沖縄の地域調査研究
寡黙庵:(管理人:仲原) 寡黙庵:今帰仁村歴史文化センター
仲原過去メモ
海神祭の歴史的位置づけ
塩屋湾で行われている「海神祭」(ウンガミ)の歴史的な位置づけが必要だと考えています。その起源については不明であるが、少なくとも『琉球国由来記』(1713年)には、各地で行われています。大宜味村では城ノロ管轄の村(謝名城・喜如嘉)と田港ノロ管轄のムラで行われています。両ノロ管轄の海神祭に1673年に大宜味間切の成立と関係しています。大宜味間切成立以前の『絵図郷村帳』と『琉球国高究帳』に「タミな村」「前田村」「屋こ」(後に屋古・前田村)が出てきます。間切を新設する場合、同(主)村名を付けます。すると田港村に番所が置かれ、その村名が間切名となります。例えば、久志間切は久志村、恩納間切は恩納村に番所が置かれます)
大宜味間切を領地とする大宜味按司は同村の祭祀と関わります。番所が移動しても祭祀との関わりは、そのまま田港・屋古・塩屋・渡野喜・根路銘(根路銘は近年に外れる)で行われています。田港間切創設時の番所は田港に置かれ、田港ノロが中心になって行っています。間切全体を領地(家禄・作得)とする按司地頭と惣地頭は同村の祭祀と関わります。
『琉球国由来記』で田湊巫火神での稲穂祭、稲穂大祭、束取折目、海神折目(ウンガミ)の時の祭祀に参加しています。(大宜味間切からの家禄(物成)(作得)得た大宜見按司と大宜見親方の参加)
大宜味間切の番所は田港村から大宜味村(ムラ)へ、そこから塩屋村に番所は移転します。明治44年に、かつての番所は役場となり大宜味に移動します。そこで、間切や番所の変遷をみるが祭祀は変化しない法則が見出すことができます。
※(城ノロの祭祀に参加(城巫火神・喜如嘉神アサギ)している按司・惣地頭は、大宜味間切分割以前の国頭間切の主村との関わりの名残りが見られる。国頭間切を領地・家禄(作得・物成)を得た国頭按司と国頭親雲上)。大宜味間切分割以前の国頭間切の同(主)村は城(根謝銘)であったのであろう。すると、祭祀場は城ノロ管轄の村であったのが、行き場を失ってしまう。その名残りとして城ノロ管轄の祭祀に痕跡を残している)
そのようなことから「海神祭」(ウンガミ)などの祭祀は王府と地方を結びつける重要な統治手段だったことに気づかされます。それと海神祭が1713年から今まで継承されている祭祀から、歴史を紐解く手掛かりとなります。神行事の中心となった田港ノロは簪、酒杯、衣装など(大宜味村史編纂室)で調査済み)なども、ノロ祭祀の遺品として項目に入れることを希望。
・国指定の無形文化財の調査記録。
・今回特に、神アサギの建て替えとノロドゥンチの建て、ノロが乗る駕籠の修復など記録替えがなされたので、その記録を掲載。香炉についても。戦前の海神祭の時のウムイ。
(略)
具志堅の地に移転するが、税が免除されるのではなく移転地にウタキを置き、祭祀を行う必要があった。祭祀は農耕暦で行われ、祭祀は「神遊び」(休息日)で王府が決めた公休日ですので積極的に取り入れています。嘉津宇村は『琉球国由来記』(1713年)には故地でのことが記され、天底ノロの管轄でした。
明治13年の嘉津宇村の戸数は51戸、人口は252名(男139、女113)の小さい村でした。世帯数は変わらないが人口は激減している。昭和60年は49戸、160名でした。小規模の移動村でありながら、御嶽や神アサギや祭祀をしっかりと継承している。御嶽や神アサギの設置や祭祀を行う理由、行わなければならない理由が何かです。御嶽に入いたり、牛馬を踏み入れると咎めを受ける(ヤマサレル)との取り決めがありました(間切内法)。2009年11月28日(土)過去メモ
午後から「北山の歴史と文化」で講演(一般向)がある。歴史文化センターの宣伝でもしましょうかね。以下の内容で話す予定。うまくまとめきれるだろうか!
北山の歴史と文化
[講演のレジュメ]
・世界遺産の今帰仁グスク
・山原の5つのグスク(①根謝銘(ウイ)グスク、②羽地グスク、③名護グスク、④今帰仁グスク、⑤金武グスク)
5つのグスクは、後の国頭・羽地・今帰仁・名護・金武の間切へ。
(本部・大宜味・久志・恩納は近世に分割してできた間切)
・山北三王の時代(怕尼芝・珉・攀安知)(1373~1416年)
・山北監守派遣の時代(監守時代1422~1665年)
(第一監守時代(1422~1469年)
(第二監守時代前期(1470~1609年)
(第二監守時代後期(1610~1666年)
・北山の歴史と関わる墓(百按司墓・大北墓・赤墓・津屋口墓・大和人墓)
・山原にある三津口(運天港・勘定納港・湖辺底港)、もう一つは那覇港
・古琉球の辞令書
・1500年代からの伝世品(ノロ関係資料)
・山原にある歴史的な碑
・消えない山原の神アサギ
・伊是名・伊平屋は首里王府の天領地?
