勝連半島のムラ・シマ(中頭)

               「沖縄の地域文化論」(第7回) 2011.11.14(大学講義)                   仲原 弘哲(今帰仁村歴史文化センター館長)
 

 世界遺産の一つである勝連グスク(勝連城跡)は勝連半島に位置している。勝連半島は1676年に、これまでの勝連間切を分割し、勝連間切と与那城(西原・平田)間切となる。分割する以前の勝連間切に戻すことで勝連グスクが機能していた時代の領域にほぼ相当する。勝連グスクが崩壊していくまでの時代、どのくらいの期間があったのか定かではないが、周縁が勝連グスクにまとまっていく、あるいは統治されていく過程で、周辺の村々が培った歴史や文化や習俗があるのではないか。1458年の護佐丸・阿麻和利の乱で、護佐丸を滅ぼし首里に攻め入ろうと企てが、逆に首里王府に滅ぼされたという。この乱が後(尚真王の時代)に各地の按司を首里に集居させる引き金になったとみられる。

 ここでは護佐丸・阿麻和利の乱の以前。勝連グスクを頂点として発展していった過程で生まれたものが、1458年以後の勝連間切に、そして1676年に二つに分割された勝連間切と与那城間切、さらに合併した「うるま市」の現在に「歴史や文化」がどう引き継がれているか。

 勝連グスクの発掘の成果(社殿や陶磁器などの遺物など)や永楽16年(1418)の「琉球国王二男賀通連」が朝鮮に公易を求め、あるいは「おもろさうし」で勝連が日本の京都や鎌倉に例えられているのをみると、そこには勝連グスクを頂点とした、その領域に個性ある文化が築かれたのではないか。勝連グスクが統治していた古琉球の勝連間切の領域の村々から勝連グスクがどのように見てきたのか、どう見えるのか。グスクと密接に関わっていた南風原村を中心に見ていくことにする。 

【勝連半島のムラ】
 勝連半島の村々(今の字)を踏査してみた。その多くが勝連半島の斜面に集落が展開している。勝連半島と周辺の島々は1676年以前は勝連間切の領域である。勝連間切と与那城間切が分割する以前の様子を視野に入れてみる必要がありそう。まずは村々(現在の字)の集落の踏査から。今回訪ねた勝連半島の村は、以下の通りである。高江洲と見里(宮里)まで入れると勝連グスク(主村:南風原村と西原村)が勝連間切の中央部に位置することが理解できそう。首里王府の間切の領域の区分領域の論理が見えてきそう。1676年以後の勝連間切の領域では勝連グスクのある南風原村(主村)は間切の外側に位置している。

 勝連間切(分割後)
  南風原 ②平敷屋 ③平安名 ④浜 ⑤おそこ川 ⑥よろん ⑦いけた

 (勝連町: ①内間 ②津堅 ③南風原 ④浜 ⑤比嘉 ⑥平敷屋 ⑦平安名) 

勝連間切は明治29年に中頭郡。明治12年頃南風原村に浜崎村を合併、平安名に小舎覇村の一部、内間村に小舎覇村を合併する。明治26年頃津堅村に神谷村を合併。明治41年に勝連村、昭和55年に勝連町となる。現在は「うるま市」である。 

 与那城間切(分割後)

  ①西原 ②鐃辺 ③安勢理 ④屋慶名 ⑤平安座 ⑥上原 ⑦宮城 ⑧伊計

与那城町:①安勢理 ②伊計 ③池味 ④上原 ⑤照間 ⑥桃原 ⑦西原 
      ⑧鐃辺 ⑨平宮 
 ⑩平安座 ⑪宮城 ⑫屋慶名 ⑬与那城)

 与那城間切は1676年に勝連間切から分割し、当初西原間切、すぐに平田間切、康煕26年(1687)に与那城間切となる。当初、間切番所は西原村、与那城間切となった時、屋慶名村に移動する。現在「うるま市」である。



【うるま市:勝連南風原】

 南風原村については以前触れたが、そこに譲るとして勝連グスクと南風原村(ムラ)の祭祀と関わる「勝連(南風原)ノロクモイ」に関わる資料について紹介する。「ノロ制度の終焉」と関わる資料でもある(『勝連村誌』所収:南風原のノロ殿内に保管されていたものという。廃藩置県前のもの)。南風原ノロは儀保門として、儀保あむしられとの関わりを強調される。 

【勝連間切内のノロ】
  ・南風原ノロ・平安名ノロ・内間ノロ・平敷屋ノロ・浜ノロ・比嘉ノロ
   ・津堅ノロ・神谷ノロ

【与那城間切内のノロ】
  ・西原ノロ・安勢理ノロ・饒辺ノロ・平安座ノロ・上原ノロ・宮城ノロ・伊計ノロ
  
【のろくもいの相続】
   道光三年癸未十一月(1823年)
   のろくもい御代替りの時諸日記
  一 本人相果候廿日以内に願候事。廿日相過ぎし候はば科料
             勝連間切
                南風原村
   当村のろくもい事去何日相果候間 此段首尾申上候
                    以上
     年 月 日    一門
                  何 某
                村頭
                  何 某 
                掟
                  何 某
  右之通り相違無御座候間此段首尾申上候 以上
    年 月 日       さばくり(五人)
 
