沖縄の地域調査研究
                          
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2020年1月
2020年1月31日(金)

 
久しぶりに今帰仁グスク内へ。グスク周辺の桜は見頃。昨日は最後の監守を勤めた七世従憲について触れたが、今回は首里に住む十世宣謨(今帰仁王子)について。北山の歴史を紐解くいくつかの史料を遺してくれている。

①『具志川家家譜』(今帰仁按司(王子)一世~十二世)
②今帰仁城旧城図(1742年)
③山北今帰仁監守来歴碑記
④大北墓(移葬)

北山監守と今帰仁阿応理屋恵(参照)

  
   ▲グスク内の火神と石灯籠(現在)         ▲石灯籠に「今帰仁王子」とある。

  
▲今帰仁旧城図(1742年)『家譜』より ▲山北今帰仁城監守来歴記(1749年)   ▲大北墓の移葬(1761年)

 ※大北墓内部については『沖縄県国頭郡志』(明治45年調査)にざっぱに描かれている。
  石棺・陶棺10基、甕は四基、葬られているのは30名余。尚眞王の四番目の越来王子一族の墓の
  調査に関わったことがあり嘉味田家(越来王子)の墓と類似する。
 
 嘉味田家の墓調査(参照)

 
   ▲現在地に移動前の火神の祠や石灯籠

2020年1月30日(木)

 向姓七世従憲を取り上げたのは、1665年に北山監守一族が今帰仁グスク(今帰仁村ウドゥン)から首里赤平村へ引揚げた年である。翌1666年にこれまでの今帰仁間切は今帰仁間切と伊野波(翌年本部)間切が分割される。七世従憲の動きは今帰仁間切が分割以前の今帰仁間切番所が置かれていた場所、まだ按司掟の制度が機能していた(羽地間切の按司掟の廃止は1611年)頃、間切番所の設置は間切分割の時だとみられる。七姓従憲は順治十一年(1654)甲午二月一日為伊野波在番を勤め、康煕五年(1666)丙午に運天在番となっている。 今帰仁間切の按司掟の廃止と地頭代を頂点とする間切組織への転換ではないか(その時期は間切によって異なる)。例えば、国頭間切は1673年に大宜味間切を分割しているので、按司掟制は1673年に廃止か。大宜味間切分割以前の国頭間切の番所は城村のウドゥンニーズ(御殿内所)とトゥンチニーズ(殿内所)(根謝銘グスク:ウイグスク、国頭城)が按司掟の役割を果たしていたのではないか。
 七世の従憲の位牌は今帰仁村今泊のウドゥン敷地の祠にある(現在:歴史文化センター保存)。今帰仁阿応屋恵参照のこと。

向姓七世 向従憲(今帰仁按司)(1627~1687年)(『具志川家家譜』那覇市史発刊参照) 

 今帰仁按司童名思五良名乗朝幸号北源行一天啓七年丁卯四月八日生康煕26年
 丁卯三月十三日卒享年61

 父縄祖
 母向氏
  室孟氏思武太金
  長男洪徳 次男洪秀 三男洪奏

  長女思玉金順治八年辛卯七月三日生康煕四十六年丁亥十二月三十日子時卒
  次女真牛金康煕四年乙巳九月二十日生康煕五十二年葵巳十一月二十五日卒
  三女真加戸樽康煕八年酉十月二十七日生
  四女真呉勢康煕十年辛亥五発朔日生 

 官 爵
  崇禎十六年葵未十一月結欹髻 

 勛 庸
  順治十一年(1654)甲午二月一日為伊野波在番
  康煕四年乙巳十一月十二日
  康煕四年(1665)乙巳十一月三日俱奏文乞 命復中山初宅首里赤平村
  康煕五年(1666)丙十一月十二日分今帰仁間切為両間切名其一曰本部間切
  康煕五年(1666)丙午轉為運天在番
  康煕十四年乙卯八月十八日致仕矣
 

 采 地
  順治二年乙酉正月二十一日賜今帰仁間切与那嶺之名
  順治十一年(1654)甲午二月一日續父縄祖任今帰仁間切総地頭職  

俸 禄
  順治十一年甲午二月一日為迫襲事賜知行高五十六斛後諸知行滅少之時為高四十哭斛


2020年1月29日(水)

 1416年に北山は滅ぼされる。
勘手納港は北山を攻め入るのに浦添按司・越来按司・読谷山按司、そして山原の名護按司・羽地按司・国頭按司の按司集が集結した港だとされる。そこに今帰仁按司を除いた山原の按司が集結し北山を滅ぼした理由が見えてくる。今帰仁按司(北山)の滅亡で、1422年に尚忠を監守として配置し、尚忠が中山王となる具志頭王子が監守を引き継ぐ歴史が展開される。今帰仁按司を除いた山原の按司が尚巴志軍に組した理由が見えてくる。その後の勘手納港の様子も見てみる。


北山攻略と勘手納港(過去記録)

勘手納港の後方に羽地地方(後の羽地間切、現在名護市)の拠点となった親川(羽地)グスクがある。親川グスクが機能していた時代、この港が使われていたに違いない。1416年(あるいは1422年)、中山の尚巴志の連合軍が北山を攻め滅ぼした大きな出来事があった。

  『球陽』(尚思紹王11年:1416)に「王尚巴志を遣はし、山北王攀安知を滅ぼさせしむ」とある。その時の様子を「・・・王(尚巴志)、世子巴志に命じ、急ぎ軍馬を整へ、往きて山北を征せしむ。巴志旨を奉じ、便ち浦添按司・越来按司・読谷山按司・名護按司・羽地按司・国頭按司の六路の軍馬を将て、隊を分かちて先に往かしめ、随ひて後、官軍大いに発す。寒汀那港に前み至り、兵を擁して江を渡る。・・・」と記してある。中山の按司、それと北山の名護・羽地・国頭の按司も加わって北山の攀安知王を中心とした軍隊を攻め滅ぼした。勘手納港は北山を攻め入るのに集まった港であった。

勘手納港と仕上世米


 勘手納港は羽地間切(旧羽地村)の仲尾村の前方の海岸一帯を指している。羽地間切番所は親川村にあったが、上納米などの搬出場所は仲尾村の勘手納港であった。仲尾村には定物蔵がいくつも設置され、羽地間切の上納米が蓄えられ、そこから薩摩へ運ばれた。また、勘手納港は運天港・湖辺底・那覇と並んで四津口と呼ばれていた。港名はカンティナやカンティナナートゥと言うが、上納米の勘定をしたことから、そう呼ばれている(『羽地村誌』)という。


