集落・御嶽・イベ、そしてグスク
 
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 2008年ウタキ・ウタキのイベ、グスク、そして集落について沖縄本島全域を通して見てみたいと。ここに一部紹介します。調査当時のままです


2008年9月30日(火)

 御嶽(ウタキ)はムラ(村)の歴史、グスクは地方を統括する支配者(間切)や国(クニ)の歴史を見ていくためのキーワードだと考えている。これまで「北山の歴史」の歴史を描く流れとして集落(後に行政村)、その村々をまとめたグスク(間切クラス)、さらに山原全体を統括した北山(今帰仁グスク:クニ)を想定して「北山の歴史」を描いてきた。沖縄本島の中・南部はどうだろうか。どうも「北山の歴史」の物差しでは測れない、そんな印象を持っている。それは何故なのかということである。これまで「北山文化」という文化圏を仮説として設定してきたが、どうも中南部とは異なる文化?(三山統一以前)を持っていた地域ではなかったか。そのことが三山統一後の首里王府の山原支配に影響を及ぼしているのではないか。その顕著なのが北山(今帰仁グスク)に派遣された監守(監守制度)だとみている。文献に残されていない時代を、今に伝える人々が伝える習俗や目にできる残されたものでどう描くことができるか。

 そのこともあって、中部(中頭)地域のグスクを訪ねてみた。本来なら、各村(ムラ)の御嶽(ウタキ)と集落との関係から入るべきだが、ウタキと集落との関係から、山原とはズレがあるように思われる。ウタキはグスクと呼ばれている場合が多いように思われる。中部のグスクから見ていくことに。

  @伊波グスク(越来間切:後に美里間切)
  A天願グスク(具志川間切)
  B安慶名グスク(具志川間切安慶名)
  C喜屋武グスク(具志川間切喜屋武、集落移動)
  D江洲グスク(具志川間切江洲)
  E兼箇段グスク(具志川間切)
  F具志川グスク(具志川間切具志川)
  G知花グスク(越来間切→美里間切)
   
【伊波グスク】(越来間切→美里間切、現在うるま市)

 伊波グスクは1666年に越来間切から分割した美里間切伊波村に位置する。伊波グスクは標高約80mの杜で、その北側の斜面に伊波集落が展開している。グスクの正門の近くに伊波ノロ殿内があり、その敷地内に神アサギが置かれている。神アサギが以前からノロ殿内の屋敷にあったなら、山原の神アサギのほとんどが集落の広場に置かれているが、伊波の神アサギは屋敷内にあり山原とは異なっている(但し、『琉球国由来記』(1713年)には伊波村に神アシアゲは出てこない)

 『琉球国由来記』(1713年)での伊波村に森城嶽と中森嶽と三ツ森之嶽、小河之嶽がある。城のつく森城嶽と中森城之嶽は伊波グスク内にある拝所とみられる。三ツ森之嶽(神名:イシノ御イベ)からするとグスク内の嶽の可能性がある。もう一つ、伊波城内之殿があり、それもグスク内にある拝所である。

 森城嶽の神名はオソクヅカサノ御イベのオソクはウスク(アコウ)の木に因んだ呼称。また中森城之嶽の神名のカヅマロヅカサノ御イベのカヅマロはガジュマルの木。三ツ森之嶽の神名のイシノ御イベは岩に因んだ呼称のようである。17世紀には伊波グスクは本来のグスクの役割(地方と統治する支配者の居住地)は終わりをとげ、祭祀場としての役割をになっている。

 ・『琉球国由来記』(1713年)には城と嶽の二つの呼称あり。
 ・ウタキからグスクへの展開か?
 ・集落後方の杜である。
 ・発掘で柱穴が数多く確認されている。
 ・グスク時代の土器や階層が確認されている。
 ・野面積みの石垣が見られる。
 ・伊波按司の墓と言われる墓が隣の山城にある。
 ・伊波グスクの祭祀は伊波ノロの管轄である。
 ・三つの門跡が確認される。
 ・中国製の陶磁器が出土している。
 ・今帰仁グスクと関わる伝承をもつ(怕尼芝王に滅ぼされた時)。

 ・伊波グスク(今帰仁(北山)系統)を拠点とした中頭のグスクと密接な伝承をもつ。
 ・神名をつけるパタンが知れる。




  ▲伊波グスク入口の一つ(正門?)     ▲グスク内にある拝所(伊波城内之殿か)


  ▲グスク内にある拝所の一つ グスクの頂上部にある拝所


▲伊波ノロ殿内(右)と神アサギ(左)(現在)  ▲伊波集落の後方にある杜が伊波グスク

2008年9月28日(日)

 
今帰仁村内の以下の場所の案内(南城市大里から29人)。
 今帰仁グスク内はガイドの方にお願い。歴史文化センターの展示(今帰仁グスクや集落)/今泊の集落/赤墓/崎山の神ハサギ/運天集落/大北墓/源為朝公上陸之址の碑/オランダ墓など。北山の歴史を存分に学んでもらいました。一度に回ることはなかなかできません。そのような機会でないと。現在の現場の様子を知るためにも。島添大里(南山)の方々なので、それを踏まえて・・・。


