大陸であろう。20時間余の飛行機の旅は体力的に、気力でも無理である。南米の空気は、ほんの少し、かいだことがある。ワシントンDCからニューヨークへ、そこからフロリダへ。その時、ハリケーンにあい空港に足止めにあったことがある。フロリダ経由南米への飛行機だったと思う。機内には南米の大型の人々で混んでいた。機内での食事のとり方に圧倒され、びっくり。生野菜をはさんだビッグのサンドウッチにコーラ。食べっぷりに仰天。

 そんなことは余談、「移民編」の原稿整理に入る。まずはアルゼンチンから。行ったことのない国への移民について、覚悟してかかることに。未知の国への机上の旅と歴史。楽しいものだ!


― 今帰仁村の移民と兼次の移民―

 今帰仁村の移民については、明治41年・大正5年・昭和10年の海外在留者数が知れるのみで、年次別移民数等については、資料収集から。ちなみに明治41年では、79人、大正5年では、104人である。この10年間でわずか25人の増加にすぎない。

 ところが、昭和10年になると、大正5年の約12倍の1252人と大幅に増加している。一般に移民は3~5年働いて、蓄財ができると帰国することが前提とされていたから、昭和10年までに送り出された実数は、在留者を幾分上回ると考えていいであろう。まずは目の前の資料の整理から。村全体については、ウチナチュー大会の資料がどかにあったような。(早速探してみることに)。村全体の移民は、拾いだすことは可能。引揚者名簿や満州の今帰仁村の話など。

 まずは南米から。

 次に移住地(国)別にみると、ブラジルが763人と断然多く、海外在留者の60.8パーセントをしめている。

 次いでペルーの192人、フィリピン111人、以下アルゼンチン、ハワイ、米国本土の順となっている。ブラジル移民のしめる比重は、市町村別にみても三番目にあり、それは今帰仁村の特色をなしている。(中略)

 大正期に渡伯(ブラジル)した人達には、大正7年に上原虎雄(ウイマーヤー)(兼次)大正8年にも上原清加那(ウイマーヤー)(兼次)等がいる。次にアルゼンチンへの移民をみてみよう。

沖縄からのアルゼンチン移民は、第一回ブラジル移民の一部が転住して基礎を築いたのが始まりで、その後は南米に於ける第二の移住地として注目され、多くの移民が渡航した。

 今帰仁村のアルゼンチン在住者は大正5年に僅か八人であったのが、昭和10年には、95人と大幅に増加しており、第二次世界大戦の勃発までにはかなりの移民があったとみられる。昭和15年までに渡航した移民のうち53人が判明しているが、その中、次の13人がなんと兼次の出身である。

昭和元年、上原清践(ウイマーヤー)・昭和2年、上原清次(ウイマーヤー)・昭和5年、諸喜田福寿(トクペーチンヤー)・上原清利美(ウイマーヤー)・昭和6年、上間豊雄(ヤマヤー)・昭和10年、諸喜田福松(トクペーチンヤー)・上原清森(ウイマーヤー)

 尚、大正10年にブラジルへ移民した上原清正(ウイマーヤー)は、翌年の大正11年にアルゼンチンへ転住、後続移民の呼寄に尽力し、その功績は高く評価されている。

【アルゼンチン移民】(コルドバ在住・兼次人)

 コルドバはアルゼンチン国の地理的中心地にある。スペインの植民地時代から文化都市で知られている。今帰仁村人が移住し始めたのが1928年(昭和3年)からである。定住一号が上原清正、カマダ夫妻である。

◆上原 淸正氏(元コルドバ日本人会長)(故人)
 1921年ブラジル在の長兄虎雄氏の呼寄せで来伯、1923年アルゼンチンに転国、海岸労働、冷凍工場、カフェー店、花商等経験あり。1974年11月3日、菊花熏る秋の叙勲に勲六等瑞宝章を授与される。男子2人、女子3人、孫18人の子宝にも恵まれている。

◆上原 淸次氏(元コルドバ日本人会長)(故人)
 1927年兄淸正氏の呼寄せで来亜、1935年帰国、結婚して1937年再来亜、コンフィテリア経營。長女京子さんは公証人で伏見譲治氏(公認会計士)と結婚、二子長男淸秀氏はコルドバ医科大学卒業、日本文部省の留学生として招聘され、東京女子医科大学で中山恒明博士指導のもとで三カ年研修、帰亜後開業。次女カツ子さんは技師と結婚二子あり、三女弘子さんコルドバ大学建築家卒業、二男広弘氏コルドバ医科大学在学中。二男三女、孫四人。

◆上原 淸全氏(故人)
 1926年一年兄淸正氏の呼寄せで来亜、カフェー経營。花商に転じモリバナを経營。二男一女孫五人。釣りの名人。

◆上原 淸森氏(元コルドバ日本人会長)(故人)
 1939年父淸正氏の呼寄せで来亜。カフェー、花卉栽培を経て父、弟妹と花商共營。次男譲治、サンタ・フェ大学工科在学中。三男一女。

◆古波蔵 森督氏((故人)(シグヤー)
 1937年父森次郎氏の呼寄せで来亜。カフェー店、洗濯業、養鶏業を経てラジオ店経營。俳句に趣味を抱き、都山の俳号で古都吟社の中堅。長男ロベルト、次男オラシオともにコルドバ大学で勉学中。二男一女。 

古波蔵 森次郎氏(故人)(シグヤー)
 ビエホという愛称されているのが森次郎氏である。ビエホとは大人の意で字の長老である。大人は義弟上原淸正氏の呼寄せで来亜したのが1932年。カフェー店、洗濯店花卉園芸等を経験す。子息森督氏、義弟諸喜田源松氏夫婦を戦前に呼寄せ、戦後三男智氏家族五人、長男森蒲氏家族十人を呼寄せ、老いては子に従えの諺の通り孫、曾孫たちの相手となり、悠々閑居の老境をたのしんでいる。

古波藏 森蒲氏(故人)(シグヤー)
 森蒲氏は父森次郎氏の呼寄せで一家米亜。ラ・カピジャで土地購入、花卉園芸を長男正康家族や息子娘の協力で経營米亜。三ヵ年目にニツパル花卉協会主催立毛品評会に最優秀賞連続二ヵ年優勝、大カップを獲得。

◆諸喜田 福寿氏(故人)
 從弟福生氏の呼寄せで来亜。洗濯業に従事。在亜日本人会、沖繩連合会、洗濯組合等公共団体発展に尽粋。長男フアン君は在亜日会靑年部創立者の一人、後輩の指導に努力現沖連会長。

◆諸喜田 福次氏(故人)
 福次氏は弟福寿氏の呼寄せで来亜。花商を経營、琉球音楽に造詣深く、終戦直後、世礼国男氏著書声楽付工工四を複写、愛好家に配布、野村流音楽の普及に尽した。鄕里に残してあった妻子を呼寄せしも不幸にも病に倒れ死去される。

諸喜田 熏氏(故人)
 熏氏は兄福寿氏の呼寄せ。蔬菜円、カフェーを経てラ・カピジャにて花卉園芸に従事する。 

◆諸喜 田福松氏(故人)
 福松氏は弟福生氏の呼寄せで来亜。花卉園芸に従事。終戦後養子敬君を呼寄せ、敬君はブルサコにて花卉園経営。

◆金城 庄康氏(故人)
 敦康氏は上原兄弟の呼寄せで来亜。カフェー店、蔬菜園芸を経て洗濯業に転業。長男ルイス君は講道館柔道三段、ア国中量級選手権を獲得。本業の洗濯業の余技として道場を経營、ア国人に柔道を指南している。次男エルネスト君はブエノス・アイレス大学建築科在学中。スポーツマン。

◆金城 庄淸氏(故人)
 庄淸氏は兄庄康氏の呼寄せで来亜。蔬菜園を経てラ・カピジャにて花卉園に従事、ブ市にて家屋購入洗濯店転業する。

◆諸喜田 源助氏(故人)
 源助氏は義兄上原淸正氏の呼寄せで来亜する。カフェー店、蔬菜園を経て、終戦後妻子を呼寄せ、ピジャ・サン・ルイスで花卉園芸に転業。長男ロベルトは義兄大城達雄氏とスーパー・マーケット共営。


2021年11月24日(水)

 与論島から次へ。頭の切り替え中。

2001.12.13(木)メモ

 咸豊七年丁丑「御首尾扣帳」(今帰仁間切番所所蔵)が『宮城真治民俗調査ノート』などに収録されている。この史料の現物が残っている可能性は非常に薄い。文書の一部を抜粋したのであろうが興味深いので紹介する。

   「三月三日、五月四日は番所の前、アブシバラヒは仲原馬場、
   八月十一日親泊馬場に馬揃仕、役々中相揃、酒二合、七寸
   重壱次持参、見物仕申候」

とある。咸豊7年は西暦の1857年、今から144年前(2001年から)のことである。今帰仁間切の番所は運天にあった。番所は明治29年に役場と改称され、大正五年に運天から現在地の仲宗根に移転した歴史がある。

 内容からすると三月三日と五月四日は番所(運天)の前で馬を揃え、皆んなが揃って酒にお重などを持参して見物をした。三月三日は一般的に浜下りの日、五月四日は豊漁を祈願するハーリーが行われる日である。番所前の馬場でお重を持参し休息の日として競馬を応援しながら過ごしたのであろう。アブシバレーは今帰仁間切中央部の仲原馬場で旧暦の四月に日を選んで行われる。

 八月十一日は親泊馬場のある親泊村ではヨーカービーにあたる。その日は島ウイミが行われる。今帰仁のハサギンクァーで今帰仁ノロや神人、そして各門中の代表者が集り、各々御花(お米)、御合水(御酒)、豚肉のお重、それに線香を供えてムラの繁盛と子孫繁栄、五穀豊穣の祈願をする。親泊のフプハサギでも同様な御願をする。その後に獅子舞と棒が行われる。現在も行われているヨーカービーの祭祀と同時に、親泊馬場に村中の人たちが集り馬揃(競馬か)を行い、御酒やお重を持参して休息日にしたのであろう。


▲1950年代の仲原馬場

2001年12月1日メモ

 夕方から新聞社の取材がはいった。「神人」の映画の上映についてである。25年前の映画を上映する意義なのでしょうか。それは、いろいろあるね。9月に大阪での上映会の様子、そして映画を見ての感想からニ、三拾ってみる。大阪で映画を見に来ていた方々の大半が二世である。二世や三世の方々は両親や親戚などから沖縄のことを度々聞かされている。聞かされていた両親の故郷の姿が動く画面で見ることが出来たわけである。ウガミ(御嶽)や馬場跡(フプーミチ)や今帰仁グスク、豊年祭の様子など親戚や故郷の知人達の話題になる風景や様子が画面で直に確認し見ることができのである。故郷に生きる知人や親戚の顔に涙したり、笑い出したりする一世。言葉で聞かされ、かすかに脳裏の片隅にあった場面が出てくると目を見張る二世や三世。故郷を離れた方々は、25年という時の流れと変化している現在の場を越えたところから沖縄を、そして自分自身の姿を追い続けて人々の思いを見た思いがした。

 地元での上映は、25年前の記憶を鮮明によみがえらして、さらに25年先の将来に、しかと伝えていただきたい。そんなことを願っての上映である。

 それとは別に今泊の歴史を今帰仁グスク・クボウの御嶽・集落移動・水田のあった風景・馬場跡・親泊の地名・阿応理屋恵・メーフイヤー・ハタイ原・今帰仁ノロ火神の祠・阿応理屋恵按司火神の祠・ワラビ細工・福木・村の合併・神ハサギなどキーワードを引き出しながら「ムラ散歩」をしている。


2021年11月23日(

与論島をゆく(調査メモ) 

 シ二グに関心を向けたんは、小野重朗氏から間接的に「全集」の寄贈(平成3年頃)があり、その時からである。祭祀に関わる調査をいくつかやっていた頃である。小野氏のシ二グの分布図を利用し、シ二グ文化圏と仮説をたて、その後、神アサギ文化圏などとし、それが三山の時代の領域と重なり、北山文化圏とし、その時代からの物がどう変化していったかを極めていく研究を進めてきた経緯がある。

 「仲北山」が怕尼芝(長男)に滅ぼされ、二男を沖永良部島へ、三男を与論島へ派遣したと伝えられた話が根強く伝わっている。神アサギとシ二グ文化圏としたのは、その時代から罷継がれてきたものと想定している。三山が統一され中山の時代がある。15世紀初頭の尚真王の中央集権国家(各地の按司を首里に集居)、それとノロ制度である。

 神アサギとシ二グが北山の時代からのつながり、のろ制度や古琉球の奄美の辞令書は1478年に確立されたと言われているので、薩摩の琉球侵攻(1609年)までの資料ということができる。その時代の史料として辞令書が扱うことができるであろう。首里王府が与論島以北の島々(沖永良部島・徳之島・奄美・喜界島)をどのように統治を知る手がかりとなるであろう。奄美の島々は1611年以降は薩摩の統治下に置かれる。1466年の喜界島遠征、1500年のアカハチ・ホンガワラの乱の鎮圧で先島の支配強化を行っている。のろの配置や役人の辞令の発給で先島や奄美の支配強化を行ったとみられる。ところが、薩摩の琉球侵攻後、先島はそのまま琉球の内、与論以北は薩摩の支配下となり琉球的制度が制限されることになる。1609以後はのろの叙任されなくなる。遺っている辞令書は1609年以前のものである。のろをはじめ祭祀の中心となった女性中心の公務としての祭祀部分が制限を受けることになり、シニグで見える動きは男衆の部分である。

