寡黙庵 2018年9月の記録 沖縄の地域調査研究(もくじ)
(住所:沖縄県国頭郡今帰仁村字謝名)
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やんばる学研究会(開催案内)
ムラ・シマ講座へ(26期6回は備瀬のシニグコースです)
2018年9月27日(木)
このページ10月2日まで休みです。
明日から上京の予定ですが、台風24号の沖縄本島への接近でどうなることやら。平成30年度で区切りをつける予定。昨日給った辞令通知書は平成33年までの任期(苦笑)。上京は30年近くお世話になった「沖縄文化協会」へのお礼の挨拶のため。その件で、上京することはもうなさそう。
2009年の『なきじん研究』(16巻)(今帰仁村教育委員会)に、所収した16編の短文のタイトルのみ紹介する。これまでどんなことを書き綴ってきたか思い出すためです。
第一編 山原の歴史・文化へのアプローチ
第二編 山原とは
第三編 山原の歴史の道
第四編 琉球国の統治と祭祀―山原の祭祀から
第五編 山原の御嶽(ウタキ)と集落と村(ムラ)
第六編 山原の五つのグスクと集落
第七編 『明実録に見る北山』
第八編 北山監守(今帰仁按司)と今帰仁阿応理恵
第九編 池城(イチグスク)墓
第十編 琉球国の統治と祭祀
第十一編 山原の間切と両惣地頭など
第十二編 琉球の歴史と関わった運天港
第十三編 山原各地の津(港)
第十四編 山原の津(港)と山原船
第十五編 伊江島の番所と掟
第十六編 山原の芸能と祭祀

(一部紹介 2009年「沖縄の印部石」地域史叢書:沖縄県地域史協議会発行、肩書きは当時のまま))
2018年9月26日(水)
24日、25日台風24号の接近を気にしながら与論島へ。島行きを諦め、外に出てみると天気良好。11月まで待てそうにないので、行くことに。大型のフェリーなので大きなゆれを感ずることなく供利(ともり)港へ。(帰りは茶花港から)
旧暦8月15日の十五夜踊りを見ることが大きな目的であった。というのは、特に八月の十五夜踊りは、これまで見てきた山原のシニグの一連の一場面ではないかとの印象がある。それと山原ではシニグや豊年祭はムラ・シマ(現在の行政字)を挙げての行事であるが、与論の十五夜踊はサークラ単位で行われていたのが統合され、島全体で行っているものか。さらに一番組の内地風の踊りも組み込まれたものか。
十五夜祭りが行われる場所が城地区、城跡内、沖縄のウタキのイベに当る場所に事地主神社の神殿になっている。沖縄ではウタキが神社化されるのは明治以降であり、与論島では薩摩の琉球侵攻後になされたものであろうか。ほんの一部を拝見したに過ぎないが、この十五夜踊りを見たのみであるが、その踊りを通して「与論島の歴史」を読み取ることが出来そうである。
それとは別に、統合された「十五夜祭り」であるが、サークラでのシニグが行われている、あるいはその痕跡がないかと、朝戸の集落へ。山原では、昭和初期に神社化され祭祀が合祀されるが、以前の祭祀場でのウガンも継承されている。与論島ではどうか。それでニッチェサークラの座元となる按司根津栄(アジニッチェ)神社へ足を運ぶ。神殿に供え物をしている最中。シニグ旗を立てるという場所まで案内いただく。「茨城県から来たばっかしなのでよくわかりませんね。諸説あるようで」とのこと。そこにはサークラごとに行ってきたシニグの痕跡がしっかりと遺っている。
同じくニッチェサークラのシニグのとき巡る黒花崎の浜倉までいく。そこにも「按司根津江翁浜宿」の碑があり、倉を見立てた建物がある(昭和56年建立)。朝戸地区に大道那太(ウプドーナタ)の伝承をもつ旧家がある(茅葺き屋根高倉)。近くに根石を祀ってある場所がある。その一族(サークラ)もシニグを行っている。シニグを行っている一族のほとんどが琉球との関わりをもっている。
(詳細は別で工事中)

2018年9月22日(土)