・運天港が果たした歴史的な役割
北山の歴史を描く場所に立って、歴史を見ていくことにしましょう。なかなか目にすることのできない資料も紹介します。また運天港が、「沖縄の歴史」上大きな役割を果たしています。その様子も紹介しましょう。
今帰仁グスクは世界遺産として重要であるが、北山の歴史や運天港の歴史、それだけでなく山原(国頭地区)の歴史を紐解いていくことの重要さに気づいていただければ幸いです。
▲今帰仁グスクの志慶真門郭 ▲国頭村比地の神アサギ
2013年2月28日(木)(過去メモ
『球陽』(読み下し編:角川書店)の尚真48条(1524年)に、以下の記事がある。
諸按司、首里に聚居す。
窃かに按ずるに、旧制は、毎郡按司一員を設置し、按司は各一城を建て、常に其の城に居りて教化を承敷し、郡民を?治す。猶中華に諸候有るが若し。或いは見朝の期に当れば、則ち啓行して京に赴き、或いは公事の時有れば、則ち暫く首里に駐し、公務全く竣(オワ)りて既に各城に帰り、仍郡民を治む。此の時、権りに兵戦を重ぬれば、群郡雄を争ひ干戈未だ息まざらん。直尚真王、制を改め度を定め、諸按司を首里に聚居して遥かに其の地を領せしめ、代りて座敷官一員を遣はし、其の郡の事を督理せしむ、(俗に按司掟と呼ぶ)。而して按司の功勲有る者は、錦浮織冠を恩賜し、高く王子位に陞す。
この条文は16世紀初頭の状況を的確に示しているのではないか。
・これまでは郡に按司を一人置く
・按司は各一城に建て
・按司は一城にいて教化をし、郡民を治める。
・見朝の時期になると啓行して京(首里城)に赴き駐留する
・公務が終ると各城に帰り、郡民を治める
・郡雄を争い武器を持ち休息に至っていない
・尚真王は制度を改め、諸按司を首里に聚居させ、領地を治めさせる
・按司に代わって座敷官(按司掟)を派遣し、その郡(間切)を監督させた
・按司の功勲のある者は、錦浮織冠を賜わり王子の位まで陞る
尚真王の時代より以前は、各郡(間切)に按司を一人置き、按司はグスクを建て、そのグスクに住み教化をし、郡(間切)民を治めた。時期になると首里王府へ赴き駐留し公務を勤める。終るとグスクに帰り郡(間切)民を治めた。
ところが、郡(間切)は雄を争い、武器をもち安泰に至っていない。それで、尚真王は制度を改め、各地の按司を首里に集居させ、領地を治めさせた。領地には按司に代わって按司掟を派遣し、間切を監督させた。按司が功績をあげると、位をたまわり、王子の位までのぼることができる。
今帰仁グスク(間切)を合わせみると、北山の滅亡後第一尚氏王統から今帰仁グスクには監守(尚忠と具頭王子)の派遣がある。他のグスクでも按司を置いてある。首里からの按司の派遣かどうか? 尚真王の制度の改革で諸按司を首里に集めるが、今帰仁グスクの按司(監守)は、首里に移り住むことなく、そのまま今帰仁グスクに監守として居住する(1665年首里に引揚げ)。
尚真王の中央集権国家の制度で例外をなしたのが今帰仁グスク(間切・按司)であった。首里に移り住むことなく、今帰仁グスクに住む(1665年首里に引揚げ)。そのことが北山の歴史、あるいは三山統一以前、その後の歴史や文化に興味深い痕跡を残していると言えそうである。
【石灯籠や香炉の銘の調査】(2008.04.08)
各地の石灯籠や香炉の銘の調査は、「北山(山原)の歴史と文化」の「山原の各間切と御殿・殿内」へと結びつくものである。その調査は、もう少し続く。昨日は恩納村の谷茶までいく。谷茶の御嶽の中の祠に銘のある香炉がある。年号は彫られていないが、「奉寄進 仲村渠にや」の香炉が二基ある。もう一基にも同様な銘が書かれているが文字の判読が困難である。恩納村については、前に少し触れているが、重複する部分もあるが、整理することにする。
恩納間切の創設1673年年である。金武間切と読谷山間切を分割して創設される。恩納間切が創設されたとき、大里王子朝亮と佐渡山親方安治に領地として恩納間切が与えられた。その後、佐渡山親方家が廃藩置県まで恩納間切と密接に関っている。恩納村(ムラ)や安富祖村(ムラ)に佐渡山家の仕明地が多くあった。
佐渡山殿内は恩納間切の総地頭をだした家である。その佐渡山家は仕明地を多く持っていたようである。『恩納村誌』を見ると、恩納グスクの下、グランチャマの砂質地一帯の畑、南恩納の馬場の下印場一帯、シルジ、屋嘉の下り口、太田のクビリ、安富祖の川沿いの水田、字名嘉真にもあったという。
覚
恩納村帳内の原に有之候佐渡山親雲上面付三万三千四百二十三坪七分之内
潟二万八千二百三十六坪七分…
(佐渡山殿内の土地を手放したのは佐渡山安嵩が中国に行く準備のため、借金を負うようになった。その目的が達せず多くの土地を手放すことになった)。
▲恩納村谷茶(後方の森がウタキ) ▲ウタキの中にある祠
▲祠の中にある銘のある石香炉
ノロ殿内調査で伊平屋島→伊是名島に渡る。両島のノロ殿内やノロ、それと三十三君クラスの阿母加那志(あんがなし)と南と北の二カヤ田アムについて確認のためである。「諸禄処分による社禄調表(ノロクモイ)」(明治43年)に伊平屋(伊是名含む)は、伊平屋ノロクモイ・伊是名ノロクモイ・野甫ノロクモイ・我喜屋ノロクモイと伊是名掟神が記されている。それより古い『琉球国由来記』(1713年)には伊是名ノロ・我喜屋ノロ・田名ノロ・アムガナシ・二カヤ田ノロ・アマミヤノロ?とある。ウタキ(グスク)と集落との関係が奄美大島と同様な展開をなしているようなところがある。それと『琉球国由来記』(1713年)の伊平屋で登場してくる「…ヲヒヤ」(旧家の当主?男の神人?役人?)の存在が気になる。
【伊平屋村の田名ノロ殿内】(2008.01.08)
伊平屋村田名のノロは複雑なようである。田名は田名村・久里村・ガヂナ村が統合された伝承を持っている。そのこともあってノロも三村出身のノロを仕立てている。また、伊平屋ノロクモイ(ノロ)は田名ノロを想定している。『伊平屋村史』で前記三つの村(マキ規模)の統合があり、各村からノロを出していると。それとイヘヤ祝女(ノロ)は殿内に住み、ウッカ御嶽を担当、テン祝女はアジヤ御嶽、アサト(安里)祝女(ノロ)は城嶽を担当するとある。(そのことは、集落と神人の出自との関係を示しているようで非常に興味深い。古宇利島の七森七御嶽とそれぞれの御嶽を担当する神人に通ずる)。
田名の祝女(ノロ)殿内は大正4年に瓦葺きにし、田名屋(脇地頭)は大正10年に瓦葺きに改築したが、昭和27年に各拝所をお宮を造り合祀し伊平屋ノロがお宮の司となり田名神社と呼ぶようになったという。今回訪ねてみたら、田名屋(お宮?)、隣に神アサギ、さらに右手にノロ殿内がある。場所は変わったが神社の形式も残しながら神アサギはもとに戻したということか?
