今帰仁の墓―事例報告―
仲原 弘哲(今帰仁村歴史文化センター元館長)
2021年12月へ
はじめに
1.今帰仁の古墓の分布とムラ・シマ
2.ムラ・シマの人々の墓
3.近世初期を反映した池城墓
4.今帰仁按司一族と大北墓
5. 中城ヌルドゥンチ(宮城家)の墓
6.今帰仁ノロ墓
7.仲宗根の大城家(カンゼークヤー)の墓
8.平敷の拝領墓
9.諸志の赤墓(墓の建立と古文書)
おわりに
1.今帰仁の古墓の分布
今帰仁村内の古墓は海岸・崖の中腹や下・川沿いの下流域・離れ島(ヤガンナ島)・集落から離れた窪地・港付近などに分布しています。
運天港付近。港と関わる地域といっていいでしょう。大北墓・百按司墓・大和墓・無名の墓群があります。大井川とヒチョシナガーラ流域、下流は炬港です。川沿いと港域に分布しています。ドゥルマタの木墓・池城墓・ウフシュ墓・ウフドゥール・高イヤーヤ墓・中城ノロ墓・イチャガヤーなどの墓があります。それから崎山から今泊に至る海岸線。赤墓・津屋口墓などがあります。
それは近世に墓地の規模や場所の制限があり、そのため平坦地を避けた崖や海岸の断崖地などに古墓がまとまってあるとみてよさそうです。
また、集落との関わりで見ると、集落からある程度離れた地域に造ってあり、葬式のときの死者と村人達との別れ場所(島別れ)があり、村人と「あの世との境界線」が見られます。家族や一族との境界線は墓と見てよさそうです。その境界線が「島別れ」の場所が今でもあります。しかし、今帰仁村では昭和35年から火葬が始まったため、島別れは葬祭場に変わりつつあります。隣近所の方々は墓まで行かず「島別れ」の場所にいく習慣はまだみられます。
古墓が新しい墓地に移し変えられつつあり、過渡期の最中にあります。火葬が葬制を大きく変えています。

▲今帰仁村の古墓の分布図
2.ムラ・シマの人々の墓
今帰仁村の古い墓の分布をしめしてありますが、ムラ・シマの人々の墓の形態はどうなのか少し触れておきます。というのは、大宜味村や国頭村、旧久志村などの墓の形態が異なっていることに気づかされます。本部半島には村墓(ムラバカ)や共同墓という呼称がほとんど聞かれないということ(古宇利島にはあります)。どのような墓の形態があるかというと、洞窟や半洞窟を利用した墓。地質が比較的柔らかい場所の横堀貫墓、洞窟に板で閉じた墓(板門墓?)、崖中腹の掘貫墓、亀甲墓など様々な形態がみられます。火葬以前の葬法(葬制)については、簡略されて部分は多く見られるが、葬法については同様のようです。
近世の墓の形態になる以前の墓の形態は洞窟や半洞窟に死者を葬る。洗骨をしたかどうか?銘書のない石棺や木棺や厨子甕の頃(古琉球)のムラ・シマの人たちの葬法についてはこれからの課題。村内の「・・・ガンサ」(合葬地)やシドゥ(シルヘラシ場所)などの地名があり、墓地や葬法の形態を窺わしめます。
村墓や共同墓の呼称はないが、近世の墓に他村の人達が葬られている事例がいくつもみられる。それは同一の村や隣接する村人が共同で使われる村墓や共同墓とは異なった墓の共同使用でがあります。
(大幅な改修工事中)
3.近世初期を反映した池城墓
池城墓はイチグスクバカとよばれ、近世初期の沖縄の歴史状況を反映しているとみている。墓の中の厨子甕は大分動いています。現在の状況は石製の厨子甕が三基、素焼きの厨子甕が一基、ボージャー甕、そして合葬された人骨の入った石製の厨子甕の下部分などがあります。その中の中央部の棚にある石製の厨子甕に「さき山大やくもい 寛文三年八月廿一日」の墨字があります。墓の内部の厨子甕が大分動いているので、そこから見えてくるのは限られてます。墓庭にある墓碑の表に次のように刻まれています。
大清康煕九年庚戌八月廿三日
寅十一月八日かけ 未十二月十九日かけ
一 さき山大やくもい同人女房大あむしたれ 同人子たまくすくのろくもい
右三人入申ために石さいくたのミ仕たて申し候