しばらく「寡黙庵」にいく時間がないので、庭の草刈りと庭木の剪定。「寡黙庵」での打ち合わせや来客があり、嬉しいかぎり。名護の自宅は塗装や一部手直しの監督は、相棒の役割。残りの時間、仕事がしやすいよう気遣って環境をつくってくれているような。感謝です。
月・火と与論島へ。二日おいて東京へ。もう訪れることはないとの思いでの状況である。学生時代(大学院まで)9年間過ごした地であり、平成五年に「沖縄文化協会賞・金城朝永賞)(第十五回)を受賞し「今帰仁の地域史づくり」で講演をしたことがあり、振り返ると、その時の思いを30年近く継続しています。それが、このブログで公に形にしてきたものです(無意識に)。
平成五年に講演をした「・・・婦人会館会館?」へ(もう建物はないでしょうが)。過去の足跡を振る帰ることが多くなりました。
2018年9月18日(火)
2007年8月3日に「与論島のシニグの復元」のメモを遺してある。今帰仁村の湧川のウプユミ(ワラビミチ)の調査をした時のメモだと思う。その頃から、祭祀の名称は一連の祈りの一部を指しているのではないか。そんな疑問を持ち続けていた。祭祀の名称にこだわりつつ、祭祀を流れや所作や供え物などにいくつもの祭祀は幾重の重なりでなっていることに気づかされる。(下の画像は2007年)
「与論のシニグ」に山原のシニグや海神祭やウプユミなどを比較しながら見ていく必要がありそう。今帰仁村の湧川の「ウプユミはワラビミチと一緒にした」と、伺っている。ワラビミチは子供達にミチ(強飯)を配り、鼓を敲いて複数のムラを行くのはトントトトンの場面である。それが今でも引き継がれている。シニグと呼ばれる祭祀にどのような所作があるか、シニグ全体を構成している各要素をあげて見る必要がありそう。
連休は「寡黙庵」で休む。何年ぶりかの徹夜をする。パソコンの不具合でデーターが取り出せず。頭の中は混乱状態。
与論島と沖縄(北山)参照
与論島のシニグの復元
・7月の行事
与論の場合は、時代によってシニグは大部変貌があるようだ。
・7月17日のシニグ
シニグ本祭
舞踏をする(サアクラ、シニグ踊)
明治3年まで毎年
明治4年琴平神社が建立され、シニグとウンジャミの祭祀が廃止される。
シニグの7日前からヌルは神小屋で禊をする
ウンジャミは復活せず(明治32年)
サアクラという集団(一門)の単位で行われている。
旧暦7月16日 サアクラ作り・神道つくり
17日に本祭
18日 中休み
19日 直会・サアクラの片付け・神道直し
【与論島茶花】
シニグの行われる祭場をサアクラという。
茶花のハニクのシニグは高倉で行われていた。
その後、ミダラパンタの丘へ。そこでウタ舞の神遊びが行われる(パルシニグ)
戦後は高倉が焼けたので仮小屋をつくり、ミダラパンタへ。
シニグ元(ウプヤ)の屋敷の広場
サアクラの場所をシニグドゥクル、シニグドゥ(麦屋)という。
【シニュグ祭】(宮城栄昌)
ウンジャン(海神)祭と隔年で行われる。その意味について、沖縄及び大島各地で種々説明されているが、先祖神に収穫を感謝する祭で、来る年の豊凶を占うとともに豊作を祈願するものであったことは疑いがない。与論島の本祭は、明治初年の廃仏毀釈時に祝女や□巫が圧迫を受け、ウガン所の廃止、祭儀用衣類、珠玉などの破棄があって、明治5年から廃止されたが、明治32年に復活して、現在に至る。
旧暦7月16日のパルシニュグ
17日の本祭
18日は休み
19日村民全体の直会で終わる。
祭祀集団であるダークラ(サアクラ中心に行われる)。
パルシニグと迎えシニュグがある。

▲勢理客ノロさんが奥間アサギでの祈り ▲湧川神アサギでの祈りあり

▲小・中学生が鼓を打つ役目。湧川→勢理客→上運天→運天まで(今は車で)
2018年9月16日(日)
先日、本部町備瀬のシニグのほぼ全過程(五日間)を通してみることができた。以前、積み残してあった与論島のシニグの記録に目を通してみた。備瀬のシニグとの類似性を見るため、備瀬の五日間の祭祀の流れを頭に入れておくことから。与論島には、古い形(赤崎から)と船倉を拠点とする二系統のシニグがあるのではないか(印象)。(北山文化圏・シニグ文化圏・神アサギ文化圏)