田名ノロ殿内や神アサギ、ダナヤーなどは旧小学校敷地より下方にあった。「ノロ制の終焉」を結論づける姿を伊平屋村田名ノロにみた思いがする。(2003年4月に伊平屋島を訪ねている。工事中であった。当時、田名についてコメントすることができなかったようだ)
田名集落の後方の後岳(標高約230m)の頂上部まであがる。前回、体調が思わしくなかったため途中であきら2めたことがあった。田名に入るまでに伊平屋村の資料館で田名グスクに野面積みがあることを確認していたので、それは確認したくて、まだかまだかとフーフー言いながら上りつめた。八合目?あたりに正門らしき石積みを見つけると、元気がでて、そこから頂上部まで一足とびであがる。頂上部に香炉が置かれている。それはイベである。後岳そのものがウタキであり、またグスクでもある。やはり麓の田名集落との関わりがどうなのかに関心が向く。頂上部に池(カー)があり、伊是名グスクにあるイシジャー(高所にある)と類似性をみる。
▲田名屋(平成15年竣工) ▲田名の神アサギ(平成15年竣工) ▲田名ノロ殿内跡か
▲田名グスクの石積み(入口か) ▲頂上部にある拝所(イベ)
伊平屋島の野甫村は島で一島一ノロである。社禄調表(ノロクモイ)」(明治43年)に野甫のろくもいとあり、『琉球国由来記』(1713年)に野甫ノロ火神、野甫ノヲヒヤ火神、大山御イベがあり、いずれも公儀祈願所である。昭和30年代に拝所を統合し神社にしてある。野甫は弁之神社(お宮)である。集落内にヌンドゥンチ(伊豆味家)がある。現在神アサギはない。イリチャヨー(旧8月13日)という儀礼があり、アマイ神がノロ神をさがすストーリーになっているようだ。大山嶽(大山御イベ:神名セロマン)は公儀祈願所で野甫ノロ担当の拝所となっている。
▲野甫集落(ヌンドゥンチ付近)(2003.6.1撮影) ▲野甫ヌンドゥンチ?(2003.6.1撮影)
「山北今帰仁城監守来歴碑記」(県指定の文化財) 2002.4.3(水)
昨年12月(2001年)「山北今帰仁城監守来歴碑記」が県指定の文化財となった。今帰仁城跡の主郭(本丸)の火神の祠の前に立っている石碑。現在立っているのはレプリカで、原物は歴史文化センターのエントランスホールに展示してある。碑はニービヌフニ(微粒砂岩)で高さ約117㎝、幅約41㎝、厚さ9㎝である。石碑は乾隆14年(1749)に建立され、建てたのは今帰仁王子(十世宣謨)ある。火神の祠の前に燈篭があり、その一基に石碑の建立者である「今帰仁王子」の名が刻まれている。
碑文の内容の概略を記すと以下の通りである。
「琉球は四分五裂し、ついに三山が鼎立する情勢となる。佐敷按司
の巴志が兵を起こし統一する。北山は中山から遠く離れ教化し難く、
また地形が険阻である。そのため変乱を起こす恐れがあり、次子の
尚忠を派遣して監守させ、永くその制度を置いた。尚徳王に至って
国政が乱れ禍を招き転覆する。尚円が王に推挙されると、しばらく大
臣を輪番で派遣して監守させる。弘治年間に尚真王は第三子の尚
韶威を派遣して監守となる。彼が吾(十世宣謨・今帰仁王子)の元
祖である。代々今帰仁城を鎮め典法を守ってきた。康煕4年(1665)
七世従憲の時、住宅を首里に移し今帰仁城の旧跡や典礼などを掌っ
た。乾隆7年(1742)に城地を郡民に授け、典礼を行わせようとした。
ところが、宣謨は往時のことを禀明し、元祖以来山北を鎮守し統治す
る者は吾が子々孫々しかない。宣謨はそのような来歴を記し、石に
刻み永く伝える」
この碑文から、沖縄の歴史の流れや監守設置の理由や監守引き揚げ、また今帰仁グスクの管理の移管や祭祀の状況を知ることができる。今帰仁グスクの歴史の一端を知ることができる貴重な史料である。当時の歴史観を伺うことができる。十世宣謨の当時の判断が今帰仁グスクの管理や所有権が今に影響を及ぼしている。
▲移築前の来歴碑記(1987年) ▲移築された火神の祠と来歴碑記
2002.4.5(金)
志慶真郭まで下りてみた。本丸から志慶真郭を見下ろすと万里長城のミニチュアと言った印象。その城壁の石積みの技術が中国、朝鮮、日本の影響を受けたのか、あるいは独自の石積みの技法を持って積んだのか、不明である。志慶真郭から本丸の方を見上げると城壁は崩壊したままである。今年度から大規模の修復にかかる。本丸の東側部分の城壁が整備されると、今帰仁グスクの威容さを目の前にできるであろう。
志慶真川まで下りてみた。この頃、雨が少ないので水量が少なかった。今帰仁グスクから崖を下りる形で水揚げ場が志慶真川沿いまで伸びている。そこまで行く時間がなく、今でも水揚げ場が残っているだろうか。20年前に見たままで、再度確認してみたいものだ。志慶真川のもう少し上流部に志慶真乙樽が髪を洗ったと伝わる窪み石がある。志慶真乙樽の神役をだすチッパヤー(諸志の島袋家)は拝みに行ったという。10年前、一度同行したことがある。土砂に埋まっていなければ、窪み石は今でもあるはずだ。
撮影とは別に、志慶真川への道筋の植物をみながら、それと志慶真村(上原)の人たちが水くみや洗濯に通った話を思い出しながら歩いていた。
▲今帰仁グスクの崖下を流れる志慶真川
【本部町辺名地】2003年4月14日)メモ
本部町辺名地まで足を運んでみた。先日(3月27日)ノートを開いて辺名地を整理してみたのであるが、やはり足で確認して置きたいことがいくつかあった。と同時に10日に初カツオ漁があったとうし丸さんから教えられていたので豊漁祈願があったかもと。
辺名地の仲村家には古琉球の辞令書が三枚あり、現在の本部町が「みやきせん まぎり」(今帰仁間切)のムラであった時代である。いずれも「みやきせん まぎり」とある。まだ、辺名地・具志川・謝花の後の「・・・村」なる以前である。・・・村となるのは1611年(慶長検地)からである。2003年以後、仲村家は図像、明治の文書、辞令書、按司墓、ウナジャラ墓の墓調査で伺っている。三枚の辞令書は「北山の歴史」を描くのに欠かせない史料である。
①辺名地の目差職叙任辞令書(万暦20年:1604年) 五世克址
②具志川のろ叙任辞令書(万暦35年:1607年) 五世克址
③謝花の掟叙任辞令書(万暦40年:1612年) 六世縄祖
徳用丸の船主は大浜である(昭和22年に辺名地から分区)ので豊漁祈願などの祭祀は辺名地と一緒に行っている。神アサギの側に豊漁祈願の旗が一本立ててあった。辺名地公民館にいた書記さんに「最近ウガンがあったのですか」と聞いてみると、「初カツオの水揚げがあったのですよ。大浜の漁師さんが立てたのですよ」と(大雨のため画像に収めることができなかった)。
「豊年祭はありますか?」と訪ねると「昔はあったといいますよ。今はやっていませんね。豊年祭の衣装が台風で飛ばされてしまったので、どこか名護?あたりでやっているとか・・・。川に流したという人もいるようです」と。「川に衣装を流したなら復活させんといけませんね。きっと、台風で吹き飛ばされたのでしょう」と半分冗談で答えておいた。
神アサギの隣りの祠には麦が供えられていた。拝所の中には「本部按司・・・」の香炉(三基)、扇、火神、麦が供えられていた(以前は稲も)。神アサギの屋根裏には神酒(カシミキ)をつくる木の樽とポリバケツの容器が置かれていた。
タキサン(御嶽)の側にある湧泉(カー)あり、そのカーも含めて御嶽としているのだろうか。カーに左縄(今はビニールの縄)が何回も張り巡らされている。毎年新しい縄を張っているのであろう。カーの前の香炉(ブロック)はイビとみたてている?
(画像略)
▲本部町辺名地の神アサギ(雨の日) ▲辺名地のタキサンの側のカー
..
