近現代の歴史を描くことは非常に難しい印象を持つことが多い。同時に違和感を持つことが度々である。それは現在に近い単なる時間の短さではないような気がする。戦後60年の時間が、近世や古琉球の時代、それ以前のグスクの時代同様重みのある歴史として描くことができないだろうか。そういう思いもあって「戦後60年の軌跡」をテーマに企画展を開催した。戦後60年の軌跡を重みある歴史展示への挑戦でもある。
戦後60年の移り変わりを戦後資料や写真などで描くことにした。平成の時代に生きる私たちが、昭和(戦後)と平成の時代をどう描くことができるか。そして消え去っていくもの、継承し残してゆくべきものは何だろうか。さらに、100年先から昭和(戦後)・平成という時代をどう捉え議論されるか。特に沖縄では、戦後60年に生きた人々は裸足の時代から宇宙の時代を経験した人々である。そのような時代を経験した歴史・文化は過去になかった。戦後60年という時代をどう位置づけできるのか。この企画展で試みるものである。
上運天(今帰仁村)
2009年(平成21)・12月12日 kakokiroku
・上運天の概要
・上運天の神アサギ
・上運天の神殿(敬神の扁額)
・掟(ウッチ)火神の祠
・根神火神の祠
・上運天のウフェー(地番は運天)
・穴泉(アナガガー)
・ウキタのウタキ
▲上運天の神アサギ ▲根ヤー火神の祠
▲上運天の神殿 ▲ウフェーへの階段
上運天の概況(がいきょう)
・ウンシマウガンジュは遺跡になっていたグスク系土器、磨石、叩き石、須恵器、青磁器などが
確認されている。
・上運天はもともと運天と一つの村であった。
・運天の村が二つになったためウインシマ(上の島)とヒチャンシマ(下の島)と呼ばれる。
・ウタキの内部に神アサギ・ウタキのイベ・神殿などがある。
・ウタキの内部に集落があった痕跡が見られる。集落はウタキの周辺から下の方に移動している。
・オモロで「うむてん つけて こみなと つけて」とあるが、「こみなと」は浮田港ではないか?
・1741年(乾隆6)に大島に漂着した唐船を運天津に回したことがある。唐人を運天に囲っている間
大和船は古宇利島に停泊するよう指示がなされる。
・その時、具志堅親方(蔡温)も訪れている。その時の宿は上運天村である。
・大和役人の藤山藤兵衛、与力宮之原四郎右衛門などは上運天村で指揮をとっている。
・上運天には年二回のタキヌウガンがある(4月と8月)。その時のウタキのイベは運天のティラガマ
である。
・4月15日はアブシバレーとタキヌウガンが同時に行われる。
・6月25日にはシチュマとサーザーウェーがある。
・7月の後の亥の日はウフユミ(ワラビミチ)が行われる。勢理客ノロがやってくる。
・ウフェーの森があり、上運天と下運天の人たちが十五夜の行事を行っていた。
・上運天は毎年豊年踊が行われる。その会場は運天地番のウフェーで行う。何故?
