沖縄の地域調査研究
                          
寡黙庵(管理人:仲原)
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2020年4月(業務日誌)  3月(先月へ)

今帰仁グスクのヒカンサクラ(過去の開花状況)

2009年11月の動き(過去記録) 2009年12月の動き(過去記録)
2012年01月の動き(過去記録) 2012年05月の動き(過去記録)
琉球・沖縄の地図(講演レジメ)  徳之島踏査
今帰仁の神アサギ 山原の神アサギ 
山原の御嶽(ウタキ)と村と集落
今帰仁の墓の調査

今帰仁の印部石
元文検地と今帰仁
山原のムラ・シマー神アサギ・祭祀(講演)
山原のノロドゥンチ
本部町具志堅の調査記録(2003、2006年)
※今月から「業務日誌」として日々のことを記すことに。



2020年4月30日(木)

 新型コロナウィルスの流行で自宅での業務。歴史文化センターは燻蒸で閉館中。このHPは日々出勤前にアップ。調査で人に会うことは控えているので過去の調査記録を引き出している。

 今日は2002年の古宇利島のプーチウガンの参与観察記録を紹介。プーチははやり病のこと。島にはやり病(プーチ)が入らないように、島や集落への出入口で祓い(御願:ウガン)をする。情報のほとんど入らない時代、どのようにしていたのか。新型コロナウィルスがおさまる様を手をこまねいて、マスクをし三密を避けるしかない。古宇利島のプーチウガンの様相と重なってしかたがない。

2002.5.26) 古宇利島のプーチウガン(参照)

 
古宇利島の祭祀の日程が区長さんから知らされた。マスコミからムシバレーの問い合わせが歴文にあり、日程を知らせておいた。どの祭祀も見ておきたいのであるが、なかなか都合がつかない。フーチ(プーチ)御願は平成5年6月3日(旧4月14日)に参加したことがある。但し、西側部分だけだった。東側は未調査なので、そこに明日は参加の予定。神人達の御願を静かに眺めておきたいものだ。

 平成5年の参与観察記録に目を通してみた。祭祀は生き物と同様、動くものもあればまた動かない部分もある。9年前と比較してみようと思う。すでに変化したのにスタートの場所がある。名称は同じく今帰仁村農村環境改善サブセンターであるが前の建物はもうない。スタートは新しい農村環境改善サブセンター(公民館)からということになる。それだけでなく、神人の入れ替わりもあろう。静かに参加させてもらうことにする。農村環境改善サブセンターからお宮・お宮の隅・ピジャヤー(比嘉屋)・ヌルヤー・内神殿内・ナカムイまでは、参加者全員でまわる。ナカムイが終わると東組と西組の二手に分かれる。

 平成5年の西組は、ハンジ・チグヌパマ・ウパルマイ・グサブ・ターチバナシ・トゥンジバマの順であった。東組はどこどこをまわるのだろうか。

 このフーチ御願は「津口御願」とも言われ(『古宇利の研究』宮城真治)、「病疫を払う願いとして豚を潰して御願する」という。津口から疫病が入り込むことを防ぐ祈願のようだ。本島側では疫病を払うフーチ(プーチ)御願は今では見られない。村の入口に豚の頭やシーサーなどを置いて魔物が入るのを防ぐのはある。それはプーチ御願の痕跡かもしれない。久し振りの古宇利の祭祀調査となる。参加者いませんか。今日の明日だからね。(但し、祭祀の流れを壊さずマナーの守れる方)


チグヌパマでの御願(平成5年)    ハンジでの御願(平成5年)






2020年4月29日(

 上杉県令が明治14年今帰仁間切を巡回している。その経路を踏査したことがある。資料を読み取っていく時、当時の風景や生活などを念頭に入れて読み取っていく必要があると、そのことを学ばされたことが思い出される。各地を踏査しているのは、あるいは現場確認をするようになるきっかけとなる。(詳細は本編で)

2002.1.18(金)メモ

 上杉県令もやっと運天番所から本部間切へと腰をあげました。明治14年のことですから、今みたいに自動車があったわけではないのでノンビリと行きましょう(ホントは私が道草しているのだが)。気温は華氏の69度である。今帰仁番所・首里警察分署(運天)から上運天村・勢理客村・仲宗根村・謝名村・平敷村へ、東から西(摂氏20°)の渡久地番所(本部間切)へと向っている。途中、松並木や芋畑、藍畑、藍壺、水田、芭蕉畑、馬場などを眺めたり、側を通りながらの道中である。稲の苗が青々とした様子なども目にしている。藍壺に藍を漬して藍をつくっている場面、ノロなどが祭祀を行う空屋(仲宗根の神アサギだろうか?)などにも気を止めている。

 馬将は仲原馬場を指しているだろうし、道の傍らに90歳余の老人などが出迎えると上杉県令はわざわざ輿(車)を停めて賞与(褒美)を差し上げている。明治14年頃の今帰仁間切の宿道(スクミチ)沿いや村の様子が彷彿する。この日誌の記事を追いかけていると、120年前の時と場所へどれだけ深くはまり込んでいけるか、その感性が問われているような気してならない。往時の姿がどれほど確認でき、あるいは面影を見つけることができるであろうか。これから村人の記憶を拾っていく作業が待っている。


【上杉県令日誌】(明治14年11月28日午後)

 一行は百按司墓を視察した後、再び分署(番所)に戻る。番所で宿泊するのであるが、そこで県令が訪問の意を伝え、さらに今帰仁間切役人と問答をしている。その問答の一つ一つから当時の今帰仁間切の動きや間切番所の仕事の内容や様子が伺える。

 主な質問は、作物のでき、砂糖の生産高、台風の災害、財政について、人身売買、間切の村々の米の貯え、薪の売り出し、飢饉のときの分配の仕方、漁業、病人が出たとき、学校をつくる計画、どこにつくるのか、学校をつくる金、入学者は何名、村数、共進会への出品、博覧会に出京したもの、在京中当間切の為にと思ったことなどである。問答が終わると、上運天村平民仲村平八母ウタ93才、同村平民金城新緒母カマタ90才の者へ、目録の賞が与えられた。

 夜宴のとき、上杉県令公は地頭代を呼んで、学校新築の間切は、島尻の東風平を除くと今帰仁間切一ケ所である。その奮発尽力の程に感心したとのお褒めの詞あり、それで酒杯を振舞った。

【上杉県令日誌】(12月16日より続く)
 
 明治14年11月28日(午後1時40分)上杉県令の一行は屋我地島(済井出か運天原あたり)から舟で運天港にある今帰仁番所と首里警察分署の前の海岸に到着するが、番所と分署に立ち寄らず集落を抜けて坂道をいく。一つの洞窟があり、そこに鍛冶屋が設けられている。フイゴを据え、カナドコも置いてあるが人の気配がない。

 道は曲折盤回して登る。山の中腹に奥深い洞があり、白骨の髑髏があり、洞の中に堆積している。あるいは腐朽している。鎧櫃の中にあるのもある。地元の人は「百按司墓」と言っている。今では弔いや祭もされず、精魂はどこあるのだろうか。この髑髏は今より(明治14年)468年前に中山王の尚思紹が兵を起こし、北山王攀安知を滅ぼした時、北山の士が戦死した屍とも、あるは今から(明治14年)273年前、薩摩の島津義久、樺山久高を大将として琉球を攻めたときの戦死者の髑髏とも伝えられている。

 はっきりとした文献がまだないので両説のいずれが是なのかはっきりしない。近年本(県)庁では百按司の遺屍を埋める議論があるようだ。

 百按司墓から今帰仁分署に至る。門は南西に向いカジマルの木が陰をなし、四、五百年前のもの。傍らにはりっぱな福木がしげり、港の入口には日本型の船が二艘碇泊している。

【その後の様子】(仲原コメント) 
   
 運天は日常的に訪れる地であるが、12月20日の午前中、日本航空の写真撮影の案内があったので同行した。その時に番所(分署)跡から百按司墓まで散歩してみた。

 今では首里警察分署があった場所がどこか確認できていないが、番所内に置かれたようである。この首里警察分署は明治13年6月22日に羽地分署を運天の番所に移し今帰仁分署とし森寿蔵が分署長心得となった。所管は羽地・名護・今帰仁・本部・久志・大宜味・伊江・伊平屋・鳥島の広範囲に及ぶ。鳥島は明治14年10月に那覇署の管轄となる。明治15年1月に今帰仁分署は名護大兼久移し名護分署となる(『今帰仁村史』)。

 今帰仁番所は運天港の近くの福木の大木が数本ある場所である。運天に今帰仁番所が置かれたのはいつかはっきりしない。伊野波(本部)間切が分割した時には運天に番所があったとみていい(それ以前から運天にあった可能性もある)。番所が警察分署と同じ建物であれば、明治14年には門が南西に向かいガジマルの木が陰をなしたいた様子が記されている。また現在ある福木がりっぱに繁り、当時の様子が浮かんでくる。

 集落の中を通り、現在のトンネル近くに出たのであろう(トンネルはまだできず)。その近くに鍛冶屋をした跡と見られる洞窟が今でも残っている。その洞窟は物入れに使われている。所々に焼けた跡や鍛冶屋があった雰囲気が今でも漂っている。鍛冶屋跡から登る道は現在遊歩道として整備されているが、草ぼうぼうである。大正13年に建てられた源為朝公上陸之跡碑にたどり着く。

 さらに行って百按司墓を訪れている。半洞窟に白骨の髑髏がたくさんあり、鎧櫃に人骨が堆積している様子が記している。人骨の多さから北山が滅ぼされた時の戦死者の屍であるとか、薩摩軍が琉球を攻めた時のものであろうとか議論があるが、まだどっちとも言いがたいとしている。

 本(県)庁で百按司の遺屍を埋める義ありと聞くとあるが、それは明治15年8月に「白骨埋エイ之儀ニ付伺」を太政大臣宛に伺っているが、それは県庁費の中から流用支弁するべしと判断が下されている。明治21年頃に百按司墓は第一墓所から三墓所まで石垣が積まれ現在に至っている。

 運天港周辺の集落はムラウチと呼ばれている。古宇利島への発着場所にはコバテイシの大木があり、またムラウチには大川や神アサギや地頭火神の祠などがある。また、東がわの森の麓に今帰仁(北山)監守を勤めた今帰仁按司とその一族を葬った大北墓、それと大和人の墓塔二基もある。

【上杉県令日誌】(明治14年11月29日)

 朝の気温69度、午前8時40分に今帰仁番所、首里警察分署を出発する。
  ↓ 路を左に折れて小坂を登っていく。
  ↓ 巡査二名が護送する。村吏二人が纈袖(シボリソデ)して、
  ↓ 束竹を肩にして先駆けしていく。 
  ↓ 両側の松並木続き断えず
  ↓ 大道は高低があり、曲折しながら過ぎていく。
 右側の渓間に上運天村がある。
  ↓ 朝の煙が靄々(モヤモヤ)として棚引いている。
  ↓ 道端に一婦人あり、合掌して拝(イジギ)する。
 行くこと数丁、勢理客村に入ろうとする。
  ↓ 仲村豊次郎の母カマト90歳がきて、合掌して拝謁(ハイエツ)する。
  ↓ 桃花色の外出着を新製して穿(ハ)き、児孫を傍らに侍す。
 令公輿を停められる。
  ↓ 目録の賞与あり、スデガホウと言って拝謝する。既に
  ↓ 途(ミチ)につく。
  ↓ この辺りは薯圃と藍畑あり。
 行くこと数丁。
  ↓ 広漠の水田と薯圃あり。
  ↓ 秧針(オウシン)(稲の苗)が青々として秀発している。
  ↓ 両側に藍壺六、七あり、藍葉を漬して染料を醸(カモ)す。
 小さい流れを渡って仲宗根村に入る。   
  ↓ 村の南に沿っていき、村を離れる処で路を回って上りまた下る。
  ↓ 二箇の空屋あり、ノロクモイの祭典(祭祀)を行う所という。
 謝名村を過ぎる。
  ↓ 蕉(芭蕉)園多し。
 行くこと数丁、馬将(馬場)あり。
  ↓ 圃(畑)の中に岩石が突起している。
 既にして平敷村を過ぎる。 


2020年4月28日(火)

 今帰仁村には①今帰仁ノロ ②仲城ノロ ③玉城ノロ ④岸本ノロ ⑤勢理客ノロ(しませんこ) ⑥古宇利ノロ ⑦湧川ノロの七名。湧川ノロは1738年に湧川村新設後に置かれる。現湧川区地内に我部村があったこともあり我部村の神人が下のアサギ(奥間アサギ)でフプユミ・ワラビミチの時、挨拶を交わす場面がある。奥間アサギは奥間家の跡、奥間家の男方は勢理客ノロ家に婿入り、そこは勢理客ノロ、我部ノロ、さらに湧川ノロの新設、村移動など複雑に絡め合っている。

【今帰仁間切玉城ノロの継承2004.12.2(木)参照メモ 

 明治35年の文書(「玉城村ノカネイ跡職願之儀ニ付理由書」)を起こしてみた。今帰仁間切玉城村のノロ職に関するものである。ノロの継承や取り戻しにつての事例である。それと玉城ノロ家は玉城村に置かれるのが慣例だとし、取り戻しの理由としている。 

    玉城村ノカネイ跡職願之儀ニ付理由書

 今般玉城ノカネイ跡職願之義ニ付理由奉陳述抑々玉城ノカネイ職タルヤ先々我先祖ヘ御下命相成リ其後代々吾ガ血統内ヨリ継承セシ所タリ 然ルニ数百年前之事ハ口傳而己ニテ旧記等モ無之候ニ付先ヅ中古我ガ六代ノ先祖ヨリ順次陳述仕候

 一、先祖武太平良(武太平良ハ六代ノ先祖ニ當ル)妹ウトへ継承シ該跡職ハ
 ニ、平良筑親雲上(平良筑親雲上ハ五代ノ先祖ニ當ル)姉玉城村松田方婚嫁
   セシマカへ継承シ該跡職ハ
 三、平良筑親雲上(平良筑親雲上ハ四代ノ先祖ニ當ル)妹カナヘ継承し該跡職ハ
 四、本家血統内ニ継承スベキ人物ナキテ以テ不得己 

 前記五代ノ先祖平良筑親雲上姉マカ婚嫁松田方ノ外孫与那嶺村内間方ヨリ松田方ヘ養女ニナリシナベへ仮ニ継承セシメ該跡職ニ於テモ尚ホ我ガ血統内ニ相当ノ人物ナキテ以テモ前職ナベ養妹即チ松田方養二女マツ(前職松田マツノコト)ヘ継承セシメタリ然ルニ其後チ該マツ在職中我ガ血統ニ相当ノ人物相出来候ニ付此際更代合ヲ以テ血統ヘ帰シラレシ度旨関係村(玉城 平敷 謝名 仲宗根 四カ村ヲ云)並松田マツ方ヘ申出候処種々協議ノ末遂ヒ跡職継承ノ事ニ別紙証拠書並日記之通没シ 

 去ル明治廿七年七年五月ヨリ跡職見習(俗ニ前据ト云フ)トシテ現ニ本職者同様相勤メ居候事ハ別紙関係村証明書之通ニ御座候且ツ該ノカネイ神社(ノル殿内)ノ位置ハ古来玉城村境界内ニ設置セラルル慣例ナルヲ以テ

 従テ神職ノカネイ住家モ必ズ神社敷地内ニ一定セラレシガ前職者松田マツハ後来自分ノ血統ヨリ継承セラザル理ヲ悟リ住家モ去ル明治三拾一年ニハ生家仲宗根村山城方ヘ引移シタルヲ以テ其跡ヘ私方ヨリ新ニ住家ヲ建テ該跡職ト定メタルツルヲ現住セシメ神社ヲ管掌セシメ居候然ルニ前職故松田マツ方ヘニ於テハ該親類中ヨリ推挙セントノ考案ヨリ拙者ヨリ提出致候採用願ニ連署セザル次第ニ御座候間何卒前件ノ次第被遊御洞察右ツルヘ御下命被成下度此段理由奉開陳候也