▲辺名地神アサギの側の拝所の内部 ▲供えらた扇と麦穂
2004年5月25日
・絵図に見る山原
ここに掲げた5枚の絵図は最も古い「海東諸国紀」『琉球国之図』(1471年)から、首里王府がまだ機能していたと思われる時代(1800年代後半)に描かれたと推測されるものである。海上交通が主であった時代の情報が盛り込まれ、また港や岬の名称のほか航路や距離などが記載されている。
■『海東諸国紀』「琉球国之図」(1471年)
『海東諸国紀』は1471年、朝鮮の申叔舟(しんしゆくしゆ)が朝鮮王に命じられて作成したもので、それに収められた「琉球国之図」は1471年に尚金福の使者、博多の船頭道案が献上したもの。琉球最古の地図で、那覇港にちての情報が多いが、「雲見」と記された運天港にちては特に「要津」とコメントが付されていることから、山原の海上交通のみならず、海外交易の要所であったことが知れる。
■正保国絵図(1664年)
正保元年(1644年)三代将軍家光の命で島津光久が作成・献上したもので、薩摩侵攻後の琉球国が日本の統治下にあることを示すという目的を持つ。「をく村」「とのきや村」などの村名、「国頭間切千廿九石余」などの石高、「瀬底嶋人居有」「干潟」「此間十四町」といった情報の他、運天港は「此運天湊廣さ弐町入壱里廿七町深さ廿尋」「大船五六艘程繋る」「何風に而も船繋り自由」との記述が見られる。
■元禄国絵図(1702年)
正保国絵図からほぼ50年後、五代将軍綱吉の命によって江戸幕府が作成した。正保国絵図をほぼそのまま踏襲し、さらに絵図のたっち、情報共にすっきりした趣きとなっている。
■薩摩藩調整図(年代不明)
この図にちては東恩納寛惇が「東京で手に入れた琉球国図」ということの他、ほとんど何も分かっていないが、地図上の情報から首里王府が描いた図ではないかとされる。
海路に関する情報はほとんどなく、陸路が細かく描かれているため、街道筋を示すための地図であることが分かる。
■琉球并諸島図(年代不明)
島津家が所蔵する地図で、持ち運びに便利なように折り本の形式になつている。何の目的で、いつ頃作成されたのかわかっていないが、航海図としての役割を果たしていた可能性も考えられる。
正保国絵図では既に陸続きとなっていた那覇の港が、この図ではまだ浮島の状態なので、「正保国絵図」を参考にしたと言い難い。また地図上の情報にちてはほとんど国絵図通りだが、表記や絵の描き方は大雑把である。
■山原の三津口(さんつぐち)
近世、琉球では薩摩へ上納米を納めていたが、これを仕上世米といい、那覇・運天・勘手納・湖辺底の四つの港(津)が積み出し港として利用された。四つの港のうち三つの津口が山原にある。
中国からの使者が乗船する船(御冠船)が那覇に滞在中、薩摩からの船は那覇港にはつけず、湖辺底港から運天港へ廻ることになっていた。
■山原船(やんばるせん)
戦前まで那覇や与那原、平安座、読谷村比謝矼(ばし)などの中南部と、今帰仁村運天や国頭村奥などの北部、いわゆる山原地方とを往来した交易船のこと。木綿旗をかかげた帆船で、馬艦(まらん)船とか帆船(ふしん)とも称されている。
中南部の米・麦・豆などの穀類や黒糖・塩・ソーメンなどの日用雑貨と、山原地方の材木・薪炭などとの交易を主とした。
■山原船が運んだ品々
《山原から中南部に運んだ品物》
薪・炭・木材・米・竹茅・山原竹・樟脳・藍・砂糖樽板・砂糖樽底蓋板・恩納間切で産出される陶土など
《中南部から山原に運んだもの》
石油・大豆・白米・ソーメン・を茶・酒・昆布・塩・味噌・麦・壺屋の焼き物・その他生活必需品
■やんばーらがいつちやんどー(首里・那覇の童謡)
やんばーら(山原)が入つちやんどー
あかしのたむん(薪)のー買んそーらに ジんてジん
※山原の人がやって来たよ割ったたきギを買いにいこうよジんてジん(櫓をこぐ音)
2002.9.21(土)メモ
「渡喜仁の字誌」の編集委員会がありました。「もくじ」(案)をつくり、内容の説明をし、編(項目)の分担に入りかけました。ニ、三の方々が得意とする分野やできそうな編(項目)を受け持つことになりました。十数編あるので、これから随時決まっていくでしょう。
公民館にどんな資料があるのか、近々調査すること提案したところ、戦後の「議事録」(90頁)があることがわかりました。区長さんがすぐ出してくれました。戦後の基本資料となる一冊が出てきました。ありがたいですね。
タイトルは表紙に『一九四七年四月 議事録簿 字渡喜仁』とありました。この一冊に1946年10月から1966年10月まで20年間の渡喜仁と直接関わる記事が満載。以下のような事項です(ほんの一部だけ紹介)。
・他字他町村ヨリ転入者ニ関スル件(1946年10月)
・鶏盗取締リノ件(1947年3月)
・道路修理ノ件(1947年5月)
・衛生ニ関スル件(同上)
・軍部隊労務員賃金支払ノ件(同上)
・村夫役出夫ニ関スル件(同上)
・区長・書記ノ給料制定ノ件(1948年3月)
・区長・書記ノ勤務年限ノ制定(同上)
・各戸等級制定ニ関スル件(1948年5月)
・天底校修理負担金割当方法(1948年10月)
・ララ送り物山羊の配給(飼育者決定)(1949年6月)
・輸入馬配給ニ関スル決議事項(1949年7月)
このように主な項目を並べてみるだけでも、戦後復興期の渡喜仁の様子がしっかりと姿を現してきます。50年余の歳月が、出来事を記憶の彼方に追いやっているが、関わった方々に一つ一つよみがえらせ語ってもらいたい。
もちろん、この資料から得たものは『渡喜仁誌』に入るものです。特に戦後の渡喜仁の歩みの柱となりますから。「歩み」だけでなく、行政・教育・土地改良・農業・畜産など様々のことを引き出すことのできる資料です。こういう資料との出会いは有難いものです。まだ何冊かあるようだ。取り急ぎ、20年分を筆耕することになりました。
今、墓の企画展をやっています。それに関わる記事を「議事録簿」で目にしたので紹介しましょう。龕道具、それを置く場所が龕屋(ガンヤー)です。
【龕屋(ガンヤー)】(龕道具)
・一九五三年十月七日渡喜仁区龕道具作製。同年十月九日完成す
但し、他字よりの借金は五十円也とす
・龕道具外字使用 一、金五十円也
・一九五三年拾弐月参拾日天底区K使用
・一九五四年壱月弐拾五日天底区T使用
・一九五四年五月拾参日天底区I使用
・一九五四年八月二十八日天底区民使用
