沖縄の地域調査研究

   寡黙庵:琉球の地域史調査研究)(管理人:仲原)   

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山原の神行事(シニグ・海神祭

今帰仁按司と阿応理屋恵 ・宮古島をゆく



2022年2月28日(月)
 
字誌用のグラビアの画像の整理。学校農園での田植え、パインの植え付け作業。当時は雨が降ると小学校の高学年はウリ―休み。雨で畠が潤うと芋や作物の植え付けで学校は休みの日があった記憶がある。その頃、学校農園としてサトウキビや田んぼなどがあり駆り出されたことがある。学校の近くで畑をつくり野菜を植えたことがある。下の四枚の写真は。昭和30年ころの兼次校の農園である。当時の教頭は玉城政喜先生であった。その下の二枚は1962年の兼次幼稚園と1958年の兼次青年会盆踊り記念写真である。
 

 

 


2022年2月27日(

 戦後すぐの「共同組合」を設立し、その一部を「配給所兼生活必需品の小売店を開設して、その運営し、売店となる。(戦後売店の出発)

 一本の原稿を送付、あと二本の原稿の校正。
 天気がいいので久しぶりいに庭数歩散歩。花が春を告げている。琵琶やイチゴ(一個のみ)に実がつきだしている。

  


諸志、兼次共同組合の概要

諸志、兼次共同組合組織の経緯 

一、敗戦
 昭和二十年日本国は敗戦の惨状に陥り農村も戦争の余波を受けて壊滅されて住民は衣食住にさまよって生活環境が一変して日常生活物資が極度に入手難に直面したのである。

二、米軍物資無償配給
 米軍政府は住民の生活物資を補うべき生活必需品の配給制度によって物資の無償配給が実施されたのである。この配給物資は軍政府から地区倉庫に地区倉庫は村役場に村役場は各地区配給所に配給されて諸志、兼次地区は諸志配給所に輸送して生活物資の支援をしたのである。

三、物資の有償制度
 有償配給制度になっても生活必需品は不足する状況であったので配給制度を憂い生活必主品の不足を補い施策について諸志、兼次の有志は再三一堂に会合して、その具体策の協議を重ねた結果諸志、兼次共同組合を組織して配給所兼生活必需品の小売店を開設して、その運営にと結論に達し諸志、兼次住民の同意によって昭和二四年一月六日共同組合組織が成立したのである。

諸志、兼次の共同組合役員構成
  組合長  内田正雄  専務 仲村利英(配給所主任兼)
  評議員  多田正徳  上間仙信(区長兼)
         吉田正徳  大城 秀雄  島袋 操
         島袋 重吉  大城丹吉(区長兼)  諸喜田 実

五、解散 昭和二五年十二月二十日
  各字行政区毎に組合組織が成立した」ので諸志、兼次共同組合を解散した。 

六、解散事務処理
 共有財産の茅葺き配給所は合議によって諸志共同組合が買い取りその配分は配給人口によって査定して諸志、兼次の組合に配分支払いしてのであります。

七、純益金について
 本組合は食糧配給所と生活必需品の小売りであったので純益金も少なく各行政区の共同組合組織準備金として各字人口割にして各字に配分支払いして財務処理完了した。


2022年2月26日( 

 しばらく、奄美のことで頭がいっぱい。出版物や資料をパラパラと目を通すことがほとんど。執筆することになると、資料名などを記す必要がある。どの資料、書籍だったのか確認する必求などが求められる。頭にあるが、積まれたところから捜すのが大変。最近、メモをノートに書き記している。しかし書き記していないのが必要となり、捜すの四苦八苦。

 奄美の件手放し次へ。これから、三本片づけることに。


2022
2月日誌メモ
 

・「字久志誌」 40頁

久志間切の奉公人
 ・首里御殿に奉公
  比嘉双鶴(浜松屋)の辞令
   文子→川田掟→天仁屋夫地頭→総耕作当
・比嘉蔵蔵(上仲次) 汀間掟
・宮里顕仕(仲吉) 瀬嵩掟
・島袋茂樹(仲之屋)
 首里御殿の奉公
  川田掟、平良夫地頭
・・・ 

・薩摩琉球侵攻の経過(島々の対応)(薩摩統治以前の琉球の時代の様子)
 喜界島
 奄美大島
 徳之島(戦いあり、亀津?(徳)
 沖永良部島(帰りに「バカ村」(現正名)立ち寄る。
 与論島
 沖縄本島
   今帰仁グスクは戦わずして逃亡

・源為朝渡来に関する学説 島袋 源一郎【沖縄の歴史】p55
・正史「中山世鑑」
・袋中「琉球神道記」
・運天上陸や南山城下の和解森の口碑
・伊波晋猷
  おもろさうし

・「薩藩史談集」(重野博士)
   阿多(平姓) 阿多忠景1100年代の薩摩
    為朝は阿多忠景の婿だという。

    この説では伊豆大島ではなく奄美大島から島伝いに運天へ。

・「国史」に曰く
     大里按司生んだ琉球の舜天という。

・「南島沿革史論」(篠原坦氏)異論 

・「奄美大島民俗誌」
 為朝が西古見に停泊、順風を待って琉球へ旅出ったとの口碑
   慶長以前からあった伝説だという。 

・「喜界島征伐」新聞記事 林清国氏(新城徳祐新聞スクラップ
  天女伝説(12)

「尚元王が大島征伐をしたときのことを「球陽」から誌すと、

 隆慶五年(1571年)尚元王みずから軍兵を率い大島を征伐した。大島は与湾大親の亡後他の酋長など反して貢を絶ったので、王海船十余隻に兵を乗せ、二月十三日那覇を開船して大島に向かった。賊徒むかえて戦ったけれどもついに大敗して遁走し主魁は捕らえられてちょうせられた。王命じて別に酋長を立てて百姓を安撫させた。三月の初め王病を得て危篤におちいったが追法司官馬順徳天に訴え身を以て代わることを祈り王は病癒えて四月那覇に凱旋した。然るに国頭親方は果たして帰還後、病に染み同年七月ついに卒した。王これを哀み親しく国頭の宅に臨まれ、宝石の墓に厚く葬らしめ、その祖父以来三代の累功に潤いるため四世より按司家に陛せたという。これが国頭御殿の由来なり。 ・・・

 泊地頭は泊村の外、大島諸島を管する職であるが泊大阿母もともにこの時から始まったという。

 ・東恩納寛淳 『南島風土記』255頁
 安里川は、首里台地に発し、西流約二里、泊において海に入る、その下流に崇元寺橋(もとは安里橋)と泊高橋とあり、泊はこの二橋間に開けた邑落である。

 ・・・尚徳が鬼界島征伐から凱旋し泊兼久に上陸した時に、我那覇の大やくもいの 

2022年2月3日(木) メモノート

・『沖縄志』伊地知 貞馨著 明治10年 昭和48年
    鹿児島湾 種子屋久 川辺七嶋 全図 
    鹿児島湾全図
    七嶋全図
    沖縄島総図
    那覇久米邑図
    八重山嶋図
    徳之嶋 永良部嶋 與論嶋 全図
   大嶋 喜界嶋 全図
   那覇港図
   首里城図 中城城址図
   大島 喜界島
   石高 

 物産図

 ・王ノ印鑑及ヒ宝物ヲ盗ム者ハ終身流罪 p219
  北条 p.217 

 為朝伝承  p.269
   平氏の南 資盛 p.277   左馬頭行盛 壇ノ浦から南下 
    大宜味村にサバ崎(サバ焼き)があり、平家の左馬頭行盛に因んだ地名か)

『南島風土記』460頁
 奥渡より上
 浦添門碑

 ここより上下、おくとより上、みやこやへやま、のおゑか人  



2022年2月25日(金)
 

沖永良部島から編纂委員会から進捗の文書が届く。1月の会議にコロナで参加できず。そのとき追加調査の予定ができず。三月に島に渡る予定。昨日は二組来客で・・
 

沖之永部島を往く20211021日~24日)工事中

 沖永良部島往きは『和泊町誌』の私の分担部分の確認である。まず「中北山」が怕尼芝(パ二ジ)滅ぼされた離散した一族の伝承(国頭(根謝銘・ういぐすく)、名護グスク、石川の伊波グスクの伝承、中北山の各地に離散した一族の伝承、そして怕尼芝の弟(二男)と三男の歴史伝承を見ていく必要があるのではないか。その時代と与論島・沖永良部島。その時の山北三王(ハニジ・ミン・ハンアンヂ)の明国との交易記録がある。その時代の山北は隆盛を極めた時代で、明国・朝鮮、東南アジア(ベトナム・タイなど)と貿易を行っている(明国への貢物の品々)。その時代は次男・三男を派遣していて北山の影響は大である。

 1416年ハンアンジが滅ぶと、その後は中山との関わりとなる。その時のことを「和睦」なのか討伐なのか。『世乃主由緒』(平安統記録)の「折柄中山より和睦の使船数艘渡海有之候由」とあり、その後は北山ではなく中山の統治である。その区切りとなり、中山の中央集権国家の統治下(1500年代)に置かれることになる。それから1609年までの薩摩軍の琉球侵攻までの時代である。

 その時代と関わる史料に、首里王府が奄美の役人やノロへの辞令の発給、ノロ辞令とカブ型の簪と勾玉(玉ガーラ)は辞令の発給とセットとみている。神衣装や御玉貫や鳩目銭など引き出物や祝儀として賜っているので、時代は後まで続き、琉球だけでなく奄美でも近世まで続く。それは琉球の儀礼が薩摩以降まで続くということになる。

 奄美に辞令の発給がなくてもノロ制度が生き延びたことになる。それが喜界島、奄美大島、徳之島、沖永良部島、与論島に遺っていることになる。今回扱う沖永良部島に辞令書はまだ確認できていないが、ノロ遺品の勾玉と簪(かぶ型)が遺っており、古琉球の時代を見ることができる。その時代は辞令書とノロ遺品と並行しながら、「おもろ」や「家文書」の地名や役職名、シ二グの行事の流れなど見ていくことができそう(実証的に)。そのことがあって知名町の上城と下城へ。島への女人の入り方はシ二グの本質をついているかもしれない。

天気が悪く、それと夏場の調査が多いので夕方七時頃まで踏査するが、今回は雨と夕暮れが早く時間切れ。会議が始まるまでの午前中、与和の浜、コンクリートの小屋後あり。砂糖の小屋とのこと。そこから古里へ。前日も皆川から通っているが気づかず。皆川の川が気になっていた。皆川でシニグドーとニャークバカとフークツクバカを見る。碗が十基近くあり、第一の印象は古琉球と薩摩以降(1609年)とさらに明治4年以降の重なりが見える。

勢理客のジッキョヌホーや住吉のクラガーと高倉へ。皆川にも水量の多い川がある。皆川の名のとおり水に恵まれた地である。以前に住吉ノロの遺品の調査をしたことがある(沖縄県の玉ガーラ調査)。福永家まで訪れる時間なし。そのころの娘さんはどうなったことか。そこからどう廻ったか不明。徳時、大津勘、屋子母へ。公民館に立ち寄ると区長さんの姿が見えたので、「浜番」について聞く。「自転車道路沿いにあるよ」とのこと。見つけました。琉球との関わりが説明してある。

 一日伸ばして、知名町を中心に回る。和泊町と知名町の道路は放射状に交差している印象。ちょっとずれると再び同じ道を通っている。世の神社で説明があるというので参加、そこに藤井氏と桂氏が来られ説明してくれた。伊地知君が世の主の歴史的な話をしてくれ、頭の整理ができた。世の主神社(内城)は二回目、そこから下り、谷間の人家のある場所まで。沢があり畑地は砂地である。田には向かない地質のようだ。大型の竹や芭蕉がある。そこからウファ―チヂの標識を目にしながら与之主の墓へ。何枚も画像に納める。内城へ。そのあたりから頭に描いていたストーリーが崩れてしまう。

 立て直して、知名町よりの山手の集落へ。和泊町側に玉城・内城・大城がある。それと後蘭、後蘭孫八の居城跡と墓がある。おもろに謡われた人物である。そこにもヌルバンドーがある。天気が悪く、墓のある入口まで。どう廻ったか記憶が交差しているが、伊延の西郷隆盛が到着した碑のたっている場所。

【沖永良部島のろ】
 ・沖永良部島の世之主(北山王の二男)(幼名真千代)の子孫が後に大屋役を世襲      宗武重所蔵)「嘉永三年世乃主かなし由緒記」
 ・中山王と上城ノロとの間に生まれた王子とのこと。
 ・北山王系の世之主は、二代目のとき中山王からの討伐で自殺。
   各村に世襲のノロいた。えけり・おなり、百とともに旧家の女性が継承。

【ノロの支配組織】
 大あんしられ・ノロ・ウカシア・ミチサジ   男子の百

【ノロの財産】
   ヒャー田 ヒャー畠

【ノロが関わる祭祀】
  ・八月十五日 旧 シニグドーで八月踊りをした。
  ・八、九~十月 乙酉 シニグ祭り

【廃絶の理由】
 安政二年(1885年)以来極端な弾圧、明治二年(1869 )の廃仏飢釈、シニグも廃止

【沖永良部島のシニグ】

 本島のノロの姪と琉球王との間にできた王子(怕尼芝の弟、真松千代)で
 本島の与の主となり、三年に一度巡視、その歓迎の為の儀式
世の主以前からあった祭り
(収穫を感謝し、豊作凶作を占い、豊作祈願として祭で、世之主以前からあったもの)
 後世に百が主宰となるか。
 百が御使いをつかわして上言をのび、シニグ後の与人の島周りに大アンシャリが参加。

ノロ中心の祭祀
 薩摩の支配後、士族中心の武的行事となる。

①隔年行われる。
 祭のある年はシニグ年、ない年を神なし年
②祭は九月、十月の乙酉(きのととり)の日
  ①祭前  余多・屋子母・西見の百は各自の百を引率して、与人・大あんしゃり・目差などの家をめぐる。(お使いという)

  ②三日前には尻縄(しじゃたみ)があり、馬具を改め、乗馬の乗りためしをする。

  ③祭りの前夜、与人たちは内城に夜籠りをする

   翌朝』与人旗」を押し当てて、騎馬隊を引率し世之主側を擬するもの(赤装束)、反対側のもの白装束とに分かれてシニグヅに集まり、さらに集庭に赴いて模擬戦い。世之主側が勝つことになっている。

  ④シニグ終了後
 与人三人・目差三人・百一人・本掟三人・城サバクイ一人・大アンシャリ一人

    白装束で
   一日目 余多(アマタ)―屋者(日帰り)
   二日目 久志検―屋子母(泊)
   三日目 屋子母―西見(泊)
   四日目 西見―内城

       (全島を一周)