・上運天の獅子は神アサギの中に置かれている。
・上運天の古い集落はアナガーバーリーとアサトゥである。
・1917年(大正6)に仲宗根に台南社の製糖工場ができ、浮田港に桟橋をつくり、仲宗根までレール
を敷きトロッコで運搬がなされた。
・戦争中は日本軍の高速輸送及び特殊潜航艇魚雷基地であった。そのため爆撃を受けた。
・1934年(昭和9)に国会議事堂の門柱につかわれたトラバーチン(石材)が積み出された。
・1955年(昭和30)貿易補助港の指定をうける。
・1959年(昭和34)北部製糖工場の建設に伴って岩壁の建設がなされる。
・1987年(昭和62)伊是名島へのフェリーは運天港(浮田港)から発着する。
・1990年(平成2)伊平屋島と運天(浮田)港間のフェリーが運航する。
上運天の位置図
1.北山(山原)の主なグスク
グスクを中心としてまとまっていく過程、まだ「まきり」(間切)と呼ばれる行政区分がなされていなかった時代なので、後に国頭・羽地・今帰仁・名護・金武の五つのグループへとまとまっていく。あるいはまとめられていく過程が見えてくる。そのために、五つのまとまりを「・・・地方」と呼ぶことにする。(大宜味・本部・久志・恩納の間切は近世になって分割した間切である。)
【伊平屋・伊是名島】
・田名グスク(伊平屋島) ・ヤヘーグスク(伊平屋島)
・伊是名グスク(伊是名島) ・アマグスク(伊是名島)
【伊江島】
・伊江グスク(伊江島)
【国頭地方】
・アマングスク(国頭地方) ・奥間グスク(国頭地方)
・根謝銘(ウイ)グスク(国頭地方) ・喜如嘉グスク(国頭地方)
【羽地地方】
・津波グスク(羽地地方) ・石グスク(羽地地方) ・源河グスク(羽地地方)
・屋我グスク(羽地地方) ・アマグスク(羽地地方) ・ウチグスク(羽地地方)
・真喜屋グスク(羽地地方)・羽地(親川)グスク(羽地地方)
【今帰仁地方】
・ウチグスク(今帰仁地方) ・シイナグスク(今帰仁地方) ・ハナグスク(今帰仁地方)
・古宇利グスク(今帰仁地方) ・ナカグスク(今帰仁地方) ・今帰仁グスク(今帰仁地方)
・備瀬グスク(今帰仁地方) ・具志川杜グスク(今帰仁地方) ・ジングスク(今帰仁地方)
・瀬底グスク(今帰仁地方)
【名護地方】
・名護グスク(名護地方) ・嘉陽グスク(名護地方)
【金武地方】
・金武グスク(金武地方)・宜野座大川グスク(金武地方)
・恩納グスク(金武地方)・アンナーグスク(金武地方)
3.山原の5つのグスク
①根謝銘(ウイ)グスク
大宜味村謝名城にあり、かつては城・根謝銘・一名代は国頭間切の村であった。1673年に国頭間切を分割して大宜味間切を創設。そのとき、根謝銘グスクは大宜味間切域となる。屋嘉比川が流れ屋嘉比港があった。
②羽地(親川)グスク
羽地(親川)グスクは田井等村に位置している。1750年頃田井等村を分割して親川村を創設する。羽地グスクがあった場所が親川村知内に位置していることから親川グスクと呼ばれる。
③今帰仁グスク
今帰仁間切は本部半島の全域をしめていた。1666年に今帰仁間切を分割して伊野波(本部)間切となる。沖縄本島が三山に鼎立していた時代、北山の拠点になったグスクである。
④名護グスク
名護グスクの領域は名護湾域から東海岸まで広がる。1673年に名護間切と金武間切の一部を分割して久志間切が創設される。
⑤金武グスク
1673年の金武グスクは金武町・宜野座村・名護市・恩納村の谷茶以北の村を占めていた。1713年頃には金武グスクはほとんど機能していなかったようである。
①根謝銘(ウイ)グスク ②羽地(親川)グスク
③今帰仁グスク
⑤金武グスク
④名護グスク
【運天番所(役場)跡地の顛末】