  勝連間切南風原村のろくもい子
     当歳   歳    何 某
 
 右者恐多御座候へ共申上候、件の者家内有付、人柄相懇の者に而御座候て、
 何卒故のろくもい跡役被仰付被下度奉願候、此旨宜敷様御取成被下度儀被仰
 上被下度奉願候、以上
   月 日     一門    何 某
            村頭    何 某
            掟      何 某

申出の通り家内有付人柄相懇の者にて御座候間跡役被仰付被下度奉存候、以上
   月 日  さばくり   五人
  本文御当座江願出右通相違無御座候 以上
   月 日     検 者
            下知役 

【首里の儀保殿内に報告】
 ノロの交代があると新ノロは報告のため曲玉を持ち数人の付け人を伴って儀保殿内(首里)へ参上。儀保殿内への報告は昭和の初期まで行われていた。

【間切内のノロが参集し年頭の儀礼】
 毎年旧正月7日にノロの年頭と言って、間切の全ノロが家族の一人二人を伴って酒肴を携えて親ノロ(ここでは南風原ノロ殿内)へ集まり、新年を迎える例となっていた。戦後は参加者が少なくなったという。
 
   移動前の南風原集落があった元島原(現在)       勝連グスク内にある拝所の一つ(火神) 

【勝連グスクと集落】

 勝連グスクを集落との関係で見ていく必要がある。「グスク(ウタキ)と集落」からすると、同村内での「移動集落とグスク(ウタキ)」の関係が読み取れる。まずは南風原村(ムラ)の集落が勝連グスク(赤吹原)近くの元島原から現在地の南風原へ移動している。元島原から南風原への集落の移動は1726年である。『絵図郷村帳』の「はえ村」と『琉球国高究帳』の「南風原村」の集落は、まだ勝連グスクに近接してあったことになる。南風原の村名は勝連グスクの南側に集落が位置していたことに由来している。また、古琉球の勝連間切の同村は勝連村であったことと、間切分割以前の勝連間切の番所が勝連村(南風原村:本島集落)にあったと予想される。グスクとして機能しなくなった勝連グスク内にあった可能性が大きい。勝連間切から与那城間切が分割する以前の勝連間切の番所がどこにあったのかをテーマする必要がある。1676年に二つの間切に分立するが勝連間切の番所は平敷屋村、与那城間切は屋慶名村に置かれる。

 勝連グスク内での祭祀場は、南風原村との関わりで見ていく必要がある。ウタキは集落の発生と根強く、密接に関わる場所である。そのウタキに他の地からやってきた者がグスクを造っていった例がいくつか見られる。勝連グスクに君臨した勝連按司は英祖王の弟から六代、七代から八代まで浜川按司、九代の茂知附按司、そして十代の阿麻和利という。それらは勝連グスクのある勝連村(南風原村)の生まれではない。ところが、勝連グスクのあるウタキは勝連村(南風原村)の人々との関わりで発生したものである。そこでもウタキと集落、他からやってきた支配者の住居地との関係が見えてきそうである。

 グスク内での祭祀が村との関わりで行われているのは、集落の発生とウタキの密接な関係を裏づけている。『琉球国由来記』(1713年)に、二つの御嶽と殿があり、御嶽での祭祀は南風原巫(ノロ)が関わり、城内の殿(トゥン)での祭祀に南風原巫や惣地頭などが関わる。城内の殿(トゥン)は首里に住む惣地頭の火神の祠ではないか。そこでいう「…嶽」はウタキ(そこでは勝連グスク全体の杜)のイビ部分を指している可能性がある。

  ・城内玉ノミウヂ嶽(神名:コバヅカサノ御イベ) 南風原村
  ・城内肝タカノ嶽(神名:イシヅカサノ御イベ) 南風原村
  ・殿(勝連城之内) 南風原村

 勝連グスクでも統治した按司クラスの歴史、そしてそれを支えた村(ムラ)クラスの世界。二つの視点で見ていくとウタキとグスクの違いやその発展過程が見えてくる。間切分割以前の番所の位置はどこか?やグスクと集落移動は、そしてグスク内で行われる祭祀(ノロ)など、今帰仁グスクと類似する。グスク(タウキ)の内部に、地方を統治する支配者と集落の発生や祭祀と関わる施設が共存している。

 勝連グスクは西原グスクと南風原グスクに分かれていて、南風原グスクを勝連グスクと言っているようだ。
説明: http://rekibun.jp/gazou0809/080920ka1.jpg  
  南風原村内で集落が元島原から南風原に移動    勝連グスクから見た現在の南風原集落

説明: http://rekibun.jp/gazou0809/080920ka3.jpg 
▲勝連グスク内にある火神           ▲グスクの最高部にある玉ノミウヂ御嶽(イベ)