勘手納港の風景

  今帰仁間切の運天番所へいく時、勘手納港からサバニに乗り、湖のような羽地内海を渡る場合がある。明治14年羽地間切番所を訪れた上杉県令は「勘手納港ニ出ツ、官庫瓦ヲ以テ葺ケリ、役所詰員、及ヒ村吏ノ奉送スル者、皆別ヲ告ス、舟子舟ヲ艤シテ待ツ」(『上杉県令巡回日誌』)と勘手納港から屋我地島に向かう様子や勘手納の倉庫が瓦葺きであったこと記録に留めている。また1719年に蔡温は勘手納港を訪れ漢詩を謡っている。 

   勘手納暁発    勘手納を暁に発す
    桂帆此地離    桂帆して此の地を離る
   烟水暁天馳    烟水暁天に馳す
   興深回首望    興深まりて首を回らせて望めば
  江山盡是詩    江山尽く是れ詩なり


 『親見世日記』(1785年)に「勘手納津口で米を積んで出航した記事があり、また『志那冊封使来琉諸記』(1866年)に冊封使が琉球にきている間は、島尻や中頭方の米の積み出しは浦添の牧湊へ陸路で運び、馬濫船で運天・勘手納へ運び、そこで御国船(大和船)に積み込んでだ。勘手納港は大和への仕上世米の積み出す重要な港であった。


バジル・ホールが見た仲尾集落(1816年)

 1816年琉球を訪れたバジル・ホールは「湾の先端にあるこの村は、浜辺との間の一列の樹木によって北風から守られ、背後はだきかかえるような丘陵によって保護されている。浜辺との間に広い道が走り、家々の周囲に植えられた樹木は鬱蒼と茂って、建物をおおい隠さんばかりである。・・・・高床式の穀物倉の一群が建っている。壁は網代の編んだ藤でつくられ、ねずみ返しが設けられていた」(『朝鮮・琉球航海記』)と記している。

 そこに登場する広い道は馬場、高床式の穀物倉は公庫と記される蔵物蔵と見られる。

貢物を搭載して那覇へ

 勘手納港は羽地間切仲尾、仲尾次の両村に亘るの湾口を称するものにして旧藩の頃にありては本港に於て国頭大宜味羽地の貢物を収納したりしと云う。本港は特に港名もありて或いは船舶の出入も頻繁なるが如しと雖ども現今只其名の存するのみ。僅かに貢租を搭載して那覇に航行するに過ぎず。然るに呉我、源河、稲嶺、真喜屋等は目下常に船舶の出入絶えざるものの如く随て焼酎の輸入も少からず。・・・・(「諸港津巡視」)(明治27年) 


勘手納港での荷物の積み下ろし

 仲尾トンネルを通るたびに、運天のトンネルを思い浮かべる。仲尾トンネルは大正8年に開通、運天は大正13年である。回りが丘陵になっていて、丘陵地に囲まれた地形は、海上交通を主とした時代、臓物倉として最適な場所であったのであろう。仲尾の人たちの耕作地はトンネルを越えた仲真原から門天原あたりにある。

 かつての港は桟橋がなく、船を接岸できる港ではなかった。勘手納港は、それを証明するかのようだ。山原船を海岸近くに碇泊させ、船から荷を小舟の伝馬船に積みかえて陸揚げした。明治の勘定納港で陸揚げされた品物は焼酎・瓦・石油・大豆・茶・素麺などである。また、米・薪木・松丸木・炭・藍などが船に積まれ輸出された。


2020年1月28日(火)

 急遽「北山と沖永良部島」「北山と与論島」の歴史について求められる。北山と関わる部分を紹介。沖永良島に「城:しろ」のつくムラ・シマが六ある(新城は新しいアザ)。城のつくムラ・シマは標高50~100mの高い所にあり、城のつく集落は高地性集落ではないか。


沖縄本島北部のシニグと沖永良部島のシニュグ



2016年5月16日(月)メモ

 宮城真治著『古代の沖縄』に「琉球藩各間切夫地頭以下役俸人別取調張」(明治12年8月調査)に今帰仁間切の例をあげている。のろをはじめ間切役人の「役俸」を掲げている。「役俸(給料)」は米と雑石である。「のろ」は王府の役職で、相当に優遇されていたとある。「のろ」や間切役人の役俸にばらつきあり、それは管轄する村の人口、あるいは土地の面積に広さによるものなのか。その実態が知りたい。明治13年の村の戸数と人口から多少の比較から見えてくるかもしれない。古宇利のろと古宇利掟が役俸に米がないのは理解できる(田がない)。(まだ戸数や人口の数字がそろわず、結論はおあづけ)

【今帰仁間切ののろ】
・今帰仁のろ          米三石〇斗〇升八合九勺八毛     雑石三石四斗一合四勺五毛五厘
・中城のろ           米一石八斗六升二合二勺二毛〇厘
・玉城のろ           米〇石四斗六j升二合二勺〇毛〇厘  
・岸本のろ           米〇石三斗三升三合八勺七毛二厘
・勢理客のろ           米一石三斗五升〇合七勺三毛〇厘
・古宇利のろ          米なし                 雑石八石二六一五二
    今帰仁のろの管轄村(今帰仁・親泊・志慶真)
    中城もろの管轄村  (仲尾次・崎山・与那嶺・諸喜田・兼次)
    玉城のろ管轄村   (玉城・謝名・平敷・仲宗根)
    岸本のろ管轄村   (岸本・寒水)
     勢理客のろ管轄村 (勢理客j・上運天・運天)
    古宇利のろ管轄村 (古宇利村)(水田なし)
    (天底のろ管轄村は天底村、本部町伊豆味・嘉津宇。1719年に今帰仁間切へ移動した村)) 

 ※湧川のろの記載がないこと、1736年に成立した湧川村の戸数・人口はある。
   湧川村が創設された時(1736年)、これまで地頭代は湧川大屋子であったが、湧川大屋子の
   湧川村へ、以後地頭代は古宇利親雲上となる。

【間切役人】(番所は運天村)

・地頭代古宇利親雲上  米無し               雑石 七石八斗五升一合九毛四厘
・夫地頭諸喜田親雲上  米二石〇斗九升〇合三勺四毛〇厘   雑石 五石三斗二升七合八毛二厘
・夫地頭志慶真親雲上  米
・夫地頭新田筑登之    米
・夫地頭兼次筑登之    米
・首里大屋子        米
・大 掟            米
・南風掟             米
・西 掟
・今帰仁掟
・仲尾次掟
・崎山掟
・平敷掟
・謝名掟
・仲宗根掟          米一石七斗六升一合二勺六毛   雑石 一〇石二〇〇一六
・玉城掟
・天底掟
・上運天
・運天掟          米二石四斗一升三合九勺三毛
・古宇利掟         米無し         雑石 一四石九斗二升五合六勺四毛 