番所(役場)跡地(村有地)は大正5年に役場が運天から仲宗根に移った直後、まず二番地が払い下げされたようである。そして「陳情書」の一番地は昭和48年3月の陳情直後に払い下げされている。一番地に枝番(1~5)があり、分割され払い下げされている。
一番地と二番地の境にガジマルがあり、海岸沿いにはクムイ、ナガ、チンパーなどの名のついたコバテイシがあったという。現在あるコバテシはチンパの名で呼ばれていたコバテイシだという。現在残っている福木近くには石積みがあったが、護岸工事に使われたという。
陳情書
村有地の宅地字運天一番地に現在住居中の宅地に建造についてお願いします。
待望の復帰も実現し皆さまには村政発展のため日夜御奮闘なされることに対し深く感謝申し上げる次第であります。私共は終戦から今日に至るまで字運天一番地六七坪の村有地を分割貸地し宅地として住居を構え生活を営んで参りましたが、その土地も去る一月一日に賃貸契約を更新して居ります。
その機会に家屋も終戦当時の家屋でありますので、又観光地、海洋博と観光客も年々増える今日であり、このみすぼらしい家屋を建造いたしたいと思いますので、村の計画されて居ります道路拡張に支障のない様に、私達の意を了解され建造許可をされます様連署を以って陳情いたします。
昭和四十八年三月十九日
陳情者 今帰仁村字運天一番地
上間貞頼
字運天十七番地
上間貞栄
字運天五八番地
松田□□□
今帰仁村長
松田幸福殿
▲昭和48年以降払い下げされた一番地-1 ▲払い下げされた一番地―2
▲役場移転、直後に払い下げか(二番地) ▲チンパー(コバテイシ)
2010(平成22)年9月10日memo
これまで収蔵庫に寝かしてあった松の輪切りを展示(ヌンドゥルチモーにあった松の一部)。樹齢は約200年である。樹齢に出来事を重ねてみるか。今帰仁間切が今帰仁村になった頃。廃藩置県の頃。ペリー一行の一部が今帰仁に来た頃などなど。
新城徳佑氏(故人)は今帰仁村内の松について貴重な資料を遺してある。氏の調査記録ノートは『なきじん研究』10号に収録。展示した写真パネルの二点は新城氏撮影である。松に関する記録を拾ってみた。
【今帰仁街道松喰虫の処理状況】(1956年)
仲原馬場より平敷に向って5本目から4本伐倒、皮を剥いでかき集め焼却してあり、根元も各々焼かれている。
松喰虫はサソリの様に節のついた太く長い鋏を持った蚤□の虫で皮と幹の間に棲んで居り、表皮を喰う。「其の予防の方法が現在なく、被害松は伐倒して焼却する方法以外にはない」lと経済局で語っている。
今泊の停留所の側の俗にプイの毛と言う所に被害松が3本あって、これも平敷の松と同じ様に処理されていた。尚大きな老木は中が白蟻に食いつぶされて空洞となり、2、3日前に亀裂を生じ通行人等に対して危険であるため、警察の申し出もあって伐倒した。
今帰仁街道松並木410本の中、今回伐倒したのが8本で差し引き402本しか残っていない。斯様にして折角祖先が育て上げ風致上、又旅する人々に憩いの場を与え、懐しがられているが松喰虫の為に伐倒せざるを得ないことは返すも残念である。
【今帰仁街道松並木】(1956年12月5日)
・謝名部落中通り東 22本 ・謝名部落中通り西 41本 ・今帰仁校下 26本 ・仲原馬場 54本
・平敷の東 43本 ・ヂニンサ 5本 ・仲尾次(両側) 19本 ・与那嶺 61本 ・諸志 4本
・兼次校前 36本
・シュク原 19本 ・今泊ノロ殿内毛 4本 ・今泊西 46本
【松喰虫被害松】(1957年10月4日)
・北部営林所にて、今帰仁街道指定松
・馬場から西方 2本 ・今泊シュク原 3本 ・風倒木 計18本
・謝名(馬場) 5本 ・越地 4本 ・仲尾次 1本 ・与那嶺 3本 ・兼次 3本 ・今泊 2本
※大正中頃、馬場の周囲だけに96本あった。
▲宿道街道沿い(兼次校前)(1956年) ▲1959年仲原馬場調査メモ