▲池城墓(イチグスクバカ)(1670年建設)
・1662年11月8日(寅)女房大あむしられが亡くなる。
・1663年8月21日(寛文三年)崎山代やくもいが亡くなる。
・1667年12月19日(未)その子玉城のろが亡くなる。
・1670年7月16日から8月23日にかけて墓を造る。
★三年忌あるいは七年忌にあわせて墓は造ってあるようです。
4.今帰仁按司一族と大北墓
運天にある大北(ウーニシ)墓は別名按司墓ともいい、今帰仁グスクで監守を勤めた第二監守時代の今帰仁按司とその一族を葬った墓です。そこに葬られている今帰仁按司とアオリヤエ(今帰仁)は今帰仁グスクの歴史と不可分の関係にあり、北山監守と今帰仁アオリヤエの役割を紐解く手がかりを与えてくれます。
一世(尚真王の第三子)の尚韶威(みやきせんあんし まもたいかね)は北山監守を勤めるが亡くなると首里の玉陵に葬られています。同様に越来王子(尚真王の第四子、こゑくのあんしまさふろかね)も玉陵に葬られている。越来王子一族の墓の調査に関わったこともあり、墓に葬られている人物・位牌・家譜、さらい移葬など比較しながら見ていくと葬制が見えてきます。
大北墓は18世紀初頭まで今帰仁グスクの麓のウツリタマイにあったが、崩壊したため運天に移したといいます。運天港近くへの移葬、そして一つの厨子甕に複数の人物を合葬する観念。
大北墓に葬られている今帰仁按司の首里引き上げと今帰仁阿応理屋恵(アオリヤエ)との関わりについて、一言述べると今帰仁按司(北山監守)の首里引き上げが、なかなか許されなかったのは今帰仁アオリヤエの役割と関係があると考えています。監守引き上げの直後今帰仁アオリヤエが廃止されます。80数年後に復活して今につながります。


▲津屋口墓(アカン墓) ▲「墳墓記」(1673年建立)

今帰仁村内の以下の場所の案内(南城市大里から29人)。
今帰仁グスク内はガイドの方にお願い。歴史文化センターの展示(今帰仁グスクや集落)/今泊の集落/赤墓/崎山の神ハサギ/運天集落/大北墓/源為朝公上陸之址の碑/オランダ墓など。北山の歴史を存分に学んでもらいました。一度に回ることはなかなかできません。そのような機会でないと。現在の現場の様子を知るためにも。島添大里(南山)の方々なので、それを踏まえて・・・。


▲上間親大親と関わる墓(墓の創設は18世紀) ▲今帰仁村崎山の神ハサーギ

▲今帰仁村運天港近くの崖中腹にある墓(遠景と近景)
6.中城ヌルドゥンチ(宮城家)の墓
それもなかなか興味深い墓の1つです。中城ノロは宮城家とは別に崎山のアガリ原のノロ墓に葬られていました。平成2年(1991年)に新しい墓に移葬しました。
宮城家一族の墓から誌板(板に銘や死亡年月日や洗骨日などが墨字で記されている)が10本確認できました。銘書を補完するものでした。その墓調査後、数点の誌板が確認されています。
また、中城ノロ家には古琉球から近世にかけての「辞令書」9もしくは10点残されていました。伝世品として勾玉や明三彩の水鳥やノロが乗る鞍、青磁の香炉などがあります。
祭祀の役職を持つノロ(女性)ともう一方の男方の職業や役割が見えてきます。残念なことに辞令書の時代のノロ墓は明けのであるが、男方の墓は近世後半から明治・大正・昭和にかけての墓です。
また、宮城家の墓の誌板が確認されてから墓調査で厨子甕の中の副葬品や誌板まで気配りする手がかりを与えた墓でありました。海岸にあったノロ墓と宮城家の古墓を新しく便利が場所に造り移した一例です。昨年の12月には崎山の古いノロ墓から残されていた雍正と乾隆の年号はいた銘書のある厨子甕も移葬したようです。