とあり、渡喜仁で龕(ガンヤー)をつくり龕を隣の天底も貸し出しています。龕は隣接する複数の字で使用していたことがわかります。例えば、上運天にある龕は運天と上運天。謝名にあった龕は謝名・仲宗根・玉城。また与那嶺にあったのは与那嶺・仲尾次が使っています(企画の墓の分布で紹介してあります)。
渡喜仁の「議事録簿」から「戦後の動き」を具体的にどこまで記述することができるか。楽しみが増えましたワイ。
▲戦後の動きをしることのできる貴重な資料「議事録簿 字渡喜仁」
2009年2月3日(火)メモ
『琉球国由来記』(1713年)から「ヲヒヤ」や「ヒヤ」を拾ってもらった。ヒヤが出てくるのは沖縄本島では少なく、伊是名・伊平屋島、久米島、さらには与論島や沖永良部島で多く登場する。ヒヤは役職や住居の跡(火神や殿)、村の当主、あるいは尊称として使われている。分布や与論島以北に根強く残っているのは、近世の行政村となる以前の、古琉球の集落形態の痕跡が反映しているのではないか。1700年代の『琉球国由来記』の頃にはヒヤ制度(?)が希薄になっていたのであろう。ここでヒヤ制度に視点をあてているのは、古琉球の首里王府と地方との関わり、地方を統治する制度としてヒヤ制度があったのではないか。
山ノオヒヤは山を取り締まる役人、惣山当の次の役。
「久米具志川間切例帳」にも、①嘉手刈のひや火神、②仲地村俣江田のひや火の神の前、③西銘のひや火の神の前、④兼城のひや火の神の前、⑤山里のひや火の神の前、⑥西平のひや火の神の前、⑦玉那覇のひや火神、⑧新垣のひや火の神の前と、具志川間切に七名の「ひや」が登場する。「火の神の前」とあるのでヒヤの住居もあるであろうが、ヒヤそのものはいなく、拝所として祀っているのであろう。ヒヤが役人として、あるいは一門の頭として王府と関わる役目をしていたのが、廃止となり祭祀場として遺されているのではないか。(詳細については別にまとめることに。寄り道する時間あがありませんネ)
【島尻】
・當間之ヒヤ火神 知念間切久手堅村
・ヲヒヤクメイ(玉城間切:玉城村・奥武村・百名村・安次富村・中村渠村・垣花村・當山村・宮里村・志堅原村・糸数村・屋嘉部村・前川村・富名腰村・上間村でのウタに出てくる)
【中頭】
・安謝之大ヒヤノ殿(浦添間切内間村)
・キチラセノ大ヒヤ(宜野湾間切宜野湾村)
・大里ノ大ヒヤ( 〃 )
・大川ノ大ヒヤ殿(宜野湾間切真志喜村)
・奥間ノ大ヒヤ殿( 〃 )
・石川ノ大ヒヤ殿( 〃 )
・小国ノ大ヒヤ殿( 〃 )
・中間大ヒヤ殿(宜野湾間切大山村)
・新里大ヒヤ殿( 〃 )
・上具志川大ヒヤ殿( 〃 )
・大山大ヒヤ殿( 〃 )
【伊江島】
・ヲヒヤタ(伊江島)
【伊是名島・伊平屋島】
・セサンノヲヒヤ火神(伊是名島伊是名村)
・首見ノヲヒヤ火神(伊是名島諸見村)
・マウノヲヒヤ火神(伊是名島勢理客村)
・野保ノヲヒヤ火神(伊平屋島野甫村)
・我喜屋ノヲヒヤ火神(伊平屋島我喜屋村)
・田名ノヲヒヤ火神(伊平屋島田名村)
・玉城ヒヤ(伊是名島:俗にオヤ田)
・泊大比屋(馬氏国頭親方正胤)
・村々ヲヒヤ家(伊是名島)
・具志川ヲヒヤ・ヤブノヒヤ(祈りに出てくる)
・アンジヲソヒヤ・テニギヤヲソヒ
【久米島】
・世ナフシオヒヤトフ者(久米島具志川間切)
・ヲヒヤニ向テ云(久米島具志川間切)
・ヘドノヲヒヤ三兄弟
・俣枝ヲヒヤ(久米島具志川間切仲地村)
・西目ヲヒヤ(久米島具志川間切西目村)
・西平ヲヒヤ( 〃 )
・新垣ヲヒヤ( 〃 )
・兼城ヲヒヤ(久米島具志川間切兼城村)
・山城ヲヒヤ(久米島具志川間切山城村)
・久根城ヲヒヤ(久米島具志川間切山城村)
・堂ノ比屋(久米島仲里間切宇江城村)
・ヘドノヒヤ、ヘドノヒヤ一族(久米島仲里間切宇根村)
・堂之大比屋
・健堅之大比屋(今帰仁間切、後の本部間切健堅村)
【沖永良部島】
・大親(ウフヤ)
・大親役(ウフヤ)
・大屋(オホヤ)
・屋屋子(大屋子なる官吏、俗に按司)
・百(ヒヤ)
・大城村川内のヒヤ
・西原村あがりヒヤ
・ 「百(ヒヤ)と申候は往古は百家部の頭取仕申候村役の役名にて候由」
・沖永良部島の各村に屋号としてウヒヤ・ヒヤ屋・川内の百などがある。
・シニグに百(ヒヤ)が登場する。
【与論島】
家系図に「…時之百」と出てくる。継承されていないので「その時に与えられた役職」のようである。
・…時之百
八重山―波照間島―
2007年10月17日から19日まで波照間島をゆく。沖縄県地域史協議会の研修会である。波照間島を中心としたテーマでの研修会である。17日は波照間農村集落センターで「波照間島の歴史と文化」と「波照間島の村落形成」の二本の講演がなされた。
18日は島の約30カ所の場所の巡見であった。私は数個のテーマを持っての参加である。沖縄本島北部と歴史・文化の関わりが希薄な波照間島を見るのであるが、沖縄本島を含めて見えるキーワード探しでは、それぞれの地が独自性の歴史文化をつくっているのではないかとの視点でみていくことに。それと、沖縄本島との違いは16世紀に首里王府へ統治される以前の先島の歴史・文化が、今にどう伝えているか。そのようなことを思い描きながら島のあれこれを見せてもらった。
山原、あるいは沖縄本島で見てきた御嶽(ウタキ)と集落との関係、あるいはグスクなどとは異なった説明を必要とした。そこで見える法則性が先島の島々や村、あるいは集落と御嶽(オン・ワー)との関係が島に住んできた人々が持っている本質的なものではないか。島を見る物差と先島域をみる物差、そして琉球国から見る物差しが必要であることに気づかされる。
・長田(ナーダ)御嶽は長田大主が祀られている。
・美底(ミスク)御嶽は獅子嘉殿が祀られている。
・オヤケアカハチの生誕地(歴史の評価で御嶽になるのだろうか?)
・嶽(ワー)と集落との関わり(集落は村でなく人家がある地域として捉えている)
・現在までの集落移動の経過(低地→段丘上→島の中央部へ)
・嶽(ワー)と御嶽(ウタキ)
(住居跡がワーにしていく傾向がある。本島では火神をまつるが香炉を置き
イビにしてある)
・嶽(ワー)と祭祀(神人の出自と旧家)と島全体の祭祀関係(行政村以前の
集落形態がみえそう)
・スク(グスク)と集落(ワーを中心として集落を形成、故地のワーも遺す)
・下田原グスク(大規模)と先島文化(下田原グスクを拠点とした時代を想定)
・下田原グスクを中心とした時代(波照間島)→竹富島→石垣島
(先島文化に与えた影響?)