     内城の与之主墓を拝み、そこに供えてある酒で豊作・凶作を占い、

     住民の相撲をみて解散する

    ※「初シニグ祭」、前シニグ後に生まれた衆多の男子のために行う祭儀がある。

・シニグ祭一周間後、には役員の慰労のため当たりシニグが百の家でおこなわれる。

・西見にはウツタハチブルがあり、男二人は舟を漕ぐまねうする。女装の男二人は太鼓を打って踊りをする。上城から出発し稲葉のウッタ墓の中からハチブル(面)をかぶって西見で種々の戯れをなす行事。

  ・シニグ祭には騎馬戦や供酒、豊凶占い、農業関係の祀りあり。ツタハチブルで太鼓を打って踊る中で舟漕ぎの所作あり。村村の巡視は悪魔払い


2022年2月24日(木)

平家は琉球に来ているのか?の質問をいつも受ける。それが史実かは別にして、その伝承は根強く残っていますと返答してきた。喜界島から奄美大島、徳之島、沖永良部島、与論島を訪れていると、平家遺跡を横目に見てきた。宮古・八重山でもその伝承を聞いてきた。「宮古島旧記」を見ると、沖縄本島を飛び越えて先島へ文化の移入があったのではないか。古事記で登場する話や神道が先島に導入した印象をもっている。(少し踏み込んでみるか)

⑱南島に於ける平家の遺跡『新版 沖縄百話』島袋一郎著 より

 肥後の山中にある五個庄が平家の後裔であることは誰でも知っているが、亦薩南十島より大島宮古島・石垣島・与那国島に至る迄平家没落の遺跡がある。

 硫黄島の長浜に「御前山御墓地」というのがある。導かるゝ儘に赴いて見ると、之は驚かされたり、畏くも安徳天皇御陵を始め御子隆盛親王、経盛公長男中納言経正公、資盛公長男吉資興参議業盛、佐野内侍、左納内侍御墓と記したみすぼらしい碑石が点在している。

 旧察長浜権十郎(資盛の胤と伝う)所蔵の古文書等に依れば、元暦二年壇之浦に敗れた平家の一族は安徳天皇を奉じて伊予国高島に遁れ、更に日向国細島に至りしに源氏の諸勢南下するとの説に脅かされ、此を出でて大隅国志布志を経、遂に種子島に下った。之より再び大隅の内之浦に帰ったが土地狭くして敵を支へ難きのみならず今や力と頼む士卒も多く落ち延び船も亦散乱したので、資盛は、天皇を奉じて蓑に種子島の大江澄遐より聞いていた要害の硫黄島へ渡った。

 かくて防御の手配をなし、資盛の本陣は西丘城に、城中次郎兵衛は尾崎城に、上房五郎兵衛は靑尾城に、福原相模守秀長は高丘城に各分営に設けて守備に任じた。然るに文治三年瀬朝は天野造景、宇都宮信房を遣はして鬼界島に於ける平家の残党を征伐させることになった。竹島に警戒していた福原相模守の従臣は海上に出没せる源氏の船を認めたとのことで、硫黄島の平家方は相議して建仁二年資盛,」時房、径俊、景光、盛径等は口之永良部、七島を経て大島に、清房、忠綱はヤタに、宗親、通正は黒島に遣れ、主題白尾大膳太夫以下四十余人は、天皇を奉じて硫黄島に留ったということである。長浜、日高、安永の諸氏はいづれも平氏の裔という。

 竹島には高丘城福原相模守が遺した見張番の後裔日高氏があり、黒島の西北にも「平家の城」と呼ぶ無比の要害があって宗親、通正両将の拠った遺跡とし、仝地日高氏も平氏の後裔と称えている。

 口之島も亦平家の籠った所で肥後休右衛門が豊前より来りて仝島「平家の城」に依ったといい肥後、日高氏等即ち其の子孫なりと伝へている。中之島には大将有盛の遺跡があり、肥後、日高氏は仝じくその後裔と称している。

 之より南下して臥蛇島に日高、肥後氏があり、平島では小松大弐の裔と伝ふる日高氏、宝島では資盛の後裔と称する平田氏があり、悪石島、諏訪瀬島にも平家の裔と伝ふる人々がある由。

 大島本島では名瀬町より北方浦上村に名瀬、笠利間切を領有していた平有盛を祀った「有盛神社」という小祠があり境内には其の墓がある。猶ほ奄美大島民族誌によれば諸鈍には西間切、東間切、屋喜内間切を領していた重盛の二子資盛を祀れる大屯神社及其の墓があり、叉戸口には古見間切、住用間切を領有していた行盛の「行盛城」「行盛神社」がある。

 天文十四年琉球王尚清は新殿を建てノロクメをして平家の残党を追祀せしめたということが文献に見えている。

 沖縄本島には全然平家の遺跡と伝ふる所はない。或いは当時琉球は源為朝、其子舜天王といった按配に源側の勢力が張っていた関係で避けたかは知らないが遠く南方宮古島狩俣は平家落人の集落だと言い伝えている。狩俣は海中に突出した岬角で、其の形状恰も武具の狩俣の如く、現に仝地の旧家には古刀一鞘を秘蔵している。

 叉八重山石垣島大浜村の北端平久保にも平家上陸の伝説があり。其の人々の墓を倭墓叉はヤシマ墓と称して居る。更に南端の与那国島にもヤシマ墓叉は大和墓と称する古墳があるとのことであるが今は只伝承の儘に採録して置く。

 京都輸出織物検査所長の武富喬氏の祖先は平氏であるが、八重山武富島(今は竹富と書く)に漂流し、徳川時代に至って本土へ帰還した縁故に依って武富姓を名乗ったということである。


2022年2月23日(水
 
これまで、数多くの史・資料を手にしてきた。それぞれの資・史料に想いがある。そのほとんどが島袋源一郎つながりである。新城徳祐資料もそうである。先日利用した『琉球共産村落之研究』田村 浩著(昭和二年版)は、鳥越憲三郎先生からの贈呈である。周りから鳥越先生と源一郎との関係を聞かされいたので、平成二年頃万博会場跡地に引っ越されておられた先生宅を尋ね、そこでその本の初版本をいたものです。それも島袋源一郎と母(源一郎の妹)つながりでした。最近、故霜田正次氏の「うまれ島と「沖縄島」、仲宗根政善船影の寄贈もそうである。故仲村源正氏資料や今帰仁間切最後の地頭代辞令書と「口上覚」もそうで上覚」もそうである。休日なので過去の史・資料を数点思いおこしてみることにする。

【新城徳助と新城徳幸の文書史料】(2008.02.01)

新城徳助と新城徳幸の文書史料の確認をする。今帰仁間切親泊村の出身で徳助(1841年生)と徳幸(1869年生)は親子である。徳助は明治の辞令書と「口上覚」(履歴)(16点)、徳幸は明治10年代の卒業証書と辞令書など(16点)である。

1990年に公にし、その後寄贈いただいたものである。史・資料を所有されていた新城徳祐氏(故人:徳幸の子)の奥さんから、さらに多くの資料(書籍や写真や拓本、新聞スクラップ・直筆の原稿など)の提供があった。史・資料紹介を兼ねて「新城徳祐氏寄贈資料展―グスク・芸能・ノ-ト類を中心に―企画展(平成10年)を開催した。辞令書や明治の卒業証書や口上覚などの文書史料(32点)に目を通してみる。

【新城徳祐資料展示目録

http://rekibun.jp/gazou1/080201ji1.jpghttp://rekibun.jp/gazou1/080201ji2.jpghttp://rekibun.jp/gazou1/080201ji3.jpg
   
 ▲新城徳助の「口上覚」(明治16年)

http://rekibun.jp/gazou07/080201nak1.jpghttp://rekibun.jp/gazou07/080201nak2.jpg
  ▲新城徳助の「今帰仁間切西掟」の辞令書  ▲新城徳幸の「今帰仁間切仮文子」の辞令書



【新城苗茂・保子辞令】(32点)新城徳祐氏の奥さん(令和2年11月寄贈)(画像は一部)
       (苗茂は徳祐氏の改名以前の名前)

番 号 

発給年月日

辞令書の内容

受給者

発給者

1

昭和7108

第一回青年産業講習会受講

新城苗茂

沖縄県

第2号

昭和121122

沖縄県島尻郡玉城尋常高等小学校代用教員の任命

新城苗茂

沖縄県

第3号

昭和131230

代用教員講習会終了

新城苗茂

沖縄県

教育会

第4号

昭和141231

沖縄県公立小学校訓導(代用教員)に任命

新城苗茂

沖縄県

学務部長

5

昭和141228

小学校教員冬期講習会受講

新城苗茂

沖縄県

師範学校

6

昭和151213

沖縄県島尻郡玉城尋常高等小学校訓導に補する

新城苗茂

沖縄県

7

昭和151213

沖縄県公立小学校訓導 専科正教員勤務に任命

新城苗茂

沖縄県

8

昭和161231

沖縄県国民学校訓導に任命

新城苗茂

沖縄県

学務部長

9

昭和16331

沖縄県国頭郡兼次尋常高等小学校訓導に補する

新城苗茂

沖縄県

10

昭和19331

国民学校教員免許状

新城苗茂

沖縄県

知事

11

昭和3091

文化財調査の任命

新城徳祐

文化財保護委員会

12

昭和3111

文化財調査の任命

新城徳祐

文化財保護委員会

13

昭和3181

文化財調査の任命

新城徳祐

文化財保護委員会

14

昭和3221

刊行物「山北今帰仁城(北山案内)」発行の許可証

新城徳祐

琉球政府行政主席

15

昭和32101

主事に任命、文化財保護委員会事務局勤務を命ずる

新城徳祐

琉球政府

16

明治4031

日本赤十字社 正社員に列する

新城徳幸

載仁親王松方正義

17

明治4031

日本赤十字社 通常会員に列する

新城カマ子

智恵子妃久子公爵夫人

18

昭和301116

臨時教授許可証

新城保子

琉球政府

文教局

19

昭和3141

臨時教授許可証

新城保子

琉球政府

文教局

20

昭和3241

定期昇給

新城保子

那覇区教育委員会

21

昭和3271

調製昇級(ベースアップ)

新城保子

那覇区教育委員会

22

昭和32101

定期昇給

新城保子

那覇区教育委員会

23

昭和3341

定期昇給

新城保子

那覇区教育委員会

24

昭和33101

定期昇給

新城保子

那覇区教育委員会

25

昭和3441

定期昇給

新城保子

那覇区教育委員会

26

昭和34年7月1

調製昇級

新城保子

那覇区教育委員会

27

昭和34101

定期昇給

新城保子

那覇区教育委員会

28

昭和3541

人事異動通知

(城岳小学校勤務を命ずる)

新城保子

那覇区教育委員会

29

昭和3541

定期昇給

新城保子

那覇区教育委員会

30

昭和35101

定期昇給

新城保子

那覇区教育委員会

31

昭和35101

資格更新昇級

新城保子

那覇区教育委員会

32

昭和4241

人事異動通知書

(真和志小学校教論に配置換する)

新城保子

那覇区教育委員会



22号 昭和32101
「八級一号俸(五三二〇円)を給する」
       定期昇給


【鳥越憲三郎氏寄贈】(平成2年)



2022年2月22日(

 行政区の変遷を頭に叩き込むことに。特に明治以降の。何気なく使っているが、本島と宮古・八重山、そして周辺の島々では異なっていることも意識する必要あり。さらに1611年以後薩摩に組み込まれた  与論島以北の奄美も。制度が変われば歴史・文化も異なることも。行政区の変わり目は歴史をみていく節目でもある。特に明治・大正・昭和(戦前)を見ていくキーワードでもある。今朝の新報に紹介されている山本さん。「ちむどんどん」の人物は明かされなかったが、もしや。その方の修了証書もって10年前尋ねてこられた方がおり、修了証書をしばらく預かりお返したことがある。それでNHKさんのデレクタ―がやってこられたのか?それで昭和30年代の画像を数多く提供。(全く別の方が頭にあった!)

行政の改革(『新版 沖縄案内』(昭和十六年) 島袋源一郎著より

 国頭・中頭・島尻の三地方の呼び方は古くからあり、三山が分立していた時代がある。南山は島尻郡の大半、北山は後の国頭郡、中山は首里・那覇・真和志・南風原と中頭の全部を領有していた。

 三山統一後は各間切に領主があり、城地に割拠していた。尚真王の時代に中央集権を断行して諸按司を首里に集め、各間切に按司掟を派遣して治めさせる。慶長検地より按司掟を廃止し地頭代を抜擢し行政を司らせた。

 明治十二年三月琉球藩を廃止沖縄県を置き、県庁を首里に置くが、事情があり那覇西村内務省出張所(元薩摩藩奉行詰所)を仮県庁にあて、庁舎改築のため明治十三年十二月より東村の旧天使館に移転し庁務を開始。十四年六月に至り新庁舎落成し移転し四〇年間この地にあったが、大正九年庁舎新築落成して移転する。

 明治十三年県内行政区画を九となし①那覇 ②首里 ③島尻 ④中頭 ⑤国頭 ⑥伊平屋 ⑦久米 ⑧宮古 ⑨八重山の各地域に役所を設置。役所長及属官を配置して事務処理をさせた。下級行政庁としては那覇・首里の区画に村役場を設け旧慣による主取・中取筆者・村頭などの公使を置き那覇・首里役所監督の下にその事務を執行せしめた。又島尻・中頭・国頭の三地方と久米島に在りては間切番所(後の役場)を旧来のまま存続させ、地方役所監督の下に、地頭代・捌庫理・首里大屋子・西掟・南風掟などの公吏をして事務をさせていた。宮古八重山においてもこれに準拠し、旧来の蔵元に於いて頭・首里大屋子・与人・目差等の公使に事務処理せしめた。

 明治二十九年四月勅令を以て郡区編成の件公布せられ同じく那覇首里に区制を施行せられた。依って全県を那覇首里の二区ち島尻・中頭・国頭・宮古・八重山の五郡に分け、交通の関係上久米・慶良間・伊平屋及大東島を島尻郡の所轄となした。是より地方役所と改称し郡長一名書記若干名を置き、区役所に区長一名書記若干名を置くことになったが那覇区長は島尻郡長、首里区長は中頭郡長に兼攝せしめた。

 また、宮古・八重山の両島には島庁を置き各島司一人庁書記若干名を配置した。明治三十年に至り間切吏員規定を公布せられ、間切及島の番所叉は蔵元は間切役場と改称せしめられ其の長たる地頭代以下旧吏員を廃して間切長叉は島長収入役、書記及び各村(今の字)の村頭を置いた。

