羽地域の歴史とムラ               沖繩の地域調査研究(もくじへ

                                    仲原 弘哲(今帰仁村歴史文化センター)                                         (於:名護市羽地地区センター、2016.7.13)

   はじめに
 1.羽地域の概要
 2.「はねぢ」(ハネヂ:羽地)の語義
 3.「はねち」「はねし」は金地や鐘地ではないか
    山北王ハニヂとオモロに謡われた羽地按司との関係は?
 4.羽地(親川)グスク
 5.羽地大川(大浦川)
 6.近世の羽地域の略年表
 7.羽地間切の按司地頭と親方地頭(近世の羽地間切)
 8.羽地域の村(ムラ)
 10.村移動と集落移動
 11.山原の村(ムラ)と集落
 12.羽地間切と主邑
 13.羽地域の実施調査から
   まとめ

1.羽地域の概要

 ここでいう羽地域は羽地間切で、羽地内海を挟んだ屋我地島を含み、1673年までは現在の大宜味村津波に至る区域をさしている。1692年頃方切で今帰仁村の呉我山あたりまで羽地間切であったこともある。

かつて稲作の盛んな地域であった。山手に近世から杣山があり、林業の盛んであった。17世紀編纂の『琉球国高究帳』による羽地間切の石高は1985石、そのうち米は1817石、畑は67石で、米作の盛んであったことがわかる。稲作地域は羽地田袋(ハネジターブックヮ)、真喜屋田袋(マギャーターブックヮ)、源河田袋(ゲンカターブックヮ)と呼ばれる。

明治時代後半からは日本本土や海外への出稼ぎ・移住者の沖縄県では最も多く出した地域である。明治29年に国頭郡に編入し、明治41年の島嶼町村制で羽地村となる。大正時代となると沖縄本島北部(山原)の中心である名護町が那覇市と結ぶ道路も開通する。現在国道58号が羽地域を通り沖縄本島最北端の国頭村までつながっている。  沖縄戦で中南部ほど被害は少なかったものの山奥への避難生活が続き、昭和20年羽地村田井等に収容所が設けられた。昭和21年5月に、戦後の復興を早く進めるために屋我地島を屋我地村として分村した。米軍統治下で多野岳に米軍基地(1972年の復帰と同時に返還)が建設された。羽地村は発展したが、農業は稲作よりも砂糖キビやパイン栽培が多くなり、製糖工場やパイン工場が村内に建設されたこともある。

1960代から祖国復帰運動と同時に、沖縄本島北部の中核としてさらに発展・強化するため周辺町村との合併の動きが出てくる。1970年8月1日に名護町・屋部村・久志村・屋我地村が合併し名護市となる、羽地間切から続いた羽地村は消滅した。合併されて40年になるが羽地域の歴史・文化が今にどう残り、継承されているのか。

2.「はねぢ」(ハネヂ:羽地)の語義

 ①宮城真治の「走川」(ハンヂャ)と伊波普猷の「ハニ」
 ②「おもろ」に謡われた「はねち」「はねぢ」の表記
 ③17世紀の『絵図郷村帳』と『琉球国高究帳』から「はねち」「はねしまきり」に「羽地間切」となる。
 ④1622年と1625年の二枚の辞令書(公式文書)には「はねし」

 今帰仁村と東で接し、北では大宜味村、南で名護、久志と接している。東恩納寛惇は、羽地は方言でハニジ怕尼芝、『明実録』の洪武16年の「北山王怕尼芝」、洪武27年の「攀安知」は羽地按司の略であると述べている。それだけでなく、周煌禄に「国音呼為安知、山北王有攀安知者、必其上世有為按司者、故以官名也」とあるのは敵している。またおもろで「まはねじ」は、羽地は柑橘に適した地域で、羽地唐九年母の名夙に著聞している。「まはねぢ」はそれを謡ったものであろうと。

 (第13巻 72)
 一  しも月が たちよれば
     あん まちよれ
     まはねじ まはねじは
     きもからも さらん
  又 わかなつか たちよれは