・歴史的な人物を排出した島(オヤケアカハチ・長田大主・ミスクシシガドン・
ウヤマシアガダナ・ゲートゥ・ホーラなど:伊平屋・伊是名島が排出した
人物にまつわる歴史が彷彿)
・石垣の白保にある波照間嶽と移住した民(移住先で嶽をつくる習性を持った民)
・『琉球国由来記』(1713年)に波照間村とあり真徳利御嶽(マートゥーリワー)と
白郎原御嶽(シサバルワー)と阿幸俣御嶽(アバティワー)が登場する。
波照間島には天啓6年(1626)8月28日付の首里王府発給の辞令書(八重山間切の新本目差職補任辞令書)がある。その辞令書は『辞令書等古文書調査報告書』(沖縄県文化財調査報告書大18号)と『琉球文化の研究』(加藤三吾)付録の「八重山文化の探究」(河村只雄)に収録されている。ただし、『南方文化の探究』(講談社学術文庫)では辞令書の写真が外されている。
首里の御ミ事 首里の御ミ事
やへままきりの 八重山間切の
あらぬとめさしハ 新本目差の目差は
一人あらぬとのちくに 一人新本の筑登之に
たまわり申候 給申候
天啓六年八月二十八日 天啓六年八月二十八日
辞令書の「あらぬと」は村名で、崇貞元年(1628)までに波照間村と平田村、そして「あらんと村」が統合されたようである。辞令書は統合される直前である。1628年頃の首里王府と最南端の島との統治関係がうかがえる。新本(村)の目差職に新本の筑登之を任命するというものである。首里王府は辞令書の発給で八重山の最南端の島まで統治している。
▲オヤケアカハチの生誕地 ▲長田大主と関わる嶽(ワー)
琉球国の最南端の波照間島の下田原城を見た時の第一印象は、八重山地域に文化があるとするなら、このグスクが拠点となっていた時代があったのではないかと。15~16世紀にかけて集落遺跡と位置づけられている。島の南東の標高25mほどの台地上の崖に沿って造られている。グスクが独立した形であるのではなく、周辺に石積みの屋敷囲いがいくとも連続してある。その中心の石囲いがグスクの中心部とみられる。50~100×180m規模の石囲いが残っているようである。
下田原グスクに立ってみた印象は、このグスクが栄えていたとみられる15~16世紀の頃、下田原グスクを拠点にして北側に散在する島々を統治していた時代があったのではないか。グスクからどのくらいの遺物が出土するかわからないが、規模と取り巻いている集落の後からいくらか想像が巡らしてみると面白い。竹富町の一島であるが、グスクの時代は波照間島の下田原グスクが統治の要になった時代を想定してみると興味深い。波照間島のグスクの位置する場所は、石垣島や西表島などの島々をつなぐ拠点になっていたのではないかと想像してみた。
▲ミシュク集落跡にあるミシュクケー(井戸) ▲集落跡地にある石(イビ?)
▲アースクワーの拝殿とイベ ▲ワー内の道筋(隣接して旧家がある)
▲下田原城遺跡入口 ▲下田原城遺跡の石積み
▲下田原城遺跡の石積み ▲下田原城遺跡の石積み(通路跡?)
高登盛(コート盛)(火番盛) ▲高登盛の上部の様子
▲波照間島でみた茅葺屋根の建物 ▲屋敷跡の火神(ワー?)と香炉
▲のろ殿内 ▲ウイヌウタキのイベ
真喜屋の概況
・真喜屋やマジャーと呼ばれる。
・現在は名護市だが、羽地間切、羽地村(の字(区)である。
・隣の稲嶺は真喜屋から分離した字である。神行事や豊年祭一緒におこなっている。
・屋我地島にわたる奥(お)武島(うじま)(墓の島)は真喜屋に属している。
・コーチセイリビー(耕地整理樋)という水路があり、一帯は水田が広がっていた。
・羽地間切に源河ノロ・真喜屋ノロ・仲尾ノロ・伊差川ノロ・我部ノロ・屋我ノロがいる。
真喜屋ノロはその一人。
・真喜屋小学校がある。学校はクルサチ付近にあったが、チリ津波の被害にあい現在地に
移動して作られる。
・真喜屋川上流に真喜屋ダムが建設されている。
・アハチャビという小高い森があり、そこの広場で豊年祭の練習などが行われる。
・近世、久志間切の瀬嵩番所へ通じる宿道(スクミチ)があった。羽地間切から大宜味間切
の番所をつなぐ宿道(スクミチ:現在の国道の一部)も通っている。
・真喜屋の山手は戦争の時、避難場所であった。
・真喜屋の山手には藍壺や炭焼き釜跡が見られる。
・山手には寄留人(ヨカツ:チュカッチュ)たちが多く住んでいた。
▲アハチャビ(アパチャビ) ▲アハチャビからアサギ方面をみる
2003.4.22(火)過去記録
学芸員実習の学生達の申し込みがあり、その返事を大学宛に送付しているところである。現在5名、一人保留中。8月の中旬に10日から2週間の期間。今年は台風がきませんように!
〔弁カ嶽をゆく〕
昨日、首里鳥堀町にある弁カ嶽までゆく。目的は火立毛の痕跡が確認できないかである。弁カ嶽は首里城の東方約1kmに位置し、頂上部分が標高165.7mである。頂上部に香炉がいくつか置かれ、今でも拝みにくる人たちがひっきりなしのようだ。首里や那覇のマチ、首里城などを眼下に眺めることができる。また東に太平洋、西に東シナ海が広がる。
眺めからすれば、弁カ嶽は遠見台のもってこいの場所である。首里城・那覇港・慶良間島、東側に太平洋、南側に久高島などが見渡せる。御嶽には数多くの香炉と「奉寄進」と刻銘された香炉もあり、航海安全の祈願がなされたに違いない。それだけなく、大嶽は久高島への遥拝、小嶽は知念村の斉場御嶽(セーファウタキ)への遥拝場所としての役割を果たしている。
首里の都の風水と関わる冕嶽(弁カ嶽のこと)・虎瀬・崎山嶽の一つの御嶽でもある。弁カ嶽には大嶽と小嶽があり、両御嶽の祭祀とも首里大あむしられが掌っている(『琉球国由来記』1713年)。
弁カ嶽への関心は1644年に烽火の制が敷かれ、各地に遠見台が設置される。連絡網は弁カ嶽(首里王府)に知らせるネットワークである。例えば、沖縄本島の西海岸は伊是名→古宇利島→大嶺原(具志堅)→伊江島→(瀬底島)→座喜味→弁カ嶽へと繋いで知らせる。その最終場所が弁カ嶽の火立毛であった。どんな場所なのか・・・・「奉寄進 玉川王子・・・」の香炉があり・・・・。
・1519(正徳14)年に大嶽の前に石垣と石造りの門を建立する。
・1543(嘉靖22)年に弁カ嶽に松を植え、参道を石畳道に改修する。
拝殿を創建する(1543年か)。
・1644(順治元(1644)年から正月・5月・9月に国王が詣でるようになる。
・1778(乾隆43)年に種子島の船頭が鳥居を建立する。
・1800(嘉慶5)年に冊封副使の李鼎元が弁カ嶽で遊ぶ。