  明治三十五年  国頭郡今帰仁間切玉城村拾七番地
                      平良 幸通印
             親戚同郡仝間切仝村拾六番地
                      平良 幸誠印
             仝上仝郡仝間切廿一番地
                      平良 幸佐印
             仝上仝郡仝間切拾九番地
                      平良 幸貴印
             仝上仝郡仝間切廿二番地
                      平良 幸宗印

 
文書のように杜の中にヌルドゥンチを建立 杜の中の玉城ヌルドゥンチ

 
玉城ノロの位牌(野呂カマタ)祭祀(ウシレーク)に使われた鼓

・岸本ノロ引継ぎ(認可)書(大正2年)

 今帰仁間切に岸本ノロがいた。現在、岸本村は玉城に統合されている。統合は明治三六年である。岸本ノ加ネイ(岸本ノロか)に関する以下の資料がある。4日に『玉城誌』の編集会議あるので話を引き出すための資料を整理。玉城(岸本ノロ管轄の岸本村と寒水村の祭祀)を紹介する。玉城・岸本・寒水の三ヶ村は、村移動やノロ管轄、村の合併などがあり、また祭祀との関わりなど複雑である。そのため、村(ムラ)別とノロ管轄に分けて整理が必要。

 『沖縄島諸祭神祝女類別表』(明治十五年頃)の岸本村の祭祀場として三ヶ所があげられている。ノロは岸本ノロクモイである。

   ・ノロクモイ火神 ・神アシアゲ ・嶌ノ大屋子火ノ神(岸本村)
   ・根神火神 ・神アシアゲ ・ウホンニヤ嶽(ウフンジャ嶽のことか)

  沖縄縣指令第一四五號
     国頭郡今帰仁村字玉城三百四十三番地
           大城清次郎
            外七名

   大正二年十月十七日附願岸本
   の加ネイ大城カマト死亡跡職
   大城カマド採用ノ件認可ス
     大正三年三月十八日
   沖縄縣知事高橋啄也 沖縄県知事印
    
http://yannaki.jp/gazou01/126ki1jpg  http://yannaki.jp/2012ga/126ki2.jpg
 ▲岸本ノロ採用の件              ▲寒水の神アサギ(昭和40年頃)

 『琉球国由来記』(1713年)に、どう記録されているか。
 岸本村にオホヰガワ嶽(神名:ヨロアゲマチュウノ御イベ)とある。岸本村は二度ほど移動しており、『琉球国由来記』(1713年)頃は、ウタキの位置からすると、寒水村(寒水原)のあった場所にあったと見られるので、注意が必要。同書の「年中祭祀」の所に岸本巫火神と神アシアゲがある。岸本巫の管轄である。岸本巫が管轄する村は岸本村と寒水村である。


【山原の港・津・江】2004.12.16(木)参照メモ

1.勘手納港(羽地間切仲尾村)
2.湧川港(今帰仁村湧川)
3.運天港(今帰仁村運天)
4.シークタナカ(本部町瀬底島~健堅の浜崎)
5.湖辺底港(名護市)
6.渡久地港(本部町)
7.炬 港(今帰仁村仲宗根)
8.塩屋港(大宜味村塩屋)
9.仲尾次魚港(名護市仲尾次)
10.もう一つの運天港(浮田港)(今帰仁村上運天)
12.(山原の各村の江・津)

 
仲尾のプァーシから見た勘手納港 ▲瀬底島の渡し場の跡

2020年4月27日(月)

 自宅で謹慎中。過去の記録から。各地を冒険しています。

2009年8月5日(水)(新城徳祐氏資料展・大北墓の移葬(ウツリタマイの様子)

 『沖縄県国頭郡志』(大正8年)に以下のように記されている。

   「此墓(運天の大北墓)は元北山城城下なる親川の東方今俗に「ウツリタマヒ」とい
   へる所にありて玉御墓と称せしが墓の天井崩壊せしを以て百数十年前地を運天に
   相し堅牢なる墓所を作り之れに移葬せりといふ」(430頁)

 大北(ウーニシ)墓のあったウツリタマヒの墓地跡を訪ねてみた。19年前(1990)にも訪れている。墓の場所は大方知っていたが、再度確認に足を踏み入れることはしなかった。写真に撮ってあったので崩落の様子は記憶にある。墓跡の内部の様子や周辺については記憶がほとんどない。記憶に留めておいたのは福木の木があったこと、それを目安にすればいいと念をいれていた。あちこち探し回って、見つけることができた。墓の全面が崩壊していたことは写真で何回も見ていたので記憶にある。崖を横に彫り込んだ墓である。

 今回、墓の上部まで上がってみた。すると真上から墓が崩落している。そこは隣の墓だと見ていたのだが、中央部の墓は両側の墓へと内部でつながっているようだ。真上から崩落しているのは隣の墓のようだ(内部でつながっている)。崩壊した土砂の下に、石棺や甕などの一部が残っている可能性がある。墓石に使われていた石が、僅かであるが散見することができる。もう少し、墓内部の様子を調査する必要あり。

 大北墓の石棺に「雍正十一年癸丑三月十六日移」(国頭郡志)とあり、ウツリタマヒから運天の大北墓に移葬したのは1733年とみられる。大北墓の造営は今帰仁按司(王子)十世宣謨である。首里王府へ家譜を申請した頃である。但し、大北墓の拝領願は乾隆26年(1761)である。その時、一族の墓が西原間切末吉村に造ったので、同時に提出したと見られる。大北墓の碑や『具志川家家譜』の「乾隆廿六年辛巳十二月」(1761)は西原間切末吉村の墓と同時に出した拝領願の年とみてよさそう。

 今帰仁按司家(具志川家)同様、士族の墓の修復は家譜の申請と時期を同じくすると見られる。今帰仁按司三世(和賢)の墓の修復は、これより古く康煕17年(1678年)である。

 今帰仁グスクで監守を勤めた今帰仁按司や今帰仁アオリヤエなど、一族は運天に移葬されるまでは、この墓に葬られていたということになる。

「ウツリタマヒ」の墓跡を確認」(『なきじん研究』2号所収:1990年)としてまとめてある。同行した方々(今泊字誌編集委員の上間政春氏、新城繁夫氏、嘉手納典一氏、親川繁氏)、皆さん他界されている。いろいろ力になってくれたことが思い出されます。

 
   ▲今泊のウツリタマヒにある玉御墓の跡     ▲今泊のウツリタマヒの玉墓の跡(崩落) 

 
    墓の上部から見ると落盤している。              真上から丸く落盤している。

 今帰仁城の麓のウツリタマヒから運天の大北墓(按司墓)へ移葬された。


  
  運天にある大北墓(1761年に拝領墓となる)  拝領願で出された絵図    大北墓にある碑(再建)

今帰仁按司朝賞の扁額 2002.11.22(金)メモ
 
 下の扁額は鹿児島県日置郡郡山町花尾神社に奉納せれたもの。昭和57年度沖縄県文化財調査報告書(第44集)「扁額・聯等遺品調査報告書」(沖縄県教育委員会)に収録されているもの。それによると、
  ・木製(朱漆地金文字黒縁)
  ・たて54.5cm×横85.5cm
  ・1787年
  ・今帰仁按司朝賞
とある。

   天明七年丁未菊月吉旦
       陰
       長
   今帰仁按司朝賞謹立
           印印
            □  朝
                賞

  

 今帰仁按司朝賞は今帰仁按司(今帰仁王子)十一世弘猷(1756~1809年)のことである。父は十世宣謨。天明7年は1787年(乾隆52年、朝賞31歳のとき)。

 「具志川家家譜」に十一世弘猷の記録があり、天名7年にあたる乾隆52年の7月斉宣公の慶賀のときの使者として7月11日に那覇港を出港して8月1日に薩摩に到着している。11月6日に城で太守斉宣に原紙や蝋燭、鰹節、杦原紙を、また重豪公にも同様な品々を献上している。公務を全うし翌年の2月11日に鹿児島府を出て3月11日に泊港に到着している。

 「具志川家家譜」の乾隆52年記事は薩摩の福昌寺や浄光明寺などを拝謁している。花尾神社については具体的に記録されていないが拝謁をし、扁額を献上したものと思われる。今でも掲げられているのが、その時のものに違いない。平成二年頃、歴史資料館運営委員の先生方を案内して鹿児島県内の博物舘や資料館を訪れた。その時、花尾神社を訪れている。その前にも鹿児島市から錦江湾沿いに志布志まで車で踏査している(デジカメのない時代。重いカメラをかついで。別の年に錦江湾沿いに開聞岳から坊津まで))


今帰仁王子弘猷(朝賞) 2002.11.27(水)メモ

 今帰仁按司十二世鴻基(朝英)の父は今帰仁王子弘猷(朝賞)である。十二世向鴻基(1755~□)は1816年にバジル・ホールが率いるイギリス艦船が来航した際、英国の謁見を求めたのに対して、断りの使いとして向邦輝と名前を変えてバジル・ホールと会見している。近世末の琉球国の動きで重要な役割を果たした人物の一人である。

 詳細については触れないが琉球側からアルセスト号とライラ号に納めた品目を見ると、
   ・牡牛(去勢牛)・豚・山羊・鶏(家禽)・魚・卵
   ・甘蔗・壷・オレンヂ・蕫菓子・葱(ネギ)・大根
   ・オランダみつば・葫(ニンニク)・蝋燭・材木・南瓜
   ・そうめん・砂糖・紙
などである。そのお礼として、
   ・玉瓶・玉盃・玉瓶(酒入)・□羅紗・玉色羅紗
   ・印肉・遠目鏡・日見鏡(六分儀?)・紙・筆
   ・西洋布・帆布
などの品々を進上されたという(琉球側日記)。

 バジル・ホールの記事はもう少し丁寧に目を通してみたいが、琉球側が提供した品々、イギリス側からの品々をみても文明の違いを垣間見ることができる。

 今帰仁グスクのウーシミ(大隅)の城壁は今修復中である。昨年の夏の台風で崩壊し、その修復工事である。今帰仁グスクを前にしながら、このページで書き込むことはなかなかしない。近々、今帰仁グスクについて紹介してみようと考えている。「北山の歴史」をまとめたことがある。あらためて見直してみたいと思っている。


2020年4月26日(

 2017年6月8日(木)ホウライカガミ(オオゴマダラの食草)を植えている。翌年、一度のみオオゴマダラを見かけた。昨日、「寡黙庵」へ出勤。(コロナウィルスの拡散を避けるため)寡黙庵の庭は花盛り。チョウが乱舞している中に、フワリフワリと舞っているオオゴマダラが一頭。庭のホウライカガミを食草にして育った?

  

2017年6月22日(木)墓調査参照

 
本部町渡久地大多良原にある「御夫人御墓」(おなじゃら墓)を開ける。調査体制と厨子甕数の多さ、足の踏み場もないほどなので詳細は昭和49年の銘書記録にゆずることに。内部の様子を確認するのみとする。昭和49年の調査記録(銘書)を仲村家が持参しておられたので撮影。それらで墓の性格や様子を整理することに。5月の連休に村内で墓じまいと移葬の立ち会いの依頼があったが、コロナウィルスがあり延期の連絡あり。

 大正時代に開けた墓は「安司多部御墓」(あすたべ墓=按司墓)、按司墓と呼ばれる墓。)



 


【今帰仁村字渡喜仁】(戦後すぐの字の議事録)

■1946年10月31日

 有志会決定事項

一、他字他町村より転入者に関する件
   一条 他字他村民にして当部落に移住希望者は事情の如何に不拘当部落の土地
       面積調査の上人口過剰の仰向に有り漸く転入承認を得ず
   二条 当部落出身者にして外地在住者帰還者に限り受け入れ承認す
   三条 帰還者にして親戚知己なき貧困者に限り字責任に於而給与す
      帰還者の件常会に於いて決定す
   四条 部落出身者にして帰還者受け入れは通常として縁故者で面倒を見る事 

■1947年3月18日決定
鶏盗取締りの件
一、若し盗人を捕えたる場合は部落より退散の事
一、盗難予防対策打合の件
一、衛生関係班長連絡の上字一円として畜舎の建築指定の件 

■1947年5月3日 
常会決定事項
一、道路修理の件
   修理ケ所 加キジユの前より大浜海岸に至るトキ仁中央線道路
一、衛生に関する件
   便所を毎日掃除する事
   畜舎少なく共屋敷より一五〇米離して築造する事

    一、軍部隊労務員賃金支払の件
  字支弁額(技術員一日参拾円 労務員一日弐十円)
  右字支弁額は各戸徴収する事(但し等級に依り案分する事)
一、村夫役出夫に関する件

    一、字内出夫欠夫者に対する夫賃決定の件
  (一日弐十円を当日徴収、当日出夫全員にて消費する事) 

■1947年5月19日
有志会協議事項
 一、他市町村依りの転入者に関する件

  (イ)字加入金として金千円也を徴集する事に決定す
(但し新加入者は字民の縁故なる事。縁故者と言え共字民協議の上で決定する事)

■1948年3月5日
   夫役不過に対する有志会開催
    有志会を召集するも各班の出席不ぞろいにして右事項の議事を進行するに至らず
    当日出席せる人員

  第一班(欠) 第二班(小那覇安忠) 第三班(小那覇安勇) 第五班(欠) 
第六班(喜屋武忠二郎) 第七班(石川清一、小那覇安助、石川清仁)
第八班(喜屋武忠源、喜屋武忠一郎) 第九班(照屋全賢、當山清光、當山清亀)
  右十一人を以って今後の常会に欠席する者罰則法を決議す 

   一、各班班長を以って必ず常会に出席する様特励伝達する事)
一、欠席者は其の班の班長責任を以って罰金拾円を納付する事
一、欠席罰金は当日それを消費する事


2020年4月25日(土)

 「沖縄の地域文化論」レジュメ 2011.7.12の講義の一部である。与那国島は二度訪れている。もうを訪れることはないであろう。「今帰仁の歴史」で今帰仁按司鴻基(12世)はバジル・ホールと交渉をした人物である。

 地図を広げてみると、沖縄本島北部から直線距離にして与那国島までと、鹿児島県の開門岳あたりに相当する。そう見ると、沖縄県ではあるが与那国島は遠い。今回、与那国島に足を向けた理由の一つに、『慶来慶田城由来記』(嘉慶25年の奥書:1820 宮良殿内本)や『中山世譜』(附巻)の嘉慶25年条、そして『具志川家家譜』の記事である。

 ○『慶来慶田城由来記』(嘉慶25年の奥書:1820 宮良殿内本)
   右嘉慶弐拾四卯九月、与那国島江今帰仁按司様
   大和船より被成御漂着候付、諸事為見届渡海之時、
   西表村潮懸滞留ニ而先祖由来より書写、如斯御座
   候、以上
      辰二月          用庸
   右錦芳氏石垣親雲上用能御所持之写よ里写候也 
      用紙弐拾五枚    松茂氏
                     當整
 ○『中山世譜』(附巻)の嘉慶25年条に、与那国島へ漂着した概略が記されている。
   本年。為慶賀 太守様。陞中将位事。遣向氏玉城按司朝昆。六月十一日。
   到薩州。十一月二十三日。回国。(去年為此事。遣向氏今帰仁按司朝英。
   前赴薩州。但其所坐船隻。在洋遭風。漂到八重山。与那国島。不赶慶賀使
   之期。故今行改遣焉)

 ○『具志川家家譜』十二世鴻基(朝英)の嘉慶24年に詳細な記述がある(省略)
 薩州の太守様が中将になったときに、向氏今帰仁按司朝英(鴻基)が派遣されたが、薩州に着く前に、船は逆風に逢い八重山の与那国島に流されてしまった。翌嘉慶25年向玉城按司(朝昆)を派遣した。今帰仁按司鴻基は1816年に琉球を訪れたバジル・ホールと交渉した人物である。那覇港を出航したが、逆風にあい運天港に乗り入れ風待ちをし、運天港から出航したが与那国島へ漂着する。

 与那国のことを調べている(『与那国島』(町史第一巻参照)と、膨大な情報があるが頭に入れ込めず。島に行って島の人々の個性と接することができればと開き直っている。

 与那国のことを島の人々は「どぅなん」と呼び、石垣では「ゆのおん」と呼ぶという。そのこと確認できれば。『成宗実録』(1477年)に与那国島に漂着した朝鮮済州島民の見聞録では「閏伊是麼」(ゆいんしま)、おもろさうしでは「いにやくに」、『中山伝信録』(1719年)には「由那姑尼」とある。近世になると「与那国」と表記される。
 与那国島近海が黒潮の玄関口だという。大正13年に西表島の北方沖で起きた海底火山。そのときの軽石が黒潮に乗って日本海側と太平洋側の海岸に流れ着いた様子を気象庁に勤めていた正木譲氏が紹介されている。与那国島近海を北流する黒潮本流と、与那国島にぶち当たり反流する黒潮支流があるようだ。そのことが、与那国島の祭祀や言語などに影響及ぼしている。

 与那国島について、乏しい知識で渡ることになった。すでに多くの研究がなされているであろう。それらに目を通すことなく渡ることになるが、帰ってから学ぶことにする。まずは島に渡ることから。与那国島から石垣島に渡る予定。
    
 

    ▲ティンダハナタから祖内集落を眺める           ティンダハナタの崖

 

       ▲ダティグチデイの石積み                     石垣の内部にある方位石

        


2020年4月24日(金)

 
「寡黙庵」に出勤することが多くなりそう。テレビのニュースを見たり、耳にしていると戦時中の様相を見せている。物不足、入域の自粛、アルコールなど。コロナウィルスの発生を避ける手立ては? 