 羽地地域にミカンが有名であることは、いいのですが、それでは「はねじ」の語義の説明になっていません。
 宮城は「大浦は大川の義である」とされる。『琉球国由来記』は『旧記』の「大浦江」は「大川」と同義だとされるが、はねぢ(羽地)については触れていない。
 羽地大川修補日記(1735年)8月15日の条に、以下のようにある。
   羽地間切大浦川之儀、毎年多少之水損不相絶此程修補に付ては百姓及難儀来候。
   殊に去7月大風雨にて夥敷致水損一ヶ間切にて手に及不申必至と迷惑仕候由
   さばくり中、書付を以て申出候 

 12月17日の条に、大浦川の儀、羽地間切に有之候処、大浦川と唱候儀、不可然候故、向羽地大川と唱へ、さばくりへ申渡候也。大浦川を羽地大川と改称したのは1735年のことである。そこでも大浦川を、すでにあった羽地間切の羽地をつけて羽地大川となったのである。そこでも大浦が大川との説明で、羽地については触れていないのである。

 そこで、蔡温の羽地大川修補日記(1735年)より、以前から「はねぢ」があるわけだから、羽地大川ではなく他に語義を求めるべきであろう。

 「まはねぢ」の「ま」は「ほんとうの」「真の」「りっぱな」の意味であろう。すると、その地でそのような意味をなすのは何かということになる。もし、古い時代から「大浦川」をもつ「りっぱな地」であれば、羽地間切ではなく「大浦間切」になっていたことであろう。同村が田井等(平良)村ではなく、大浦村となってもいい。そうはならなかったのである。 

※まはねじ
  「ま」は接頭辞。おもろでは「ぢ」と「じ」、辞令書では「じ」である。「ぢ」と「じ」の区別が失われている。
  本来は「ぢ」のようである。 

(第13巻 816)
  一 いへの、はたころ、
    あちにせ(に)、なりよもい、
    まはねぢは、
    あんしおそいに、みおやせ
 又 はなれ、はたころ、
    あちにせ、ないよもい 

(第13巻 817)
  一 しも月か、たちよれは、
    あん、まちよれ、まはねじ、
    まはねじや、
    きもからも、さらん
  又 わかなつか、たちよれは  

(第17巻 1180)
  一 なこ、さかい、             一 名護酒
    おや、さかい、きよもの           親酒 来よもの
    おやちやうあけて、             親門 開けて
    わん、いれゝ、                吾 入れゝ
 又 おきて、にしや、             又 掟にしや
    もの、いにしや、きよ、もの        物言にしや 来よもの
 又 まはねじの、               又 真羽地の
   たれ、しけち、きよもの             たれしけち 来よもの
 又 あわ、やぶの、              又 安和 屋部の
  せに、たまり、きよもの              せにたまり 来よもの  

(第17巻1184)
 一 きこゑ うちたかか、          聞ゑ打ち高が
   けらへたる、まはねじ、         げらへたる真羽地
   あんしおそいか、             按司襲いが
   くむこ、よせ、くすく            雲子寄せぐすく
 又 とよむ、 うちたかか        又 鳴響む打ち高が 

 そこでおもろで「はねぢ」「はねち」、近世初期の二枚の辞令書(1623年と1625年)では「はねし」(羽地間切)である。「はねぢ」と「はねじ」に視点をあててみる。ハネヂはハニヂやパニヂと発音されてもいい。ハニは金のこと。ち(ぢ)は土地のこと。つまり「金の産出する地」のこと。そういう場所が付近にあるかというと、伊差川の小字の「金川」(ハニガー)、金川のカーがあり、金川は伊差川から、かつての大浦川へ向って流れ、途中で合流する。金川は、かつては羽地間切の主邑である田井等村に向っている。田井等村に羽地グスクがある(1750年頃創立した親川村に位置する)。 

 ハニガーを金川と記されるが、1400年代(尚泰久王)に20余の梵鐘が鋳造されるが、「是らの梵鐘は往時羽地村金川に鉱山もあり、琉球で出来たという伝説も多い」(「琉球の梵鐘について」外間正幸)とあり、金川でもいいのであるが、鐘に因んだ鐘川(ハニガー)でもよさそうである。梵鐘を鋳造した大工に花城がいる。国吉なる人物もいるが、彼は藤原国吉なる人物で大和大工である。これらの鐘の原料(銅)と鋳造した場所などが結びつくと、1400年代には「おもろさうし」で「まはねぢ」が金地、あるいは鐘地として謡われたとしてもよかろう。 