 
     ▲第二の郭の舎殿跡の礎石               ▲グスク内で行われる祭祀

説明: http://rekibun.jp/gazou0809/080919ka2.jpg 
勝連半島(勝連文化があるか?)  (「正保国絵図」『琉球国絵図資料集』  沖縄県教育委員会)より

【勝連間切の分割】

 与那城(西原・平田)間切が創設されたのは勝連間切から1676年に分割した間切である。それ以前は与那城間切も勝連間切の内。与那城間切が分割される以前の勝連間切の時代、それ以前の勝連グスクが拠点となっていた時代。その時代に戻して「勝連文化圏」(仮説)を想定してみるのも面白い。勝連グスク(世界遺産)を拠点とした時代がどう描けるのか。そして、勝連文化の上に首里文化がどう被さっているのか。

 勝連グスクと勝連間切(与那城間切を含む)ムラ・シマの歴史を紐解いていくことで、勝連グスクを拠点として勝連文化を鮮明に描き出すことができそうである。勝連グスクを拠点にした歴史文化がどのようなものか。「おもろ」に謡われた、
   かつれんのとよみてた(勝連の鳴響みテダ)
   もゝうらとみてた(百浦の鳴響みテダ)
   きむたかのとよみてた(肝高の勝連の鳴響みテダ)
   かつれんのいちやぐち(勝連の板口を)
   きむたかのかなやくち(肝高の金口を)(聞け)
   かみからは てるまはま(上からは照間浜に)
   しもからは はまかはに(下からは浜川に)

 (大意)
 勝連の気高く名高い按司様は、百浦に鳴りとどろく按司様である。勝連の立派な港口を開け、   上からの船は照間浜に、下からの船は浜川に着けて栄えていることよ。
 勝連のテダ(領主)を讃えるオモロ。照間浜は金武湾に面している。いずれも海から勝連への入口として交易にかかわる重要な港である。

 勝連半島周辺の島々に残る伝統的なもの。山原船が往来していた時代。海上交通が主だった時代。間切の分割や番所の移動、そしてノロ管轄、勝連グスクが栄えた時代(オモロに謡われた勝連)の歴史・文化がどう人々の生活や習俗の底流に継承されているのか。

  
勝連半島や周辺離島を統括した?勝連グスク  勝連グスクの麓にある海岸(浜川の浜) ▲金武湾(照間浜)方面

  
勝連グスクの麓にあるヌルガー(内部)           ▲クトジ御嶽(航海安全など)

 
浜川ガーの説明版        ▲浜川ガー

 浜比嘉・平安座・宮城・伊計の島でシニグが行われている。それらの島で行われているシニグは沖縄本島北部から伊是名・伊平屋島、与論島、沖永良部島にみられ、神アサギが残る地域と重なっている。各地に中央の(首里)文化が被さっていく中で、それらの島々に根強く残していったとみてよさそうである。シニグの呼称は、各地のシニグの所作で共通する風紀を払う、あるいは疫病を追い払うなど「凌ぐ」(シノグ)部分をとって名付けられたと見られる。

【伊計島のシニグ】
・旧暦6月27~29日、8月27~29日に行われる。
・朝神人達が掟神をまつるジョウグチ家に集まる。
・ヒージバンタに行き衣装を着替える。
・ヒージバンタからウムイを謡いながらシニグジョウへ。
・(シニグジョウでウタを謡ったりなどの所作あり)
・神人と村人が東・中・西の三組に分かれる。
・西の組はすぐにインナガーへ行き他の組がくるのを待つ。
・中の組はネズミ取りがいて、また害虫を取って組に戻る。
・中の組はギンシブーで東の組を待つ。
・東の組は亀ケーサーが2人で海岸を歩き、戻って亀を海に返したことを報告する。
 東の組はギンシブーと合流する。
・中と東の組は合流してインナガーへ行く。
・インナガーでノロはシバに包んだ害虫を持って海に流す。
 (伊波仲門の倉へ行きなさいと唱えて、山原に向かって叫ぶ)
・東組のノロが敵は向こうへ行きなさいと言うと、分かれて集落へ。
・ウチガンゲーラで合流する。そこで再び2組に分かれる。
・東組はジョウグチ屋の裏門から入り、家の人は皆外にでる。
・ノロ殿内の壁を叩く。
・カンヌチヤの角で二列に並び、ホーホーイとウムイを謡いながらヒージバンタへ。
・ヒージバンタのウーエー石の前へ。悪い風や悪疫などは遠い所へ行きなさい。
・頭につけたススキや手に持ったススキなどを海に流す。潮水で3回なでる。
・伊計グスクに向かって座り御馳走をいただく。
・その後、シニグジョウに行って各自の席に座り、神酒を飲み、ウムイを謡い座を崩す。
・シニグジョウに入った者は祭祀が終わるまで出ることができない。
・食事は鐘や太鼓をたたいて合図して持ってきてもらう。
・それが終わるとイツクマに行って神酒肴を供えて豊年の祈願をし、祭祀は終わる。