 「寡黙庵」の庭は花盛り。庭のユリの開花は来月。イチゴの一個、二個では食糧になりません。イモの栽培では収穫まで時間がかかりすぎる。小麦粉(メリケン粉)を多めに手に入れておいて。草の葉は手に入るから。「そうね」と笑っている。

  

  

 勘定納港は「北山滅亡」(1416年)と関わる港である。

勘手納港(羽地間切仲尾村)

 勘手納港は羽地間切(現名護市)の仲尾を中心とした海浜である。勘手納港の範囲は現在の呉我から仲尾、さらに仲尾次に至る約一里浜だと言われている。変哲もない海岸(勘手納港)が近世の琉球国の仕上世米を積み出す四津口(運天・湖辺底・那覇・勘手納)の一つであった。その変哲もない海岸が津口(港)として利用していた。そのような四津口が、私たちが描いている港に対する常識を覆してくれるのではないか。そんな期待があって勘手納港からスタートした。

 勘手納港について、いくつか史料がある。数少ないが史料ではあるが、そこから勘手納港の様子を見ていく。近世の津口(港)がどのようなものだったのか、そして山原船がどのような航路を往来していたのか。一つひとつ拾っていく。勘手納港の様子が髣髴するウタがあるので紹介。そこに山原船を浮かべて見たいものだ・・・
    昔この浜や 羽地村々ぬ
    上納物や くまに納みて
    勘定あてやい 払ゆる場所やて
    勘定納浜んで 名じきてあんでさ

 ・1416年・・・北山グスクが攻められたとき、勘汀港に国頭・名護をはじめ中山の軍隊が集結し、
        それから攻めた港だという。
 ・1785年・・・勘手納港で御米を積んで、船頭種子島の秀右衛門今月廿六日順風になったの
        で出帆・・・(『親見世日記』南島風土記)
 ・明治14年・・・十一月廿八日朝午前九時、羽地国頭郡役所(親川番所)は発す。・・・路を
          左に折行くこと数町、勘定納港に出づ。官庫瓦を以て葺けり。役所詰員及
          び村吏の奉送する者、皆別れを告ぐ。

         旧藩時代仲尾に公庫即ち定物蔵を設置し、羽地間切の貢米を勘定せしを
         もってこの名あり・・・(『沖縄県国頭郡志』435頁)

  バジル・ホールやペリー一行の記録もあり。画像は今朝の勘手納港である。近世の津口(港)は、沖に山原船が停泊しているそのような風景なのかもしれない。


2020年4月23日(木)

 「寡黙庵」でワーク。もう行くことない地域を。本島北部と同類、あるいは異なる風景を見ることができた。山原船、集落区分のダカリ、のろ神社、外人墓地、泊港付近の港マチの風景など。過去の記録をみると、各地を踏査している。当時は、海上交通(山原船や津)をテーマしていた頃である。


2005.04.19(火)記録参照

 座間味村の座間味(座間味島)をゆく。

 主な目的は慶良間海洋文化館のマーラン船(山原船)やテーサン舟(組舟)やサバニなどの確認である。午前9時発のクィーンざまみ(高速艇)はパスして、10時とまりん発のフェリー座間味に乗り込んだ。座間味島まで約1時間半。穏やかな海上だったので、しばらく甲板に出て島々を眺めながら。フェリーから泊港の現在の様子や外人墓地あたりを確認する。それと沖のリーフが切れた大和口(倭船口)・唐口(唐船口)・宮古口(八重山口)が見えるか。

【泊 港】
・安里川の右岸
・13世紀から14世紀にかけて国頭地方、宮古・八重山・久米島などの船が出入り。
・諸島の事務を扱う公館(泊御殿)や貢物を納める公倉(大島倉)が置かれた。
・近世期に漂着した中国人や朝鮮人などは泊港へ送られた。そこから本国へ。
漂着人に死者が出ると泊北岸の聖現寺付近の松原に葬った(外人墓地)。
・19世紀になると英・仏・米国の船は泊港沖に碇泊、外人の上陸地。
・明治になると本土と結ぶ大型船や中南部や八重山からの船は那覇港へ、
 山原からの船は泊港へ。

【座間味島】
 ・座間味港
 ・慶良間海洋文化館
    (山原船(マーラン船)・サバニ・伝馬舟など)
 ・ヌル宮(ヌンルチ)
 ・鰹漁業創業碑(役場前)
 ・バンズガー(番所井戸)
 ・番所山
  標高143.5m、王府時代の烽火台が設置される。
 ・イビヌ前
   座間味集落のハマンダカリ(浜村渠)にある拝所。イビヌメーは海神宮である。イビヌメーで
    イビヌメーの話を一生懸命してくれた方がいた。
 ・高月山(座間味集落と港)
 ・阿護の浦
   進貢船や冊封船の寄航地。阿佐船・座間味船・慶留間船などの潮掛地
 ・稲崎
 ・女瀬の崎
 ・安真集落
 ・マリリンの銅像
 ・古座間味
 ・ウフンナートゥ(現在の漁港)
 ・座間味の集落
   座間味の集落は内川を挟んでウチンダカリとハマンダカリに区分される。ウチンダカリに
    古座間味から移動した集落ではないかと言われている。

【慶良間薪】(キラマダムン)『座間味村史』(上)参照
  慶良間薪は山原薪を比較され、慶良間薪は山原薪よりよく火つきがよく火力があったという。
  那覇の泉崎橋から旭橋あたりは船蔵(フンングヮ)と呼ばれ、山原や慶良間の船がやってきて薪や
  材木などを陸揚げしていた。一帯に薪や炭や材木問屋が並んでいたという。薪は泉崎の湧田や
  牧志の瓦焼きの業者が瓦焼きの燃料にした。瓦焼き用の薪はカーラダムンと呼ばれ、安里川の
  河川から水運で運ばれた。カーラダムンは松を輪切りを大割にしたもの。

 座間味の集落は古座間味からの移動か?座間味村役場の前に阿佐儀名の民宿?を見つける。山原の神アサギと同じ?
 
      ▲フェリーからみた現在の泊港(那覇)の様子

        
      ▲山原船(マーラン船)(慶良間海洋文化館)

 
 ▲山原船(マーラン船)(慶良間海洋文化館) ▲テーサン舟(組舟)  

名護城史考                            島袋源一郎(昭和310月)

『南島研究』(第5号)(昭和3年:1928年)

 昭和3年10月28日、名護神社竣工の式典を挙行するというので、関係団体より神社由緒の起草を懇願されたが、別に明確詳細な記録がないので、此れに中山王府編纂の諸書や、今帰仁城に関する史料及び口碑等照合し、これに沖縄の宗教に関する一般的考察等を総括して見たいと思う。

 「琉球国由来記」(1713年)には名護城の森をテンツギノ嶽、神名をイベツカサとし
   毎年三、八月四度御物参の祈願あるなり、且海神祭折目の時、神酒一器、百姓中之を供へ、名護ノロ祭祀するなりと見えている。又同書に
  名護ノロ火神
  毎年三八月四度御物参の祈願あるなり、山留に付き竹木伐る故作毛の祈願をなすの時、
  線香花米九合宛、麦酒一器、名護・宮里・数久田・世富慶四ヶ村百姓中稲穂祭三日祭の
  時花米九合、モロミ一器、同四ヶ村百姓中之を供え、名護ノロ祭祀するなり。

  名護城神アシアゲ
  稲穂の時、モロミ一器、(惣地頭)同一器、糟神酒三、シロマシ二器(百姓中)稲の穂(伊地味
  大屋子地所より)同大祭の時、神酒一器、赤飯一器(惣地頭)神酒五、赤飯一器(百姓中)
  年浴柴指の時、神酒一器宛(惣地頭)同四宛(百姓中)、ミヤタネの時、神酒三(百姓中)之
  を供え名護ノロ祭祀するなり。

 七月中吉日を選び海神祭の時、神酒八、餅三十本、村々百姓中之を供え、名護ノロ祭祀するなり。
 と記されている。

 名護城神アシアゲは昔ながらに按司の居城であった山上の台地にあるが、ノロ火神殿内は以前は現在の拝殿の位置に建っていた。そこにはその他にノロ位牌殿内とノロクモイ住宅と三棟相並んでいたのを明治三十三年下方の風当りのない土地を相し、一軒の瓦葺きを建てて此の三棟合一してあったのである。

 それを昭和元年町民の発起に依って新に元の三殿のあった土地に近代日本式の神殿と拝殿とを建築して変座し、全然ノロクモイ舎takuおは棟を別ににする様になった。是れ古への複ったので所謂神と床を同じうしてその神聖を汚すことを避けたのである。それと共に祭司の私宅より出る方が神威普く行われ、随って民衆信仰の上からも義意深くなる。

 以上は主として名護城の変遷につきて述べたのであるが、次にテンツギノ嶽及びイベツカサの神の内容について私見を述べたいと思う。

 次に従来の宗教思想では此等の祖神に対する祈願はその神の後裔なるノロクモイ、根人神人等を通して行うことになっている、即ち自己の血液が御呼びしたら祖神は直じお森(テンツギノ嶽)に降臨してその祈願を聞かれるのである。然らば判る所の氏神はいずれも独自に吾人の吉凶□福を司る権能を有するやというに、沖縄の祖霊崇拝教では之を信じているのである。此の宗教は多神教の程度まで発達しているが種々の障害のために停頓状態に陥っているのは寔に遺憾である。

 若し沖縄の宗教が、すべての祈りを吾等の祖神を通じて大宇宙の支配者たる神に願うという宗教意識に
導き得るならば、自然教の境地を脱却して立派な文明教の中に入れることが出来るのである。

 以上記録や口碑を本とし、私見(島袋源一郎)の一端を記述して此の稿を認めた次第である。(昭和3年10月穀旦稿)

2020年4月22日(水)

 
古宇利島について架橋後あまり触れてこなかった。古宇利島は『古宇利島誌』の執筆・編集で数年エネルギーを注いできた。そこから研究の数多くの手法を学ばされた。御嶽(ウタキ)・祭祀記録は歴史記録となる・海神祭は五穀豊穣・狩猟など多岐に及ぶ・神人は公務員である・祭祀は今の公休日(神遊び)である・二つ神アサギ(上のアサギ、下のアサギ跡)は少なくとも二つのムラが一つとなるなど。古宇利島の祭祀を一年間通して調査をし『なきじん研究―古宇利島の祭祀の調査・研究―』(298頁)に収録(2010年発行)。

古宇利島参照

 島には七森七嶽(ナナムイナナタキ)がある。一島であると同時に一村である。そこに七つの御嶽がある。島の集落の発生と御嶽(ウタキ)との関係がどう位置づけられるのか。本島側の御嶽からするとマクやマキヨの小規模の集落と結びつけて考えられないか。さらに御嶽を担当する神人(神人をだす一門)との関わりでみていくとどうだろうか。かつてはタキヌウガン(旧4月と10月)のとき、島中の人たちが参加したという。

 古宇利島が複数の小集落の統合があり、さらに村の合併の痕跡がある。ただし、近世には一村になっている。村の統合の痕跡は神アサギが二つあったこと。現在の神アサギ(ウイヌアサギ)とヒチャバアサギ(下のアサギ)があること。ウンジャミのときウイヌアサギとヒチャバアサギで同様な所作を行っている。そしてソウヌウタキ付近にアサギマガイの地名があることなど、少なくとも二つの村レベルの集落の合併があったとみられる。

 古宇利島のウタキ(御嶽)と集落、集落を一つにした村(ムラ)との関わりで見ると、どうも島のいくつかの小さな集落(マクやマキヨ規模)から成り立っていた。それが、次第に村としてまとまっていく(あるいは、まとめられた)。その痕跡として七森七嶽のウタキを担当する神人があてがわれているのではないか。集落は村(ムラ)として一つにまとまったのであるが、別々の集団を一つの村にしたとき、それぞれの一門から神人をだし、ウタキを担当する神人として伝えているのかもしれない。その姿は国頭村比地のアサギ森(ウタキ)の中にある数カ所のイベに、各一門が集まる姿とよく似ている。古宇利の七森七嶽は島内に数個の集落の発生があり、それが一門のよりどころとして御嶽をつくり、祭祀に関わる神人の出自と御嶽が結びついている。古宇利島の七森七嶽は、そういった集落の展開と祭祀、さらに神人との関係をしる手掛かりとなりそうである。

 古宇利島の七つの御嶽は杜をなし、その中にイベに相当する岩場がある。岩場の半洞窟や洞窟を利用している。マーハグチは半洞窟部分に石を積み上げ内部に頭蓋骨や人骨がある。形としては墓である。かつては頭蓋骨を拭いたというので墓ではないのかもしれない。ナカムイヌ御嶽だけはコンクリートで祠をつくってある。ソウヌ御嶽のイビは2005年後に確認済みである。 

御嶽(ウタキ)名と概要 現在の御嶽の様子
ナカムイヌ御嶽  古宇利の集落の中に位置し、中森御嶽の近くに神アサギやフンシヤー、そして南側に内神屋・ヌル屋・ヒジャ屋などの旧家がある。豊年祭や海神祭を行うアサギナーがある。年二回(旧4月と10月)のタキヌウガンだけでなく他のウガンでも拝まれる御嶽である。御嶽と神アサギの間はミャー(庭)となっていて豊年祭やウンジャミが行われる。御嶽の中にイビがあり、そこに祀られている骨は人骨の認識がある。プーチウガンやナカムイヌ御嶽は古宇利子(フンシヤー)の扱いである。下の画像はナカムイヌ御嶽の中にある祠。イベにあたる
マチヂヌ御嶽  古宇利集落の後方に位置し、年二回(旧4月と10月)のタキヌウガンの時に拝まれる。マチヂのイベ部分は琉球石灰岩がズレ落ち三角の半洞窟状になっている。その内部に石がころがり、手前に香炉(比較的新しい御影石?)が置かれている。『宮城真治資料』によるとヤトバヤの扱いとなっている。拝む方向としては、現集落を背にして拝む形である。一帯は中原遺跡となっていて、集落があった痕跡がある。ヤトウバヤ(恩納ヤー)の担当の御嶽。(画像古宇利掟提供)