 (明治13年の今帰仁間切各村の戸数、人口)

・今帰仁村    戸数111  543(男269人 女274人)
・親泊村    戸数  ・    (男 ・ 人 女 ・ 人)
・志慶真村    戸数 28  148(男82人  女66人)
・兼次村    戸数 79  380(男177人 女203人)
・諸喜田村    戸数 94  438(男237人 女201人)
・与那嶺村    戸数 93 484 (男252 人 女232人)
・仲尾次村    戸数 76 360(男182人  女178人)
・崎山村    戸数108 474(男243人  女231人)
・平敷村    戸数 81 393(男194人  女199人)
・謝名村     戸数163 759(男380人  女379人)
・仲宗根村    戸数123 620(男304人  女316人)
・玉城村    戸数 35 134(男 69人 女65人)
・岸本村    戸数 29 169(男 89人 女80人)
・寒水村    戸数 13  68 (男 42人  女26人)
・湧川村     戸数168 936(男503人 女483人)
・天底村     戸数 73 336(男179人  女157人)
・勢理客村    戸数 56 261(男124人 女137人)
・上運天村    戸数133 614(男324人 女290人) 
・運天村    戸数 70 332(男184人 女148人)
・古宇利村    戸数123 539(男286人 女253人)


2020年1月26日(

 
本部町の渡久地にある「按司墓」(大米須親方之墓)の石棺がなくなっているとのこと。その墓の調査報告書(某家から提供)を翁氏の鼻祖(大米須並をなじゃら)御墓発掘報告書(大正7年:昭和49年)と『沖縄県国頭郡志』(大正8年)を入手している。墓の内部の確認したのは「をなじゃら墓」のみ。「をなじゃら墓」は墓の上部の道路の整備だったような。国道事務所依頼の会社か。内部には50近い厨子甕と数基?の石棺が散乱。足場がないほど。調査する準備がなされていず、墓口を開けて、中の様子をみる程度の確認。その時持参してきたのが、墓の管理をしている某家から。以下の調査報告書(コピー)。(コメントは控える)

2011年2月の調査記録 - 沖縄の地域調査研究参照

【按司墓】(渡久地)(国頭郡志)

 渡久地の村後丘したに普通の墓所と趣を異にする古墳あり。俗に按司御墓と称う。これ尚円王の兄に当れる米須里主(顧姓久志氏等の租也)の墓なりと称う。里主は元伊平屋の人にして中山尚徳王に奉仕せしが、文明元年徳王廃せられ、尚円王位につきしかば、先王に対する節義を重んじ、かつ弟に仕ふるを耻ぢ家を捨てて北山に隠退し、而して具志川ノロクモイ(今の浜元)を妾として、この地に老を養へり(そのノロの墓はヲナヂャラ御墓といい、渡久地港北岸にあり)、米須の長男は喜界島大屋子を勤めその子孫、今同地八十戸を算すという。

 
     
▲渡久地の按司墓                 ▲米須里主の墓碑

翁氏の鼻祖(大米須並をなじゃら)御墓発掘報告書(大正7年:昭和49年)

墳墓発掘の原因

 恰も発掘の動機は翁氏の先祖国頭親方の尊父は大米須公なりと伝られしが近頃歴史家の研究する所に依れば大米須と国頭親方の年齢は殆ど九十余年の差あるを以て御親子にあらずして、或いは国頭親方は大米須の御孫にあらずやとの疑念を惹起し、墳墓を発掘し、具体的調査するの必要を認め一門協議会を開き詮議の結果鼻祖大米須公並御夫人(をなぢゃら)御墓を発掘し、緻密に調査するに決定し、其の調査委員は永山盛廉、安谷屋盛堅、東恩納盛起、久志助英等を選定し、本部村渡久地に派遣せらるや、歴史家真境名安興氏に立会を乞い同伴して渡久地に至り大に利する所ありたり。

墳墓発掘ノ日時

 最初は大正七年旧暦八月六日墳墓発掘することに定めたりしが、天天候荒立ち海陸共に旅行し難く八月十一日に延期したるに、尚ほ天気静穏に復せず不得巳、私事の為め曩に出発せる安谷屋盛堅並びに渡久地松太郎等に電報を以て依頼し、十一日午前七時は阿さたひ御墓、仝日午前十一時はをなぢゃら御墓を発掘着手の義式丈を行はしめ、十二日午後一時より調査委員が墳墓を発掘せり。

安可多部御墓の状況
 その位置は国頭郡本部村渡久地うゑの原という山の麓にあり。亥に近き方に向かい渡久地の裏路通りに沿へ天然の洞穴を利用し少しも人工を施さず檀もなく至て質素の感あり。而して石棺十二個あり、陶製の逗子四十個ありて、墓内に厨子を以て充満し、或いは厨子を重ねおきて多し、奥面には数人の骨を混合して堆積せり。

 中央に安置せらるる石棺の蓋に大米須の三字を書し、その中には「乾隆三十九年甲午八月十二日翁氏国頭親方の御親父の由承之」と書したる。木札を発見せり。然し厨子に銘書あるものは土地の人民なるものの如し。又銘書なきもの六個ありて大米須の御子孫なるや否判明せず。従って調査の目的達する能はずるは遺憾に不堪なり。

 古老の伝ふ所に依れば墓内に石碑を入れたる趣き、調査したるも是亦発見する能はず。石棺に乾隆三十九年午八月十二日云々と書したる木札と、今回延期に延期を重ねて午年八月十二日に発墓したると仝年月日も相当したるは実に寄寓の感あり。今回記念の為め左の通り木札に記載し大米須の石棺に入れたり。

 大正七年九月十六日(旧暦七月十二日)一門立会の上御嶽墓を発掘す。古老の指示に従い墓内に入れ置きたりという。石碑を捜索するも発見すること能はず。当時石棺十二個陶製厨子四十個あり。銘書明なるもの及び不明のものも一々謄写し置きたり。

 大米須の石棺に別札乾隆三十九年八月十二日云々の木札ありしに依り其のまま複製し、原文の通り書し入れ置けり。
  大正七年九月十六日
  立会人
   歴史家  真境名安興
   翁氏   永山盛康
         安谷屋盛堅
         東恩納盛起
   顧氏   翁長助持
         普天間助宜
        久志助英
 今回墳墓発掘の際本部村渡久地百三番地島袋盛三郎より願出に依り厨子一個渡せり。