Sinzato si
第21期1回 「山原のムラ・シマ講座」kaomemo
―名護市汀間―(平成25年5月18日終了)
今年度の「山原のムラ・シマ講座」のスタートは「今帰仁村湧川」の予定でしたが、その時間帯は満潮時にあたっているため、塩田跡とヤガンナ島まで渡れませんので、7月20日(3回目)に行います。それで第1回目は、名護市汀間となります。
汀間は現在は名護市ですが、かつては久志間切(久志村)の一字(アザ)でした。沖縄本島の東海岸に位置し、集落移動、村の合併、神アサギの移動、汀間のろをだすムラ、整然と区画された集落など、興味深いムラです。急きょの変更なので汀間についてはのコースは下見をしてから案内致します。名護市汀間を参照下さい。
9:00 今帰仁村歴史文化センター集合
①参加者の確認、講座開催の説明。汀間の概要説明
②9:30 名護市汀間へ出発(羽地大川経由)
③10:20 汀間公民館前到着
④ウタキグヮー/サンカジョウ(ヌール火神・世ヌ火神・根神火神)/神アサギ
⑤ウマバ(馬場)~イリギッチャ(一帯に旧家あり/石敢当)/スクミチ
⑥按司墓/模合墓(仲田・上原・アブ)/ワラビ墓/ダビシモー/ガンヤー
⑦汀間港/ウプウタキ/ウェンチュビラシ
⑧若按司墓・親按司墓・イジミガー
⑨旧神アサギ/ノロドゥンチ跡/カニマンガー/松浜屋/ヌルガー/チンガー(嘉手刈側)
13:00 終了(歴史文化センターで報告:解散)
▲サンカジョウの祠(ウタキグヮー) ▲合祠された祠の内部
▲汀間の神アサギ ▲汀間のウプウタキ
【汀間の三つの模合墓】
▲仲田門中の模合墓 ▲上原門中の模合墓 ▲アブ門中の模合墓
▲按司墓 ▲若按司の墓 ▲親按司の墓
2011年7月30日(土)memo
1673年の恩納・大宜味・久志間切の創設を「方切」の視点で整理してみる。すると1673年の「方切」が間切や村にとって不都合が生じ、後に「方切」が行われている。まずは史料の整理から。
1673年の「方切」(間切の創設)は、恩納間切は向弘毅(大里王子)・毛国瑞(佐渡山親方安治)、田港間切(後に大宜味)は向象賢(羽地王子朝秀)・向日躋(屋嘉比親雲上朝茲)、小禄間切は向煕(金武王子朝興)・毛文祥(小禄親方盛聖)、久志間切は尚径(豊見城王子朝良)・顧思敬(久志親方助豊)に、それぞれ領地を賜うことであった。「郡(間切)や邑(村)の田地が広い、人口が多い」ことを理由としているが、間切によっては当初の「方切」に不都合が生じ、康煕乙亥(1695年)に2回目の「方切」を行ったが、「不便」だということで1719年に元に戻している。
1719年に村をもとの間切に戻している理由(不都合)は、間切番所とそれらの村の地理的不便さ(特に平良と川田)、それとノロ管轄(古知屋村は金武間切の宜野座ノロ)、祭祀場の分断(屋嘉比・里見・親田の祭祀場は根謝銘(ウイ)グスク)がある。「方切」の対象となった「川田村」と「平良村」は名護間切の村であったこともある。「方切」で1673年に名護間切から久志間切へ、1695年に大宜味間切へ、1719年に久志間切へ戻る。屋嘉比村・(里里村・親田村)も国頭間切から1673年に大宜味間切へ、1695年に国頭間切へ、1695年に再び大宜味間切へ戻る。それらの村は「方切」で振りまわされた村だったかもしれない。「方切」や村移動などあったが、ノロ管轄の変更はなかった。
1695年の「方切」と1719年の「方切」
・古知屋村は金武間切の村であったが、1695年の「方切」で古知屋村を久志間切へ、ところが1719年に金武間切に戻した。
・川田村と平良村は久志間切に属していたが、1695年の「方切」で大宜味間切へ、ところが1719年に久志間切へ戻した。
・屋嘉比村と親田村と見里村は1695年の「方切」で国頭間切としたが、1719年に再び大宜味間切に戻した。