 下の画像はマヂヂヌ御嶽のイベにあたる部分。大きな岩の窪みに石がいくつも置かれている。


マ|ハグチヌ御嶽  最近マーハグチまでの道が開けられた。神人達はタキヌウガンのとき、そこまで来ないで道路でお通しをする。大きな岩の下に石積みがあり、頭蓋骨をみることができる。現在は年二回(旧4月と10月)のタキヌウガンで拝まれるが、根神の一門で正月・四月・七月・十月の年四回拝んでいたよだ。花米や御五水(酒)を供え、白い布を酒でひたし二つの頭蓋骨を拭くこともやっていたという。担当は根神である(マーグスクヤー)。
トゥンガヌ御嶽  道路から御嶽の中に入り進んで行くと岩がある。その下に線香を立てる石が置かれている。年二回のタキヌウガン(旧4月と10月)の時は道路で線香をたてお通しをする。ノロなど七名の神人が担当するという。


                (画像古宇利掟提供)
ソ|ヌ御嶽  古宇利島の東側に位置し、御嶽の近くの浜はソーヌ浜と呼ばれる。杜全体が御嶽になっていてイビがあるというが未確認。ウンナヤーは一帯から集落内に移動したという伝承がある。そのためかウンナヤー担当の御嶽だという。タキヌウガン(旧4月と10月)のときは、上の道路からお通しをしている。宮城真治資料ではノロなど七名の神人の担当になっている。ウンナヤーのここからの移動伝承は、御嶽と御嶽担当の神役との関係を示している可能性がある。
プトゥキヌメ|ヌ御嶽  島の一周線から御嶽に入ると半洞窟の岩屋がある。そこは御嶽のイビがあり線香をたてる。鍾乳洞の石が仏に似ていることに由来するのだろうか。タキヌウガン(旧4月と10月)のとき、神人達はイビまで行ってウガンをする。ノロ担当の御嶽のようである。付近に集落があったかどうかの確認はまだできていない。
ハマンシヌ御嶽  一帯の地名がハマンシ(浜の石)で、島の西側の浜は石が多いことに由来するようだ。別名ビジュルメーヌ御嶽ともいう。御嶽に入るとイビの奥に小さな洞窟があり、人形の形をしたビジュル(小石:石筍)がいくつもある。ここも年二回(旧4月と10月)のタキヌウガンの時に拝まれる。二、三人の神人が洞窟内で石を持って吉凶を占う。内神の担当のようである。

【スルルガマと戦争】(2005年7月23日)

  (略)

2020年4月21日(火)

 過去に報告した平敷の資料の整理。今帰仁間切の役人と関わる「口上覚」(勤職書:履歴書)が20点余がある。まだ、それらの資料の知識がなかった頃に紹介した原稿の整理にはいている。

平敷のウタキのイベの香炉

  ・道光二十五年 上国之時 奉寄進 平敷村 嶋袋仁屋 (1825年)

 今帰仁村平敷にある拝所のある杜はタキ(ウタキのこと)と呼ばれる。ウタキは平敷の現在の集落の北側に位置し、杜の中に散在してあった拝所を杜の中に集めている。杜周辺からグスク土器や青磁器などの遺物が散在している。かつての集落はウタキの南側に展開していた様子がうかがえる。ウタキの中にイビがある。そのイビに四基の古い石の香炉が置かれている。その内の二基に「奉寄進」と刻まれている。その一つに「道光二十五年上国之時 奉寄進 平敷村 嶋袋仁屋」と刻まれている。道光25年の上国した人物に今帰仁里主親雲上がいる。同行した一人ではなかったか。



【謝名のウタキのイベの香炉


 ・同治午九年十月 奉寄進 松本仁屋 ((1870年)

 謝名御嶽(ウガミやグシクともいう)のイベまでいく。昭和9年に謝名神社を建立し、拝所を統合したようである。お宮の後方の高い所にウタキのイビがある。そこに香炉が置かれている。それに「奉寄進 同治九年午九月 松本仁屋」(1870年)とある。スムチナ御嶽に「奉寄進 同治九年十月 松本にや 大城にや」と彫られた香炉があり、松本仁屋(にや)は謝名村出身の同一人物とみられる。

 同治九年(1870)は向氏今帰仁王子朝敷が中城王子に付いて法司官に命じられ、六月二十二日に薩州に到着し、十月十一日に帰国している。二つの香炉は今帰仁王子朝敷の薩州上りと関係しているのであろう。松本仁屋は御殿(ウドゥン)奉公、あるいは薩州上りに随行していった人物か。香炉の銘は「同治九年午九月 奉寄進 松本仁屋」と読める。




平敷の仲里家の拝領墓の図(墓は現在もあり)


2020年4月20日(月)

 過去の調査記録の整理でもするか。

【家譜に登場する三十三君(女官)】

【具志川家家譜】
 ・世寄君(韶威の娘)(和氏平良親方景平に嫁ぐ)
 ・阿応理屋恵按司
 ・世寄君按司
 ・宇志掛按司
 ・呉我阿武加那志
 ・司雲上按司
 ・大北墓の三名の今帰仁阿応理屋恵

【嘉味田家】(尚真王第四子)
 ・佐司笠按司加那志
 ・君辻按司
 ・島尻佐司按司

【伊江家】(尚円王大宗)
 ・宇和茂理按司
 ・司雲上按司

【湧川家】(越来王子)
 ・佐司笠按司

【小禄家】(尚真王第一子:浦添王子)
 ・首里宇和茂理按司
 ・世治新君按司
 ・君清良按司
 ・君加那志按司
 ・宇和茂按司
 ・望月按司

【真壁家】
 ・聞得大君加那志

【阿姓家譜】(照屋家)
 ・聞得大君加那志

    (工事中)


2020年4月19日(

本部町具志堅の調査記録(2003・6年をアップ。
 古琉球の辞令書【東の掟宛辞令書】(嘉靖42年:1563)(具志堅上間家)
 上間村と赤墓
 具志堅の祭祀
 企画展

 
    具志堅の浜(入り方浜)          具志堅にある上間家(ウイマヤー)

 
  上間家の離れの拝所の内部      「元祖上間大親亨翁」とある位牌

 
    上間家の位牌(明治以降)        拝領墓の上間家の墓(赤墓)

2008131日(木)過去参照メモ

 明治28年に発給された今帰仁間切の最後の地頭代(諸喜田福保)の辞令書と「勤職書」に目を通す。辞令書の文面は「今帰仁間切耕作當諸喜田福保 任今帰仁間切地頭代 明治廿八年九月三十日 印」とある。印は「沖縄県庁」の印である。これが地頭代の最後の辞令書というのは、明治31年に間切の地頭代は間切長となり、同41年には村長となるからである。

 「勤職書」は、この文書の表題部分が欠落しているため、琉球大学の島袋源七文庫の中に、「勢理客村湧川親雲上勤職書」とあり、それに因んで「今帰仁間切諸喜田福保勤職書」と命名した記憶がある(昭和57年)。辞令書と勤職書を公に紹介したことから、後に寄贈いただくことになる。

 沖縄の歴史研究に手を染め始めた頃である。というよりは、それがきっかけで歴史に本格的に足を踏み込んだように思う。言語調査から入り数年、民俗調査に数年、宮城真治資料と関わって民俗と決別、昭和55年頃諸喜田福保の辞令書と勤職書をきっかけに歴史へ。10年近く歴史と悪戦苦闘している。その頃、「今帰仁村の村落の変遷」や「北山の歴史」や「運天の歴史」などをまとめている。そのころ角川の沖縄の地名辞典で羽地や久志地域を。そして名護市史で歴史原稿をまとめている。

 平成元年4月に今帰仁村に仕事場を移し、資料館(現在の歴史文化センター)づくりへと。準備室時代が7年あった。資料館(博物館)づくりに入ると言語、民俗、歴史、地名などと分野を分けて業務をすることができない状況であった。自分の専門としたい分野だけでは博物館は成り立たないのである。やってきたものには分野を問わず関わらざる得なかった。教育の分野まで。苦手としたのは、芸能や音楽、それと自然。それらは今でもお手上げである。申し訳ないと思っている。

 歴史に足を踏み入れるきっかけとなった「辞令書」と「勤職書」を手にしていると、30年余の沖縄研究の足跡を整理する時期にきたかと思う。表舞台に出ることは苦手。

 
  今帰仁間切最後の地頭代任命の辞令書         諸喜田福保勤職書の一部



2020年4月18日(土)

 コロナウィルスが沖縄県でも出没。島外に出かけることは自重。テレワーク。それで過去の記録を掘り起こしている。運天のところでオランダ墓(フランス人の乗り組み員)について名護サミットのことを思い出した(2007年12月開催)。その時、オランダ墓の展示をお願いされた。琉球国の時代(1846年)である。私の頭では琉球国である。ところが、事務方は琉球国では困るということ。沖縄も日本国ではなければ都合が悪かったようだ。それで私は展示から手を引いたことが思い出される。オランダ墓と云っているが葬られているのがフランス人なのでフランス墓にしたらとの新聞投稿があった。それには反対であった。なぜ当時はオランダ墓やウウランダーと呼んでいたのか。そこには時代が反映し、それを読み取っていくことが大事ではないか。『琉球外交史料』や『幕末日仏交流記』フォルカード神父琉球日記』に目を通している。運天港や屋我地島の様子が知りたくて。(展示パネルを作成したような。さがして見るか. 平成5年『なきじん研究 3号 再所収』)

 

2007919日(水)(過去メモ)

 山原と関わる古琉球から近世にかけての「辞令書」の分布を確認してみた。現存するのは数えるほどしかないが、これまで確認されている辞令書の一覧と分布を展示(コピー)してみた。山原と関わる辞令書を整理しながら、そこから見えてくる古琉球、そして近世の姿がどう見えてくるのか。そして首里王府が地方をどう統治していたのかを見究めていく作業である。

 山原(沖縄本島北部:恩納・金武間切以北)と伊江島と伊平屋島(伊是名を含む)と関わる「辞令書」は30点余である。『辞令書等古文書調査報告書』(沖縄県教育委員会:昭和53年)を中心に、同報告書に掲載されていない辞令書も含めてある。明治の「辞令書」は現物展示のため別のコーナーで展示する。

 17世紀初頭になると、地方の統治は地頭代制度となる。地頭代はその間切出身者がなり、それらの子弟は首里奉公をし、地元にもどって間切役人となる。社会の制度が多きく変わる。ここでの辞令書は、今日風に言えば国の役人、あるいは県庁職員レベルの辞令書ということになろうか。

 ・今帰仁間切与那嶺の大屋子宛辞令書(嘉靖42717日)(1563年)(今帰仁間切)
 ・今帰仁間切東の掟宛辞令書(嘉靖42717日)(1563年)(今帰仁間切)
 ・金武間切の恩納のろ職補任辞令書(万暦12512日)(1584年)(金武間切)
 ・今帰仁間切の浦崎目差知行安堵辞令書(万暦14591586年)(今帰仁間切)
 ・国頭間切の安田里主所安堵辞令書
(万暦15212日)(1587年)(国頭間切)
 ・国頭間切の安田よんたもさ掟知行安堵辞令書(万暦15212日)(1587年)(国頭間切)
 ・伊平屋の仲田首里大屋子知行安堵辞令書(万暦1578日)(1587年)(伊平屋島)
 ・今帰仁間切玉城の大屋子宛辞令書(万暦20103日)(1592年)(伊平屋島)
 ・今帰仁間切の与那嶺里主所安堵辞令書万暦20103)(1592年)(今帰仁間切)
 ・今帰仁間切の辺名地目差職補任辞令書
(万暦32年閏918日)1604年)(今帰仁間切)
 ・今帰仁間切の中城のろ職補任辞令書(
万暦33918日)1605年)(今帰仁間切)
 ・今帰仁間切の具志川のろ職補任并知行安堵辞令書
(万暦35715日)(1607年)(今帰仁間切)
 ・今帰仁間切与那嶺の大屋子叙任辞令書
(万暦40128日)1612年)(今帰仁間切)
 ・今帰仁間切の謝花掟職補任辞令書(
万暦4012月□日)(1612年)(今帰仁間切)
 ・羽地間切大のろくもひ辞令書(
天啓2年壬戌101日)(1622年)(羽地間切)
 ・羽地間切の屋嘉のろ職補任辞令書(天啓5420日)(1625年)(羽地間切)
 ・今帰仁間切与那嶺の大屋子叙任辞令書
(崇禎16103日)(1643年)(今帰仁間切)
 ・今帰仁間切中城ノロ叙任辞令書(隆武825日)(1652年)(今帰仁間切)
 ・今帰仁間切本部目差叙任辞令書(順治13年正月20日)(1654年)(今帰仁間切)
 ・今帰仁間切西目差叙任辞令書
(康煕3年申辰44日)(1664年)(今帰仁間切)
 ・今帰仁間切与那嶺大屋子職叙任辞令書
(寛文7年丁未49日)(1667年)(今帰仁間切)
 ・羽地間切の我部祖河大屋子職補任辞令書(康煕44年乙酉8181705年)(羽地間切)
 ・伊江島惣地頭職叙任辞令書(
康煕56年丁酉423日)(1717年)(伊江島)
 ・伊平屋島の銘苅大屋子職補任辞令書
(乾隆元年丙辰429日)(1736年)(伊平屋島)
 ・伊平屋島の銘苅大屋子職補任辞令書(乾隆6年辛酉710日)(1741年)(伊平屋島)
 ・久志間切の有銘安堵辞令書(乾隆37年壬辰12月朔日)(1772年)(久志間切)
 ・伊平屋島の田名里主所安堵辞令書(
乾隆44年己亥413日)(1779年)(伊平屋島)
 ・伊平屋島の田名里主所安堵辞令書(嘉慶10年乙丑512日)(1805年)(伊平屋島)
 ・伊平屋島の田名里主所安堵辞令書(道光12年壬辰1031832年)(伊平屋島)
 ・伊江島惣地頭職叙任辞令書(道光15年乙未513日)(1835年)(伊江島)
 ・久志間切の有銘安堵辞令書
(道光28年戌申2月朔日)(1848年)(久志間切)
 ・伊平屋島の田名里主所安堵辞令書(
道光30年庚戌1261850年)(伊平屋島)
 
        ▲古琉球から近世,明治にかけての「辞令書」の展示コーナー


2020年4月17日(金)

 運天港(浮田港:上運天村)の対岸にオランダ墓がある。フォルカード日誌・・・・・

【運天のムラ・シマの展示内容】
(2010年企画展)



唐人の漂着と運天港                                


唐人の漂着と運天港(2009年5月25日)過去メモ

 1741年12月大島(大和浜)に唐船が漂着した。その船は運天津(湊)に回送されてきた。運天港で修理して運天港を出港している。唐船には53人の中国人が乗っていた。出身地は蘇州と福州で商人が乗っていた。長崎で貿易をし、日本の海産物や銅器・漆器などを乗せて帰る途中、洋上で暴風にあい大島の大和浜に漂着したのである。

 大島に漂着した唐船は、唐人47人と奄美大島人7人を乗せた本船と唐人6人と荷物を乗せた大和船の二手に分かれて、沖永良部島・与論島を経由して運天港に向かった。大和船は名護間切許田村に着く。本船は伊江屋島の具志川島の干瀬に乗り上げて破船してしまう。

 名護間切の許田(湖辺底)に着いた唐人と荷物は名護間切に収容された。天気がよくなったので名護間切船二艘、恩納間切船一艘、数久田村に来ていた那覇の馬濫船一艘、計四艘で名護から運天港へ回送した。運天港に着くと、唐人と荷物は番所に引き渡され、大和横目と在番検見が綿密な船の改めをした。馬濫船は遅れて翌日に到着した。番人ならびに諸事取締り方に次のようなことが申し渡された。
         覚
  一 唐人囲所近く地下人不立寄様、堅く可申渡事。
  一 同所近辺より女性通仕間敷事。
  一大和年号又は大和人名・斗舛・京銭(寛永通宝)、唐人江見せ申し間敷事。
    附、御当地通用之銭相尋候はば、鳩目銭相用候段可申答候
  一 村中に而大和哥仕間敷事。
  一 唐人滞在中、御高札掛申間敷事。
  一 勤番家并村中、火用心別而別而可入念事。