▲神アサギに立てかけたシニグ旗 ▲シニグ舞いの日、移動(児童の舞いあり) ▲アサギマー(流れ?)に御酒を置く小屋
▲ヌルヤーでの舞い ▲拝殿・神殿でのノロでの祈り ▲ニーセー達が直会
与論島と北山(与論島での講演レジメ)
2018年9月14日(金)
北山系統の一族(伝承)
北山と沖永良部島(講演レジメ)
2018年9月13日(木)
『琉球国由来記』(1713年)の今帰仁間切の所で次のようなことが記されている。
・城内上之嶽(今帰仁村)
・同下之嶽
・コバウノ嶽
上の三ヶ所は「今帰仁巫崇所」とあるが、その内容からすると首里王府の直属の祭祀である。司っていたのは「今帰仁阿応理屋恵」であったと見られる。1665年に今帰仁間切と伊野波(本部)間切に分割され、今帰仁按司一族(今帰仁阿阿応理屋恵含む)は首里に引揚げる。それらの祭祀は今帰仁巫が肩代りする。
『琉球国由来記』(1713年)が編纂された時は、今帰仁巫が肩代りしているので、そこでの祭祀は今帰仁巫とされている。18世紀後半に今帰仁阿阿応理屋恵は今帰仁に戻るが祭祀は今帰仁阿応理屋恵と今帰仁巫が一緒に行っていた痕跡が見られる。
城内上之嶽(テンチヂアマチヂ、カナイヤブ)は「阿摩美久がつくったウタキとの認識がある。また、君真物出現のとき、冷傘(ウランサン)が立つことも伝えられている。その祭祀をつかさどっていたのが今帰仁阿阿応理屋恵が果たしていたとみられる。
さらに、
首里天加那志美御前、百御ガホウノ御為、御子御スデモノゝ御為、又島国之、作物ノ為、
唐・山和・・宮古・八重山、島々浦々ノ、船々往還、百ガホウノアルヤニ、御守ミシヨワレ。デゝ
御崇仕也。
とあり、クニレベルの祭祀である。所々村の祭祀が並行して行われている。そこから、北山の歴史の一端が描くことができる。
「北山監守と今帰仁阿応屋恵」参照
2018年9月13日(木)
2009年にメモったものである。それらの記録から歴史を読み取っていこうとする作業である。『琉球国由記』(1713年)から間切や当時の村をみ、さらに神アシャギの存在をしり、また、巫の存在と管轄村をしる。ノロや管轄村のほとんどが今に伝わり、古琉球からの辞令書が遺っている。また、旧暦で行っている祭祀、それは主として農耕暦である。「公事帳」に「神遊」と出てくる。それは今の公休日に例えると、祭祀は首里王府が国々の末端まで支配する手段である。そのような視点でみていく必要がありはしないかと常々考えている。ノロや神人の祈りのほとんどが王府に納める税と関わっている。
2009年1月18日(日)に、
『家譜』から今帰仁間切、あるいは山原と関わる記事を拾っている。すると興味深いことが見えてくる。時間がないので、ほんと少しだけ!(1609年の薩摩の琉球侵攻と関わった人物のちょっとした記録である)
・栢姓一世良正(今帰仁親雲上)(1490~1556年)(栢姓家譜)
嘉靖年間に那覇筆者となり、後に今帰仁間切惣地頭職となる。
・向姓六世 朝智 玉城親方(1582~1640年)(向姓家譜 六世朝智)
父尚韶威(今帰仁王子朝典)の五世孫。
万暦37年(1609)薩州より当国に兵船を遣される旨の知らせあるの故に兵船の番手として宣旨を承けて
徳の島に航す。幾程もなく兵船来着し多勢を以て襲い来り小島をの知らせあるの故に圍攻む。籌を廻すと
雖も小勢の故に一戦を力むるも萬死に一生なし。此の時軍中に一人の入道浄休なるものあり。予め旧識
あるに因り其名を軍将に告ぐ。故に死命を免れて軍将椛山権左衛門殿乗船より運天に来着す。
・藺姓二世 篤? 今帰仁親雲上(1595~1659年)(藺姓家譜)
崇貞元年戌辰(1628年)に今帰仁代官となる。
順治元年甲申(1644年)今帰仁間切惣地頭職となる。
順治12年(1655年)に老を告げて今帰仁間切惣地頭職を返上する。
※今帰仁按司六世(縄祖)と七世(従憲)との間に藺姓二世篤?(今帰仁親雲上)が1644年~1644年までの間、今帰仁
間切惣地頭職を務めたということか?