3.「はねち」「はねし」は金地や鐘地が語義ではないか

 ①金川の銅山
 ②15世紀に鋳造された鐘と伊差川銅山との関係
 ③ハネヂはパニヂは金地(ハニヂ)、あるいは鐘地(ハニヂ)からきた名称か
 ④ハニヂグスクのハニヂ(羽地))も金(銅)の産地のグスク
 ⑤ハネヂは羽地大川からきた名称ではない
   羽地大川は蔡温の大浦江の改修後(1744年)に大浦江から大川と名称替えをする。
 ⑥ 山北王ハニジ(パニジ)とハニジとの関係は?(工事中

羽地は現在名護市域である。名護市に合併される以前は羽地間切、羽地村であった。その羽地域を流れる羽地大川があり、その川名に由来しているとの誤解がありそうだ。羽地大川と呼ばれるのは蔡温の「羽地大川修補日記」(1735年)で「羽地間切大浦川」を「向後羽地大川と唱え」ると申し渡しがなされている。そこでの大浦川が大川であるとするのは、別に疑問とするものではない。その時、大浦川を羽地大川としたため、羽地(間切)の由来を大川(ハンジャー)に因んだものと解されている。

 羽地の登場は、羽地大川とされる1735年以前から登場する。「おもろさうし」で「まはねち」「まはねぢ」と謡われている。古琉球から近世の過渡期の二枚の辞令書で「はねしまきり」(羽地間切)とあり、『琉球国絵図郷村帳』(1648年)と『琉球国高究帳』(1648年)で「はねし」に「羽地」と漢字が充てられている。羽地の語義は「はねち」「はねぢ」あるいは「はねじ」に求められるべきであろう。

 「はねぢ」「はねち」「はにし」の方音は、ハニヂ、ハニジ、パニヂ、ハニシとみてよさそうである。ヂやジは地の漢字が充てられ土地や場所である。問題はハニである。ハニは金である。名護市伊差川を流れる金川(カニガー:ハニガー)がある。そこは明治から昭和の初期に銅を発掘した場所である。その山一帯から流れる川がハニガー(金川)である。明治以降に発掘されていた記録があるが、いつ頃から発掘されたのかは不明である。

 おもろさうしで「まはねぢ」「まはねち」と謡われるその「はねぢ」地名がどこから来ているか。大川ではなく、ハニチ(金地:銅を産する地)に求めるべきであろう。そこから流れ出るハニガー(金川)は羽地間切の中心となる田井等村(主村)へ向かって流れている。 

 
          ▲「金川銅山跡之碑」                          ▲銅山の説明文

 
                     ▲碑の回りに銅の鉱石が数多くある

 「金川銅山跡之碑」に以下のように説明されている。
   西暦1496年(尚真20年)に首里円覚寺の大鐘はこの銅山から出た銅で
   錆造したものと伝えられ、その後尚侯爵家が中心とした株式組織で明治
   20年9月試掘認可を受け採掘製錬し好成績を収め22年3月借区許可
   其の後十数年継続せしが一時中断せり、明治34年経営者が変わって再掘
   大正5年更に経営者が変わり数年も待たずして放棄して廃坑となり現在
   に至る

 金川銅山は明治以後については記録がある。そこで史実かどうかを問いたいのは「西暦1496年(尚真20年)に首里円覚寺の大鐘はこの銅山から出た銅で錆造したものと伝えられ」る部分である。1500年頃、「おもろさうし」で「まはねぢ」(真羽地)と謡われるほどに、羽地域が中央に知られていたのは銅の産出地であった可能性がある。金川(ヒニガー)と漢字が充てられているが、鐘川の漢字を充ててよさそうなものである。そこを流れる金川(鐘川)名の語義を求めてよさそうである。

 金川は銅山のある山の麓から流れている。金川は田井等(羽地小学校)方面に向かって流れ、我部祖川となる。田井等村は羽地間切の主村で、番所や羽地(親川)グスクのある地である。そのように見てくるとハニヂ(ハニチ)は「金(銅)の産出する地」とみてよさそうである。1500年代以前から金(銅)の産出する地として知られていたことから、「おもろ」に「まはねち」(真羽地)と謡われたとみてよさそうである。そこから流れ出るハニガー(金川)は羽地間切最大の羽地(親川)グスクや主村となった田井等村(1750年頃親川村が分立)に流れ、当時の大浦川(羽地大川)と並流し古我知(呉我)へと流れ出る。