 上のような達しが出された。また唐人を収容するための小屋がつくられた。

        覚
 一 番所屋敷内に長拾間づつ横弐間づつ、之小屋弐軒、長三間横弐間之台所壱軒、
   雪隠所等相調候事。
   附、小屋は奥弐間はいのまん床仕合、前三尺者土地に仕候。台所は床無に、かま大小
     五つ相調居候。
 一 小屋外囲之儀、高すすき・いのまん取交、内外見通り無之様に堅箇固相調候事。
 一 門左右、後表両角四ヵ所に勤番家相調候事。

 唐人が運天村に収容している間、国頭間切の七カ間切に割り当て、運天村に四日づつ詰めさせた。伊部屋島から47人が到着する間、唐人6人のために食糧が尽きると米や味噌など、入用な品々を提供している。

  伊平屋島で唐船は破損してしまったので荷物は泊馬濫船二艘に乗り、通事・評定所筆者宰領などが伊平屋島船に乗り三艘立てで運天港へ向かった。破船した船は厳重に焼き捨てた。その間、大和船が運天港沖に停泊してはならず、天候によっては古宇利島の前に停泊するようにと指示がだされる。大和横目と在番役人は唐人と荷物を綿密に検査をしている。大和役人の藤山藤兵衛や与力の宮之原四郎右衛門、足軽の池田勘助などの名がみえる。大和役人は運天ではなく、隣の上運天村に待機して指示をしているようである。その時、蔡温も運天を訪れている。

 




2020年4月16日(木)

 2005.04.23(土)大宜味村を訪れている。以下過去メモ」。

 午後から大雨。大宜味村の舟や港に関わる記事を拾ってみた。やはり多いのは塩屋湾(港)である。大宜味番所があったこともあるが、塩屋湾を渡らなければならず、渡し場として交通の要所にあった。

 断片的な資料であるがクリ船やハギ船に税がかけられている(道光6年6月原取納座国頭方定手形)。
  ・クリ船一艘に付き、一年に納銭一貫文
  ・ハキ船一艘に付き、一年に納銭五十貫文
  ・クリ船三拾三艘  納銭三十三貫文
  ・ハキ船三艘  納銭百五拾貫文
  

【上杉県令巡回日誌】(明治14年11月22日)の塩屋湾の様子
  「・・・宮城島あり。島中小村落あり。渡舟相往来す。湾頭弦月形の処を過ぎ、小村落あり。
  サオ師舟を艤して待つ。舁夫輿を舁き、舟に移す。・・・・・・舟容与として行く。風波平穏なり。
  舟路半程にして、雨俄に至る。・・・・渡舟岸に達す。即ち大宜味番所なり。・・・・海を隔て、
  宮城島に対す。山原船五艘碇泊す。」

 明治から大正にかけて大宜味間切(村)の物資の運搬は海上が主である。運搬に使われたのが山原船(マーラン船)である。大宜味間切から出荷されたのは、主に割薪・砂糖樽板・砂糖樽底蓋板・米・松薪・木炭・製藍・建築材など。輸入品は焼酎・石油・大豆・白米・素麺・茶・昆布などである。山原船の向う津(港)は泊港や那覇港である。

・樽板と蓋底板(明治34年3月9日)
・船舶取締規則違犯者(明治35年3月13日)
・塩屋湾の風光(明治35年4月19日)
・国頭郡の鰹製造業(明治38年8月11日)
・大宜味間切の造船所(明治39年2月7日)
・国頭旅行(明治39年10月17日)
・大宜味より(明治40年8月13日)
・大宜味の海神祭(明治44年9月19日)
・大宜味村より(大正2年10月12日)
・大宜味よりの帰途(大正2年10月14日)
・今日の話題(昭和19年4月9日)


平成23年11月に「琉球のノロ制度の終焉」として企画展を開催している。そのテーマで企画展・講演・大学の講座・学会で紹介を行っている。喜界島・奄美大島・徳之島・沖永良部島・沖縄本島北部・伊是名島・久米島などの調査をし、企画展で紹介。県の調査に関わった部分は「ノロ祭具」として報告。





2020年4月15日(水)

 調査で各地へ行くことができず、これまでの調査記録を掘り返すことに。

北山系統の一族(一門)とムラ (以下工事中) 2011年6月へ)  山原のムラ・シマ企画展


 北山が滅ぶ(1416年)と人々が各地に離散したみられる。北山の全てのムラや人々が離散していったわけではなかろう。北山系統の一族が離散していった痕跡が伝承にのこっている。離散していった経過や人物がどれほど史実を伝えているか不明である。一族の伝承が、一つのストーリーとして、史実かどうかとは別に根強く継承されている。一方で、そのストリーが史実かどうかを問うているところもある。

 これまで、村全体が移動、あるいは離散したりと見ている節がある。ところが、ムラのある一門が移動してきたり、離散したりしている姿が見受けられる。そのことを明確にするため、山原の各地のムラの一門の動向を大ざっぱだるが見極める必要がある。各村の各一門にどのような伝承を持っているか。その作業を進めてみる。そこから、いくつか結論を導き出してみることに。どのような法則性が見い出せるか、興味深い結果がでてきそうだ。さて・・・

 各地の一族(一門)は、伝承とする系統図がある。それぞれの系統図は複雑に絡み合っている。その複雑さと、一族(一門)のルーツを辿ろうとする心理が、今に継承されつづけているように見える。それらの系統図から山原に所在し、関わる一族(一門)を取り出してみる。

・天孫氏の系統
  ・湧川村(ムラ)(今帰仁村(ソン))の根屋(新里屋)
・北山大按司の系統
  ・湧川村(今帰仁村)の根屋(新里屋)
  ・親川村(羽地村・現名護市)?根所
  ・大宜味村(大宜味村)の根屋
  ・渡久地村(本部町)の根屋
  ・屋部村(現名護市)の根屋
・今帰仁按司の系統
  
・古北山の系統
  ・東江村(現名護市)の徳門
  ・一名代村(大宜味村)の根所
・北山王の系統
  ・湧川村(今帰仁村)の根所(新里屋)
・健堅大親の系統
  ・健堅村(本部町)の根屋
  ・具志堅村(本部町)の花城
・親泊村(今帰仁村)の根所
  ・天太子大神加那志・龍宮女大神加那志の子、北山大神加那子を祀る。

北山のどの時代に移りすんだのか?
            
参考文献


【根謝銘城(上城)の系統】(『大宜味村史』所収)

 大宜味村謝名城に根謝銘グスク(上城)がある。大昔、中山英祖王の後胤の大宜味按司の居城とされる。



【老女田港乙樽】(親孝行女の伝承)
 乙樽の生家は屋号根謝銘屋と称し、仲北山城主の後胤にして根謝銘城より田港村に村立した思徳金の子孫であるという。また同家には近代描いた乙樽の肖像画を祀ってある。乙樽というのはこの地方では一般に用いない名前である。それからすると家格の程を察知する事ができる。乙樽の墓は田港の南方にある。


【久志川田屋号根謝銘屋(当主奥元氏)】(『沖縄県国頭郡志』)(現在:東村川田)

 同家の始祖はヒギドキ(ヒゲドケ)と綽名せられ仲今帰仁城主の子孫にして、本部村満名上の殿内の次男なるが、ある事変に祭し一時名護城に移り(その妻は世富慶村カニクダ屋の女なりしという)、これより大宜味根謝銘に避難し後、国頭間切浜村赤丸の崎の窟及び伊地村後方の窟に隠遁し、更に山中を横切りて川田の山中イェーラ窟に遷居せり。今その近傍、内福地原に1500坪ばかりの畑ありて、当時の開墾に係ると伝う。然るに此処は昼なお薄暗き森林にて山の精強く住みよからずとて、道を海岸に開き、而して現屋敷の後方台地に移転せりという。
 川田は八戸中十数戸を除く外、皆同家の胤孫にして根謝銘屋及びその分家なる西の屋内(イリヌヤ)、西の根屋、東の殿内(東の比嘉)、新門(ミージョー)、鍛細工屋、大川端(元ニーブ屋)の七煙より分れたり・・・。
 以前根謝銘屋には絹地の衣類、古刀及び黄金カブの簪などの遺品があった。火災があって今あるのは類似の品。首里長浜氏の記録にあり。


  北山系統の伝承をもつ根謝銘屋(川田)      根謝銘屋の側にある勝之宮



【川田にある仲北山御次男思金の墓】

 東村川田の福地川右岸(下福地原)に「仲北山 御次男思金」と記された墓がある。墓の前にサキシマウオウの大木(東村指定:天然記念物)がある。上系図に「次男 思金」の人物は登場してこない。「思徳金」のことか。あるいは記述の誤りか確認の必要あり。いずれにしろ、川田の根謝銘屋の一門の持つ北山系統とする伝承は根強く継承されている。その墓のある場所はウンダチと呼ばれ、ピギドゥキ(ピキヌカン:引の神)を祀った墓のようである。川田の根謝銘屋一門が始祖の墓としてシーミーの時に拝んでいる。


   「仲北山御次男思金」の墓         東村指定のサキシマスオウの板根

・東村川田に北山盛衰にまつわる伝承あり。
・『沖縄県国頭郡志』(大正8年)に「「旧家由緒」に口碑伝説、「長浜氏の記録」あり。
・始祖の墓として根謝銘屋一門が清明祭(シーミー)の時に拝む。


【大宜味村田港】

・屋号根謝銘屋(首里長浜系氏の記録)仲今帰仁城主の子孫だという。
 新屋松本は仲今帰仁城主の子孫なる思徳金は今帰仁城監守の滅亡に祭し、その四子を引き連れ大宜味根謝銘城の叔母の許に隠れ後塩屋湾奥にありて閑静なる田港に村立する。
 その長男を兼松金という。次男真三郎金は東りの松本の祖、三男思亀寿金仲門松本の祖にして、四男真蒲戸金は叔父思五良金の養子となり川田村根謝銘屋を継ぐ。
 本家田港の根差目屋には絹衣数種黄金カブ簪一個を秘蔵せり。

 


【佐 手】
 以下の四門中が佐手の古い門中
前 (村の創設より)
西 (村の創設より)
玉井 (北谷王子の末裔なりという)(大正より三、四代前移住)
仲原(島尻郡小禄より移住)
・川端門中 渡名喜島・首里・辺野喜佐手
・久高屋門中 始祖は久高島
・新屋 (大正より三、四代前移住)
・与那ノロの墓がクシジマある。


【与 那】(本集落は辺土名から分れて移住。農地は伊地村の与那川原)
 古き門中(上門と上謝敷は同一門)
上門(上謝敷と兄弟で北山系統)
上謝敷(上門と兄弟で北山系統)
前門(ノロを出す一門あり)

※1397年頃、察度王の孫、玉城王子が戦乱を逃れた落ち着いたところと云われている。
  玉城王子は10年程で王府に返り咲き、子供達を遺して小禄に登ったが、その子孫により栄えたという。
今帰仁系統の一族もいる(今帰仁墓)


辺野喜
 (比較的古い一門は14.他は近年(大正から)の移住者)
門前(山城)
デゲンチャー(宮城)
シバー(宮城)
道原(宮城)
上門(金城)
兼久
ハアタイ(島袋)
前地(山城)
大屋

道グリ
川端
東恩納(大正から四代前(50年余)那覇の東恩納と同門。

北山系統をくむ大宜味村田港の根謝銘屋が先祖だという(島袋姓)。


【伊 地】
 以下の三門中は古くからの伊地に居住。
メンター屋門中(島袋、島姓)(門中のみでの祭祀あり)
ミー屋門中(宮城姓)
アタ屋門中(新里姓)

近世になって首里・那覇からの寄留も多い。明治の中頃、首里・那覇あたりの寄留人がやってくる。

・『沖縄の古代マキヨの研究』


【比 地】
 ・小玉杜の中に奥間のイベあり。
 アサギ門中(山川姓)
 半田屋門中(大城姓)
 泉川屋門中(山城姓)(アーマンチュウ)(天人の図像、仲村渠天孫氏、大里天孫氏の神位)
 下道屋門中(神山姓)

・『沖縄の古代マキヨの研究』


【宇 嘉】
・ウフヤーの大城家は北山王の系統だという。湧川の新里家の分家といい、一族は七年回りをする。

「わが里」1984


   屋敷内にある神アサギ(宇嘉)     北山系統の伝承をもつ大城一族


【辺 戸】
・義本王の墓はサクマ家が管理している位牌と花鉢)。義本は源為朝の子の瞬天王の孫。


【奥】


【宜名真】
・首里系の寄留人。


【安 田】
 北山からの流れてきたウリー里之子が字の開発に貢献する。子の墓は共同墓地と別にある。


【安 波】
 東村川田から犬引くがきて字の娘と結ばれ、以後ムラが発展した。三山鼎立時代、南山からの逃れた武士三人がウンヘに泊り、その娘をヨメにして栄えたという。南山墓がある。


【辺野喜】


【謝 敷】


【佐 手】
 ・「義本王の身代わりのための偽墓と屋敷跡と古井がある」という」(国頭村史)。

【辺土名】

【桃 原】

【鏡 地】
 奥間と比地から分離

【半 地】

【浜】


2020年4月14日(火)

 1998年(平成10)11月「新城徳裕資料展」を企画したことがある。その時の史・資料の写真とノートと古文書類は『なきじん研究』10巻297頁に収録することができた。再度企画展示をする体力はないが、画像や目録で記憶を蘇らすことに。(これらの史・資料は歴史文化センター蔵)

 『兼次誌』の概要と地名(小字)、人物編の原稿興しと編集。原稿を配布し校正をお願い。明日の委員会は延期。

 




       ▲1998(平成10)年の「新城徳祐資料展」の様子

2020年4月13日(月)

 今日から「寡黙庵」での業務か。

2005.02.04(金)過去メモ

 今帰仁阿応理屋恵についてまとめてみたい。これまで断片的に報告してきたが、それを整理しておく必要がありそうだ。勾玉は県指定の文化財に指定されている(歴史文化センター所蔵)。それと1658年の位牌(六世縄祖)があり、また扁額も平成の三年頃まであったが失っている。

 体調もよくなってきたので、早速今帰仁グスクの近くにある旧オーレウドゥンの火神の祠と今泊の集落内にある阿応理屋恵(オーレウドゥン)跡の祠を訪ねてみた。



     ▲グスクの近くにあるオーレーウドゥンの火神の祠と内部


 ▲オーレーウドゥンにあった扁額(紛失)   ▲寄進された香炉四基あり


       ▲今泊集落内にあるオーレーウドゥンの火神の祠と内部


▲祠の内部に二基のガーナー位牌ある    ▲阿応理屋恵の勾玉(歴文所蔵)

 今帰仁阿応理屋恵に関する資料を引っ張りだしてみた。祭祀そのものは出ていないが、印判(辞令)の発給や知行地を賜り、廃止、復活したことは確認できる。聞得大君が100石~500石賜っているのに対し今帰仁阿応理屋恵は22石余なので、三十三君の一人ではあるが、1700年代には格下げされていたようだ。ガーナー位牌の一基に「順治十五年戊戌六月二拾九日去」(1658年)とあり、今帰仁按司(監守)六世縄祖の位牌である。

『女官御双紙』
  一 今帰仁あふりやい代合之時言上ハ御自分より御済めしよわちへ御拝日撰ハ三日前ニ
     今帰仁あふりやいより御様子有之候得共首里あむしられより大勢頭部御取次にてみお
     みのけ申御拝の日ハ首里大あむしられ為御案内赤田門よりよしうて按司下庫裡に控居
     大勢頭部御取次にてみおみのけ申今帰仁あふりやいよりみはな一〆御玉貫一封作事
     あむしられ御取次にておしあけ申按司御坐敷御呼めしよわれハよろしろちへ美待拝申


