・座間味 ・阿 佐 ・阿 真
11月25日〜26日(平成19年)、座間味島へゆく。座間味島には座間味と阿佐と阿真の三つの字がある。集落内を歩いていると、屋敷内に祠(殿)をつくり鳥居が建立されている。波照間島で見られたが屋敷をワー(ウタキ)にしていこうとする発想だろうか。山原とは異なる形態か、それとも山原では消え去ったものなのか。
慶良間列島(馬歯山)、その一島の座間味島の阿護浦など経由の船舶を拾い出した一覧が『座間味村史』(下)にある。それら数多くの記事に目を通すのはお手上げである。情報の非常に少ない島の人たちが、島の前を往来する船や停泊している船を見ながら国の動きをどうみていたのか。島の人たちは「石火矢(大砲)、ウガマリンドー(拝むことができるよ)」、「唐船、ウガマリンドー(拝むことができるぞ)」程度のことだったのかもしれない。あるいは、あるだけの情報で国の動きに思い巡らしたのであろうか。
一方、『南島風土記』(東恩納寛惇著)に以下のような記事があり、また他の資料をみても、渡唐船や楷船の船頭や乗組員が多くでており、また島と那覇港との往来も頻繁にあり、王府はある種の特別な計らいをしている。王府の動きに、自ずと敏感だったとみられる。
島民海事に習熟し、古へ進貢船・楷船の水夫を貢し、代ふるに免船の御典を以てしたり、羽地仕置に云、
「慶良間百姓、加子仕、方々罷渡候、留守飯米、前々は一日に付、雑石五合宛にて候処・・・・(寛文九年
十二月丗日)
「仲尾次政隆翁日記」(1855年)の座間味島滞在中の島の役人たちとのやりとりは、名越左源太や西郷隆盛などのことが想起される。流刑者が中央部の情報の提供者でもある。
(工事中:一気に整理できないので、忘れる前に画像とメモのみ)
【座間味】
座間味は集落の西側山手から集落の中央部を西から東側へと川(内川)が斜めに横断している。座間味の集落は、その川の山手側をウチンダカリ、海浜よりをハマンダカリと呼んでいる。ウチンダカリの方に拝所が多くあり、集落の発達はウチンダカリからハマンダカリの方へ広がっていったとみられる。
河口はウフンナトゥ(大きな港)と呼ばれ、港だった名残が地名にとどめている。
▲集落の北側からみた座間味の集落 ▲高月山展望台からみた座間味集落
▲座間味集落内を流れる内川 ▲役場前に立つ顕彰碑
▲座間味村役場前にあるバンズガー ▲御殿(ウルン)の石跡
▲ヌル宮(ヌルドゥンチをお宮にした?) ▲学校の後方にあるマカー(座間味の御嶽?)
【阿 佐】
座間味島にある字の一つである。集落の前方は湾となり阿護の浦と呼ばれている。集落の前面は漁港となっている。集落に入ると後方に立派な石垣囲いの家が何軒かある。その中の一軒が「阿佐船頭殿の石垣」とあり、村指定の文化財となっている。
「座間味村は、唐船の中継地として古くから栄え、各字には船頭御殿という屋号をもった
旧家がある。その中でも阿佐は、進貢船の風待ちの港であった阿護の浦に面し、冊封使
や進貢使が度々立ち寄って、記録等を残している。
船頭殿の石垣は、屋敷を取り巻く石垣と、入口奥のヒンプンからなり、琉球王国時代の
特徴のある作りとなっている。特にヒンプンは、高さ二メートル、幅八メートルを有し他に類
をみないものとなっていて、王国時代の貴重な石造建築物である。」
「仲尾次政隆」日記をみると1855年当時の阿佐村は16軒で、15軒が位牌持ちである。その年、那覇からの便が一か月もなくお盆用に困っている。そこに登場する石垣内・御座敷・中の井・いり・船頭与那嶺などの家は今でも確認できる。
進貢使として中国に渡った蔡大鼎(久米村出身)が1860年11月17日に那覇港をでて、同日阿護浦に停泊、約二カ月風待ちをして翌年の1月16日に出帆している。『閔山游草』(1873年)に阿佐村が謡われ、当時の様子が伺える。
▲阿佐区公民館 ▲集落内にあるナカガガー(ムラガー)
▲「阿佐船頭殿の石垣」(村指定) ▲石垣の上の梵字碑
▲阿佐の船頭殿の西側の家(イリー) ▲集落内にある前ヌ御嶽
▲阿佐の集落の奥にあるウティンズガーラ ▲阿佐集落のはずれにあるサレーガン
【阿 真】
小規模の集落である。
▲阿真の集落 ▲阿真のカミガー
▲カミガーの側にある獅子(集落入口の獅子?) ▲集落内にあるムラガー
▲ムラガー付近にある島村渠の宮 ▲下平松御嶽のイビ
【阿護の浦】
【番所山】
座間味島に番所山(地元の方はバンドゥクルと呼ぶ)があり、標高143.5mの山である。頂上部に烽火を上げた場所がある。「南北一列に三炬の烽火台が設置され」とあるが、二カ所は確認することができたが一カ所は未確認。
1644年始めて烽火を各処に設く(『球陽』)。
本国、烽火有ること無し。或いは貢船、或いは異国の船隻、外島に来到すれば、只、使を
遣はして、以て其の事を□報する為すること有り。今番、始めて烽火を中山の各処並びに
諸外島に建つ。而して貢船二隻、久米・慶良間・渡名喜・粟国・伊江・葉壁等の島に回至
すれば、即ち烽火二炬を焼き、一隻なれば即ち烽火一炬を焼く。若し異国船有ば、即ち
三炬を焼き、転次へ焼きて、以て早く中山に知らしむるを為す。
番所山へ座間味の人々はマカー(座間味小中学校の後方の拝所)を側を通り、番所山まで歩いて登っている。「番所山へ行くには大変だったよ。でもそこに行くと美味しいのがあたるから」と座間味の年配の方の話。「鉄塔が見えるだろう。そこだよ」と教えてもらう。今では拝所となっている。
『閔山游草』(1873年)を見ると「阿佐村烽火台に登る」とあり、阿佐村からも番所山に登っている。
▲番所山にある烽火あげ場跡 ▲番所山にある烽火あげ場跡
▲阿佐集落の後方の山が番所山(右より鉄塔) ▲座間味集落からみた番所山(左側の鉄塔)