 

【梵鐘一覧表】(沖縄県文化財報告書)

 1.臨海寺 天順三月十五日(1459年) 大工 花城
 2.万寿寺(元普門禅寺) 景泰七年九月二十三日(1456年) 大工 国吉
 3.円覚寺殿中鐘 弘治八暑龍含乙卯孟秋吉日(1495年) 大工 大和氏相秀
 4.天妃宮 景泰丁丑年元旦(景泰8:1495年)大工 衛門尉 藤原国光
 5.円覚寺殿前鐘 弘治八年乙卯七月吉日(1495年) 大工 大和相秀
 6.首里城正殿前鏡 戌寅六月十九日辛亥 大工 藤原国善
 7.円覚寺楼鐘 康煕三十六歳次丁丑六月如意日(1697年) 大工 宗味 

金川銅山の銅を洗練した場所は、黄金森(クガニムイ)やハニフキムイとよばれ、ハニ(金)と関わる地名がつけられている(現在も残る)。 

 『羽地村誌』では「羽地地域に羽地大川をはじめ、源河川、真喜屋川、金川(我部祖河河)、奈佐田川など、数多くの川があり、それらの川がハンジャ(走川)で、それに由来したのが羽地だという」。 

 「羽地大川が南部は羽地にあると対照的に、北部羽地には源河川が流れているが、この川は清流と香魚(鮎)で名があり、古謡にもうたわれている。羽地には右の二河川のほかに奈佐田川・我部祖河川(金川)・や真喜屋皮・満川・後原川(平南川)等もあり、走川(はいかわ=河流の意)が多いので、羽地という地名は走川(はいみじ)から転化してできたといわれている」(『羽地村誌』15頁)。

 
         ▲羽地山田から見た金川~羽地小(田井等)

4.羽地(親川)グスク

 羽地グスクからみた金川(銅山)。羽地地域(後の羽地間切:現在名護市)を統括したと見られる羽地(親川)グスク。親川グスクとも呼ばれるが、このグスクのある地域は、18世紀中頃に分立した親川村である。親川グスクの名称は、親川村の創設した地が親川である。そのため親川グスクと呼ばれる。因みに羽地間切番所も親川番所は近世中頃以降のこと。田井等村から分割した村である。

 親川グスクの名称は、親川村にあることに由来するのか。そうであれば近世中頃からの呼び方になる。もともと一帯が親川と呼ばれていて、それに因んで親川村や親川グスクと名づけられたのかもしれない。『琉球国由来記』(1713年)をみると、「池城里主所(火)神」や「池城神アシアゲ」とあるので、親川グスクの名称は、親川村が創設された後に名づけられた可能性が強い。羽地地域(後に羽地間切)全体を統括したグスクとみるならば羽地グスクと呼んだ方が的を得ているかもしれない。羽地グスクに石積が非常に少ないのは、番所に使われたのではないかという。 

  
    ▲羽地間切番所跡の発掘状況(唱和61年7月)      ▲田井等からみた銅山のある伊差川
      

5.羽地大川(大浦川)

 羽地大川の上流に羽地大川ダムが建設されている。台風の接近もあった満杯状態である。放水されているので普段の羽地大川とは違い川らしく水が流れている。「放水しています。増水に気をつけてください」との注意報が聞こえる。
 羽地大川は蔡温による改修工事はよく知られている。現在の大川の川筋は直線的で田井等の集落あたりで東側に注いでいる。それは大正から昭和初期にかけて開鑿して水路を変えたものである。それまでの旧水路は西側に大きく曲がり振慶名、我部祖河、古我知を通り、呉我の奈佐田川と合流し羽地内海に流れ込んでいた。旧川筋は部分的に曲がった様子が古い写真に見ることができる。