 
         ▲按司墓内部の様子(2020年1月27日撮影)


御夫人御墓の状況(をなじゃら墓)(按司墓とは別)

 その位置は国頭郡本部村渡久地志なきらゑ原という山の麓にあり、渡久地川に面し未申の中に向かい阿さたび御墓とは梢差向かふの方に1檀あり。阿さたか御墓と比し堅牢にして且つ結構なり。外部を高地にして好景色の感あり。墓内は逗子以て充満し、少も余地なし。石棺六個陶製角形六個、厨子五十七個あり。火葬して数人混合して大壺に入れたるものあり。上檀の中央に安置せらるる石棺に二人合納せらるるも銘書判然せざるは最も遺憾とする所なり。下の中央にある石棺には具志川のるくむひと銘書あり。或いは大米須の御妾たりし具志川のるくむひと推察せらる銘書不明のもの十一個ありて、御夫人の御骨を確実に認むる能はず嗚呼。

 裔孫たるものは一生涯遺憾千万なり。期して願くば尚一層研究を重ね探索を継続して鼻祖御夫人の御骨を確認せられんこと

  附言
 本部村渡久地二十三番地士族名城政致より申出に依り厨子一個を渡せり

 阿さたひ御墓に入れたる厨子に銘書ありて村民との関係者の様に認めらる者の様に認めらるもの左の如し。

  (抜け:工事中)

一、満名村松田にや
一、乾隆三十九年五月浜元村 
    唐山仲宗根
一、嘉慶十七年大辺名地村
    唐山蒲渡久地
一、乾隆十九年死去八月廿一日洗骨
  浜元村辺名地親雲上アンシ
  乾隆○○○○丁亥謝花掟
一、金状 松
  浜元村前並里親雲上
一、具志川のろくもい女子 まうし
  健堅親雲上女房
一、伊野波村仲程
  渡真理親雲上妻
一、乾隆三十八年三月廿五日
  伊野波村加那玉城
一、渡久地村前石嘉波親雲上
  妻
一、道光三年未八月浜元村
  上渡久地妻
一、乾隆五十六年戌浜元村
  石嘉波大屋子
一、浜元村
  並里親雲上
一、乾隆三十六戌 浜元村
  浜元にや 石嘉波大屋子
一、伊野波村仲程
  渡真理親雲上
一、嘉慶元年辰六月九日
   辺名地村辺名地親雲上母
一、辺名地村
  辺名地親雲上 妻
一、志ひら下こうり浜元村
  辺名地親雲上妻
一、道光十七年丁■二月十九日死
  浜元村満名村大屋子 妻
一、乾隆三十五年康寅二月七日
  浜元村島袋筑登之の妻
一、嘉慶七年三月
  浜元村渡真理親雲上
一 ○○○○親雲上
   伊芸親雲上妻
一、辺名地村■山辺名地親雲上
  男子  ■■郎
一、前辺名地親雲上 男子
   太良にや
一、乾隆十六年辛未
   大掟文子
一 浜元村
   並里親雲上妻
一、大辺名地仲村渠親雲上
   具志川のろくもい女子
一、タンチャ掟
   渡口村
一、乾隆二十九年甲申正月十六日
   浜元村渡久地大屋子
一、伊芸親雲上母
  真部親雲上
一、申八月廿四日
   ■■親雲上ウシ
一、乙未
   辺名地掟女房
一、伊芸親雲上
一、渡久地村仲宗根方
   玉城にや
一、乾隆十四年寅十四日
   辺名地村辺名地親雲上
一、渡口にや女房
   武太父親
一、銘書不明十一個

昭和四十九年四月十三日 旧三月二十一日
   ヌール墓を開けた。



2020年1月25日(土)

 平成3年(1991)頃から、沖縄本島のムラ・シマをテーマに調査をはじめる。本島北部に180近いムラ・シマがあり、すべてを踏査することを目標にしたことがある。ムラ・シマ踏査で様々なテーマを広うことができた。まずは、それぞれムラ・シマの成り立ちが異なること、神アサギがあるかどうか、移動ムラ、寄留人のムラ、合併ムラ、大正以後の新設ムラなど。『琉球国由来記』(1713年)以後、廃藩置県後も伝える旧暦での祭祀、神アサギは何を語っているのか。            

山原のムラ・シマ講座参加者のみなさん

今帰仁村歴史文化センター
                                  館 長 仲原 弘哲 (公印略)

            第2回 ムラ・シマ講座のお知らせ

 本部ミャークニーに謡われたムラ・シマ

 本部町のムラ・シマを謡ったミャ-クニーがあります。今回はそれらのムラ・シマを踏査します。唄の歌詞は大堂から伊野波、満名(並里)、屋比久、山里、渡久地、辺名地(大辺名地)、健堅、崎本部までつづきます。この山手の道筋(歴史の道)は1666年今帰仁間切が二分し伊野波間切(本部間切)が分割する以前、今帰仁按司(監守)が今帰仁グスクに居住していた頃の伊野波への道筋の跡とみられます。今帰仁按司一族は伊野波村から嫁取りがあります。屋比久・山里、渡久地→辺名地→健堅→崎本部までの山手の道筋があります。今帰仁グスクから山手を通り並里まで。屋比久・辺名地・健堅・崎本部は、山里あたりから眺望します。

 下見をしてきた並里の上殿内(満名殿内)の拝所の見学ができます。そこには按司位牌、古櫃に古刀三振(大一本ニ尺七寸、小二本一尺五寸宛)などがあったといいますが、戦争で失ったようです。旧家の屋敷と内部、そして離れにある按司位牌なども拝見できます。

 平成27年(2015)月20日:土

     9:00 今帰仁村歴史文化センター集合
          出席の確認
          大堂・並里・伊野波・並里(満名)の概要説明

     9:40 出発(バス)
          大堂(旧公民館)
          藍壷とガジマルのある家(比嘉家)
          山里公民館・民家の神アサギ(車中)
          伊野波へ降りる坂道(満名ターブク・渡久地の街・辺名地・健堅・八重岳などを望む)
          伊野波の集落(番所跡? 伊野波神社 御殿火神 神アサギ
          伊野波いしくびり道
     11:20
         並里の集落とウタキ
         並里神社と神アサギとウタキ
         並里家(満名上殿内) 土管