 慶長16年の琉球支配方針を示した「起請文」がある。その一条に「女房衆へ知行遣はさる間敷事」あり、のろの知行の継承(身分と財産)を認めないことを示したものであろう。それが女衆の祭祀が消えることになったのであろう。そのことが与論島や沖永良部島でのシ二グは男衆が中心に行われている。それと、琉球では1611年の慶長検地で行政村(むら)ができ、祭祀はマク・マキヨ単位から村(ムラ)単位となる。奄美地方では、これまでの一族、一門単位のサークラ単位で行われている。(詳細については、別にまとめる)

 「八重山の大阿母継承図」に相当するのが、与論島や沖永良部島、奄美大島、喜界島にあり、目を通す必要がある。

 今回、グスクマサークラとホウチサークラのシニグの道筋(神ミチ)を麓氏に案内いただいた。感謝

 
▲西区の井戸         ▲与論町西区のクンイシ


 与論町西区に「グンイシ」の説明版があり、「この岩の周辺にはシニグ祭りの際に旗を立てる場所でもあったころから、周辺は神聖な場所でもあったようです」あり、そのような岩がサークラごとにあるのであろう。数か所で見かける。
 
▲グスクマサークラのシニグ道(神ミチ)途中でホウチサークラと合流
   (弓矢で的をいる場面がある)


2021年11月22日(月

 2021年11月19日(金)~21日(日)まで与論島へ。

 今回の与論島ゆきは、中世の与論の姿の痕跡を見つけることができないか。1609年の薩摩の琉球侵攻があり、1611年に与論島以北(沖永良部島・徳之島・奄美大島・喜界島)が薩摩の統治下に置かれることになる。琉球国が大きく変わる出来事である。1609年以前の与論島の姿を歴史的視点で物事が描けないか。逆に与論島に遺る琉球的なものを拾い上げることで、琉球国の姿が見えそうである。

 島に渡り私が本能的に足が向いたのはハミゴーの墓地(詳細は別に述べることに)、そして城集落(城公民館)、安戸公民館周辺の集落、西区の集落へ。それの集落を回っていると何度回っても迷ってしまう。そのように道路が入り組んた集落は、格子状の近世の村(集落)と区別している。道筋が入り組んだ集落は仲松弥
秀は「古層の村」とされ、与論島の集落はまさに「古層の村」の姿を今に伝えている印象である。次に向かったのは「船倉」にアジニッチェが祭ってあるからである。そこから按司根津江神社である。その一族が船倉海岸から安戸集落へ上がって行った痕跡ではないか。

  
▲与論の十五夜祭りの案内版 ▲船倉のアジニッチェを祭った祠 ▲茅葺屋根の高倉

2021年11月18日(木)

 今帰仁村字兼次誌の編集会議。印刷会社への1回目の原稿出(150頁:全体450頁)。編集に集中したいのだが、会議で、いろいろ話題を提供してくれる。ハブ好きな方がいて湯がいて皮をピッと剥いで、煮るとウナギよりおいしいそうだ。兼次には海がない字だと。隣の諸志に皆土地をもっているのか。本部ターと言って旧上本部の村長していた方が住んでいたよ。昭和17、18年ころの西部耕地整理のこと。スク道沿いの松のこと。手前の大木の松は戦争のとき、切り倒して米軍の戦車を防いだという。現兼次校は今泊地番にあるのに学校名は兼次なのか? 旧公民館敷地は数名の名義で登記されているが、その権利はだれのなのか。山の方も20名ほどで借りたが、土地まで権利があったのか。イヤ、それは木を伐採する権利で土地は所有者のもの。

 兼次の慰霊塔のある土地は今泊地番ではないか。現公民館敷地に池があって乾燥場もあったし、誰の土地だったのか、など話題はつきない。それらの話は「字誌」に収録しましたので・・・。毎回資料をつくり配布。委員の方々はファイル開き、確認している。字誌にあれも入っていない、これも入っていないとなりそう。字誌編集の最終が近づいていてきて火がついてきた。編集者なかせ。(明日から与論島ゆきで、準備があるので・・・。なかなか終われない・・・)

 この場は主席者が自由に語り、話題にりそうな資料提供、質問に答える立場。毎回出席される大城哲夫氏(93歳)、高良万歳を踊った写真もあり、踊った当時の仲間や地謡の方々のお名前を教えてもらう。




2021年11月17日(水)

 あれこれと、一区切り、軽石が押し寄せているため与論島行きを躊躇している最中、与論島から誘いの電話があり伺うことに。早速、与論島の過去記録を集める。そこに掲げてある歴史の展開を沖永良部島に適応していることにきづいている。今回の与論島行きは、北山系統の一族のシニグと中山系統の一族のシニグの「流れ」部分の痕跡の確認ができればと。のろを出していた一族の家文書、のろ遺品。辞令書は与論島と沖永良部島では未確認。

 与論島と北山(琉球)」というテーマで報告の予定(2018年12月11日)。そのため、話の大枠を決めるために、あちこちにメモしてきたものを、取り急ぎ寄せ集めてみる。

 まず、与論島には島外から来て住みついた集団がいくつかあるように思われる。それぞれの集団が島に住みつき故地の伝統や個性や習慣を伝え、それが混在しながら今に伝えているのではないか。どの一族が古いとか、北山から来た、源氏と関わる一族などの答えを見つけようとする発想が根強い。それも大事だが、複数の集団が異なった時代に島に移り住み、それぞれをの個性や伝統を頑固に保っているもの、あるいは大きく変貌しているなど、個々の習慣や個性などを見究めながら、与論島を見ていくことにする。「北山文化圏」という枠でくくる以前に、琉球国の枠でくくる必要がある。琉球国でくくることで、国頭郡に属しめるか、それとも伊是名・伊平屋島と同様島尻郡に属せしめるか。そこには・・・

 以下に掲げた系統の一族達が、今に何を伝えているのか。与論島の人々が北山に、中山に、あるいは薩摩や縄文や弥生の時代に先祖を想いはせるのは何故か。与論島から求められている答えは、「1611年以前は与論島から喜界島まで琉球国の領域であった」、そのことを踏まえると自ずと答えは出てくる。ただし、分断して400年という歴史を持っていることも動かしがたい事実である。島の方々はどの方向に持っていきたいのか・・・。

  ・三山の時代以前から島にいた人々(アマンチュ系)
  ・北山の時代に島にやってきた一族(北山系)
  ・三山統一後、首里王府から派遣された一族(中山系)
  ・1611年以降、薩摩役人などの系統(薩摩系)
  ・その他

1266年瞬天王統の英祖の時代に沖縄周辺離島から貢納物の献上があり、奄美諸島も入貢したという。 

【三山鼎立時代】(北山は今帰仁?・怕尼芝・珉・攀安知)

 ・1383年に山北王怕尼芝が明国に入貢始まる。
 ・15世紀初頭 山北王怕尼芝の二男(王舅)が与論島に渡り与論の世の主となった(伝承)。
   (与論城を築いたという)
 ・1416年山北王攀安知が中山の尚巴志の連合軍に滅ぼされる。
 ・サービ・マトゥイ(北山系?)(伝承の人物)
 ・大道那太(ウフドゥナタ)(北山系?)(伝承の人物)

【三山統一後】(北山は監守時代)

 ・成化2年(1466)
   尚徳王鬼界島を征伐して帰り、呉姓一世宗重を泊地頭となし、其の妻を泊大阿母となす。
         (「呉姓家譜」 一世宗重)
 ・1512年尚真王の次男尚朝栄(大里王子)、花城真三郎が与論世之主(又吉按司)として
  与論島へ来てグスクを築いたという伝承(その墓あり)。

 ・1537年奄美大島を征伐する。(四代尚清)

 ・隆慶2年(1568)戊辰正月、自奥渡上の□理(サバクリ)に任ず。
   ※毛姓五世盛埋が奥渡上(薩南五島:喜界・奄美大島・徳之島・沖永良部・与論)の五島の政治を司る
      役人に任命される。
・1571年 奄美大島を討伐する。(五代尚元)

 ・万暦24年(1596)丙申 大島湾の首里大屋子を勤める。
   万暦三十年(1602)壬寅 大島より帰り、後西原間切我謝地頭職に任ず。
      (「藺(リン)姓家譜」一世篤當)(首里王府発給の辞令書があった可能性あり)

 ・1609年薩摩の琉球侵攻
 ・万暦39年(1611)に奄美大島・徳之島・喜界島・沖永良部島・与論島が薩摩に割譲される。

 与論島では確認されていないが、奄美には古琉球の辞令書が30近くある。これまで確認されている奄美関係の辞令書の古いのは嘉靖8年(1529)の「笠利間切の宇宿大屋子職補任辞令書」である。

 第二尚氏王統の1500年代から奄美へ首里王府から辞令書が発給されている。その時代の奄美の島々と琉球国との関係は、北山(監守:今帰仁按司:今帰仁グスク居)ではなく、首里王府直轄である。首里王府直轄であるが、与論島の全て一族が琉球から移り住んだというものではなかろう。

 与論島にノロに関わる辞令書は未確認である。他の島に見られる役人の辞令書も発給されてよさそうなものである。そのような辞令書の発給は首里王府と島々と直接統治されている関係にあったことが知れる。三山統一後の与論島は北山ではなく琉球国(首里王府)の直接支配である。もちろん、首里王府の役人の派遣、引き揚げた人物もいたが、そのまま島に残ったのもいたであろう。

 与論島にもノロ制度があったことを伺わしめる旧家の系図やオモロでも謳われている。辞令書を賜るノロは公儀ノロであり、首里王府が任命するのであるから王府の意向を伝達する役目も担っている。

 与論島に首里王府から発給された古辞令書の辞令書が確認されていない。奄美島や喜界島で確認されているので与論島の役人やノロに発給されたであろう。もし与論島の役人やノロに発給された古琉球の辞令書が発見されたなら、与論島と琉球国との関わりが具体的に見えて面白いのだが。









2021年11月16日(火)

 時々、「歴史」を語るときに祭祀を取り込んで話をする。というのは、首里王府はのろ制度を取り組み巧みに末端まで統治する手段としているからである。(工事中)

兼次の祭祀(神行事)

 祭祀の日は「神遊び」といい、現在の公休日に相当するものである。今では、そのことがピンと来ないようである。それで具体的な事例を示すことにする。各間切によって異なっている。名護間切と本部間切を紹介する。今帰仁村中城のろ管轄の祭祀、五月ウマチー(稲穂祭)は、まさに「神遊」である。その習慣はまだ息づき継承されていることに気づかされる。
 歴史を読み取っていく物差しの一つである。明治以降、あるいは戦後の新しい社会制度も積極的に受け入れていく面と、これまでの習俗(社会規範)を維持して行こうとする面をもった沖縄のムラ・シマ社会である。兼次村の神行事は中城ノロ管轄である。「神遊び」の名護間切と本部間切の事例を『各間切取調書』から紹介。「取調書」の「遊戯」の項目にあり、「遊戯」は「業を止め、遊戯をなす」とある。

兼次の五月ウマチーは崎山・仲尾次・与那嶺・諸喜田(現諸志)の五部落のウマチーは中城ノロと各村で行う神行事である。兼次は区長・書記のみの参加なので全工程を紹介する。今帰仁間切の「取調書」は全文はまだ確認できていず、他の間切の事例で紹介。

【名護間切】

 ・正月は元旦より三日間遊ぶ。その内は童子共、巷々へ集りて遊申候。(三日)
 ・二月は遊はなし。麦の穂祭る事あり(二月ウマチー)。
 ・三月は虫払いというて日を撰、一日人民耕作止、遊申候(一日)。
 ・四月はアブシ払いと云、日を撰二日耕作を止め遊申候(二日)。
 ・五月は稲穂祭りと云い、日を撰二日耕作を止め遊申候(二日)
 ・六月は遊びはなし。稲の大祭りあり。
 ・七月は十六日、人民耕作を止め遊申候。尤も童子共は饒鼓を用ひ各家庭を廻って遊ぶ事あり。
 ・八月は十日より十一日迄、人民耕作を止め遊申候。且豊年願いの為毎年組踊する村も有之申候。
 ・九月はなし。
 ・十月はたんとり(種取)と云う。日を撰て、二日人民耕作を止め遊申候(二日)。
 ・十一月はなし。
 ・十二月はなし。

【本部間切】

 ・正月は元日より四日間遊ぶ。その内は童子共巷々に集まりて遊申候。
 ・二月は麦の穂祭と云うものあり。その時は日を撰て、のろくもいは祭りをし、人民は二日間業
  を止めて各家にて遊ぶ。
 ・三月は、ウンジャメ祭(海神祭)と云うものあり、その時は遊ぶはなし。日を撰て、ノロクモイは火
  の神 所に参詣して祭申候。
 ・四月は虫払いと云うて、日を撰て人民耕作を止め、牛馬を引き浜辺に出づる。その時ノロクモイ
  勤め済る間は、人民より牛馬に至る迄無食す。その勤めを済て後、各家に帰る。
 ・五月は大御願と云うて、ノロクモイ並びに人民烈りて火神所に参詣す。且稲の穂祭と云うもの
  あり。その時日を撰て二日間遊ぶ。
 ・六月は三月に同じ。
 ・七月は十六日、七月念仏と云う遊びあり。その時童子共、三味線を引きて人民の家々も廻りて
  遊び申し候。且大折目と云うものもあり。その日は凡そ十八、九日頃より廿四、五日頃に限る。
  その時人民業を止むる村もあり、止めざる村もあり。尤ノロクモイは火の神所へ参詣して祭申候。
・八月は十一日ヨウカビと云う遊びあり。その時童子共、巷々又は毛へ集って遊び申候。
  且また、豊年願の為め三・五・七年一回組踊する事もあり。
 ・九月には遊びはなし。然れども大御願として、ノロクモイ並びに人民召し烈り。火の神所に
  参詣す。
 ・十月は遊びはなし。
 ・十一月は遊びはなし。 
 ・十二月は遊びはなし。

 