 宮古・八重山は特例を設け一島一間切とし間切長及書記を置かず其の職務は島司及島長書記之を行い収入役は書記中より知事之を任命した。

 明治三十一年十二月、勅令を以て間切島規定を公布せられ吏員及間切島会の組織、職務、権限を規定せられ、同三十二年一月より実施され爰に間切島会なる議決機関を組織して町村自治の基礎を樹立し、自治民権思想漸く発達して十年の星霜を閲し、明治四十一年三月勅令を以て沖縄県島嶼町村制を発布せられ翌年四月より実施することとなり、宮古・八重山が現在の如く分村し、県下の間切島を村に改め、町村長収入役各一名書記若干名を置いた。慈に於いて町村の権限を拡張して国庫補助金を全廃し又従来の村を字に改めた。町村会の組織、権限、議員資格、選挙方法等特殊のものたるを免れず、其の主なるものを挙ぐれば左の如し。

   (略)

 明治四十一年三月勅令を以て区制の改正を見、区長は区会の推薦に依り内務大臣上裁可を仰ぐことになり従来の郡長兼攝を廃し、区会に於いて区長助役の選挙をなすに至った。明治四十二年勅令を以て左の条項に依り沖縄県に特別府県制の施行う公布せられ、初めて県会の開設を見るに至った。

    (条項略)

 大正九年に至り町村会共従前の特例を撤廃せられ即ち全国同一の法規を適用せらるゝことゝなった。

 大正十五年六月三十日を以て全国一斉に郡役所及島庁の撤廃となり、七月一日より本県は宮古、八重山の二島に支庁を置くことになった。


2022年2月21日(

 「屋我地島の屋我グスク」(名護市)にゆく。周辺にヤマグラ、シジャン、ムディグサ、アマグシクムイなど、ウタキに適しそうな森がいくつもある。なぜ、屋我グスクのある杜をウタキ、あるいはグスクにしたのか。それは、集落の形成とウタキやグスクと密接な関係にあることがわかる。屋我は「集落移動とウタキ(グスク)」の事例である。

 ・ウタキがグスクと呼ばれる。
 ・屋我グスクあたりを古島という。
 ・屋我の集落は1858年(咸豊8)に古島から墨屋原に移動している。
 ・空堀とみられる場所がある。
 ・頂上部にイベがある。
 ・クバが目立ってある。
 ・周辺に屋我グスクに似たような森がいくつもある。
 ・麓にヤガガーがある。
 ・屋我ノロ管轄の村(ムラ)である(屋我ノロは饒平名村に住む)。
 ・屋我グスクは安太伊(アタイ)(原)に位置する(現在アタイに一軒もなし。集落移動の痕跡)。
 ・旧五月十四日に屋我グスクに左縄をめぐらす。
 ・神アサギや神殿や舞台のある杜はウガミあるいはお宮ともいう。
 ・屋我の御嶽は『琉球国由来記』(1713年)で「屋我之嶽、神名:マレカ神根森城之御イベ」とあり、
  その頃には御嶽とも城(グスク)とも呼ばれている。
 ・『沖縄島諸祭神祝女類別表』には「港屋嶽(イナトゥヤムイ)、村嶽(屋我グスクか)、ケシギキ嶽」がある。


 中央の杜が屋我グスク    屋我グスクへの入り口(左縄)


頂上部に近い岩の下に香炉が置かれている 頂上部のイベ


 ▲ヤガガー      ▲移動先に近い所にある神アサギ(ウガン)


2022年2月20日(

 昨日は大宜味村をゆく。昨年、田港と屋古の神アサギを建て替えたので。

 
▲大宜味村田港の神アサギ     ▲大宜味村屋古の神アサギ

 地割の基礎となる台帳に、
  ・名寄帳 土地の種類(田畑の上・下、長サ横の間敷、坪数、石高を明示)
        ・百姓名・地積・石高など示す。
 ・名寄帳・竿入帳ちもに田畠の等級を上・中・下・下々に分ける
 ・田方帳は石高及び貢納を明記。各間切を一括し各村毎に地番
        により調査軽量をなせり
 ・土地の種類37に及ぶ。以下の仕明地もその一つ。

今帰仁地方旧慣地割に関する問答書(明治十七年)(今帰仁間切一部)

人民仕明地ノ事
 

問 人民仕明地取扱手続如何

 答 百姓地同様ノ取扱手続ニテ別ニ異ナル事ナシ 

問 人民仕明地ヲ開墾セント欲スル時手続如何

 答 人民仕明地ヲ開墾セント欲スル時ハ村方ヘ相談ノ上畑方ニ仕成シ既ニ物成リノ上藩廳ヘ願出其ノ  手続並ビニ願書文例左ノ如シ 

      覚
  千何百何拾何坪ノ内

 総坪何千何百何拾何坪

 外
   道坪引

 何百何拾何坪

  右何村何原ニ右之候何山手入仕候ハバ作職罷成場所ニテ百姓中熟談ノ上先年譲取此程相働畠方ニ召成置申候間此節御竿申請規模ノ上納仕度奉願此旨宜敷御取成被下儀奉願候以上

    年  月  日
                    何村何ノ某

右ノ通相違無御御座候間申出ノ通御取持被下度奉存候 以上

     年  月  日  捌 理 誰
                    惣耕作當誰
                    地頭代 誰   

右申出ノ通承届相違無御座候間達被下度奉存候以上 

年   月   日      検者
                      下知役

又模合仕明ヲ開築スルトキハ村中吟味ノ上之ヲ取計フ其ノ願書文例手続左ノ通リ
       覚

       図

右今帰仁間切何村何原ニ有之候瀉手入仕口口催入候ハゝ田敷ニ罷成ベキ場所ニテ候間百姓中模合仕明所ニ被成下度奉候御遠被下儀モ御座候ハゝ随分相働田ニ召成来ル年迄何ヶ年限竿申請規模ノ上納可仕候此旨宜敷樣御取成奉願候以上 

   年  月  日      何村耕作雷同掟某々 

右申出ノ通御達被下度奉存候以 

                何間切捌理某々同地頭代某

 右ノ通申出候間致披露候以上

    年  月  日      検者某惣地頭某々 

問 仕明地ニ係ル貢租賦課方並ビニ開墾鍬下年期ノ手續如何

 答 前条願書面ノ通来何年ニ至リ竿申請ス可ク旨ヲ以テ許可ヲ得其ノ年期二至リ未ダ田ニ相成ラザルトキハ尚又七八ケ年或ハ十五ヶ年延期申出ルトキハ田地方ヨリ実地検査ノ上ヲ許ス、既ニ一其ノ年期ニ至リ物成ノ上ハ田地方高所ヨリ立合検査シテ賦課額ヲ定ム 

問 鍬下年期中貢租民費賦課額ヲ豫予定スル方法如何
    答 右ノ方法ハナシ  


2022年2月19日(土)

 『琉球共産村落之研究』田村 浩著(昭和二年版)に十二図が収録されている。こられまで、第九図の名護町先住地及移住地図、第十図の国頭郡久志間切汀間村全図など紹介したことがある。その頃は地について調査していた頃である。第四図のように「島尻郡知念間切久手堅村字北田原百姓地地割田(苗代)」とあり、地割は第十二図の渡名喜共有百姓地図のように整然と区画されたのが「地割」だと思い、地割かえの時、くじで決めたとるので前年は肥しを入れなかったと聞いていたので、それと地割は間切ではなく各村によって異なるとのことを聞いていたので、地割は整然と土地を配分するのではないのではないかと整然と区分した地図は利用してこなかった。

 昭和60年頃「今帰仁間切の地割基準のタイプ」(明治16年)を整理したことあがあり、今帰仁間切の村は①貧富割 ②貧富および耕耘力割 ③貧富および人頭割 ④人頭割・年齢に関せず の四タイプがあることに気づかされる。そのころから、各村は異なるなるのだという認識を持つようになったことを思い出す。一つにまとめることも大切だが、それぞれ異なるのだという認識をもつようになる。それが、山原のムラ・シマや山原の神アサギや各村の神行事、御嶽などの調査に走りだしている。

 大宜味村の間切村全図、字全図の村指定文化財の指定理由をお願いされたので「琉球共産村落之研究」に地割について記されていることを思い出し、その本を借りたいと捜してもらったが見つからず。自分が持っている初版本を持参していくことに。開いてみると、カラーの地図があり、大宜味村の間切全図、字全図と似ている。田村はどこでその図を参照したのか。島尻郡知念間切久手堅村図に明治三十三年調査とあり。土地整理期にあり、土地整理と関わる図ではないかと。(図の出所は未確認)

 ①沖縄全島図
 ②久高島全図
 ③玉城村字百名根神地及共有j百姓地図
 ④島尻郡知念間切久手堅村字北田原百姓地地割田(苗代)
   旧私有地(当間地)
 ⑤島尻郡知念間切久手堅村図(明治三十三年調査)
 ⑥佐手部落
 ⑦與那部落
 ⑧辺野喜部落
 ⑨名護町先住地及移住地図
 ⑩国頭郡久志間切汀間村
 ⑪久高島共有地図個人割区分図
 ⑫渡名喜共有百姓地図

③玉城村字百名根神地及共有j百姓地図       ⑤島尻郡知念間切久手堅村図

  
⑩国頭郡久志間切汀間村全図     ④島尻郡知念間切久手堅村字北田原
                         
百姓地地割田(苗代)旧私有地
                                  (当間地)

 山原の間切と「今帰仁間切の地割基準のタイプ」(明治16年)
 

2022年2月18日(金)

 奄美の古琉球の歴史を紐解く手がかりに間切役人とノロ辞令書を同時代を見ていく。

   (工事中)



①与那嶺の大屋子宛辞令書(嘉靖42年:1563)(中城ノロ家)

②東の掟宛辞令書(嘉靖42年:1563)(具志堅上間家)

③浦崎の目差宛辞令書(萬暦14年:1586年)(中城ノロ家)

④玉城の大屋子辞令書(萬暦20年:1592)(中城ノロ家)

⑤辺名地の目差職叙任辞令書(萬暦32年:1604)(仲村家)

⑥中城ノロ職叙任辞令書(萬暦33年:1605)(中城ノロ家)

⑦具志川ノロ叙任辞令書(萬暦35年:1607)(仲村家)

⑧与那嶺の大屋子叙任辞令書(萬暦40年:1612)(中城ノロ家)

⑨謝花の掟叙任辞令書(萬暦40年:1612)(仲村家)

⑩与那嶺の大屋子叙任辞令書(崇禎16年:1643)(中城ノロ家)

⑪中城ノロ叙任辞令書(隆武8年:1652)(中城ノロ家)

⑫本部目差叙任辞令書(順治13年:1654)(中城ノロ家)

⑬西目差叙任辞令書(康煕3年:1664)(中城ノロ家)

⑭上間大屋子叙任辞令書(寛文7年:1667)(中城ノロ家)

⑮金武間切の恩納のろ職補辞令書(万暦12年:1584)

⑯国頭間切の安田里主所安堵辞令書(万暦15年:1587)

⑰国頭間切のやすだよんたもさ掟知行安堵辞令書(万暦15年:1587)

⑱伊平屋の仲田首里大屋子お知行安堵辞令書(万暦15年:1587)
(1609年以後)

⑲羽地間切大のろ職補任辞令書(仲尾のろ)(天啓2年:1623)

⑳羽地間切の屋嘉のろ職補任辞令書(天啓5年:1625)

奄美に遺る辞令書は160年以前)






2022年2月17日(

 今帰仁村兼次の字誌の編集委員会。21回目である。出版にむけて来月から入稿にで編集会議は会は閉じようと考えていた。今後の予定を報告。今年は村踊い(ムラウドゥイの年である。それに間に合わすことを約束。三月で脱稿したいので。兼次の字誌で兼次は卒業しますと報告。編集会議は来月の予約の入れられてしまう。その月一回の集まりが楽しいようで。他の地域では大変だとの声を聴く。これまで新型コロナで一回、私の都合で二回の休みであった。昨日の会が21回目。編集委員の集合写真撮影の予定でしたが二人の欠席があり、来月に回す。字の大先輩の大城哲夫氏(94歳)が、欠かさず出席され、質問と体験の話をしてくださる。後半には大城秀昭氏(高校教員・副村長・県会議員)の人脈で原稿依頼をしてくださった。来月も頑張るか!現区長・前区長、そして書記さんも編集委員の連絡、毎回でる夕食となる弁当。それは兼次の伝統のようだ。




琉球国由来記1713年)には兼次村と表記される。

  玉城→タモーシ(玉城)

  中城→ナコーシ(仲尾次)

  兼城→ハニーシ・カニーシ(兼次)

事々抜書より

   中城は上間仲尾次二ヶ村之事

・「ソ 加袮寸原」

・「フ 加袮寸原」

   二基の「加袮寸原」と古島原からの集落移動





2022年2月16日(

大宜味村田港の御嶽】(平成24年6月13日)

 大宜味村田港は御嶽(ウタキ)を神社化したタイプ。御嶽のイビの前に鳥居をつくり、イベに置かれている香炉を神殿と見立てている。20個ばかりの香炉が置かれ「奉寄進」とある。

   
▲鳥居はイビヌメー ▲イビに香炉 ▲田港の御嶽の全景


【名護市(旧羽地)稲嶺の御嶽と神社】(平成24年6月11日)

 稲嶺は旧羽地村のムラで、また真喜屋から分かれた字である。『琉球国由来記』(1713年)に出てくる真照喜屋御嶽を神社化し、真照喜屋御宮(オミヤ)としてある。御嶽のイベはそのまま神殿とする形をとっている。鳥居は御嶽の入口に建てられている。神社化されたが、これまでの祭祀も行っている。

 
  
 ▲真照喜屋御宮            ▲お宮の内部


【名護市宇茂佐の御嶽と神社】(平成24年6月10日)

 神社化し合祀した形が見られる。神アサギを拝殿にはしていない。また御嶽内にうむさ嶽のイベが祠としてある。神社化したが、伝統的な神アサギ、御嶽の形態はそのまま遺している。

  

  


【名護市山入端の御嶽と神社】(平成24年6月8日)

 
名護市山入端は1736年に移動してきた村です。御嶽を神社化すると同時に集落内に「山入端神社」を建立した形をとっています。隣の安和も同様なタイプです。

   
 ▲御嶽の入口に鳥居 ▲鳥居の内側に神殿 ▲神殿の内部  ▲御嶽の頂上部にイベ


 ▲山入端神社      ▲神殿の内部  ▲神アサギと山入端神社


【今帰仁村謝名の御嶽と神社】(平成24年6月7日)

今帰仁村謝名神社は昭和九年旧八月十九日竣工。御嶽に神社を建立したタイプである。数ヶ所にあった拝所を神社に合祀したが、神アサギ周辺の拝所は戦後再び造られている。御嶽のイベは神社の後ろに残されている。そこに「同治九年(1870)午九月 奉寄進 松本仁屋」の香炉がある。

 神社化に向けて動いたのは「発起者 区長 外有志一同」でした。神社建立に向けて寄付者名は全て世帯主である。神アサギを神社に組み込んで拝殿にはしていない。謝名神社を建立し受け入れながら、これまでのムラの祭祀も行っている。つまり、神社化を受け入れつつ、これまでの祭祀も行うということに注視する必要がある。