 ▲上間親大親と関わる墓(墓の創設は18世紀)     ▲今帰仁村崎山の神ハサーギ


      ▲今帰仁村運天港近くの崖中腹にある墓(遠景と近景)


▲今帰仁村運天にある大北墓(北山監守と一族)

2008年9月27日(土)

 与論島に「初代与論城主 又吉按司 花城真三郎之 奥津城」と記された墓がある。「基家系図」や「東家系図」や「滝野家系図」に出てくる花城与論主(幼名:花城真三郎)の墓である。基家系図に花城真三郎は首里で生まれ育ち21歳に、いきさつがあって当地(与論島)に来たようである。『与論町誌』では1525年に「花城(旧又吉家)与論主となる(東・基・滝野家古文書)」と位置づけている。1525年ということは、花城真三郎は尚真王の第二子と見ている。また「1512年尚真王次男尚朝栄(大里王子)すなわち花城真三郎が、21歳の時に与論世之主又吉按司として来島し、この城(与論城)を築いたともいう」とある。それは北山王統の怕尼芝王の三男(王舅)とは別の話である。

 1501年建立の「玉御殿の碑文」に三男の「みやきせんあんしまもたいかね」(今帰仁按司:尚韶威)や四男の「こゑくのあんしまさふろかね」(越来按司:龍徳)、六男の「きんのあんしまさふろかね」(金武按司:亮仁)などはあるが、二男の大里按司(朝栄)の名がない(玉陵に入ることができない人物の一人)ことと関係があるのかも。ちなみに五男の「中くすくあんしまにきよたる」(中城按司:尚清)は尚真王をついで王位につく。

 与論島の北山の三男や花城真三郎につていて史実かどうかの確認は困難である。それは与論や沖永良部に限らず、沖縄本島の野史と言われる部分である。北山だけでなく、中南部のグスクを調べていると、必ず野史がついてくる。それがまたグスクやムラなどの歴史、あるいは伝承として根強く息づいている。


         ▲与論世之主又吉按司(花城真三郎)の墓(2007.8.4)


          ▲何年か毎に塗り替えられるようだ(2007.8.4)

2008年9月25日(木)

 12月までシンポジウムや講演、企画展、それと出版物の編集や研修会や委員会などでスケジュールが詰まってきている。キャンセルがあるとほっとする。いくつかストップしているので、明日から手をつけることにする。頭と体がついていきません。


2008年9月24日(水)

 勝連半島の村々(今の字)を歩いてみた。その多くが斜面に集落が展開している。勝連半島と周辺の島々は1676年以前は勝連間切の領域である。勝連間切と与那城間切が分割する以前の様子を手がかりがつかめないか。まずは村々(現在の字)の集落を歩くことから(離島は別に扱う)。今回訪ねた勝連半島の村は、以下の通りである。高江洲と見里(宮里)まで入れると勝連グスク(同村)が勝連間切の中央部に位置することが理解できそう。首里王府の間切の領域の論理が見えるかも。1676年以後の勝連間切の領域では勝連グスクのある南風原村(同村)は間切の外れに位置している。

  @南風原(勝連) A西原(与那城) B与那城(与那城) C平安名(勝連) 
  D内間(勝連) E平敷屋(勝連) F饒辺(与那城) G屋慶名(与那城)

【うるま市勝連南風原】

 南風原村については以前触れたことがあるので、そこに譲るとして勝連グスクと南風原村(ムラ)の祭祀と関わる「勝連(南風原)ノロクモイ」に関わる資料について紹介する。「ノロ制度の終焉」と関わる資料でもある(『勝連村誌』所収:南風原のノロ殿内に保管されていたものという。廃藩置県前のもの)。南風原ノロは儀保門として、儀保あむしられとの関わりを強調される。 

【勝連間切内のノロ】
  ・南風原ノロ・平安名ノロ・内間ノロ・平敷屋ノロ・浜ノロ・比嘉ノロ・津堅ノロ・神谷ノロ

【与那城間切内のノロ】
  ・西原ノロ・安勢理ノロ・饒辺ノロ・平安座ノロ・上原ノロ・宮城ノロ・伊計ノロ
  
 【表紙】(書式)

【のろくもいの相続】
   道光三年癸未十一月(1823年)
   のろくもい御代替りの時諸日記
  一 本人相果候廿日以内に願候事。廿日相過ぎし候はば科料

             勝連間切
                南風原村
   当村のろくもい事去何日相果候間 此段首尾申上候
     以上
     年 月 日    一門
                  何 某
                村頭
                  何 某 
                掟
                  何 某

  右之通り相違無御座候間此段首尾申上候 以上
    年 月 日       さばくり(五人)
 
