羽地域(現名護市)                      トップへ



真喜屋の概況

 ・真喜屋やマジャーと呼ばれる。
 ・現在は名護市だが、羽地間切、羽地村(の字(区)である。
 ・隣の稲嶺は真喜屋から分離した字である。神行事や豊年祭一緒におこなっている。
 ・屋我地島にわたる奥(お)武島(うじま)(墓の島)は真喜屋に属している。
 ・コーチセイリビー(耕地整理樋)という水路があり、一帯は水田が広がっていた。
 ・羽地間切に源河ノロ・真喜屋ノロ・仲尾ノロ・伊差川ノロ・我部ノロ・屋我ノロがいる。
  真喜屋ノロはその一人。
 ・真喜屋小学校がある。学校はクルサチ付近にあったが、チリ津波の被害にあい現在地に
  移動して作られる。
 ・真喜屋川上流に真喜屋ダムが建設されている。
 ・アハチャビという小高い森があり、そこの広場で豊年祭の練習などが行われる。
 ・近世、久志間切の瀬嵩番所へ通じる宿道(スクミチ)があった。羽地間切から大宜味間切
  の番所をつなぐ宿道(スクミチ:現在の国道の一部)も通っている。
 ・真喜屋の山手は戦争の時、避難場所であった。
 ・真喜屋の山手には藍壺や炭焼き釜跡が見られる。
 ・山手には寄留人(ヨカツ:チュカッチュ)たちが多く住んでいた。

 
     ▲アハチャビ(アパチャビ)             ▲アハチャビからアサギ方面をみる


真喜屋(2008年11月8日)

 ・真喜屋の神アサギ(アサギミャー・舞台)
 ・真喜屋の集落
 ・真喜屋のろ殿内
 ・上の御嶽(イビ)
 ・ニーガー・ヌルガー
 ・ウイヌクラガー(上の倉湧泉)
 ・アハチャビ(アパチャビ)

 



 
       ▲真喜屋の集落                 ▲真喜屋の神アサギ

 
      ▲のろ殿内                    ▲ウイヌウタキのイベ



【ないくみ(メークミ)一門】(2014年1月29日)

 奥武島(名護市真喜屋)にあった「ないくみ」(メークミ)の一門の墓の厨子甕(90基余)を拝見。以前から一門の上地重福について関心をもっている人物の一人であった。名護市真喜屋と稲嶺に香炉が三基寄進されているからである。それと「ないくみ」の一門の祠は今帰仁グスクへ向いており、また祠対に北山王の図像が描かれている。北山系統の一門であるとの観念がみられる。

 上地家は真喜屋ノロ殿内と隣接してあり、後方はマティキヤウタキである。香炉の一基は「つるかめ」の祠にも上地重福氏は寄進されている。「ないくみ」一門の厨子甕と「ないくみ」の祠、そして「つるかめ」の祠の香炉の確認。以前にも触れたことがある。

【上地重福と寄進した香炉】
(2010(平成22)年9月18日)

 名護市真喜屋(稲嶺)に「上地重福」が寄進した香炉が三ヶ所にある(稲嶺のマディキヤウタキ、真喜屋のウイヌウタキ、つるかめ拝所)。これまでどのような家の人物か、まだつかめていなかったが、『沖縄の古代マキヨの研究』(稲村賢敷著:135頁)で上地家について紹介されている。このように補足できる資料と出会うことは楽しい。香炉は上地福重が明治28年に上京し、帰ってきてから「奉寄進」したものである。


 ▲マティキヤウタキの香炉(稲嶺) ▲真喜屋のウイヌウタキの香炉   ▲真喜屋の「つるかめ」の拝所


    ▲[つるかみ」の拝所      ▲真喜屋ノロドゥンチの近くにあった上地門中の家(昭和30年代)



【光緒元年と明治28年に上京した人物(2010年1月29日メモ)

 羽地間切稲嶺村の惣山當の履歴書に以下のような記事がある(「名護市史資料編5」地方役人関連資料96頁)。宮里清助は羽地間切稲嶺村の人物で、この「御願書」は明治30年2月に羽地間切の地頭代へ採用願いの履歴書である。詳細には触れないが、真喜屋と稲嶺の「奉寄進」の香炉の人物達と重なる人物の一人である。

 光緒元年(明治8)の真喜屋掟嶋袋仁屋、明治廿八年の真喜屋村の上地福重、そして稲嶺村の宮里清助、三人が上京している。それは羽地間切の御殿と殿内へ奉公した羽地間切の村の人物との関わりを示すものである。明治九年の池城親方は三司官の池城安規で、上京中亡くなった人物で、その時葬式などを執り行っている。三司官池城親方の上京は、「琉球国の存続と清国との国交の継続」などの案件である。

 一 (明治)九年旧惣地頭亡池城親方東京御使者之時、旅供拝命、上京仕候事
    仝九年九月廿七日ヨリ仝十年七月廿日迄
 一 於東京屋我村掟拝命、早速帰帆之筈候處、檀那事明治九年五月ヨリ重病相煩ヒ看病方彼是手
   不足ニ付滞京拝命、仝十年三月ニ至テハ不慮及死亡、葬式並跡香儀向等相済シ、仝年七月十二
   日帰帆、檀那方役人方荷物付届向、仝月十三日ヨリ仝廿日迄首尾能相勤申候
 
 一 旧惣地頭で亡き池城親方が、東京への御使者の時、旅のお供を拝命し上京いたしました。
      明治九年(1876)年九月二十七日から同十(1877)年九月二十日まで
 一 東京において、屋我村掟を拝命し早速、帰帆の筈だったのですが、檀那である池城親方が
     明治九(1875)年五月から重病となり、看病にあたって、あれこれ人手不足なので、東京に
     留まれとの命を受け、明治十(1876)年三月になって、思っても見なかったことですが、死亡
     され、葬式と跡香儀などをすまし、明治十年七月十二日に帰帆し、檀那(惣地頭池城親方)
     及び役人方への荷物を付け届けるなどの仕事を、七月十三日から二十日まで首尾よく勤
    めました。

 
 上記三人とは別に、羽地間切真喜屋村振慶名掟上里にやの人物がいる。上京はしていないが、三司官池城安規が上京した際、旅行の「御立願」として、光緒元年(明治8、1875)八月十一日に国頭間切辺戸村へ出かけて「御立願」をし、十五日に帰ってきて間切の役人などに報告している。「口上覚」(羽地間切真喜屋村振慶名掟上里にや」に、以下のようにある。その時、立願をした上里にやは上京していないが、「光緒元年上京之時 奉寄進 真喜屋村掟嶋袋仁屋」(香炉)の嶋袋j仁屋が上京している。

 一 光緒元亥年八月十一日、檀那様御旅立願ニ付、国頭間切辺戸村江御立願仕、同十五日罷
    帰、間切役々衆江申上候
 一 同年十二月御旅御立願ニ付、主之前前様御下之時、今帰仁間切親泊迄御供相勤申候


  
    ▲「ないくみ」一門の墓の厨子甕   ▲真喜屋神アサギ側の「ないくみ殿内」 ▲上京の時寄進の香炉

※「ないくみ」一門の厨子甕は名護市史/名護博物館蔵です。