 
▲御嶽(ウタキ)に建立された神社  ▲謝名神社の神殿


 ▲謝名神社の碑  ▲御嶽のイベと香炉  ▲謝名の神アサギ


名護市仲尾次の神アサギ】(平成24年6月5日)

 名護市仲尾次は旧羽地村(間切)のムラである。山手に黄金森之御嶽、中城(ナカグスク)があるが神社化されていない。また神社も建立されていない。周辺に根神屋と大親屋の拝所があり、神社の建立がされていませんので合祀されていない形のムラ。神アサギは何度か吹き替えされている。現在の神アサギは平成16年(2004)12月建立。


▲仲尾次の神アサギ(平成16年建立)▲黄金森之御嶽   ▲中城の遠景


【名護市安和の神アサギ】(平成24年6月4日)

 名護市安和の神アサギは最近葺きかえられえています。2011年4月に訪れている。その時は赤瓦葺きの屋根でした。傍を通った老婆は「りっぱにできたでしょう」と誇らしげでした。

 神アサギの側に「安和神社」が建立されています。神社の建立は昭和九年(1934)です。碑の裏に「竣工 昭和九年一月廿五日」とあり、また「改築 昭和三十七年(1962)壬寅旧二月二十九日」とある。安和の御嶽(ウタキ)は山手にあり、ウタキそのものを神社にしたタイプではない。神社を建立するが、これまでの祭祀も行っている。集落内に「安和神社」を建立し、安和のウタキに鳥居を建て神社化した形をとっている。


 
▲名護市安和の新築された神アサギ ▲「安和神社」(昭和37年に改築)

 
 ▲「安和神社」の碑裏  ▲2011年4月の神アサギと「安和神社」


【本部町辺名地の神アサギ】(平成24年6月3日)

 本部町辺名地の神アサギは公民館の近くにある。アサギの側に「神社改修記念碑」と「拝殿改築記念碑」(昭和12年)がある。二つの碑は昭和12年の神社と拝所の改築である。ウタキの前にある鳥居の台に「昭和六年建設」と「奉納」とあるので、昭和六年に建設され、昭12二年に神社として神殿と拝殿として改築したものとみられる。辺名地は神アサギを拝殿にし、神殿をつくり合祀をする形。しかし、これまでの御嶽などの祭祀場はこれまで通り踏襲している。ただし、御嶽の入口に鳥居を建立し、御嶽を神社化する型。

 神殿の内部に三基の香炉があり、その一基に「奉納寄進 咸豊九年(1895)巳未九月旦日 本部按司内 松田仁屋」とある。またウタキのイビにある香炉も同年とみられます。同様な香炉は並里にもある。『中山世譜』(附巻)に本部按司が上国した記事がみられる。

 咸豊九年(1859)は向氏本部按司朝章が順聖院様が薨逝されたので特使として薩州に派遣されている。その時の寄進とみられるが、松田仁屋と渡久地仁屋は按司家に奉公し、あるいは奉公していた辺名地村と並里村出身の屋嘉とみられる。

 神アサギの屋根裏に桶があり、祭祀の時にお神酒をつくる容器です。内にはタモト木がある。
 


▲本部町辺名地の神アサギ ▲拝殿改築碑 ▲神社改築記念碑

  
  ▲ウタキの入口の鳥居の台  ▲ウタキのイベと神殿内の高炉


【東村平良の神アサギ】

 
  
▲左側は平良ノロ殿内    ▲平良の神アサギ


【東村川田の神アサギ】

 川田は『絵図郷村帳』や『琉球国高究帳』では名護間切の村。『琉球国由来記』(1713年)では大宜味間切の内、その後は久志間切の村となっている。

 
      
▲川田の神アサギ


【東有銘の神アサギとカニマン御嶽のイベ】

 有銘の集落の後方にカニマン御嶽がある。御嶽の頂上部にイベが置かれている。神アサギは学校の裏側にあり、付近に有銘ノロ殿内がある。周辺に拝所がいくつもあり、合祀されたようですが、前からの拝所も残されている。


 
▲有銘の神アサギ    ▲カニマン御嶽のイベ


2022年2月15日(

山原の神アサギ
 

  山原の神アサギの調査をしたことがある。平成10年から10年余の歳月が経ったので、改めて訪ねてみることにする。あれからどう変わったのだろうか。『琉球国由来記』(1713年)から300年経っても、生き続いていることに驚いた。歴史の変化している部分を追ってきたのであるが、歴史を見ていく者にとって変化しにくいものも見逃すわけにはいかない。その神アサギの分布は三山の北山の時代とかぶさり、北山文化のキーワードの一つにしている。

 神アサギもそうですが、祭祀や祭祀場も変化しにくい歴史的な要素だと捉えている。三〇〇年も消えることなく息づいている神アサギを追ってみることに。もちろん神アサギを作る材料は、茅葺きからセメント瓦や赤瓦、今ではコンクリートづくりなどになっている。中には、合祀された神アサギもあるが、明治まで追いかけることができる。これから、神アサギを「歴史を見る視点」の一つとして、どう生かせるか。

 これまで神アサギと御嶽、そして神社を切り離して見てきたが、それらは並行に見ていく必要がありそう。昭和の初期、各地の村(ムラ:現在の字や区)に神社が建立される。ムラ・シマに神社を建てる場合、御嶽そのものを神社にする、神アサギを拝殿、イベを神殿にし、拝所を合祀、御嶽や神アサギとは別に神社を建てる場合がある。神社をどのようにムラ・シマに創設したか、そしてこれまでの拝所をどうしたのか。合祀できたか、神社は造ったが、これまで通り合祀されず祭祀を行っているか、神社に合祀したが、元に戻した所。神社を建立したが、合祀できずこれまでの拝所で祭祀を行うスタイル。神社を受け入れるが、受け入れの形態は様々である。どのような形をとっているのか、まずは確認をしてみることから。


 各地の神社建設への動向を社会の動きから見ていくことに。         


【大宜味村塩屋の中之山公園・塩屋中之山拝所】(大正12年)



【国頭村桃原の金萬神社と神アサギ】

  

【本部町具志堅のお宮】(グスクにお宮(神社)を建設した例)(平成24年6月26日)

 本部町具志堅は具志堅・上間・部真の三つの村(ムラ)が統合されている。その時期についてははっきりしないが明治直前頃のようである。村の統合はあったが、祭祀と関わる神ハサーギは昭和十六年(一九四一)まで三か所に具志堅神ハサーギ、上間神ハサーギ、部真神ハサーギが別々にあった。昭和十六年(1941)頃の神社化した時に三つの神ハサーギを一つにし、三カ所の火神をお宮(神社)の御神体と位置付けている。

 お宮(神社)は御嶽(ウタキ)に創設してある。拝殿と神殿を設置、神殿はウタキのイベにあたる。具志堅の祭祀のほとんどが、ウタキのイベへの祈りからスタートし麓へと降りていく流れである。昭和十六年頃御嶽のイベに神殿を建設してあるが、火災にあい建物の跡は遺しているものの再建されていない。具志堅は神社(お宮)を御嶽(ウタキ)に建設し、神ハサーギを一つにし、三つのムラの火神を合祀する形をとっている。しかし、これまでの祭祀も根強く踏襲し、御神体もイベとしている。(参考文献:具志堅誌)


 
▲本部町具志堅のお宮   ▲お宮(拝殿内の香炉:右の香炉は真部ウガンへの遥拝)


▲お宮の拝殿  ▲焼けた神殿(イベ)の跡 ▲焼ける前の神殿


【今帰仁村勢理客】(御嶽をお宮(神社)にした例)(平成24年6月25日)

 今帰仁村勢理客は御嶽(ウタキ:ウガミ)をお宮(神社)にした例である。「せりかくのろの あけしののろの」とオモロで謡われる勢理客ノロを出しているムラである。ウタキのイベを神殿にしてある。


▲鳥居の側に「勢理客御宮新築記念」(昭和平成61年)とある。森はウタキ▲ウタキのイベを神殿


【本部町伊豆味の神社と神アサギ】(平成24年6月25日)

 本部町伊豆味の「伊豆味神社」の建立は昭和五年(1930)ある。神社の右手に神アサギ、左側にはトゥヌグヮがあり、神社の建設をすると共に、これまでの拝所もそのまま置かれている。碑には「御大禮記念」とあり、裏には「昭和四年十一月二日着手 昭和五年九月十八日竣工」とある。


 ▲本部町伊豆味神社  ▲大典禮記念の碑   ▲伊豆味の神アサギ(右の建物)


【東村川田の御嶽と神ハサギとお宮】(平成24年6月24日)

 
東村川田のお宮(神社)の造りを見ると、一つの森(ウタキ?)に勝之宮(神社)を創設してある。お宮を創設してあるが、これまでの拝所をお宮に合祀することはしていないタイプとみられる。ただし、ウタキに祠をつくり、そこにいくつかの拝所をまとめた痕跡がみられる。お宮(神社)の受け入れに、これまでの祭祀もお宮に合祀することなく共存している。


   
▲川田の勝之宮(オミヤ) ▲お宮を建設した森


 ▲お宮の前方にある神アサギ   ▲根神屋(ニーザンヤー)   ▲ウタキ内の祠(イベ)


【名護市(旧羽地村)呉我のハサギと神社】(平成24年6月23日)

 名護市呉我は現在の今帰仁村呉我山から移動した村である。移動後に神アサギを建て祭祀を行う。それが何故なのか。呉我山には神アサギがなく、祭祀もお宮とし他村の祭祀のように行われいない。
 



【今帰仁村上運天の御嶽と神ハサギと神社】(平成24年6月23日)

 今帰仁村上運天の御嶽(ウンシマヌウタキ)内に神アサギ・掟火神・根神火神・御嶽のイベなどがある中、昭和十五年十二月八日(皇紀二千六百年に「神殿改築紀念碑」が竣工されている。神殿の内部には御嶽のイベと火神が祀られている。それと「神敬」の扁額が祀られている。それは神社化したものである。上運天では神殿は建設されているが拝殿は造られていない。神アサギが拝殿とセットにされる場合がある。
    



【今帰仁村与那嶺の神ハサギと御嶽】(平成24年6月14日)

 与那嶺は神社化されていない事例である。与那嶺の御嶽は『琉球国由来記』(1713年)でムコリガワ嶽とある。中城ノロ管轄の祭祀(五月ウマチー)を見ると、諸志の植物群落(御嶽:ウタキ)の中にあるイベを与那嶺と諸志(諸喜田)の両方のムラの御嶽である。与那嶺と諸志とも御嶽や神ハサギは神社化されなかった事例である。平成23年(2011)に神ハサギの建物は葺きかえられた。


2022年2月14日(

 「宮城真治研究ノート」(『羽地村誌資料』)(名護市教育委員会)に興味深い記事をみる。三山以前(羽地世の主)の頃の村数は四、古琉球は七ムラ、十七カ村。それは近世に至る村(ムラ)の展開を示しているのではないか。(工事中)

 ムラの発祥を見ていると、七煙や四門中などをあげが出てある。それが宮城が羽地間切の村数を七煙、四門中としているのは、マクやマキヨから来ている発想なのか。古琉球から近世の村となる変遷を見ているような気がする。羽地間切の場合を揚げてある。(…村と登場するのは慶長14年の検地からである。(慶長検地のとき、まずは村名を掲げ、上・中・下々の村位を決めている)

 三山以前の形式として、
  羽地世の主の時代
     四ヶ村 ①真喜屋 ②田井等 ③屋我(屋我島) ④?
     七ヶ村 ①源河 ②真喜屋 ③田井等 ④川上 ⑤伊差川
         ⑥屋我 ⑦我部

 (近世十七村)
       ①源河村 ②(稲嶺村) ③真喜屋村 ④仲尾次村 ⑤仲尾村 
       ⑥(親川村) ⑦田井等村 ⑧川上村
 ⑨伊差川村 ⑩我部祖河村
       ⑪古我知村 ⑫振慶名村
  ⑬呉我村 ⑭我部村 ⑮饒平名村
       ⑯済井出村 ⑰屋我村

    ( )村は近世に独立した村である。

    ⑫⑬⑭は羽地間切から方切と村移動、その地は今帰仁間切へ。

 近世の羽地間切の村とのろ管轄村と村
   ①源河のろ  源河村 瀬洲村
   ②真喜屋のろ 真喜屋村(稲嶺) 仲尾次村
   ③仲尾のろ  仲尾村 田井等村(親川) 川上村
   ④伊差川のろ 伊差川村 我部祖河村 古我知村
   ⑤屋我のろ  (屋我村 饒平名村 済井出村)近世に屋我島が分立
   6我部のろ  我部村 呉我村 振慶名村

近世の今帰仁間切の村とのろ管轄と村
   ①古宇利のろ 古宇利村
   ②今帰仁のろ 今帰仁村 親泊村 志慶真村
   ③中城(仲尾次)のろ 兼次村 諸喜田村 与那嶺村 崎山村 中城村
   ④玉城のろ      玉城村 謝名村 平敷村 仲宗根村
   ⑤岸本のろ      岸本村 寒水村
   ⑥勢理客(しませんこ)のろ 勢理客村 上運天村 運天村

  (⑦湧川村は1736年創設なので由来記になし)
    (⑧天底のろは1719年に本部間切から今帰仁間切へ)

近世の本部間切の村とのろ管轄と村
   ①伊野波のろ 伊野波村(満名村)
   ②具志川のろ 具志川村 渡久地村 
   ③天底のろ  伊豆味村 天底村 嘉津宇村(天底村1719年に今帰仁間切へ)
    ④具志堅のろ 具志堅村
   ⑤浦崎のろ  浦崎村
    ⑥謝花のろ  謝花村 備瀬村
    ⑦瀬底のろ  瀬底村 辺名知村 
    ⑧本部のろ  崎本部村 健堅村
    ⑨石嘉波のろ 石嘉波村(瀬底島へ移動)

 近世の大宜味間切ののろ管轄と村(1673年に国頭間切と羽地間切の一部からなる)

