今帰仁村謝名 トップへ
・謝名の香炉
【今帰仁村謝名】(2004年4月3日)
朝夕、時々立ち寄るところがある。今帰仁村字謝名である。そこは私が生まれ育った地でもある。高校あたりから、その地を逃げ出し離れてしまったのであるが、実家があるので一生ついて回るムラである。もちろん、このムラあって、今の仕事があり自分の存在があるので、深く感謝している。
謝名には大島原があり、そこの集落はプシマーやウプシマーと呼んでいる。プシマーは謝名ムラの集落の発祥地である。ウプシマーの集落は後方に御嶽(グシク)があり、その南斜面に集落が発達している。そのウプシマーには神アサギやニーガミドゥンチや地頭火神などの祠、祭祀と関わるサンケーモーが今でもある。
ウプシマー集落の前方は前田原と呼び、かつての水田が広がっていた場所である。前田原のさらに前方(ウプシマー集落からみる)に前原(メーバル)の集落がある。家が散在してある。ウプシマー集落の後方に仲原(ナハボロ)の集落がある。メーバルもナカバルの集落はウプシマーから発達してできた集落である(詳細は別に報告する)。
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▲謝名の御嶽にある謝名神社 ▲謝名の神アサギ
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▲ウプシマー集落の東側にあるサンケーモー ▲チンジャ(掘り込み井戸)
(メモ書き)
歴史文化センターが使っているムラ・シマの言葉の発想や理念の多くも、そこから生まれている。沖縄のムラ・シマを見ていく、集落が発達、衰退していく歴史的な過程を見せてくれる地でもある。
(旧集落の後方は御嶽となっていて、沖縄貝塚時代の中期から後期、そして
グスク時代から近世、さらに現在に至る遺跡でもある。)
その土地で体験したことが、他のムラと共通するものを見究めていくことも大事である。他と異なるものを持つことも大事であるが、異なることがより豊かなものとしてみていく発想へつながっている。
今帰仁村謝名(2009年1月7日 メモ)
正月2日には今帰仁村謝名の大島(ウプシマー)周辺を歩いてみた。そこは小・中学生時代歩き回った地域である。そこで培われた物の見方というのが私の底流にある。山原の集落の展開、御嶽・グスク、古島と大島などなど。ムラの歴史を最初に書き上げたのが謝名であった。その成果は『じゃな誌』に納めた。30年近くなっているので、全面的に書き改めたいと筆を進めている。
謝名の大島(ウプシマー)集落は南斜面に展開している。一番下方は前田原の小字がある。昭和30年代まで水田が広がっていた。前田原の地名は、集落から見た前方にある水田地帯に名付けられた名称である。小地名は集落を中心として名付けられるという、一つの法則を見出すことができる。
ムラ・シマや村落、行政区などと概念を異にして考えなけらばならない「集落」。その集落はムラ・シマ、字(アザ)や村落と概念を異にして、区別して考える必要があるとヒントを得たのは、そこからである。特に、ウタキやグスクは集落と切り離せないキーワードである。また、ウタキは集落と関わる杜であり、その中に一番神聖の場となるイベがあり、両者は区別をして考えるべきものだ。
謝名御嶽(ウガミやグシクともいう)のイベまでいく。昭和9年に謝名神社を建立し、拝所を統合したようである。お宮の後方の高い所にウタキのイビがある。そこに香炉が置かれている。それに「奉寄進 同治九年午九月 松本仁屋」(1870年)とある。スムチナ御嶽に「奉寄進 同治九年十月 松本にや 大城にや」と彫られた香炉があり、松本仁屋(にや)は謝名村出身の同一人物とみられる。
同治九年(1870)は向氏今帰仁王子朝敷が中城王子に付いて法司官に命じられ、六月二十二日に薩州に到着し、十月十一日に帰国している。二つの香炉は今帰仁王子朝敷の薩州上りと関係しているのであろう。松本仁屋は御殿(ウドゥン)奉公、あるいは薩州上りに随行していった人物の一人か。

▲お宮(ウタキ)への神道 ▲昭和9年に建立された「謝名神社」(お宮)

▲同治9年の香炉 ▲ウタキのイベにある香炉

▲ウプシマ集落の神アサギ(後方にウタキ) ▲世神殿内の拝所(脇地頭火神?)