大宜味間切(田港と大宜味)の按司地頭と総地頭と奉公人と香炉)

大宜味間切は1673年に国頭間切から11カ村、羽地間切から二カ村を分割して創設された間切である。当初、田港間切で番所は田港村に置かれたという。後に大宜味間切と呼ばれ、その頃に番所も大宜味村に移したようである。移された年は不明だが、番所はさらに塩屋村に移している。1731年の『琉球国由来記』では駅(番所)は大宜味邑(村)であるが、『大宜味村史』(通史編)に「1760年(乾隆25)に作成された大宜味間切の絵図には、すでに塩屋村に移転していた」とある。

  そこで、大宜味間切と首里に住む地頭家との関わりがどのようなものだったのか。『大宜味村史』(通史編)にまとめられているので参照する。それらのことを踏まえて大宜味間切から首里に住む地頭家をみると、地頭家と間切とは切り離せない密接な関係にあることがわかる。(国頭間切と両惣地頭家、本部間切と両惣地藤家、恩納間切と両惣地頭家)

大宜味村田港と大宜味のウタキの祠を訪ねる。近くのアタイグヮーで畑仕事をしている方々と言葉を交わしながら、ウタキの中に香炉について伺ってみるが、「たくさんあるね」「字書いてあったかね」のような会話が続く。字(アザ)の方々は香炉に字が書かれていることは意識していない様子である。「ウートートゥ以外は行かんさ」と。祠には21基の香炉が置かれている。文字が一字でも判読できたのは以下の6基である。田港に何故、21基の香炉が奉納(寄進)されているのか。それは1673年に国頭間切と羽地間切の一部を分割して田港間切が創設され、田港間切の同村であることと無縁ではなかろう。

  田港間切が大宜味間切と改称されると番所は大宜味村に移動したとみられる。その大宜味のウタキの祠に11基の香炉が置かれている。番所が大宜味村(ムラ)に移ったことで、香炉の寄進が二カ所になされたのではないかと考えている。大宜味村からさらに塩屋村に番所が移っているので塩屋のウタキにも香炉があるのかどうか。二カ村ほどの数はないのではないか。つまり大宜味番所が置かれていた時期が明治の初期か、それより少し古い時期なのかもしれない。①~⑥の香炉は大宜味村田港のウタキの祠の香炉である。


 

 ①「奉寄進 大□□」(年号なし)
 ②嘉慶九年甲子 奉寄進 九月□日 宮城仁屋 玉城仁屋」と読める。
  嘉慶9年は西暦の1804年である。『中山世譜』(附巻)に大宜味按司や親方と関わる記事は
  見出していない。『家譜』の記事から拾えるかもしれない。
 ③「奉寄進 同治□年  □□□ 宮城仁屋 西掟 大城□□」
  年号の文字の判読が困難であるが、向氏大宜見親方朝救が同治3年に年頭の慶賀で薩州へ
  派遣されている。それに伴うものか。
 ④屋古前田村 □□月 根路銘掟 □□□
 ⑤
□□□月吉日 宮城仁屋 大城仁屋 □□仁屋 
 ⑥「奉寄進」の文字のみ

 
        ①の香炉                  ②の香炉

 
        ③の香炉                ④の香炉

 
      ⑤の香炉                     ⑥の香炉

【大宜味村大宜味の御嶽の祠と香炉】

 この祠は1953年に建立されている。中に11基の香炉があるが摩耗したためか文字が読めるのは一基もなかった。そのため、田港の香炉との比較ができないのが残念である。
 
▲1953年に建立された大宜味のウタキの祠   ▲祠の内に11基の香炉がある

 
【大宜味間切と両惣地頭家】

 ・新設された田港間切は摂政羽地王子朝秀(向象賢)と国頭殿内の当主屋嘉比親雲上朝隆朝茲
  に与えられる。
 ・羽地王子朝秀が亡くなると羽地家は田港間切の地頭職をめしあげられる。
 ・1682年に北谷按司朝隆が按司地頭職を賜る。その時に田港間切→大宜味間切へ?(番所も)
 ・1695年に屋嘉比村が国頭間切へ。
 ・1719年に国頭間切だった屋嘉比村と親田村と見里村が大宜味間切へ。
 ・1796年(嘉慶1) 大宜見王子朝規 謝恩使(尚温襲封)で江戸り。
 ・按司地頭家は大宜味御殿、親方地頭家は大宜見殿内。
 ・地頭は王府から家禄が与えられる(知行米)と間切の地頭地からの作得米を取得する。
 ・中には知行仕明請地として強制的に耕作させて一定の米を取得するのもいた。
 ・御殿や殿内は盆や正月や祝いのときなど、魚・肉・猪・薪・墨などを間切から調達した。
 ・領地の間切から奉公人(悴者)がおくられた。
 ・奉公人は地頭代の推薦で行われ間切役人層やノロ家の子弟。(御殿奉公・殿内奉公)
 ・殿内や御殿奉公は間切から見ると誇りであり、間切役人へのエリートコースである。
 ・役人層は競って子弟を首里奉公させた。
 ・羽地朝秀の頃、按司家13人、総地頭家12人、脇地頭家五人と制限する(実際は守られ
  ていないという)。
 ・明治12年頃の大宜見御殿、殿内の奉公人は総勢60人に達していた。
 ・奉公人は御殿・殿内で間切役人となる筆算や読書などを学び、また首里・那覇での見
  聞や文物を間切へ伝える役割を果たしている。
 ・1736年頃の大宜味間切の地頭作得地は田地の計1,167反の内405反(約35%)、畑地の
   計327反の内地頭作得地は94反(約29%)である。
 ・大宜味按司と惣地頭は城村の城巫火神、喜如嘉村の神アシアゲの祭祀と関わる(『琉
  球国由来記』)。
 ・大宜味按司は屋古前田村の田湊巫火神での祭祀と関わる(『琉球国由来記』)。
 ・喜如嘉脇地頭は城巫火神・喜如嘉神アシアゲの祭祀と関わる(『琉球国由来記』)。
 ・根路銘脇地頭は田港巫火神の祭祀と関わる(『琉球国由来記』)。
 ・津波脇地頭は津波村神アシアゲの祭祀と関わる(『琉球国由来記』)。
 ・根謝銘(上)グスクへの登り口にあるトゥンチニーズ(殿内根所火神)とウドゥンニーズ
  (御殿根所火神)は大宜味按司の御殿、惣地頭の殿地か。それとも田港間切創設以
  前の国頭按司と惣地頭のものか。

