今帰仁阿応理屋恵の遺品メモ トップ(もくじ)へ
2010(平成22)年8月11日(水)メモ
「沖縄の女巫佩用の玉」(喜田貞吉 文学博士)に、以下の論説がある。全文は掲げないが、阿応理屋恵家から提供いただいた写真がある。その写真の場面を記したのが以下の文面である。昭和4年のことである。
今帰仁阿応理屋恵の遺品について、『鎌倉芳太郎ノート』や『沖縄県国頭郡志』などに記されている。『南方文化の探究求』(昭和14年発行)や当時の新聞などに遺品についての記事がある。それらを整理し、現在歴史文化センターが所蔵している品々を一つひとつ特定する必要がありそう。
【鎌倉芳太郎ノート】(鎌倉芳太郎資料集(ノート編Ⅱ)(沖縄県芸術大学)
玉(magadama)
一連 大曲玉 一ヶ a.玉かはら一連 b.玉御草履
(1) 小曲玉 二十一ヶ 内 c.冠玉たれ一連
水晶玉 三十一ヶ かはら一 大形 同玉之緒一連
(2) 水晶玉 八十ヶ 同 二十二 小形
水晶之玉 百拾六
【沖縄県国頭郡志】(今帰仁村字今泊阿応理屋恵按司所蔵品目録)(大正8年)
一、冠玉たれ一通 一、同玉の緒一連 一、玉の胸当一連 一、玉の御草履一組
一、玉かはら一連 同玉かはら一大形、二十二小形、水晶の球百十六。
【沖縄の女巫佩用の玉】(喜田貞吉 文学博士)(昭和4年)(沖縄教育 201号 昭和8年発行)
「国頭郡今帰仁村今泊で旧按司家阿応恵所蔵の佩佳玉は二十二個の所謂曲玉と、多数の水晶製丸玉とを交えへて究めめて見ものであるが、之を納めた袋に、
玉かはら一連。内かはら一、大形。かはら二十一、小形。水晶玉百十一。昭和四年四月四日現在。
と書いてあった。(本社記者云う、袋の文字は古くより此の形式に書いてあったのを昭和四年に袋を新調して書替へたのみである)
阿応理家では今もその一連の玉全体を玉ガハラと呼んでいるのである。而して之を区別して云えば、我が所謂個々の曲玉を単にカハラと呼んでいるので、此の点聊か西銘ノロという所と相違してはいるが、ともかく連珠其のものを玉ガハラという点に於いては、沖縄島の南端と、北端と、共に一致しているのである。・・・沖縄でも古くそれをカハラと呼んだ事は、古文書に証拠がある。而してそれは共に我がマガリ玉即ち曲玉なる名称が、連珠其の物を指した事の傍証となるべきものでなけれならぬ」(『沖縄教育』五月号 昭和8年発行)。

▲伝世品の目録を前にした今帰仁阿応理屋恵と勾玉など ▲「国頭郡志」に掲載された遺品
※今帰仁阿応理屋恵按司の代合
『琉球国由来記』(1713年)に今帰仁阿応理屋恵の代合について、以下のように記してある。
南風之平等(首里殿内)で行われる。
今帰仁阿応理屋、代合ノ時、御朱印御拝ノ日、勢頭親雲上、首里殿内ニ持参、
大阿武志良礼ヨリ、阿応屋恵へ上ゲ申也
伊平屋阿武加那志、代相ニ、二カヤ田両人召列、首里殿内ニ被参、御花壹、御五水壹対、
座敷酒壹対、供之、玉ガハラヲハキ、御拝四仕也。
(南風原・大里・佐敷・知念・玉城・具志頭・恩納・大宜味・金武・国頭・伊江島・伊平屋島の
ノロの交替は首里殿内で行われる。今帰仁間切のノロの引継は西之平等であるが、今帰仁阿応
理屋恵は南風之平等(首里殿内)で行われる)
2010(平成22)年10月28日(木)メモ
以前紹介した記憶があるが、新聞の切り抜きが出て来たので再度のその記事を掲げておく(昭和□年□月14日新聞記事)。
古琉球の遺寶
水晶の曲玉 県外流失を免れ 郷土参考舘へ所蔵
県教育会郷土参考舘では日本夏帽沖縄支部松原熊五郎秘蔵の永良部阿応恵の
曲玉を今回三百円で譲り受け、永く郷土参考資料とすることになった。本晶は元小
録御殿の伝寶にかかり同家大宗維衝(尚氏大王長男)より四世に当る大具志頭王子
朝盛の室永良部阿応理恵職の佩用したものとみられている。これに関し県教育会
主事島袋源一郎氏は語る。
此曲玉は永良部阿応理恵職の佩用したものらしいもので同人は穆氏具志川親雲上
昌けんの女で童名思戸金と称し天啓三年に亡くなった人で永良部阿応理恵なる神職
は苧禄御殿の家譜及び女官御双紙にも同人以外には見当たらないから慶長十四年
島津氏琉球入の結果大島諸島は薩摩へさかれたので其の後廃官になったものと思
われる。
しかし同家では尚維衝が王城を出られた時に持って出られたのだと伝えてい
る中でこの曲玉は前年京大に送って調査の結果何れも硬玉で石の原産は南支地方で
あろうとのことで曲玉は三箇で水晶玉(白水晶と紫水晶)百一箇が一連になってをり又と
得がたき寶物であるが松原氏は数箇所より高価をもって所望せらるるにもかかわらず、
その県外に流出を遺憾とし県教育会へ原価で提供されたもので、その心事は頗る立派
なものだ。
▲永良部阿応理恵の曲玉 ▲右が永良部阿応理恵の佩用の曲玉