崎山ノロ殿内でのウガン         ②ノロ殿内から遥拝
 
▲諸志の御嶽で            ⑦兼次のカ二マン殿内で


2021年11月15日(月

 恩納村名嘉真、安富祖、喜瀬武原(ウマチモー)まで。恩納村史さん室と編集委員のメンバーと。名嘉真の大島のノロ殿内周辺に福木の古木がある。以下の記録が思い浮かんだので、それをベースに名嘉真や安富祖の集落の成り立ちについての話題に。それと香炉の「寄進」から奉公人の上国について、喜瀬武原では「方切」など。(寡黙に過ごしている私の話を聴いてくださり感謝)

2015年6月13日(土)過去記録

 伊江島の史料に目を通している。本島側のムラ・シマや祭祀などについて伊江島独自の視点でみていかないと理解できないことが多い。伊是名村や伊平屋村は首里王府の天領地(直轄地)との視点でみると理解しやすい。ところが伊江島は、そうはいかない。本島北部とも異なっている。それはどういうことかについて、未だに十分な回答をもっていないので、その手がかりをつかんでみたい。それとは別であるが、以下の史料が目についたので紹介する。

 昭太寺に関する文献記録(伊江村史)がある。その中に「昇格登記通蝶」、「寺修補並水庫仕立記」、「水庫」、「寺囲植樹のこと」についてある。ここで念頭にいれておきたいのは「寺囲い植樹のこと」である。昭泰寺が大破し雨漏りで住むには困難である。雍正十一年癸丑四月(1733年)の修補のときに書き記したもののようである。以下のようにある。
   一、寺囲い植樹のこと
      お寺囲い植木無之に付風屏の為に、がじまる木枝五十八本並にうすく木枝二十二本
      福木八十本植付其首尾方も申上候処、甚だ暑く挿し木にして四十五本植付盛生承り
      候間時節御見合を以て植付らえれ度候

 その中に屋敷囲いに福木80本植え付け(時節御見合)風屏にしている。その福木が雍正十一年癸丑四月(1733年)頃に植えつけたと見たら、福木が屋敷林として風よけにいいということを認識していたことがわかる。つまり福木を屋敷林にしていたのは、それ以前に前例があったということなる。伊江島の昭泰寺囲いの福木の植樹はそのころとみてよさそうである。その福木はどこからかとなると、伊江島番所跡周辺にも大木の福木があり、そこらからの種子や移植の可能性が十分にある。1700年代の移動集落の屋敷囲いに福木を植樹したであろう。しかし、それ以前から福木を屋敷林として風屏にしていたことが、そのことが寺囲いに福木を植えつけることになったのでろう。(近く伊江島に渡るので昭泰寺の福木は樹齢約270年かと感慨にふけてみるか。伊江島番所の福木は?)(現況の確認はしていないので書替え事になるかも)

   
▲昭泰寺の福木(雍正131733年)頃に植えられた福木        ▲西江上集落あたりの福木


2015年6月11日(木)過去記録

 15日の伊江島行きは、北山高等学校の平和学習で伊江島の戦況の様子の話からスタートするので、肌で感じとるため。それと伊江島の祭祀(大折目)の祭祀場から見えてくるもの。沖縄本島側とは大分異なる。そのことが面白い。

 伊江島の旧暦7月日撰の「大折目」(三日間)の祭祀場の確認をする必要がありその下調べ。①ウプアンシャリ殿 ②メースィンカンニャ ③メーナガ殿 ④ナハヌル殿 ⑤ウイサビモー ⑥アスィデンニャ ⑦フサト ⑧フサトの各拝所の確認と、まずは祭祀の流れをつかむことに。上国の時の寄進(乾隆17年:1752)された銅製の鐘鼓、確認できれば幸いだが。

伊江島の大折目参照

 『新城徳祐氏ノート』(なきじん研究10巻所収)に氏は伊江島の調査(1957.5.6)を行っている。その中のメモをいくつかとりあげてみる。
  ・今帰仁拝みする一門が大半、今帰仁の子孫。具志川拝み、久高拝みをする系統もある。
  ・東上が伊江島の最初の集落。
  ・伊江島では今帰仁掟の役名があり、上位の役職である。
  ・根の御神加奈志(東上) 東上、西上に各六ヶ所宛ある。部落の創始者の屋敷跡がある。
      (根の御神加奈志の拝所と大折目のときの拝む場所か)
  ・旧七月の終わり頃、ウプウイミ(3日間)
    初日ニャーグミ(庭ごもり)
    二日 城(ヨーマー、今日のよかる日に、なんじゃ)
    三日 城、馬にのる(ノロ)
  ・乾隆十七年九月吉日
      奉寄進 東江以下十三名  上国の時 以上の銘の入った銅製木魚(鉦鼓)


2021年11月14日(

 新型コロナが発生するまえの兼次字誌の編集員会である。その時島袋家(島袋佳春氏:委員長)から故島袋源一郎氏の故妻昌子さん所蔵だった貴重な写真の提供があった。昌子さんが戦後愛隣園で、昭和27年に今帰仁村兼次で幼児教育(カトリック教会)をおこなっていた。園から1000名余の卒園生を出している。二枚の写真を紹介します。一枚は卒園式(1953年度)の集合写真である。兼次教会と兼次小中学校との間をスクミチ(宿道)が通り、スクミチ沿いに松並木があった風景である。松並木のある教会広場での卒園式と児童が遊戯をしている場面である。後方には、まだ茅葺屋根の兼次校の時代である。島袋家の佳春氏がまとめた一族の系図である。画像に映っている何名かが字誌の委員である。数枚の写真を字誌に収録予定。

 
 ▲兼次誌の編集委員会        ▲1953年度の卒園式      ▲宿道沿いで遊戯をする児童


     島袋家の系図(島袋佳春氏作成)


2021年11月13日(

 昨日、午前中検診。今回から胃の検査はパス。バリウムを胃に流し込んで、回転や逆立ちする自信がないので。なんて楽な検診かと、逆に体力の自信がつく。午後から約束の大宜味村史へ。本島の西海岸を北上。羽地内海や源河川、大宜味の海岸や川の内側まで、例の軽石で埋もれた状態。

 今回の目的は、これまでのろ家の遺品の中に竹筒があり、カブの簪や玉ガーラ(勾玉)や文書などを保管して置くのに利用されたのであろう。沖永良部島の
畔布の森家などにも遺されていた。以前、その竹筒を作ったことがあるが、ティクマー(手細かい専門)の方が作ったらどうなるのか。山原には非常に少なくなったが、竹林が少なくなってしまっている。昭和30年代まで字に竹林があり、その竹を売り収入になっていた。それは昨日の恩納村の名嘉真や安富祖の陶土の販売も字の収入になっていたという。仲松弥秀先生(故)は「その帳簿があるはずだ」と口にされていた。
 
 竹筒を作ってくださる方がいらっしゃたので田港で手に入れた竹を持参し喜如嘉の工房へお願いしてきた。帰り際、「竹筒に命を吹き込んでください」と声かけをしてきた。来年のウンガミの頃まで出来たありがたい。(大宜味村史編纂室の宮城係長、新城喜代美、河津同行)


▲屋嘉比のろ家の遺品(竹筒) ▲城のろ家の遺品(竹筒)


▲与那のろの遺品(竹筒)

▲安田ノロの遺品(竹筒)


2021年11月12日(金)

 恩納村名嘉真と安富祖、恩納村側の喜瀬武原の踏査を予定。その前に過去メモから一部を取り出しておくことに。2002.7.24(水)過去メモ

恩納間切(村)の陶土

 「恩納間切(村)の陶土」について、以前から関心を持っている。しかし、陶土の現場確認ができていないため調査が遅々と進んでいない。このテーマが沖縄の焼き物をなされている方々の間ではきっと進んでいるにちがいない(そうで、あって欲しい)。

 それはそれとして、沖縄の墓をテーマにしている方々にとっても厨子甕はどこの土で焼かれているのか。特に近世以降の墓の中の厨子甕がどこの土で焼かれたものなのか。

 沖縄のグスクから出土した青磁や白磁、あるいは染付(青花)などは中国製や朝鮮製とか、景徳鎮系なのか、どこの窯で焼かれたのか、どこの陶土なのか。土の成分でどこの窯なのか。時代はいつ頃など。そんな議論がなされているわけだから、沖縄の焼物の研究も陶土で判別できるところまで研究が進んでいるのかもしれない。そうであれば、沖縄の焼き物もどこの土で焼いた物なのか(窯ではないですよ)、それがわかるような研究レベルにあればありがたい。もちろん湧田焼きや喜納焼きや壷屋焼き、古河知焼きなどの判別はすでになされている。沖縄の焼き物は沖縄の土で焼いたもの程度ですまされるのか、あるいはテーマにされるほどの歴史と深みを持っていないのか。そんなことをつぶやきながら、恩納村の陶土について、少しばかり触れておきたい。以下の「恩納間切村全図」 に陶土の情報がないか(凡例情報が不明)村全図は恩納村史で原域や無税地などの情報は報告されている。

 ただし、陶土をテーマで恩納村を歩いたわけではないので、メモ程度のものと見ていただきたい。予測した最初のイメージがどんどん壊れていくおもしろさ。目からウロコが何枚も落ち、すっきりと見えた時の・・・・・。

  
▲恩納間切安富祖村全図        ▲恩納間切名嘉真村全図

※恩納間切全図(6000/1)恩納村史編纂室提供

 具体的な調査に入る前に、予備的な知識として、以下の件は『恩納村誌』(仲松弥秀著)から拾いました。「Nくん。ようやった。ぼくの使ってくれるか。ありがたいことだ。よし・・・・・」と93歳の仲松先生の声が聞こえてきそうだ。

 さて、恩納間切(村)では大正初期まで山に樫や椎などの樹木が繁り、正月用の経費は山から薪や木を伐り出し、それを売って現金にしていたという。山の材木や薪や竹茅などが浜に運ばれ、山原船で那覇や泊方面に運ばれ、マチからは酒やソーメンや布、それに雑貨品、それまた山原船で運ばれてきた。もちろん、それには津口税という税が課せられていた。山が荒廃しないように管理するのが山当、取り締まりをする津口番などの役人がいた。那覇・泊と恩納間切の村々と往来する山原船で運ぶ品物の中に陶土があった。その生産地が恩納間切の仲泊と前兼久。山手で産出し赤陶土。また安富祖と名嘉真は海岸で産出する白陶土。産出の割合としては赤陶土が8、白陶土が2の割合だったようだ。

仲泊・前兼久・富着(赤陶土)
   ・山から出した陶土は村前の港浜に積み上げておく。
   ・その場所がンチャマヂミモー(土真積毛)の地名になっている。
   ・前兼久の港は比較的深かったので浜辺に船を着けることができた。
   ・仲泊は浅いため陶土を積むのに困難。そのためイノーに道を造った。
   ・陶土を男は肩に、女は頭に乗せて運ぶ。
   ・満潮時を利用して胸までつかって積み込んだ。
   ・手間賃は15銭(明治35年当時)

 ■安富祖(白陶土
   ・海辺に接してあり高いところに産出する。
   ・一定の場所に積み上げておく必要がなかった。
   ・掘った土を浜辺に落とし、船に積み込んだ。

 陶土は各村船に積み込んで泊港に運んだ。泊港から伝馬船に積みかえて、安里川→崇元寺橋→壷屋のカーラバンタまで。そこで陸揚げした。近世から、そのような経路で壷屋に陶土が運ばれ、との陶土で壷屋の焼き物が焼かれていたのであれば、もっと焼き物と恩納間切(村)の陶土との関わりでみていく必要がありそうだ(まとめは調査をしてからになります)。

    
   
▲あなた方は恩納間切の陶土で焼かれた厨子甕ですか?


2021年11月11日(木)

「・・・村」となるのは! 

 古琉球の辞令やおもろなどには「よなみね」「なかくすく」「うらさき」など、後に「…村」とつくのはいつなのか、「…まきり」(間切)は慶長検地以前から登場している。

「絵図郷村帳」(1649年)には「・・・村」と登場。古琉球の辞令には「・・・原」と出てくるが、村名となる地名は出てくる。慶長十五庚戌年(1610)、従御国元御検地被国元仰候事」に「此御検地之御法様者、先村之位を上・中・下・下々ニて四段ニ差分ケ位を定、又地之位を右之ごとく・・・」とあり、「上村」「中村」「下村」「下々村」とあり、「検地帳」に村位を記す必要があり、そこから「・・・村」となる。「御当国中村位定之事」に今帰仁間切で「今帰仁村(田中・畠中)とあるのはそれであろう。その資料には1738年に創設された今帰仁間切湧川村(田下・畠下)と村位は適応されている。

 古琉球の辞令書に出てくる後の村。漢字をあててあるが、ひらがな表記。間切も「まきり」とひらがな。



「・・・村」となるのは慶長検地〈1610年)で村位(上・中・下・下々)を示す必要から!