  勝連間切南風原村のろくもい子
     当歳   歳    何 某
 
 右者恐多御座候へ共申上候、件の者家内有付、人柄相懇の者に而御座候て、
 何卒故のろくもい跡役被仰付被下度奉願候、此旨宜敷様御取成被下度儀被仰
 上被下度奉願候、以上
   月 日     一門    何 某
            村頭    何 某
            掟      何 某
 右申出の通り家内有付人柄相懇の者にて御座候間跡役被仰付被下度奉存候、以上
   月 日  さばくり   五人
  本文御当座江願出右通相違無御座候 以上
   月 日     検 者
            下知役 

【首里の儀保殿内に報告】

 ノロの交代があると新ノロは報告のため曲玉を持ち数人の付け人を伴って儀保殿内(首里)へ参上。儀保殿内への報告は昭和の初期まで行われる。

【間切内のノロが参集し年頭の儀礼】
 毎年旧正月7日にノロの年頭と言って、村(ソン)の全ノロが家族の一人二人を伴って酒肴を携えて親ノロ(ここでは南風原ノロ殿内)へ集まり、新年を迎える例となっていた。戦後は少なくなったという。


  ▲移動前の南風原集落があった元島原(現在)     ▲勝連グスク内にある拝所の一つ

2008年9月20日(土)

 まずは勝連グスクを集落との関係で見ていく必要がありそう。「グスク(ウタキ)と集落」からすると、同村内での「移動集落とグスク(ウタキ)」の関係が読み取れる。まずは南風原村(ムラ)の集落が勝連グスク(赤吹原)近くの元島原から南風原へ移動している。元島原から南風原への集落の移動は1726年である。『絵図郷村帳』の「はえ村」と『琉球国高究帳』の「南風原村」の集落は勝連グスクに近接してあったことになる。南風原の村名は勝連グスクの南側に集落が位置していたことに由来しているとみていい。また、古琉球の勝連間切の同村は勝連村であったことと、間切分割以前の勝連間切の番所が勝連村(南風原村:本島集落)にあったと予想される。グスクとして機能しなくなった勝連グスク内にあった可能性が大である。勝連間切から与那城間切が分割する以前の勝連間切の番所がどこにあったのかのテーマである。1676年に二つの間切に分立するが勝連間切の番所は平敷屋村、与那城間切は屋慶名村に置かれた。

 勝連グスク内での祭祀場は、南風原村との関わりで見ていく必要がある。ウタキは集落の発生と根強く、密接に関わる場所である。そのウタキに他地からやってきた者がグスクを形成していった例がいくつか見られる。勝連グスクに君臨した勝連按司は英祖王の弟から六代、七代から八代まで浜川按司、九代の茂知附按司、そして十代の阿麻和利という。それらは勝連グスクのある勝連村(南風原村)の生まれではないということ。ところが、勝連グスクのあるウタキは勝連村(南風原村)の人々との関わりで発生したものである。そこでもウタキと集落、他からやってきた支配者の住居地との関係が見えてきそうである。

 グスク内での祭祀が村との関わりで行われているのは、集落の発生とウタキの密接な関係を裏づけている。『琉球国由来記』(1713年)に、二つの御嶽と殿があり、御嶽での祭祀は南風原巫(ノロ)が関わり、城内の殿(トゥン)での祭祀に南風原巫や惣地頭などが関わる。城内の殿((トゥン)は首里に住む惣地頭の火神の祠ではないか。そこでいう「・・・嶽」はウタキ(そこでは勝連グスク全体の杜)のイビ部分を指しているのでは?

  ・城内玉ノミウヂ嶽(神名:コバヅカサノ御イベ) 南風原村
  ・城内肝タカノ嶽(神名:イシヅカサノ御イベ) 南風原村
  ・殿(勝連城之内) 南風原村


 勝連グスクでも統治した按司クラスの歴史、そしてそれを支えた村(ムラ)クラスの世界。二つの視点で見ていくとウタキとグスクの違いやその発展過程が見えてきそうである。間切分割以前の番所の位置はどこか?やグスクと集落移動は、そしてグスク内で行われる祭祀(ノロ)など、今帰仁グスクと類似する。グスク(タウキ)の内部に、地方を統治する支配者と集落の発生や祭祀と関わる施設が共存しているのではないか。

 勝連グスクは西原グスクと南風原グスクに分かれていて、南風原グスクを勝連グスクと言っているようだ。


▲南風原村内で集落が元島原から南風原に移動 ▲勝連グスクから見た現在の南風原集落






2008年9月19日(金)

 企画展のポスター発注や資料の整理、会議、学芸員実習のコメント、取材などで多忙なり。

 世界遺産の一つである勝連グスク(勝連城跡)は勝連半島に位置している。勝連半島は1676年に、これまでの勝連間切を分割し、勝連間切と与那城(西原・平田)間切となる。分割する以前の勝連間切に戻どすことで勝連グスクが機能していた時代の領域にほぼ相当するのではないか。勝連グスクが崩壊していくまでの時代、どのくらいの期間があったのか定かではない。しかし、勝連グスクにまとまっていく、あるいは統治されていく過程で、周辺の村々が培った歴史や文化や習俗があるのではないか。1458年の護佐丸・阿麻和利の乱で、護佐丸を滅ぼし首里に攻め入ろうと企てが、逆に首里王府に滅ぼされたという。この乱が後に各地の按司を首里に集居させる引き金になったのではないかと考えている。