  天かなし美御前おすゑんミきよちやにおかまれめしよわれハ御持参の御玉貫真壁按司かなし
  よりおしあけめしよわる相済御飾の御酒より今帰仁あふりやいに美御酌給御規式相済按司御
  座敷にて首里大あむしられ御相伴にて御振舞給申相済みはい御暇气大勢頭部御取次にてみ
  おミのけておれ申


   一 同時御印判ハセと親雲上よりみはいの日早朝首里殿内へ持来らる首里あむしられよりミ
     はいの時早朝今帰仁あふりやいへ上申

 今帰仁あふりやゑの1701年の知行高は以下の通りである。 
   地方高 田方六石ニ斗一升三合三勺四才  (与那嶺按司朝隣夫人)
          畑方十六石五升九合三勺六才   (与那嶺按司朝隣夫人)
    俸 米  二石(米一石 雑石一石)
          倅 者 二 


 宮城栄昌氏は今帰仁阿応理屋恵について『沖縄ノロの研究』(422頁)で、

   「三山分立時代山北の最高神女であった「あふりやゑ」の後を継承した第二尚氏王統時代
   の今帰仁あふりやゑは、山北監守が首里に移った一六六五年以後は知行地も今帰仁間
   切に給せられ、地方ノロ的存在と化した。一七〇一年に就任した与那嶺按司朝隣夫人のこ
   の石高・・・(略)・・・一七三一年に廃止された。廃止しても前任関係者があふりやゑ御殿を
   管理して祭祀を継続していたので、一七六八年六月に至り、今帰仁親泊村兼次親雲上の女
   蒲戸を任命し、三十三君の一人として復活した」

とある。そのあたりの流れは、もう少し資料を吟味してみる必要がありそう(要調査確認)。


2005.02.03(木)過去メモ

 午前中和歌山県上富田町の議員さんが研修で今帰仁村へ。世界遺産の件もあったので役場職員と共に今帰仁グスクまで。桜は全体としては来週あたりが見ごろかな。木によっては七分咲きのもあります。

 今日は天気も回復し、外は暖かい日和。寒い地域から「桜まだか、まだかの挨拶!」軽い運動兼ねて、グスクの桜の様子を見てきました。私は蕾が膨らんだ今頃が好き。

【今帰仁阿応理屋恵の祭祀の復元】
 
今帰仁阿応理屋恵の継承についていくつか研究があるが、その継承もまだ不明の部分が多い。ましてや今帰仁阿応理屋恵の祭祀については皆目わからない。残念なことに今帰仁阿応理屋恵が廃止されていた時期に『琉球国由来記』(1713年)に編集されているので、阿応理屋恵の祭祀の記録がほとんどない。

 辛うじてあるのが『琉球国由来記』(1713年)における阿応理屋恵按司火神(親泊村)の記録である。

  阿応理屋恵按司火神 親泊村
   麦稲四祭之時、仙香、肴一器、蕃署神酒一完(百姓)
    大折目・柴指・芋ナイ折目之時、仙香、花米五合完、五水二合完、肴一器(百姓)供之。
    同巫・居神、馳走也
とあるが、同巫は今帰仁阿応理屋恵の可能性もあるが、流れから見ると同巫は今帰仁巫の可能性もある。他の今帰仁グスク内での祭祀は今帰仁巫の祭祀となっている。

 今帰仁グスク内の今帰仁里主所火神、グスクの近くにあるコバウノ御嶽は今帰仁阿応理屋恵の祭祀ではなかったかと考えている。今帰仁阿応理屋恵の祭祀は消えてしまっているので久米島の君南風の祭祀からいくらか復元が可能ではないか。そんな期待を持っている。まだ、見通しはまったくナシ

 『辞令書等古文書調査報告書』(沖縄県教育委員会)や『久米のきみはゑ五〇〇年』(久米島自然文化センター)で「久米島の君南風」の二枚の辞令書が紹介されている(鎌倉芳太郎ノート)。今帰仁阿応理屋恵にも辞令(印判)の発給がなされているが、その現物や辞令の写しなどは確認されていない。久米島の君南風と同様な内容に違いない。

 ①君南風の大阿母知行安堵辞令書1566年)
    しよりの御ミ事
      くめのくしかわまきりの
      にしめのうちま人ちもとハ
      あまかちの内より
     一かりや三おつかたに六十九まし
      ひらちしやはる又□□□はるともニ
     又七十ぬき〔ちはた〕け□〔おほ〕そ
      はゑはる又はなうはる?
    〔又〕おち□□〔はる〕〔又〕□□はるともニ
     このちのわくそ□この大あむかめはたまてハ
     御ゆるしめされ候
    一人きミはいの大あむに
      たまわり申〔候〕
    しよりよりきミはいの大あむか方へまいる
   嘉靖四十五年十月八日

 ②君南風の大阿母知行安堵辞令書1595年)
    しよりの御ミ事
      くめのくしかわまきりの
      あらかきちもとのきミはいの
      大あむかのろち
    一 せちよくたに十四ましこミなとはる
    又 十にきちたけ□〔おほそ〕
      きし□□□
      このちの□□かり(しまくにの人の?)〔て〕ま
      つかいハ御きんせい(にて)候
      一人きミはいの大あむに
      あまわり申〔候〕
   しよりのきミはいの大あむか方へまいる
   万暦二十三年正月十二日 


 今帰仁按司(監守:阿応理屋恵)が首里に引き揚げる1665年まで
 今帰仁間切(今の本部町含む)の番所は今帰仁グスク内にあった?!

 今帰仁間切から伊野波(本部)間切が分割されると今帰仁間切は運天に、本部間切は渡久地に番所が置かれた。 


2020年4月12日(

 今帰仁村のノロについて。
  ①今帰仁ノロ(今帰仁・親泊・志慶真村管轄)
  ②仲城ノロ(崎山・仲尾次(仲城)・与那嶺・諸喜田・兼次村を管轄)(10点の辞令書とのろ引継ぎ)
 ●③玉城ノロ(玉城・謝名・平敷・仲宗根村を管轄)
 ●④岸本ノロ(岸本村・寒水村を管轄)
  ⑤勢理客ノロ(勢理客・上運天・運天)
  ⑥古宇利のろ(古宇利島)
  ⑦湧川のろ(湧川村:1738年以後)
    ※湧川の地に我部村があったこともあり、湧川の下のアサギは奥間家の旧家跡

2004.12.3(金)メモ

 「玉城村ノカネイ跡職願之儀ニ付理由書」は、ノロにまつわる様々な状況を知ることができる。例えば、『琉球国由来記』(1713年)の巫(ノロ)は・・・ノロの・・・は、当時ノロが住んでいた村名を指して名付けたと考えられる。しかし、事情によっては他村にノロ家は移っていることがある。その様子が玉城ノロ文書から読み取ることができる。 

 『琉球国由来記』(1713年)にあるノロ名の村と現在のノロ家(ヌルドゥンチ)が異なっているの今帰仁(間切)に以下のノロ家がある。玉城ノロは他に移り明治になって玉城村に戻ったケースである。その経過が昨日の「玉城村ノカネイ跡職願之儀ニ付理由書」からしることができる。中城ノロについても同様な文書が残っている(結果は本筋にもどっていない例)。

 ・中城ノロ・・・・・・諸喜田村(現在諸志にある)
 ・今帰仁ノロ・・・・親泊村(現在今泊)
 ・玉城ノロ・・・・・・玉城村内(文書をみると本筋に戻した例) 

 ノロ名とヌルドゥンチが異なるのは、玉城ノロのような事情があったものと思われる。いずれも、ノロ管轄内での移動である。羽地間切の屋我ノロもどうであろうか。明治の屋我ノロの住所は羽地間切饒平名村で、現在も饒平名に我部ヌルドゥンチが饒平名公民館側に現存している(屋我ノロは屋我ではなく饒平名にヌルドゥンチがある例)。

 ノロはノロ家(ヌルドゥンチ)の継承であるが、娘が嫁ぎ先でノロを勤め、本家にノロを継承者がなくノロの娘がノロを継いだり、後になって本家筋に継承者が出て引き継がれたり、あるは引継ぎを拒否したりするなど様々状況が生じている。表向き継承や祭祀を行う役目が取りざたされるが、背景にはノロ地という土地やノロ職の身分や保証のこともかかわっている。 

(文書の背景を持って玉城ヌルドゥンチと屋我ヌルドゥンチを訪ねてみた。祭祀と神職とのかかわりが実感として伝わってくる。祭祀が行われる理由は、予祝など祈りとしての祭祀ではないことが見えてくる。別報告予定)

 
▲文書のように杜の中にヌルドゥンチを建立    ▲杜の中の玉城ヌルドゥンチ

 
▲玉城ノロの位牌(野呂カマタとある)      ▲祭祀に使われた鼓



岸本ノロ資料

 今帰仁間切に岸本ノロがいた。現在、岸本村は玉城に統合されている。統合は明治36年である。岸本ノ加ネイ(岸本ノロか)に関する以下の資料がある。4日に『玉城誌』の編集会議あるので話を引き出すための資料を整理。玉城(岸本ノロ管轄の岸本村と寒水村の祭祀)を紹介する。玉城・岸本・寒水の三ヶ村は、村移動やノロ管轄、村の合併などがあり、また祭祀との関わりなど複雑である。そのため、村(ムラ)別とノロ管轄に分けて整理が必要。

 『沖縄島諸祭神祝女類別表』(明治15年頃)の岸本村の祭祀場として三ヶ所があげられている。ノロは岸本ノロクモイである。

   ・ノロクモイ火神 ・神アシアゲ ・嶌ノ大屋子火ノ神(岸本村)
   ・根神火神 ・神アシアゲ ・ウホンニヤ嶽(ウフンジャ嶽のことか)

  沖縄縣指令第一四五號
     国頭郡今帰仁村字玉城三百四十三番地
           大城清次郎
            外七名

   大正二年十月十七日附願岸本
   の加ネイ大城カマト死亡跡職
   大城カマド採用ノ件認可ス
     大正三年三月十八日
   沖縄縣知事高橋啄也 沖縄県知事印
    
http://yannaki.jp/gazou01/126ki1jpg  http://yannaki.jp/2012ga/126ki2.jpg
   ▲岸本ノロ採用認可の件             ▲寒水村の神アサギ(昭和40年頃)

 『琉球国由来記』(1713年)に、どう記録されているか。
 岸本村にオホヰガワ嶽(神名:ヨロアゲマチュウノ御イベ)とある。岸本村は二度ほど移動しており、『琉球国由来記』(1713年)頃は、ウタキの位置からすると、寒水村(寒水原)のあった場所にあったと見られるので、注意が必要。同書の「年中祭祀」の所に岸本巫火神と神アシアゲがある。岸本巫の管轄である。岸本巫が管轄する村は岸本村と寒水村である。

 岸本巫火神で行われる祭祀(『琉球国由来記』)は、以下の六つである。岸本・寒水の二カ村の百姓と岸本巫が関わる。
    ・麦稲祭
    ・年浴
    ・大折目
    ・柴指
    ・芋ナイ折目
    ・山留
    ・大折目次三日

 岸本の神アシアゲでの祭祀は、百姓・居神・岸本巫が関わる。
    ・麦稲穂祭
    ・麦稲穂大祭
    ・年浴
    ・大折目
    ・柴指
    ・芋ナイ折目

 寒水村は『琉球国由来記』(1713年)にウタキの記載はない。神アサギでの祭祀は、
    ・麦稲穂祭
    ・麦稲大祭
    ・年浴
    ・大折目
    ・柴指
    ・芋ナリ折目
    ・大折目次三日 

【岸本の神人】
 ヌル/根神/ウペーフ/イガミ/ニブサジ

【岸本の拝所】
  ・神アサギ ・ウカー ・ウペーフ殿内 ・ヌルドゥンチ ・ヌルウグヮンヤー ・岸本ヌシー

【寒水の神人】
 根神/ウペーフ/イガミ/ニブサジ

【寒水の拝所】
  ・根神殿内 ・神アサギ ・獅子殿内

【岸本の祭祀】
 ・二月十五日(二月ウマチー)
 ・三月十五日(三月ウマチー)
 ・四月十五日(タキヌウガン)
 ・五月十五日(五月ウマチー)
 ・六月十五日(ウチマチー)
 ・六月廿五日(稲穂を供える)
 ・七月二十日(ワラビミチ)
 ・七月最後の亥の日(ウプユミ)
 ・八月九日(ワラビミチ)
 ・八月十日(神人ウガミ)
 ・九月七日(ミャヌウガン)
 ・十一月十五日(ウンネー)

【寒水の祭祀】
 ・二月十五日
 ・三月十五日(ウチウマチー)
 ・四月十五日(タキヌウグヮン)
 ・五月十五日(ウマチー)
 ・六月十五日(ウチウマチー)
 ・七月最後の亥の日(ウワイ・イーヌヒー)(ウプユミ)
 ・七月二十日(ワラビミチ)
 ・八月十日(カミンチュウガミ)

 それとは別に、年中行事がある(一部は神行事と重なる)

【岸本の年中行事】 
 【一月】
  一月一日(正月)/三日(ハチウクシー)/四日(仕事始め)/七日(ナンカヌスクー)
  十四日(ショーグヮチグヮー)/十六日(ミーサー)
 【二月】
  十五日(ニングヮチウマチー)
 【三月】
   三日(サングヮチサンニチー)/四日(学事奨励会)
 【四月】
   アブシバレー/五日(カーウガン)/十五日(グングヮチウマチー)
 【六月】
   二十五日(ウユミ)
 【七月】
   七日(タナバタ)/十三日~十五日(お盆)(ウンケー・ウークイ・盆踊り)
 【九月】
   九日(キクザキ)
 【十一月】
   トゥンジー(冬至)
 【十二月】
   二十四日(フトゥチウガン)/三十日(トゥヌユルー)


2020年4月11日(土)

 沖縄本島北部(山原)の各地を踏査するきっかけになったのが、「山原の集落区分の呼称」の論考である(昭和60年:1985年)。その後、間切・村(ムラ・シマ)・原・小地名、さらに集落を区分する呼称を念頭に入れながら、調査を進めてきている。


 下右側の二枚は先日(2020年4月9日)の勢理客のろ殿内(大城家:カクゼンヤー)にあった文書である。今は島袋源七文庫(琉球大学図書館)である。同家の男方(役人)の文書(一部)である。



    覚写御印
當歳四十壱         今帰仁間切
               前夫地頭勢理客村
                 兼次親雲上
 右惣山當前夫地頭謝名村兼次親雲上
 年季筈合ニ付被兼次親雲上事地頭代
 被江可進人体御座候間跡惣山當座候付可
 被下候 以上
道光弐拾壱年 辛丑 
   正月             検者
                    宮城筑親雲上
                  仮惣地頭
                   譜久山筑親雲上 


2020年4月10日(金)

 今帰仁村平敷の玉城家から「元祖控日記」(明治38年仕立)を判読して欲しいということで筆耕したことがある。その時、位牌も見せてもらったことがある。画像が見つからず筆耕した文書のみ。墓は、そのとき既に新墓に移葬されていて、古墓(大墓?)と新墓は拝見することはできなかった。位牌は画像に納めたはず。墓(葬者)・位牌・元祖日記は一体のものだと説明したような。

 昨日は古宇利島の戦争状況、スルルガマについての取材をうける。(古宇利島について頭が回転中)

明治参拾八年乙巳二月十三日仕立(過去メモ 日?)