【国頭間切と大宜味間切などの方切】
【1回目の方切】(1673年)
・1673年「始めて恩納・大宜味・小禄・久志等の四郡を置く」(1673年条)
本国の郡邑、田地甚だ広く、人民も亦多き者は、分ちて二郡と為す。…国頭郡内十一邑、羽地間切二邑、合して田港郡
と為し(後、名を大宜味に改む)、始めて向象賢(羽地王子朝秀)・向日躋(屋嘉比親雲上朝茲)に賜う。後新に四邑を設
け共計十六邑なり(二邑は合して一邑と為す。此くの如し)。
【2回目の方切】(1695年)
・1695年に「方切」あり、久志間切の平良邑と川田村が大宜味間切へ。
・1695年に屋嘉比村・親田村・見里村が国頭間切に移される。
※1697年南風原、佐敷、知念、麻文仁四間切方切の訟に就き検見の時筆者となる。其の時の検見は御者奉行吟味職
毛氏中座親雲上盛冨と高奉行向氏渡嘉敷親雲上朝上なり)(家譜)
・1713年の『琉球国由来記』
・古知屋村は久志間切(1719年に金武間切へ戻す)
・平良村と川田村は大宜味間切(1719年に久志間切へ戻す)
・親田村と屋嘉比村と見里村は国頭間切(1719年に大宜味間切へ戻す)
【3回目の方切】(1719年)(球陽1719年の条)
・1719年古知屋村・川田村・平良村・屋嘉比村・親田村・見里村、各々原籍の間切に復す。
原籍、古知屋は金武間切に属し、川田・平良は久志間切に属し、屋嘉比・親田・見里は大宜味に属す。康煕乙亥の年
(1695)、改めて古知屋を将て久志間切に属せしめ、屋嘉比・川田・見里は国頭間切に属せしむ。これより各村多く便利
ならず。各村呈して旧に復するを准す。
・1732年国頭郡駅を奥間邑に移置す。
国頭郡駅は、原、浜邑設け、一偏に僻置して、号令伝へ難し。人民の往還、均一なること有らず。
是れに由りて、奥間邑に移建す。
2011年7月29日(金)memo
「方切」というのは、間切境界の変更のことである。「方切とは間切と同じく村の境界を定めたるものにして人口少なくして土地広き村はその耕地の一部を他間切又は他村に配置したり」とある。ここでは間切の境界の変更(方切)について史料であるが、「方切」を視点すると、また興味深い首里王府の動きが見えてくる。
【今帰仁間切と本部間切と羽地間切の方切】
今帰仁間切と伊野波(本部)間切との方切は1666年である。今帰仁間切の第一回目は1666年である。その時の「方切」はこれまでの今帰仁間切を今帰仁間切と伊野は(本部)間切の二つに分割してものである。二回目は1692年頃の今帰仁間切と羽地間切との境界の変更である。三回目は1736年の羽地間切と今帰仁間切との境界線の変更である。
【1回目の方切】(1666年)(今帰仁間切と伊野波(本部)間切との方切)
これまで本部地域まで含んでいた今帰仁間切を分割して、今帰仁間切と伊野波(本部)間切
とに分割した。(絵図郷村帳や琉球国高究帳)。その時の方切(間切分割)について、『球陽』
で、以下のように記している。
「始めて本部・美里等二郡(間切)を置く」(1666年条)
今帰仁郡邑(間切・村)は、素三十余邑有り。田地甚だ広く、人民已に多し。今、其の十一邑を分ちて、伊野波郡と為し、
始めて向弘信(本部王子朝平)・毛泰永(伊野波親方盛紀)に賜う。後亦、七邑を新設し本部間切と改名す。
・「方切」(あるいは間切の分割と創設)の理由は、邑数が多く、田地が広く人民が多いということ。
それと新設した間切を本部王子と伊野波親方へ賜うことであった。
・天底村は本部間切地内にあり(絵図)(1719年今帰仁間切へ移動)
・1670年「こかおきて」(呉我掟)(池城墓碑).(呉我村は今帰仁間切の村の掟)
・1671年今帰仁間切松田の名(家譜)
・1672年今帰仁間切松田の名(家譜)
・1672年羽地?間切我部の名(家譜)(今帰仁間切?)