7.今帰仁ノロ墓 2012年12月6日
今帰仁ノロの墓の内部を見る機会があった。夏の台風で今帰仁ノロ墓の石積みが崩壊してしまった。内部を見てほしいとの連絡があり、早速職員を伴ってノロ墓へ。横穴の掘り抜きの墓で、積まれた石は比較的やわらかいものである。正面の墓口は海石(珊瑚石灰岩)で非常に軽い。
石製厨子甕が三基、御殿型の陶製厨子甕が二基、御殿型の陶製(素焼?)の厨子甕一基、蓋のない無頸(ボージャー)一基の計七基が納められている。向って右側にはイケがあり、そこには厨子甕に入れる以前のノロの遺骨とみられる。つまり、厨子甕に入っているノロの以前のノロの遺骨とみてよさそうです。
今帰仁ノロ宅(ナキジンヌンドルチ)に立ち寄り、位牌も見せてもらった。ノロ墓の厨子甕に葬られているノロは位牌にあるノロと見られる。(その中の無頸(ボージャー)の甕についてははっきりしない)。
位牌にあるノロより古い方のノロはイケに置かれているとみてよさそうである。石製(厨子甕)に洗骨して葬る習慣以前の時代のノロの葬り方。今帰仁ノロの位牌の古い方は戒名しか記されていない。山原では1700年代から位牌に銘を書き記すと厨子甕に洗骨を納める習俗になったと見られる。一般的な墓の事例からも。
【墓地内の厨子甕】
①②③④とボージャ(無頸の厨子甕)には銘はなし。但し、③には文字らしきものがあるが判読不能。銘はないが、位牌ののろの1~6代とほぼ一致している(一基のみ不明)。
①石製厨子甕(銘なし)
②石製厨子甕(銘なし)
△③石製厨子甕(銘判読できない)(四代ノロクモイか)
④御殿型焼き厨子甕(銘なし)
⑤に「五代のろくもい 仲尾次タマ 歳四拾壱」、「明治参拾八年正月弐拾弐日死去
明治四拾壱年拾壱月弐壱五日洗骨」とある。
⑥に「大正十五年寅十月十六日死去 六代乃ろくもい 仲尾次たま 二五才
昭和六年旧十二月三日洗骨」とある。
⑦無頸の厨子甕(銘なし)
【位 牌】(〇は墓地ののろくもいと一致)
〇大正十五年寅十月十五日死去 六代乃ろくもい仲尾次タマ
・古岸妙寿信女
霊 位
・寿林妙霊信女
・心安妙寿信女
△四代明治五年丙寅五月二十二日死去 歳三十九
〇五代乃ろくもい 明治三十八年巳正月二十二日死去 歳四十一

▲台風で全面が崩壊したノロ墓 ▲墓の内部を伺う


①②墓の向って左側に石製厨子甕 ③正面奥の石製厨子甕

④御殿型の籐製(素焼?)厨子甕 ⑤五代目ののろくもい ⑥六代目ののろくもい

▲イケの六名以前のノロの遺骨 ▲無頸(ボージャー)の厨子甕

▲今帰仁ノロ家の位牌 ▲六名のノロの位牌
8.仲宗根の大城家(ハンゼークヤー)の墓
大城家(ハンゼークヤー)の墓は仲宗根のアハンナ原にありました。新中学校建設のため移動をよぎなくされた墓の一つです。この亀甲墓には25基の厨子甕が入っていました。岩盤を掘り込んで前面は漆喰を施した亀甲墓です。入口にはシルヒラシに使う琉球石灰岩が二個平行に置いてありました。
日記によると、この墓に入っている人たちより、先の元祖が祭ってあるようだ。道光30年から平成4年まで銘書の厨子甕があり、近世末から現在まで使われていた墓である。(厨子甕の銘書は別表)
この墓とは別ですが、墓室の右手の中段あたりを掘り込んだ別室が設けてあり、その室は「道光二十三年癸卯十月二十九日建立/世代元祖骨移葬此所」と墨書された60×80cmほどの石板があります。今帰仁村では二例確認しています。それは、この墓に葬られている方々より古い先祖もいるが、新しい墓に葬ることができないので、別室をつくって先祖を祭ってあるのではないかと考えています。その墓の人たちの先祖への観念が見えてきます。


▲大城家の亀甲墓(アハンナ原) ▲大城家の墓の厨子甕(銘あり)

▲大城家の「記」
「記」は「元祖墓所の由来」について記してあります。その概要は、本元祖の墓は赤墓です。中の墓所は
「阿つぢやか原」にある墓です。
明治19年8月から9月中旬頃にかけて新築したのは、明治21年に死去した大城筑親雲上(72歳)丑の人です。
大城筑親雲上の父母から「たんかう原」 (現在アハンナ原)にある墓に葬られています。
9.大井川下流のドゥルマタの木墓