・「絵図郷村帳」(1649年)

 ・崎本部村 ・へなち村 ・けんけん村 ・瀬底島 ・上によは村 ・下によは村(当時無之)
 ・下によは村 ・具志川村 ・浦崎村 ・びし村 ・具志堅村 ・おや泊村 ・今帰仁村 ・しげま村
 ・兼城村 ・しゅきち村 ・よな嶺村 ・へしき村 ・崎山村 ・中城村 ・中そね村 ・謝名村 ・きし本村
 ・玉城村 ・せつかく村 ・あめそこ村 ・ごが村 ・かつお村 ・ふれけな村 ・まつざ村 ・がぶ村
 ・上運天村 ・下運天村 ・沖ノ郡島 ・しゃはな村 ・ミつな島 ・石川村(当時無之)

・「琉球国高究帳」
 ・へしき村 ・崎山村 ・中城村 ・中そね村 ・謝名村 ・きし本村 ・玉城村 ・ぜつかく村 ・あめそこ村
 ・ごが村 ・(かつお村) ・ふれけな村 ・まつざ村 ・がぶ村 ・運天村 ・(下運天村) ・沖ノ郡島
 ・(ミつな島) (石川村)

   ※兼次村の記載なし
   ※この頃は、今帰仁間切は現本部町を含む。 
   ※1666年に伊野波(本部)間切と今帰仁間切が分割する。 

「琉球国由来記」(1713年)
  ・今帰仁村 ・中尾次村 (中城村) ・玉城村 ・岸本村 ・上運天村 ・郡村 ・與那嶺村
  
兼次村 ・親泊村 ・志慶真村 ・諸喜田村 ・崎山村 ・平識村 ・謝名村 ・中宗根村
 
・寒水村 ・勢理客村 ・運天村 

・「琉球国旧記」(1731年)

・今帰仁郡
  ①親泊邑 ②今帰仁邑 ③志慶真邑 ④兼次邑 ⑤諸喜田邑 ⑥與那嶺邑 ⑦崎山邑
  ⑧中尾次(中城)邑  ⑨平識(敷)邑 ⑩謝名邑 ⑪仲宗根邑 ⑫玉城邑 ⑬岸本邑
  ⑭寒水邑 ⑮勢理客邑 ⑯上運天邑 ⑰運天邑 ⑱郡(古宇利)邑

           (以上属今帰仁郡

   ※間切は「郡」、村は「邑」と記される。
   ※神軒(神アサギ)、親泊邑に二件あり、城内の神アサギと親泊(ウプアサギ)
    の神アサギか。

   ※天底邑は1719年に今帰仁間切に移管するが、この資料では、まだ天底邑・天底掟
    ・天底巫火神は本部郡内


  (以下、工事中)


2021年11月10日(水)

 歳をとると早寝早起きである。それで出勤前にHPを更新している。新しいことではなく思いつきや問われたことの過去の記憶を。

2011年7月29日(金)過去の記録


 「方切」というのは、間切境界の変更のことである。「方切とは間切と同じく村の境界を定めたるものにして人口少なくして土地広き村はその耕地の一部を他間切又は他村に配置したり」とある。ここでは間切の境界の変更(方切)についてである。「方切」に注目すると、首里王府の目的とは別に境界地域の都合の様子が見え興味深い。

【今帰仁間切と本部間切と羽地間切の方切】

 今帰仁間切と伊野波(本部)間切との方切は1666年である。今帰仁間切の第一回目は1666年である。その時の「方切」はこれまでの今帰仁間切を今帰仁間切と伊野は(本部)間切の二つに分割してものである。二回目は1692年頃の今帰仁間切と羽地間切との境界の変更である。三回目は1736年の羽地間切と今帰仁間切との境界線の変更である。

 【1回目の方切】(1666年)(今帰仁間切と伊野波(本部)間切との方切)
   これまで本部地域まで含んでいた今帰仁間切を分割して、今帰仁間切と伊野波(本部)間切
   とに分割した。(「絵図郷村帳」や「琉球国高究帳」)。その時の方切(間切分割)について、『球陽』
   で、以下のように記している。

   「始めて本部・美里等二郡(間切)を置く」(1666年条)
    今帰仁郡邑(間切・村)は、素三十余邑有り。田地甚だ広く、人民已に多し。今、其の十一邑を
    分ちて、伊野波郡と為し、始めて向弘信(本部王子朝平)・毛泰永(伊野波親方盛紀)に賜う。
    後亦、七邑を新設し本部間切と改名す。 

 
 ・「方切」(あるいは間切の分割と創設)の理由は、邑数が多く、田地が広く人民が多いという
  こと。それと新設した間切を本部王子と伊野波親方へ賜うことであった。
 ・天底村は本部間切地内にあり(絵図)(1719年今帰仁間切へ移動)
 ・1670年「こかおきて」(呉我掟)(池城墓碑)(呉我村は今帰仁間切の村の掟)
 ・1671年今帰仁間切松田の名(家譜)
 ・1672年今帰仁間切松田の名(家譜) 
 ・1672年羽地?間切我部の名(家譜)(今帰仁間切?)
 ・1690年(康煕9)今帰仁間切松田の名(家譜)
 
  ※1697年南風原、佐敷、知念、麻文仁四間切方切の訟に就き検見の時筆者となる。其の時の
   検見は御者奉行吟味職
   毛氏中座親雲上盛冨と高奉行向氏渡嘉敷親雲上朝上なり)(家譜)

2回目の方切】(1690年頃)(今帰仁間切と羽地間切の間の方切)

 2回目の方切を1690年頃としたのは、その時の「方切」を示した直接史料を確認できていないので、他の史料を並べてみた。すると1690年「今帰仁間切松田」と1691年「羽地郡松田村」を『家譜』に見ることができる。そのために2回目の「方切」は1690年頃とした。
 ・1691年羽地間切我部地頭職を拝授す(家譜)。
 ・1691年羽地郡(間切)松田村、本郡我部村に属す(球陽)。(方切済) 
 ・1713年羽地間切呉我村・振慶名村・我部村・松田村を今帰仁間切から羽地間切へ
    (間切境界線の変更あり)
 ・1719年本部間切にあった天底村が今帰仁間切内へ移動(村の疲弊)。

【3回目の方切】(1736年)(今帰仁間切と羽地間切との方切)
 ・1735年に羽地大川の改修工事が行われた。呉我村と振慶名村は改修工事が終った羽地大川
   流域への村移動である。その時の「方切」は羽地大川の改修、村移動、間切境界線の変更、
   村が移動した土地に湧川村の新設(1738年)がある。そこで村移動がなされてもノロ管轄は
   変動することはなかった。
 ・1736年呉我村・振慶名村・我部村・松田村・桃原村は羽地間切から羽地間切内へ移動。その
   土地は今帰仁間切へ組み入れる(間切境界線の変更あり)
 ・1736年村が移動した後に今帰仁間切湧川村を創設する(1738年)。

 3回目の「方切」は『球陽』で、以下のように記してある。そこでの「方切」の理由は、山林が狭いことや村が密集していることをあげている。山原での元文検地は、その後に実施されている。三回目の「方切」は蔡温の山林政策、大浦(羽地)大川の改修工事、村移動、村の新設、元文検地と連動した流れである。その過程で変わらないのが祭祀のノロ管轄村である。歴史を辿るとき、変化していく、その理由を見て行くことも重要であるが、祭祀のように頑固に継承されているのも歴史を見る視点に入れるべきであろう。

  「蔡法司、諸郡の山林を巡視して、村を各処に移す」(1736年条)
    「…羽地山林内呉我・桃原・我部・松田・振慶名等の村は、…一処に集在して、農地最も狭く
  動もすれば山林を焼き以て農地に供す。今帰仁山林甚だ狭し。乃ち呉我村等五邑を以て、山林
  外に移徙して、其の山林の地は今帰仁県(間切)に属せしめ、其の邑(村)は、仍、羽地県(間切)
  に属せしむ。…」


 湧川邑(村)の創設(1738年条)
  「今帰仁郡に湧川邑を創建す」
   今帰仁郡は民居繁衍し、山林甚だ狭く、木材用に足らず。乾隆元年(1736)、検者・酋長を奏請
  し、羽地山林を分別して今帰仁郡に属せしむ。依りて湧川邑を建てて山林を看守せしむ。


        (3回の「方切」の図が入れ) 


2011年730日(土)過去の調査記録

 1673年の恩納・大宜味・久志間切の創設を「方切」の視点で整理してみる。すると1673年の「方切」が間切や村にとって不都合が生じ、後に「方切」が行われている。まずは史料の整理から。

 1673年の「方切」(間切の創設)は、恩納間切は向弘毅(大里王子)・毛国瑞(佐渡山親方安治)、田港間切(後に大宜味)は向象賢(羽地王子朝秀)・向日躋(屋嘉比親雲上朝茲)、小禄間切は向煕(金武王子朝興)・毛文祥(小禄親方盛聖)、久志間切は尚径(豊見城王子朝良)・顧思敬(久志親方助豊)に、それぞれ領地を賜うことであった。「郡(間切)や邑(村)の田地が広い、人口が多い」ことを理由としているが、間切によっては当初の「方切」に不都合が生じ、康煕乙亥(1695年)に2回目の「方切」を行ったが、「不便」だということで1719年に元に戻している。

 1719年に村をもとの間切に戻している理由(不都合)は、間切番所とそれらの村の地理的不便さ(特に平良と川田)、それとノロ管轄(古知屋村は金武間切の宜野座ノロ)、祭祀場の分断(屋嘉比・里見・親田の祭祀場は根謝銘(ウイ)グスク)がある。「方切」の対象となった「川田村」と「平良村」は名護間切の村であったこともある。「方切」で1673年に名護間切から久志間切へ、1695年に大宜味間切へ、1719年に久志間切へ戻る。屋嘉比村・(里里村・親田村)も国頭間切から1673年に大宜味間切へ、1695年に国頭間切へ、1695年に再び大宜味間切へ戻る。それらの村は「方切」で振りまわされた村だったかもしれない。「方切」や村移動などあったが、ノロ管轄の変更はなかった。

1695年の「方切」と1719年の「方切」 

 ・古知屋村は金武間切の村であったが、1695年の「方切」で古知屋村を久志間切へ、ところが
  1719年に金武間切に戻した。 
 ・川田村と平良村は久志間切に属していたが、1695年の「方切」で大宜味間切へ、ところが
  1719年に久志間切へ戻した。
 ・屋嘉比村と親田村と見里村は1695年の「方切」で国頭間切としたが、1719年に再び大宜味間切
  に戻した。

【国頭間切と大宜味間切などの方切】

【1回目の方切】(1673年)
・1673年「始めて恩納・大宜味・小禄・久志等の四郡を置く」(1673年条)
   本国の郡邑、田地甚だ広く、人民も亦多き者は、分ちて二郡と為す。…国頭郡内
   十一邑、羽地間切二邑、合して田港郡と為し(後、名を大宜味に改む)、始めて
   向象賢(羽地王子朝秀)・向日躋(屋嘉比親雲上朝茲)に賜う。後新に四邑を設
   け共計十六邑なり(二邑は合して一邑と為す。此くの如し)。

【2回目の方切】(1695年)
 ・1695年に「方切」あり、久志間切の平良邑と川田村が大宜味間切へ。
 ・1695年に屋嘉比村・親田村・見里村が国頭間切に移される。

  ※1697年南風原、佐敷、知念、麻文仁四間切方切の訟に就き検見の時筆者となる。
   其の時の検見は御者奉行吟味職毛氏中座親雲上盛冨と高奉行向氏渡嘉敷親雲上朝上
   なり)(家譜)
 ・1713年の『琉球国由来記』
   ・古知屋村は久志間切(1719年に金武間切へ戻す)
   ・平良村と川田村は大宜味間切(1719年に久志間切へ戻す)
   ・親田村と屋嘉比村と見里村は国頭間切(1719年に大宜味間切へ戻す)

【3回目の方切】(1719年)(球陽1719年の条)
 ・1719年古知屋村・川田村・平良村・屋嘉比村・親田村・見里村、各々原籍の間切に復す。
  原籍、古知屋は金武間切に属し、川田・平良は久志間切に属し、屋嘉比・親田・見里は
  大宜味に属す。康煕乙亥の年

  (1695)、改めて古知屋を将て久志間切に属せしめ、屋嘉比・川田・見里は国頭間切に属せしむ。
  これより各村多く便利ならず。各村呈して旧に復するを准す。


 ・1732年国頭郡駅を奥間邑に移置す。
  国頭郡駅は、原、浜邑設け、一偏に僻置して、号令伝へ難し。人民の往還、均一なること有らず。
  是れに由りて、奥間邑に移建す。


2021年11月9日(火)

 喜瀬武原は興味深いムラ(区)である。大正期に独立した区である。1673年に金武間切から名嘉真村、安富祖村、恩納村などを恩納間切へ、谷茶から南側は読谷山間切から恩納間切へ。金武間切を分割(方切)し恩納間切を創設した境界地である。その後に置かれた御待毛(ウマチモー)が遺っている場所である。大正10年の「註記」に恩納村安富祖に喜瀬武原と金武村喜瀬武原があり、それぞれ戸数と人口があげられている。それが区として成立している。それと、ほとんどが氏を持つ寄留人(士族)である。寄留人の多い村(区)としての慣習や気質をもつ。(手元に史料を持ち合わせていないので)。画像はウマチモーを建てた直後のもの(平成22年?)。(下の画像は恩納村側の喜瀬武原の公民館:今は多目的・・・)



2021年11月8日(月)

 現役の頃の調査記録が古いフロッピーデスクに見つけることたびたび。あの頃は、100年で解決できないテーマは手法(視点)を変えてみたらどうだろうかと。神アサギ文化圏、シニぐ文化圏、北山文化圏などと。北山・中山・南山の鼎立していた時代がどう今につながっているのか。それがテーマであった。すると、北山に基軸を置いたときの中央との温度差のギャップが何なんだろうか。それを歴史に求めると同時に神アサギやシニグやパジチや言語などの差異に求めてきた。ノロ制度と古琉球の辞令書を手がかりに1500年~1609年の時代を与論島から喜界島、それと宮古・八重山がどう首里王府がどう統治したのか。

 恩納村に目が向いているが、山原の行政と言語の境界、神アサギと集落区分、恩納村は金武間切と読谷山間切のムラで成立が歴史をよぎる。方切の境界に喜瀬武原の御待毛(ウマチモー)がある。そこは今でも金武町側の喜瀬武原と恩納村側の喜瀬武原が接し、寄留人が集まってできた集落(ムラ:区)の特徴をもつ。歴史をみていくキーワードは一つではないということ。

 ここで具志堅の神ハサーギを扱ったのは、「安田のシニグ」「古宇利島の海神祭(ウンジャミ)」「比地の海神祭」などとの比較j研究が念頭にあるからである。テーマを明確にしておきたいのは「国(くに)―神人の祈り(五穀豊穣・ムラの繁栄・航海安全)―租税制度」(国の統治)の仕組みを祭祀を通して見て行こうとするものである。具志堅のシニーグから、その姿の一端が見えてくる。それと監守制度と関わる阿応理屋恵(オーレー)按司の祭祀に関わっていた姿も。