・1690年(康煕9)今帰仁間切松田の名(家譜)
※1697年南風原、佐敷、知念、麻文仁四間切方切の訟に就き検見の時筆者となる。其の時の検見は御者奉行吟味職
毛氏中座親雲上盛冨と高奉行向氏渡嘉敷親雲上朝上なり)(家譜)
【2回目の方切】(1690年頃)(今帰仁間切と羽地間切の間の方切)
2回目の方切を1690年頃としたのは、その時の「方切」を示した直接史料を確認できていないので、他の史料を並べてみた。すると1690年「今帰仁間切松田」と1691年「羽地郡松田村」を『家譜』に見ることができる。そのために2回目の「方切」は1690年頃とした。
・1691年羽地間切我部地頭職を拝授す(家譜)。
・1691年羽地郡(間切)松田村、本郡我部村に属す(球陽)。(方切済)
・1713年羽地間切呉我村・振慶名村・我部村・松田村を今帰仁間切から羽地間切へ
(間切境界線の変更あり)
・1719年本部間切にあった天底村が今帰仁間切内へ移動(村の疲弊)。
【3回目の方切】(1736年)(今帰仁間切と羽地間切との方切)
・1735年に羽地大川の改修工事が行われた。呉我村と振慶名村は改修工事が終った羽地大川
流域への村移動である。その時の「方切」は羽地大川の改修、村移動、間切境界線の変更、
村が移動した土地に湧川村の新設(1738年)がある。そこで村移動がなされてもノロ管轄は
変動することはなかった。
・1736年呉我村・振慶名村・我部村・松田村・桃原村は羽地間切から羽地間切内へ移動。その
土地は今帰仁間切へ組み入れる(間切境界線の変更あり)
・1736年村が移動した後に今帰仁間切湧川村を創設する(1738年)。
3回目の「方切」は『球陽』で、以下のように記してある。そこでの「方切」の理由は、山林が狭いことや村が密集していることをあげている。山原での元文検地は、その後に実施されている。三回目の「方切」は蔡温の山林政策、大浦(羽地)大川の改修工事、村移動、村の新設、元文検地と連動した流れである。その過程で変わらないのが祭祀のノロ管轄村である。歴史を辿るとき、変化していく、その理由を見て行くことも重要であるが、祭祀のように頑固に継承されているのも歴史を見る視点に入れるべきであろう。
「蔡法司、諸郡の山林を巡視して、村を各処に移す」(1736年条)
「…羽地山林内呉我・桃原・我部・松田・振慶名等の村は、…一処に集在して、農地最も狭く、動もすれば山林を焼き
以て農地に供す。今帰仁山林甚だ狭し。乃ち呉我村等五邑を以て、山林外に移徙して、其の山林の地は今帰仁県(間
切)に属せしめ、其の邑(村)は、仍、羽地県(間切)に属せしむ。…」
湧川邑(村)の創設(1738年条)
「今帰仁郡に湧川邑を創建す」
今帰仁郡は民居繁衍し、山林甚だ狭く、木材用に足らず。乾隆元年(1736)、検者・酋長を奏請し、羽地山林を分別して
今帰仁郡に属せしむ。依りて湧川邑を建てて山林を看守せしむ。
(3回の「方切」の図が入れ)
2011年7月24日(日)memo
「今帰仁村今泊で発見 阿応理屋恵按司の曲玉」の記事(琉球新報 1954年12月28日)を確認する。短い記事なので全文掲げることにする。その勾玉と水晶玉は今帰仁村歴史文化センター所蔵で展示してある。