・孫姓六世 嗣冝 並里親雲上(1638~1721年)
康熙元年壬寅(1662年)今帰仁代官となる。
・朱姓四世 直昌 喜瀬親雲上(1632~1699年)(朱姓家譜)
薫姓己酉(1669年)今帰仁間切親泊の名を賜う。
・薫姓六世 仲眞(屋親祖親雲上)(1646~1710年)(薫姓家譜)
康熙11年今帰仁間切玉城地頭職に任ず。
2018年9月12日(水)
2002年4月の記録に「琉球渡海日々記」(1609年)と「喜安日記」の今帰仁間切部分について記してある。そろそろ「北山の歴史」に関わる原稿を「一まとめ」にしておきたい。目前に二本の原稿の督促がきそう。それを片付けてから。
2018年9月11日(火)
9月1日(旧暦7月22日)本部町備瀬のサグンジャミを見させてもらう。その祭祀を拝見しながら、本部町具志堅のトントトトンや今帰仁村今泊、古宇利島のサーザーウェー、今帰仁村湧川のワラビミチ(ウプユミ)、国頭村与那のウンジャミ、安田のシニグなどの流れの一部と重ねがらみていた。特に、具志堅のシルガミ(トントトトン)と。湧川のワラビミチのとき、中学生達が湧川から勢理客→上運天→運天で鼓を打ちながらいく。
▲具志堅のトントトトンの一場面 ▲湧川のワラビミチの時、鼓を打ちながら運天まで
勢理客出身の島袋源七氏は『山原の土俗』(昭和4年)でワラビミチについて、以下のように記してある。
今帰仁村勢理客に於いては毎年旧の七月中旬に行われる。白衣装を着け、白八卷を
した祝女や神人が字内の祭神「火神」の前に集まり、根神は各一門中から集めた餅(之
は甘蔗の葉に長く包んだもの二包づゝ)を捧げ、氏子から集めた米(一合)で神酒を造ら
せ、それを神前に捧げ、尚お藁を束ねて此藁の数にも増して子孫を繁昌せしめて下さい
と祈願し、それが済むと各氏子は神さまのおさがりの餅と神酒とを戴いて帰る。
此所を引き上げて、神アシアゲの庭で獅子を躍らせ、宴を張り、一日中面白く遊んで
帰るのである。獅子舞は健康を祈るもんだと伝えている。
そこでのミチは御神酒のことであるが、備瀬でのシチとして配られるで強飯のようである。
2018年9月8日(土)
バスの手配ができていず、座学となる。急遽、頭を切替えて、シイナグスクと具志堅について。現場でイメージさせることができず、申し訳ない。
本部町具志堅は山手から海岸に向かって集落は展開する。具志堅村、真部村、上間村が合併した村(字)である。1719年に嘉津宇村が具志堅の地に移動し、戦後分区している。今帰仁村との境界にトーミヤー跡(ピータティヤー)がある。集落は大島・新島・佐我屋に分かれている。シニーグがしっかりとと残っている。山手には古具志堅の地名があり、移動集落であることがわかる。
▲上空からみた具志堅 ▲具志堅の茅葺き屋根の神ハサーギ
〔具志堅のシニーグ〕メモ
以下の部分は『沖縄の芸能』(昭和44年発行)からのメモである。今年の調査(8月)は、以下の流れや衣装などを念頭に入れて、参与観察記録(調査記録)をとってみる。
本部町具志堅ではシニグやシヌグのことをシニーグと呼ぶ。
・旧暦7月25日に行われる。
・当日の午後、ムラの女の人たちが正装して神アサギの側に集まる。
・ノロが先に祈願して待っている。
・全員が集まると太鼓を打ち、シニグを歌う。
・シニグの歌を謡いながらアサギ庭で二重円をつくる。
・内側が未婚の女性、外側は中年の婦人たち。