       アセローラの家(飲み物を飲みながら休憩) 

    12:30 歴史文化センターで報告 

 お疲れ様でした。 

※暑い中、歩きますので水分補給わすれずに。
 

   ▲大堂旧公民館              ▲山里の藍(あい)壷

・真下地ぬくびり 大道原若地 (大道原:大堂原、若地原)
  黒山ぬ下や 伊野波と満名 (伊野波:村名、満名:村名)
・満名から伊野波、流りやい浜川 (浜川:浜川原は伊野波)
  遊びする泉川 花ぬ屋比久 (泉川:シンカ(泉河)原は山里、屋比久も山里)
・遊で大多良浜 むどる与那城 (大多良原と与那城原は渡久地の原名)
  暁ぬまひやり 港わたい
・渡久地から登てぃ 花ぬ元辺名地(渡久地:村名、元辺名地は)
  遊び健堅に 恋し崎本部 (健堅と崎本部は村名)


    
  ▲ガジマルの大木(比嘉家)           ▲山里区公民館

 
▲満名田圃(マンナターブク)跡              ▲満名上殿内(並里家) 

※地図等の資料は当日配布


2020年1月24日(金)

 
なかなか時差ぼけから抜けきれずにいる。調子をとりもどすため過去の講座(平成23年度7回)の一部アップ。ここには、「北山の歴史」と関わる三世和賢の墓(津屋口墓別名アカン墓)と1666年に首里赤田村へ引揚げた人物(定水和尚)について。

④津屋口墓(アカン墓)(新聞記事) 

壊された開かん墓(沖縄タイムス:19641229

 三百年前から入口が閉ざされたままという秘密のベールにおおわれた今帰仁村字親泊にある「開かん墓」が最近、なにものによってこわされた。この墓は文化財としても研究の対象にされており、文保委では28日新城徳祐主事を現地に派遣して調査をした。

 墓がこわされたのは二か月ほど前のことだが、さいきん子孫の具志川朝雄氏(具志川御殿)が調べてわかったもの。墓は親泊部落の東側海岸にあり石積みでつくられているが、正面のシックイでぬり固めた石がこわされ、あと石をハメこんであった。近くの人たちの話だと、二か月くらい前、夜中にハンマーで石をたたく音が聞えてきたという。

 墓庭に建てられた碑によると、この墓に葬られているのは向姓具志川氏の先祖で三代目の北山監守宗真公となっている。宗真は1557年に生まれ1592年、35歳で病死した。北山監守というのは中山の尚巴志が北山を滅ぼしてあと、再び変が起こるのを封じるために、1422年から二男の尚忠を今帰仁城に駐留させたのがはじまり、ところで北山監守の一統向氏七世百、四、五十年の一族は、すべて今帰仁村運天の大北墓に合葬されていて、なぜ宗真公ひとりがここに葬られることになったのか、理由はよく知られていない。宗真は「らい」を病んだため別葬され、それで墓の口もないのだといわれている。

 新城主事はこの機会に墓の内部を調査しようとしたが、内側からも二重に石垣が積まれており、それをはずすと墓全体が崩れる恐れがあるので、外側の石積みを修復するにとどめた。やはり「秘密のベール」はとりのぞくことができなかった。

 新城主事は「北山監守の墓なのでおそらく中に宝物があると思ってやったのだろう。しかし、これまで調べた各地の有名な古墓にも身の回り品しかはいていなかった。開かん墓もそれと同じだと思う」と苦笑していた。 

あかなかった古墳(琉球新報:19641230

 北山城三代目監守・尚真公をまつってある今帰仁村親泊区在俗称アカン墓(口ナシ墓・ツエグチ墓ともいう)を何者かが墓の入り口をこじあけようとした形跡があり、修復にあたった子孫の具志川家(首里)の人たちが28日午後、文化財保護委の新城徳祐主事の立ち合いで内部調査をしようとしたが、墓口があけることができず取りやめた。

 区民の話では九月ごろ、ツルハシをふるって墓をあばいている音を聞いた区民がおおく、昔から人々の間に「宝物が埋蔵されているのでこの墓はあけてはならない」と伝えられる昔話を信じた何者かが、宝欲しさにこじあけようとしたのではないかと新城主事はみている。

 この墓口は内部とそと側からの石での二重積みで、開くことができないようにつくられており、この日も無理にこじあければ墓全体が陥没するおそれがあると中止した。

 この墓は、北山城三代目監守・尚真公が約三百年前(ハンセン氏病)をわずらって死んだので俗称ツエグチ原(親泊区在)に別殿を設けて葬ったため、子孫は開くのを禁じられてアカン墓(開かない墓)と人々にいい伝えられているとの説が強い。中には不義などの行為で先祖の墓にいっしょにははいれなかったとの説もあるが歴史的考証がないという。歴代北山監守は皆運天区にある大北(ウフニシ)墓に葬ってあるが、この三代目だけが別葬されている。

 この日アカン墓をあけるといううわさでかけつけた人たちが墓の周囲に黒山をつくり、三百年来のナゾがとけるのではないかと見守っていたが、墓口が開かないと知って複雑な表情で帰った。 

   
     ▲津屋口墓(アカン墓)              ▲墳墓記(1678年)

【タキガー(滝川)】(寺屋敷)(「沖縄県国頭郡志」「大宜味村史」)

 滝川のほとりに寺屋敷と称する所あり。260年前定水和尚が居た所の跡だと伝えられている。定水和尚は(土地の人はダチ坊主と呼ぶ)首里新城家の祖先で王府に仕えて重職にあった人で寛文5年(1665年)国王尚質王重臣を集めて尚真王以来派遣していた北山監守を撤廃せん事を諮る。時定水は北山の地が僻遠にしてまだ教化が普及しないから撤廃は早いとなし意見の不一致となる。王嚇と怒り曰く「汝何の故を以てか尚早しとなす。予不徳にして感化未だ国頭に及ばざるの謂んるか。と詰責され定水答ふる能はず、官職を辞し仏門に入り剃髪して定水と号し閑静なる塩屋湾の東隅に退隠して悠々余生を送る。

 後定水は剛直なる民本主義の政治家で彼の在職の際八重山に於ける人頭税の荷酷なる事を説き、其の廃止論を唱え、又親々が往昔その領地を異にして食封を受けている者あるを本法とし、其の一を王府へ返納させしむべきことを提議する等の剛直無欲の人だった。彼は日本思想家で数回北京に赴き、彼地にて和歌を詠めるもの多しと、
 