来島中の大阪学芸大鳥越教授は玉木芳雄、与那国善三、多和田真淳の三氏らと二十四、五日今帰仁村の天然記念物や史蹟を綿密に調査したが、同村今泊で山北国時代の最高女神官である阿応理屋恵(オーレー)按司の曲玉が発見され、戦後紛失したものと信じられていただけに、関係者を喜ばせている。この曲玉は水晶二個、曲玉二十個からなっており、中に見事なヒスイが二個あり、鳥越教授は「この勾玉は琉球のおもろに次ぐ特別重要な文化財で国宝級最古最高級の曲玉である。これが紛失しないで保存されていたのは非常にうれしいことである」とその喜びを語った。
大嶺薫コレクション(沖縄県立博物館・美術舘)に「今帰仁おうりゑ御殿の勾玉」(7枚)と「今帰仁祝殿内の勾玉」の実測図がある。他に「識名殿内伝来」や「首里博物館所蔵勾玉」や「久米島君南風」などの図がある。手元のコピーでは作図された方はどなたか、調査年がはっきりしない。「竹富西部落」で発掘された貨幣が「1959年10月頃」とあるので、それ以降のものか。また「今帰仁祝殿内の勾玉」に「国頭郡今帰仁字親泊313、仲尾次清一所蔵」とあり、仲尾次清一氏は伺ったら昭和45年(1970)に他界されておられるので、それ以前の調査と見られる。
10月から企画展「沖縄のノロ制の終焉」(仮称)の開催する。そのような記事や図をみると、戦後の新聞記事や図や写真など丁寧に拾っていく必要がありそう。どなたの調査(作図)だろうか。昭和29年から文化財指定に向けての調査が行われているので一連のものかもしれない。上の新聞記事(1954.12.24、25)の時の調査ではなさそう。
▲今帰仁あおりやゑ御殿の勾玉の図(7枚の内2枚)
▲今帰仁祝殿内の勾玉
コラム 古宇利島の遠見所の整備
古宇利島の標高107mのところにある「遠見番所」周辺が今年度整備される。整備のため周辺見通しがきくようになっているというので、古宇利区長の案内で訪ねてみた。現在のうるま市(与那城上原)にある「川田崎針崎丑寅間」(下の画像:沖縄県歴史の道調査報告書Ⅴ)と彫られた石碑が報告されている。古宇利島の遠見所付近で、同様な石碑が見つかるのではないかと期待しているのだが(石に文字が彫られた石があったとか)。
『沖縄旧慣地方制度』(明治26年)の今帰仁間切に地頭代以下の間切役人が記されている。その中に6名の「遠見番」がいる。任期は無期、俸給は米三斗、金五円七十六銭とある。一人当たり米0.5斗、金九十六銭づつである。今帰仁間切に6名の遠見番を配置している。
北大嶺原(本部町具志堅)のピータティファーイは本部間切の管轄。本部間切の遠見番は12名である。具志堅の他に瀬底島にも遠見番があるので12名は二ヶ所の人員である。
宮城真治は古宇利島の「火立て屋」について「古宇利の人より番人は六人、功によって筑登之より親雲上の位まで授けられる。終身職で頭(地割?)を免ぜられる」と記してある。
『元禄国絵図』(1702年?)の古宇利島に「異国船遠見番所」と記載されている。遠見番所の設置は1644年に遡る。烽火をあげて首里王府への通報網である。沖縄本島では御冠船や帰唐船の場合、一隻時は一炬、二隻時は二炬、その他の異国船の場合は三炬が焚かれたという。先島は沖縄本島とは異なるようだ。
▲古宇利島の「遠見番所」跡 ▲「遠見番所」跡の遠景
▲島から北大嶺原の遠見番所跡をみる ▲古宇利島の「遠見番所」跡
▲米軍が設置した指標の一部か? ▲現うるま市(与那城上原)の遠見番所の碑?