・かつては胴衣袴(ドヂンカカン)だったが、紺地の絣帯を前に結ぶ。
・中年の外側の婦人たちは鉢巻を結び、紺地の絣か芭蕉衣に前結びの帯。
・老女たちは、鉢巻を前にして紺地のかすりか芭蕉衣、帯をしめないでウシンチー姿。
〔シニーグ舞〕
・11種の曲節がある。
・一節終るごとに小休止をする。
・先頭の音頭とりが太鼓を三回打ってから節を謡いだす。それに和して皆で
謡いながら舞う。
・舞の手は拝み手・押し手・祓い手・捧げ手・こねり手がある。
・シニーグ舞はノロを先頭に根神以下の神人が続く(これらの神人が太鼓を
打って音頭をとる)。

▲旧具志堅神ハサーギ跡で(2002年撮影) ▲具志堅のハサーギマーでの舞い(2002年撮影)
〔シニーグの場所〕
・上(具志堅)アサギ→真部アサギ→上間アサギ
・上間アサギでのシニーグ舞が終ると太鼓の早打ちに合わせて参加した女性
たちが一人ひとり円陣の中に入って踊る。
・最後は男性たちも円陣に入り踊り群舞をする。
かつては、具志堅・真部・上間の各神アサーギで行っていたが、三つの村が統合してからは上アサギ・真部神アサギ、そして上間アサギの順序で三カ村一緒になって行うようになったという。(現在の流れはどうだろうか?)
※三箇村の神ハサーギ、現在の神ハサーギの位置、そして祭祀の流れを
場所と時間の流れで記録する必要あり。調査年によって場所の特定が
不明確のため論をたてにくいところがある。
■具志堅ノロ
『琉球国由来記』(1713年)の具志堅村に関わる記事をみると、具志堅村の御嶽はヨリアゲ森、神名は中森ノ御イベとある。そこにおける祭祀は、麦稲穂祭、麦大祭、稲大祭、ミヤ種子、山留がある。具志堅ノロの管轄の祭祀である。『琉球国由来記』のころ、具志堅ノロの管轄村は具志堅一村である。それは具志堅村が規模の大きい村であったことを示しているに違いない。
2002.4.20(土)メモ
具志堅のシニーグ
本部町具志堅の神アサギ(神ハサーギと呼ぶ)を訪ねたことがある。気にかかっている神アサギの一つなので、少しまとめておくことにしよう。山原で茅葺き屋根の神アサギは四軒(今帰仁村字崎山、国頭村字安田、本部町字具志堅・恩納村恩納)あるが、その一軒が具志堅の神ハサーギである。具志堅の神ハサーギが気になっているのは、合併村(ムラ)でありながら、現在一つの神アサギしかないことである。これまで、「行政的に村が合併しても祭祀は一体化しない」原則があると唱えてきたからである。 現在の具志堅は具志堅村・真部村・上間村の合併である。三ケ村の合併は明治初期の段階になされている。『琉球国由来記』(1713年)に具志堅村は登場しているが真部と上間の両村は出てこない。その後の創設だと思われる。
大正時代、島袋源七氏によって調査され、まとめられた「本部村具志堅のシヌグ」がある。それは『山原の土俗』に収録されている。三つの神アサギの合併は昭和12年だから、神アサギが一つにされる前のシニグの状況を記録しており貴重な報告である。(『山原の土俗』より概略を示す)
旧暦七月二十日後の吉日に行う。
①大ウサイ(ウフウサイ)(1日目)
具志堅・真部・上間の三神ハサギのシヌグガミーが具志堅神ハサギに集る。15歳以上の男子を報告、15歳以上の男子は
粟五合づつ、十五歳以下は一合ずつ各ハーサギに納める(祭祀の費用にあてる)。
②ウーニクヂ(舟漕ぎ)(2日目)