元祖控日記
    平敷村上仲渠村ノ玉城久助
  大墓ノ向方坤ノ少シ下ノ方ニ向ク  (一九四七年姓カル)
            (一八五四年)
一 咸豊四年甲寅六月十二日死亡  玉城筑親雲上
    (一八八一年)                妻 酉ノ人
一 光緒七年辛巳旧二月廿四年日死亡  寿八十三未ノ人
                    父 玉城筑親雲上
     附大宗上ノ屋木也 上ノ本まつ大城屋本也
             寿五十四亥ノ人玉城久二妻
   (一八八〇年)              久二郎妻ニテ伝フ
一 光緒六年庚辰旧正月十九日死亡   かまた
一 光緒十九年癸巳旧正月廿九日死亡  寿六十六子ノ人
   (一八九三年)                長男玉城筑親雲上
   (一八八九年)                玉城久二郎
一 明治弐拾弐年丑旧六月拾参日死亡父久助 長男
               女 カナ   次良  五ヶ月
         (一八九〇年)
 右母カナハ明治廿三年旧四月十一日付翌年本家ナル字謝名
   親ノ元ニ帰ル  昭和廿三年 久助先妻ニ帰ル
     (一八九〇年)
 一 明治弐拾参年寅旧十一月七日死亡父久助長女
         母カナ   カマタ 八ヶ月
一 明治四拾五年  旧八八月弐拾四日死亡 父 久助  三女当弐拾才酉ノ人                   母 ウシ   三女当弐拾才酉ノ人    カマダ
          昭和拾壱年旧八月二十四日 二十五年二十二年忌祭行フ子年
一 昭和参年旧拾月廿五日死亡  父久助       当弐拾才
                母ウト
  昭和六十三年旧七月十二日   昭和四拾壱年旧十一月十三日                     三十三年忌祭行フ
       久美屋におともする
               父古宇利清勇 当年五十十丑人                       父 清勇
一 昭和四年旧拾月弐拾参日死亡          育  人助
                 ○ナベ     ウシ 孫
一 昭和拾四年旧八月三日 卯年死亡    当七十九才  酉人
                       玉城久助
一 昭和拾六年旧六月拾参日巳年死亡  久助妻当七十二才
                   午ノ人
                   玉城ウシ
一 昭和拾七年旧二月九日午年湖南省岳陽縣後山坪ニテ戦死 久武長男                            当二十五才午ノ人
             中支那戦斗中
              歩兵伍長 玉城久信
一 墓終日昭和拾七年旧六月九日 但シ午年
  墓ノ向方丑ノ少シ上
一 西暦一九四八年旧五月弐拾四日子年死亡 父久松 二年
    (昭和弐拾三年)               母とめ 当二才□ノ人                             玉城儀夫
一 昭和弐拾五年旧拾弐月弐拾参日寅年死亡 父久松
                     母とめ
                     玉城美智子 七ヶ月
                     昭和三十一年旧十二月二三日洗骨ス
一 昭和三拾五年旧一月弐拾五日子年死亡 父久武  四男三十才未ノ人
                    母ナベ
                玉城栄正
一 昭和四拾壱年旧拾壱月拾参日(延期祭行フ)(年記は年忌のこと。周忌ともいう)
       カナ  三十三年忌
       久助  二十五年忌
       ウシ  二十五年忌
       久信  二十五年忌
       栄正   七年忌
一 昭和四十六年旧一月五日戌年死亡 当七十二才 未人
                  玉城久武
一 昭和五〇年二月三日卯年(御祭行ウ)
        旧十二月二十三日
          久助 三十三年忌
          ウシ 三十三年忌
          久信 三十三年忌
          良夫 二十五年忌
   美智子 二十五年忌
一 昭和五十八年三月十日亥年死亡当九十一才巳ノ人
        玉城ナヘ 

新墓ノ完成
 一 平成弐年十二月十日
 一 平成二年九月二十四日
       午年
       御祭行ウ
  玉城栄正  二十五年忌
    良夫  三十三年忌
    美智子 三十三年忌 

  平成七年十一月五日
    栄正   三十三年忌
    久武   二十五年忌
    ナヘ   十三年忌
     焼香済
平成二十一年十月十二日丑八十八才死亡戌ノ人   久松 妻
          玉城とめ

平成二十七年十月十二日    久武  三十三年忌     
          なへ  二十五年忌   (焼香済)                      三十三年忌
    とめ   七年忌


2017年3月11日(土)過去メモ (2017年3月参照)

【今帰仁間切問答書】(明治17年)

 明治17年の「問答書」から今帰仁間切の地割と人身売買の実態はどうだったのか「問答書」から、いくらかでも把握しておく必要あり(『琉球共産村落之研究』所収より 田村浩著:295頁)。今帰仁間切の「問答書」は、八問・答しか確認なく他間切を参考にする必要がある。(恩納間切や大宜味間切の問答書のおおかた遺ってるので参照)

【今帰仁地方旧慣地割ニ関スル問答書】(明治17年)より

 ・問  百姓地は各家に於いて古来所有の儘(地所の割換ありと雖も坪数の増減なきを言う)之を
     保有するか又は村内戸口の増減に従い之が分配を為すことあるや、その方法手続き如何。
 ・答  毎戸古来所有の儘之を保有せず。戸口の増減に従い之を分配す。その方法は村中吟味の
     上毎戸人員の多少農事の
     勤怠と資産の厚薄を見合はせ持地数を定め之を分配す。
 ・問  然らば戸口の増減に従い之が分配をなすや
 ・答  否地所割換の年に之を分配す
 ・問  農事の勤怠資産の厚薄を見合はあせ配分するとき、例へば一家三人の人口に二地を
     与へ一家五人の人口に一地を与える事あらん。然る時は其の分配方に差別あるが如し。
     右様の事に付苦情を生ずる事なきや。
 ・答  然り一家三人の人口にて二地を取り又五人の人口にて一地を取る事あり。然ると雖も右は
     人民中協議の上取り計らうことなれば苦情等の起りし事なし。
 ・問  百姓地を割換するは何年に一回なるや。臨時割換することあるや。その法如何。
 ・答  一定の年限なし。凡そ六年乃至十年目に割換す。又時の都合に由りては臨時割換する
     事もあり。其の方法は村中吟味し実地立合見分の上之を取は計ふ。
 ・問  右割換年限は田畑共同じきや。
 ・答  然り田畑共前条の通り。
 ・問  百姓地地頭地を相対譲与或いは質入する等の事あるや。その取扱い振如何。
 ・答  内分にて質入れする等の事あり。その取扱振は相対口上の示談に止まる。
 ・問  右内分ニテ質入せる後俄ニ地所の割換あるときは質取主は金の損亡するか、又は質入
     人にて前借金は之を償うか。
 ・答 右等の場合に於いては、今度配分せられし地所を、又更に金主へ引渡すに付損亡なし
    尤も今度配分せられたる特地数前者より少なきときは金主の損亡なり。
 ・問 惣地頭地村地頭地及び仕明地等取扱並びに小作セシムル手続き如何。
 ・答 右は総べて百姓地同様取扱分配方並びに割換法とも其の特続百姓地に異なることなし。
     但し人民仕明地請地は其の地主之を耕し或いは小作せしむるものあり。貢租は直ちに地主
     より取り立つ。

 明治36年の土地整理で地割制度は終りつげる。下の図は土地整理直前の地割の最後の様子を示すものである。「今帰仁間切平敷村字前田原」の土地保有者について報告したことがある。土地保有者がバラバラである。それは地割の実態を示すものである。平敷村は貧富割タイプである。(古宇利はダブリあり。確認のこと)大宜味間切のように痕跡が地割の痕跡が見いだせないか。

 ①貧富割(12村)
   今帰仁・親泊・志慶真・兼次・諸喜田・與那嶺・崎山・平敷

   ・勢理客・天底・湧川・古宇利
 ②貧富および耕耘力割(5ヶ村)
   仲尾次・謝名・仲宗根・運天・古宇利?
 ③貧富および人頭割(3ヶ村)
   玉城・岸本・寒水
 ④人頭割・年齢に関せず(1ヶ村)
   上運天


2020年4月9日(水)

 今帰仁村勢理客のろ殿内には、島袋源七氏が収集した資料がある(現在琉球大学図書館:源七文庫)。勢理客のろは「おもろ」で、以下のように謡われている。
  一 勢理客ののろ
    あけしののろ
    おり上げたる 清らや
  又 石へつは こので
    金へつは こので (第17巻1204)

  一 勢理客ののろの
    あけしののろの
    雨くれ 降ろちへ
    鎧 濡らちへ 
  又 運天 着けて
    小港 着けて
  又 嘉津宇嶽 下がる
    雨くれ 降ろちへ
    鎧 濡らちへ
  又 大和の軍
    山城の軍    (第14巻1027)
 
 勢理客のろ殿内には、ノロが賜わった簪が二本ある。勢理客のろは「しませんこのろ」ともいう。
 
 また、今帰仁間切役人になるため、あるいは昇級していく「口上覚」(勤書:履歴書)がある。(宝令文庫:琉球大学図書館の口上覚は除く)

 ①西掟への補職願いの口覚上、補職の通知(1834年)
 ②惣山当補職の覚写(1841年)
 ③仮惣耕作当補職の覚写(1843年)
 ④地頭代への補職願いの「口上覚」(1843年)
 ⑤仮惣耕作当補職の覚写(1845年)
 ⑥惣山当・惣耕作当への補職願の「口上覚」(1845年)
 ⑦地頭代への補職願いの「口上覚」(1855年)
 ⑨諸事日記(大清嘉慶十一年)(1806年)
などがある。

 その時の「ムラ・シマ講座」(勢理客)は、おもろで謡われ、簪をもつ勢理客のろ殿内、のろ殿内の役人になった人物(男方)の口上覚など、その地で生きた先人達の生き様を肌で感じてみよう。「の 石加き原」の印部石もあったな。下の簪(二本)は徳之島の手々堀田(旧稲富家)の焼けた簪である。勢理客のろの簪(かんざし)も同様に焼けた状態でのこっている。

 
    ▲勢理客のろ殿内跡(火神の祠)(1992年旧正)      ▲祠から外に向かってのウガン(トゥバシリ)


 ▲舘内で勢理客のレクチャー     ▲勢理客の神アサギ      ▲アサギに隣接するのろ殿内の神家

 

▲徳之島手々堀田(旧稲富家)(現在徳之島の資料館蔵)  ▲今帰仁村勢理客のろ家の簪

2020年4月8日(水)

 ここで地域区分 山・府(北山・中山・南山)、国頭・中頭・島尻・方・代官・郡区・島、山原(行政区分ではない)について整理しておきたい。地域区分の下部に村(ムラ)、原(はら)がある。


・文献資料に表われた地域区分

  ここでは、沖縄本島を区分する言葉を文献資料から拾ってみた。 

『中山世鑑』(1650年編集) による領域区分 

  ・山北王(山北)・・・ 羽地・名護・国頭・金武・伊江・伊平屋
  ・中山王(中山)・・・ 那覇・泊・浦添・北渓・中城・越来・読谷山・具志川・勝連・首里三平等
  ・山南王(山南)・・・ 佐敷・知念・玉城・具志上・東風平・島尻大里・喜屋武・摩文仁・真壁・兼城・
             豊見城(十一国)  

『中山世譜』(1724~5年:蔡温本) による領域区分

・山北府(国頭)・・・ 九郡(原有五郡康煕年間九郡)
                       恩納・金武・久志・名護・羽地・本部・今帰仁・大宜味・国頭

・中山府(中頭)・・・ 五州・十一郡(原有八郡康煕年間分島十一郡)
                       首里・三平等・那覇・泊・西原・浦添・宜野湾・北谷・読谷山・越来・美里・
            中城・勝連・与那城・具志川

・山南府(島尻)・・・ 十五郡(原有十四郡康煕年間分島九郡)
                       真和志・南風原・東風平・大里・佐敷・真壁・高嶺・兼城・小禄・豊見城

■『球陽』

・国頭(山北王・山北)・・・ 羽地・名護・国頭・金武・伊江・伊平屋等
・中頭(中山王・中山)・・・ 那覇・泊村・真和志・南風原・西原・浦添・北谷・中城・越来・読谷山・
                勝連・具志川
・島尻(山南王・山南)・・・ 兼城・真壁・喜屋武・摩文仁・東風平・豊見城・具志頭・玉城・知念・
               佐敷・東大里等 

■「国中並諸離里積之事」『御当国御高並諸納里積記』

・国頭方
  名護・今帰仁・羽地・国頭・久志・本部・恩納・大宜味・金武などの間切

・中頭方
  浦添・北谷・読谷山・西原・宜野湾・美里・越来・中城・勝連・与那城・具志川などの間切

・島尻方
  真和志・小禄・豊見城・兼城・高嶺・真壁・摩文仁・具志頭・玉城・知念・佐敷・大里・南風原・
 喜屋武・東風平などの間切

  それでは、琉球内部での沖縄本島内を区分する呼称に、くにかみ・国頭・国頭郡・国頭省・国頭地方などがある。「おもろさうし」で「くにかみ」、「海東諸国紀」(1472年) に国頭城・琉球国都・島尻城とあり、その中の国頭と島尻は領域区分を示す呼称につながってくる。そこでは、中頭という呼称はみられない。   

■国頭(くみかみ・くにがみ・クンジャン)

  ・「おもろさうし」

      かねしくにかみか  せるむ(かねし国頭がセルム) 
      よかるくにかみきや(良かる国頭が)
      天かした(天が下)
      たりじよ  とよみよわれ(実にこそ、鳴り響きおわしませ)(巻515―51 No.262)

■『海東諸国紀』(1472年)

国頭城・島尻城 

■七代官制(往昔~1660年)  

    ①首里之平代官・・・・・ 真和志・南風原・西原
    ②東代官・・・・・・・ 大里・佐敷・知念・玉城
    ③島尻代官・・・・・ 具志頭・東風平・摩文仁・喜屋武・真壁・高嶺・豊見城   
  ④浦添代官・・・・・ 浦添・中城・北谷
    ⑤越来代官・・・・・ 越来・読谷山・具志川・勝連
    ⑥今帰仁代官・・・・金武・名護・羽地・今帰仁・国頭
    ⑦久米代官・・・・・・久米島・慶良間島・粟国島・渡名喜島
   ※1666年の本部間切の今帰仁間切から末分離。1673年の恩納・大宜味・久志間切の分離創設以前 

■『琉球国由来記』(1713年) による四代官制(1660年~1728年)

  ①国頭方代官・・・ (主取一員、筆者四員)
       恩納・名護・本部・今帰仁・羽地・大宜味・国頭・金武 ・久志・伊江・伊平屋等十四間切 
  ②中頭方代官・・・・・・(主取一員、筆者四員)
       西原・浦添・宜野湾・中城・北谷・読谷山・越来・美里 ・具志川・勝連・与那城等十一間切
  ③島尻方代官・・・・・・(主取一員、筆者四員)
       真和志・南風原・大里・知念・玉城・東風平・具志頭・真壁・兼城・喜屋武・高嶺・小禄・豊見城
   ・摩文仁・佐敷等十五間切
  ④久米方代官・・・・・・久米・慶良間・粟国・渡名喜等四島 

 「国頭方」の「方」は、代官制と関わる管轄範囲を示す言葉である。四代官制は七代官制の今帰仁代官の管轄を国頭方代官の管轄として踏襲し、明治27年まで続くことになる。

・文献に表われた「山原」

近世の文献資料

  近世期の国頭方は「山原」ともいわれ、そこに住んでいる人たちを「山原人」(ヤンバラー、ヤンバルンチュ)と呼んでいる。比嘉春潮は「沖縄語の山は、自然的原始的を意味するから、山原は山の側即ち町方を遠く離れて文化の低い地方の意であろう」と述べられている。山原の外に「田舎」という言葉も使われており、田舎と山原は区別されている。山原が国頭地方をさしているのに際し、田舎は首里・那覇に近い間切、つまり中頭と島尻の地域をさして呼んでいた。   

『羽地大川修補日記』 (1735年)

  「沖永良部島与論島ノ 儀先此之大風家□吹損候右修補用之竹木両島共差廻可 仕様無御座候依之
 山原表より竹木申請度旨両島願出付テ 御代官松沢・・・ 」 

◆「琉球評定書詮議」乾隆二六年 (1761年) 
 「山原方・・・・・山原百姓・・・・・・「当時山原方江致居住百姓同前・・・」

「琉球評定書詮議」沖縄旧法制史料集成三巻 (1762年)