10.平敷の拝領墓

(工事中)
11.諸志の赤墓(墓の建立と古文書)
本部町具志堅の上間家の「先祖之由来遺書」(大清道光癸未八月吉日)(上間筑登上)である。真境名安興氏が大正6年に「沖縄毎日新聞」で「尚円と上間大親」として、以下の文書を紹介されている(真境名安興全集第三巻に所収)。下の上間上文書では「大親嫡流西平家系図」では一世から七世まで略されている。真境名安興氏の紹介文では一世から八世まで掲載されている。上間家文書の系統図は具志堅村八世西平親方から以降の人物が記されている。
今帰仁の赤墓は光緒元年十一月八日に開け、見分したことが書き記してある。上間家の文書、真境名安興氏の紹介文、そして上間家にある位牌と照らし合わせてみることに。





大清道光癸未八月吉日
先祖之由来遺書
上間筑登之
先祖上間大親亨翁者、本(元)伊平屋島葉壁首見と申所の人に而候処
壮年の頃今帰仁ニ遷居、老を楽しみ被罷在候砌
尚真様此方御巡見船より
今帰仁江被遊行幸成時 湊口近付候而大風吹出
兎も角も被為成様無御座至而被及危難候処上間大親嫡男次男
召烈小舟に乗り、於狂波之中身命を不顧段々相働終に御舟を湊内に
引入破損之危を奉救候に付
尚真様御歓不斜則
御前江被為召候 右上間は
尚円様御直弟にて
君上とは骨肉之分於間柄者御叔父に相当り依之家譜之本来委曲
上聞候処 骨肉之親 就中被忠情為御褒美今帰仁間切惣地頭職
被仰付候得共性質順厚之人に而身を卑く下りて惣地頭職を御断
今具志堅村と申す所 並比与喜屋之地所を被下度奉願候処仰付候
左候而嫡男次男者御召列首里江罷登□又難有御近習職等仰候付
夫与首里江居住いたし候次男中城親雲上者今牧志筑親雲上先祖三男
上間子ハ本部間切具志堅村江致居住居候今にして其家跡を見候得者
右之頂戴仕候 地方ハ葉壁山ニ向候二付而者いか様本居る所を難
忘常に對見する之志にて候□又□ 先祖伝来之墓者親泊有之赤
墓と名ヶ申候是者拝領之墓二而今以後裔ニ伝へ候依て相考候得者
亨翁忠孝之情一端々験者や
月 日
上間家所蔵の由来記(孟氏家譜に拠る) 『国頭郡志』所収されている(376頁)
「本部村字具志堅屋号上間口碑に依れば昔尚円未だ位に登らざる時伊平屋島首見村(今の
伊是名島の東北字諸見)にあり年二十にして父母を失い自ら一家を維持して家族を扶養せしが
或年大旱魃の為め凶歉あり、水田皆涸るゝ
光緒元年丙子十一月八日赤御墓御開御見分ニ付御六男西平里之子親雲上御女性衆御弐人〆御三人
被成御下彼ノ御墓開御見分仕候処□ぎやを御弐□具上ニ板弐枚内壱枚ハ字面相見得不申
壱枚ハ字面相見得候処板痛ミ相付字面不正字面相見得候分左之通書積置申候
奉
推正
七
五撰
浩 □
西平親
今帰仁親
付奉行
高ハ九寸禮口差渡し三寸程
廻弐尺二寸三寸計
御□美きやを
高□三寸程口差渡し
三寸五分計
廻弐尺計
字面御書之□美きやをし上ニ□□□面へニ而おしまへ座申候
板一枚長差□□ヒ六寸巾三寸
字面なし右同
板一枚長七寸也三寸巾右同
御墓門長弐間御門与後迄三間
右同時御見分ニ付寸法付仕置申候□美
きやを之儀之儀を唐調等ニ而御□候父三良上間
七十四歳男子牛上間にや三十八歳ニ而御開
仕置申候
大親嫡流西平家系図
尚真様叔父に当り、父上間大親亨翁宗親
一世 大里親方宗森
二世 今帰仁親方宗?
三世 本部親雲上宗則
隆慶二年戊辰二月二十三日奉進貢使命到?赴京辞朝回?到建寧府崇安県
不孝而罹病卒亨年四十 号覚宝
四世 今帰仁親方宗春
嘉靖二十八年己酉生、万暦三十八庚戌八月九日卒寿六十二 号梅江
五世 今帰仁親方宗能