・1853年ペリー一行が内陸探検のとき弁カ嶽あたりを訪れているようだ。
・1944(昭和19)年に日本軍が弁カ嶽に陣地を構築するために石を使う。
・1945(昭和20)年攻防戦で国宝に指定されていた石門が破壊される。
・1954(昭和29)年にハワイの一心会と鳥堀町の奉仕でコンクリート造り
の門をつくる。
・弁カ嶽は形から航海の目印となる。
・弁カ嶽の北東約100mに位置する場所に火立毛があった。
昨日、確認できなかったが「火立毛」(『金石文―歴史資料調査報告書Ⅴ―』沖縄県教育委員会)の碑があるようだ(下の拓本)。
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▲弁カ嶽の門〈現在はコンクリート) ▲戦前の弁カ嶽(『琉球建築大観』より)
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▲頂上部から首里・那覇のマチを眺める ▲弁カ嶽の頂上部の様子
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▲門の左手に香炉がいくつも... ▲頂上部への細い坂道
・・・山□□□□・・・・
・・・・艘・・・・・
一日二艘
異国 □□□
□ 一日
□□親雲上
安波茶親雲上
□村渠親雲上
磨耗しているようで、一部の文字が判読されている。採択は阿波根直孝氏。
【知念間切の番所】(2008.02.20)(以下画像略)
『球陽』の尚穆王10年(1760)の条に「知念郡 番所を遷す」とある。
本年(1760)7月23日、本省検者、総地頭、聞得大君御殿大親等に同じうし、
題請して本省の城内地勢尤勝なり。乞ふその番所を城内に還すを准すんせん
ことを。王之れを允す。
1760年に知念間切の知念村(ムラ)から知念グスク内に番所を移したという。「…等に同じうし」とあるのは検者や総地頭、そして聞得大君御殿がすでにグスク内にあり、そこに番所を移すことが許されたということなのであろう。以前、番所のみ触れたが、全文を通して見ると、1760年に知念番所が知念グスクに移る前から検者や総地頭や聞得大君の殿があり、場所がいいので番所もそこに移ってきたということであろう(総地頭や聞得大君が、そこに常に住んでいたわけではない。首里に居住)。
知念グスク内にいくつもの拝所があり、その中に火神が祀られている。検者や総地頭や聞得大君の火神の可能性がある。まだ特定していないが、久高島に向かって遥拝しているのが聞得大君の拝所、セメントの建物の火神は地頭代火神(そこに番所があった)。首里に向いているのは総地頭火神と推定できるが、そこでの祭祀をみないと特定しがたい。
それと『琉球国由来記』(1713年)の「知念城内之殿は「御殿前之庭に席を設ける」とあるので、知念城殿もグスク内にある。その時には番所はまだグスク内に移動していない時代である。
そこでは、首里に住む聞得大君と総地頭、そして後に移動してきた間切番所、『琉球国由来記』(1713年)に出てくる知念里主所火神、地念城御殿、知念城内之殿などと現在の拝所、それと首里に住む総地頭や聞得大君と知念間切との関係はどうだったのか。五代目の聞得大君が知念間切の惣地頭職に任命される(「女官御双紙」)。知念間切は聞得大君の地頭地となる。知行高は代によって異なるが、200石~500石が与えられている。十一代目の尚敬王の二女(向氏伊江王子朝倚室)で乾隆49年4月29日の辞令書がある。それによると「聞得大君並知念惣地頭」の知行高は200石である(「向氏伊江譜」(伊江家)。
旧知念村具志堅
具志堅は昭和22年に知念から分割した字である。祭祀は知念巫の管轄である。知念のところで書き記したが、知念村の集落の中心部は祭祀空間から見ると具志堅部分にあったことがわかる。特に知念間切の同村にあった番所のあった場所が具志堅の平等原之殿が番所跡の可能性がある。知念間切番所が知念グスク内に移ったのは1761年である。同村から同村にある知念グスクに移動したことになる。
旧知念村知念
知念グスクを持つ字である。『琉球国由来記』(1713年)の知念村に以下の8つの殿が出てくる。
①知念城御殿 ②知念城内之殿 ③長堂之殿 ④越地之殿 ⑤平等原之殿
⑥具志堅之殿 ⑦コカルケンノ殿 ⑧波田真殿
①と②は知念グスク内の殿とみられるが、波田真殿と波田真巫火神があり、1713年段階には波田真村が知念村に統合されているが、祭祀はそれ以前の姿を継承している。
隣接する現在の具志堅は昭和22年に知念から分かれて戦後の字である。『琉球国由来記』に出てくる③長堂之殿 ④越地之殿 ⑤平等原之殿 ⑥具志堅之殿 ⑦コカルケンノ殿は、現在の具志堅地内にあり、具志堅は知念村の内だったことがわかる。
波田真殿は波田真巫の管轄で、1649年の『絵図郷村帳』に知念村とはたま村が登場するので、1713年には「はたま村」は知念村に統合しているが祭祀はそのまま継承されている。
知念に「はたま村」が1713年以前に統合し、戦後地念から具志堅が分割しているが、祭祀空間のある場所や二人のノロの管轄などに村の統合や分離などの痕跡があり、反映している。それらの祭祀空間から見ると具志堅部分が知念村(ムラ)の中心部だったとみられる。
明治43年の「諸録処分による社禄調表」を見ると、字知念に知念ノロクモイと波田真ノロクモイの二人のノロがまだいたことがわかる。知念ノロ殿内はグスクの近くにある。知念村と波田真村の統合は1713年以前である。
海岸沿いに小地名が多く見られるのは、島の人々の生活が海(海岸)と密接に結びついていたことによるのであろう。それと海中のイノーやリーフにも小地名がみられる。それは、漁や舟の航行との関わりがあるからに違いない。小地名の呼称を分類してみると面白い(意味の解せない地名も多い)。
【陸上と海岸沿いの小地名】
・イワ(岩)・・・・・・・・・・・・・・ジャンジャイワ(ザンの岩)
・イャーヤ(岩屋)・・・・・・・・・パマイャーヤ(浜の岩屋)
・ガマ(洞窟)・・・・・・・・・・・マークーグガマ・パマガマ(浜の洞窟)・ヤマトゥガマ
(大和洞窟)
・シー(石)・・・・・・・・・・・・・・シーバイ(石のある方)・ハマンシ(浜の石)
・ハマ(浜)・・・・・・・・・・・・・パマガマ(浜の洞窟)・チグヌハマ(壷の浜?)・トクフバマ
(トクフ浜)・テーヌパマ(テーの浜)
・ソー(迫)・・・・・・・・・・・・・ソーヌパマ(迫のある浜)
・サチ(崎)・・・・・・・・・・・・ダキヤマヌマサチ(竹山の崎)・シルマサチ(白い所の崎)・アラサチ(荒崎)