 「羽地大川修補日記」が刊行された。1735年の改修以前の大浦川(羽地大川)の川筋の復元が試みられている。なかなか興味深い。一つに羽地大川流域と村(ムラ)との関わりである。それと今帰仁間切の村であった呉我村が羽地間切にくみこまれ、さらに1736年に現在地に移動させられる。呉我村が羽地大川の下流域に移動させられた理由は、川流域の開拓にあったに違いないと考えているからである(村移動で述べる)。
 今帰仁間切の村移動を見ると志慶真村が諸喜田村の下流域へ、天底村が大井川の流域、本部間切の渡久地村(具志川村から分村か)は満名川の河口に創設されている。このように近世の村移動と規模の比較的大きい川流域の湿地帯の開拓と無関係ではなさそうである。湿地帯が地割の対象外の土地が多かったため、そこに村が移動できたのであろう。当時まで大浦川(後の羽地大川)は、「まはねぢ」と呼ばれるような川ではなかったのである。

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▲羽地ダムからみた現在の川筋       ▲現在でも水田がみられる 


   ▲『名護碑文記』(名護市史)より 

6.近世の羽地域の略年表

・1622年 「はねしまきり 大のろくもい」(仲尾のろ職補任辞令書)
・1625年 「はねしまきり 屋かのろくもひ」(屋我ノロ職補任辞令書)
・1652年  向象賢(羽地朝秀)、羽地間切の総地頭になる。
・1674年 大宜味間切創設、羽地間切の平南村と津波村を田港(大宜味)間切へ。
・1735年 蔡温の監督のもと大浦江(羽地大川)の大改修工事。
・1736年 呉我村・振慶名村・我部村・松田村・桃原村が羽地間切の内側へ移動(方切)。
      湧川地内を今帰仁間切へ。村移動からみえてくるもの。ノロ管轄の変更なし。
・1742年 羽地間切、元文検地を実施する。
     ・たこ川原/くすく原
・1744年 改決羽地川碑記建立する。
・18世紀中頃、親川村が田井等村から分かれる。番所は親川村地内となったために親川番所
     や親川グスクとなる。
・1785年 「親見世日記」に「勘手納津口jで御米を積んで出航。付近に惣地頭屋敷やバンジョイ。
・1816年 バジル・ホール一行、羽地内海(仲尾村一帯)を調査する。
      「湾の先端にあるこの村は、浜辺との間の一列の樹木によって北風から守られ、背後は
      抱きかかえるような丘陵によって保護されている。浜辺との間に広い道が走り、家々の
      周囲に植えられた樹木は鬱蒼と茂って、建物をおおい隠さんばかりである。墓地に近い
      村の中央には広場があって、すでに述べた高床式の穀物倉の一群が建っている。壁は網代
      の編んだ藤でつくられ、ねずみ返しが設けられていた」(『朝鮮・琉球j航海記』(1818年)
・1866年「支那冊封使来琉諸記」に、冊封使が琉球に来ているとき、島尻や中頭方の米の積み出しは
      浦添の牧湊まで陸路で運び、馬濫船運天・勘手納へ運び、そこで御国船(大和船)に積み込
     むことが記されている。勘手納港は、大和への仕上米を積み出す重要な港の役割を果たし
     ていた。
・1835年 仲尾村の集落が仲尾兼久へ移動する。
     「村の敷地が狭いので勘手納と東兼久に引っ越して家を造った。両兼久の竿入れをしたら、
     百姓持ちの土地あので、村敷(屋敷)にしたいと願い出て認められた。この時期に、勘手納に
     7家族、東兼 久に4家族が引っ越してきたことがわかる(「羽地間切肝要日記」)。
・1853年 ペリーの探検隊が勘定納港から親川にくる。
・1879年 番所に首里警察署親川分署をおく。
・明治14年上杉県令は、国頭巡回の時、仲尾村勘手納港から船に乗っている。
    「勘手納港ニ出ズ。官庫瓦ヲ以テ葺ケリ。役所詰員及ビ村吏ノ奉送スル者、皆別レヲ告グ」と
    (『上杉県令日誌』)。 

7.羽地間切の按司地頭と親方地頭(近世の羽地間切)