 新城家口碑に
   定水はその後法用ありて上首せしことあり。時に国王自ら前非を悔い、度々仕官せんことを勧め給いしが固く辞して受けず
   直ちに大宜味に帰りば家族流涕止まざりきという。

 定水は死後首里の弁が岳の下にある拝領の墓に葬られ、其の祭祀料として百ガネーの土地を賜はり、此の地は今位牌を安置してある蓮華院(万松院)の有する所となっている。また塩屋小字の大川に塩屋山川なる旧家があるが此の敷地は同家の先祖がダチ坊に親しく仕えそのよしみで現在の敷地を定めて呉れたとの伝説がある。


2020年1月22日(水)

 帰国後、時差ぼけか、体調不良のまま「山原三村と世界遺産」をターマ講座。山原の世界遺産は、山原の集落と人々の生活も含めるべきだと考えている。特に、さっそく山原に足を運んでみたのだが、山原の人々の生業、ムラ・シマ、森や山の緑地帯を含む時間の流れは、変貌しつつあるが、その風景そのもを自然遺産に位置づけたいものである。








2020年1月21(火)

 10日余地中海添いの街をブラリブラリ。10日近く、外国語の集中講義。ガイドの説明、テレビ(NHK)の国際放送も殆どが外国語、時間を見ても全く体内時計と風景とが、マッチせず。10日余の外国語の集中講義も帰国したら、一語も記憶に残っていず、時差ぼけの体調不良のみ(ハハハ)

 イタリアでの二日間、動けず横になったまま。まだ頭がもうろうとしいるので、回復してから。訪れた街だけ記しておくか。

①スペインのバルセルナ
②フランスのマルセイユ
③イタリアのジェノバ
④イタリアのローマ
⑤バチカン市国
⑥イタリアのバレルモ
⑦ウァレッタ(マルタ共和国)


まだ、どこがどこだか整理つかず。

 


 1月8日から19日までお休みします。


2020年1月7日(火)

 『具志川家家譜』は北山(今帰仁)の歴史に登場する重要な人物や出来事が登場する。一世の向韶威の記事を紹介してみる。嘉靖年間に亡くなり「西の玉御殿」に葬られる。尚眞王の第三王子である。弘治年間に山北監守を命じられ今帰仁王子となる。北山の歴史の一端を述べている。

 監守を命じられ北山に派遣されたとき、尚眞王は脇差二本、鎧一本を賜わっている。北山に節々に神が出現し、その祭祀は重要で代々一族を率いて、首里から唄勢三、四人を派遣し、北山の唄勢と共に礼式を行い、その時、阿応理屋恵(今帰仁)や世寄君按司などの女官が礼式を掌る。崇禎年間に廃されるが、阿応理恵按司の職は後々まで遺りその節の儀礼を行う。康煕己丑
(1709年)の首里城焼失で唄双紙を失った時、今帰仁監守に贈られた唄双紙が呈覧され公補の用を修すとあり、補って修復したということが。(詳細は本編で)『那覇市史 家譜資料(一)資料編 第1巻5』参照

【向姓一世 向韶威】(今帰仁王子:生忌日不伝)

 童名 眞武禮金 名乗 朝典 生日 不傅 嘉靖年間卒 西の玉御殿に葬る
 尚眞王第三王子にして長男は介昭、次男は介明という。

       勛 庸
弘治年間、尚韶威命を奉じて山北を監守し、今帰仁王子と称す。是より先尚巴志王三山を平定して一統の治
を致す。然して山北城は首里を離るヽ事遠く并て地険阻にして人亦驍健なり。其の山北復険阻を恃み變を生
ぜん事を恐れ、第二子尚忠を遣わして監守せしめ、以て變亂を拒ぎ著して定規となす。尚徳王に至り覆宗絶
祀し、監守貴族の徒皆遁世して隠る。
時に尚圓王また尚志の制に尊い大臣を遣わして山北を監守し、以て昇平の盛を致す。尚眞王に至りて乃ち
第三子尚韶威を遣わして山北を監守し、且其の子孫世々襲爵を受けて永く監職の重きに任じ、著して定規と
なす。尚韶威毎年元旦十五日冬至を大朝の期とし必ず首里に赴きて入観し、其他の小朝は悉く免ぜらる〈此
より以後子孫これに倣う〉

      菜 地
弘治年間(尚眞王代)、今帰仁間切総地頭職に任ず。

      寵 栄
弘治年間、命を奉じ山北に赴く時、尚眞王特に御脇指二振、御鎧通一本を賜る。(中略)蓋山北は節々に神
出現し、其の禮最も重し。故に尚韶威監守以来世々家族を率いて此禮を行い、又王都より唄勢頭三、四人を
遣わし、彼の地方の唄勢頭と俱に禮式を行う。此時は阿応理屋恵按司、世寄君按司、宇志掛按司、呉我阿
武加那志等の女官この禮敷を掌る。崇禎年間兵警に逢いて後、此の禮俱に廃す。但阿応理屋恵按の職今
に至りて猶存し毎節に禮を行う〈康煕己丑年王城回録して唄双紙を失う。時に所傅の唄双紙を以て呈覧し、
公補の用を修す〉

     婚 嫁
長男介昭は、今帰仁間切具志川村の具志川親雲上の女眞呉勢を婚る。
次男介明は、本部間切天底親雲上の女思加那を娶る。
女世寄君按司は、和氏平良親方景平に嫁す。


2020年1月6日(月)
 
 本部町字北里まで行く。北里は昭和16年に分字した新しい字(アザ)である。それ以前は大半が具志堅に含まれる(一部は謝花地番)。先日紹介した辞令書は嘉靖42年7月(1563)発給で、古琉球の時代のものである。寄留村であるが、1562年の辞令書に現北里の原があり、そこから「みかない」として租税が納められていることからすると、そのころから耕地として耕されている。すると近世以後の寄留以前から具志堅や謝花の人々(地人:ジーンチュ)が散村として集落があったと見られる。

【現在の北里の⑩小字】
  ①富謝原(トゥンジャバル) ②風登原(プトゥバル) ③歌原(ウタバル) ④穴花原(アナハラバル)
  ⑤読座原(ユンザアバル) ⑥長増原(ナガマシバル) ⑦辺名原(ヘナバル) ⑧岩屋原(イワヤバル)
  ⑨中尾原(ナオウバル) ⑩白石原(シラシバル)

【現新里の⑤小字】
  ①和那原(ワナバル) ②立石原(タティイシバル) ③高石原(タカイシバル) 
  ④長浜原(ナガハマバル) ⑤住賀原(スミガバル)
 