【具志堅のシニーグ】2002.4.20(土)

 本部町具志堅の神アサギ(神ハサーギと呼ぶ)を訪ねたことがある。気にかかっている神アサギの一つなので、少しまとめておくことにしよう。山原で茅葺き屋根の神アサギは四軒(今帰仁村字崎山、国頭村字安田、本部町字具志堅・恩納村恩納)あるが、その一軒が具志堅の神ハサーギである。具志堅の神ハサーギが気になっているのは、合併村(ムラ)でありながら、現在一つの神アサギしかないことである。これまで、「行政的に村が合併しても祭祀は一体化しない」原則があると唱えてきたからである。 現在の具志堅は具志堅村・真部村・上間村の合併である。三ケ村の合併は明治初期の段階になされている。『琉球国由来記』(1713年)に具志堅村は登場しているが真部と上間の両村は出てこない。その後の創設だと思われる。

 大正時代、島袋源七氏によって調査され、まとめられた「本部村具志堅のシヌグ」がある。それは『山原の土俗』に収録されている。三つの神アサギの合併は昭和12年だから、神アサギが一つにされる前のシニーグの状況を記録しており貴重な報告である。(『山原の土俗』より概略を示す)

 旧暦七月二十日後の吉日に行う。

 ①大ウサイ(ウフウサイ)(1日目)
   具志堅・真部・上間の三神ハサギのシヌグガミーが具志堅神ハサーギに集る。15歳以上の男子を報告、15歳以上の男子は粟五合づつ、十五歳以下は一合ずつ各ハサーギに納める(祭祀の費用にあてる)。

 ②ウーニクヂ(舟漕ぎ)(2日目)
   今帰仁村今泊の今帰仁阿応理屋恵や今帰仁ノロと共に今帰仁城跡に行き、テンチヂアマチヂで祭祀を行い具志堅神ハサーギに帰って、今帰仁城での祈願の報告をする。

 ③大ユミ(ウフユミ)(3日目)
   神人総出で御嶽に上がる。神人は一段上の拝殿で祈願をし、オモロを謡う(このオモロすでに伝わらず)。ノロなどの神人の祈願が終ると、一段下に向っていた男神人は、女神人を向えて一緒に祈願をする。ノロと島の大屋子、根神だけの組をつくり各自弓矢を携え二組になって道を異にして村の西海岸に行列をなしていき、そこで祈願をする。

 ④男のユバイ(大ユミから3日目)
   島の大屋子が柴山に登って柴と野葡萄とを取って、背から頭までの高さにして具志堅神ハサーギに帰り、そこでご馳走をうける。男の神人を三つの組に分けて、鼓を打ちながら各戸をまわる。字の西方の流庭に行って合流する。そこで鼓を打つとノロや根神など女の神人たちが迎えにくる。連れ立って大川に行って体を清める。

   そこでの祈願が済むと各自の神ハサーギに戻り、粟の神酒をいただく。

 ⑤女のユバイ(男のユバイの翌日)
   その日も神ハサーギに集って神酒をいただき、ノロ以下の神人は具志堅神ハサーギで踊りやウ  タの練習をする。

 ⑥当 日
   その日は午後4時頃から各神ハサーギの庭でシヌグを踊る。その後男衆は各自の組旗を持って神ハサーギに行列していく。具志堅神ハサーギから上間神ハサーギに行列し、次に上間・真部神ハサーギからそれぞれ旗を持って具志堅神ハサーギに集り、女性達は合同してシヌグを踊る。(具志堅は「神徳霊妙」、真部は「神洋々遊」、上間は「三神和楽」の句)

 ⑦タモトノーヒ(お別れの日)(祭の最終日)
   各自の神ハサーギに行って重箱を開いて遊び、男性達は一定の場所に集って神饌をくみながら祝う。

     
 具志堅・真部・上間の           具志堅のシヌグのウシデーク(1969年)
   三つの神ハサーギが一つになる
 


〔トン・トト・トン(シルガミ)〕(2003.6.15.午前9:30のメモ)

 本部町具志堅のトン・トト・トン(シルガミともいうようだ)の祭祀の流れを確認するため、これから足を運んでみる。旧暦7月の中旬から下旬にかけて大きく五つの祭祀が行われる。
  ウーニフジ(御船漕ぎ)     (旧暦7月19日)
  ウプユミ(大弓)          (旧暦7月21日)
  トン・トト・トン(シルガミ)   (旧暦7月23日)
  ヰナグヌユバイ(女の夕食)  (旧暦7月24日)
  ハートンチミチ(早朝の神酒)
     シニグ・タムトゥノーイ     (旧暦7月25日)

 
旧暦の7月23日に行われるトン・トト・トン(シルガミ)は一連の祭祀の一つである。まずは、トン・トト・トンが行われる祭祀の流れと祭祀場の確認をしておきたい。
   お宮・大川
   お宮(拝殿内)クグンビラクランモー(倉の毛)(家々回り)
   (太鼓をたたきながら)大川(フプガーへ)(大川・ナレミャー・ミハージ)

トン・トト・トンの呼称は太鼓をたたくトン・トト・トンのリズムからきたものか?
           リズムは異なるようだが、今帰仁村湧川のウプユミとワラビミ
           チのときに小学生が湧川・勢理客・上運天・運天の祭祀場で
           小さい太鼓をたたくのと類似するものか?

トン・トト・トンの場所確認(午後6:00のメモ)

 旧7月23日のトン・トト・トンが行われるお宮・クランモー・フプガー(大川)・ミハージの場所の確認をしてきた。この祭祀がどのような流れで行われるのか楽しみである。お宮・大川・ミハージの場所はすぐわかったがクランモーはムラの方に教えてもらった。「一年に一回しか使わんから草ボーボーなはずよ」と。その通りであった。

 農作業帰りのおばあさんがフプガーに降りて手足と顔を洗っていた。フプガーの側の畑の手入れをしていたおばさんも手を休めて一服。そこで以下の会話。
  「フプガーの側の道、謝花に行くのですか?」
  「嘉津宇に行けるよ」
  「フプガー綺麗に掃除してありますね?」
  「この前よ、中の掃除したさ。あの木(棒)も取り換えたさ」
  「トン・トト・トンは太鼓の音ですかね?」
  「うん、そうだよ。こっけいだね」
  「昔は、家々を回っていたのですか?」
  「今は回っていないがよ、新しい家を回っていたさ」
  「クランモーの場所わかりますか?」
  「うん、仲里・・・、ウイヌジュンサ・・・の側の道を降りていくさ。年に一回
   しか使わないから草ボーボーだはずさ」
  「イェー、どこかで見たさ。館長さんでしょう。ほんものが若いさ!」
  「ありがとさん。ヘヘヘヘ・・・。」
  「みなさんも、シニグ踊るのですか?練習もするのですか?」
  「踊るよ。ウタの練習するよ。中学生の女の子たちもね」
  「今度のシニグ、応援に来ますからね」

.
    具志堅のお宮              お宮の内部  

.
  草ボーボーのクランモー(倉毛)      フプガーの香炉 

.
  清掃された具志堅のウプガー    ミハージのある具志堅の海岸 


2021年11月7日(

 午後から雨が止んだので恩納村名嘉真→安富祖→喜瀬武原(恩納村側)まで。喜瀬武原から東海岸の金武町の中川へ。喜瀬武原の御待毛あたりで記憶違いに気づく。やはり「浦島太郎」状態。記憶の間違いか、それとも物事の変化か。どちらもありそう。記憶に遺る間違いの訂正から。訂正はなかなか難しい。画像の差し替えも。

   (工事中)


2021年11月6日(

 
来週、恩納村の北の名嘉真・安富祖・喜瀬武原あたり回ろうと声がかかる。10年前恩納村にのめりこんだことがある。当時とは、だいぶ変貌しているのではないか。最近特に、、自分が「浦島太郎」になっていると自覚している。物事の多くが生き物のごとく変わっている、変わるものだとの視点は常にもっている。それで、恩納村のムラ・シマはどう変わっているのか、その確認をしたくて往くことに。(朝から雨と風、今日はあきらめるか!)下右の喜瀬武原のウマチモーは有志の方々が歴史文化センターを訪れどうすべきかの相談を受けたことがあり、その直後今の形(画像なし)に落ち着いたことが思いだされ。恩納村のノロ、恩納・金武間切との方切、間切の役人などについてまとめたことがある。

恩納村名嘉真

 名嘉真は金武間切から分割された村の一つである。『琉球国由来記』(1713年)に「神アシアゲ」とあり、そこでの祭祀に稲穂祭・稲穂大祭・柴指・野原祭があり、名嘉真ノロの管轄である。名嘉真にはマナツジ嶽があり、神名はマカサノイベヅカサである。名嘉真巫火神も祭祀場となっている。『琉球国旧記』(1731年)には、マナツジ嶽のほかに、泊頭嶽(神名:青筋司)と江伊普嶽(神名:青手司)がある。二つの御嶽は『琉球国由来記』では村名が記されていないため安富祖村域の御嶽のだと誤解を招く。名嘉真村には三つの御嶽があったが、明治38年頃三つの御嶽は合祀されたようである。

 名嘉真は大島、新島、浜の三つに区分され、大島に神アサギをはじめ地頭火神の祠や名嘉真ノロドゥンチなどがあり、名嘉真村の中心部であったことがしれる。脇地頭の屋敷はノロドゥンチの隣にあり、地頭地の田は伊武部にあったという(『恩納村誌』)。

・「沖縄島諸祭神祝女類別表」(明治17年頃)
 祝女部(五人)
   ノロクモイ一人、若ノロ一人、掟神一人、クシラ神、脇神一人
 祭神部(四ヶ所)
   神アサギ一ヶ所 ノロ殿内火ノ神所一ヶ所 後ノ御嶽 ジュントノキ御嶽  

 
    ▲安富祖の神アサギ          ▲脇地頭火神の祠(安富祖)
 
▲川沿いのマナツヅ嶽に合祀(名嘉真)  ▲マナツヂ御嶽の遠景(名嘉真)

【名嘉真の印部石】

 「へ ・・・たま原」の印部石(写真)は、名嘉真の希望ヶ丘(伊武部)に置かれていたという。建立は元文検地の頃。(恩納村史提供)
 

②恩納村安富祖の神アサギ

 安富祖も金武間切から分割した村(ムラ)の一つである。神アサギは何度が付近を移動しているようだ。神アサギの後方の森が森城嶽(神名:根立森イベヅカサ)である。アッタ(熱田、神名:コバウモリイベナヌシ)嶽もあり、本集落から離れた熱田(アッタ)にも集落が形成されていたようだ。安富祖ノロの祭祀である。安富祖の集落は低地に発達している。

 安富祖には安富祖巫火神と根神火神と神アシアゲがあり、神アシアゲでは稲穂祭、稲穂大祭、柴指、ミヤ種子の祭祀がある。神アサギでの祭祀に地頭(脇)が供え物をだす。神アサギ内には御嶽に向って線香をたてる石がいつも置かれている。神アサギ周辺にノロドンチ、村屋、アサギヌヤー、恩納小学校跡(明治26年に熱田に移転)などがあり、周辺がムラの中心地であった。

   (安富祖から名嘉真にかけて白陶土があり、山原船で壺屋にだしていた)

 
      ▲安富祖の神アサギ                ▲後方の森が森城嶽(ウタキ)


【喜瀬武原のウマチモー】(2009年2月26日メモ)

 恩納村喜瀬武原のメンバーが3月23日にやってくる。喜瀬武原にウマチモーがある。ウマチモーと番所を結びつけようとしているのかもしれません。それについての質問かと思われる。『沖縄県国頭郡志』(大正8年)に、以下のように記されている。御待毛と呼ばれていることから、王府の偉い方をお迎えしたのであろう。それと恩納間切と金武間切との文書などの引継ぎ場所でもあったであろう。(今帰仁間切と本部間切の「はがき」(文書類)の引き渡し場所をブジョマチモー、名護・本部・今帰仁間切の引き渡し場所はミツドテと呼ばれる。


     仲間からかいとて 久志辺野古までも 金武の美御前がなし 御掛親島(仲間節)

 是れ分割以前の詠にして、西海岸仲間より東岸久志辺野古に至る間すべて我が金武按司の御領地なるぞよとの意なり。
 当時の間切番所は恩納金武両村の間なるキシン原にありき。今同地に其旧祉遺存す。

 1673年に金武間切と読谷山間切の一部を分割して恩納間切が創設された。恩納間切が創設される以前の恩納間切は西海岸の名嘉間(仲間)・安冨祖・恩納は金武間切のうちであった。仲間節の歌詞は仲間もそうであるが、久志や辺野古までも金武按司の領地ですよと謡っているのでしょう。

 そのことは問題になるものではない。『沖縄県国頭郡志』に「当時の間切番所は恩納金武両村の間なるキシン原にありき。今同地に其旧祉遺存す」とあり、キシン原に恩納間切が創設される以前の金武間切番所があったと記されている。その記述が誤解を招いているのではないか。

 これまで他の間切番所と同村との関係をみていると、金武間切番所の所在は金武村(ムラ)である。キセン原にあった可能性は非常に薄い。「其旧祉遺存す」とあるが、旧祉は番所跡ではなくウマチモーのことではないか。それは現在でもある(あった場所は移動しているようだが)。

 ウマチモーであるが、漢字を充てると御待毛、お待ちする場所ということであろう。本部町具志堅にもウマチモーがある。今帰仁間切と本部間切の役人が文書や伝達などの受け渡し場所である。三つ土手という場所があるが、そこは名護間切と本部間切と今帰仁間切の三ヵ間切の受け渡し場所である。隣接する間切役人が受け渡し場所として待機したことに由来するのであろう。