 
羽地按司御初入(1870年9月3日~26日)(『地方役人関連資料』名護市史資料編5)
 ・1870年9月 赤平仲尾親雲上(9~19歳まで御殿奉公)。檀那様が羽地間切にやってくる。
 ・9月3日  羽地按司をお迎えてのために9月3日に出発。
 ・9月6日  羽地按司出発日に首里に到着。  台風のため出発を延期する。
 ・9月8日 首里を出発する。読谷山間切宇座村で一泊する。
 ・9月9日 恩納間切番所で一泊する。
 ・9月10日 名護間切番所で一泊する。
 ・9月11日 羽地間切番所に到着し真喜屋村で宿泊する。
 ・9月13日 按司一行は親川村にある御殿火神、親川城、勢頭神御河、御殿御川
                仲尾村のろ火神、真喜屋のろ火神と御嶽で御立願
 ・9月14日 按司一行は屋我地島へ渡って我部村のろ火神と御嶽、饒平名のろ火神、いりの寺、
        東の寺で御立願(お昼の休憩所は饒平名村我部祖河大屋子の家でとる。済井出村と
        屋我村を巡検し真喜屋の宿舎に帰る)
 ・9月15日 羽地間切主催の歓迎の宴が行われた。
 ・9月16日 羽地按司からのお返しの御馳走の招待。
        真喜屋村の宿舎へ赤平仲尾親雲上が参上した。
    (招待者:間切役人(サバクリ・惣耕作当・惣山当・文子・御殿奉公した者・各村から下知人など)
          神人14人、勘定主取・80歳以上の老人達)
 ・9月17日以降
    羽地按司一行は羽地間切の以下の家に招かれる(以下の6家)。
    仲尾次村の下の松田仁屋(仲尾次ウェーキ)、上の仲尾親雲上
    伊差川村の古我知大屋子(伊差川古我地屋)
    川上村の現真喜屋掟(新島ウェーキ)
    源河村の現呉我村(源河ウェーキ)
    我部祖河村のこしの宮城仁屋(我部祖河ウェーキ)
 ・9月26日 羽地按司一行は帰途につく。
        赤平仲尾親雲上達は羽地大川の中流のタガラまで見送る。 

8.羽地域の村(ムラ)

  ①羽地域のムラの変遷
  ②羽地間切の主(同)村 

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              ▲「羽地間切の村(ムラ)の変遷図 

9.近世の山原の方切
    
 「方切」というのは近世の琉球における間切と間切の境界の変更のこと。新しい間切の創設が主である。そのことが後の間切の歴史や文化にいくらか影響を及ぼしている、あるいは故地での祭祀やウタキなどは新地でも置く。「方切」の具体例から。方切で間切が創設されると、新しく間切番所が設置される。そのことで行政の中心が変わる。方切で祭祀に影響を及ぼすところがでてくる。また、変わらないこともある。方切がどう影響を及ぼしているか、あるいは方切以前のことがどう継承されているか。方切のあった村(ムラ)をみる視点となる。

 ・1666年今帰仁間切を今帰仁間切と伊野波(後に本部)間切
 ・1673年に金武間切と読谷山間切から恩納間切を創設
 ・1673年に名護間切と金武間切から久志間切を創設
 ・1673年に国頭間切と羽地間切から田港(大宜味)間切を創設
 ・1690年頃に今帰仁間切と羽地間切との間で方切あり
 ・1695年国頭間切と大宜味間切と久志間切の間で方切あり
 ・1719年に国頭間切と大宜味間切との間で方切あり
    (屋嘉比・親田・美里が大宜味間切へ、平良・川田は久志間切へ)
 ・1736年に今帰仁間切と羽地間切との間で方切あり
    (我呉・振慶名・我部・松田・桃原の村を羽地間切内部、屋我地島へ。その地を今帰仁間切へ)


             上の図は『名護市史―わがまち・わがむら』より           

10.村移動と集落移動

  ①村の移動と集落の移動
  ②移動地でのムラの成り立ちと故地
  ③移動地での祭祀とノロ管轄 

11.山原の村と集落

   村(ムラ)・・・近世から明治41年まで使ってきた行政単位。明治41年以降は字(アザ)となる。
           部落や村落と同意味。
   村(ソン)・・・村(ソン)は明治41年に間切から村(ソン)となる。現在の明治41年に今帰仁間切
          から今帰仁村(ナキジンソン)となる。村(ムラ)は今の字(アザ)のこと。
   ムラ・・・・・・・近世以前の村について使っている。行政的な村よりマクやマキヨなどの単位の
          集落の呼び方として使ったり、明治41年以前の村(ムラ)に使う。
   移動村・・・・あるいは村移動や村落移動は近世の行政村を飛び越えて移動した村のこと。
   集落移動・・・同じ行政村の内部で集落部分が移動や分離したりしている場合をさしている。
           (同村内での移動のこと)村(ムラ)成立前のマクやマキヨの単位に相当する。