【現在の具志堅の⑫小字】
  (略)


上間家の赤墓と辞令書参照
 
 ▲北里に造られた桃原飛行場            ▲現在の桃原飛行場跡

 
▲上本部小学校(現上本部学園)前より      ▲スクミチ(バス停前)とキャプションあり(昭和28年)

2020年1月5日(

 昨日、国頭村比地と辺戸までゆく。先日の本部町北里のスクミチ添いの松並木の画像である(現在は残っていない)。そのことが頭にあり辺戸集落後方の散策道を歩いてみた。近世の杣山(蔡温の山林政策)の実態を肌で感じ取れる、その感性を呼び起こせるかがテーマである。

 国頭村比地も往くが、そこに住む人々とウタキや神木、そしてそこで行われる神行事から、かつては旧暦(農耕暦)で生活が行われていた時代(昭和30年頃まで)を自分の中で再現できるか。

 辺戸の散策道の途中にシニグドーがある。辺戸のヒチャラウタキやノロドゥンチ、根神ヤー、神アサギで行われた海神祭やシニグが松並木を通り、シニグドー、さらにウサバマへの「流し」の所作。その空間は、まさに村人が自然との関わりを立体的に描く手掛かりとなる。比地・与那・安田・安波などの祭祀が集落の活きた様子を彷彿させてくれる。

 辺戸の灯台近くにある遠見所、宜名真のオランダ墓、奥のイギリス船の碇は、近世の沖縄の歴史をしる手掛かりとなる。辺戸のヒチャラウタキ前の石灯籠、比地の「中の宮」の国頭按司の石灯籠、奥のミヤギムイの石灯籠、辺土名のお宮の香炉なども、国頭地方について足が地についた議論ができそうである(すでになされている)。


              
▲国頭村辺戸の松並木(散策道)



   ▲国頭村比地の小玉森(神木・神アサギ)        ▲国頭村辺戸の遠見所付近

2019年1月4日(土)

 本部町北里の『北里誌』を興味深く目を通す。新里域は具志堅に含まれていた時代がある。具志堅の上間家に嘉靖42年7月(1563)発給の辞令書が宮城真治先生のノートに書き写されている。その辞令書に出てくるはる名の確認を調査したことがある。その時、北里部分については熱心に見てこなかった。北里が寄留(ヤードゥイ)地で戦後米軍の飛行場地として地形が大きく変わり、集落のほとんどが周辺に分散させられるという歴史を持っていたこともあり、諦めていた。

 まだ、古琉球の時代の辞令書に登場する原(はる)との比較をする時間がないが、本部町渡久地にあった本部番所と今帰仁番所(運天)につながるスクミチ(宿道)の両側に松並木があり、北里に一里塚があったことが記されている。

 『北里誌』の中に上本部村地域はウワーラと呼ばれ、中央域を桃原(トーバル)と呼ばれ、北里は具志堅と謝花の両方の地番を持っている。字誌に白石原、読座原、穴花原、岩屋原、長増原、富謝原、へな原、風登原、歌田原がある。(下の画像は『北里誌』から)


 ▲上本部村北里の松並木(スクミチ沿い)   ▲具志堅方面に松並木が残っている(昭和28年)

【上間家にあった辞令書】(写)2003.7.31メモ

 この辞令書は戦前具志堅の上間家にあったものを宮城真治がノートに写しとったものである(ノートは名護市史所蔵)。「具志堅上間家の古文書」とある。名護市史の崎原さんに捜してもらい、ファックスで送ってもらった資料である。感謝。

 この辞令書は嘉靖42年7月(1563)発給で、古琉球の時代のものである。首里王府から「あかるいのおきて」(東掟)に発給された辞令書である。現在の具志堅が今帰仁間切内(1665年以前)のムラであった時代である。

 現在の具志堅の小字(原名)と辞令書に出てくる原名を比較してみた。三つの原名は想定できそうだ。但、近世でも原域の組み換えがなされているの、確定はなかなか困難である。小地名まで合わせみると、いくつか合致する。

     ・たけのみはる→嵩原?
     ・まへたはる→前田原(現在ナシ)
     ・とみちやはる→富謝原(現北里) 
     ・きのけなはら
     ・あら(な?)はなはる→穴花原(現北里)
     ・たこせなはる
     ・あふうちはる
     ・ふなさとはる
     ・まふはる→真部原(現具志堅)
     ・あまみせはら

 貢租に関わる「ミかない」いくつもあり、季節ごとに「ミかない」(租税)収めていたのかもしれない。
     ・なつほこりミかない
     ・せちミかない
     ・なつわかミかない
     ・おれつむミかない
     ・正月ミかない
     ・きみかみのおやのミかない
     ・けふりのミかない
のろ(ノロ)・さとぬし(里主)・おきて(掟)のみかないは免除され「あかるいのおきて」(東掟)一人に給わった内容である。
 古琉球にノロ・里主・掟・東掟の役職があったことが、この「辞令書」から読取ることができる。

【辞令書の全文】(一部不明あり)
  志よりの御ミ事
   みやきせんまきりの
   くしけんのせさかち
   この内にひやうすく みかないのくち 御ゆるしめされ
   五 おミかないのところ
   二 かりやたに 十三まし
   たけのみはる 又まへたはるともに
  又 二百三十ぬきち はたけ七おほそ
    とみちやはる 又きのけなはら 又あらはなはる
  又 たこせなはる 又あふうちはる 又ふなさとはる
  又 まふはるともニ
    この分のミかない与
    四かためおけの なつほこりミかない
  又 くひきゆら ミしやもち
  又 四かためおけの なつわかミかない
  又 一かためおけの なつわミかない
  又 一かためおけの おれつむミかない
  又 一かためおけ 又なから正月ミかない
  又 一lくひき みしやもち
  又 五かためおけの きみかみのおやのミかない
  又 一くひ みしやもち
  又 一かためおけの けふりミかない共
    この分のみかないは
    上申・・・・・・
    ふみそい申しち
    もとは中おしちの内より
  一 ミやうすくたに ニまし
    まへたはる
    この分のおやみかない
  又 のろさとぬし
    おきてかないともニ
   御ゆるしめされ候
  一人あかるいのおきてに給う
 志よりよりあかるいのおきての方へまいる
   嘉靖四十二年七月十七日

2019年1月3日(金)

 過去の調査記録の再編集にかかる。画像は当時のもの。10年以上もたつと改築や失ったのもあり、いつものことながら風景や歴史は生き物だと実感させられる。書き換えたり、追加するのがいくつもあるが、そのままにしておく。