今帰仁村今泊の今帰仁阿応理屋恵や今帰仁ノロと共に今帰仁城跡に行き、テンチヂアマチヂで祭祀を行い具志堅神ハサー
ギに帰って、今帰仁城での祈願の報告をする。
③大ユミ(ウフユミ)(3日目)
神人総出で御嶽に上がる。神人は一段上の拝殿で祈願をし、オモロを謡う(このオモロすでに伝わらず)。ノロなどの神
人の祈願が終ると、一段下に向っていた男神人は、女神人を向えて一緒に祈願をする。ノロと島の大屋子、根神だけの
組をつくり各自弓矢を携え二組になって道を異にして村の西海岸に行列をなしていき、そこで祈願をする。
④男のユバイ(大ユミから3日目)
島の大屋子が柴山に登って柴と野葡萄とを取って、背から頭までの高さにして具志堅神ハサーギに帰り、そこでご馳走を
うける。男の神人を三つの組に分けて、鼓を打ちながら各戸をまわる。字の西方の流庭に行って合流する。そこで鼓を打つと
ノロや根神など女の神人たちが迎えにくる。連れ立って大川に行って体を清める。
そこでの祈願が済むと各自の神ハサーギに戻り、粟の神酒をいただく。
⑤女のユバイ(男のユバイの翌日)
その日も神ハサーギに集って神酒をいただき、ノロ以下の神人は具志堅神ハサーギで踊りやウタの練習をする。
⑥当 日
その日は午後4時頃から各神ハサーギの庭でシヌグを踊る。その後男衆は各自の組旗を持って神ハサーギに行列していく。
具志堅神ハサーギから上間神ハサーギに行列し、次に上間・真部神ハサーギからそれぞれ旗を持って具志堅神ハサーギに
集り、女性達は合同してシヌグを踊る。 (具志堅は「神徳霊妙」、真部は「神洋々遊」、上間は「三神和楽」の句)
⑦タモトノーヒ(お別れの日)(祭の最終日)
各自の神ハサーギに行って重箱を開いて遊び、男性達は一定の場所に集って神饌をくみながら祝う。
2018年9月7日(金)
今日から日常にもどれるか?
2018年9月6日(木)
本部町のシニグ調査は、朝から晩遅くまで続いた。疲れ気味。今日は歯の大修理。しばらく続きそう。我が家も足場を設置しての補修。もう25年になるか。私の体も老化してしまった。足場に上って松木の枝の剪定。ムラ・シマ講座のレジメづくりもしないと。
▲足場を組んでの塗装と修復作業を依頼(もう自分でやる体力なし)
2018年9月5日(水)
本部町備瀬のシニグの最終日。後片付けと締めの神ウガンか。午前10時頃からか。
最終日のタムトゥノーシのウガン(祈り)は夕刻7時から行われた。ヌルヤーに公民館からウンサフ(御神酒)が運ばれる。ヌルヤー(二×5香炉前)、ニーヤー(二×6香炉前)にウンサクが備えられる。(二は男用と女用)。線香はすべて板香。ヌルヤーでのウガンが終えると椀のウンサクをいただく。かつては大きな椀だったという。神アサギ(拝殿)へ移動。そこで参加者にコップでウンサクが配られる。
直会の途中から、ウシデークの曲を流し座ったまま鼓をうつ。ノロさんが高齢ながら最後までご苦労さんの声をかけている。参加者からノロさんへご苦労さんでしたと。
神アサギでは神殿にヌルさんと補助の女性がはいりウンサフを備える。神殿から拝殿(神アサギ)に移動し、タモト木の前にウンサフが配膳されウガンがなされる。参加者も祈りをする。拝殿では女性のみの直会、拝殿の外にテーブル置かれ、お酒や飲み物やオードブルが出されシンカンチャー(男性軍)が数名が参加。区長さんがみんなにねぎらい言葉をかける。
▲ヌルヤーでのウガン(ウンサクを備えて ▲拝殿でのウガンが終わり。