 ウマチモーのある喜瀬武原は金武町と恩納村との境界にある。「元禄国絵図」というのがあるが、恩納間切や本部間切が創設される以前の情報の絵図である。それに「幸喜村大道より金武間切大道迄壱里三拾壱町四拾間」と記された道筋がある。幸喜村は名護間切である。喜瀬武原は大分金武間切(恩納間切)域に入るので名護間切との境界には位置していないので、名護間切と金武間切との関係ではなさそうである。ウマチモーのある場所からして、恩納間切が創設(1673年)されたことで、金武間切と恩納間切との引き継ぎの待機場所と考えた方がよさそうである。もちろん、後には島を出ていく方々の見送り場所として使われたでしょう。

 
▲恩納村名嘉間に建てられた仲間節の歌碑  ▲喜瀬武原にあるウマチモー(祠は昭和16年建立)

 恩納村全体で見ると、ウマチモー(御待毛)は三ヵ所にあるという。「王府時代の国頭巡検者を御待ちして、そこで籠の取次をした場所が御待毛である」と。三か所というのは恩納間切が読谷山間切と境(多幸山)、金武間切と境(喜瀬武原)、名護間切の境(名嘉間:伊武部)にあったと。

2021年11月5日(金)

国頭村辺戸】(2005624日)メモ(今回は与論島にいけるかな。3年前に行っている。)

 沖縄本島の最北端の国頭村の辺戸と奥の集落までゆく。「山原を見るキーワード」を探し求めて。もう一つは与論島に渡る予定が日程があわずゆくことができなかったため、辺戸の安須杜(アスムイ)から与論島と沖永良部島を見ることに。昨日は青空があり、何度か方降り(カタブイ)。こっちは大雨、あっちは青空状態。与論島と山原をテーマにしていたが与論島に行けず。それで与論島が見える安須杜から。

 
空の様子をうかがいながら、まずは辺戸岬から安須杜を眺め、目的より頂上まで登れるかどうか、体力が心配。息ハーハー、膝がガクガクしながらではあるが、どうにか登ることができた。後、何回登れるだろうか。

 安須杜はクニレベルの御嶽と位置づけている。辺戸には安須杜とは別に辺戸集落の発生と関わるシチャラ御嶽がある。安須杜は呼び方がいくもあり、ウガミ・アシムイ・ウネーガラシ・クガニムイ・アフリ嶽などである。ここで特徴的なことは、辺戸村(ムラ)の祭祀ではなく、クニレベルの御嶽だということ。

 『琉球神道記』(1603年)や『琉球国由来記』(1713年)に、

   新神出給フ、キミテズリト申ス。出ベキ前ニ、国上ノ深山ニ、アヲリト伝物現ゼリ。其山ヲ
   即、アヲリ岳ト伝。五色鮮潔ニシテ、種種荘厳ナリ。三ノ岳ニ三本也。大ニシテ一山ヲ覆
   ヒ尽ス。
   八九月ノ間也。唯一日ニシテ終ル。村人飛脚シテ王殿ニ奏ス。其十月ハ必出給フナリ。
   時ニ、 託女ノ装束モ、王臣モ同也。鼓ヲ拍、謳ヲウタフ。皆以、竜宮様ナリ。王宮ノ庭ヲ
   会所トス。傘 三十余ヲ立ツ。大ハ高コト七八丈、輪ハ径十尋余。小ハ一丈計。

とある。国上(国頭)の安須杜はアヲリ岳ともいい、三つの岳が画像に見える三つの突き出た所なのであろう。その三つの嶺(山)に一山を覆い尽くすようなウランサン(リャン傘)である。飛脚を出して王殿(首里城)に伝え、王庭(首里城のウナーか)を会場として、神女も王や家臣も装束で、鼓を打ち、ウタを謡う。そこに傘(高さ7、8丈、輪の径は10尋)を30余り立てる。

 今年(2021年)回の与論島行きは「与論と琉球の歴史」の整理と「シニグ」である。沖縄本島北部で行われるシニグと与論のシニグの比較。沖縄本島のシニグは海神祭やウプユミなどが統合しているのではないか。

【辺戸のシニグ】(「沖縄国頭のシヌグ祭」宮本演彦 昭和27年より)
  ・一日目 男の子数人、昼間ミイハンチャ(野牡丹)の花の被りものをして各戸を訪れる。
  ・二日目 一村の男子は、シヌグドウに集まる。この首領はノロの男兄弟の大瀬頭と勢頭
         とである。
         一村の女子は神アシャギに集まり、臼太鼓をなす。男子一同行列作り昼七回夜
         七回、神アシャギに行き戻りし、その間、端(ハ)踊りうつづける。行列の先頭
         には、旗持ちが行く。行列の傍らには芭蕉布を被り、夕顔に人面を描いた頭を
         頭上にのせ、藁製の五本指の掌を、左右の手とした二人の者が加わる。これ
         は三十数年前より絶えてしまった。この二人はアシャギ庭に着くつ衣装う脱ぎ、
         一人は弥勒、一人は猿の面形をつけてカギヤ風を舞う。
  ・三日目 女子達一同、シヌグドウに到り、仮屋から男たちを引きずり出す。その後、歌舞。
     
 http://yannaki.jp/kakogazou/9he08.jpg
       ▲辺戸岬からみた安須杜(アスムイ)

http://yannaki.jp/kakogazou/9he09.jpg
 http://yannaki.jp/kakogazou/9he10.jpg
 ▲安須杜からみた辺戸の集落と与論島               ▲辺戸岬からみた与論島

http://yannaki.jp/kakogazou/9he11.jpg
 http://yannaki.jp/kakogazou/9he12.jpg
   ▲国頭村奥の集落、海上に与論島が                   ▲国頭村奥の港(干潮時)


2021年11月4日(木)

 国頭村奥や安田安田のシニグ(2001年調査参照)では、シニグとウンガミとは隔年に行われている。『琉球国由来記』(1713年)でも隔年に行われている。国頭村の奥のシヌグがモデルになるのではと見ている。他の地域の海神祭(ウンジャミ・ウンガミ)・シニグ・ウプユミの中にシニグが埋没、あるいは統合されているのでは、そこの部分を「流れ=シニグ」と捉えてきた。奥のシヌグに「流れ」部分に「凌ぐ」がよく現れている。その視点で与論島と沖永良部島のシニグに「ムラを凌ぐ、清める」部分がどう引き継がれているのか。

【奥のシヌグ】(ウンガミと隔年に行われる)

 「シヌグ」の場合は、ノロ以下女子の神職は「アサギ」(氏神社の庭)に庵を結んで三日間神籠(カミゴモリ)をする。「アサギ」はノロ殿内の拝所の後方に広がる広場であったが現在は奥区公会堂が出来ているので、この公会堂の一隅に神籠りをすることになっている。

 神籠りが明けると神人達は神酒を一杯づつ区民に振舞う。根人は現在の郵便局の北側の空地(俗称「シヌグ堂毛」)にシヌグ堂を作って三日間こもる。神籠り明けの日には、部落の男達がシヌグ堂前に集まり、その中十四人が、七名づつ二組にわかれ、「ミヤギムイ」の背後の山に別々の径路で入て行く。二隊は「ヘーヘサレー」「フーヘー サレー」と互に呼び合いながら山中深くわけ入り、「シバキ」と呼ばれる木を根こそぎにしてもち帰り、部落入口で再会する。部落の入口では、部落の子供達が、「チヌマチガンサ」というかずらで鉢巻をして、これに「ミーハンチャ」といい植物の赤い花をさし、山に入った十四名をまち受け、彼等が部落入口に入ると鉢巻を取って「シバキ」にかけ、相伴って部落に入る。部落に入る前に男達は七回輪をなして旋回する。

これら十四名の男達と子供達はアサギで神人達に迎えられ、七回ぐるぐる回り、神人達に率いられて浜にでて、シバキを海に流して帰る。その日は日暮れ近くなると部落の男達はシニグ堂に、女達はアサギに集まる。シヌグ堂では祝い酒が振舞われ、更に余興として次の様なことを行う。炭焼釜の如きものを作り、その中で火を焚き、男数人でこの火を守っている所へ、部落の女達が手に手に水の入ったバケツや桶などをたずさえて来て、釜の中に流しこんで火を消そうとする。火を守る男達は火を消させまいとして、ここに男女入り乱れて水と泥の中に乱闘が演じられる。夜は更け宴は酣となり、大衆の興奮はいやが上にも高まり、折から釜の火にてらし出される男女の乱闘はいよいよ観衆の熱を煽るものであるといわれる。



2021年11月3日(

 沖永良部島(和泊町誌)の沖永良部島と琉球国の時代を描くのに古琉球の辞令書とのろ家の遺品を手がかりに、「おもろ」や伝承に登場する出来事を「北山の時代」「首里王府の時代」、その後の時代と細目の時代区分を想定し、「おもろ」に謡われる地名、歴史伝承、人物、シニグなどみていくことに。その視点は『なきじん研究 3』(うまく行くかは?)

 
▲シニグ文化圏           ▲琉球国から奄美を見る視点

奄美・先島・久米島へのノロ辞令の発給と首里王府の統治

 ノロ関係の辞令書から継承を見ると、元のノロの妹、姪、孫、姉妹、嫁である。勾玉調査のほとんどがノロ家であることはうなずける。ノロの継承と勾玉を所蔵しているノロ家とは密接な関わりがある。今回の調査した玉製品(特に玉ガーラ、勾玉)は以下の辞令書を所蔵、あるいは所蔵していたノロ家は、久米島の君南風、名柄ノロ、大熊ノロ、中城ノロなどがそうである。それは首里王府の本島各地・宮古・八重山や奄美の統治の様相を示すものである。それで歴史を見ていく上で同時代史料として見ていくことができる。今回は特に奄美地方を見ていく上で宮古・八重山と琉球国の版図に組み込んだ様相と似ている。奄美に遺る辞令書やノロ遺品に奄美(喜界島・奄美大島・徳之島・沖永良部島・与論島)の古琉球の時代を見ていく手がかりになる歴史史料とみている。

・「君南風の大阿母知行安堵辞令」(嘉靖45年:1566)(知行の安堵)
・「鬼界の東間切の阿田のろ職補任辞令」(隆慶2年:1568)(奄美)(元のノロの妹)
・「那覇の大阿母職補任辞令書」(万暦10年:1582)(元の大あむの姪)
・「那覇の大阿母知行安堵辞令」(万暦10年:1582)(元の大あむの姪)
・「屋喜内間切の名柄のろ職補任辞令」(万暦11年:1583(奄美)(元のノロの姪)
・「金武間切の恩納のろ職補任辞令」(万暦12年:1584)(元のノロ子)
・「名瀬間切の大熊のろ職補任辞令」(万暦15年:1587(奄美) (元のノロの姪)
・「君南風の大阿母知行安堵辞令」(万暦23年:1595)(久米島)(知行安堵)
・「徳之島西銘間切の手々のろ職補任辞令」(万暦28年:1600)(奄美)(元のノロの子)
・「瀬戸内西間切の古志のろ職補任辞令」(万暦30年:1602奄美)(元のノロの姉妹)
・「今帰仁間切中城のろ職補任辞令」(万暦33年:1605)(元のノロの子)
・「今帰仁間切の具志川のろ職補任並知行安堵辞令」(万暦35年:1607)(元のノロの子)
・「羽地間切大のろくもひ職補任辞令」(天啓3年:1623)(元のノロの孫)
・「羽地間切の屋嘉のろ職補任辞令」(天啓5年:1625年)(元のノロの孫)
・「今帰仁間切中城のろ職補任辞令」(隆武8年:1652)(元のノロの子か)
・「八重山の大阿母職補任辞令」(道光23年:1843)(宮古・八重山)(八重山大阿母の嫁)
・「八重山島の大阿母職補任辞令」(咸豊元年:1851)(八重山大阿母の姪か)

主な参考文献 
 ・『折口信夫全集』第22巻:223頁 
 ・『女官御双紙』(上・中・下)
 ・『沖縄県国頭郡志』大正八年発行 国頭郡教育会
 ・『じまむら』久米島儀間 宮城幸吉(平成元年発行)
 ・「伊是名村名嘉家の旧蔵品の解説書―伊平屋の阿母加那志の衣装・諸道具―」
  (平成22年発行)伊是名村教育委員会
 ・「琉球の女巫佩用の玉」『沖縄教育』(昭和8年)喜田貞吉
 ・「久米のきみはゑ五〇〇年―祭祀用具にみる神女の世界」(特別展図録)(2001年)
  久米島自然文化センター
 ・「伊是名村銘苅家の旧蔵品および史料の解説書―公事清明祭をめぐる公文書とご
   拝領の品々」(平成19年)伊是名村教育委員会
 ・『山原の土俗』島袋源七(昭和七年)
 ・『沖縄の古代部落マキョの研究』」稲村賢敷著
 ・『伊波普猷全集―古琉球の祭政一致と島津氏の南下』(第二巻)65頁。
 ・『辞令書等古文書調査報告書』(沖縄県教育委員会 昭和53年)
 ・『比嘉春潮全集(歴史)』所収の辞令書(1652年)
 ・『かんてな誌』名護市仲尾(1983年発行)所収の辞令書(1623年)

・今帰仁阿応理屋恵(上級神女の勾玉)

 河村只雄は「アオリエ按司の勾玉は計八・五センチの大きな黒い色をした丁字頭の二本ついた勾玉を中心に二十一の小勾玉が連なったものである。小勾玉には丁字頭の二本のもの十個、三個のもの二個、なきもの七個、子もち勾玉的のもの二個であった」とある。島田貞彦も昭和7年に報告しているが、それによると「この按司の勾玉は大形勾玉一個、硬玉勾玉22個、水晶丸玉28個からなっている。一連の勾玉が祭祀と関わる公儀ノロの遺品であることは間違いないが、それが祭祀、あるいは祈願(ウガン)にどのような意味づけがなされていたのか、そこまで踏み込んだ記述がみられない。また勾玉を丁子頭勾玉と丸玉、定型勾玉、獣形勾玉と分類されている、が祭祀を行う神女(ノロ)が、その違いまで認識して佩いていたものではなかろう。