  「・・・ 仲宗根筑登之兄弟之内江跡目相立山原方江差遣候・・・」

  「・・・ 山原百姓同前其上漸口ニテ相暮候故焼香等不仕得何分申付候モ・・・ 」

「当時山原方江致居住百姓同前ニ相暮候故・・・」 

◆「咸豊元年辛亥正月より日記」(1851年)『琉球評定所記録』(1457号)

   「本部山原辺江徳之島人逃渡居候者有之列帰方として致渡海候付被仰渡申渡之事」   

◆「脇腹之子ヲ本妻之子ト申系ニ掠入候者口問」同治八年(1869年)

    『琉球平等所記録』『沖縄の犯科帳』(裁判記録)
     ・「山原育ちの百姓なので妻にできない」
     ・「叔母たちが山原人の女を妻にするのを許さなかった」
    ・ 「山原人と関係してできた子だから嫡子にすることはできない」

◆『船税及焼酎税書類』(明治27年)

    本島国頭地方各地を仮に山原と総称す
    山原地方と道の島の関係 

 「琉球形船舶若くは通常日本形船を以て航するものは皆路を山原に取り漸次道の諸島を経て鹿児島に渡航するを例とす。殊に国頭地方辺戸と唱ふる所より世論島に航するか如きは海上僅かに十六海里に過ぎさる程にして山原地方の土民は常に舟を以て容易に渡航し酒類と産牛と交易するもの古来習慣の如しと云ふ。亦以て酒類輸出に対する関係を想見するに足るべし。」   

四、郡区の変遷

◆明治12年

  明治12年に琉球藩を廃止して沖縄県を置いた。翌同13年に行政区画を分け て、那覇・首里・島尻・中頭・国頭・伊平屋・久米・宮古・八重山の九区とし、各行政区に役所を置き、首里・那覇には村役場を置き、間切には番所を設置した。北部には国頭郡役所が設置され各間切には番所が置かれた。  

◆明治29年4月勅令 

   郡区が編成され交付された。那覇・首里の二区と国頭・中頭・島尻・宮古・八重山の五郡が置かれた。これまで独立区であった泊と久米村は那覇区に編入、そして久米、慶良間・伊平屋などの久米代官区は島尻郡に編入された。 

◆『土地整理紀要』(明治36年)

 「全県下を二区五郡に分ち沖縄島の北部を国頭郡とし、更に分て九間切一島となし中部を中頭郡とし、更に分て十一間切となし、南部を島尻郡とし本島の近海に在る各離島に属し更に分て十九間切五島となす。島尻郡の西北端に在る市街を那覇区となし、其東方約一里を距て島尻中頭両郡に介在する市街を首里区となす。また宮古諸島を宮古郡とし、更に分て三間切一島となし、八重山諸島を八重山郡とし、更に分て三間切一島 となす。」


2020年4月7日(火)

 『兼次誌』のグラビアの画像選び出し、「人物編」は原稿興し。さて、今日は。






2020年4月6日(月)

 過去に表に公開した文書の画像をとりだし(資料目録は作成済み)から戦後のムラ・シマ(字)の歩みを整理。

 畑地をまわり草刈り。借地の確認。ほってあったら作物でも植え食糧の足しにしないと。最近耕し牧草を植えてあるので、そのまま貸すことに。草刈りはコロナウィルスに負けじと体力づくり。それと農耕暦を体にしみ込ませること。

 さて、今日も楽しい村史の編集へ。

  
    ▲草刈り前          ▲草刈り後     ▲借地は耕作中(牧草?)


 ▲戦後資料の束          ▲公民館保存の文書資料


2020年4月5日(

 近世の今帰仁をしるキーワードに1644年の「遠見所」(トーミヤー・トーミ台)がある。先島(宮古・八重山・与那国)、久米島、渡名喜島、座間味島・慶良間島、粟国島などを訪れたことがある。今帰仁の古宇利島、大嶺原(具志堅)、伊江島、瀬底島の遠見所に触れる。(コロナウィリスの出現で禁足中)

 時間の合間をみて村内のザフン(ヘッカニガキ)の大木の確認でS氏に案内いただく。ムムジャナの墓室の屋根の木材。屋根板のザフンはいつも足場の材のイメージがあり、今回ザフンの大木を目にして、なるほどと納得。

  

2002.6.21(金)過去メモ

 今帰仁村今泊の大嶺原のピータティファーイまで登ってみた。というのは、古宇利島から大嶺原を眺めたので、大嶺原から古宇利島がどう見えるのかの確認である。大嶺原からつなぐ伊江島の方向も眺めてみた。大嶺原のピータティファーイから正面に伊是名・伊平屋島、右手に古宇利島、左手に伊江島が見える。今日は雲の多い天気だったのだが、下の写真のように伊江島と古宇利島が見える。
 『伊江村史』に遠見番について詳細な記述がなされている。古宇利島のトーミヤーの様子を見るための手掛かりとなる記述がある。

 ・唐船、薩州船や難破船の見張りをする。
 ・上佐辺のツリワイ毛に遠見番所があった。
 ・六人が常時詰めた。三交代で二人が立番をする。
 ・唐船の通航時期になると臨時の在番役人が来島した。
 ・民家から離れた場所にある。
 ・一隻の時は一炬、二隻の時は二炬、異国船の時は三炬
 ・火立所は離れて参ヶ所にある。
 ・中央が一番火立所、西が二番火立所、東が三番火立所
 ・五月になると島民の漁火が禁止された(唐船通過後に解禁)。
 ・屋号にトーミがあり、遠見番を勤めたことに由来。

   
   
大嶺原から伊江島を眺める        大嶺原から古宇利島を眺める

2002.6.20(木)過去メモ

 総合学習の後の余韻が歴文まで伝わってくる。また、伊江島からもお礼の手紙をいただいている。先日伊江島の子供達は、今帰仁グスクから城山を見つけて歓声をあげていたのを思い出した。いくつかヒントをもらったようで、早速島村屋にいって調べるとのこと。私自身、今伊江島にはまっている状態。先日のトーミヤーの件もそうである。古宇利大嶺原伊江島とつながることもあって、五月に伊江島に渡った時、早朝イータッチューの頂上まで登った。それは古宇利島大嶺原伊江島のルートを伊江島からどう見えるのか、その確認でもあった。伊江島から大嶺原の方向を見ると、備瀬崎の後方に清掃工場のエントツが見える。エントツの左側に大嶺原がある。エントツから煙が出ていると、烽火がそのように見えたのだと想像する。二つ、三つ煙を上げるには大分離さないと風で一つになってしまいそう。すると、40~50mは離さないとイカンなとか、いろいろ考える。(そのことを確認のため伊是名のアーガ山の遠見所をゆく)

 宮城真治は古宇利島の「火立て屋」について、以下の記録を残してくれた。
   位置 宿の前原2833原野の南部
       火立て屋 チータッチュー屋三つあった。
       中に薪を一ぱい、薪は間切船、唐船や大和行の船(偕船?)
       を見た時、その一つを焼く。
       火立ては国頭、伊平屋、具志堅、伊江にもあった。
       その番人の家 遠見屋という。
       唐船の入る頃になると掟も来て勤める。
       古宇利の人より番人は六人、功によって筑登之より親雲上の
       位まで授けられる。終身職で頭を免ぜられた。
火立て屋あたりを、調査する手掛かりをいくつも与えてくれる。そういう記録は、非常にありがたい。
 今帰仁村と本部町の境界の大嶺原は、右手に古宇利島、左手に伊江島が視野に入り、トーミヤー(ピータティファーイという)を設置するのに最適な場所である。

 
 
大嶺原(ピータティファーイ)から伊江島を望む


2020年4月4日(土)

 資料目録に目を通し、企画展の様子を思い出してみることに。原物に触れることは楽しい作業だ!

 



2020年4月3日(金)

 これまでまとめた「資料目録」に再度目を通す。

 故霜多正次氏の家族から沖縄関係の出版本や使われた資料が送付されて来ました。「生まれ島
」や「南の島」など改めて読んでみました。明治・大正・戦前の沖縄の、今帰仁の様子が描かれています。これまで聞取りをしてきたことや聞きたいことが氏が体験したことを通して綴られています。ムラ・シマの方々の動きや人間関係までも見えてきます。

 氏とは三回ほどお目にかかりました。 当時のことを思いおこしながら梱包を開け、目録をつくることに。今帰仁村の平良新助、仲宗根政善、島袋源一郎、湧川清栄、謝花昇、当山久三などにつながる人物の一人です。東京から沖縄の動きを見据えてこられた方です。

 東京在の霜多いきさんにお礼申しあげます。


  
         ▲村長も霜多正次寄贈資料を拝見に 

2020年4月2日(木)

 歴史に人物を登場させることで、間切やムラ・シマの様子が立体的に描けないか。例えば『琉球国由来記』(1713年)に按司・惣地頭・村のオエカ人・百姓・ノロが参加している。また、祭祀(ここでは今帰仁村と親泊で行われる海神祭)を行われる日、大折目(海神祭)、「作毛ノ為」(五穀豊穣)を祈り、ノロ・根神・居神など二十数人余が参加、城内のヨウスイ(神アサギ)、タモトで花米・五水(お神酒)を供える。

 アーシジャー(グスク近くにある川名)で水浴び、グスク内で七度のアザナ廻りをする。その後、繩を張り、船漕ぎの所作を行う。城門をでて惣様は馬に乗り、弓箭を持ち、ナガレ庭(シバンティナか)行き塩撫でをする。それが終わると親川で水撫でをして城内のヨウスイで祭祀を行っている。その祭祀の動きは、親泊村と今帰仁村と志慶村がグスク周辺あったなごりを見せている。(薩摩の琉球侵攻後、今帰仁按司一族が首里に引揚る(165年) と三か村の麓に移動)

【今帰仁城内神アシアゲ】(今帰仁村)
・麦稲大祭(按司・惣地頭・今帰仁・親泊二カ村オエカ人・同村百姓)
・麦祭(二カ村オエカ人。同村百姓)
・稲祭(同オエカ人・同百姓・志慶真村オエカ人・同村百姓)
・大折目(按司・惣地頭・オエカ人・百姓)
・柴指(按司・惣地頭・オエカ人・百姓)
・芋ナイ(按司・惣地頭・オエカ人・百姓)
・大折目次日(オエカ人・百姓)
 (上の祭祀は今帰仁巫とトモノカネ巫の管轄)

  (以下、古宇利の祭祀に錯綜している)

・毎年七月大折目(海神祭)
  毎年七月、大折目トテ、海神祭、且作毛之為ニ巫・大根神・居神、都合二十数人余、城内のヨウスイト云所(城内神アサギ跡)ニ、タモトヲ居ヘ、花・五水(両惣地頭ヨリ出ル)祭祀シテ、アワシ川(アーシージャー?)ノ水トリ、巫大根神、浴テ、七度アザナ廻リイタシ、於庭酒祭ル也(自按司出ル)。ソレヨリ縄ヲ引張、舡漕真似ヲ仕リ、城門外ヨリ、惣様馬ニ乗、弓箭ヲ持、ナカレ庭ト云所ニ参リ、塩撫、親川ニイタリテ水撫デ、又城内、ヨウスイニテ、祭祀也。

※ナカレ庭→シバンティナの浜か(塩撫)シバはススキでつくった柴指で祓いをする。それを流す港。

祭祀を歴史で扱うきっかけをつくった今帰仁グスクでの海神祭(グスクウイミ・シマウイミ)調査である(1990年)。下は三つの村移動後(現在)の祭祀の流れである。




 墓に眠る人物を歴史に登場させることに。

   (工事中)

2020年4月1日(水)

 4月に入るとこれまで紐解いてきた「今帰仁の歴史」を年表風に整理してみることに。何度か鈍でん返しにあうことを期待し、楽しみでもある。最初に山原を中心に奄美、首里王府を視野に入れてみることに。そして今帰仁村の現在の19のムラ・シマの変遷をみつめながら。そして各地の踏査で学んだことを組み入れることができるか。





北山の歴史年表
(工事中)

山原の遺跡の分布

 ・今帰仁グスク
 ・名護グスク
 ・羽地(親川)グスク
 ・国頭(根謝銘:上)グスク
 ・金武グスク

 (マク・マキヨの分布)

北山王時代以前
  ・北山(山原)域のグスク
  ・源為朝公の渡来と運天
  ・「おもろ」に見る運天

北山王時代(三山鼎立~1416年)
  ・『明実録』に見る山北(北山)(怕尼芝・珉・攀安知)
  ・『中山世鑑』
  ・『中山世譜』
  ・北山王の居城(今帰仁グスク)

3、第一監守時代(1417~1469年)
  ・監守を務めた尚忠と具志頭王子
  ・監守制度の設置
  ・北山王と百按司墓

第二監守時代(前期:1470~1609年)
  ・要津運天港と郡島(『海東諸国紀』)
  ・監守を務めた今帰仁按司(尚紹威・
  ・北山の祭祀を掌った今帰仁阿応理屋恵
  ・古琉球の辞令書からみた今帰仁間切
  ・百按司墓修復の木碑(万暦5年:1605年)?
  ・薩摩軍の琉球進攻(1609年)と今帰仁グスク
  ・山北監守(初代~5世)(グスク内に居城か)

5、第二監守時代(後期:1610~1665年)
  ・監守を務めた今帰仁按司(縄祖・従憲)(城下に居住?)
  ・北山監守が果たした役割
  ・山原の間切と同(主)村と番所
  ・山原の宿道(スクミチ)
  ・各史料

  ・唐船の漂着と運天港
  ・バジルホール一行運天へ(1816年)
  ・ペリー一行運天へ
  ・フランス艦船の来航と運天港
  
・今帰仁旧城
 
6、間切時代(前期:一六六六~明治十二年)
  ・監守七世(従憲首里赤田村へ引揚:首里住居)
  ・今帰仁阿応理屋恵の首里引揚(その祭祀は今帰仁ノロが肩代り)
  ・今帰仁阿応理屋恵、今帰仁に戻る(1700年代)
  ・今帰仁間切の分割と伊野波(本部)間切の創設
  ・番所の設置(今帰仁間切運天、本部間切渡久地)
    按司掟から地頭代制へ
  ・久志間切・恩納間切・大宜味間切の創設
  ・首里に住む今帰仁按司(洪徳・鳳彩・宣謨・弘猷・鴻基・維藩)
  ・運天番所に務める間切役人
  ・元文検地と印部石(原石)
  ・山北今帰仁城監守来歴碑記にみる歴史観
  ・クニレベルのウタキ(クボウヌウタキ・アスムイ)
  ・今帰仁阿応理屋恵の廃止と復活
  ・『琉球国由来記』に見る村と神アサギ
 
7、
間切時代(後期:明治13~同41年)
  
・笹森儀助
  ・田代安定
  ・廃藩置県後の今帰仁間切
  ・上杉県令運天番所を訪れる
  ・百按司墓の修復(明治21年)

  ・地頭代間切長 
  ・明治36年の土地整理(間切村全図)

  ・今帰仁村と親泊村の合併し(明治36年)(今泊村→明治39年もとに戻る)
  ・諸喜田村と志慶真村が合併し諸志村となる。
  ・玉城村・岸本村・寒水村が合併し玉城村(明治36年)

8、村町政時代(戦前:明治41~昭和20年)
 
 ・大正5年運天にあった役場(旧番所)仲宗根に移転
  ・運天隧道の開通(大正11年)
  ・源為朝公上陸之碑建立(大正12年)
  ・間切村(ソン) 村(ムラ)字(アザ)
  ・番所(役場)の移転(運天仲宗根)
  ・戦後収容所から故郷への引揚

9、市町村政時代(戦後:昭和20~現在)

   ・間切長戦前・戦後の村長

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