万暦八年庚辰正月二十日生、順治十二年丙申三月二十六日 卒寿七十七 号有燐
六世 佐辺親雲上
万暦四十四年丙辰三月十日、順治十二年乙未十一月六日 卒享年四十 号浩然梅渓
七世 佐辺親方宗茂
崇禎十六年癸未四月十日生、康煕三十八年己卯八月二日卒 亨年五十五 号浩然
八世 西平親方康沢
康煕八年巳酉九月十日生、乾隆十年乙丑十二月二日卒寿七十七 号興道
一、乾隆五十五年庚戌六月六日死去父親
一、同五十九年甲寅正月廿一日死去母親
一、道光二十五年已已十月十八日 金城筑登上 妻
一、咸豊五年巳卯十二月七日金城筑登上
一、道光十八年亥十二月十日 同上間女子
奈へ
一、同二十一年寅五月廿日 同人
妻
一、同二十八年戌申五月十九日満名親雲上
一、咸豊十二年酉三月廿一日 満名親雲上二男
三良上間にや
但明治廿年乙寅十二月廿八日 右三良上間にや嫡子まつ上間宅御移置申候
一、同治二年 癸亥正月廿五日加那上間 三良上間嫡子
一、光緒三年丁丑十二月廿五日 三良上間 加那上間父
一、明治三十八年乙巳三月五日 上間権兵衛
七男 勘次郎ハ清国盛京省奉天者興隆田北方高地に於テ戦死陸軍歩兵上等兵
一 同五十九年甲寅正月廿一日死去母親
一 道光二十五年巳巳十月十八日金城筑登之妻
一 咸豊五年巳卯十二月七日金城筑登之
一 道光十八年亥十二月十日三良上間女子なへ
一 同二十一年寅五月廿日 同人 妻
一 同二十八年戌申五月十九日満名親雲上
一 咸豊十二年丙三月廿一日三人上間にや 満名親雲上二男
但 明治廿年乙亥十二月廿八日右三良上間にや嫡子まつ上間宅へ
御移置申候
上間嫡子
一 同治二年癸亥正月廿五日加那上間
加那上間父
一 光緒三年丁丑十二月廿五日三良上間
一 明治三十八年乙
□三月五日上間権兵衛
七男勘次郎ハ清国盛京省□天省
興隆□北方高地に於テ戦死陸軍
歩兵上等兵
今以後裔に伝へ候 依而相考得者
亨翁忠孝之情 一端于今験者也
おわりに
墓をみていると、各家庭にはそれぞれの事情があるように、墓にも一言で結論づけられるようなものではないということ。墓の持ち主は家系や血筋を確認したくなるでしょう。私は血筋や家系がどうということも関心があるが、中がどうなっているのか、誰がはいているのか。葬るときに一族がどんな判断をしたのか、そこに関心があります。「三十三回忌になるとイケに骨をこぼす」と言われているが、実のところこぼすことを、ある時期から止めているのではないか。三十三回忌をきちっと済ませたにも関わらず厨子甕からお骨をこぼすことなく続きます。(イケにこぼした古い墓はあることはある。厨子甕の再利用も非常に少ない)。
今帰仁村のこれまでの墓調査をみていると、どうも17世紀中頃に墓の様式に大きな変化があったのではないか。17世紀後半頃から銘書が見えてきます。それと銘書に漢字表記の村名が登場し、さらに間切役人の役職が墨字で書かれるようになってきます。村名や間切役人(地頭代や夫地頭、首里大屋子・掟など)に漢字があてられるのは1713年の『琉球国由来記』からです。もちろんそれ以前に漢字が充てられたでしょうが。
17世紀中頃の『琉球国高究帳』では村名はまだひらがな表記が主です。どうも二つの資料の間、つまり17世紀後半頃、厨子甕に間切名や村名や役職名を記載(銘書)するようになったのではないか。そんなことをこれまで関わってきた墓調査を踏まえながら、銘書には死去年月日もあるが洗骨日を記載したのもあります。墓の向きも法則性が見出しにくいのは、墓を作る人の生まれ年が判断とされているのであれば、墓の向きがバラバラでいいわけです。