 『女官御双紙』(1705年)や『琉球国由来記』(1713年)に「今帰仁あふりやい代合之時、言上は御自分より御済めしよわちへ、御拝日撰は、三日前に、今帰仁あふりやいより御様子有之候えは、…今帰仁あふりやいより、みはな一つ、御玉貫一対…」とある。今帰仁阿応理屋恵代合(引継)の時、「玉かわらはき」とは記されていない。伊平屋ののろ二かや引継の時のように「玉かわらはき立御拝」をしたのかは、そこでははっきりしない。その時、「御印判」(辞令書)は勢頭親雲上から御拝の日、早朝、首里殿内へ持って来られ、首里大あむしられより今帰仁あふりやいへ上申されている。御印判(辞令書)の交付の時、勾玉を佩いて儀式に臨んだのかどうか、ここでははっきりしない。但し、伊平屋ののろ、二かや田代合之時、玉かはらはきの後ろに、「噯間切のろくもいた代合之時も、右同断」とあり、今帰仁アオリヤエも引継の時、勾玉を佩いて儀式に臨んだ可能性は十分ある。同じく『女官御双紙』に今帰仁アオリヤエが「御城参昇の時、とも備」、「金釵一個、玉珈玻ら一連、玉草履一足、前々より有来」とあり、それらの文面からすると登城の時、勾玉を持参していったことは間違いなさそうである。

弘治年間に尚真王の第三子の今帰仁王子朝典(尚韶威)が北山監守となり、その次男の南風按司朝白(介明)の娘が阿応理屋恵に任命され、これより数代継承されている。その頃の今帰仁阿応理屋恵は運天にある大北墓に葬られている。それ以来継承されてきたのが大正の頃の「今帰仁村今泊阿応理屋恵按司所蔵品目録」(沖縄県国頭郡志)にある「冠玉たれ・冠玉の緒一連・玉の胸当・玉の御草履一組・玉かはら一連・玉かはら一大形・二十二小形・水晶の玉百十六」であろうが、その一部が今帰仁村歴史文化センターで所蔵している。

阿応理屋恵まがたま 007

・中城ノロの勾玉と祭祀と継承儀礼

 中城ノロは間切クラスのノロの一人である。中城ノロの継承についての具体的な事例の一つである。中城ノロが所蔵している勾玉と水晶玉、一連の玉かはらを佩き祈りをしている場面である(画像)。勾玉や水晶玉にどのような役割と意義づけをしていたかはノロから聞くことはできない。中城ノロが正装して関わる祭祀は「七月陰暦後亥日ハ大弓ノ祭」と「旧八月十日ハ怪火ノ祭」(中城ノロクモイ勤務)である。その様子を「七、八月ノ其日ハノロクモイ年中行事ノ最大ナル勤めナレバ、正装シテ馬ニ乗リ、下司ハ馬ノ手縄ヲ引張って五ヶ部落、神アシヤギヲ回リマス。御供ノ神人モ氏神以下崎守モ同道シマス。昔ハ壮観デシタガ現在ハ略式デ馬上ニ乗リマセン」(注36)と祭祀の様子が記してある。その時、勾玉を佩く。また、昭和の初期のノロ引継のとき、勾玉持参で行っている。



・中城のろ家には戦前まで以下の辞令書が保存されていた(昭和4年:平敷兼仙『御案内』、宮城仙三郎記録)(戦争で焼ける)。上の玉ガーラ(勾玉)水鳥の水差の三彩)、簪はなし)のろ家の男方は首里王府任命の役人。

 ①与那嶺の大屋子宛辞令書(嘉康42年:1563年)
 ②浦崎の目差宛辞令書(万暦14年:1586年)
 ③玉城の大屋子宛辞令書(万暦14年:1586年)
 ④中城のろ宛辞令書(万暦33年:1605年)
 ⑤与那嶺大屋子叙任辞令書(万暦40年:1612年)
 ⑥与那嶺の大屋子叙任辞令書(崇禎16年:1643年)
 ⑦中城のろ宛辞令書(隆武8年:1652年)
 ⑧本部目差叙任辞令書(順治13年:1654年)
 ⑨西目差叙任辞令書(康煕3年:1664年)
 ⑩上間大屋子辞令書(寛文7年:1667年)


2021年11月2日(火)

 沖永良部島のノロ家の遺品について紹介したが、比較のため大宜味村の屋嘉比のろ家の遺品を紹介。大宜味村は1673年に国頭間切から別れるので、それ以前の以前の首里王府からの叙任であれば、「くにかみまきり」であろう。竹筒に墨書された「やかひのろくもひ代合之時」、同竹筒の「□□四拾二年□□」の年号がわからないか。のろ辞令と玉ガーラ(勾玉)とカブの簪は同時ではないか。他の遺品については「代合之時」とあるので継承時に与えられたものと見ることができそう。(そのことについては未解決) 入れ物に竹筒を利用しているのに興味がある。

2015年10月6日(火)「大宜味村史」調査(仲原・新城・河津、城のろについては前田国男氏)

 大宜味村田嘉里の屋嘉比ノロ殿内の遺品の調査を行う。大宜味村屋嘉比の方で紹介してあるがここでも。大宜味間切には屋嘉比ノロ、城ノロ、田港ノロ、津波ノロの四名。大宜味間切と国頭間切のノロは首里大アムシラレの管轄である。

http--yannaki.jp-takazato.html(田嘉里)

【古琉球の遺宝】200872日(水)「寡黙庵」紹介(新聞記事より)

 昭和10年頃の新聞記事かと思います。数年前にいただいた記事。読みにくいので紹介しましょう(判読できない文字はで)。勾玉や水晶玉などへの、当時の評価がしれて興味深い。また、今では失ってしまったものがあり、戦前どのような遺品があったのか知れ調査の手掛かりとなるであろう。

   古琉球の遺宝
     県外流失を免がれ 郷土参考館へ所蔵

 県教育会郷土参考館では日本夏帽沖縄支部松原熊五郎氏秘蔵の
永良部阿応理屋恵の曲を今回三百円で譲り受け、永く郷土参考資料とすることになった。本品は元小禄御殿の伝宝にかかり同家大宗尚維衡(尚真大王長男)より四世に当る大具志頭王子朝盛の室永良部阿応理屋恵職の佩用したものとみられている。これに関し教育会主事島袋源一郎氏は語る。
 此曲玉は永良部阿応理屋恵職の佩用したものらしいもので同人は穆氏具志川親雲上昌娟の女で

 童名思戸金と称し天啓三年に亡くなった人で永良部阿応理屋恵なる神職は小録御殿の家譜及び女官御双紙にも同人以外には見当たらないから慶長十四年島津氏琉球入の結果大島諸島は薩摩へさかれたので其後廃官になったものと思われる。しかし同家では尚維衡が王城を出られた時に持って出られたのだと伝えている中で、この曲玉は前年大に送うて調査の結果何れも曲玉の石の原産は南支地方であろうとのことで、曲玉は三個で水晶玉(白水晶と紫水晶)百一個が一聯になってをり、又と得がたき宝物であるが松原氏は数個所より高価をもって所望せらるるにもかかはらず、その県外流出を遺憾とし県教育会へ原価で提供されたもので、その心事は頗る立派なものだ(写真は得難き曲玉)。


【大宜味村田嘉里の勾玉(玉ガーラ)・簪・脇差(刀)】

 大宜味村田嘉里の屋嘉比ノロ殿内の遺品調査。竹筒二本。大きい竹筒の勾玉と水晶玉(ガラス玉)。大きい竹筒に「屋嘉比のろくもい代合之時日誌」と墨で書かれている。竹筒の蓋の内側にも墨字がある。大の竹筒の中に勾玉と水晶玉(ガラス玉)が納めれていた。
  ・緑色かかった勾玉一個
  ・水晶玉(ガラス玉) 二つの輪になっている。(勾玉側□個)
   小さい竹筒に、
  ・簪(かんざし)
  ・小玉の勾玉(玉飾り)(青・乳白色・半透明)(玉ガーラ)
  ・外れた勾玉一個(青)

【脇 差】

  ・刀剣(柄部分なし、棟区(むねまち)・刃区(はまち)・目釘穴・鎺(はばき)・反りあり・全長□㎝・刃長(□㎝)
  ・鞘(下緒がついている・栗・子尻)・鍔や切羽は失っている)
  ・刃長□cm  鉄 鍛造  目釘穴1個 

【竹筒にのろ代合の年?】

 「屋嘉比のろくもい代合之日記入箱」の墨字がある。また蓋の内側に同墨書きがる。それとは別に「□□四拾二年□□」の線堀がある。琉球で使われてきた中国年号で「四拾一年」以上あるのは、嘉靖(1562年)と万暦(1613年)と康熙(1702年)、そして乾隆(1776年)の四時代である。その年代が特定できると勾玉、簪、脇差などの遺品が、首里王府から就任、あるいはノロの交代時期がわかる。それと竹筒に「代合之時日誌」とあるのは、それ認証の辞令書が複数枚あった可能性がある。

 注目されるのは、それらの遺品(10枚近いのろ衣装)と「おもろ」で謡われた「やかひ杜」と屋嘉比ノロの存在である。やかひ杜はういグスク(根謝銘グスク)の大城(『琉球国由来記』の見里村の中城之嶽」をさしている可能性がある)、屋嘉比巫火神は見里村にあるからである(ノロ家は麓から現在地に移動したという)。

 
▲二つの竹筒と簪と勾玉と水晶玉など    ▲脇差(刀剣と鞘と鎺(はばき)

 
▲勾玉と水晶玉(ガラス玉)(玉ガーラ)   ▲「□□四拾一年□□」の線彫がある

 
   ▲簪のかぶ部分              ▲勾玉(玉ガーラ)や簪などをいれた竹筒

【国頭間切(1673年:大宜味間切)】城のろ殿内の遺品                
                          
    
     ▲大宜味村謝名城の城ノロ殿内の遺品。根謝銘(ウイ)グスクの祭祀の要になった城ノロ)

 2017年10月2日(月)大宜味村謝名城のノロ殿内の遺品の調査を行った。その現場での簡易実測図である(河津:大宜味村史編纂室)。「大宜味間切城ノロについて、明治43年11月28日(沖縄毎日)の記事で以下のようにある。

  謝名城の丘上に古城趾あり。今尚村民の崇拝する処にして遺物たる曲玉、今は野里氏の
  蔵するところたり」とある。勾玉があったことがしれる。

 他に「城ノロクモイ所蔵」として、以下のように記してある。
   一、宝物(黄金簪一ツ、花ノ周囲六寸五分、竿長三寸五分)
   一、水晶の玉(頸環)大四十九個、小五十一個
   一、絹衣 大一枚、小一枚
   ・サバネ
   ・ハビィル玉(謝名城)

上記のように勾玉や簪などが記されるが確認できなかった。今回確認できた遺品は以下の通りである(香炉は略)。

 ①漆器丸櫃(小:約高さ19cmか)黒漆に沈金、模様、内部漆の朱塗り
  ・蓋(黒漆塗り)(数点に壊れているので、図柄や模様については専門家に依頼予定)
 ②竹筒(2本)
 ③瓶子(対)(錫製)・・・の魚々子鏨が見られる。
 ④湯沸かしの蓋のみ(鉄製)
 ⑤茶択(四枚:黒漆塗)
 ⑥丸形の酒注
 その他(青磁の香炉と花瓶) 文書や勾玉などなし)

  
    ①沈金丸櫃(破損)     ②竹筒(大)        ②竹筒(小)            ③瓶子(対)

  
④湯沸かしの蓋(鉄製)     ⑤茶托(4枚)同大きさ)     ⑥丸形の酒注      ⑥沈金丸櫃の蓋


2021年11月1日(月)

沖永良部島のノロ家の遺品
                                 

 沖永良部島のlノロについて把握しておきたい。それは古琉球と奄美の関係を見ていくことにつながると考えているからである。奄美地方全域についてみていく必要があるが、まずは11年前にまとめた「奄美のノロ制度」(2007年11月)を把握してから。当時、沖永良部島に辞令書が確認されていなかったことから触れなかったような。沖永良部島の四家に勾玉や簪などノロ関係遺品があり、ノロへの辞令書の発給と勾玉や簪などの発給はほぼ同時ではないかと考えている。「奄美のノロ制度」をまとめたとき、辞令書は視野に入れたが、ノロ家の遺品については視野になかった。というよりは、それらの遺品を歴史の流れに組み込むことができなかった。これまで、ノロ家の遺品を見てくると、ノロが関わる祭祀が、琉球国を統治する手段であることに気づかされる。祭祀そのものが、琉球j国が統治していく公休日(神遊)であり、祭祀の祈りが国の安泰、航海安全、五穀豊穣(税)などである。祭祀は歴史の変化しにくい部分を踏襲している。

 今回の調査の目的は、ノロ家の遺品がいつ作られたのかを目的としているわけではなく、1500年代中央集権国家形成のときの一翼をになったノロ制度がどう継承され、また奄美地方にノロ遺品を通して古琉球の姿をみていこうとするものである。(沖の江良部島には以下の四件のほかにもノロ家があるが、目にしていないので触れない)

 その視点で沖永良部島のノロ家の遺品を再度目にしておきたい。(画像は2018年4月13日撮影)

【沖永良部島のノロ関係遺品】

・和泊町国頭ノロ(沖吉家)
  ①玉飾り(一連:玉数77個数)
  ②玉飾り(二連つなぎ)
  ③玉ガーラ(一連:水晶19個)

   (今回未調査)

・和泊町畦布ノロ(森家)
  ①玉ガーラ(一連:勾玉1個、水晶玉23個)
  ②玉ガーラ(一連:勾玉なし、水晶玉20個)
  ③玉ガーラ(三連を一か所で結ばれている)(勾玉なし、水晶玉77個)
  ④簪(カブ)
  ⑤シニグ旗
  ⑥衣装
  ⑦丸櫃(大・小あり)(漆塗、それぞれに掛子あり)
  ※森家の近くに「のろばんとう」がある。

    

・知名町瀬利覚ノロ(林家)
  ①玉ガーラ(一連:勾玉2個、水晶玉56個)
  ②丸櫃(漆器・大部剥離している)

     

・知名町住吉ノロ(福永家)
 ①簪(かぶ)と髪差
 ②馬の轡
 ③玉ガーラ(勾玉は木製?)
 