 近世の国頭間切ののろ管轄と村 


2022年2月13日( 

 2002年(平成14)頃、各地(先島)の遠見所を踏査している。印象深いのは国頭村辺戸と伊地の遠見所である。

 
▲国頭村伊地の遠所見(二目)      ▲久米島のソナミの遠見

2002.6.21(金)過去ノート
 今帰仁村今泊の大嶺原(実は本部町具志堅)のピータティファーイまで登ってみた。というのは、19日古宇利島から大嶺原を眺めたので、大嶺原から古宇利島がどう見えるのかの確認である。大嶺原からつなぐ伊江島の方向も眺めてみた。大嶺原のピータティファーイから正面に伊是名・伊平屋島、右手に古宇利島、左手に伊江島が見える。今日は雲の多い天気だったのだが、下の写真のように伊江島と古宇利島が見える。
 『伊江村史』に遠見番について詳細な記述がなされている。古宇利島のトーミヤーの様子を見るための手掛かりとなる記述である。
 ・唐船、薩州船や難破船の見張りをする。
 ・上佐辺のツリワイ毛に遠見番所があった。
 ・六人が常時詰めた。三交代で二人が立番をする。
 ・唐船の通航時期になると臨時の在番役人が来島した。
 ・民家から離れた場所にある。
 ・一隻の時は一炬、二隻の時は二炬、異国船の時は三炬
 ・火立所は離れて参ヶ所にある。
 ・中央が一番火立所、西が二番火立所、東が三番火立所
 ・五月になると島民の漁火が禁止された(唐船通過後に解禁)。
 ・屋号にトーミがあり、遠見番を勤めたことに由来。


▲大嶺原から伊江島を眺める ▲大嶺原から古宇利島を眺める
    


2002.6.20(木)過去ノート
 総合学習の後の余韻が歴文まで伝わってくる。また、伊江島からもお礼の手紙をいただいている。先日伊江島の子供達は、今帰仁グスクから城山を見つけて歓声をあげていたのを思い出した。いくつかヒントをもらったようで、早速島村屋にいって調べるとのこと。私自身、今伊江島にはまっている状態。先日のトーミヤーの件もそうである。古宇利→大嶺原→伊江島とつながることもあって、五月に伊江島に渡った時、早朝イータッチューの頂上まで登った。それは古宇利島→大嶺原→伊江島のルートを伊江島からどう見えるのか、その確認でもあった。伊江島から大嶺原の方向を見ると、備瀬崎の後方に清掃工場のエントツが見える。エントツの左側に大嶺原がある。エントツから煙が出ていると、烽火がそのように見えたのだと想像する。二つ、三つ煙を上げるには大分離さないと風で一つになってしまいそう。すると、40~50mは離さないとイカンなとか、いろいろ考える。
 宮城真治は古宇利島の「火立て屋」について、以下の記録を残してくれた。
   位置 宿の前原2833原野の南部
       火立て屋 チータッチュー屋三つあった。
       中に薪を一ぱい、薪は間切船、唐船や大和行の船(偕船?)
       を見た時、その一つを焼く。
       火立ては国頭、伊平屋、具志堅、伊江にもあった。
       その番人の家 遠見屋という。
       唐船の入る頃になると掟も来て勤める。
       古宇利の人より番人は六人、功によって筑登之より親雲上の
       位まで授けられる。終身職で頭を免ぜられた。
火立て屋あたりを、調査する手掛かりをいくつも与えてくれる。そういう記録は、非常にありがたい。
 今帰仁村と本部町の境界の大嶺原は、右手に古宇利島、左手に伊江島が視野に入り、トーミヤー(ピータティファーイという)を設置するのに最適な場所である。

大嶺原(ピータティファーイ)から伊江島を望む


2022年2月12日(





【スムチナウタキ】



 ・地目は山林、今帰仁村有地(今帰仁村玉城西アザナ原)
 ・玉城の南方標高143.8m。近くに玉城林道~平敷林道が通り、近くまで車でいける。
 ・林道から14~15m位山頂に登ると屏風型の古生期日石灰岩が立ってて、前に石の香炉が
  三基置かれていて、絶えず参拝者がいるようである。
 ・スムチナウタキの頂上部から村内の東側、古宇利島、国頭方面まで見渡せる。
 ・『琉球国由来記』(1713年)の阿武理花嶽はスムチナウタキは阿武理花嶽、または西側の
  イシジャチ山ではないかとの説もある。イシジャチ山が狭いので現在地に移されたとか。
 ・入口は二つの小道に分れていて、左は山頂へ、右は20m位行くと広場になっていて、旧暦
  4月15日のタキヌウガンの日は四ヶ所(玉城・謝名・平敷・仲宗根)のムラの方々が、そこ
  から頂上部に向って遥拝する。
 ・頂上部は男子禁制の場所である。祭祀の時は、ノロはじめ神人達が、そこでウガンをする。
 ・旧暦4月15日の前日、各字の人夫がでて神域に左縄を張り巡らしている(現在?)。
 
スムチナウタキのイベの香炉 スムチナウタキの頂上部から四ヶ字をのぞむ


【今帰仁村玉城のろ管轄の玉城での祭祀】(昭和4年 宮城真治ノートより)
 一、玉城にての御儀式
   A 三日前におたかびをする。誰か。何所に(玉城ノロと内神四ヶの大屋子四人、
     六人にて仝宛ウグシイ、一仝宛、線香はノロより出す。線香はトボス。
   B 当日玉城のろ火神、御願(みはな・ウグスイも入るか。どこが出すか)
     (線香ヲ上ゲ、オゴ水、ノロより出す。岸本ノロ、内神、玉城ノロの使いサンナム、仲宗根一人)
     (玉城ノロ、玉城内神、謝名ワチ根神、玉城ウペー引根神、玉城しー引根神。
      今は立って手を打つのみ)
   C 玉城のあしあげにて。酒迎え。神酒? ウブヌ?ウクムチ□個、あしあげの前にて
     ウムイをなし踊る)。
   D 岸本やかー、手を合わす。皆。玉城のろ。
   E 岸本のんどのち 火神、手を合すのみ。
   F 岸本あしあげ 手を合す、神酒。ウムイ。此所にて馬に乗って平敷へ向う。

  玉城ぬしいという霊石(廻り六尺九寸位。長さ二尺五寸)

・玉城のあしゃげ周辺の図(略)


 ▲スムチナウタキのイベの香炉        ▲スムチナウタキの頂上部から四ヶ字をのぞむ

 【仲原調査メモ】


2022年2月11日(

 奄美大島行きがコロナの影響でいくことができず。二月中には行きたいと。城(グスク)の名のつく村を見てきたが、島の中央部にある村々をみているとグスク時代の集落が今につながる集落ではないか。知名町の余多→平川→下城→内城→大城→・・・・

沖永良部島の今後の研究

 沖永良部島のノロ家の遺品と「世之主由緒と関わる村」と、これまで、積み残してきた知名町の村々をゆく。和泊町の内城(うちじろ)の世之主神社。世之主神社のある杜はグスクである。周辺の木々が伐採され、全貌をみることができる。すると土塁を中心としたグスクであることが明らかである。「世之主神社」(世之主グスクとしたほうがいいかも!)。土塁を中心とした琉球(沖縄)北部の根謝銘(ウイ)グスクは羽地グスクの土塁+野面の石積みと類似)、奄美における神社の名称は薩摩支配下以降)。

明治四年に「世之主城跡」の跡に「世之主神社」が建立されているので歴史を深く辿っていくには「世之主城跡」と史跡名とした方がいいのでは。鳥居の門は、親元である北山(琉球国)に向いているのではないか。もう一つ、新城(しんじょう)の花窪にあるニャートゥ墓は、どこに向いているでしょうか?墓正面の山手は上城村(下城を含む)で世之主の四天王の一人、上城村生まれである。新城のニャートゥ墓も親元の上城村に向けて作られている。四天王を見ていくと、島の酋長の存在があった社会をみていくと。

 そこで、世之主城(グスク)を取巻く城(グスク、今はしろ)のつく内城・大城・玉城・上城・下城・新城(分離した新しい城))をゆく。城のつく村(ムラ)は、私にはグスクが築かれた時代から高地につくられたムラではないか。かつてにグスク時代のムラである。また、それらのムラは世之主城を築いた伝承と切り離すことができない。それだけではなく、後蘭村(おもろで登場する後蘭孫八、西見(ニシミ)なども登場する人物、それらの人物伝承がムラ名になっている。ムラ名は伝承の歴史や「おもろ」で謡われた人物や生誕地にムラ名がつけられた証でもある。 「オモロノ編纂」と奄美への「古琉球の辞令書」の年代を歴史の軸にして見ていく必要がありそう。

沖永良部島と与論島に辞令書が残っていないのが残念。簪について記録があるが、それはノロではなく役人のものである。1624年の琉球的なもの禁止、特に沖永良部島が北山の二男、与論島が三男という北山と密接なつながりが、辞令書や家文書の廃棄につながっている可能性がある。

 
        
 ①内城(うちじろ:ウチグスク)
 ②大城(おおじろ:フグスク)
 ③玉城(たまじろ:タマグスク)
 ④上城(うえしろ:ウイグスク)
 ⑤下城(しもじろ:ヒチャグスクク)
 ⑥新城(しんじょう:アラグスク)



 沖永良部島や与論島などの琉球的祭祀の残存状況をみたとき、蔡温の『独物語』の以下のことが浮ぶ。与論島以北を支配下においた薩摩は、琉球的な習慣や税の徴収の緩やかさに我慢できなかったかもしれない。また島の人たちは琉球の時代の習慣や思いを、容易く絶ちきることができなかったようだ。
 ・1609年 島津氏の琉球入りで大島、鬼界島、徳之島、 沖永良部島は薩摩の直轄となる。
 ・1624年 四島の役人から位階などを受けることを禁止、能呂久米が年々印紙(辞令)を琉球から請
       けることを禁止する。(寛永十九年以前にもらった辞令書は秘蔵して神聖視するようになる。
      (亨保以前は「のろくもい」など一代に一度は琉球へのぼり国王に謁して辞令を貰っていたと
      いう) 
 ・1625年 島津氏は統治の都合で四島の役人が冠簪衣服、階品を琉球から受けるのを厳禁する。
 ・1663年 四島の人民の系図並びに旧記類を悉く焼却する。
 ・1732年 四島の与人、横目等が金の簪や朝衣や帯などを着けることを厳禁する。

道の島の琉球的ものの禁止と残存情況

沖永良部島や与論島などの琉球的祭祀の残存状況をみたとき、蔡温の『独物語』の以下のことが気になる。与論島以北を支配下においた薩摩は、琉球的な習慣や税の徴収の緩やかさに我慢できなかったかもしれない。また島の人たちは琉球の時代の習慣や思いを、容易く絶ちきることができなかったようだ。
 ・1609年 島津氏の琉球入りで大島、鬼界島、徳之島、沖永良部島は薩摩の直轄となる。
 ・1624年 四島の役人から位階などを受けることを禁止、能呂久米が年々印紙(辞令)を琉球から
  請けることを禁止する。(寛永十九年以前にもらった辞令書は秘蔵して神聖視するようになる。
  (亨保以前は「のろくもい」など一代に一度は琉球へのぼり国王に 謁して辞令を貰っていたという) 
 ・1625年 島津氏は統治の都合で四島の役人が冠簪衣服、階品を琉球から受けるのを厳禁する。
 ・1663年 四島の人民の系図並びに旧記類を悉く焼却する。
  ・1732年 四島の与人、横目等が金の簪や朝衣や帯などを着けることを厳禁する。

 城(グスク)のつく地名と「世之主」、そこあたりは北山の時代(歴史)とつながる話である。それとノロ殿内の遺品とシニグ祭は三山統一後の琉球の歴史とつながる。薩摩の琉球侵攻以後、与論島以北は薩摩化されていく。その過程でノロやヒャ(百)やシニグや墓、土地制度が変貌していく。それでも北山の時代の痕跡、琉球国(三山統一後)の痕跡を北山の香り、琉球国の香りとして、薩摩の臭いを排除してみていこうとするのが狙いである。それが、史実なのかには踏み込まない。足でした沖永良部島の香り(歴史・おもろ・墓・地名・言語・ノ委ロ関係遺品・シニグ・神アサギ・地名・風景など)を読み取っていくことにする。

おもな参考文献
 ・大奄美史(奄美諸島民俗誌) 昇曙夢 
 ・『和泊町誌』
 ・『知名町誌』
 ・『与世論町誌』
 ・『今帰仁村史』
 ・『遺漏説伝 沖縄歴史』(大正八年島袋源一郎著
 ・『なきじん研究3号』―沖永良部の世之主伝説と今帰仁
 ・『沖縄県国頭郡志』(大正八年発刊)
 ・『北山史話』(一九五七年発行行)新城徳裕著
 ・「沖永良部島の世之主伝説」資料と解説(平成九年) 先田光演著


2022年2月10日(木

 明治期の「間切村全図」と「村字全図」の確認する機会があったので、これまでの竿帳や針図の確認。仕明譲証など、それに図(針図?)の一部を紹介。図の竿本の「かつう原」は1719年まで「嘉津宇村」があった場所である。嘉津宇村は具志堅村地内に移るが、戦後字として独立している。同年に本部間切伊豆味村地内にあった天底村は今帰仁間切に移る移動村である(集落移動村とは区別している)。

●【元文検地(1737~50年)】
2008年7月1日(火)メモ

 元文検地(1737~50年)のとき、何種類もの竿入帳が作成されている。それぞれ竿入の目的があったとみられる。「原石」(印部石)と下に掲げた針竿図や針図や針竿帳や竿入帳などと、どんな関係にあるのか。原石は図根点(竿本)に使われているが、最初はある程度任意の場所に配置していったのか。どれか、最初に行う竿入の時に、随時設置していったのか。原石(印部土手)の設置は、複数ある竿入(あるいは針図)などとの関わりで見ていく必要がありそう。
【尚侯爵家『御蔵本目録』】より
 ・国頭方中上方杣山方境土手相立帳
 ・杣山御見合日記
 ・具志頭親方杣山見分日記
 ・……間切針図
 ・宮古島針図
 ・八重山針図
 ・首里惣廻針竿図帳
 ・……間切御支配日記
 ・……間切田畠組立帳
 ・……間切田畠山野屋敷竿入帳(宮古八重山のはナシ)

【『北谷町史』など】
 ・針図(旧城図針図)(乾隆7年:1742)
 ・北谷間切桑江村竿入帳(1737~50年:元文検地)
 ・田畑竿入帳
 ・山野針竿帳
 ・田畑屋敷山野針竿帳
 ・惣方切并宿道針竿帳
 ・印土手帳
 ・羽地間切山野針帳
 ・伊平屋島杣山帳
 ・畠山野針竿帳(六冊)(伊江島)
 ・畠方竿入帳(三冊)(伊江島)

【『南嶋探検』笹森儀助】
 ・久志間切絵図(乾隆8年1743)
 ・道路竿帳
 ・田畑竿帳
 ・河川溝渠竿帳
 ・山野竿帳

 「今帰旧城図」(針図)乾隆8年(1743)に描かれたものである(『具志川家家譜』所収)。この節の御支配(元文検地)の時に測量された図である。針本に「はんた原 フノ印」の原石(印部石)を使っている。今帰仁城を測量するために設置した原石なのか、それとも別測量のために設置された原石を利用したのかどうか。上に掲げたどの測量のために設置したのか。

