沖縄の地域調査研究
寡黙庵:(管理人:仲原) 今帰仁村歴史文化センター
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2021年6月1日(火)
島袋源一郎は『南島論叢』(昭和十二年初版発行)(伊波普猷還暦記念論文集編纂委員会編)に「琉球列島に於ける民家の構造と其の配置」を寄稿されている。島袋源七氏も「今帰仁を中心とした地名の一考察」も寄稿されている。それから今帰仁の地名について参考にしたことがある。
島袋源一郎の、この論文の以下の部分に目にとまった。
「昭和九年五月渋沢男爵の後援により東北より九州に至る各官立大学の地質、動物学、宗教、農学、人類学其の他各科の権威者を以て組織せらるヽ教授の方々が薩南十島村を調査して帰らるヽ御一行と名瀬より同船し、鹿児島図書館の階上に於いて、十島村視察報告講演会が催されたので之は実に絶好のチャンスだと思い聴講に出かけたのである。・・・・(略)・・・此に於いて従来の大島調査の宿望は更に増大して十島村即ちトカラ群島迄延長しなければならぬという必要を痛感するに至った。
幸い昭和十年六月東京より帰県の際鹿児島衛生課勤務の友人前沖縄県学校衛生技師呉泉氏の慫慂に依り六月十四日夜半鹿児島に於いて十島丸という百五十五噸の小型優秀船に同乗していよいよ前年来の懸案たる十島村調査に乗出すことになった。抑も十島村とは薩南に羅列する竹島・黒島・硫黄島・口之島・中之島・臥蛇島・平島・宝島・悪石島(あくせき)・諏訪瀬島の所謂十島を以て一村を形成せるもので、文字通り交通不便なるは勿論、昭和五年四月に初めて小学校令が実施せらたという一事を以て万事は推測すべきである。・・・以下略・・・」
島袋源一郎のこの論文で、私の脳裏にあった疑問のいくつか溶ける。比嘉春潮氏に島袋源一郎が東京にやってきた(三、四回)、鹿児島、中国に行ったとか、聞かされていた。ほんと?の疑問が解消した。
歴史で宝島のこと、トカラ海峡を境に琉球国統治。トカラ列島の島々と琉球との関わりについて念頭にありながら、踏査したことがなく、もうないだろう。島袋源一郎が竹島に足を踏み入れたことが、十島村に足を踏み入れたい気持ちになる。昭和九年の官立大学の研究者の組織の十島調査報告が渋沢男爵(渋沢栄一男爵)援助だったいうことも。
トカラ列島の島々へ訪れることはないが、やはり胸がさわぎますね。このHPが回復できたようだ。十島村は十近い島々で十島村。霧島火山帯の上に小島のようだ。薩摩や江戸上り(立ち)などの船が近海を往来したのであろうと島々と琉球との関わりの痕跡を見つけ出したいものだ。考古では縄文時代の九州本土から、あるいは南の琉球からの土器が入り込んでいるようで、南北からの人の流れがあったようだ。宝島や口之島に近世の異国船遠見番所が置かれていたようだ。すると、与論島の異国船遠見番所の様子がわかりそう。
明治には笹森義助一行が十島を巡回しているようで、それを意識して『南島探検』を読んでみたくなる。「沖縄県及島嶼町村制施行」(明治41年)により、七島と三島で大島郡十島村が発足し役場は中之島に置かれたようだ。昭和九年の薩南視察報告書もあるであろう。横当島には糸満の漁師が漁業操業し、その時に使った貯水槽があるようだ。
ボゼ(神という神人)、テラ(協同墓地)無形文化財)
②十島の大字 宝島 人口一三一人
③口之島 人口一二九人 一九五二年に復帰。一九四六年二月二日に日本と分離。」