 

※ノロ家の遺品調査は2009年10月26日~31日の奄美調査に参加。沖永良部島は10月29日、30日。「沖縄のガラス・玉等製品関係資料調査報告書」(沖縄県教育委員会:2011年3月)で「ノロ祭具の中の玉製品」として報告。そのとき、ノロ家の簪や辞令書やシニグ旗や丸櫃などの撮影をする。上の画像は2018年4月13日撮影。

 10月30日(土)沖之永良部島の積み残しを気になりながら、名護市東海岸の大川→瀬タケ(久志間切番所ガー)→汀間まで。目的地は汀間。沖永良部島に続いて連続の調査。

 汀間は2010(平成22)年9月17日(金)調査を している。汀間のウイミ祭祀に持参された玉ガーラ(勾玉)や衣装など。今回は仲宗根政善先生寄贈資料(歴史文化センター所蔵)の『国頭郡志』に糊付けされた松田国昭氏の「久志村汀間のお祭記録」の件で。松田氏は仲宗根先生の琉大での教え子(汀間出身)で、教員をされた方のようでした。汀間を訪れたY氏の恩師でもあった。遺族は汀間にはお住まいではないようでした。貴重な調査記録と写真なので「汀間字誌」に収録できないかの確認。

  

 Y氏から何点からの質問あり。「おゑかち」、ウタキ、ウクンダリなど。汀間のウタキ内のイビヌメーの祠に月と太陽が描かれているが何の意味? この祠はセンメントが出始めのころの建物、明治初期に江戸が東京、陰暦から太陽暦に。しかし琉球はなかなか太陽暦に一本化できず。祭祀は今でも旧暦(陰暦)。それで両方を記したのでは。(国頭村与那の海神祭のとき月と太陽を模した板棒(名称?)を持参して海岸まで行列)。
  
▲ウタキ内のイビヌメー   ▲右上の祠はイビ          ▲汀間のウタキ


 10月26日の記録ですが、パソコンが固まり編集ができず、新しく11月を作成。

沖之永部島を往く20211021日~24日)仲原

 今回の沖永良部島往きは『和泊町誌』の私の分担部分の確認である。まず「中北山」が怕尼芝(パ二ジ)滅ぼされた離散した一族の伝承(国頭(根謝銘・ういぐすく)、名護グスク、石川の伊波グスクの伝承、中北山の各地に離散した一族の伝承、そして怕尼芝の弟(二男)と三男の歴史伝承を見ていく必要があるのではないか。その時代と与論島・沖永良部島。その時の山北三王(ハニジ・ミン・ハンアンヂ)の明国との交易記録がある。その時代の山北は隆盛を極めた時代で、明国・朝鮮、東南アジア(ベトナム・タイなど)と貿易を行っている(明国への貢物の品々)。その時代は次男・三男を派遣していて北山の影響は大である。

 1416年ハンアンジが滅ぶと、その後は中山との関わりとなる。その時のことを「和睦」なのか討伐なのか。『世乃主由緒』(平安統記録)の「折柄中山より和睦の使船数艘渡海有之候由」とあり、その後は北山ではなく中山の統治である。その区切りとなり、中山の中央集権国家の統治下(1500年代)に置かれることになる。それから1609年までの薩摩軍の琉球侵攻までの時代である。

 その時代と関わる史料に、首里王府が奄美の役人やノロへの辞令の発給、ノロ辞令とカブ型の簪と勾玉(玉ガーラ)は辞令の発給とセットとみている。神衣装や御玉貫や鳩目銭など引き出物や祝儀として賜っているので、時代は後まで続き、琉球だけでなく奄美でも近世まで続く。それは琉球の儀礼が薩摩以降まで続くということになる。

奄美に辞令の発給がなくてもノロ制度が生き延びたことになる。それが喜界島、奄美大島、徳之島、沖永良部島、与論島に遺っていることになる。今回扱う沖永良部島に辞令書はまだ確認できていないが、ノロ遺品の勾玉と簪(かぶ型)が遺っており、古琉球の時代を見ることができる。その時代は辞令書とノロ遺品と並行しながら、「おもろ」や「家文書」の地名や役職名、シ二グの行事の流れなど見ていくことができそう(実証的に)。そのことがあって知名町の上城と下城へ。島への女人の入り方はシ二グの本質をついているかもしれない。

天気が悪く、それと夏場の調査が多いので夕方七時頃まで踏査するが、今回は雨と夕暮れが早く時間切れ。会議が始まるまでの午前中、与和の浜、コンクリートの小屋後あり。砂糖の小屋とのこと。そこから古里へ。前日も皆川から通っているが気づかず。皆川の川が気になっていた。皆川でシニグドーとニャークバカとフークツクバカを見る。碗が十基近くあり、第一の印象は古琉球と薩摩以降(1609年)とさらに明治4年以降の重なりが見える。

勢理客のジッキョヌホーや住吉のクラガーと高倉へ。皆川にも水量の多い川がある。皆川の名のとおり水に恵まれた地である。以前に住吉ノロの遺品の調査をしたことがある(沖縄県の玉ガーラ調査)。福永家まで訪れる時間なし。そのころの娘さんはどうなったことか。そこからどう廻ったか不明。徳時、大津勘、屋子母へ。公民館に立ち寄ると区長さんの姿が見えたので、「浜番」について聞く。「自転車道路沿いにあるよ」とのこと。見つけました。琉球との関わりが説明してある。

 一日伸ばして、知名町を中心に回る。和泊町と知名町の道路は放射状に交差している印象。ちょっとずれると再び同じ道を通っている。世の神社で説明があるというので参加、そこに藤井氏と桂氏が来られ説明してくれた。伊地知君が世の主の歴史的な話をしてくれ、頭の整理ができた。世の主神社(内城)は二回目、そこから下り、谷間の人家のある場所まで。沢があり畑地は砂地である。田には向かない地質のようだ。大型の竹や芭蕉がある。そこからウファ―チヂの標識を目にしながら与之主の墓へ。何枚も画像に納める。内城へ。

 そのあたりから頭に描いていたストーリーが崩れてしまう。

 立て直して、知名町よりの山手の集落へ。和泊町側に玉城・内城・大城がある。それと後蘭、後蘭孫八の居城跡と墓がある。「おもろ」に謡われた人物である。そこにもヌルバンドーがある。天気が悪く、墓のある入口まで。どう廻ったか記憶が交差しているが、伊延の西郷隆盛が到着した碑のたっている場所。



   
 ▲徳之島町資料館展示(手々ノロ辞令書)     ▲ノロ遺品(丸櫃)   ▲手々ノロの簪(2本) (資料館提供)


永良部島のろ

 ・沖永良部島の世之主(北山王の二男)(幼名真千代)の子孫が後に大屋役を世襲        宗武重所蔵)「嘉永三年世乃主かなし由緒記」
 ・中山王と上城ノロとの間に生まれた王子とのこと。
 ・北山王系の世之主は、二代目のとき中山王からの討伐で自殺。
   各村に世襲のノロいた。えけり・おなり、百とともに旧家の女性が継承。

 【ノロの支配統治】

 大あんしられ・ノロ・ウカシア・ミチサジ 男子の百

ノロの財産

   ヒャー田 ヒャー畠

【ノロが関わる祭祀】

  ・八月十五日 旧 シニグドーで八月踊りをした。
  ・八、九~十月 乙酉 シニグ祭り

廃絶の理由

 安政二年(1885年)以来極端な弾圧、明治2年(1869 )の廃仏飢釈、シニグも廃止

【沖永良部島のシニグ】

 本島のノロの姪と琉球王との間にできた王子(怕尼芝の弟、真松千代)で本島の与の主となり、三年に一度巡視、その歓迎の為の儀式  世の主以前からあった祭り
(収穫を感謝し、豊作凶作を占い、豊作祈願として祭で、世之主以前からあったもの後世に百が主宰となるか。

 百が御使いをつかわして上言をのび、シニグ後の与人の島周りに大アンシャリが参加。
 ノロ中心の祭祀  薩摩の支配後、士族中心の武的行事となる。

①隔年行われる。 祭のある年はシニグ年、ない年を神なし年
②祭は九月、十月の乙酉(きのととり)の日
  ①祭前  余多・屋子母・西見の百は各自の百を引率して、与人・大あんしゃり・
    目差などの家をめぐる。(お使いという)
  ②三日前には尻縄(しじゃたみ)があり、馬具を改め、乗馬の乗りためしをする。
  ③祭りの前夜、与人たちは内城に夜籠りをする
   翌朝』与人旗」を押し当てて、騎馬隊を引率し世之主側を擬するもの(赤装束)、
   反対側のもの白装束とに分かれてシニグヅに集まり、さらに集庭に赴いて模擬戦い。
   世之主側が勝つことになっている。

  ④シニグ終了後
  与人三人・目差三人・百一人・本掟三人・城サバクイ一人・大アンシャリ一人

    白装束で、
   一日目 余多(アマタ)―屋者(日帰り)
  二日目 久志検―屋子母(泊)
  三日目 屋子母―西見(泊)
  四日目 西見―内城
    (全島を一周)
     内城の与之主墓を拝み、そこに供えてある酒で豊作・凶作を占い、
     住民の相撲をみて解散する 

    ※「初シニグ祭」、前シニグ後に生まれた衆多の男子のために行う祭儀がある。

   ・シニグ祭一周間後、には役員の慰労のため当たりシニグが百の家でおこなわれる。
・西見にはウツタハチブルがあり、男二人は舟を漕ぐまねうする。女装の男二人は太鼓を打っ て踊りをする。上城から出発し稲葉のウッタ墓の中からハチブル(面)をかぶって西見で種 々の戯れをなす行事。 

 ・シニグ祭には騎馬戦や供酒、豊凶占い、農業関係の祀りあり。
   ウツタハチブルで太鼓を打って踊る中で舟漕ぎの所作あり。村村の巡視は悪魔払い

和泊域のシマ(シマ)
    ①大城間切  ②喜美留間切  ③久志検間切

 1857年(安政4)に方制(和泊方)(14カ村)(明治5年に方制は廃止)嶋役人 戸長

 ①和泊(伊延)祝女「こしゑい」 和泊湊「正保琉球国絵図」
     1749年知名村に漂着した唐船の乗組員17人和泊の本御蔵に囲い琉球へ。
     1734年伊延湊 朝鮮船 琉球ではなく肥前長崎へ。
 ②手々知名
  ③喜美留 
  「正保琉球国絵図」に村名はないが、「きびる間切」と「きびる浜」がある。
  元禄以降久志検間切の内、1857年から和泊方
  ④国頭
  世之主の家来クンゼーヤタロウという豪族。
  はじめ久志検間切の内、明治4年和泊方
 ⑤西原
  久志検間切の内、和泊方へ。
  ジョーバルに神石あり、集落内にシングドーあり。
 ⑥出花(デギ)(デーは竹のこと)
     喜美留間切から和方へ。シニグドーあり。イキント溜池周辺でシニグ祭が
      おこなわれていた。
 ⑦畦布
   きびる間切の内あぜふ村  和方へ。ヌルバンドー石あり
 ⑧根折
    喜美留間切から和方へ
 ⑨内 城
   東部の集落はウイグスク(上城)とノーシグスク付近にあり。世之主の居城あり。
   「おもろさうし」でうたわれる。次男真松千代が渡島。イニャトウ→フバドー→
   シニグ祭が行われる。 
   喜美留間切から和方へ。

  集落のあるウイバル、花崗岩が風化した地質。おもろで大ぐすく
   ゴラルマゴハチに築城
  シニグ祭のとき間切役人の与人が城跡周辺に依籠り

 

 ・出城・直城・上城

     旧家の確認
     ・ソーヤシキ ・イゾウヤシキ ・ノーシヤシキ ・アガリゾウヤシキ 
       ・ヘースクヤシキ ・ウワーナスクヤシキ  
 ⑩大 城
  大城間切あり。川内の百
 ⑪皆 川 
  村名のイニャーグは稲と川に由来。石橋川があり、世之主が巡回のときの休息場
  シングドーがある。
  シニグ祭のとき、大城・久志検・喜美留の三間切の与人が白装束で与人旗・衆多旗・
  百姓旗を持って騎馬隊を率いて集まる。太鼓をならして模擬たたかい。

 ⑫古 里

⑬玉 城
  フバドー
 ⑭和
  ・シマアタイ・メーマアタイ ・ミームアタイ

・明治41年(1908)に和泊村が成立 これまでの村は大字となる。

 今回の沖永良部島行きの目的にシニグ祭を「流れ」で追いかけてみたいとの計画であった。一つは島の内側の集落はグスク時代から住み続けている集落ではないか。それと与之主伝承とシニグやノロ家とその遺品を手掛かりしようとすると、どうしても間切(まきり)時代まで遡る必要がありそう。島一周道路沿いの集落《字》と山手への集落、それに与之主伝承やシニグの流れ、グスク時代からの集落を被せみていくと、現在の行政区画では理解しがたく、何度もめぐっている。その変遷の確認調査。(工事中)