 もう一枚の図は「杣山開墾地針竿帳」の図である。「大宜味間切屋嘉比村外二ケ村杣山字ウバシ又山弐万坪開墾許可地針図」とある。竿本は「久志間切山界ニアル第弐拾壱号土手ヲ以テ本ト定ム」とあり、この針竿帳は明治30年のものなので「竿本」の土手は以前からあったものである。「国頭方中上方杣山方境土手相立帳」(元文検地)のものであろうか。


原石を竿本とした「今帰仁城旧城図」(針図)(1743年)    土手を竿本とした「杣山開墾地針竿帳」

【本部間切伊豆味村】(本部間切 Y家文書)

 ・仕明知行田方畠方譲渡証(仕明人 本部按司)
 ・預り
 ・請取証(明治二十五年)
 ・蘇鉄畠代金請取(明治廿九年)
 ・証文(模合仕明田方坪高百九拾四坪公義御高壱壱参合四夕宛)(明治廿六年)
 ・譲売渡証(明治三十二年)(字大根作原模合仕明)
 ・譲売渡証(明治三十二年)(字大根スク原有候山野下ゝ畠)
 ・譲売渡証(タチ原百姓模合仕明地 同原右〃山野 畠方八百坪)(明治三十二年)

   
 ▲前主本部按司 売主 徳村筑親雲上  ▲前主主本部按司 売主 兼次筑親雲上



20081121日(金)メモ
 近世から明治の文書に目を通しているが、理解しがたい言葉に度々ぶつかる。土地に関わる言葉を少し整理してみる。

【百姓地】
 ・耕地の大部分をしめるのが百姓地
 ・百姓地は4、5年~30ヵ年で割りかえ(各村によって長短あり:地割)
 ・地割を受けるのは地人(臨時に割りかえあり)
 ・百姓地は売買が許されず
 ・人が少なく土地が荒蕪した所があると間切で特別に百姓地を売り渡すことあり(払請地)。
 ・百姓地は質入れできない
 ・百姓地には田・畑・宅地などあり。
 ・浮掛地は百姓地の一部(人口が少なく土地が多く、地人の力で全部を耕作することができず、貢租に耐えることが
 できない場合、居住人、あるいは他の間切の人に耕作させる。地割の際は浮掛地は除いて配分する。
 ・浮掛地の小作権は50年以上または無期(叶米(小作米)の滞納があっても土地を引きあげることができず、滞納分
  は村が負担し、その分は村が小作人に納めさせる。
 ・小作の種類(浮掛の他に、叶掛作分あり)
 ・作分・・・土地の実際の収得に比例して地人と小作人との間で収益を分配する。
 ・旧地頭自作地
 ・旧地頭捨掛地
 ・旧地頭質入地
 ・持地旧地頭地
 ・村持旧地頭地
 ・オエカ地・・・役人の土地。地頭頭以下の吏員の役地。オエカ地には自作するものあり。置県後は役地を廃止して
         俸給は石代で下付する。百姓地と同様な扱いとなる。
 ・ノロクモイ地・・・ノロクモイの役地、性質や処分などはオエカと同様。
 ・請地・・・山野の開墾地からなる。
 ・仕明地・・・埋立地からなる。
 ・仕明知行地
 ・喰実山野
 ・屋敷地
 ・浮得地
 ・塩田
 ・小堀
 ・墓地
 ・竿迦地

【地割】
 ・村(ムラ)によって異なる

【国頭地方の地租と納期】
 ・麦・菜種子・・・・・・・・・・・十一月三十日
 ・米・粟・黍・・・・・・・・・・・・十一月三十日
 ・棕櫚縄・塩・夫役銭・・・・十二月廿八日
 ・大豆・小豆・白?豆・・・・・翌年一月三十一日
 ・砂糖・・・・・(現品納)・・・三月三十一日

国頭地方の収穫期日
  ・米(収穫期:七月)
  ・砂糖(収穫期:四月)
  ・麦(収穫期:五月)
  ・粟(収穫期:七月)
  ・黍(収穫期:七月)
  ・下大収穫期:豆(九月)
  ・大豆(収穫期:六月)
  ・白?豆(収穫期:七月)
  ・菜種子(収穫期:四月)

 昭和60年頃、『じゃな誌』を執筆していたころ、「山原の地割基準」と「今帰仁間切の各村の地割基準」について整理したことがある。そのころは角川の「沖縄の地名辞典」や「じゃな誌」の原稿の催促に追われていたころである。大学の長期の休みとなると『名護市史』(現市民会館)に入り浸っていたころである。上のY家の資料を手にしたのはそのころである(沖国大の私の講義室が南島研究所の隣にあった:所長が仲地さん)。大宜味村の「大宜味間切村全図」と「字全図」と大宜味村の地割と土地整理以前の地割を絵図と合わせ見みることに。それと『琉球共産村落の研究』収録の図(初版本カラー)と比較してみることに。
 


2022年2月9日(水)

 昨日は名護市久志のこと、大宜味村の村全図、塩屋湾岸のウンガミ、沖永良部島和泊町のことで。すると、そ
れらに頭が回転中。兼次の字誌では移民についての原稿書き(上原家一族の南米移民)。故平良新助氏の移民資料を思い出しながら。





2022年2月8日(

 
 今帰仁村民の帰村後、配給物資(配給所)の設置(直後売店)、青年クラブ(公民館)などが始まる。戦後の復興

の出発点となる陳情書である。その後の公文書(公民館資料)につながる。

【今帰仁村民の郷村への復帰移動】
(1945・10・3)

 今帰仁村民の郷村への復帰移動方左記の件に付御聴許相成度及陳情候也。

   1945年10月3日

        田井等市内今帰仁村民一同

   沖縄民政府部諮詢委員長殿

        記

一、移動に関する件
 1、食料確保上より  
  今帰仁は甘藷蔬菜等の主要食料の適産地にして主要食料の適産地にして戦争中は
  勿論現在郡内市民の補助食料の補給は総て今帰仁方面よりなされ居候。然るに現在
  全く耕作を停止しあるため今帰仁の食料は今や将に枯渇せんと致し居り憂慮仕候。
  今若し今帰仁への移動を実現し増産を致させ候はば民衆の食料確保上益すること大なり
  と思量仕り候。

  而して作物特に甘藷の栽培適期は十月以内を以て終りと相成候条、十月以内に植付終了
  し得る如く急速に実現方及御願候。

 2、衛生上の見地より 
  現在の密集生活は住宅不足、衛生設備の不備、民衆の密集生活不慣等のため、当局者
  の苦心にも不拘、罹病率高死亡者続出する状況に有之、特に老幼者の健康状態は不安
  を覚え申候。今可及的人口を疎散し候はば、住宅難の緩和、衛生の向上又期すべきもの
  ありと存じ候。

二、建築資材の確保に関する件
  今軍移動後、今帰仁村内に残存する建築資材を可成多量に払下確保相成住宅建築に充当
  せしめられ度御願申上候。

三、先遣隊の件
  全住民移動に先立ち早刻先遣隊を派遣し、住宅の設営、耕作地の手入等致させ被下度及
  御願候也。
                                          以上

【久志市の移動状況】(1946・11・16~18)
                              (1945年11月21日 うるま新報)

久志市人口移動は総人口の六割を16日に完了17日より新移動開始18日終了、残す南部移動も順調に運ぶものと見られている。
  一、久志より本部今帰仁へ
    一万八千名十六日終了
  一、久志より名護へ

    937名 18日終了


2022年2月7日(

 沖縄のヒカンサクラは旧暦の正月の前後に満開する。10年間今帰仁グスクの桜の開花の様

子を観察したことがある。ヒカンサクラの満開の頃は、沖縄は真冬。並行して春の息吹きも。

 

 

 宮古島をゆく

  源為朝渡来伝説があるが、平家はどうなの?の問い合わせあり。(宮古、石垣から)
  (それに答える興味深い研究書を見つける!)


2022年2月6日(

 今帰仁グスク内にある按司クラスの石灯籠がある。他に山原(やんばる)国頭村比地、辺戸、奥にある。国頭村は散在してある。国頭間切が1673年に分割して田港(後に大宜味)が創設したことに起因していると考えている。それは今帰仁間切は国頭間切より以前の1666年に伊野波(翌年本部)間切が創設される。その時、今帰仁グスクはそのまま今帰仁間切内、ところが国頭間切の中心となった国頭(ウイグスク:根謝名)グスクは田港(大宜味)間切へ(一時期国頭間切に)。国頭間切は国頭按司、大宜味間切は羽地按司の領地となる。国頭按司の行き場が他の間切となる。その為に比地、辺戸、奥に按司クラスの石灯籠が置かれることになる。その名残りが、大宜味間切のウンガミに見られる。城ノロ管轄管轄の祭祀は間切分割以前の国頭按司の参加。田港ノロ管轄のウンガミには大宜味按司が参加。(詳細は別に)

【今帰仁グスクの四基の石燈籠】
(2008.02.23)メモ

 今帰仁グスク内の火神の祠の前に四基の石灯篭がある。「奉寄進 石燈爐」「今帰仁王子朝忠」「乾隆十四年己已仲秋吉日」と、摩耗しているが辛うじて読み取ることができる。乾隆14年は1749年で今帰仁王子朝忠は今帰仁按司十世の宣謨(1702~1787年)のことである。宣謨が王子になったのは乾隆12年(1743)である。その時、薩州(薩摩)へ使者として赴いている。詳細について触れないが、これら石燈爐の二年後の建立は薩州へ赴き無事帰ってきたことと無縁ではなかろう。それと下記の「覚」の「城内の旧跡の根所の火神や御嶽々は今でも毎月朔日、十五日の折目折目の祭祀を行う仕事がある」ともある。

http://rekibun.jp/gazou0802/080223gu1.jpg
 http://rekibun.jp/gazou0802/080223gu2.jpg http://rekibun.jp/gazou0802/080223gu3.jpg

の石燈炉  「乾隆十四年己巳 仲秋吉旦(日?)」「奉寄進石燈炉」 「今帰仁王子朝忠」
の石燈炉  「奉寄進□□年」(他の文字は判読できず)
の石燈炉  (文字判読できず)
の石燈炉  「奉寄進」(他の文字は判読できず)

 『具志川家家譜』(那覇市史 家譜資料首里系)に、次のような「覚」書きがある。そこには、今帰仁グスクを関わる重要なことがいくつも記されている。
 ・此節御支配…元文検地のこと(今帰仁グスクは乾隆7年(1742)に行われる)
 ・尚巴志王の時落城する。
 ・国頭方は險阻で殊さら難しい所である。
 ・権威のある人物を派遣して守らせる。
 ・尚真王の時、今帰仁王子(一世の尚韶威)が鎮守する。
 ・今帰仁グスク内に住み六代まで相続し勤める。
 ・今帰仁村と志慶真村は城の近方にあったが場所がよくないので敷き替えをする。
 ・そのため村が遠くなったので城の住居は不自由となる。
 ・高祖父?の時代今帰仁村へ引っ越す。
 ・城内の旧跡の根所の火神や御嶽々は今でも毎月朔日、十五日の折目折目の祭祀を行う仕事がある。
 ・宗仁以来十代までやってきたが、この節所中(間切)に渡したならば後年旧跡は廃れてしまう。
 ・それは黙止することはできない。
 ・そのようなことで、城囲内は子孫へ永代御願地にして下さるよう願いでて許される。

      覚
   今帰仁城之儀、此節御支配ニ付而間切江被下候旨承知仕候、然者今帰仁城之儀
   尚巴志王御代致落城候得共、国頭方險阻殊六ケ敷所ニ而
  尚真様御代元祖今帰仁王子宗仁右為鎮守奉
   命、今帰仁城内江被詰居、高祖父迄六代右之勤致相続候、然処今帰仁村志慶真村之儀、
    城近方ニ有之候処、場所能無之故、當村江致敷替候ニ付而、村遠相成城之住居不自由
   有之候之処、


2022年2月5日(

 天気回復、一日中大工作業。



    ▲上の画像は、歴史文化センター所蔵(メルビンハッキンス氏撮影)


2022年2月4日(金)

 14世紀から16世紀の交易をテーマにしていた時期、東アジアの国を訪れている。訪れていると行っても一週間から十日ばかりである。そのほんの一部を報告している。中国数回(南京から北京)、韓国は慶州、台湾(4回)、ベトナム、マカオ、香港、シンガポール、マレイシア、タイなどの国々。パスポートが昨年で切れたので更新せず。もう外国にゆく体力がないと実感したので(十数時間の✈機乘は限界)。外国行きはカバン持ち。「それだけ旅しないでいると蔵がいくつも建つね」と周りから。足を地について考えたいだけのこと。

【三王(北山・中山・南山)と明国との交易 】

【山北王攀安知】(12回)(1396~1415年)の明国との交易(滅亡時の山北王)

①洪武二九年(1396)正月己巳(十日)
 琉球国山北王攀安知、其の臣善佳古耶を遣わし、中山王察度、其の臣の典簿程復等を遣わし、各々表を奉り馬及び方物を貢す。詔して来使三十七人に鈔二百四十七錠を賜う。

②洪武二九年(1396)十一月戊寅(二四日)
 琉球国山北王攀安知、其の臣善佳古耶等を遣わし、中山王世子武寧、其の臣蔡奇阿敖耶等を遣わし、馬三十七匹及び硫黄等の物を貢す。并びに其の寨官の子麻奢理・誠志魯二人を遣わして太学に入れしむ。

 是れより先、山南王其の姪三五郎□を遣わして太学に入れ、既に三年にして帰省す。是に至り、復た麻奢理等と偕に来りて太学に入るを乞う。詔して之を許し、仍お衣巾・靴韈を賜う。

③洪武三十年(1397)二月丙戌(三日)
 琉球国中山王察度、其の臣友賛結致を遣わし、山南王叔汪英紫氏、渥周結致を遣わし、各々馬及び硫黄を貢す。

④洪武三十年(1397)十二月癸巳(十五日)
 琉球国山北王攀安知、恰宜斯耶を遣使し、中山王察度、友賛結致を遣使し、各々表を上(たてまつ)りて馬及び硫黄を貢す。

⑤洪武三一年(1398)正月(八日)
 琉球国山北王攀安知、その臣を遣わして表を進め馬を貢す。

⑥永楽元年(1403)三月丙戌(九日)
 琉球国中山王の従子三吾良□等に宴を会同館に于て賜う。・・・・・

琉球国山北王攀安知、善住古耶等を遣使し、表を奉りて朝賀し方物を貢す。鈔及び襲衣・文綺を賜う。善佳古耶、攀安知の言を致し、冠帯・衣服を賜いて以て国俗を変ずるを丐(こ)う。上、之を嘉し、礼部に命じて其の国王曁(およ)び臣に冠帯を賜う。