①1736年に現在の湧川地内から羽地間切へ移動した村(2回の方切あり) 大宜味(田港)間切創設(1673年)の方切
  ・呉我村  ・振慶名村 ・我部村 ・松田村 ・(桃原村) 

【振慶名】(1690年頃以前は今帰仁間切の内、現湧川地内にあった)
 ・1690年頃「方切」で振慶名村は今帰仁間切から羽地間切となる(村の場所はそのまま)
 ・1736年に振慶名村(羽地間切の村)が羽地間切の田井等村地内移動(羽地大川沿い)
 ・羽地間切の中央部に移動させられた理由
 ・移動後のノロ管轄はどうなったのか?(他のノロ管轄のムラを飛び越えていくが)
 ・1736年に現在に移動したら何を設置したのか。設置しなければならない理由は?
 ・故地との関係は?

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       振慶名の集落の様子                      振慶名のウタキ 

②集落移動の村

  ・屋我村 ・仲尾村 ・伊差川村  

・集落移動の村(ムラ)羽地間切仲尾村

「集落移動の村」とは、同村(ムラ)地内で集落部分が移動した村のことを指している。仲尾村地内で集落が移動したときに御嶽(ウタキ)はどうしたのか。仲尾のウタキはヒチグスクと呼ばれ、仲尾の故地の丘陵地の向って右側は親川グスク、左側がヒチグスクである。ヒチグスクと親川グスクの間に堀切があり、親川グスクへの神道として使われていた。

仲尾は『琉球国高究帳』(1640年代)に「なかう村」、『琉球国由来記』(1713年)で「中尾村」、「琉球一件帳」(1750年頃)から「仲尾村」と記される。

仲尾村の集落移動は「羽地間切肝要日記」にみることができる。道光15年(1835年)「村(集落)の敷地が狭いので勘手納と東兼久に引っ越して家を作った。両兼久の敷地の竿入れをしてみたら百姓持の土地なので村敷(屋敷)にしたいと願い出て認められた。この時期に勘手納に7家族、東兼久に4家族が引っ越してきた(頭数134人)」。故地は「仲尾古村遺跡」と命名され集落が移動した痕跡を見せる。そこには御嶽(ヒチグスク)や神アサギ、根神屋やノロドゥンチ跡やカーなどが今でも遺っている。

集落は移動したが御嶽(ヒチグスク)は新しく設けることなく、また旧家跡や神アサギは元の場所に置いて集落のみの移動である。距離として約700mばかりである。村内の集落のみの移動の場合、御嶽(ここではグスクと呼んでいる)はもとの場所に置き、神アサギや旧家の火神(ウペーフヤー・ニガミヤー・ヌルヤー)の祠(神屋)を置き、祭祀は故地で行っている。畑やかつての水田は故地に近い場所に広がっていた。土地改良で地形が大きく変わってしまい、ウタキや神アサギなどに、かつての集落跡を確認することしかできない。
  『琉球国由来記』(1713年)に「谷田之嶽 神名:ニヨフモリノ御イベ 中尾村」とあるが、中尾村ではなく谷田村の誤りかと思われる。仲尾村の御嶽は由来記に記されていないと見るべきである。『琉球国由来記』の祭祀で注目すべきことは、惣地頭が中尾村の神アシアゲと池城神アシアゲに参加することである。仲尾ノロ管轄内の田井等村からに1700年代に親川村の創設があり、池城神アシアゲは親川村の神アサギ(親川グスク地内)となる。羽地間切の海神祭のとき、中(仲)尾・真喜屋・屋我・我部・トモノカネ・伊指(佐)川・源河の全ノロが仲尾村と池城神アシアゲでの祭祀に参加する。そのとき、惣地頭も両神アシアゲの祭祀に参加する。ここでも羽地間切の按司や親方クラスが祭祀に参加している。グスクの神アサギでの祭祀に仲尾ノロが重要な役目を果たしている。