 ここでは護佐丸・阿麻和利の乱の以前。勝連グスクを頂点として発展していった過程で生まれたものが、1458年以後の勝連間切に、そして1676年に二つに分割された勝連間切と与那城間切、あるいは現在にどのように残っているか(残っていないかもしれないが、まずはなにがあるのかの視点で)

 勝連グスクの発掘の成果(社殿や陶磁器などの遺物など)や永楽16年(1418)の「琉球国王二男賀通連」が朝鮮と公易を求めたり、あるいは「おもろさうし」で勝連が日本の京都や鎌倉に例えられているのをみると、そこには勝連グスクを頂点とし、その支配領域に個性ある文化が築かれたのではないか。それで、勝連グスクが統治していた古琉球の勝連間切の領域の村々から勝連グスクがどのように見てきたのか、どう見えるのか。村の一つひとつに足を運んでみることに(まだ勝連文化としての姿は見えていません。見えない間がより面白い)


▲勝連半島(勝連文化があるか?)(「正保国絵図」『琉球国絵図資料集』
                           沖縄県教育委員会)より


2008年9月16日(火)

 台風が台湾から、ほぼ東に向かって進んでいる。沖縄本島方面に向かって進行中。大陸方面に去ったのかと油断していたら、ときどき大雨が降っている。風の影響はまだなし。21日うるま市(海の文化資料館)でシンポジウムがある。「地域社会と資料館の可能性を探る」がテーマである。どのような切り口で報告しようかと思案中。

 担当者が来館したので一時間ばかり打ちあわせ。そのこともあって先日、海の文化資料館、平安座島、宮城島、伊計島、さらに浜比嘉島までゆく。夕暮れ時、海中道路から正面に勝連グスクが見える。勝連グスクが勝連半島をはじめ一帯に勢力を張っていた時代をまず想定する必要があるのではないか。文化資料館の活動はいいものがあります。もう一つ、歴史の柱を明確に打ち出すことでより重厚で、勝連グスクを拠点にした歴史文化があったのかと。そして勝連半島周辺の島々に残る伝統的なもの。山原船が往来していた時代。海上交通が主だった時代。世界遺産の勝連グスクと海の文化資料館。来館者を増やす手だてになるのではないか。

 与那城(西原・平田)間切が創設されたのは勝連間切から1676年に分割した間切である。それ以前は与那城間切も勝連間切の内。与那城間切が分割される以前の勝連間切の時代、それ以前の勝連グスクが拠点となっていた時代。その時代に戻して「勝連文化圏」(仮説)を想定してみるのも面白い。勝連グスク(世界遺産)を拠点とした時代がどう描けるのか。そして、勝連文化の上に首里文化がどう被さっているのか。その視点で描いてみる必要がありそう。どのように描けるか。少し手をつけてみることに。


▲勝連半島や周辺離島を統括した?勝連グスク    ▲平安座島の集落(かつては山原船が往来)


    ▲宮城島の上原集落と宮城集落        ▲上原集落にあるノロドゥンチ跡


      ▲浜比嘉島の比嘉集落        ▲浜比嘉島の浜集落にある地頭代火神

2008年9月13日(土)

 台風の余波あり。先島への便が欠航のためか北部へのお客が流れているようだ。土、日と豊年祭が各地で行われる。昨晩から今朝の大雨で開催はどうだろうか。行われるとの情報が届く。さて、どこの豊年祭に出向こうか。羽地あたりにしようか。調査を兼ねている。毎年行われていた名護市川上が一年越になったようだ。先日の土曜日、ウガンは行われたようだが、終わっていた。それで急きょ真喜屋へ。豊年祭の踊りと棒術の練習をしていたので拝見。名護市の真喜屋の本番は今日(本来旧8月8日のようだが)。あちこち誘いがあり、どちらにするか。(下の画像は9月6日(旧8月7日)


     ▲「四季口説」の練習風景              ▲アハチャビでは棒術の練習


                    ▲名護市真喜屋自慢の獅子頭

2008年9月11日(木)

 喜屋武は喜屋武間切の同村である。喜屋武村に喜屋武グスク(ウタキ)がないのかどうか。喜屋武村にグスク(ウタキ)があってしかるべきである。同じく喜屋武村に具志川グスクがあるが、同村や同村名のグスクとは別の性格を持っているとみている。具志川グスクは喜屋武の集落との関係は薄いように見られる。間切クラスのグスクが同村(喜屋武村)にあってしかるべきである。そのこともあって喜屋武の集落内を歩いてみた。

 これまで見てきた南部のウタキ(グスク)と集落と墓との関係を見てくると、集落が形成され、人々はウタキを設け、そこはグスクへと発達し、グスクとしての機能を失うとグスク内を墓地として利用しているのではないか。そのような流れが見えてくる。グスク内の墓の作りは古くて近世初期からのものではないか。