【大宜味按司家】(御殿)

 田港間切(後に大宜味間切)の按司地頭職であった羽地朝秀(向象賢)が亡くなると、羽地家は田港間切は削減され、羽地間切のみの領地を世襲する。羽地家を継いだのが北谷家の系統。1679年から四代按司地頭職を継承した。その一族は北谷や大宜味姓を名乗っているようである。御殿は羽地家→北谷家→大宜見家と引き継がれていく。

  北谷家の後を継いだのは大宜見御殿の一族で7代にわたって世襲したという。


【大宜見殿内】
  大宜味間切の総地頭職を継いだのは間切創設当時から明治12年の廃藩置県まで、代々大宜見殿内の一族が世襲する。初代の屋嘉比親雲上朝茲は国頭間切総地頭職であったが、田港(大宜味)間切の創設で大宜味間切の総地頭職となる。

【脇地頭家】
 脇地頭は村を領有する。大宜味間切の脇地頭は津波脇地頭・田港脇地頭・根路銘(慶世村)脇地頭・喜如嘉脇地頭の四名である。脇地頭は首里に住むが、中には村に住み地頭作得地を耕すのもいる。山原の他の間切については、『中山世譜』(附巻)から必要な記事を拾ってみたが、ここでは『中山世譜』の附巻から先に記事を拾い石灯籠や石香炉の銘の確認をしてみることにする。石灯籠と銘のある石香炉から王子や親方などが薩州へ派遣されたことと関係あることがしれた。ここでの狙いは、按司や親方と間切や村との密接な関わりがあったことをみていくための作業である。それが石灯籠や石香炉に登場する「仁屋」クラスの人物達が果たした間切(地方)への影響がどれほどのものだったのか。そのことを明らかにしたいがための作業でもある。

  『大宜味村史』(資料編)に「沖縄県大宜味地方旧慣問答書」がある。その問答から両惣地頭家や脇地頭家と間切役人や奉公人との関係がはっきりみえてくる資料である。


 吏員ノ事
  
一、問 旧地頭ヘ奉公スルノ手続並年限給料ノ有無又ハ掟ヘ採用ノ手続現今ノ人員
     若干ナルヤ
    答 右ハ筆算稽古人ノ内ヨリ文子ヘ採用スルウト同シ手続ニテ奉公セシム年限ハ定
      ルンレト雖トモ凡ソ三十年位ニテ掟ヘ進ム給料ハナシ間切ヨリ正頭三分七厘三
      毛余ヲ引ク人員ハ両惣地頭ヘ六十七人ナリ(六十七人は六、七人?)

  一、問 掟ヘ採用ノ手続如何掟ヘ採用方ハ縦令ハ甲年按司地頭ヨリ乙年惣地頭ヨリ両
     年間切ヨリ順番ヲ以テ人体勤功取調掟ヘ採用ス

 
付届ノ事 
   一、問 文子以上役上リノ時地頭代以下役々ヘ付届並ニ盆暮等役々ヘ付届ノ並ニ
      盆暮等役々ヘ付届ノ定例如何
      答 役々相互ニ付届ケスル事ナシ
   一、問 文子以上地頭代マデ役上リノ時々両惣地頭其他ヘ付届ノ定例如何
      答 地頭代以下役上リノ時々付届ノ定例左ノ通リ

       両惣地頭へ          地頭代例
         一、肴拾斤ツヽ         一、焼酎二合瓶一対ヅヽ
        両惣地頭嫡子元服次第    同人へ
         一、肴二斤ヅヽ          一、焼酎一合瓶一対ツヽ
        両惣地頭惣聞へ
         一、肴二斤ツヽ

   盆上物例
      両惣地頭へ          間切ヨリ
       一、薪木拾束ツヽ     一、明松三束ツヽ
       一、白菜一斤ツヽ     一、角俣一斤ツヽ
       一、ミミクリ一斤ツヽ    一、辛子一升ツヽ
       一、玉子五十甲ツヽ
      脇地頭へ            村々ヨリ
       一、白菜半斤ツヽ    一、角俣半斤ツヽ
       一、ミヽクリ半斤ツヽ   一、辛子五合ツヽ