⑦永楽二年(1404)三月己未(十八日)
 琉球国山北王攀安知、亜都結制等を遣使して方物を貢す。銭・鈔、文綺、綵幣を賜う。

⑧永楽二年(1404)四月壬午(十二日)
 詔して汪応祖を封じて琉球国山南王と為す。応祖は故琉球山南王承察度の従弟なり。承察度は子無く、臨終に応祖に命じて国事を摂らしむ。能く其の国人を撫し、歳々に職責を修む。是に至り隗谷結制等を遣使し来朝して方物を貢す。且つ奏して山北王の例の如く冠帯・衣服を賜わんことを乞う。
 上、吏部尚書蹇義に論して曰く「国は必ず統有り、衆を撫し、且つ旧王の属する所の意なり。宜しく言う所に従いて以て遠人を安んずべし」。遂に遣使して詔を齎して之を封じ、并びに之に冠帯等の物を賜いて其の使いと倶(とも)に還らしむ。

⑨永楽三年(1405)四月丙寅(一日)
 琉球国山北王攀安知、赤佳結制等を遣使して馬及び方物を貢す。賜うに鈔錠・襲衣・綵幣表裏を以てす。

⑩永楽三年(1405)十二月戊子(二六日)
 琉球国中山王武寧、山南王汪応祖、山北王攀安知、西番馬児蔵等の簇、四川・貴州の諸士官、各々人を遣わして方物を貢し、明年の正旦を賀す。

⑪永楽十三年(1415)四月丙戌(一九日)
 琉球国中山王思紹並びに山北王攀安知、人倶に遣使して馬及び方物を貢す。

⑫永楽十三年(1415)六月辛未(六日)
 琉球国中山王思紹・山北王攀安知の使臣辞す。悉く鈔幣を賜う。

(三山王時代の琉球国と東南アジアの国々)

山北王・中山王・南山王の時代、明実録の記事に三王の名が記されない記事がある。三山を三山を琉球一国とみている可能性がある。そのことについては、ここで扱わないが、東南アジアへの方物の中に刀剣が重要な品であったことが窺われる。尚巴志の時代、中山・北山・南山も大和から入ってきた刀剣類をもって東南アジアへの礼物として輸出したとみられる。中継貿易の拠点としたと見られる。

・占城(チャンバ)  ・真臘(カンボジア) ・暹羅(アユタヤ) ・三仏齋(パレンバン) 
・瓜哇(ジャワ) ・渤泥(ボルネオ) ・高麗 

【朝鮮との交通記録】
 ・13921年 察度、朝鮮へ二度使者を派遣する。
 ・1394年 察度、朝鮮へ使者派遣する。
 ・1398年 山南王温沙道、朝鮮へ亡命。十月客死。
 ・1400年 察度、朝鮮へ使者派遣、世子武寧も方物を献上する。
 ・1409年 山南王、朝鮮へ阿乃佳結制を派遣する。
 ・1410年 山南王、朝鮮へ模都結制を派遣する。
 ・1415年 将軍足利義持、尚思紹(りゅうきゅう国よのぬし)の文書を送る。
 ・1416年 北山王攀安知、中山に滅ぼされる。
 ・1420年 中山王佳期巴那をシャムに派遣。

【旧港との交通記録】(パレンバン・チューラ・ジャンビ)(マレー半島)
 旧港との交通は1426年尚巴志に文書に登場する。磁器を搭載し胡椒を買い入れる。礼物として素段、大青盤小青盤など。舊港との交通か以下のように八回見られる。宣徳三年(1428)に袞刀二柄、腰刀二柄。宣徳五年十月五日?の腰刀二把がある。舊港への礼物の中に刀があったことがわかる。つまり琉球側からの貢物である。
 ・宣徳三年(1428) 九月二四日実達魯などを舊港に遣わす。
 ・  同      十月五日 同上
 ・宣徳五年(1430)十月十八日 歩馬結制等を遣わし舊港に書を送る。
 ・宣徳六年(1431)二月三日  舊港より来信。
 ・正統三年(1438)十月四日 阿普尼是等を舊港に使す。
 ・ 同      十月二六日 同上
 ・正統五年(1440)九月    同上
 ・正統五年    十月四日  同上 

【マラッカとの交通記録】(室町中期足利義政頃~五十年間)(尚徳・尚円・尚真の時代)
 マラッカとの交通は1463年~1480年まで間十五回みられる。天順七年(1363)に腰刀五把、天順八年(1464)に腰刀五把、成化元年に腰刀五把、成化二年(1466)に腰刀五把、成化三年(1467)に腰刀五把。その年まで腰刀が五把礼物に記録されている。その次の成化四年(1468)年から以後、成化十六年までの礼物に刀の記載がみられない。 

【爪哇との交通記録】(ジャワ)
 永楽二年(1430)十月十八日附で尚巴志が南者結制等を爪哇に遣わしたのが文書に見える最初のようである。この年は尚巴志が山南を滅ぼし三山統一し、尚巴志は南者結制を爪哇に使わした文書があるようだ。同じ年の同日に三佛齋にも使節を派遣している。四回の使節派遣が見られる。

 ・永享二年(宣徳五:1430)十月十八日 南者結制等を爪哇に派遣する。
 ・永享十二年(正統五:1440)十月十六日楊布等を爪哇に遣わす。
 ・嘉吉元年(正統六:1441)四月十九日阿普斯古等を爪哇に遣わす。風にあって翌年福健より帰る。
 七月六日達福期等を爪哇に派遣、十月一日風にあって同月三日再び行く。
 ・嘉吉二年(正統七年、1442)十月五日楊布等を爪哇に遣わす。

 宣徳五年(1430)に腰刀五把、正統五年(1440)に腰刀十把、正統六年(1441)腰刀拾把、正統七年(1442)腰刀拾把がみられる。


2022年2月3日(木)

 以前に奄美のノロクメ(ノロ)について述べたことがあるが、改めて奄美に遺る辞令書を手がかりに琉球国の統治下にあった奄美の島々の様子を見ていくことに。それと薩摩(島津)の琉球侵攻の島々の対応からも。徳の島の亀津では戦いがあり、沖永良部島では薩摩軍が帰路の時、立ち寄りお粥を流したことで「バカ村」(現在の知名町正名)の汚名を着せられた話が伝わっている。今帰仁グスクでは戦わずして逃げ焼かれてしまう(「琉球渡海日日記」や「喜安日記」)。
 古琉球の奄美の辞令書を手がかりにすると沖永良部島と与論島には辞令書は遺っていないがノロ関係の遺品があり、また琉球国の統治下にあった時代が伝承だけでなく歴史でも描けそうである。

「喜界島征伐」新聞記事 林清国氏

「尚元王が大島征伐をしたときのことを「球陽」から誌すと、

 隆慶五年(1571年)尚元王みずから軍兵を率い大島を征伐した。大島は与湾大親の亡後他の酋長など反して貢を絶ったので、王海船十余隻に兵を乗せ、二月十三日那覇を開船して大島に向かった。賊徒むかえて戦ったけれどもついに大敗して遁走し主魁は捕らえられてちょうせられた。王命じて別に酋長を立てて百姓を安撫させた。三月の初め王病を得て危篤におちいったが追法司官馬順徳天に訴え身を以て代わることを祈り王は病癒えて四月那覇に凱旋した。然るに国頭親方は果たして帰還後、病に染み同年七月ついに卒した。王これを哀み親しく国頭の宅に臨まれ、宝石の墓に厚く葬らしめ、その祖父以来三代の累功に潤いるため四世より按司家に陛せたという。これが国頭御殿の由来なり。
 ・・・
 泊地頭は泊村の外、大島諸島を管する職であるが泊大阿母もともにこの時から始まったという。


奄美のノロクメ(ノロ)制度

 奄美に首里王府発給の辞令書が残っている。そのすべてが古琉球(1609年以前)の辞令書である。1609年以後も発給された気配はあるが、今のところ確認されていない。それは1611年に与論島以北を薩摩に分割され、琉球的なものを政策として消し去っていった。1609年以後の辞令書が確認できないのは、薩摩の奄美諸島への政策が及んだことに起因しているのであろう。しかし、その隙間をぬって、あるいは薩摩に同化できない、政策を浸透させきれなかった一つがノロの問題ではなかったか。

 特にノロについては祭祀(信仰)と関わる。ノロを要とした祭祀を琉球国が認めてきた宗教であるとの視点でみると、奄美諸島で1611年以後いくつもの改革(薩摩化)を図ったが、ノロクメ(ノロ)が関わる祭祀は廃止することが今に至っても消し去ることができなかった。そのことは、沖縄における明治から現在に至るノロ制度の国の改革(宗教改革?)が今次大戦でうやむやになり、それが消え去ることなく現在に継承され続けていることと軌を一つではないか。奄美に関するノロクメ(ノロ)について、手を染めたばかりであるが、歴史をみていく上で重要なテーマのような気がする。

 『南島文化の探究』(河村只雄著)に「奄美に対する島津藩の文化政策」がある。その史料や他の資料にあたらないといけないが、とり急げ書き記してみる。
  島津氏が奄美の島人に対してあえてなした文化的圧迫は、島人のもてる系図、古文書類を没収・焼棄
   したことであった。以下の四回にわたって大島の代官に命じて、奄美の島人等が所持していた民間の
   系図や諸記録をことごとく取り上げて焼棄したという。
      ・元禄6年(1693)
      ・元禄10年(1697)
      ・宝永3年(1706)
      ・宝永4年(1707)
  宝永3年(1706)に代官に出した命令書は以下の通りである。
   一、大島、喜界島、徳之島、沖永良部島右四島人民の内、家柄可差立先代の由緒
     有之者は不残系図可差出旨申渡可有之尤も御蔵物に被召上儀にては無之必可
     被返下候内々致其心得持合之者差出様有之可然候
   一、系図文書無之者の内にも先祖差立る家筋の由緒有之者委細書記可差出事
   一、寺社方々も右同断

 そのような島津藩の禁止令があっても清算されなかったのは、河村は「いくら政治的に服従していても、文化的には何時までも琉球色が清算されなかった。これは一つには島津藩が琉球の「ノロ」の宗教を黙認していたことも大きな要因をなしているといえるであろう」と。

 ノロを中心とした祭祀は奄美で消すことができなかったのではないか。というのは、明治12年の廃藩置県後、沖縄県においてもノロ制度的は段階的に廃止の方向の政策がとられているが今次大戦に入り、うやむやのうち現在に至っている。

 明治8年にも以下のような達が出されている。明治の初期には琉球的色合いが、まだまだ目についたようである(『大島 喜界 両島史料雑編』)。

 大島、徳之島、喜界島、沖永良部島、与論島人容貌服則の儀、往古より琉球より管轄の旧慣にて今に一新の場に至り兼ね、方今御維新の時に際し、別紙四件御布告の旨もこれあり候に付き、人民容貌を脱却し漸次内地の容姿に模倣候様、心掛くべくこの段布達候事
    明治九年四月十五日    鹿児島県令 大山綱良
      辛未(明治四年)四月十七日御布告
  一自今平民乗馬差し免じられ候事
      同 八月九日 御布告
  一散髪、制服、略服、脱刀共自今勝手たるべき事
    但し、礼服の節は帯刀いたすべき事
      同十八日御布告
  一平民襟割羽織、着用勝手たるべき事
      同十八日開拓使布告の内
  一自今出生の女子、入墨堅く禁ずる事
    
 1609年以後の首里王府から奄美のノロクメ(ノロ)への辞令書は今のところ確認できていないが、奄美のノロの実態が『南島雑話』(1850~55年)の記事からすると1623年や1642年に印紙(辞令)を受けることを禁止されている。辞令は禁止されるが、それでもノロクメが関わる祭祀は姿を消すことなく継承されている。それは古琉球から継承され、本琉球から辞令を請けることは禁止されるが、それでも継承され続けられた。『南島雑話』に近世のノロの姿とみることができる。


 ・奄美諸島は薩摩支配(1609年)後もノロの存在は黙認された。
 ・1628年ノロの琉球王による任命を禁止する。
 ・享保年間(1716~35年)にはノロの代替り毎に渡琉して聞得大君に拝謁することを厳禁
 ・役地も取り上げる
 ・それでもノロの存在は黙認される
 ・文政14年(1817)薩摩が砂糖総買い上げをおこなう。それに伴ってノロの弾圧強化される。
 ・安政2年(1855)に迷信禁止令を出して懲戒する。
 ・明治2年(1869)の廃仏毀釈カンギヤナシを桎梏に乗せて祭祀を廃止させた。
 ・ノロの衣類、珠玉などを焼く。
 ・寺を廃止し神社を建立する。

 ・大熊ノロは大熊・浦上・有屋・仲勝の四カ字を管轄した。各字にトネヤがある。
   (沖縄ではノロが複数のムラを管轄するのが一般的。その様子が大熊ノロにみられる)
 ・大熊ノロ家にノロ辞令書と名瀬間切の朝戸掟職補任辞令書(1607年)と名瀬間切の西の里主
  職補任辞令書(1609年)があったようだ(『南島雑話』所収辞令書)。同家に三点の辞令書が
  あったのであれば、ノロ家の男方は首里王府から任命される役人が出ていることになる。

 
    ▲奄美市名瀬大熊あたり?                  ▲徳之島町手々

 『のろ調査資料』(宮城栄昌・中山盛茂・富村真映)で、奄美のノロについて以下のように述べている。

  カケロマ島では於斉、花富、伊子茂、武名、木磁部落にノロを残す。
  大島諸島のノロは、慶長14年諸島が薩摩領となった後も、その存在が認められ、就任に際しては首里
  に上って聞得大君を拝し、王府からの朱印の辞令を戴いた。薩摩がノロを認めたのは、歴史的に村落
  結合の中核となっていたノロ機能を利用して社会秩序の維持をはかり、貢租の円滑をはかるためであ
  ったが、しかし薩摩の専制的支配を強化するためには、血縁共同体を基盤とする琉球の支配形態を変
  える必要があった。そのため1623年(寛永元)28年(寛永5)薩摩は琉球王によるノロ任命を禁止した。
  それでも世襲ノロは存在し、代替り期における聞得大君拝謁が行われていたので、享保年間、その拝謁
  を禁止し、役地も取り上げた。ただし徳之島手々の深見家文書によると文化文政の頃も宅地を給したり、
  住家新築に際して労力や茅を供することが行われているから、役地取上げのことはノロ田・ノロ畠につい
  てであったであろう。
   ・・・関係書類や衣装を隠匿して、祭祀をつづけるものがいた。
   明治2年の廃仏廃仏棄釈の折には徹底的に弾圧され、明治4年には安政以後も残っていたノロ殿内
   (とねや、神木屋)やお願所の破壊、神衣装珠玉の破却などがあり、ノロ司宰の神事も廃された。沖永
   良部島では神官鎌田常助がこれを指導したためにシヌグ祭も廃されたが、鎌田は与論島について
   同じ圧迫を加えている。それどほの圧迫にもかかわらず奄美大島・徳之島には隠れノロがいたようで
   あるが、沖永良部島と与論島は全滅した。