上運天(今帰仁村) 2009年(平成21)・12月12日・土曜日調査記録

・上運天の概要
・上運天の神アサギ
・上運天の神殿(敬神の扁額)
・掟(ウッチ)火神の祠
・根神火神の祠
・上運天のウフェー(地番は運天)
・穴泉(アナガガー)
・ウキタのウタキ


 
 上運天の神アサギ                根屋の火神の祠
 
   ▲上運天の神殿                ウフェー(豊年祭会場:地番は運天)への階段

上運天の概況(がいきょう)

・ウンシマウガンジュは遺跡になっていたグスク系土器、磨石、叩き石、須恵器、青磁器などが
 確認されている。
・上運天はもともと運天と一つの村であった。
・運天の村が二つになったためウインシマ(上の島)とヒチャンシマ(下の島)と呼ばれる。
・ウタキの内部に神アサギ・ウタキのイベ・神殿などがある。
・ウタキの内部に集落があった痕跡が見られる。集落はウタキの周辺から下の方に移動している。
・オモロで「うむてん つけて こみなと つけて」とあるが、「こみなと」は浮田港ではないか?
・1713年『琉球国由来記』に上運天村上運天之嶽、ウケタ嶽とある。
・1741年(乾隆6)に大島に漂着した唐船を運天津に回したことがある。唐人を運天に囲っている間
 大和船は古宇利島に停泊するよう指示がなされる。
・その時、具志堅親方(蔡温)も訪れている。その時の宿は上運天村である。
・「ユ うけた原」の印部石がある(現在移動)
・大和役人の藤山藤兵衛、与力宮之原四郎右衛門などは上運天村で指揮をとっている。
・上運天には年二回のタキヌウガンがある(4月と8月)。その時のウタキのイベは運天のティラガマ
 である。
・4月15日はアブシバレーとタキヌウガンが同時に行われる。
・6月25日にはシチュマとサーザーウェーがある。
・7月の後の亥の日はウフユミ(ワラビミチ)が行われる。勢理客ノロがやってくる。
・ウフェーの森があり、上運天と下運天の人たちが十五夜の行事を行っていた。
・上運天は毎年豊年踊が行われる。その会場は運天地番のウフェーで行う。何故?
・上運天の獅子は神アサギの中に置かれている。
・上運天の古い集落はアナガーバーリーとアサトゥである。
・1917年(大正6)に仲宗根に台南社の製糖工場ができ、浮田港に桟橋をつくり、仲宗根までレール
 を敷きトロッコで運搬がなされた。
・戦争中は日本軍の高速輸送及び特殊潜航艇魚雷基地であった。そのため爆撃を受けた。
・1934年(昭和9)に国会議事堂の門柱につかわれたトラバーチン(石材)が積み出された。
・1955年(昭和30)貿易補助港の指定をうける。
・1959年(昭和34)北部製糖工場の建設に伴って岩壁の建設がなされる。
・1987年(昭和62)伊是名島へのフェリーは運天港(浮田港)から発着する。
・1990年(平成2)伊平屋島と運天(浮田)港間のフェリーが運航する。

上運天の位置図


2020年1月2日(木)

 旧暦の正月がやってくると「東村川田の根謝銘屋のことが思い出される。それは「北山の歴史」の興亡と関わってくる出来事である。大宜味村の田港の根謝銘屋と関わる。北山の三王(ハニジ・ミン・ハンアンヂ)以前の興亡である。その出来事が北山(ハンアンヂ)王滅亡のとき、今帰仁を除いた国頭(大宜味含む時代)・羽地・名護が中山(尚巴志)に組したことがよくわかる。その伝承は根強く今に伝えている。


2003.2.13(木)メモ

 2月9日(日)沖縄タイムスで「北山城主」末えいの証し 装飾具勾玉を公表の記事がでた。問い合わせが歴文にもあったので紹介します。北山城主末裔については久志村(現在東村)の川田だけでなく大宜味村田港、名護市の屋部などにもあります。

 大正8年に発行された『沖縄県国頭郡志』に次のように紹介されている。
   口碑伝説に依れば同家(東村川田の根謝銘屋)の始祖はヒギドキ
   (ヒゲドケ)と綽名せられ仲今帰仁城主の子孫にして本部村(町)満
   名上の殿内の次男なるが、ある事変に際し、一時名護城に移り、こ
   より大宜味根謝銘城に避難し後、国頭間切浜村赤丸の崎の窟及び
   伊地村後方の窟に隠遁し更に山中を横切りて川田の山中イエーラ
   窟に遷居せり。今その近傍、内福地原に千五百坪ばかりの畑ありて
   当時の開墾に係ると伝う。然るに此処は昼なお薄暗き森林にて山の
   精強く住みよからずとて道を海岸に開き、而して現屋敷の後方台地
   に移転せりという。
   川田は八十戸数中十数戸を除きたる外皆同家の裔孫にして根謝銘
   屋及びその分家なる西の屋(イリヌヤ)、西の根神屋、東の殿(東の比
   嘉)、新門(ミージョー)、金細工や、大川端(元ニーブや)の七煙より
   分かれたり・・・・・・以前根謝銘屋には絹地の衣類、古刀及び黄金
   かぶの簪等の遺物を保存せしが火災の為め消失して、今は類似の
   品を以て之に代へたり。・・・・」

とある。今帰仁城主の末裔の伝承は古くからあり、また旧暦の元旦に行われるタマガワラユエーも行われてきたものである。大正8年以前に絹地の衣類や古刀や黄金の簪などが火災で焼失して、類似の品に代えてある。現在残っている勾玉(水晶玉では?何個か勾玉もあるのか?新聞の写真でははっきりしない)は、『沖縄県国頭郡志』で述べられているように消失し、大正8年頃のものは類似の品だということ。その品物が戦争をくぐりぬけ現在に伝わっているのかもしれない。北山の時代からのものとするには、慎重を期する必要があろう。

 もちろん、今帰仁城主の末裔としての伝承を今に伝えていることや一族が大事にしてきた遺品や祭祀も貴重なものである。外にも、そのような伝承や遺品を遺している旧家があり確認してみたいと思う(Y新聞から、記事の勾玉は今帰仁城主(北山王)の末裔のもの?の問い合わせあり)


2020年1月1日(水)

 あけましておめでとうございます!
新年度もよろしくお願いします。
年末にイノシシに突かれ(風邪)、薬のお陰か頭の中はまだ妄想中です。旧暦対応が多いので、
しばらく続きそう。