島袋源一郎(しまぶくろ げんいちろう(沖縄県国頭郡今帰仁村生)  トップヘ

 東恩納寛惇は島袋源一郎の「顕彰碑」(1960年5月建立)に、
   嗚 島袋源一郎先生
    君は沖縄に生まれ
    沖縄に育ち
    沖縄に学び
  而して
    沖縄を生み
    沖縄を育て
    沖縄を教えた
 郷里より受けたるすべ
 てを郷里に返した
 君の名は郷里と共に永
 久に残るであろう
   盟友 東恩納寛惇
と刻まれています。

 島袋源一郎の妹の仲原照子(大正5年生)は沖縄タイムスの「唐獅子」(昭和60年7月〜61年6月)で源一郎について、「戦前の郷土博物館」や「金武良仁」「名護の浦浜」「五十年前のこと再び」「城岳への来客」「首里城を語る」で触れています。幼い頃から、母を介して源一郎については聞かされていました。源一郎の件で母を訪ねて来られる方が多かったので、側にいてまた源一郎の話をしていると・・・。

 評価も批判も、されてきた島袋源一郎でした。私には身内であるとの意識と、また批判に応えるのは弁解じみているとの認識が強くありました。そのこともあって、島袋源一郎はできるだけ遠ざけてきました。そうでありながら、沖縄研究に手を染めていると、『沖縄県国頭郡志』(大正8年発刊)は、「調査記録である」と気付いた時、当時から7、80年たった今どうなっているのか。その確認をする必要があり、そのことを進めています。

 比嘉春潮氏が「物故者紹介」の文面に目を通してみると、島袋源一郎が進めてきた研究分野は継承し、さらに押し進めてきていると実感しています。

 1960年建立された序幕式に参列しました。その時の記憶は「序幕の幕引きをさせてくれないんだろう。おじさんみたいになるぞ」と手を合せていたことが思い出されます。墓の正面に伊是名・伊平屋島が見える場所です。眼下に源一郎の妻昌子さんが運営していた教会(1957年建立)がありました。私が沖縄研究に入ったのは昭和51年頃からでした。調査の時の自己紹介は「島袋源一郎の甥です」と名刺がわりでした。当時調査で訪ねた方々の多くが島袋源一郎をご存じでした。私を「沖縄研究」へ導いてくださった故仲宗根政善先生もそうです。


  ▲島袋源一郎先生の顕彰碑(今帰仁村兼次)(イリハニシバンタ)と側に墓

 比嘉春潮氏が「物故者紹介」で島袋源一郎を以下のように紹介しています。

【島袋源一郎】『比嘉春潮全集』第5巻:「物故者紹介」(564‐565頁)

 明治18年11月、沖縄県国頭郡今帰仁村に生まれた。明治40年、沖縄師範学校を卒業、国頭郡の小学校で教鞭をとった。大正三年、郡教育会の依嘱を受けて『沖縄県国頭郡志』の著述にかかった。これが同氏の郷里研究に手を染める機縁となった。同書は大正8年にその公刊を見たが、今日類書中すぐれた内容で珍重されている。大正9県社会教育主事として那覇に来任し、その郡視学、県視学を勤めたが、昭和6年県教育会の主事となった。

 郷土史の研究を深め、昭和6年には『沖縄善行美談』と『沖縄案内』、翌7年には『伝説補遺沖縄歴史』を著わした。『沖縄歴史』は伝説補遺と表題したように、あるいは「おもろ」や民間に伝わる古謡を引用し、あるいは口碑伝説から家々に伝わる古記録をとって史実を補ったもので、特異の歴史である。

 かれは昭和3年、名護小学校在任中、名護神社の創建に際し、名護村(名護町)(現在名護市)の沿革を調査して「名護城史考」を『南島研究』に発表した。これがかれ独特の部落調査のはじめとなった。

 かれの部落調査は、『琉球国由来記』『琉球国旧記』『遺老説伝』などにより、古城址を中心にこれと連関する部落につき、お嶽、殿、遺跡などを実地と照合し、その部落における門中組織の変遷、のろ根神根人の神事、部落の年中行事から、部落の発生移転と発展する伝説などを調べ、これを記録することで、かれはこれによって郷土史の隠れた史実が発見され、国王や按司の興亡の跡も判明するとの確信を得て、その没する昭和17年までに、調査の大半を終り記録の整理中であった。

 前記「名護城史考」のほかに昭和14年には「部落調査より見たる首里王都の創建」と「部落の発達」を『沖縄教育』に発表している。この未完成の部落調査の記録は「沖縄村落の研究」(?)と題し、遺稿として出版のため数年前から鳥越憲三郎氏の手に保管されていると聞いている。公刊されたら学界に寄与するもの期待される。

 昭和12年、沖縄で姓と地名の呼称統一の運動が起った。金城をかなぐすくからきんじょうに改めるようなことであった。その発案者・主唱者であり、たちまち世論の支持をかち得た。

 今一つ、県教育会主事在職中、教育会の事業として沖縄博物館の建設を提議し、首里城に開館されると、東奔西走、紅型、陶器、三味線その他の楽器、書画、武具、農具その他の民芸品、あらゆる沖縄の工芸品を収集して、博物館の基礎を築いた。

 かれには、さきにあげたほかに数種の著述があるが、最後に『琉球百話』(昭和16年)がある。かれはその序文の中に「本書は郷土の歴史・神話伝説・言語・風俗習慣・童謡俚諺・呪禁・歌舞音曲・気候風土・人物伝記・美術工芸・動植物・地質・行政政治・産業教育・史蹟名勝その他、あらゆる方面から興味深い材料を取り上げた」と書いてあって、沖縄について知りたいことは何でもわかると自任した書である。かれは晩年、円斎居士と呼ばれた。沖縄のエンサイクロベディアということである。昭和17年3月27日没した。享57.


 島袋源一郎を遠ざけていたのは以下の源一郎評でした。