【南島雑話】(名越左源太)

 慶長18年(1613)、始めて法元仁衛門を以て大島代官職被仰付、年貢を収、島民を皆土人に準じ、諸事頭取者を一等揚て下士に準じ、頭長は大親を以て長とす。其次与人とす。大島に始めて法令を建てることは、元和九年癸亥(1623)悉被定、同十年の二月十八日(嘉永元年此年改元)法令之帖に、冠簪衣服楷品を本琉球に受ける事を禁制す。

 此時より能呂久米年々印紙を本琉球官僚に請ることを止らる故に、寛永十九年(1642)迄之免官印を伝て今其三四枚を蔵め伝う。大熊村安加那納置書付なり。大熊村にて富統より内々にて、能呂久米安加那本書押付に為写す間、本書の儘也。本書唐紙也。文面如此かな書也。始と終に朱印、首里之印と云文あり。首里の里の子寮より出ものにて候由。上包の紙の上に里之子寮と有之候。

【神事】
 能呂久米、祝主神之祭惣名女子迄也。男子あずからず。能呂久米の中に役名あり、船頭と云。那留古国より神、毎年ニ月初の壬に渡来す。是を御迎祭と云。
 同四月之壬の七ツメに帰り去る、是を御送祭と云。
 大神祭、島の山神海神を祭る。
 御印加那之能呂久米は頭にて、島中に雨人あり。真須知、須多共に此支配也。享保以前は、能呂久米一世一代一度ヅツ本琉球にいたり、国主に御目見あり。免許の御印を頂戴して在所に帰る。尤此免文は首里の里の子より出、里之子寮の支配の者也。海頭は御印加奈之よりは下官なり。然共国主免許文は里之子よりいだす。寛永七年(1630)戌五月代官新納用之進禁止す。
 ・・・・・・能呂久米二流に分る。大和浜より屋喜内、西東方迄は真須知組と云、名瀬より笠利までは須多組と云。・・・・・・・
【死葬】能呂久米葬式の法

 始死る者を穴蔵に入処、是をとうふろと云。今笠利間切の宇宿村、又同間切手花部村にも有之。島中所々にとふろあり。桶共に納め置く。とふろの奥の方、南京焼の蓋のある壺、幾所にも並有之、又石櫃に納るもあり。昔は島中なべて如此なりしを、今は大和風に習いて土葬なり。・・・・・


【辞令書等古文書調査報告書】(沖縄県教育委員会:昭和53年発行)

 ・鬼界(喜界)の東間切の阿田のろ職補任辞令書(隆慶14:1569年)(喜界島)
 ・屋喜内間切の名柄のろ職補任辞令書(万暦11:1583年)(奄美大島)
 ・名瀬間切の大熊のろ職補任辞令書(万暦15:1587年)(奄美大島)
 ・徳之西銘間切の手々のろ職補任辞令書(万暦28:1600年)(徳之島)
 ・瀬戸内西間切の古志のろ職補任辞令書(万暦30:1602年)(奄美大島)

 以下の二枚の辞令は『かけろまの民俗』で須子茂のノロへの辞令として扱っている。ノロへの辞令ではないのではないかと見ていたが、ノロ辞令書とみてよさそうである。これらの辞令書はノロ家が所蔵しているようである。ノロ家の男方は知行を受ける役人を勤めている例がいくつもある。例えば今帰仁間切の「くしかわのろ」(3枚の内ノロ辞令は1枚)や今帰仁間切の中城のろ(9枚のうち2枚がノロ辞令で他は男方の役人)など。のろへの辞令の場合、多くは「・・・・のろの」とあるが、「ねたち」と「たる」など名前の場合もある。「ねたち」はすこものくちのうなり(妹)、あかひとうかの子へ引継なので、ノロ引継による知行安堵である。それを勘案するとノロへの辞令書とみてよさそうである。 阿田のろ職補任辞令書(1569年)が沖縄本島も含めても、今のところ一番古い。

 ・瀬戸内西間切の須古茂のねたちへの知行安堵辞令書(万暦2:1574年)(奄美・加計呂麻島)
 ・瀬戸内西間切の巣古茂のたるへの知行安堵辞令書(万暦2:1574年)(奄美・加計呂麻島)

鬼界(喜界)の東間切の阿田のろ職補任辞令書(隆慶3:1569年)(喜界島)

  しよりの御ミ事
     ききやのひかまきりの
     あてんのろハ
       もとののろのおとと
     一人ゑくかたるか
          方へまいる
    隆慶三年正月五日

・屋喜内間切の名柄のろ職補任辞令書(万暦11:1583年)

  しよりの御ミ事
     やけうちまきりの
     なからのろハ
      もとののろのめい
     一人つるに
     たまわり申候
  しよりよりつるか方へまいる
  万暦十一年正月廿七日

・名瀬間切の大熊のろ職補任辞令書(万暦15:1587年)(奄美大島)

  しよりの御ミ事
     なせまきりの
     たいくまのろハ
       もとののろのめい
     一人まくもに
     たまわり申候
   しよりよりまくもか方へまいる
  万暦十五年十月四日

・徳之西銘間切の手々のろ職補任辞令書(万暦28:1600年)(徳之島)

  しよりの御ミ事
     とくのにしめまきりの
     てゝのろハ
       もとののろのくわ
   一人まなへたるに
    たまわり申し候
  しよりよりまなへたるか方へまいる
  万暦二十八年正月廿四日

・瀬戸内西間切の古志のろ職補任辞令書(万暦30:1602年)(奄美大島)
 
  しよりの御ミ事
    せとうちにしまきりの
    こしのろハ
      もとののろのうなり
    一人まかるもいに
    たまわり申(候)
  しよりよりまかるものいか方へまいる
  万暦三十年九月十日


喜界島阿伝(あでん)(東間切)

 阿伝には琉球国(首里王府)から発給された「辞令書」がある。この辞令書は伊波普猷の『をなり神の島』(全集五巻:鬼界雑記)で紹介されている。喜界島の東間切の阿伝ノロと首里王府との関わりを示す史料である。そこで伊波は、奄美と琉球国との関わりを以下のようなことを掲げている。
  ・大島が琉球王国に入貢したのは1266年である。
   ・喜界島は二回ほど反乱を起こし征伐される。
   ・1609年の島津氏の琉球入りで大島諸島は薩摩の直轄となる。
   ・寛永元年島津氏は役人や神職の冠簪衣服階品を琉球から受けることを禁止する。
   ・寛文三年に島津氏は統治上、大島諸島の家譜及び旧記類を取り上げて焼き捨てる。
   ・享保17年役人の金笄朝衣広帯などを着ける琉球風を厳禁する。
   ・琉球的なものを厳禁した中で辞令書は秘蔵している。

【鬼界の東間切の阿田のろ職補任辞令書】(1569年)

  しよりの御ミ事           首里之御ミ事
   ききやのひかまきりの       喜界の東間切の
   あてんのろは             阿田のろは
      もとののろのおとゝ             元ののろの妹
   一人ゑくかたるに          一人ゑくか樽に
   たまわり申候            給わり申候
  しよりよりゑくかたるか      首里よりゑくか樽
           方へまいる          方へまいる
  隆慶三年正月五日         隆慶三年正月五日(1569年)

 この辞令書は「喜界島の早町村の阿伝の勇という旧のろくもいの家でもこれを一枚秘蔵している」(伊波普猷全集第五巻)と。太平洋戦争で焼失してしまったという(『喜界町誌』)。阿伝のノロ家は、早町村にあったのか、それとも阿伝村の勇家(現:山野家)なのか。阿伝ノロ家が早町村にあるなら、古琉球の時代の喜界島におけるノロは、複数の村を管轄していたことがわかる。

2022年2月2日(水)
 
 2008年の1月~7月までの調査メモに再度目を通してみた。鮮明に思い出す場面もあれば、そんなことも念頭にいれていたのかと。また、発想の展開を切り替えしなければならないことがいくつもある。一言で「山原のムラ・シマ」と片づけてきたが、奄美まで視野に入れると、与論島、沖永良部島、徳之島、大島、喜界島には北からの視野、南からの視野、琉球からの広がり、さらに島々独自の歴史・文化の重なりがあり、そこは様々なキーワードが転がっている。

 以前(2005年6月27日付)に、「山原はさまざまな学問の対象地」として琉球新報に書いたことがある。最近、奄美の島々を調査記録を振り返ると、そこは学問の豊富な地域だと実感させられる。

 2005年頃、山原を中心に各地(与那国・西表・竹富・小浜・黒島・伊江・伊是名・久米島・座間味など)を訪ねている。他の地域に足を運ぶことで山原を見る視点が広がってくる。

 与論・沖永良部・徳之島・奄美大島・喜界島が琉球国の統治下にあった時代があり、以前に与論島・沖永良部島は北山の影響を大きく受けていた時代がある。その時代に立ち止まってみると何が見えてくるのか。そして三山(北山・中山・南山)統一後の島々、さらに1609年後の与論島以北の島々。

 北山の領域であったという。北山時代に形成されたもの、三山統一後の首里王府支配後のもの、さらに1609年の琉球侵攻後に導入された薩摩の制度や文化により形成されたものがある。三山統一後の琉球国の影響が強いももの、薩摩軍の琉球侵攻後に影響など、それらの痕跡を奄美の島々に見いだしている。

 本島の最北端、辺戸の安須杜の頂上部の三つの拝所は、琉球国の支配者(首里王府)の先祖は子(北)の方向から、また第一、第二尚氏の初代は伊平屋(伊是名含む)島からの渡来を示している。さらに天から降臨する神も祀っている。琉球国の御嶽と位置づけている安須杜は、集落の御嶽と異なり首里王府(支配者)による北山文化への被さりと言えないか。

 話は違うが、古くは杜の斜面に発達した山原の集落、御嶽を背にした集落、シマの方々が営々と引き継いできた御嶽や祭祀、グスクや神アサギなどの分布や特徴は北山時代(12~15世紀初頭)までさかのぼることができるのではないか。その時代は、山原の島々に遺るマク・マキヨがキーワードできないか。それとグスク地名のつく集落と「おもろ」や古琉球の辞令に登場するムラクラスの地名は、もしかしたらマク・マキヨ名が1609年以後の村名になっているのではないか。

 北山が滅んだ時、あるいはそれ以前の興亡の時代に離散していった北山系統の一族のムラと一門の足跡を追いかけて行きた。沖縄本島北部から中部、さらに南部まで。その伝承が史実かどうかの議論は最後にするが、まずは、その伝承のもつ村の確認から・・・。国頭村与那、同村宇嘉にも北山系統とする一門がある。(国頭村と大宜味村、東村については遺物散布地:人々が住んだ痕跡)

 
 北山系統の一門が住む与那  北山系統の伝承をもつ宇嘉(大城家)


2022年2月1日(火)

 コロナコロナに追われている間に2月です。沖縄は旧正月、冬です。桜は満開です。どうにか、今年の冬は超せそうです。先月沖永良部島調査へ往く予定が、コロナでかなわず。

 先月は奄美に遺る古琉球の辞令書を手がかりに歴史に手をつけてきた。おもろの編集や首里王府の大島討伐、先島と同様1500年代のノロや役人の任命など古琉球の辞令(年代)を物差しに奄美をみていく作業をしている。奄美討伐の島の記事から様子が見えてきそう。奄美の首里王府の統治が役人の叙任とノロの配置。首里王府の先島の統治に酷似している。

沖永良部島のノロ家の遺品2016416日(土)調査記録

 沖永良部島のノロ家の遺品と「世之主由緒と関わる村」と、これまで、積み残してきた知名町の村々をゆく。和泊町の内城(うちじろ)の世之主神社。世之主神社のある杜はグスクである。周辺の木々が伐採され、全貌をみることができる。すると土塁を中心としたグスクであることが明らかである。一日目先田先生の案内で、和泊町村長さんへ表敬訪問。教育委員会事務局の伊地知さんに挨拶。早速、「世之主神社」(世之主グスクとしたほうがいいかも!)。土塁を中心とした琉球(沖縄)北部の根謝銘(ウイ)グスクは羽地グスクの土塁+野面の石積みと類似)、奄美における神社の名称は薩摩支配下以降)。明治四年に「世之主城跡」の跡に「世之主神社」が建立されているので歴史を深く辿っていくには「世之主城跡」と史跡名とした方がいいのでは。鳥居の門は、親元である北山(琉球国)に向いているのではないか。

 もう一つ、新城(しんじょう)の花窪にあるニャートゥ墓は、どこに向いているでしょうか?墓正面の山手は上城村(下城を含む)で世之主の四天王の一人、上城村生まれである。新城のニャートゥ墓も親元の上城村に向けて作られている。

 そこで詳細に述べませんが、世之主城(グスク)を取巻く城(グスク、今はしろ)のつく内城・大城・玉城・上城・下城・新城(分離した新しい城))をゆく。城のつく村(ムラ)は、私にはグスクが築かれた時代から高地につくられたムラではないか。かつてにグスク時代の香りのするムラである。また、それらのムラは世之主城を築いた伝承と切り離すことができない。それだけではなく、後蘭村(おもろで登場する後蘭孫八、西見(ニシミ)なども登場する人物、それらの人物伝承がムラ名になっている。ムラ名は伝承の歴史やおもろで謡われた人物や生誕地にムラ名がつけられた証である。辞令書が残っていないのが残念。簪について記録があるが、それはノロではなく役人のもの。

 城(グスク)のつく地名と「世之主」、そこあたりは北山の時代(歴史)とながる話である。それとノロ殿内の遺品とシニグ祭は三山統一後の琉球の歴史とつながる。薩摩の琉球侵攻以後、与論島以北は薩摩化されていく。その過程でノロやヒャ(百)やシニグや墓、土地制度が変貌していく。それでも北山の時代の痕跡、琉球国(三山統一後)の痕跡を北山の香り、琉球国の香りとして、薩摩の臭いを排除してみていこうとするのが狙いである。それが、史実なのかには踏み込まない。足で踏査した沖永良部島の香り(歴史・おもろ・墓・地名・言語・ノロ関係遺品・風景など)を読み取っていくことにする。

 それらの地名やノロ関係遺物を並べただけでも「琉球の香り」がプンプン。その上に薩摩文化が。

 
  ▲世之主グスク跡        ▲世之主グスク跡の石積みと土塁

 ①内城(うちじろ:ウチグスク)
 ②大城(おおじろ:フグスク)
 ③玉城(たまじろ:タマグスク)
 ④上城(うえしろ:ウイグスク)
 ⑤下城(しもじろ:ヒチャグスクク)
 ⑥新城(しんじょう:アラグスク)

   
▲畦布ノロの遺品(森家) ▲シニグ旗(図柄やシニグの所作は薩摩的に変容)▲ヌルバンドーの力石