具志堅のピーてぃファイ 2002.6.21(金)
本部間切具志堅村の大嶺原のピータティファーイまで登ってみた。というのは、19日古宇利島から大嶺原を眺めたので、大嶺原から古宇利島がどう見えるのかの確認である。大嶺原からつなぐ伊江島の方向も眺めてみた。大嶺原のピータティファーイから正面に伊是名・伊平屋島、右手に古宇利島、左手に伊江島が見える。雲の多い天気だったが、伊江島と古宇利島が見える。
『伊江村史』に遠見番について詳細な記述がなされている。古宇利島のトーミヤーの様子を見るための手掛かりとなる記述がある。
・唐船、薩州船や難破船の見張りをする。
・上佐辺のツリワイ毛に遠見番所があった。
・六人が常時詰めた。三交代で二人が立番をする。
・唐船の通航時期になると臨時の在番役人が来島した
・民家から離れた場所にある。
・一隻の時は一炬、二隻の時は二炬、異国船の時は三炬
・火立所は離れて参ヶ所にある。
・中央が一番火立所、西が二番火立所、東が三番火立所
・五月になると島民の漁火が禁止された(唐船通過後に解禁)。
・屋号にトーミがあり、遠見番を勤めたことに由来。
2005.10.03(月)memo
「フランスにおける琉球関係資料の発掘とその基礎的研究」科学研究補助金基盤研究報告書
平成12年3月)より
【フランス艦船が見た運天港】(1846年)
30年後の1846年に運天港に三隻のフランス艦船がやってくる。その時の運天港や付近の様子を描いた絵が残されている。それから運天の集落、海上に山原船、さらに木を刳り貫いた舟を三隻平行に連結したテーサン舟?に琉球国側の役人が乗った様子が描かれている。よく見るとコバテイシの大木や番所、茅葺きの家、抜け出る道なども描かれ、当時の運天津(港)の様子がわかる。山原船が往来していた長閑な風景である。フランス艦船の三ヶ月の碇泊で首里王府は右往左往したのであろうが。その間、二人のフランス人船員が亡くなっている。二人を葬った墓がある。フランス人墓ではなくオランダ墓と呼ばれる。
▲1846年の運天港の様子
①Ounting(Port Melvillet 1846, Lieou―tcheou
(運天(マルヴィル港),1846 年7月、琉球
▲テーサン舟?に乗った役人と後方に山原船が碇泊中
②Bateayx-Lieou-tcheou 琉球の船
③udja, minisuture du roi Lieod―tcgeu―
古謝、琉球国王の大臣[古謝は偽名で、実名は国頭按司(唐名は馬克仁>
総理官、あるいは総理大臣と称した]
▲運天の対岸にあるオランダ墓
運天の魚雷艇
2014年10月16日(木)
「今帰仁と戦争」(平成23年)をテーマに企画展を開催したことがある。【運天港と海軍】(企画展―今帰仁と戦争―)、上地さんが第二十七魚雷艇隊について、昭和19年7月から昭和20年1月までの『戦時日誌』
から、「海軍の動き」を、基地建設、魚雷艇の整備、訓練、出撃、そして住民からの聞き取り。そこから当時の様子を具体的に記述してある。
『戦時日誌』にある図面がある。ちょうど地図付近を、羽地内海に台風避難していた船が曳航され運天港、古宇利島の水路を通り外洋へ向かっている場面に遭遇した。その風景を見ると、これまで聞き取りで昭和19年10月10日の空爆について、「米軍の飛行機が多野岳の方から飛んできてやられた」、また古宇利島では学校で運天港の方に向いてバンザイ、バンザイをした」との話は、現場を踏むと説得力がある。10月10日の午前8時前後、12時前後に空爆があった。
図には空爆以前、何度の空爆での被害などがあり、陸軍輸送船、北進丸、瑞博丸、住幸丸、潜航艇(20隻余)などが記されている。上運天に陣地壕?(棚が設けられた跡があり爆薬庫か)や防空壕は多数ありとある。(昭和19年の10月10日から70年目)弾薬庫?の側にもう一つ壕がある(入口部分崩落)。ウキタのウタキの下の魚雷艇の格納庫の入口も半分以上埋まっている。
▲ワルミ海峡を曳航さていく運搬船 ▲左側の海岸に潜航艇が20基近く秘匿される
▲『戦時日誌』所収の空撃による被害状況図(昭和19年10月10日)