 喜屋武の現集落内にヌルドゥンチ跡や奥間殿、シリーヌ殿跡などがあり、旧集落の形態が伺える。旧家の後方にウタキ(グスク)が位置しそうなものであるが、グスクはなさそうである。ならば、喜屋武集落は移動集落ではないか。具志川グスクは喜屋武集落の発生とは別の流れのグスクとみている。移動集落ならば、『琉球国由来記』(1713年)は、現在地に移動した状況が反映している。

 喜屋武には喜屋武古グスクが漁港近くにあるようだ。喜屋武集落は喜屋武古グスク一帯から現在地に移動しているのではないか。喜屋武は移動集落とウタキ(グスク)との関係で見ると説明がつくのかもしれない。移動集落なのかどうかは未確認。「沖縄島諸祭神祝女類別表」(明治17年頃?)に、「志礼嶽」(シリタキ?)があり集落後方のウタキのことか。

 ・現集落の後方にウタキ(グスク)が見られない(要確認)。
 ・移動集落とグスクとの関係?
 ・古グスクがどうなっているか(杜・イベ?・墓あり?)
 ・現集落にヌルドゥンチやいくつかの殿があり、旧集落の展開が見られる。
 
【糸満市喜屋武】
(喜屋武間切喜屋武村)


    ▲喜屋武ヌルドゥンチの石垣           ▲喜屋武ノロ家の祠


     ▲奥間の殿(トゥン)             ▲シリーヌトゥンの跡


2008年9月10日(水)

 中南部のウタキやグスクを見ていくと、仲松弥秀先生が述べられる「<御嶽>と呼称されている聖地を由来記に拠ってみれば、村を愛護する祖霊神・島立神・島守神と祝福をもたらすニライ・カナイの神、航海守護神などに関係する聖地に限られているようである」と。また「これらの御嶽のうち、どの村でもみられるのは村愛護神の御嶽である」と。ウタキの神の多様性を述べている。それと「王府関係の船舶守護を兼ねた御嶽は、辺戸の安須森、今帰仁の久公(クボー)嶽、・・・」と、村祭祀とと王府祭祀とは明確に区別されている。

 南部のウタキのほとんどが『琉球国由来記』(1713年)では「嶽」とあるが、今ではグスクと呼ばれている。仲松先生はウタキは集落(マキ・マキヨ)との関係でとらえており、ウタキの神の多様性も述べられているが、マキ・マキヨや村(ムラ)との関係も。もう少し南部のウタキやグスクを踏査しながら考えてみることに。
 

【糸満市大里】
 大里村(ムラ)は村の変遷からすると少し複雑な歴史をもっているようである。『絵図郷村帳』と『琉球国高究帳』では「島尻大里間切屋古村、『琉球国由来記』(1713年)では「高嶺間切屋古村」としてある。乾隆29年(1764)に屋古村を大里村に改めた。その時、集落移動がなされたようである。それだけでなく、中間村・大中渠村・屋古村の村が統合したようで、そのことも含めてウタキやグスクを見ていく必要がありそう。


   ▲ターマタグスクへの上り口          ▲グスク内のイベ?


    ▲ターマタグスクの遠景             ▲グスク内の墓

八重瀬町富盛】(旧東風平町)

 富盛には勢理グスクと八重瀬(富盛)グスクがある。勢理グスクはシリグスクではないか。富盛集落の後方に位置することから名付けられたのではないか。『琉球国由来記』(1713年)の富盛村には八重瀬嶽御イベ(四御前)・中間ノ嶽・ヒラウ嶽・比嘉森がある。七ヵ所は富盛巫が管轄する拝所である。八重瀬嶽御イベは八重瀬グスク内の拝所と見られる。勢理グスク内にイビが見られない。グスクへの上り口に中間ノ嶽、道筋を少し上るとビロウ嶽がある。近くに比嘉森もあり、それぞれ特定されている。

 ジリグスクは昭和53年に発掘調査(七ヵ所の試掘)が行われている。その報告を見ると、グスク土器や青磁片や褐釉陶器などが出土している。それと牛や魚の骨、貝殻などの出土もあり、ジリグスク内での生活の様子が伺える。


      ▲杜が勢理グスク           ▲勢理グスクから見た富盛の集落


    ▲勢理グスクの頂上部の平場      ▲グスク内にある大獅子(1689年建立)

2008年9月9日(火)

 中部と南部の御嶽(ウタキ)あるいはグスクが気になり、いくつか訪れてみた。中部のウタキについては改めて報告するとして、南部のウタキ(グスク)から。一度に報告できないので、糸満市の照屋(兼城間切)と真栄里(兼城間切中城村→高嶺間切真栄里村)から。

 山原のウタキ(御嶽)やグスクとの違いはの一つは、中南部のウタキやグスク内に墓が目立ってあることである。ウタキやグスクの崖や洞窟が墓として利用されているのは山原でも見られる。ところが、中南部ではウタキのイベにあたる部分を墓にしている例がいくつもみられる。そこに山原とは異なるウタキやグスクに対する観念があるのかもしれない。