仲尾ノロは1622年の辞令書で「大のろこもひ」とあり、羽地間切内の全ノロの上にあったようである。例えば、海神祭折目の時、中尾巫・真喜屋巫・屋我巫・我部巫・トモノカネ巫・源河巫・伊指川巫など、羽地間切全巫(ノロ)が中尾村の神アシアゲに参集する。

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       仲尾の現在の集落        仲尾トンネル

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故地にある仲尾ノロドゥンチ跡         故地にあるウペーフドゥンチ跡 

③分離・統合した村
  ・田井等村から親川村 ・真喜屋村から稲嶺村
  ・川上村と谷田村 ・我部村と松田村? 

・分離した村―田井等村・親川村―
 1750年頃、田井等村を分離して親川村が創設された。村が分離した痕跡がどう残っているのか。地図上では田井等と親川の区分は明確にできるが、現場での小字の境界線の見分けは困難である。親川村創設の時、田井等村の集落の中心部分を分けている。田井等村の中心となる田井等(テーヤ)と親川村の親川(ウェーガー)は隣接してあることから、旧田井等村の中心部となる集落を二分したと見られる。それと田井等村にあっ番所やグスクや神アサギの位置している場所は親川村地内となる。そのために羽地番所を親川番所、羽地グスクを親川グスクと呼ばれるようになるのは、そのためである。

・田井等の小字(黄色部分)
 仲間/里又/田井等/井ガヤ/福地/小堀/サデマシク/山田/大川/ タガラ/又喜納/シブチャ又

・親川の小字(茶色部分)
 親川/前田/真嘉又/魚小堀原/イパザフ/上増/碑文前/竹ノ口/多幸田/次我真/
 大川/カジラ又/ウヅル又

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     田井等と親川の小字

12.羽地間切と主邑

 羽地間切に同村がない。他間切では間切名と同様の村があり、そこに間切番所が置かれる場合が多い。例えば、伊野波間切伊野波村(後に本部間切渡久地村へ移動)。田港間切(後に大宜味間切)は田港村、後に大宜味間切に改称、番所も大宜味村、さらに塩屋村へ。羽地間切の主邑は田井等村である。番所は田井等村にあるが、田井等村から1750年頃親川村が分割する。番所は親川村内にあったため、親川番所とも呼ばれる。また羽地グスクも親川村内にあるため親川グスクとも呼ばれる。そこから金川銅山のある仲嵩山が望める。 

 羽地番所は字親川にある。親川の北方背面には丘陵が連立し、松並木が続いていた。その丘陵の上に位置を占め、背後には僅かの谷間をへだてて羽地城址と城アシアゲを控え、遥か西方には嘉津宇岳を、南方には名護岳を望むことができる。建物は当時としては瓦葺のりっぱなものであったし、敷地の前面は三段の高い石垣を積み重ね、まるで城壁のようであった。それは羽地城址の石垣をもってきてつくったものといわれていた(『羽地村誌』326頁)。 

【田井等】
 ・田井等村は羽地間切の主村であるが、羽地村ではなく田井等村なのか? 
 ・羽地間切の番所があった村。
 ・1750年頃田井等村の一部をとって親川村を創設する。
 ・羽地番所と羽地グスクのあった場所は親川村地内となる。
 

【親 川】
 ・1750年頃主に田井等村を分割して創設された村。
 ・その分割した村の形態は(神アサギ?ウタキは?)
 ・親川村地内に番所とグスクがある。そのため親川番所や親川グスクと呼ばれるようになる。
 ・分割する前の田井等村との関係は?
 ・親川グスクにある拝所は?

13.羽地域の実施調査から

印部石は当初ハル石と呼んでいた。近年研究が進み「印部石」と呼ぶようになる。1985年(昭和60年)に名護市史の一環として「羽地間切竿入帳の分析実施的検討に向けて」として、当時名護市史の中村氏と羽地間切域の現場踏査と竿入帳の検討作業をしたことがある。この羽地域(間切)のことになると、当時のことが思い出されるので羽地間切の印部石と「羽地間切の分析」の作業の一端を紹介することにする。下に掲げた図の仕上げはほとんど中村氏である。