サバヌマサチ(サバヌマ崎)
・トゥンヂ(とび出た)・・・・・トゥンヂバマ(とび出たところの浜)
・ピザー(山羊)・・・・・・・・・ピーザーアナ(山羊の穴)
・ミナ(貝)・・・・・・・・・・・・・・ミナワイ(貝を割)
・ホー(陰部)・・・・・・・・・・・ハイホーワラ・ホーヌサチ・ホー
・タンメー(おじいさん)・・・・タンメーガマ(叔父の洞窟)
・ハカ(墓)・・・・・・・・・・・・・パカヌメー(墓の前)
・ウプ(大)・・・・・・・・・・・・ウプドゥマイ(大きな泊)・ウプトゥケー(大きな渡海)・
ウプタールムイ(大きなタール森)
・グヮー(小)・・・・・・・・・・・トケーグヮー(渡海小)・シルヌハマグヮー(白い浜小)
・アガリ(東)・・・・・・・・・・・アガリウセールクマグヮー(東のイジメ場所)
・イリ(西)・・・・・・・・・・・・・イリウセールクマグヮー(西のイジメ場所)
・ヤマトゥ(大和)・・・・・・・・ヤマトゥガマ(大和洞窟)
・その他・・・・・・・・・・・・・・シラサ(白砂浜)・ウプルマイ(ウプドゥマイ:大きな泊)・アミヌアシ(雨の脚)
・ソーバタキ・グサブー・クヤミ・ハンゼー・アタフヂー・ハヤハンシチ・アザキ
タチバナ・サヤゲーケジ・オーグムイ(青い小堀)・クンヂヌタナ・ターチバナヒ
など地形や物の名などに因んだ地名が見られる。大小を表すウプ(大)やグヮー(小)、方向を表すアガリ〈東〉やヤマトゥ(大和)やハカ(墓)やダキ(竹)などの付いた小地名もある。
アラサチ(荒崎)は島の北側の岩場の地名で、荒波の打ち寄せる場所に付けられた地名である。現在の小字にはないが、原石に「あらさき原」があり、一帯の原名としてあったことが伺え、原名は消えたが小地名として残っている。
大宜味村は沖縄本島北部に位置する村(ソン)である。1673年に国頭間切からと羽地間切を分割して創設された間切である。当初、田港間切であった。番所が大宜味村に移動した時(1731年)に、大宜味間切と改称される。その後に塩屋村に移る。明治44年に塩屋から役場を字大宜味(現在地)に移動する。
大宜味村は現在3000人余の小さな村(ソン)である。そこに17の字(かつてのムラ)がある。
①田嘉里 ②謝名城 ③喜如嘉 ④饒波 ⑤大兼久 ⑥大宜味 ⑦根路銘 ⑧上原
⑨塩屋 ⑩屋古 ⑪田港 ⑫押川 ⑬大保 ⑭白浜 ⑮江洲 ⑯宮城 ⑰津波
(ここでは田港ノロ管轄のみ)
小規模の村(ムラ)であるが、そこからどのような地域の文化をみることができるか。それを拾ってみることにする。
主な参考文献
・大宜味村史
・「なきじん研究」(15号)
・「大宜味村ふるさと発見ガイド」
杯・髪差・勾玉(玉カーラ) 髪差(77.5㎜、6g)
杯(内径7.8㎝、198g)
※「大宜味村史」民俗編所収調査報告資料より
第19期 第2回「山原のムラ・シマ講座」開催
台風2号の爪跡が各地の残っているこのごろですが、いかがお過ごしでしょうか。晴れると真夏のようで、梅雨明けが近いのでしょうか。
さて、第2回目の講座は、本部町瀬底島に行きます。瀬底島は現在一字ですが、瀬底村と石嘉波村が明治36年に両村は統合し瀬底村となります。行政上、一つの村(ムラ:アザ)となっているが、祭祀は別々に行っています。瀬底島に二つの祭祀の姿がどう残っているのか、見ていくことにします。石嘉波村は1736年に本島側(健堅と崎本部)から瀬底島に移動してきた村です。そこでは移動村と合併村の姿がテーマとなります。
瀬底村側には集落の古い形態が今でもみることができます。グスク(ウタキ)を背に、近くノロドゥンチや旧家の屋敷跡が残り、集落内に根家(ニーヤ)の大城家があり、そこに神アサギやニガミヤーの火神の祠があり、鳥居をつくり神社化されています。
上間家の二代から五代まで地頭代(健堅親雲上)を出しています。二代目の時、唐旅をして清国から「土帝君」の木像を持ってきて祀ったといいます(国指定の文化財)。
本島側から移動してきた石嘉波村側には神アサギや旧家の跡やウタキなどがあります。それとティランニーという洞窟などの拝所を訪ねることにします。
瀬底島の概況
・瀬底島は本部町にある。
・1471年の『海東諸国紀』に「世々九」と見える。方言でシークという。
・1469年第一尚氏が滅びると第一監守も崩壊する。その一人が瀬底島に逃れ、ムラの草分け
となる(伝承:ウフジュク)。
・1644年の遠見ヤー(ウフンニ:瀬底島の一番高い所、大きな水道タンクあり)がある。伊江島→
瀬底島→座喜味→首里
・1666年に今帰仁間切を二つに分割する。今帰仁間切と本部間切が創設される。瀬底島は本部
間切の内となる。
・康煕12年(1673)曹姓大宗(平敷家)三世慶均 瀬底親雲上を任じられる。
・康煕19年(1680)明姓五世長満 瀬底親雲上 本部間切瀬底地頭職に任じられる。
・康煕41年(1702)(那覇・泊系家譜:根路銘家)六世恵勇 本部間切瀬底地頭職に任命される。
・瀬底島には瀬底と石嘉波の二つのムラからなる。
・石嘉波は1736年に崎本部と健堅の間から瀬底島に移動させられる。
・健堅側と瀬底島には瀬底大橋がかかっている。
・瀬底のウフジュクは第一監守が崩壊したとき逃げ延びた一族で村の草分けとなる。
・瀬底の神アサギは大底(ウフジュク:大城家)の屋敷内にある。
・ウフジュクはグスク近くから移動してくる。
・ウフジュクの側の広場で豊年祭がおこなわれる。
・瀬底島にはノロがいた。その屋敷跡がヌルルンチである。
・旧屋敷跡に祠をつくり火神や位牌がまつってある。
・首里に向かっての遥拝所がいくつも置かれる(門中ごと)。
・ウチグスクがあるが、別名東の御嶽(アガリヌウタキ)とも呼ぶ。
・ウチグスクは岩(イビ)の前に香炉のみであったが、コンクリートの祠と鳥居がつくられる(1991年)。
・瀬底には七ウタキがある。
①ニーヒヌカン(ウフジュク屋敷内)
②ヌルルンチ
③ウチグスク(東のウタキ)
④土帝君(瀬底ウェーキ)が中国から持ってくる。一門から村で拝むようになる。ウタキの一つ
に数えられている。
⑤アンチウタキ(瀬底島の入り口) 航海安全祈願
⑥イリヌウタキ
⑦メンナウタキ(水納御嶽)
・ケーガー(ため池)がある。チンガーもある。①瀬底の神アサギ・根所火神・ウフジュク(大城家)
ウフジュク(大城家)の屋敷内にある神アサギ。そばに根所火神の祠がある。
瀬底村 | ①神アサギ ②メンナ御嶽 ③ノロ殿内火神 ④イリノ御嶽 ⑤前ノ御嶽 ⑥内の御嶽 ⑦土帝神 |
(画像は略)