【糸満市照屋】(兼城間切)

 糸満市照屋は「絵図郷村帳」で島尻兼城間切てりや村、「琉球国高究帳」で島尻兼城間切照屋村とある。『琉球国由来記』(1713年)では、同じく兼城間切照屋村である。『琉球国由来記』の照屋村に「照屋之嶽」(神名:サトシキ若イベ)と「イシラゴノ嶽」(神名:マシラゴノ御イベ)の二つの御嶽がある。照屋巫(ノロ)が管轄する村の祭祀である。

 「沖縄島諸祭神祝女類別表」(明治17年頃?)には、以下の拝所が記されている。
   ・ノロ火ノ神 ・嶽火ノ神 ・ノロクモイ御棚 ・地頭火神 ・上ノ御嶽 ・井川(三ヶ所)

 ・集落後方(北側)にある杜である。標高61m。
 ・『琉球国由来記』(1713年)では「嶽」と記される。ウタキと呼ばれていた可能性大。
 ・ウタキともグスク(照屋)とも呼ばれる。
 ・ウタキ(グスク)内に10ヵ所近い遥拝所が設けられている(南山・今帰仁・玉城など)。
 ・照屋村の各一門の草分けの人物の墓?の観念か(ならば、後世の産物)。
 ・グスク内のイベにあたる部分に祠あり、村氏子とある。
 ・ウタキ(グスク)内に火神が祭られているのは殿(トゥン)?
 ・ウタキ(グスク)内にいくつものテラスがある。
 ・ウタキ(グスク)内にカーは未確認。
 ・集落の下方に報得(ムクエ)川がながれる。
 ・トーセングムイ(唐船小堀)の地名がある(交易船の往来?)。
 ・照屋グスクは南山グスクの公易の倉庫?


     ▲後方の杜がウタキ(照屋グスク)     ▲照屋集落からウタキ(グスク)への道


▲ウタキ(グスク)の隅に10ヵ所近い遥拝所  ▲ウタキのイビか  ▲ウタキ(グスク)内にある墓


  ▲頂上部は広場(庭:ミャー)となっている。     ▲ウタキ(グスク)内にある殿?

【糸満市真栄里】(兼城間切→高嶺間切)(中城村・真栄里村)

 真栄里は間切の管轄、村名の変更?か統合がなされ、複雑な歴史を持っている。また、島尻地区ではめずらしく神アシアゲを持っている。それと一つの村に二人(ソフヅケナ巫と中城巫)のノロがいる。真栄里村と中城村の合併が二人のノロを存続させたのかもしれない。『琉球国由来記』(1713年)に真栄里村の祭祀場は以下の通りである。祭祀場の名称に中城村と真栄里村の痕跡が見られる。1713年には二つの村の統合があったことがしれる。

 『琉球国由来記』(1713年)の御嶽の部分に中城村、年中祭祀には真栄里村が登場。祭祀の中では二つの村がでてくる。ヨナフシハマノ嶽は中城巫、城内之嶽の二つの御前は中城巫とソフツケナ巫の拝む場所である。

 高嶺間切真栄里村の祭祀であるが、島尻中城巫とソフヅケ巫の二人が関わっている。ただし、神アシアゲノ殿は島尻中城巫、越地之殿はソフツケナ巫の祭祀場である。

   ・ヨナフシハマノ嶽(中城村) ・城内之嶽(中城村)
  
・島尻中城巫火神 ソフヅケナ巫火神 ・真栄里里主所 ・島尻中城内西表之殿 ・島尻中城内東表之殿 
   ・下地之殿 ・タムケ之殿 ・勝連之殿 ・上糸部之殿 ・下糸部之殿 ・神アシアゲノ殿 ・越地之殿

 ・ウタキはグスクとも呼ばれている。
 ・中城村と真栄里村の二つの村の統合である。
 ・城内に二つのイベ(御前)がある。
 ・グスクは崎中城と呼ばれる。
 ・グスク(ウタキ)を背に集落が発達している。
 ・綱引きは東と西に分かれて行われる。(その東西は中城村内での東西か?)
 ・ウタキ(グスク)内にイベとみられる祠がある。
 ・ウタキ(グスク)内に墓がいくつも見られる。
 ・ウタキ(グスク)周辺に殿(トゥン)がいくつもある。
 ・ノロ家がウタキ(グスク)に接した場所に位置している。
 ・村が統合しても祭祀は一つにならない法則が見られる。


       ▲真栄里の神アシアゲか?              ▲ソフヅケナノロ家?

【糸満市真栄里】調査メモ(新城徳祐氏:1963年)

真栄里城
  ・東に向き、西に長くなっている。
  ・字真栄里内間原3,435、原野、山林、凡そ3,000坪
  ・城の南崖下の井戸(泉)、上の神川、清水湧く。
  ・所有者 字真栄里124、金城武太
  ・拝所…アジシ、中のアジシ、クバオーと隣の遥拝所(先端)、今帰仁への遥拝所(中のアジシーの西隣)



  ▲ウタキ(グスク)内にある祠(イビ?)     ▲ウタキ周辺にある殿(トゥン)の一つ

2008年9月4日(木)

 「沖縄旧慣地方制度」が『沖縄県史21』(旧慣調査資料:明治26年)に収められている。そこに旧藩時代の行政区を示し、住民も首里・那覇・久米村・泊村・沖縄本島(島尻・中頭・国頭)・離島・先島(宮古島・八重山島)と区分して説明されている。それは旧藩以前から、全島一律ではなかったことを示している。その中で首里・那覇・久米村・泊村は特別地域として扱われている。沖縄本島は前の四か所を除いて、ほぼ同一にくくれたようで島尻・中頭・国頭と周辺離島はまとめて説明されている。宮古島と八重山島をくくってある。間切レベルの話は、そのような違いがあることを前提にする必要がありそうである。「沖縄旧慣地方制度」を整理するに及んで困難をきたしたようである。詳細については『沖縄県史21』を参照。大きく、以下の10項に分類してある。

  第一項 行政区域及住民
  第二項 地方行政庁の階級
  第三項 地方吏員
  第四項 監督官吏
  第五項 職務規定
  第六項 内 法
  第七項 公 会
  第八項 共有財産
  第九項 会 計
  第十項 雑 事

 上の項目に合わせて、恩納間切を整理してみる。
【第一項 行政区域及住民】
  一、恩納間切の「行政区域」は、前にも触れたが以下の通りである。恩納間切にはどんな村が?
    @恩納村 A谷茶村 B富着村 C前兼久村 D仲泊村 E山田村 F真栄田村 G瀬良垣村 
    H安富祖村 I名嘉真村
  二、住 民(島尻・中頭・国頭)恩納間切には、どんな住民がいたのかな?
    島尻・中頭・国頭、各間切住民に地人居住人の二種あり。地人(本村百姓をいう)は村方に於て百姓地の
    分配を受け、之を耕作し貢租負担の義務あり。且他村他間切等へ転住を許さず。居住人(首里那覇泊村久
    米村人が居留するをいう)は百姓地を叶掛り(小作をいう)耕耘するに付貢租負担の義務なし、然れども民
    費は人頭割の分は負担す、又間切、村吏員は地人に限り居住人は任用せらるるの権なし。

【第二項 地方行政庁の階級】公の施設にどんなのがあったのでしょうか?
   国頭間切の行政庁の間切番所は第一階級、村屋は第二階級 
  ・番所は地頭代、惣耕作当、惣山当、夫地頭、首里大屋子、大掟、南風掟、西掟等を置き一間切を管轄す。
  ・村屋は掟、頭、耕作当、山当などを置き番所の指揮監督を受け一村を管理す。

【第三項 地方吏員】(恩納間切参照)恩納間切にはどんな吏員がいたでしょうか?

 ・職務権限(各地吏員異動あり)間切役人はどのような手続きで昇級していったのでしょうか?
 ・選任、資格、昇級順序(略)

【第四項 監督吏員】(首里・那覇・久米村・泊村には監督官吏の設置なし)
  島尻・中頭・国頭には、
   下知役(各間切に定員一名)
   検者  (各間切に定員一名)
  職務権限
   下知役検者は物奉行、同吟味役の指揮監督に属し、担当区内行政事務を総理し、且地頭代以下吏員の事務を
   監督し、其の進退賞罰を両総地頭、田地奉行を経て物奉行同吟味役に具申す。

【第五項 職務規定】
  番所に於ては下の如き掛を置き事務を分担す(詳細は略)。番所にどのような掛があったのでしょうか。
    ・番毎方 ・蔵当方 ・砂糖当方 ・耕作当方 ・山当方 ・札改方

【第六項 内法】(各間切に内法あり)(内法の条文多いので部門を掲げる。詳細は各間切内法参照)恩納間切内法に、どのような規定があるのでしょうか。
  ・番徐取締の部 ・各村取締の部 ・田畑、屋敷、山野取締の部 ・貢租及公費取締の部 ・所俗取締の部
  ・一身売人、模合、賃金家畜類売買取締の部 ・諸取締の部 ・海中取締の部 ・間切原番取締の部
  ・居住人牛、馬、野牛口銭徴収の部 ・遊興取締の部 

【第七項 公会】(島尻・中頭・国頭・離島)
  ・間切会 ・村会

【第八項 共有財産】

【第九項 会計】(島尻・中頭・国頭)
  ・番所経費(庁舎修繕費・文具料・器具機械・茶薪炭燈油・吏員出張の時旅費手当・吏員賞与品・
    飢饉及流行病の時窮民又は火難等に罹りし者の救助料・雑費)
  ・橋梁道路堤防修繕費(略)
  ・村屋経費(略)

【第十項 雑費】
   

2008年9月3日(水)

 いろんな話をしている時、間切や地頭代、あるいは夫地頭など、当たり前に使っているので略す場合が場合が多々ある。首里・那覇・久米村・泊村と島尻・中頭・国頭・周辺離島、そして宮古・八重山とは異なっている。ここでは国頭に属する恩納間切を事例に組織や職務権限などについて整理しておくことに。

【地方吏員】(恩納間切)(職名階級・任期・定員・俸給・雑給)
 【第一階級】
  ・地頭代(任期:五年ヲ内規三年トス)(一名)(俸給:米6石7斗6升5合/麦4斗5升4合/免夫銭2円88銭)
                              (雑給:米2石5斗6升)
 【第二階級】
  ・惣耕作当(任期:無期)(三名)(雑給:米4石8斗)
  ・惣山当(任期:無期)(三名)(雑給:米4石8斗)
  ・夫地頭(任期:三年)(三名)
  ・首里大屋子(任期:夫地頭退役ニ際シ順次繰リ上ゲ)(一名)
  ・大掟(任期:上同)(一名)
  ・南風掟(任期:上同)(一名)
  ・西掟(任期:上同)(一名)
  ・掟 (任期:無期)(七名)
 【第三階級】
  ・文子(任期:無期)(六名)
  ・脇文子(任期:無期)(六名)
  ・相附文子(任期:無期)(四十六名)
 【第四階級】
  ・升取(任期:七年)(二名)
  ・小横目(任期:無期)(一名)
  ・耕作当(任期:七年)(二十八名)
  ・山当(任期:七年)(十七名)
  ・山工人(任期:七年)(十四名)

 国頭・島尻・中頭・周辺離島の番所においては、以下の係を置いて事務を分担する。それぞれの「方」には、数多くの規定がある。、
  @番毎方 A蔵当方 B砂糖当方 (@〜Bは捌庫理が)
  C耕作当 (惣耕作当が)
  D山当方 (惣山当、あるいは当竹惣山当が)
  E札改方

 その他に@仕上世座 A所遺座 B船手座 C勘定座 D御用布座 E杣山座 F農務座があり、@〜Cまでは各村の与人や目差が、Dは首里大屋子と与人目差が兼ね、EとFは下知役、与人と目差か兼ねて事務を担当する。恩納間切には与人や目差職がないので必要な時に配置したのか、あるいは他の部署が担当したのであろう。

 『琉球国由来記』(1713年)に登場する恩納間切の間切役人は以下の通りである。
  ・地頭代(谷茶大屋子)
  ・夫地頭(四員)(富着(著)大屋子・瀬良垣大屋子・前兼久大屋子
  ・首里大屋子・大掟・南風掟・西掟・名嘉真掟・恩納掟・仲泊掟・山田掟・真栄田掟・久留原掟


『琉球国由来記』(1713年)に出てくる恩納間切の村
 @恩納村 A真栄田村 B読谷山村(山田村のこと) C富着村 D瀬良垣村 E安富祖村 
  F名嘉真村 G前兼久村 (H谷茶 I仲泊)

『沖縄旧慣地方制度』(明治27年?)に出てくる恩納間切の村
 @恩納村 A谷茶村 B富着村 C前兼久村 D仲泊村 E山田村 F真栄田村 G瀬良垣村 
 H安富祖村 I名嘉真村


2008年9月2日(火)
  
 「屋我地島の屋我グスク」(名護市)にゆく。周辺にヤマグラ、シジャン、ムディグサ、アマグシクムイなど、ウタキに適しそうな森がいくつもある。なぜ、屋我グスクのある杜をウタキ、あるいはグスクにしたのか。それは、集落の形成とウタキやグスクと密接な関係にあることがわかる。屋我は「集落移動とウタキ(グスク)」の事例である。

 ・ウタキがグスクと呼ばれる。
 ・屋我グスクあたりを古島という。
 ・屋我の集落は1858年(咸豊8)に古島から墨屋原に移動している。
 ・空堀とみられる場所がある。
 ・頂上部にイベがある。
 ・クバが目立ってある。
 ・周辺に屋我グスクに似たような森がいくつもある。
 ・麓にヤガガーがある。
 ・屋我ノロ管轄の村(ムラ)である(屋我ノロは饒平名村に住む)。
 ・屋我グスクは安太伊(アタイ)(原)に位置する(現在アタイに一軒もなし。集落移動の痕跡)。
 ・旧5月14日に屋我グスクに左縄をめぐらす。
 ・神アサギや神殿や舞台のある杜はウガミあるいはお宮ともいう。
 ・屋我の御嶽は『琉球国由来記』(1713年)で「屋我之嶽、神名:マレカ神根森城之御イベ」とあり、
  その頃には御嶽とも城(グスク)とも呼ばれている。
 ・『沖縄島諸祭神祝女類別表』には「港屋嶽(イナトゥヤムイ)、村嶽(屋我グスクか)、ケシギキ嶽」がある。


     ▲中央の杜が屋我グスク       ▲グスクへの入り口(左縄)


     ▲頂上部に近い岩の下に香炉が置かれている (イベ)


       ▲ヤガガー       ▲移動先に近い所にある神アサギ(ウガミ杜)